第4話 「震災と復興」

(1999.07.09.掲載)




 ある日の午後、出張先の姫路から、JR神戸線で大阪に帰ってきた。読書にはげんでいた僕が、ふと眼を上げると、車窓には懐かしい風景が流れている。
 西宮だ。
 僕はこの小さな街で生まれ、十八年間、ここで育った。けれど、懐かしい風景は遠くに見える六甲山系の山稜だけだ。自然は偉大、何も変わらない。けれど、線路沿いの風景は、違和感を覚えるほどに、すっかり変わってしまっている。延々と続く、住宅展示場と見紛うばかりのプレハブ新築住宅の列。そのなかに、いまだに点々と残る空き地。さすがに青いシートをかけた屋根はもう見当たらない。けれど、古い街並みはすっかり姿を消してしまっている。
 このあたりは、95年1月の阪神大震災で大きな被害を受けた。変わり果てた故郷の街を眺めながら、僕はあの日を思い出す。

 当時、僕は横浜に住んでいた。
 その冬の朝、温かい布団のなかで、僕はまどろんでいた。遠くからは、家族がつけたのだろう、TVでNHKの朝7時のニュースがはじまろうとしていた。
 「今日、朝5時47分頃、神戸で震度6の地震があった模様です。詳細はまだわかりません」
 一気に眼が覚めた。飛び起きた僕はすぐに西宮の実家に電話を入れる。しかし、不通だった。
 午前8時前、アナウンサーが告げる。
 「阪神高速道路が倒壊した、という情報が入っています」
 僕の背筋を寒気が走った。
 当時の村山首相は、後日、このような談話を発表したという。
 「朝の段階では、あれほどの被害が出ているとは思わなかった」
 しかし、高速道路が倒壊した、という情報のほかにいったい何が必要だと言うのだろう。想像力の欠如した国家のリーダーなど、危機管理時には無用の長物だ。
 為すすべもなく、僕は24時間、情報収集することに決める。むやみにアクセスしようにも、鉄道も道路も不通なのだ。
 その日の午後、消防無線を通して、「とりあえず無事」の連絡が実家から入ったが、その後、音信不通が続いた。3日後、僕は西宮に向かった。
 新幹線はダイヤがずたずた。やっと乗った新幹線も京都まで。そこから先は在来線だ。大阪で私鉄に乗り継ぎ、行けるところまで行く。あとは徒歩だ。
 大阪駅は、さながら戦時中の疎開と買い出しを思わせる様相だった。怪我をして、わずかな荷物を抱えた人々が大阪駅に向かう。それとすれ違うように、救援物資を持った人々が被災地に向かう。
 僕のザックも数十kgの重さだ。もともと山に登っている僕にすれば、こんなときのサバイバル必需品は慣れたものだ。水、燃料、保存食。これらを基本に必要なものが登山用ザックに満載してある。
 私鉄の終着駅から歩きはじめる。僕の眼に飛び込んでくるのは、倒壊した家屋。いや、もう瓦礫の山だ。線路沿いに、果てるともなく続く人の列。子どもの頃から慣れ親しんだ風景が、一瞬のうちに倒壊してしまっている。高架道路も、新幹線も崩れ落ちている。脱線した電車、焼け跡、避難先の貼り紙、そして、人々の虚ろな表情…。
 この震災で6千人を超す人々が亡くなった、という。
 震災の直後から、首都圏におけるマスメディアの興味の対象は、「この教訓を首都圏にいかに活かすか」ばかりだった。被災地の惨状も、それなりには伝えられたけれど、震災後、1ヶ月も経つと、もう忘れ去られた。すでに遠い世界の出来事となっていた。そして、その2ヶ月後に起きたサリン事件へと人々の興味は移っていく。
 あれから、もうすぐ5年になる。
 この5年間に、被災地の人々は、力強く復興を遂げてきた。けれど、本当の惨状を知らなかった多くの人々は、この復興の陰にある多くの苦悩と努力も、きっと知らないままで終わる。おそらく僕だって、被災地に実家がなかったなら、何も知らずに他人事ですませてしまったかもしれないのだ。
 それでも、傷跡は残る。今でも、仮設住宅に住まざるをえない人々がいる。微弱な地震で泣き叫ぶ子どもがいる。かけがえのない家族を失い、立ち直る気力を失ったままの人々がいる。
 人はどんな苦しみからも、結局は、自らの力で立ち直るしかない。でも、立ち直れない人々を誰が責めることができるだろう。

 車窓を流れゆく新しい街並みを眺めながら、僕はずっとそんなことを考え続けていた。やがて大阪のビル群が僕の視界に立ちふさがり、僕は現実に引き戻される。そして、震災をわずかなりともこの眼で見てきた僕ですら、多数の無関心層のなかのひとりに戻っていくのだろう。自分が、今、抱える問題だけにとらわれてしまって。
 列車は喧噪の大阪駅へと滑り込み、人の群にもまれる僕のまわりでは、いつもと変わらない時間が淡々と流れはじめていた。