「北岳遭難に想う」




『北岳でも一人死亡、一人不明』
 三十一日午後一時すぎ、山梨県芦安村の南アルプス・北岳(三一九二m)で、「T山岳会」に所属する四人パーティのうち三人が雪崩に巻き込まれたと、小笠原署に連絡があった。(中略)
 現場は、北岳南東側の急斜面で、北岳山荘と八本歯ノ頭の間の二九〇〇m前後の横断道付近らしい。「雪崩の巣」で、三十日から三十一日にかけて新雪が積もったという。
 四人は二十八日から北岳など白峰三山を縦走し、下山途中だった。(後略)
(一九九八年一月一日付朝日新聞朝刊)

 元旦の朝、京都では雨が降りしきっていた。
 冷たい雨だった。
 朝刊を取りに自宅の玄関先に出た私は、低く重たく垂れ込めた冬空を見上げた。細かな雨が穏やかな街並みを冷たく湿らせていた。その暗い空の色は、ほんの二、三日前に見た穂高の空を私に思い出させた。
 私はそのときひとり西穂独標に立ち尽くしていた。風雪は徐々に強まり、やがて吹雪となった。西穂が視界から消え、すぐにピラミッド・ピークも消えた。天候の急変だった。わずか三十分ほど前には穂高稜線は晴れわたっていたのだ。
 十年ぶりの冬山、しかも単独行だった。前途に不安を感じた私は、結局、西穂をあきらめた。その吹雪のなかを私は撤退した。
 あのときの西穂と同じ空の色だな。
 京都の冬空を見上げた私はため息をつき、朝刊を広げた。そして思わずうめき声を洩らした。朝刊は南アルプス・北岳での雪崩による遭難を報じていた。その吹雪のなかで、かけがえのない命が失われていた。
                    *      *
 あれからもう十数年にもなる。
 当時学生だった私は白峰三山から仙塩尾根を経て塩見岳に至る縦走を計画し、仲間五人とともに年末の南アルプスに入山した。上空五〇〇〇mで氷点下五四度という第一級の寒気が日本海北部にまで南下しているということも知らず、私たちは連日の吹雪に苦しめられた。腰まで埋もれる積雪と格闘しながら、寒気と強風により体感温度が氷点下五〇度を下回るという厳しい気象に責め立てられていた。結局のところ、私たちは塩見岳までの縦走をあきらめて、大門沢から逃げるように下山した。ほぼ全員が手足、顔に凍傷を負うというおまけまでついた。
 その山行で私たちは致命的な判断ミスを犯した。何故、そのような判断ミスを犯したのか、私自身、今でも理解に苦しむ。
 その山行では、私たち自身もT山岳会と同様に北岳山腹のトラバースを選択するという判断を下してしまったのだ。
 出発前、経験深い先輩からは「騙されても絶対にトラバースには踏み込むな」と厳しく忠告されていた。それなのに腰までの深い積雪に埋もれながら、私たちは見事に騙されてそこに踏み込んでしまった。
 そのときの状況を思い起こしながら、私はT山岳会の遭難を考えてみたい。

 早朝五時過ぎ、まだ暗いうちに私たちは池山小屋の幕営地を出発した。トレースはまったくなく、膝下くらいまでのラッセルを繰り返しながら私たちは登り続けた。城峰を過ぎる頃から吹雪となり、積雪は太股からさらに腰ぐらいまでの深さとなった。
 深い積雪に苦しめられながら、午後一時半頃、八本歯ノ頭に到着した。天候、体力、時間、あらゆる要素から判断すれば、ここで幕営すべきだったと思う。しかし、塩見岳に至るという執念から行動の継続を決定、日没までに北岳頂稜に上がることを目標とした。
 けれども、不安定な積雪状態となっている八本歯ノコルの通過に手間取り、また頂稜に突き上げる尾根の積雪の深さとも相俟って、トラバースとの分岐点に至ったのは、もう日没直前となっていた。すでに夜明け前から十二時間近く、猛烈な吹雪と深い積雪に苦しめられ続けていた。
 ここに至る過程において、私たちはすでに寒気と疲労であらゆる感覚が麻痺し、意識が朦朧となりつつあったのかもしれない。
 トラバースを選択した過程については定かな記憶がない。ただ誰かがその選択を提案し、それに対して全員が積雪は少なそうだという誤った判断を下した。そして先輩の忠告も忘れ去ってそこに踏み込んだ。
 誰が提案したのかは問題ではない。おそらくは誰も提案しなかったのかもしれない。
 これはあくまで仮説だ。私は心理学者ではないし、だから心理学的な裏付けがあるわけでもない。けれども、厳しい寒気、深い積雪、重なる疲労、迫る日没、こういった精神状態を圧迫する要素によって、私たちは極限状態にあった。一刻も早く北岳頂稜にたどりつくことが切なる期待だった。その状態で、私たちは一種の精神感応に陥ってしまい、私たちのなかの弱気、期待が凝縮された結果、そのような危険な提案が各人の心のなかに響いたのではないだろうか。そうでなければ、先輩の忠告、そして現実の深い積雪を完全に無視した判断がありうるとは思えないのだ。
 結局、そのトラバースで私たちを谷底に誘い込もうとする死の影に私たちは怯えた。私たちの行動によって、深い積雪の急斜面には亀裂が走り、足元からゆっくりと崩れて流れはじめた。私たちは慌てふためき、腰までの積雪に埋もれながら、必死にその影から逃れようとした。その死の影に誰が誘い込まれても、あるいは全員がそうなってしまったとしても、何ら不思議はなかった。
 結果から言えば、誰ひとり死の影に誘い込まれることなく、私たちはかろうじて無事に生還した。でも私たちにはそれを喜ぶことはできても、誇ることはできなかった。
                     *      *
 T山岳会の遭難に関しては、そのような危険な積雪状態において、トラバースに踏み込んでしまった彼らの判断に対する批判もあると思う。
 以前の私ならば、無責任にそんな批判を当然のことと思ったかもしれない。
 でも、私自身も北岳の同じ斜面で、極限状態においては正しいと信じてとんでもない判断を下しうるという不思議な経験をしてしまった。だから、私にはそんな批判をする資格はない。運不運では片づけられないことだが、私たちは運がよかったにすぎないのだ。
 判断ミスも行動ミスも必ずある。絶対にありえないはずの判断や行動が、ふとしたはずみで行われてしまうことが必ずある。そう考えると、誤りのない判断を下すことはもちろん大切だと思うが、誤りは必ずあるという認識を持つこともまた大切なのではないか。
 だからこそ、私たちにまずできるのは、このような誤った判断を平気で正しい判断だと信じる可能性がいつでもありうると、常に認識しつづけることなのかもしれない。

 現段階では、T山岳会が遭難に至った過程は明らかではない。新聞報道によれば、熟練者が多かったとも聞く。そうならば、なおさら山岳専門誌上での分析を待たなければいけないだろう。
 私自身、登山経験も浅く、何を指摘できるものでもない。ただ、そのような誤りを犯した経験のある私としては、今後の遭難においては、遭難に至った直接的な行為そのものだけではなく、そのような行為を選択してしまった遭難者の背景にある、肉体的、精神的、心理的な状態にまで踏み込んだ総合的な分析が行われることを切に願いたい。
 それが、今後、多くの登山者にとってひとつの警鐘となるのではないかと思うからだ。

1998年1月初旬、南ア・北岳での遭難を知って