「利尻、追悼」
(『岳人』1996年 6月号掲載)
眼を閉ざせば、瞼の裏には暗い海が広がる。 その海は雲が低く重たく垂れ込めた灰色の空の下にどこまでも広がっている。低いうねりは遥か沖に湧き、やがて白い波頭を見せながら鈍い響きとともにここの海岸に崩れかかる。五月初旬、北の海は未だ冬の姿である。 今でも私の耳底から離れない寄せては返す波の残響とともに、受話器の向こうに響いた大学の後輩の悲痛な叫びを思い返す。 「Iが、遭難した」 「どこで」 「北海道の、利尻で…」 「状況は」 「行方不明です…」 北海道、利尻島。 かつて、学生時代、この地名を聞く度に、日本最北端の土地に対する切ない憧憬を抱いたものだった。それは、豊かな厳しい自然に対する憧憬であり、畏怖ですらあった。しかし、今、この地名の響きは、私に五月初旬の利尻の暗い海と低く重たく垂れ込めた曇空を思い出させる。私の記憶から二度と消し去ることのできないその風景とともに、利尻は私にとって痛恨の土地となってしまった。 * * * 遭難の連絡を受けた翌日、私は当時住んでいた広島から遭難対策本部のある京都に向かい、さらにその翌朝、捜索隊第二陣に合流して北海道の現地本部に飛んだ。 京都本部で受けた現地状況説明は、Iの生存可能性に関しては否定的だった。 「Iは南稜P2付近の岩稜からヤムナイ沢大滝方面に転落した」 「現在、遭難者の相棒Dと現地の方々による捜索が悪天のなかで行われている」 「ヤムナイ沢大滝直下の雪崩のデブリからはIのものと思われる遺留品が発見された」 「天候は今後も悪化し、これ以上の捜索は二次遭難の危険性が高い」 これらの悲痛な情報が寄せられるたびに、私たちの気持ちは暗く重く沈むのだった。 利尻はあまりに遠い。 夜明け前に京都を発った私たちが、大阪、札幌、稚内、礼文を経てようやく利尻に到着したのは、日没後のことであった。夕方遅く鴛泊港に着いた私たちは、地元役場が手配して下さった車で現地本部へ向かった。天候は悪かったが波は比較的穏やかだった。車窓には白い波頭の立つ暗い海がどこまでも続き、空には雲が低く重たく垂れ込めていた。北の海と空は未だ冬の姿であった。 利尻山はその中腹以上を灰色の陰鬱な雪雲のなかに隠し、その姿を見せなかった。 現地本部に入った私たちは詳細な状況説明を受けた。 「発見された遺留品であるIのザックは肩紐が切断されており、転落時に相当な衝撃を受けたと想像される」 「しかし、ザックの雨蓋は不完全ながらも閉じられた状態で、内部からはザイル、コンロ、食料等が紛失している」 「つまり、Iは転落直後生存しており、何らかの操作をザックに加え、脱出を図ろうとしている可能性は否定しきれない」 「従って、いまだ生存している可能性のあるIを生きたままで連れて帰ることに、捜索の全精力が注がれるべきだ」 「脱出経路としては、雪崩の巣となる大滝近辺を回避し、南稜へ登り返すルートをとる可能性がもっとも高いと思われる」 それが生きたままのIを私たちのもとに連れ戻す唯一の希望だった。 私たち第二陣が現地本部入りしたときには、前日に現地入りしていた第一陣は連絡調整係のみを残し、この唯一の希望に基づいて、南稜に向かってすでに夜の闇をついて出発していた。その日の昼間、彼らは大滝上部の捜索を終え、今また、休む間もなく南稜を目指して登高中なのだ。この日夜更けに南稜捜索隊から最後の定時交信があった。 「予定通りの地点でビバーク中」 「明日は早朝より南稜上部に駆け上がる」 「ビバーク地点への荷揚げを頼む」 全てが翌日の捜索にかかっていた。 捜索は、高温による融雪のため、雪崩と滑落という危険と背中合わせの状態で進められた。第二陣も荷揚げ等の後方支援に役割分担が行われた。私は現地本部での定時交信担当となり、南稜捜索隊及び支援隊の行動をつぶさに見守ることになった。同時に、約二年間雪山から離れて体力と技術を失った自分の無力さを呪わずにはいられなかった。 「融雪のためルート工作はなかなか進まない」 「気温の上昇とともに雪崩の危険が増大する」 「何とか転落地点付近まではたどりつくつもりだ」 南稜捜索隊から入る交信の言葉の端々から、私は彼らの疲労と困惑と絶望を読みとった。 午後遅く、彼らは転落地点に到達した。 「Iが登り返した痕跡は認められない」 「これ以上の捜索は危険のため断念せざるをえない」 「これからビバーク地点に向けて下降する」 疲労の滲んだ交信を耳にした私は、ビバーク地点で待機している支援隊に、疲れきった南稜捜索隊のためにできる限りの水を準備してから下山するように指示を与えた。それがそのときの私にできる精一杯のことだった。 その翌日、一時的に天候は回復し、Iの生還に最後の望みが持たれた。しかし、結局その日の捜索も徒労に終わった。その夜、総括会議が開かれた。捜索が始まって既に四日が経過しており、連休もあと一日を残して終わろうとしていた。会議は夜更けまで続いた。 会議の主旨は、それまでの捜索活動の総括と今後の捜索活動方針の確認であった。そして、その大前提としてIの生死に関する判断が当然求められた。 会議は重苦しい雰囲気に包まれていた。おそらく誰もが理性ではIの死亡を認めていた。しかし、感情が理性に勝り、誰もがみな捜索の継続をうわごとのようにつぶやいていた。 「そんな中途半端な、危険な捜索はやめろ。生存の可能性はほとんどないんだ」 それまで黙っていた大先輩のSがのぼせた私たちを一喝した。 「生存を前提とした捜索は今日で終了だ。生存の可能性の高い場所に彼はいなかった。従って、雪崩に流されて大滝内部、屈曲点付近にいる可能性が最も高い。明日は捜索隊の疲労度、天候から考えて休養する。次の捜索は明後日以降、現役部員により大滝下部の雪面上を捜索、雪崩による自然露出を待つ」 生存を前提とした捜索を終了するということは、Iの死亡を決定づけることだ。生死が判然としないものに対して完全に見切りをつける責任を負うことなのだ。私たちにはそれを公言する勇気も、それを認める冷静さもなく、Sの言葉にただ唇をかみしめていた。 私たちに背を向けたSにも苦渋の表情が宿っていた。 翌日から、私たちの離島が始まった。社会人である限り、いつまでも捜索に携わることはできない。勤務先から、家族から、一日も早い社会復帰が求められていた。捜索はあとに残る現役部員たちの手に委ねられた。 * * * 数日後の早朝、Iの遺体は大滝下部の雪面上で発見された。私はその朝、勤務先で遺体発見の報を受けた。そして、利尻にまもなく訪れるであろう春を思った。 利尻の春は遅い。桜はあと一週間くらいすればようやく咲き始めるという。桜が咲き始めると、続いて春の花は一斉に咲き誇り、ここ利尻の短い春は一面花で埋まるという。 私は利尻の春の生命の息吹とその対極にあるIの死を思い、空虚な現実を思った。 穏やかすぎる会社での一日が始まろうとしていた。 |