01.
 
遙かなる原風景
 
山行時期:1981.06.
執筆時期:1998.07.

 十数年前、本格的に登山を志した僕が最初に訪ねたのは、東北・朝日連峰。先輩とふたりきりの山行だった。いろいろな点でまだ未熟だった僕は、先輩との感情的な葛藤を経て、ここで技術的、体力的、精神的な限界に達する。そして徹底的に傷めつけられた僕は、途中で山行の継続を断念してしまう。山に敗北したわけではない。僕は自分自身の弱さに敗北したのだ。
 このときの敗北感の克服が、その後、僕が山に登り続ける原動力となり、そのとき心に刻みつけられた豊かな自然の記憶が、その後、僕が追い求めるべき原風景となった。
 この朝日連峰は僕の登山の原点となった。


02.
 
青い蜜柑
 
山行時期:1981.10.
執筆時期:1997.03.
東京新聞出版局『岳人』入選(2000年10月号掲載)

 大学一年めの秋、僕はふたりの先輩とともに紅葉の山々を訪ねた。若いなりの悩み、若いなりの傷心を抱え、その解決を山中に求めての山行だった。初雪を迎えた山々にはすでに冬の気配が忍び寄り、激しい降雪、厳しい寒気とともに天候は荒れた。先輩たちの撤退決定に異論を唱えた僕は、再び先輩たちとの葛藤を味わう。僕はこの山行を何としてもやり遂げたかったのだ。
 下山後、僕は先輩たちの制止を振り切り、ただひとり穂高へと向かう。そして、晩秋の涸沢でひとり、息を潜めて冬を待つ自然と対峙しながら、自分を見つめ直し、僕は自分なりの結論を導き出す。
 まだまだ若く、青い頃の記録(苦笑)


03.
 
春の聖岳と…
 
山行時期:1982.03.
執筆時期:1998.04.
東京新聞出版局『岳人』入選(2001年05月号掲載)
2001年度岳人紀行賞準優秀賞受賞

 大学に入って一年後、冬山をはじめたばかりのある春先、僕は仲間と南アルプス・聖岳をめざす。入山前、僕たちが登ろうとするルートで滑落事故があったことは聞いていたし、その滑落者が亡くなったことも聞いていた。でも、その滑落現場はまだ遺留品が散在したままのすさまじい光景だった。事故が起きたのは、聖岳山頂直下、新雪に覆われた蒼氷の斜面。山が仕掛けた罠だ。まだ冬山経験の浅い僕にはその罠を嗅ぎ分けることはできない。もしも滑落したら、僕の技術で滑落を止めることができるのだろうか。緊張の末に登りつめた頂きで、僕は山を登ることの意味を少しだけ知る。
 その山行から十数年後、とあるバーでジャズを聴きながら水割りを飲む僕に、遠く呼びかける声がある。それは遙かな記憶のなかから、あの頃の僕が呼びかける声だった。


04.
 
寺地山
 
山行時期:1984.08.
執筆時期:1996.05.

 一九九六年、標高一九九六mの寺地山に「西暦の山」として、登山界で焦点が当たった。その記事を山岳雑誌で眼にした僕は、十年以上も過去の、この懐かしい山行を思い出す。その山行で僕は寺地山の頂きを踏んでいたからだ。しかし、寺地山それ自身は何の印象もない山だった。
 しかし、歳月を経ていても僕の記憶は鮮やかによみがえり、僕はあの時代に帰っていく。気心の知れた仲間たちと訪ねた黒部川源流の赤木沢。若さと体力に任せて、山々を登った時代。薬師沢での幕営、焚き火、岩魚釣り、そして赤木沢遡行。苦しい山行の多かった記憶のなかで、ほとんど唯一、あっけらかんと楽しい山行だった。この山行はいつまでも僕の記憶に残り続けるだろう。 


05.
 
吹雪の北岳
 
山行時期:1984.12.
執筆時期:1989.10.
東京新聞出版局『岳人』入選(1991年01月号掲載)
 

 大学時代最後の冬、僕は六人の仲間と、南アルプス・白峰三山〜塩見岳縦走をめざした。しかし、日本海北部には上空五千mで氷点下54度という寒気が流入、強い冬型の気圧配置が続き、中部山岳地帯は大荒れの天候となったため、各地で遭難が相次いだ。僕たちも、氷点下30度以下、風速20m/秒以上という暴風雪に行く手を阻まれた。体感温度は氷点下50度を下回るであろうというすさまじさだ。日没後の吹雪のなか、僕たちは腰までの深さの積雪に苦しめられ、雪崩と滑落に怯えさまよい、避難小屋をようやく探しだす。
 その後数日間、天候は回復の兆しすら見せず、僕たちは脱出を決意する。そして、手足、顔に凍傷を負いながら、かろうじて下山するのだ。僕の処女作、初入選作。


06.
 
山の声が聞こえた
 
山行時期:1986.06.
執筆時期:1992年頃
東京新聞出版局『岳人』入選(1993年06月号掲載)
 

 就職して、二年めの春、下界での忙しさを縫って、僕は久しぶりに山に帰った。かつての仲間たちを呼び集め、かつての山々を求めて。
 まだ春浅く雪深い加賀白山で、動物の足跡を追ってブナ原生林をさまよい、自然の声に耳を傾ける。かつて「吹雪の北岳」でともに苦しみを分かちあった岳友と夕暮れの残照のなかで飲み、語る。
 そうしているうちに、街なかでの生活でささくれだっていた僕の心のなかに、ほんわかとした「何か」が戻ってくる。それは、そう、何か「勇気」に近いもの。「吹雪の北岳」と一転雰囲気が変わって、しんみりとした作品。


07.
 
街の灯
 
山行時期:1986.12.
執筆時期:1996.07.
東京新聞出版局『岳人』入選(1997年01月号掲載)
1997年度岳人紀行賞準優秀賞受賞

 秋の声を聞く頃、無性に冬山に行きたくなった僕は、再び仲間たちを呼び集め、年末の南アルプス・甲斐駒ヶ岳をめざす。大晦日、激しい吹雪に見舞われた僕たちは甲斐駒ヶ岳を越すことができず、樹林帯のなかでのビバークを強いられる。わずか二日前は穏やかな街での仕事納めの日だった。しかし、今はこうして雪稜で吹雪に打たれている。僕はそんな日常と非日常のギャップの激しさに戸惑いすら覚えるのだ。
 翌日、快晴の甲斐駒ヶ岳山頂に立つ。その夜、僕は黒戸尾根から穏やかな街の灯を見る。久々の冬山での心地よい緊張感に酔い、今しばらくの緊張を求める僕には、その懐かしい街の灯がいつもより少しだけ遠くに感じられるのだった。 


08.
 
利尻、追悼
 
山行時期:1990.04.
執筆時期:1994.10.
東京新聞出版局『岳人』入選(1996年06月号掲載)
 

 友人が遭難したとの連絡を受けた僕たちは、五月初旬、北海道の利尻に飛ぶ。そこはいまだに冬の影が色濃く残っていた。必死の捜索にもかかわらず、僕たちは生きたままの友人を連れ戻すことができない。困惑と絶望のなかで、僕たちは「生存を前提とした捜索を終了する」という苦しい決断を下す。それは生死が判然としない友人に対して、完全に見切りをつける責任を負うことなのだ。
 数日後、遺体が発見され、その知らせが勤務先の僕にも伝えられる。僕は、利尻の厳しい自然のなかで逝った友人を、穏やかすぎる下界に慣れきった自分を思う。それ以降、線路のポイントが切り替わるように、僕のなかで何かが音を立てて変わる。
 彼の死が、今、僕を再び山に向かわせているのかもしれない。僕のなかでは、まだ何も終わっていない。 


09.
 
幼い娘たちと山に帰って
 
山行時期:1993.10.
執筆時期:1994.05.

 大学を卒業、就職を経て、僕は次第に山々から遠ざかっていく。そして結婚して娘が生まれてしまうと、僕はかつてあれほど通いつめた山々から全く遠のいた生活を送っていた。たまに遠い山々を想い、かすかな心の疼きを感じながら。しかし、利尻での友人の遭難死以来、僕のなかで何かがぱちんと音を立ててはじける。僕は過去の山々についての記憶をたどりながら、紀行を整理しはじめる。そして、そろそろ山に帰る頃合いだ、山に帰らなければいけない、と感じはじめる。
 その秋、僕は幼い娘たちを連れて、紅葉の北八ヶ岳を訪れた。数年ぶりの山行だった。五歳、三歳、一歳の三人娘は清澄な秋の大気のなかをどこまでも駆け抜ける。確かな手応えを感じた僕はこれをきっかけに再び山に帰っていこうと心に思う。


10.
 
涸沢再訪
 
山行時期:1994.08.
執筆時期:1995年頃

 秋の北八ヶ岳を訪れた翌年以降、僕は幼い娘たちを連れて、次々と山行をかさねる。娘たちを連れた幕営山行、それは即ち自分の体力に対する問いかけだった。装備は30kgを越える重さだ。自分の装備さえ背負えばよかった学生時代よりも、もしかしたら重いかも知れない。はたしてそれを背負うだけの体力が、今の僕にあるのだろうか。いくつかのトレーニング山行を経て、僕たちはいよいよ夏の涸沢をめざす。上高地から標高差千m、距離二十kmの涸沢へ、二歳の末娘を引きずりあげ、自らの足で歩き通させる。
 ここ涸沢はいつも僕の転換点となってきた。僕はここを起点に新たな試みに向かうだろう。


11.
 
吠える、初冬の八ヶ岳
 
山行時期:1997.11.
執筆時期:1999.04.

 その年の年末、西穂高岳への単独行で冬山に帰ることを決めた僕は、十年ぶりの冬山感覚を取り戻すために、十一月初旬、初冬の八ヶ岳を訪れる。体調不良でありながら、あえて入山した僕は、甘い装備の隙をつかれて厳しい自然に翻弄される。吹きさらしの天狗岳稜線で凄まじい寒気にさらされた僕は、疲労からカロリー補給もままならず、低体温症に陥る。しかし僕の意識は朦朧としながらも、経験と本能から生き延びるための方策を僕の身体に指示し続ける。その指示に従って、僕はかろうじて寒気に対する防備を整えた。あとは日没前に安全地帯に逃げ込まなければ…。
 このときの経験が、しばらく冬山とは疎遠だった僕に再びその厳しさを再認識させた。


12.
 
冬山に帰る
 
山行時期:1997.12.
執筆時期:1998.04.

 友人の遭難死をきっかけに、自らの生き方を問い直し、僕は山々へと帰って行った。幼い娘たちを連れての穏やかな山行ではあったが、それなりの満足はあったはずだ。けれども僕には何かが物足りない。僕は心のなかに空洞を抱えてしまっている。苦しいまでの欠落感が僕を責め立てる。そう、僕にはもうわかっていた。いずれ僕は冬山に帰っていかなければいけないのだ、と。
 かつて冬山をともにした仲間たちはすでに冬山から遠のいてしまっている。当たり前だ。誰もがきちんと就職し、家族を抱えている年代なのだ。そんな状態で冬山に登り続ける者は少ない。でも僕は妻の反対を押し切り、学生時代にさえしたことのない冬山単独行によって、年末の西穂高岳をめざそうとする。


13.
 
走れ、蝶ヶ岳
 
山行時期:1998.05.
執筆時期:1998.07.
東京新聞出版局『岳人』入選(1999年04月号掲載)
1999年度岳人紀行賞最優秀賞受賞

 僕は再び冬山に向かいはじめた。自分のなかに巣喰いはじめた「何か」、そう、「欠落感」を埋めようとして。けれども、今の僕のような立場で、自らの方向性を定め直そうとすれば、社会や家族との軋轢は避けることはできない。僕はそんななかで何かをはじめようと模索をはじめる。それまで「いい夫」「いい父親」を演じ続けてきた僕は、徐々に自らの方向に向かう。自らの時間を切り刻み、家族の時間を切り刻みながら。このままおとなしく演じ続けることもひとつのやり方だ。でもそれは僕のやり方ではない。
 与えられた限りある時間のなかで、僕は残雪の蝶ヶ岳をめざして駆け抜ける。娘たちと帰ってくる時間を約束して。これは「その後」に向けたひとつの試みだった。はたして、僕はその時間に間に合うのだろうか? 「走れ、メロス」のように…。


14.
 
自戒
 
山行時期:1998.10.
執筆時期:1998.10.

 翌春、積雪期の八方尾根をめざす予定だった僕は、偵察山行を兼ねて秋の八方尾根を訪れる。この秋はいくつもの台風が次から次へと本州に上陸した。そのため、高い気温が続き、また巻き上げられた海水の塩分によって、紅葉は散々だった。
 体調もよかったため快調に唐松岳に達した僕は、予定を変更して、その日のうちに八方尾根を駆け下ろうと考える。濃霧のなか、単調な下りの登山道で、考えごとをしながら駆け下る僕は、前日の台風で地盤の緩んだ登山道を踏み外し、斜面を転落して負傷する。何とか自力下山はしたものの、気持ちの油断についていま一度、自らを戒める。


15.
 
西穂再挑戦
 
山行時期:1998.12.
執筆時期:1999.07.

 昨年末、十年ぶりに私は冬山へ帰った。だが、北アルプス・西穂高岳稜線で天候は急変、猛吹雪となって、私は西穂高岳頂上を踏めず、撤退した。その吹雪のなかでは、中部山岳各地で遭難が発生し、いくつかのかけがえのない生命が失われていた。私は西穂高岳から下山後にそれを知り、自らの判断を正しかったのだと信じようとした。でも、いつまでも自分を欺き続けることはできない。私にはわかっていた。私はその猛吹雪にただ臆しただけなのだ。本当の意味で「冬山に帰る」ために、私はひとりで冬の西穂高岳に再挑戦する。
 私が所属した山岳団体は、相次ぐ遭難死亡事故により数年前に解散に追い込まれた。そして私は相棒をすべて失い、単独行を続けざるをえない。単独行を続けるかぎり限界はあるだろう。でも、西穂高岳の頂きに立ち、私は、今後、自分なりの山を追い求める意志を再確認する。


16.
 
ひとり、八方尾根
 
山行時期:1999.04.
執筆時期:1999.04.

 春、僕はひとりで八方尾根から入山する。唐松岳から五龍岳への縦走が最終目標だった。しかし、真冬並みの寒気の流入、強い冬型の気圧配置によって、八方尾根では地吹雪が荒れ狂い、一度めは撤退。その二週間後に再挑戦するも同じ気象条件で、かろうじて唐松岳を踏むことができただけだった。さらに二週間後、この春最後となるはずの三度めの挑戦で、僕は唐松岳〜五龍岳主稜線から滑落してしまう。気温が高く、積雪が最悪の状態だったのだ。かろうじて滑落を止めた僕はなおも縦走を続けようとするが、核心部の雪壁を越えることができず敗退する。これが単独行を続けざるをえない僕の限界だったのか。
 縦走をあきらめた僕はひとり、夕暮れの八方尾根を下る。くやしさとともに、僕のなかの何かを燃やし尽くしたというあきらめを感じながら。


17.
 
雪稜を越えて
 
山行時期:1999.05.
執筆時期:1999.05.

 唐松岳から五龍岳への縦走を断念して撤退した僕は、単独行の限界を強く感じる。この残雪期が終わる前にこの限界を越えておかなければ、僕はいつまでたっても自分の実力の壁を破ることはできないだろう。焦りのなかで、僕は憑かれたように次の山行を計画する。それは五月連休の穂高吊尾根縦走だった。
 入山直前にバイクで事故った僕は、痛めた膝を抱えながらも穂高に入山を強行する。この山行は延期できないのだ、絶対に。
 僕以外に誰もいない吊尾根上で、僕は雪稜を越え、雪壁を越え続ける。久々に味わう緊張だった。
 下山後、すさまじいまでの緊張感のあとに訪れた安堵感に包まれて、僕は目標を失った虚脱感を感じながらも、わずかな自信を取り戻す。僕は自分の限界を、また一歩越えた。


18.
 
原風景を訪ねる山旅
 
山行時期:1999.06.
執筆時期:1999.07.

 十八年という歳月を越えて、僕は再び残雪の東北・朝日連峰に向かう。そこはかつて登山をはじめたばかりの僕が、技術的、体力的、精神的な限界に達して、無惨な敗北感に打ちのめされたところだった。でもそこは僕の登山の原点ともなった。そのとき朦朧とした意識のなかに刻み込まれた奥深い東北の自然を、僕は原風景として今まで忘れたことはない。けれど、そのとき僕は「何か」をここに置き去りにしたままにしてしまっている。その「何か」に終止符を打たなければ。
 折しも東北地方は低気圧が通過中。激しい風雨のなか、僕はただひとり、ぶなの奥深い原生林に踏み込んでいく。行かなければいけないときに、行かなければいけないところへ、まるで「何か」に引き寄せられて行くかのように。はたして、そこで僕が出会ったものは、僕がわかったこととはいったい?


以上、『彼方の山稜』収録 全18作


19.
 
夏の終わり、八幡谷にて
 
山行時期:1999.09.
執筆時期:1999.12.

 積雪期の単独行を無事終えて、僕は安堵感を覚えながらもむなしい夏を迎えようとしていた。そんなとき、僕はかつての相棒と出会う。その年の夏、僕は久々に相棒を伴って入山し、比良山系の沢で次々と山行を重ねた。そして、沢登りがシーズンを終える九月中旬、僕たちはいよいよ八幡谷へと向かう。今年の目標はここ八幡谷だった。ここを登るために僕たちはトレーニングを重ねてきたのだ。心地よい緊張感とともに、僕たちは連続する滝を越えて、初秋の気配が漂う武奈ヶ岳山頂に立つ。
 相棒はまだ冬山に復帰するつもりはない。僕たちは、翌年の夏、大峰・台高の沢を目標とすることを約束して別れる。相棒と山に向かう心強さ、安心感、楽しさを味わった僕が、再び単独行で冬山に戻って行けるのだろうか。そんな不安を感じつつ、僕は夏の日を終える。


20.
 
私だけの未踏峰
 
山行時期:1999.11.
執筆時期:2000.03.

 山々から降雪の便りが届く。冬の到来とともに、再び単独行がはじまる。
 今年の積雪期の目標は、遠見尾根から五龍岳登頂だ。遠見尾根は日本海に近いため冬型の気圧配置の影響を受けやすい。豪雪地帯として有名だ。春の八方尾根敗退で失いかけた自信を取り戻すため、僕はここを今冬の目標に据えたのだ。その偵察のために、初冬の五龍岳を僕はひとりで訪れる。
 前日の明け方に通過した寒冷前線に伴う降雪で、五龍岳は予想外の積雪があった。誰ひとりいない五龍岳で僕はラッセルを続ける。トレースは全くなく、本当の意味での単独行となったのだ。
 心地よい緊張と疲労の果てにたどりついた五龍岳山頂は、穏やかな陽光に包まれた未踏峰だった。


21.
 
風雪の阿弥陀南稜
 
山行時期:2000.02.
執筆時期:2000.03.

 僕は山歩会の先輩Sに出会い、久々に酒杯を交わしながら山を語る。冬山復帰をめざして相棒をさがしていたその先輩と意気投合した結果、僕たちは、二月初旬、厳冬期の八ヶ岳連峰阿弥陀南稜を計画する。先輩にとっては、七年ぶりの冬山。僕にとっては初めての厳冬期ミックスルート。
 低気圧の通過直後の強い冬型の気圧配置によって、八ヶ岳連峰は雪雲に閉ざされていた。でも、僕たちは天候の回復を確信しつつ、激しい風雪のなかに突っ込んでいく。阿弥陀南稜は膝から腰までの深い積雪、そんななか、僕たちは、風になり、雪をかき、頂きをめざす。氷点下十五度の風雪のなかで苦しみながら、僕たちは何を思い、どのように登ったか。そして、登りつめた先で僕たちを待っていたものは?
 下山後、穏やかな街で、僕はその山行の濃密な時間を思い出し、その置きみやげである凍傷の疼きを懐かしむのだった。 


22.
鹿島槍ヶ岳東尾根
山行時期:2000.05.
執筆時期:2000.07.

 2月初旬、八ヶ岳連峰阿弥陀南稜から下山した僕と先輩Sは、次なる目標を北アルプス鹿島槍ヶ岳東尾根に定める。僕にとっては長年の憧れのルート、先輩Sにとってはかつて冬期敗退したルートだ。4月中旬にここをめざすが、天候は荒れ模様。最軽量装備で突入しようとした僕たちを、温かな雨が阻む。僕たちはリベンジを誓い、アプローチ敗退を喫する。
 その三週間後、五月初旬、僕たちは再びここをめざす。今回は、鹿島槍東尾根登攀後、キレットから五龍岳へ縦走、さらに難度をアップ。実力を伴わない装備偏重主義の超初心者パーティによる大渋滞で、僕たちはビバークを強いられる。しかも、ビバーク装備を持たないパーティを収容、寒くつらいビバークに耐える。
 翌日、困難な八峰キレットを越え、夕方遅くに五龍岳に登頂。ここで、利尻遭難以来、十年ぶりに先輩Nに再会。僕たちはがっちりと握手を交わす。そして、天幕のなかで酒を飲みながら山を語り続ける。久々に充実した濃い時間が、僕には嬉しかった。


23.
十年後、利尻にて
山行時期:2000.06.
執筆時期:2000.06.

 十年前、私たちは、ここ利尻で岳友を失った。
 当時、冬山から離れて久しかった私は、冬山技術も体力も失い、彼のために何をしてやることもできなかった。下界の穏やかさに慣れきった私は、真摯に山に登り続けた彼の死とはかけ離れたところで生きていた。私はそんな自分が許せなかった。
 その日以来、私のなかで何かが変わった。長い歳月を経て、私は冬山単独行に復帰し、挑戦と敗退を繰り返しつつ、単独行の限界に悶々と苦しんだ。昨年の夏、ようやく相棒を得て沢登りにのめり込み、冬には新たな相棒と出会い、阿弥陀南稜、鹿島槍東尾根を登ることによって、自分の限界をまたひとつ越えた。そして、ようやく、私は利尻を再訪することを自分に許す。
 あれから十年、利尻は美しく優しい土地だった。私なりに彼の供養を終え、私は何かを吹っ切る。


24.
蝉時雨
山行時期:2000.08.
執筆時期:2000.08.

 水が温みはじめると、今年もまた沢登りの季節を迎える。僕と相棒は、昨年最後の沢、八幡谷の帰りに交わした約束を忘れない。今年の目標は台高大峰の沢だ。僕たちは夏の芦廼瀬川を目標にして、隔週末に比良山系西面の沢に突入、トレーニングを重ねる。
 そして、ふたりの予定を何とか調整して入山を決めたある週末、狙いすましたかのように台風が襲う。まるで僕たちの意志を試すかのように。僕たちは台風接近に伴う風雨のなか、芦廼瀬川に突っ込んでいく。増水の危険はある。でも、このままで僕たちの夏を終わらせてたまるものか。
 僕たちは深い淵を泳ぎ、険しい滝を登攀し、奥へ奥へと踏み込んでいく。朝から十時間の連続行動の果て、僕たちは核心部を抜け、そこでずぶぬれのビバークに耐える。
 翌日、秋の気配に包まれた青空の下、穏やかな源流帯をたどる僕たちに、ゆく夏を惜しむ蝉時雨が降り注ぐのだった。


25.
山深き黒部へ
山行時期:2000.09.
執筆時期:2000.10.

 昨年来の目標だった大峰山系・芦廼瀬川遡行を完登し、僕は夏を終えた。しかし、それと同時に僕は目標を失ってしまった。レベルアップに向かおうともがきながらも、次なる目標の方向性さえ見失い、僕は空しい秋を迎えようとしていた。
 そんなとき、先輩「にしやん」が黒部行きの計画を立てていることをインターネットで僕は知る。僕にとっては未知の領域、レベルアップには願ってもない計画だった。僕はにしやんと連絡を取り、同行を申し込む。電話もファックスも使わず、インターネットだけで打ち合わせを終えて、当日朝、僕たちは北陸本線魚津駅で落ち合った。ここから黒部川に沿って入山するのだ。
 黒部は山深かった。僕たちは一個の野生動物と化し、山奥へと踏み込んでゆく。僕たちの山旅は黒部川の谷底からはじまった。道なき道を求め、密生する藪を漕ぎ、雨のように降る落石をくぐり、恐怖のスノーブリッジを越えて、僕たちは激しい登攀を続ける。これは登山と言うよりも、秘境探検、サバイバルの一種だ。そして、三日間の苦闘の末、僕たちはついに鹿島槍ヶ岳南峰に立つ。


26.
黒部童子
山行時期:2000.10.
執筆時期:2001.03.

 北アルプスの山々では秋が深まる十月下旬、私たちは黒部別山をめざす。欅平から入山、黒部川下ノ廊下を経て、黒部別山谷左俣から大スラブを登攀しようという計画だった。左俣は崩壊しかけたスノーブリッジに埋もれていた。私たちは浮き石だらけの草付き、脆い岩壁のトラバースを続けて左俣沿いに奥深く踏み込んでゆく。午後遅い時間に大スラブ基部にたどりついた私たちは美しいスラブの登攀を開始、その夜は上部テラスでシュラフだけのビバーク。満天の星空の下、酒を飲み、山々を語り続ける。
 しかし、天候は下り坂に向かっていた。大スラブ登攀、R3登攀を終えて黒部別山主稜線の濃密な藪に踏み込む頃から、深いガスに包まれる。激しい藪漕ぎで時間感覚、距離感覚を失い、私たちは主稜線をさまよい続ける。ここは何処なのだ? 唯一の手がかりとなる地図も、周囲の景観がガスに閉ざされて役に立たない。激しく降りはじめた雨のなか、私たちは体力消耗を抑えるため、ビバークを決断する。最終下山時刻はその日の夕方五時。その時間までに連絡が取れなければ、私たちは遭難したと判断されるのだ。食料は非常食のみ。水はほとんどなく天水に頼るしかない…。


27.
再び、黒部へ
〜黒部別山中尾根支稜〜
山行時期:2001.05.
執筆時期:2001.06.

 五月初旬、私たち「黒部童子」がめざす山域はもう黒部以外には考えられなかった。とりわけ黒部別山だ。昨秋、あそこで惹き起こした遭難未遂の雪辱を果たさなければ…。そして、僕たちは黒部別山中尾根支稜を目標に定める。
 小雨のなか、ブロック雪崩の響く春浅い黒部別山谷に僕たちは足を踏み入れる。そして、野生動物と化した私たちは、濃密な藪を漕ぎ、ブロック雪崩をかいくぐって、黒部の谷底からひたすら頂稜をめざす。二日めの夕方遅く、急峻な雪稜、雪壁を越えた彼方に見えたのは、ああ、剱岳だ! とうとう私たちは黒部別山を越えた。私たちは夕暮れの剱岳東面を食い入るように見つめる。
 昨年、後立山主稜線で私たちは数年ぶりに出会った。運命的な出会いだった。そこから今の私たちがはじまったのだ。ここまで三人がやってくるまでには、それぞれに遠い道のりがあった。
「わしら、とうとうここまでやってきたど」「ああ、ようやくな。長かったで、ほんま」
 私たちは笑顔で力強い握手を交わすのだった。


28.
家族の時間
山行時期:2001.07.
執筆時期:2001.09.

 魂の呼び声に従って私が山々に帰っていくとともに、私の生活は妻や娘たちから遠く離れていった。私なりの山、私なりの生き方を必死で求めながら。そして、かつて家族とともに春浅い上高地・徳沢で過ごした家族の時間も、今では遠く彼方のものとなった。しかし、ふとしたきっかけで、妻と長女を伴って、この夏私は黒部源流・赤木沢を訪れることになる。学生時代以来、17年ぶりに。かつて若い仲間たちとここを訪れたことのある私は、今、中学2年生の娘とともに同じ風景の前に立つ。自然は何も変わっていない。でも私は…。私は17年の歳月の意味を少しだけ知る。
 幼い頃から父親に連れられてハードな幕営縦走ばかりやらされていた次女と三女は、いつしか山嫌いになっていた。しかし、三人娘のなかでただひとり山好きな娘に育った長女のたくましい横顔を見ながら久々の家族の時間を過ごした私は、再び、山で家族の時間を取り戻せる可能性に気付く。