第6話 「サワムラと飲み、山を語る」

(2000.03.19.掲載)




 ある日の夕方、京都・出町柳でS先輩と待ち合わせて、今度の山行の打ち合わせを行った。
 S先輩とは澤村どんのことだ。もう本名を出してもいいだろう。要するに、このHPの山歩会掲示板にも登場する、僕の七歳年上「45歳のおっさん」サワムラと僕は飲んだ。しかもとても気分よく。
 僕は彼について他人と話をするときには、親しみを込めて「サワムラ」と呼び捨てにする。これは昔からの慣習だ。僕にとってはとてつもない先輩だけど、仲間だと思っているからだ。僕の所属していた山歩会では、「山」を実践していない先輩の訓戒は、まずまちがいなく軽く聞き流されてきた。過去の想い出話はもういい。今、どんな山を登っているか、今後、どんな山を登ろうとしているか、それが僕たち「若手」にとっては肝心だったからだ。そんな僕たちの視点から見て、サワムラは、ずっと昔から、山を実践している先輩のなかでは最年長だった。サワムラの忠告やアドバイスには、たとえ反発を覚えることがあっても、僕たちは素直に従った。だから僕たちは親しみを込めて、彼を「サワムラ」と呼び続けてきた。もちろん、面と向かって「サワムラ」と呼び捨てにすることはなかったけどね(でも、酔っぱらったときには呼び捨てにしていたかもしれないな…)

 その日は南岸低気圧の影響で、朝から激しく雨が降りしきっていた。僕たちは出町柳から百万遍まで歩き、「琢磨(たくま)」という店に入った。この店は、学生街の百万遍では高級な店になる。学生時代には、社会人の先輩に連れてきてもらって数えるほどしか来たことはない。しかし、学生ではなくなって十数年、こんな店にも入れるようになったということなのか。そんなところからも歳月の流れを痛感してしまう。
 僕たちは、まず、二月初旬の八ヶ岳・阿弥陀南稜登攀の成功を祝った。できあがった写真を見ながら、しばし想い出話に浸る。あそこではこうすべきだったな、という反省も交えながら。そしていつしか、四月中旬に予定している北ア・鹿島槍ヶ岳東尾根の計画打ち合わせへと話は移る。はっきり言って、今度のルートについては、サワムラも僕も不安を抱えている。しかし、アルコールが緊張感を和らげると「詳細については今度にしようや。今日はまずルートの問題点の摘出だけにしよう」という、いつもながらの山歩会的な流れに傾いていく。そうは言っても、ふたりともそれなりにきちんとルート研究はやっている。要所の問題点摘出、装備のチェックだけでも議論が尽きることはない。そりゃ、自分の命がかかっているんだもの、当然か。会社でこんな真剣な議論をしたことなんて、僕には記憶がないなあ。
 酒杯を重ねるにつれて、いつのまにか議論はどんどん脱線していき、鹿島槍東尾根を登らないうちから、早くもその後の山々を語りはじめた。来年の冬山はこんな考え方でどうだろうか、あそこを登ってみたい、ここはどんなルートなんだろう、と山一色の議論をしながら。

 その席で、サワムラから「吉尾弘氏が一週間ほど前に谷川岳滝沢リッジで遭難死した」という話を聞いた。とてもショックだった。氏は今年で63歳だ。僕が生まれた頃にはすでに、谷川岳、剣岳、穂高岳などで、幾多の冬期初登攀を成し遂げていた伝説上の人物だ。このような「人間能力の限界」とまで言われる数々の困難な登攀をこなしてながらも、これまで生き抜いてきた。その著作「垂直に挑む」(中公文庫)は僕の愛読書だった。でも、ここまで生き抜いてきて、63歳で山に命を奪われた。そんなことってありうるのか? あってもいいことなのか? 僕はとても不思議な気がした。
 その話をした直後、僕たちはしばらく黙り込んでいた。
 サワムラも僕も「生涯現役」という言葉のもつ意味をかみしめていたのだと思う。
 たぶん、きっと。

 生涯現役。
 サワムラも僕もそうありたい、と願っている。こんな年齢になっても、会社が忙しくても、家族を抱えていても、僕たちはトレーニングを続ける。あの山々に登りたいからだ。いつまでも現役として山々に関わっていきたいからだ。時間とともに年齢をかさねるだけの人生はまっぴらだ。
 「去年の今頃は、一年後、こんなふうに山に復帰できているなんて思わなかったな」というサワムラの言葉を、僕は嬉しく聞いた。僕にはとても印象的な言葉だった。こんな僕でも少しは彼の役に立つことができたのかと思った。
 僕にしても、サワムラとザイルを組むなんて、かつては考えられないことだった。彼とは登山の方向性がちがったからだ。彼は冬期登攀に重きをおき、僕は冬期縦走に重きをおいた。自然、僕たちが山行をともにすることはなかった。不思議なことではあるけれど、二月初旬の阿弥陀南稜が、彼とパーティを組んだ初めての山行だったのだ。それだけに、今、尊敬すべき彼と共通の目標をもつことができるのが嬉しい。
 そして、僕たちは、「行くぞ、鹿島槍!」を合い言葉に、別れた。
 僕たちにはその言葉だけで十分だった。