第2話 「山への想い」

(1999.06.25.掲載)




 帰宅途中の私鉄の駅で、僕はその人に出会った。大学での山の大先輩のSだ。ほぼ一年ぶりだ。帰りの電車のなかで、約一時間、僕は彼と山について話し続けた。久々にとても濃い時間だった。
 「山、登ってるか?」
 Sは僕に尋ねる。
 これは僕たち、山を登ってる者にとっては挨拶代わりだ。
 「もちろん」
 僕は胸を張って答える。
 「どこに行った?」
 Sは続けて尋ねる。
 僕は冬の西穂高岳、春の八方尾根の三度の挑戦と敗退、穂高吊尾根縦走など、数々の単独行をかいつまんで話す。
 「そうか、行きまくり、だな」
 Sはちょっとまぶしそうな顔をする。
 「ちょっと真剣なんだ。毎日走ってるしね」
 「そいつはすごい」
 「Sさん、あんたは?」
 今度は僕が聞く。
 「俺か。俺は最近、登ってない。けどな、もうすぐ復活するぞ。今でもきちんと鍛え続けてる。体力だけは維持しているからな」
 自信を持った顔つきだ。
 「いつ頃、復活するんだ?」
 僕はたたみかけるように尋ねる。
 「秋ぐらい、かな…。その頃にはたぶん家も仕事も落ち着くだろうから。じゃあ、俺が復活するとき、冬山ではおまえという相棒は期待できるわけだ」
 そう言って、Sは笑った。

 十数年前、まだ学生の頃、僕は酒席でSにこう言われた。
 「おまえほど、山が好きなやつは見たことがない。俺はな、おまえにはいつまでも山に登り続けてほしいんだ」
 そんなこと、Sはもう忘れてしまったかもしれない。でも僕は今までこの言葉を決して忘れたことはない。
 「山、登ってるか?」
 この問いに対して、身が縮むような恥ずかしい思いをした時期もあった。
 「いや、最近はさっぱり…」
 こう答えながら、そのあとの言い訳を必死で呑み込んだ。忙しかろうが、何だろうが、そんなものは言い訳にすぎない。山に行く時間なんて、自分で創り出すべきものなのだ。行こうとする意志が問題なのだ。
 Sは僕よりも七歳上だ。もう四十半ばに近い年齢だ。かつて僕とは比べものにならないくらい厳しい山々を登り、数々の修羅場をくぐってきた先輩だ。あくの強いSに対する批判が幾多もあることを僕は知っている。でも、僕はSを尊敬している。なぜなら、いつまでもその闘志を失わないからだ。
 僕のかつての仲間たちは、ほとんど皆、山から去っていった。でも、こんな年齢になっても、いつまでも闘志を持ち続ける先輩がいる。いつまでも山をめざそうとする仲間がいる。それは僕にとって限りない刺激だ。

 「今度、山に行くとき、声を掛けるかもしれないけど、いいか?」
 別れるとき、僕はSに尋ねた。
 「おう。声をかけてくるんだったら、できれば積雪期にしてくれ」
 Sはこう答えてにやりと笑った。
 甘い山行なんてやるつもりはないからな。Sのそんな声が聞こえたような気がした。
 以前とちっとも変わらない、そんなSが僕は嬉しかった。