以下は、タダオ経由野村勝美氏から寄せられた「冬の十字峡横断記録」です。
本来は『岳人』に寄稿された記録ですが、掲載条件(?)等から未掲載となったものです。

ほぼ原文のまま引用します。
原文の主旨を損なわない範囲で読みやすいように効果をつけました(改行・フォント変更等)
添付した写真はタダオから提供して頂きました。

by 管理者NG(noguring)




        黒部横断    〜十字峡を越えて、世紀を越えて〜


左京労山  野村勝美  15.02.2001


赤岩尾根〜鹿島槍ヶ岳〜牛首尾根〜十字峡〜ガンドウ尾根本稜〜池平山〜剱岳〜早月尾根〜馬場島


<"雨の十字峡">

 「おいおい、ほんまに降ってきたで。」、、、軽量化を図りたいとの岡田の提案で、今回の山行にはテントは本体と内張しか持ってこなかった。
 (野村)「もし十字峡で雨だったら嫌だなあ。」
 (岡田)「まあ内張があるから多少はましちゃう。」
 (野村)「ふ〜ん。」(まあ、その時は仕方ないか、、、)
 12月23日午後、計画書の日程通り僕らは十字峡を渡った。快晴だった空はその夕刻から急速に雲を拡げ始め、すっかり暮れた頃には雨がテントを叩き出した。「ちょっと、まじかよ。"雨の十字峡"ってか?!演歌の曲名にもならんなあ。」、、、雨は夜半から湿雪に変わった。これが今山行中の第1の山場、クリスマス寒波の始まりであった。
 
<出発までの苦闘>

 今年度は会社の勤続休暇が取得できる年であった。長期の休みを取るチャンスである、制度上は。いつもなら夏に使ってしまう季節休暇を冬に回し、実現可能なのか見当もつかないまま、ただ漠然と正月前後にたっぷり休暇を充てていた。一時は単独の覚悟も迫られたパートナー探しも何とか解決し、出発1ヶ月前、いよいよ上司に切り出す時にはさすがに後ろめたい気がした。行き先は、黒部から剱へ。正月にたっぷり時間が使えるなら、これについては何の迷いもない。90年の遭難から丸十年、そして20世紀最後の年、図らずも"メモリアル"プランとなるのであれば、なおさらこのエリアをはずす手はない。問題はルートである。壁にはあまり興味がない、八ツ峰ははずせない、常とは趣向を変えてどっぷりと山に浸りたい − こうしてぼんやりと後立山越え〜十字峡横断までは決まった。問題は八ツ峰に取付くまでをどうするかだ。どうせなら記録の稀なところが面白い。地理および地形的に対象は黒部別山北尾根、トサカ尾根、或いは剱沢を挟んで北側の大滝尾根かガンドウ尾根(本稜、注)に絞られる。
 最難のトサカ尾根はいまだ3登しかない。正月は記録なし。「よし、これ!」。ところがよく聞いてみると、今回種々相談に乗ってもらった横断のエキスパート・秀峰登高会の小谷さんを以ってしても「あれは悪すぎる。」と言う。何より岡田が乗ってこなかった。大滝尾根は数年前に正月の踏破を見た。北尾根は"横断"では一般ルートだ。技術的には多分前2ルートよりは劣るが、これも正月の記録がないガンドウ尾根に落ち着いた。こうして当初、爺ヶ岳北稜〜牛首尾根〜十字峡〜トサカ尾根〜剱沢〜八ツ峰滝ノ稜〜八ツ峰〜剱本峰〜早月尾根だった思いは、赤岩尾根〜牛首尾根〜十字峡〜ガンドウ尾根本稜〜仙人池〜八ツ峰滝ノ稜〜八ツ峰〜剱本峰〜早月尾根/実働12日・予備日9日のプランとして結実した。
 持病対策として、膝の皿の軟化症には通常より多めのコラーゲンを注入し、また足首の腱亜脱臼に対しては簡易固定パッドを購入して出発に備えた。ところが!その前日、食中毒のアクシデントに見舞われた。点滴で脱水を補いつつ何とか食事を口にすることができるようになった2日後の晩、ルート変更はせず予備日を2日カットすることにして、僕は夜行列車に乗り込んだ。初めて受けた見送りでは、男二人のクリスマス用にとケーキまで持たせてもらった。ザックには「見送りに行けないから」とわざわざ自宅まで出向いてくれた、いつもは見送っている人からの差入れも収まっていた。寒気の南下とブロッキングの存在に初めて気付いたのは、岡田から高層予報図を渡されたその列車のなかであった。12月20日のことであった。

注、池平山から発し仙人山を経て東に延びる尾根は、JP(1,800m)にてS字峡 と十字峡に向かって尾根を分岐する。前者を北東尾根、後者を本稜と称する。北東 尾根についての記録は散見されるが、本稜は3月も含めほとんどない。なお本文 では本稜中のJPまでのピークを仮にPI(1,712m)・PII(1,685m)・ PIII(1,622m)・PIV(1,560m)・PV(1,522m)としている。関西電 力の1/5,000図が詳しいが、現在は多分入手不能だろう。

<十字峡を越えて>

@12/21 曇り時々晴れ
  大谷原(0640)−(1300)高千穂平−(1600)赤岩尾根2,300m

 1,800m付近よりトップは空身でラッセル("ビーコン"とか"朝鮮歩荷"って呼ぶらしい)。
 荷物の多さにテントの広さが追いつかず、整理をするのも面倒でずぼらな僕は全部マットの下に敷き詰めて寝た。これが断熱効果抜群で、今回のために買い換えたシュラフの効用と相俟って毎晩ぬくぬく。

赤岩尾根上部


A12/22 快晴
  出発(0650)−(0900)冷池小屋−(1250)鹿島槍南峰−(1630)牛首尾根2,280m

牛首尾根上部


B12/23 快晴のち夜に入り雨のち雪
  出発(0630)−1,476mピーク(1030)−十字峡(1430)−(1630)同下流左岸台地

 今朝も雲ひとつない快晴だ。懸案の十字峡へと向かう2,061m分岐の視界については問題なさそうでほっとする。前日は視界の利くうちに何とかそこを越えてしまいたいと思っていたが、布引岳の登りに入るまでのラッセルが予想外に深く、また鹿島槍南峰を巻いて牛首尾根に入ってからも棒小屋沢からの谷風がきつく吹き付けた。下りに入ったとは言え、雪煙を衝いての行動は結構こたえ、踏み抜いたクラストに足を捕られて頭から一回転すること二度。その時に露岩に打ちつけた問題の右膝は依然踏ん張りが利かないが、今日はほとんど下りなので助かる。雪が少ないからだろうか、藪が濃くて見通しが利かず現在地が分かりにくい。地図とコンパスそれに高度計をフル活用し、いよいよ進路を南西に転ずる。最初はだだっ広い斜面で方向が定まらない。視界良好のお陰で、1,849m、1,476m、1,400mといった時々現れる顕著なピークを目標に下る。

剱大滝方面


 1,476mピークからは西に視界が開け、真っ青な空の下、剱大滝とその先に聳える八ツ峰を中心にこれから向かうガンドウ尾根や大滝尾根、その対岸のトサカ尾根が一望された。実に贅沢で壮大な風景。「おおっ!」と歓声を上げながらも、「ガンドウ尾根は多分楽勝だな。」 − 僕は抜け目なく観察することを忘れなかった。一方、トサカ尾根については全くルートが判別できなかったが。そこから先は一気に下りの傾斜がきつくなる。ワカンをはずし、時に後ろ向きで下れるところをぐんぐんぐんぐん、ひたすら下り続ける。ついに黒部の川面が見え出し、やがて針金やフィックスが現れた。「あほちゃう?」、こんなところに人の痕跡があることに言い様もない可笑しみを覚える。それらをやり過してさらに進むと懸垂の支点に至った。25m一発で十字峡真上の台地に着地、再び雪の斜面をわずかに下りとうとう十字峡から100mほど下流の河原に降り立った。川幅約15m、流れは穏やかである。僕は下はすっぽんぽんで雨具だけをまとい、足はサンダル履きのいでたちで黒部を渡った。深さは股下程度、覚悟していたこともあってか水は言うほど冷たくもなく、正直言って拍子抜けだった。

冬の黒部川、十字峡徒渉


<クリスマス寒波襲来>

C12/24 湿雪
  出発(0720)−(1630)ガンドウ尾根本稜1,610m(PIII前衛ピーク下)

 ガンドウ尾根へは積雪を利して、台地まで上がってきたガリーから登り出す。
 時折チリ雪崩。露岩が出始め左の尾根へ、尾根は薮がうるさく雪の斜面があれば積極的に活用し最終的に左手から上がってくる本稜へ。今回の秘密兵器、薮対策の折畳み式鋸が活動開始!膝の痛みは解消し、行動に支障なし。

D12/25 雪
  出発(0830)−(1730)ガンドウ尾根本稜1,680m(PII〜PI間)

 前日ぼた雪と薮との格闘の最中、「なんでこんなことしてんだろう?」とはたと正気に還る。そうしたら何処からともなく声がした、「これやりに来たんでしょ?」、その通り!途中、十字峡への下降時にあったのと明らかに同じ人物によって付けられた針金を発見、"あほ"は自分だけじゃないんだなあ〜と可笑しいのを通り越して感心してしまった。 川底から這い上がってきたその晩、岡田が体調不良を訴えた。実はこっちも無線機の調子が思わしくない。そもそも何処まで到達すれば馬場島に電波が飛ぶようになるのか皆目見当つかないが、唯一の通信手段である無線を失った状態で八ツ峰に突っ込み、そこで悪天に捕まって行動不能に陥ったとしたら、、、そう思うと胃がきりきりした。「八ツ峰放棄」の決定を下すのはそんなに難しいことではなかった。
 行動日が短縮された分、出発に際しおよそ2日分の食糧と滝ノ稜・ドミノ岩での懸垂用に持参した竹ペグやらスリングやらを捨てた。「ノンデポ」を目指した山行はこの行為で醜悪なものと化したが、始まった寒波でこれからどれほどのラッセルが待ち受けているのか予想だにできない状況で、僕自身重荷に対し体力温存を図りたい気持ちが優先したのは確かだ。
 前日手前まで偵察を済ませておいたPIII前衛ピークは、細い岩稜の上に新雪がキノコ状に積もり通過不能。下り気味に急雪面の岩稜基部を巻き、空中を交えて懸垂で反対側の狭いコルに降り立つ。そこから鋸フル活用でキノコを崩しながら尾根に這い上がる、部分的に垂直。新雪は80cmほど、リッジ上では足を置くと「このキノコ雪は昨日できたばかりです!」と言わんばかりにその下の潅木の振動が伝わってくる。一度本来のリッジを踏みはずし体が右の谷に落下し始める。「あれ?この感覚は以前にも経験したことがあるぞ。」、僕は反射的に体を左に反転し上体をぐっと伸ばしてリッジを腹でキャッチした。"デッドポイント"である、こんなところでフリーの技術が役立った?!その間恐らく1秒前後。前は右反転だったな、アイガーのミッテルレギで北壁側に墜ちかかった時は。視界が利かないので分からないが、左手から時折重く響くような連続音が聞こえる。剱大滝の落下音なのだろう。
 PIIIを通過し再度懸垂、同じ作業を繰り返し尾根上にあがり次のピークから今度はテンション気味にクライムダウンでPII前衛ピークの急登にかかる。高差80m、ピッケルで切り崩す雪は頭より高く、その度にどさっと雪を頭から被る。しかし、実は雪を逃がすところのない水平や下りのラッセルより、登りのそれの方が楽なのである。ピークからコルに下った先で、今度は先行していた岡田が新雪雪崩を誘発し一瞬にして前後5mに亘って派手にリッジ右の斜面を谷に葬り去った。PIIの先は、長く細いリッジが右に大きく湾曲しながら続く。風雪が増してきた、日暮れも迫っている。アンザイレンでテン場を探しながら進む。尾根が若干広がると、左右にところどころ穴が空いているようになる。それをシェルターとして使えないか覗き込むが、それらは急な降雪で低い潅木の部分が埋まり切らないために出現したもので、底は斜面となっていた。そうやって尾根をはずす度に雪は腰まで潜った。結局傾斜がなだらかになったところで、尾根上を整地してテントを設営する。時折猛烈に風が吹き上げ、その度にテントが大きく揺らぐ。こんな調子でしばらく天候が荒れるかも知れないと思うと気分がずしりと重くなった。
 その晩、地図で確認すると前日の幕営地との高度差はわずか70m(!)だったことが判明。がっかりする。

E12/26 風雪
  同位置にて沈

 前日残したテント風下側の雪面を切り崩しテン場に雪が吹き溜まらないようにする。お陰で以降除雪の要なし。 
 待望の沈!「どうせ明日は悪いだろうから。」と半分以上決め込んでいたので、前夜は十字峡渡渉以来湿りっぱなしの衣類、靴、その他あらゆるものを日付が変わるまで乾かしまくった。それから除雪をしてシュラフに入る。朝までにテントは半没状態、それでも「最低一度はやらねばなるまい。」と覚悟をしていた夜中の除雪はせずにすんだ。ラジオから月山での雪崩事故のニュースが繰り返し流れる。天気予報では冬型はまだしばらく続きそうな感じだ。平地(ひらち)ではみんなちょっと心配し始めてるのだろうか、、、

<ラッセル、ラッセル、ラッセル、、、>

F12/27 雪時々晴れ
  出発(0900)−ガンドウ尾根JP(1310)−(1615)大滝尾根の頭

黒部別山方面


 実はこの日も沈のつもりでいたのだが、ラジオの天気予報に反し高層天気図から判断する限りでは徐々に冬型は緩みつつあるように思われた。「多少でも行動可能ならJPまででも進もう、そうすれば一応技術的には安全圏に到達する。」、そう相談して準備をしているうちにどんどん視界が晴れてきた。今回初めて後立の西面を目にする。2日目の夜、幕営地から黒部の谷底に灯りの点っているのが見えた作郎谷の宿舎が望まれる。黒四ダムの発電所本体はその下、山腹の地下にある。
 大きく出遅れて出発、PIに続くリッジをアンザイレンで通過し潅木頼りに強引にPIに出る。この頃から天候は時折晴れ間がのぞくほど回復、振り返るとガンドウ尾根は確かに「ガンドウ」と呼ばれるように鋸の歯の如く幾つものピークを並べている。そこには僕らのトレイルが延々と続き深い底に落ちていた。例えるとすれば、戸隠の本院ダイレクトに印象としては似ている気がする。遥かに越えてきた鹿島槍も見渡せれる。もうロープも鋸も要らない、代わりにラッセルは猛烈となる。トップは再び空身になり、ザックを少しでも軽くするためロープを曳いていくことにする。遂にJPに達しS字峡が望まれるようになると、今度は仙人ダムと欅平からの関電の軌道が認められた。世界中でこの風景を一体何人の人間が目にしたのかは知らないが、黒部というのは"秘境"と称する割には案外人間臭いところだ。

ガンドウ尾根のヤブを登る


 ロープは不要になったがしばらくは細い尾根を通過すると、そこから大滝尾根の頭まで一気に高差100mの登りとなる。ピッケルで雪を落とし足場を踏み固め、一歩一歩機械的にその動作を繰り返す。ひたすら繰り返す。なるべく上は見ないようにして、無心に繰り返す。そうして、、、「着いた!」。嫌になるほど長い登りの果てに着いたピークは、意外なほど平らでこじんまりしていた。天候の回復を見越して途中で薄着になったのだが、思ったようには気温が上がらず相当に体が冷えていた。テントの設営が終わると早々にもぐり込み暖を取った。
 十字峡渡渉以来大活躍であった鋸も、PI通過を最後に今日で役目を終えた。

G12/28 雪
  出発(0800)−南仙人山(1210)−(1430)仙人池ヒュッテ、1530半雪洞完成

 出だし下りの細いリッジをアンザイレンで通過後は、広く平らくになった尾根のラッセルに苦闘、立ち眩みすること頻り。風雪の増すなか、南仙人山の長い下りを終えると待望の仙人ヒュッテ入り!

H12/29 晴れ
  出発(0800)−仙人山(1100)−池の平小屋(1130)−(1620)池平山2,400m

 ヒュッテの傍らに掘った半雪洞は中途半端にテントが埋まって、やたらと窮屈だった。埋まった分、多少は暖かかったような。前日ちょっと指先の感覚がおかしかったので靴下の選択に迷ったが、厚くすると圧迫して反って良くなさそうな気がしたので、これまで通り化繊のユニクロのカジュアル靴下のままにした。
 北の方では依然冬型が続き次の悪天が気になったが、外に出ると予想に反し風もなく素晴らしい快晴!ただ、明らかに気温が低い。継続は断念したがそのまま剱主稜線まで詰め上がることに前夜決めた。置いて行くことにした不要になったロープやハーケン、それに名残惜しい鋸等をヒュッテの外壁に括り付けたりしている間に、じわじわと指が感覚を失い固まっていくのが分かった。これも歩き出せばだんだんとましになるだろう、、、

朝焼けの剣岳・八ツ峰


 やがて八ツ峰に日が射し始め、朝焼けに染まった峰々は紛うことなき「神々しい」姿を現した。言葉が出なかった。朝焼けが消えると今度はその白さと紺碧の空とのコントラストが、ぽっかりとまるで日本ではない空間を築き上げている。"パタゴニア"である。八ツ峰ノ頭のような"セロ・トーレ"に向かって今日も延々とラッセルが付けられて行く。深さは平均して腰の辺りか。仙人山を踏み、ほぼ同じだけ下って屋根だけが露出する池の平小屋を過ぎると、そこからは樹林も消えただただ白いばかりの高差500mの一様な登りが池平山まで続く。ザックを置き、ロープを曳きながらラッセルし、引き返しザックを背負って取って返し、再びザックを置いてロープを曳いてラッセルする。今日もそれを繰り返す。遅々とはだが確実に高度は上がり、やがて失った仙人山の高差を越えると再び背後には後立の大パノラマが拡がった。単調さに対する辛抱とひたすら体力が要求されるなか、力が入らない感じの時は登りにかかる前にちびちびと行動食(120g/日)を口にして自分を鼓舞する。しかし圧倒的な積雪の前には如何ともしがたく、何とか今日中に主稜線に達したいと思ったが夕暮れが迫っても登りの終りはまだ見えない。それでも近づいてはいるためか、雪煙混じりの風だけは次第に強くなる。平らなところもなく、仕方なしにわずかにのぞいた露岩の脇を掘り下げてテン場とする。
 テントに入るといの一番に靴を脱いで指を確かめた。が、確かめるまでなく、左右の親指共に凍って固まっていた。「おお、凍っとる!」、うれしくなるほど完全な冷凍状態であった。岡田に急ぎ湯を沸かしてもらい、解凍を行った。

ひたすらラッセル…


I12/30 晴れ
  出発(0745)−(0900)池平山−(1040)小窓−(1430)三ノ窓−(1550)池ノ谷乗越

 ラジオがそろそろ次の悪天を告げ出した。大晦日から元旦にかけて大きく崩れるという。これまでのようなラッセルが続くとしたら、恐らく明日までに本峰に到達するのが精一杯だろう。そこで捕まったら、、、10年前の悪夢が頭を過る。しかし食糧も燃料もたっぷりある、あれから何度か早月尾根を通過しルート概念も叩き込まれた。何より、今はそれを承知して行動している。「10年前とは違うんだ。」、そう自分を信じ込ませ、なるべく事態を楽観視する。

快晴の朝、出発準備


 今日も半分以上埋まったテントから這い出す。風も収まり、今朝も素晴らしい朝だ。前日に引き続きラッセルを続ける。今日は三ノ窓尾根と高度を競う。やがて主稜線が見え出し、尾根の傾斜がぐっと落ちた。時折クラストを踏み抜いて歩きづらいが、ついに丸3日振りに空身のラッセルから解放された。しかし荷を背負ってのトップは、しばらくやっていなかっただけに異常にしんどかった。とうとう主稜線に出た、眼前に富山湾が拡がる。「ああ、来たんだなあ、、、」、しかしまだ感慨が沸くところまで気持ちにゆとりはない。池平山を過ぎると、稜線は1ピッチの懸垂を交えつつ下り気味に続きやがて小窓へと急速に落ち込む。その先にはまず小窓ノ頭に至る急登が待ち受け、三ノ窓を経て、さらに池ノ谷ガリーの登りが舌舐め擦りしているかのように見える。本峰はさらにその奥、一体今日はどこまで進めるのだろう、、、
 小窓へは懸垂4ピッチ、最後の部分はずたずたにクレバスが走り何度もはまる。小窓からはここまでずっと履いてきたわかんをはずし、部分的にクラストした登りとなる。フロントポインティングとなる場面も出だし、ようやく冬の稜線歩きらしくなってきた。小窓ノ頭を過ぎると断片的にかつての記憶が甦り始めた、「ああ、確かここで雪洞掘ったよなあ、、、」。三ノ窓に向かう下りで再び懸垂1ピッチ、ちょっと緊張の必要なトラバースから登り返して三ノ窓に到着。頭の中では今日の行程はここまでを想定していたが、予想以上に順調だったこともあり池ノ谷乗越まで頑張ることとする。「ガリーと言うだけ、池ノ谷ガリーは(氷で)ガリガリ?」なぞという自らの究極のおやじギャクに呆れながら登りに入ると、これがまた!本当にガリガリ。アイゼンを軋ませ、50歩毎に息を整えながら行く。何度も何度も息を整え、そうやって池ノ谷ガリーを足下とする。そこが池ノ谷乗越、明日は大晦日だと言うのにまだ誰の痕跡もない。悪天に備え入念に整地しテントを立てた。中に入ると、まず前日同様に足指を解凍した。

<脱出!>

J12/31 曇り後風雪、馬場島は雨
  出発(0640)−(0930)本峰−(1330)早月小屋−(1730)馬場島

 食糧・燃料は十分あるからもし朝から悪いようなら連沈覚悟で停滞する案もあったが、とにかく動けるようなら少しでも早月に近づいておこう、というのが前夜の結論であった(内心凍傷のこともあったが)。日本海低気圧の恐さは身に沁みて分かっている、これまでと違いさすがにこの日は早めにシュラフから抜け出た。外に出ると街の灯が望まれる。しかし、心なしかいつもより空が低い気がした。風もなく不気味なまでに静かだ。それが"嵐の前の静けさ"ってやつであることを無論僕らは知っていた。払暁の中行動開始、乗越からの斜面をフロントポインティングで駆け上がる。明るくなるにつれて左後方に八ツ峰がはっきりと姿を現す。あんなに降ったのにこれまでになく真っ黒だ。人の気配は全くない、源治郎にもそれは感じられない。 時折現れるその先の見えない岩稜に手間取っている間に、空は西から明らかに次第々々に低くなって来た。部分的には白い触手が垂れてきているのさえ分かる。振り返ると、チンネや小窓ノ王が白い天井に隠されていく。長次郎コルへは念のため1ピッチの懸垂で降りる。ロープを回収している間に、遂に本峰への稜線が白くぼやけてきた。「急げ!」、そんなことしても無駄だってこと分かっていながらも、コルからの急登のラッセルに喘ぐ岡田に思わず声を荒げてしまう。その急登を登り切ると世界は一気に白濁した。風も烈しさを増し、足元がふらつく。視界はどんどん悪化する。その登りの先に剱岳本峰のピークがあると信じて、そんなことを何度も繰り返した。やがてトレイルが現れた。その先に見紛うことのない祠が見えた、やっと来てくれたか!このころ、僕らはすっかり烈風に包囲されていた。本峰到達の握手を交わすが感激など微塵も沸かない、「何とか視界が利くうちに2,800mを通過したい!」、それしか頭になかった。早月の最大の難所はシシ頭〜2,800mの間で視界を失った時だ。ホワイトアウトでは完全に尾根を見失う。「行くよ!」、写真を撮り終えた岡田にそう声をかけるが実は自分への叱咤である、「絶対に逃げ切ってやる!」と。ほぼ正面から吹き付ける雪は冷たい砂のように痛く、顔をあげているのが辛い。しかし幸いにもここからはトレイルが続いている、旗竿も立っている。これを追っていく。ところがいきなり早月尾根の下り口が分からない。風が強すぎてトレイルが飛んでしまったようだ。しばらく探して何とか見つけた。カニノハサミを過ぎ、シシ頭はトレイルは岩稜沿いに続いていたが自分の知っているトラバースのルートを採った。鎖場の通過までは良かったが、その先シシ頭の基部までは雪が深く緊張した。ステップを乗り越えて基部まで来ると、入れ違いで岩稜ルートに上がっていくパーティーとすれ違った。「ラッキー、間違いなくトレイルが使える!」、人を見かけるのは10日振りであったが、そんなことよりこれで下降の目処が立ったことに狂喜した。
 2,800mまでは順調に来た。「よし、逃げ切った!」とその時ほくそえんだのだが、これが時期尚早だったことが分かるにはそんなに時間を要しなかった。東大谷から吹き上げる風がとにかく強い。折角のステップも気温の低い雪がどんどん溜まってアイゼンが滑る。緊張を解く間がないまま2,600m手前の登り返しをこなし、待望の2,600mまで下った。「ここまで来れば安全圏!」という認識も直、打ち砕かれた。視界が悪かったこともあるが、何を血迷ったか僕は支尾根(東大谷左尾根)を下り出した。間髪置かず頭から転落すること二度。記憶ではこんなにも傾斜は強くなかった。岡田が地図を取り出し誤りを指摘し、登り返して早月に戻った。下降を再開した矢先にまたも転倒。頭から一回転、その先は東大谷への急斜面となり止まっていなかったら危ないところだった。これらはすべてハイ松の上にできたクラストに足を捕られたためであった。その後もこれまでの記憶にないほど尾根は細く、ようやく人心地ついたのはもう早月小屋も近い樹林帯に入ってからであった。ここまで、トレイルがなければ果たして逃げ切れたかどうか。今山行中の一番の悪場であったことは間違いない。
 早月小屋に到着し駐在の警備隊員に「おお来たか!」と話しかけられた時、ようやく自分たちが遥々黒部を越えて来たんだなあという実感が沸いた。いつも寝坊ですっかり明けてから歩き始め、そうただ歩き続け、幕営も明るいうちにしてしまう山行は、24時間登りづめの感覚からすれば実に燃焼感に薄いものであった。しかし、長期に亘って山に居続けるためにはそれぐらいのお気軽さがないとダメなのかも知れない。一方、内容的にもまたデポの件についても大きく後退し、平凡々なものに終わったことも否みようがない。それはさて置き、ここまで来られた最大の要因は多分岡田の献身的な働きぶりにあったと思う。テント内の生活技術が稚拙でとろい僕に対し、文句の一つも言わず水作りから食事の準備までをほとんど一手に引き受けてくれた。信州大谷原を出発してからの11日間を振り返るだけの余裕が初めて生じた。
 時間的に中途半端だったので馬場島目指してさらに下降を続ける。ここから先はトレイルも鮮明で機械的に足を動かすのみだ。しかし気持ちの張りも薄れてか、ザックの荷がどっと重くなった気がする。下るにつれ雪はやがて湿り出し、松尾平では雨となった。ここは何度か通過していながら実際に横切る距離は記憶よりも遥かに長い。トレイルが迷走し、以前にも間違えたところをルートと主張して遠回りをさせてしまった。そうこうしている間に日はすっかり暮れてしまった。正しいルートに戻るとその先に馬場島の灯りが見えた。やがて松尾平を抜け出し、馬場島に向かう最後の尾根に入り徐々に高度を落とす。あと20m、10m、5m、、、タッチダウン!平らになった道を岡田と並び、灯りを目指して除雪車の轍の上を歩く。そしてついに駐車場に足を踏み入れた。「おっしゃ、来たあ!!」、両手の拳を握り締めて僕は叫んだ。やっと来た、やっと辿り着いた、、、瞬間、何かがぐっとこみ上げてきた。
 2000年12月31日、17時半。ザックを指導センターの軒先に降ろした後、僕らは下山報告のために警備隊詰所の階段を上り始めた。

<20世紀のエピローグ>

 2001年1月1日。21世紀の夜明けは雪で迎えた。最後の伊折までの約3時間の道程に向けてゆっくりと朝を送っていると、「左京さん、一緒に乗っていかんか?」との声。雪上車に、である。聞くと今日上がってくる警備隊員を迎えに行く用があるとのこと。急ぎ荷物をまとめ、便乗させてもらった。予想外の展開に剱を振り返る間もなく猛烈な勢いで馬場島を後にすることとなった。いずれにしろキャタピラが巻き上げる雪煙で後ろは何も見えなかったが。でも本音は、覚悟していた歩きがなくなり助かった。このお陰で前夜すでに膨らんでいた左足の水泡は破れずにすみ、帰洛後の治療が容易となった。伊折からは引き続きマイクロに乗せていただき、警備隊の人と剱の話をしているうちにあっという間に上市駅に着いた。

 「恐ろしいものは?」と問われたら、おそらく今は何もない。挙げるとすれば、それは「冬の剱の悪天!」に尽きる。ちょうど10年前に本峰直下で出遭ったそれは、自分の足元の存在すら確認できない完璧なホワイトアウトだった。烈風の中、空と雪面の区別が全くつかず、「白い宇宙空間に漂うよう。」と表現すれば聞こえはいいが、それはまさに白い地獄に他ならなかった。最後は自衛隊のヘリに救出されることになったその時の経験は、山についてばかりでなく僕の人生の大きな転換点となった。それは、「どんなに抗ったところで人の力ではどうすることもできない領域があるんだ。」ということを知り、そのうえで「でもそれは最後の言い訳であって、それが本当に"最後"の言葉として使えるようになるまで、いつかそこまで行きつきたい。」と感じ始めたという意味合いで。それ以来、正月以外の黒部は興味が沸かなくなった。もしはまれば最終的には絶対勝てないことは分かっている、でも行く。なぜ?そのぎりぎりを見極められるところまで、どこまで自分が近づけたのか確かめてみたいからか。「勝ち目のないことは端からしない!」大人振った態度を認めてしまうことへの反発だろうか。「立ち塞がる壁は乗り越えたい。」、多分単純なことなんだろう。
 今回は何とか「神」の逆鱗に触れることはなかった。しかしこれだけ長期の、かつエスケープが限られた山行となると、ある程度天候の予測ができるとは言え、それはその時点での現在地にも因ることであって多分に運に左右されるのが本当のところではないだろうか。天候の件は別としても、この山行中「ほんとに行けるのか?」と思ったことは何度もあった。大滝尾根の頭への急登、南仙人山へのいつ果てるとも知れないラッセル、、、それを越えるごとに、僕は馬鹿みたいに「できちゃったよ。人間ってすご〜い!」って心底感動していた。でも多分、平地の生活で出合えぬ風景に感動することはあっても、基本的には山なんて苦しいことばかりだ。山は地図を見れば次の登りも予め分かるが、実はもしかしたらゴールの存在すら分からない日常の生活の方がもっと厳しいのが本当なんじゃないだろうか。だけど、僕の報告を読んで「山への思いを強くした。」って伝えてくれる人がいる、「あほちゃう?!」と言いながらも送り出してくれる人がいる。また、日々の暮らしの中でどんなに堪えても抱え切れない愚痴を聞いてくれる人がいる。家族ばかりでなく、そういう人たちが普段着の僕にエネルギーを分けてくれる。これらの人たちといる限り、僕はまた、頑張れる。 


Text  by 野村勝美     
Photo by 岡田忠雄&野村勝美
Edit  by NG