山行報告(2000年12月初旬 八ヶ岳連峰・阿弥陀南稜周辺継続登攀)
青い虚空にザイルを伸ばす
青い虚空にザイルを伸ばす
〜阿弥陀岳南稜/ししヶ岩第二岩稜にて〜



 今年、僕は夏以降には毎月のように山行を計画し、そのたびごとにレベルアップを図ろうとしていた。それが可能なのは今年をおいてほかにはないような気がしていたのは確かだ。僕自身、そして今年僕が再会した仲間たち、それらを包み込む強い流れのようなものを感じてもいた。
 そもそも今の僕の出発点となった二月初旬の阿弥陀南稜、あの山行ひとつを取り上げても運命的といえば運命的だ。レベルアップをしようとひとりでもがき続けていた僕と、そろそろ冬山に復帰せねばと考えはじめていたさわむらどん。かつての山歩会を知っている人間なら「なんでこのふたりがパーティを組むの?」と思ってもおかしくない組み合わせだった。事実、僕とさわむらどんが五月初旬に鹿島槍東尾根を登ったとき、五龍岳で出会ったにしやんは僕たちふたりの顔を見比べて「けど、なんで、このふたりやねん…?」と怪訝な顔をしていたことを覚えている。そのときさわむらどんが言った「すべては京阪電車からはじまったんや」という言葉も象徴的だ。
 そうだ。すべては僕とさわむらどんが通勤で使っている京阪電車で出会ったことからはじまったのかもしれない。
 阿弥陀南稜も鹿島槍東尾根も確かに僕にとってはステップアップだったが、おっかなびっくり的な力試しだったことは否めない。でも、それに対して夏以降、1回/月入山を目標として実践してきた山行は、僕にとって計画的かつ着実なステップアップだったと思っている。

 八月中旬、大峰山系芦廼瀬川本流(with KYO、完登)
 九月中旬、北ア・鹿島ウラ沢(with にしやん、完登)
 十月下旬、北ア・黒部別山左俣(with さわむらどん、にしやん、にしむー、完登)
 十一月初旬、北ア・明神岳東稜(with にしやん、黒部別山下山遅延で中止)
 十二月初旬、八ヶ岳・阿弥陀南稜周辺継続登攀(with にしやん、ルート変更、完登)

 特に最後の八ヶ岳はバリエーションルート五本継続登攀を狙っていた。立場川本谷遡行、ししヶ岩第二岩稜、阿弥陀南稜、赤岳西壁左ルンゼ、そして天狗尾根下降だ。ステップアップをめざした僕にとっては最後の総仕上げの位置付けだった。
 ここでは、僕にとっては今年最後の山行となる(はずの)八ヶ岳阿弥陀南稜周辺継続登攀の記録を記したい。
 ルート主要部分はルート図を参照されたい。

 また、僕のステップアップは、山行を共にした仲間たち、KYO、にしやん、さわむらどん、にしむーたちの力添えがなければ、僕ひとりではとても不可能だった。彼らのおかげで僕はジリジリと亀の歩みながらも這い上がることができたように思う。この場を借りて、みんなに御礼を言いたい。そして僕たちの山行を見守り、助けが必要になりかけたときには手を差しのべてくれようとしてくれた多くの山歩会の仲間たちにも。
 みんな、ありがとう。


 12/01(金)06:30 中央線茅野駅にて

 松本05:47発、高尾行普通電車が茅野駅に滑り込んだ。夜明け前、あたりはまだ薄暗い。かすかに薄明の訪れた東の空には雲が低く垂れ込めていて、八ヶ岳連峰を望むことはできなかった。昨夜、南岸低気圧が東進したはずだ。気象情報ではさほど大きくは崩れないとの予報だったが、路面はかなり濡れている。どうやら雨が降ったらしい。
 茅野駅で下車した登山者は僕以外に誰もいない。そう言えば、昨夜乗った「ちくま」にも登山者の姿はなかった。この普通電車を待ち合わせた松本駅など、シーズンの喧噪が嘘のように閑散としたものだった。秋には遅く冬には早いこの季節、そして今日はまだ金曜日、入山するのは僕たちだけのようだ。でも、僕たちにはこの季節が必要だった。立場川が結氷し、けれども深いラッセルに悩まされることがない、そんな季節。それを狙って十二月初旬に計画実施を設定したのだが、今年はやけに暖かすぎる。こんなに暖かくて立場川は本当に結氷しているのか。
 そんなことを考えながら跨線橋を渡り、茅野駅改札口に向かう。
「まいど!」
 改札口でにしやんの笑顔の出迎えを受ける。そう言えば、ここんとこ二回連続でにしやんとパーティを組んでるなあ。そして毎回、藪のなかを這いずり倒しているような気がする。で、今回が三度め。さて、どんな山行になることやら。
 にしやんは前日の最終特急で茅野入り、駅でステビバ(ステーション・ビバーク)したようだ。駅前の「養老の滝」で飲もうと思っていたのに、茅野駅に着いたときにはもう閉まっていた、と文句を並べている。
 僕たちはそのままタクシー乗り場に向かい、タクシーに乗る。
「舟山十字路へ」
 タクシーは夜明けの茅野の街を走り出す。
 町はずれではうっすらと雪化粧だ。よしよし! 山では雪だな! この季節、多少は積もってくれないとおもしろくないからな!
 三十分ほどで舟山十字路へ、料金は約6千円。このあたりの積雪は5cmほど。気象情報では天候回復は早いとのことだったが、はたして空を見上げると、あちこちに青空がのぞきはじめている。
 ここで装備分け。今回は8mmザイルと9mmザイル各1本を携行。8mmザイルは荷揚げ用、登攀は主として9mmシングルでやるつもりだ。このザイル2本をにしやんから受け取り、ザックに入れる。今回はにしやんのドーム・ツェルトを使うこともあって、僕はほとんど個装しか持っていなかったのだ。
 07:30、舟山十字路を出発、雪化粧の林道を立場川方面へ向かう。

 12/01(金)11:10 立場岳(2370m)付近

 単調な林道を歩く。にしやんとはいろんな話題で話が弾む。
 話題は主としてインターネット・オークション。僕にはまだ経験がないけれど、最近は新品同様の(?)山道具も出品されているらしい。僕たちもこれだけ山を続けていたら、買ったものの使いづらくて新品同様でお蔵入りになってる山道具というものはある。それをインターネットでオークションにかけないか、という話題だった。
 08:00に旭小屋前を通過、さらにしばらく林道を歩き、そして立場川に突入する。
 う〜ん、結氷…してないぞ? もうちょい標高が上がれば大丈夫かなあ。部分的に薄氷が張ってはいるがすぐに踏み抜きそうだ。僕たちは積雪に覆い隠された川原を拾いながらなおも進む。前方に小さなゴルジュが見えてくる。あそこは飛び石伝いに通過しなければいけないが、しくじると氷を踏み抜いてドボンだ。冬の入山前に靴など濡らしたくはない。だめだ、この程度の結氷ではリスクが大きすぎる。
 あかん、撤退や。
 08:45、僕たちは標高1860m付近から撤退開始。旭小屋に戻り、立場川撤退の場合に考えていたプランに従って、小屋の裏手から南稜に向かって登る。いったん南稜を登ったあと、ししヶ岩取付まで下降するのだ。二十分ほどの登りで南稜上、標高1820mに到達。空はいつしか晴れ渡り、弱いながらも冬の陽射しが僕たちに降り注ぐ。それにやっぱり積雪がありませんなあ。正面に大きくそびえる阿弥陀岳も黒々とした岩肌を見せている。どうやら今日は暑い登りとなりそうだ。
 ここからは樹林帯のなか、ひたすら高度を稼ぐ。
 11:10、立場岳山頂(標高2370m)、急登はここまでだ。ここまで登ると樹間に展望が開ける。北アルプスの山々は真っ白に雪化粧しているんだがなあ。やはり八ヶ岳はまだまだか。平坦な樹林帯をたどり、広く開けた鞍部に出る。ここが青ナギだ。ししヶ岩取付まで立場川沿いに行けない場合はここから下降することになる。ここの標高は約2350m、目的地であるししヶ岩取付の標高は約2250m、やや下りながらのトラバースだ。急傾斜のガレ場を樹林との境目に沿いながら下り、やがて樹林のなかへとルートを求めてトラバース気味に下っていく。

 12/01(金)13:50 ししヶ岩取付(標高2250m)付近

 やがて、深く切れ込んだ小さな沢に出会う。側壁は急傾斜なのでその沢沿いに立場川本谷まで下ることにする。やがて、下部にすごいゴルジュが見えてくる。左岸が一枚岩のオーバーハングとなったすごいゴルジュだ。最初は枝谷かと思ったが、地形図と見比べてみて、それが立場川本谷だろうと結論する。よくよくあたりを見回せば、部分的に赤いペイントのマーキングか残っている。さらによく見ればかすかな踏み跡も認められる。どうやら僕たちが見下ろしているのは立場川本谷核心部、大ゴルジュのようだ。ルートはこのゴルジュの右岸を大きく高巻いているはず。おそらく僕たちが見つけたペイントや踏み跡はその高巻きルートなのだろう。
 その踏み跡をたどりはじめるがやがて樹林のなかに見失う。おそらく踏み跡は高巻きを終えて、もう一度立場川本谷に戻ったのだろう。季節が夏ならばそれでいい。しかし、今は冬だ、しかも立場川の河床の結氷は遅れている。だから僕たちは本谷には戻れない。このまま高巻きを続けるしかないのだ。
 しかし、ししヶ岩が近づくにつれて僕たちが高巻く斜面の傾斜はますます強まる。灌木の藪漕ぎといやらしい急傾斜の草付きが交互に現れる。この草付き、落ちたら「痛い!」だけでは済まないなあ。悪い記憶がよみがえる。おいおい、ちょっと待て。また藪漕ぎと草付きトラバースか? なんで、毎回毎回、こうなるわけ? 鹿島ウラ沢、黒部別山左俣、そしてこの立場川、三回連続でこんな藪漕ぎと草付きの洗礼を受けるのはどういうこっちゃ? ここで、はたと僕は気付いた。その三回の山行の共通項に。にしやん? おお、にしやんか? にしやんと一緒に来たら、こういう山になるんやな?(にしむー、よく覚えておけよ!)
 やれやれ。僕は藪と草付きの洗礼を受けながら、ひとりあきらめの笑いを浮かべていた(笑)
 樹林越しにししヶ岩の岩壁が見えるようになると、僕たちはアイゼンを履き、半ば凍り半ば積雪に埋もれた急斜面を下って、立場川の河床に降り立った。かなり結氷は進んでいたが、ところどころ氷は薄く、川の流れが見えていた。薄氷の踏み抜きに注意しながらしばらく上流に向かって歩き、ししヶ岩取付下の川原に着く。
 ザックを置いて、ししヶ岩の偵察に向かうが、時間が中途半端。翌日のルートを確認して、今日の行動終了を決定。小さな空き地にかろうじてドームツェルトを張り終える。
「久々に水が豊富だなあ」と僕たちは笑い合う。鹿島ウラ沢でも黒部別山でも水には苦労した(苦笑)
 食事は新機軸、麻婆春雨どんぶりだ。ここ三回ほど、にしやんと山行を共にしてきて「これが旨い!」と意見が一致した。ひとつのコッヘルに作り、それを交互に回し食い。
 今回の酒はちょっと控えめ。ふたりでウイスキー800ccとビール3本。これが二晩分だ。冬の登攀でもビールにこだわるにしやんには脱帽。けど、寒いなかのビールでもやはり旨かった。
 ラジオが意外なほどよく入る。気象通報を流し聞く。そう言えば、最近、気象通報を記録したことがない。午後4時に行動を終了していることがめったにないからだ。今日正午、富士山頂で気温マイナス13度。ほう、けっこう冷えたな。確かに今ここの気温はマイナス10度ぐらいだ。しんしんと冷え込みを感じる。やがてニッポン放送を聞きながら僕たちはウイスキーを飲む。そして身体が暖まったところで、20:00過ぎには就寝。翌日からはいよいよ激しい登攀がはじまるのだ。

 12/02(土)07:40 ししヶ岩第二岩稜、登攀開始

「おい、NG、起きろ」という声とともに脚をどつかれた。
「ん、ん〜、あれ、もう5時半やんか!」
 ふたりとも熟睡。で、またまた寝過ごした。おもむろに起きあがり、シュラフにくるまったままで、湯を沸かす。まずは朝の一杯のコーヒーだ。にしやんと山にくるとこれが日課(?)になってしまった。だいたい僕は下界ではめったにコーヒーを飲まない。そんなにコーヒーが好きではないのだ。けれども、山の朝のこの一杯のコーヒーだけはなぜか旨いのだ。
 朝食はマルタイラーメンで簡単に済ませて、ドームツェルトから外に出る。眼前に圧倒的な大きさでししヶ岩が屹立している。立場川本谷からの標高差は300mほどもあると言う。今日、この岩壁を登るのだ。最上部にはすでに鮮やかな朝日が射していた。
 崩れやすい急傾斜のガレ場を詰めて、ししヶ岩の基部へ向かう。積雪はほとんどない。南向きの斜面なので昨日の日照で融けてしまったのだろう。『日本登山体系』(白水社刊)にはししヶ岩のルート図が掲載されているが、どうもそのルート図と実際の岩場はイメージが異なる。だから、そこで紹介されているルートの取付点もよくはわからない。まあ、それならそれで僕たちは僕たちなりにルートファインディングをするだけだ。何も登山体系のルートをそのままなぞるためにやってきたわけではない。
 ししヶ岩第二岩稜の基部を中央ルンゼ側に回り込む。ガレ場はいつしか草付きの急斜面となり、僕たちは第二岩稜の側壁に取り付く。スタンスは階段状になっており、何気なしにノー・ザイルで登りつめていくが、ふと振り返ると圧倒的な高度感だ。やがて草付き混じりの岩壁が現れ、僕たちはなおもノー・ザイルで登る。登山体系では1ピッチめがV級+のグレードだったけれど、それはここのことなのか、それとも僕たちはちがうルートに取り付いているのか。小さなテラスが現れ、そこからはややハング気味の岩壁基部をバンドに沿ってトラバースすることになる。先行するにしやんはすでにトラバースを終えている。かなりの高度感がある。ここで落ちればまず確実にアウトだ。
 ここのトラバースはちょっと渋いなあ。おそらく大丈夫だろうけれど、でもちょっと不安だ。
 それがそのときの正直な感想だった。空身ならまったく問題ないだろう。でも僕の心身はまだこの岩壁に馴染んでいない。これは前回、黒部別山左俣登攀のときに感じた不安と同じだった。あのとき滑落したのも心身があの谷に馴染む前のことだった。でも馴染んでしまったあとはビビることもなく登攀が継続できた。僕の場合はたぶんそうなのだ。
「にしやん、ちょっと渋い。ザイルを出そう」
 ここまでノー・ザイルで登ってきたのだ。そろそろ出してもいい頃だった。
 そこからはザイルで確保しつつ、隔時登攀を続ける。2ピッチめもまだ草付き混じりだったが、僕たちは快調に登り続ける。権現岳の稜線を越えて朝日が射し込み、冬の穏やかな陽光が僕たちを温めてくれる。いや、正直なところ、暑いぐらいだった。
 3ピッチめ、いよいよ僕たちの眼前に岩壁が立ちふさがる。残置されたピンが何もない。どうやら僕たちはノーマル・ルートを外しているようだ。急峻な草付きのテラスで灌木にセルフビレイ(自己確保)を取りつつルートを検討する。右側の凹角から取り付いて、バンド沿いに左上、左カンテのスカイライン上を登る、それが妥当なルートに思われた。しかし、ホールドは細かく、部分的にはかなり脆そうだ。
「荷揚げが必要になるかもしれないから、8mmザイルを出そう」とにしやん。
 ここでメインの9mmザイルに加えて8mmザイルを出す。あくまで9mmザイルをメインにしてシングルで登坂するのだが、岩壁途中で行き詰まった場合、そこでザックを下ろして空身で登り、あとでザックを荷揚げするのだ。
 にしやんは最初にルートを読んだ通り、右手の凹角を直上、すぐに現れるバンドを左上していく。しかし、カンテのところで行き詰まる。プロテクションが取れず、にしやんはそこでピトンを打つ。しかし、頼りなげな音しかしない。あのピトンは利いていないぞ。
「あかんな。ここでザックを残置して、あとは空身で登るわ」とにしやんの声が頭上から降ってくる。ザックを下ろしてピトンにぶら下げたにしやんはそのあと慎重にザイルを伸ばして、カンテを乗り越えていった。
 やがてにしやんからコールがかかり、今度は僕だ。プロテクションを外しながら、凹角を直上、バンドを左上。カンテでにしやんの残置したザックを回収、8mmザイルに結びつける。アイスバイルでピトンを二、三回叩くと簡単に抜けた。
 こりゃ、気休めプロテクションだよなあ。落ちとったらとても止められんわ。でもそのリス(小さな割れめ)以外にピトンが打てるところはなかった。
 そこからがかなり渋い。ホールドは細かく、やはり脆い。途中でにしやんのザックを荷揚げをしながら登るが、バランスがあまりに悪く、あとでふたりで引きずり上げることにしてザックを放置、とにかくそこを登り切った。そのあと、にしやんがひとりで超人的パワーを発揮、8mmザイルをたぐり上げてザックを回収する。
「ここ、X級はあったぞ? 俺はW級までならザックを背負ったままでもトップで登れるからな。けど、ここはザックを背負って登って、途中でビビったらパニックに陥ったやろな。プロテクションも全然利いていなかったからな」とにしやん。
 なるほど、これがX級のピッチか。僕はただそれだけを感心していた。
 次の4ピッチめは問題なく僕がリード、ザイルが伸びきったのであと一歩のところで鞍部に届かず、草付きの灌木でビレイ、そのまま、釣瓶式に5ピッチめはにしやんがリードする。
 その鞍部からは一枚岩が屹立し、直登を嫌ったにしやんは右側に回り込んでトラバースをはじめたようだ。しかし、ザイルの伸び方が異様に遅い。にしやんはいつもだいたい快調にザイルを伸ばす。しかし、このピッチでは全然伸びないのだ。ということは、それだけ難しいピッチなのか。でも、鞍部のこちら側で確保している僕にはにしやんの動きがわからない。それでも少しずつザイルは伸びて、ようやくにしやんからコールがかかった。
 やがて僕にもその困難さがわかった。すっぱりと切れ落ちた一枚岩の中程にバンドが走っており、それに沿ったトラバースを強いられるのだが、岩壁がバンドの上でハング気味に張り出しているのだ。しかもそのバンドの中間点付近に、まるで断層のように切れめが入り、1mほどバンドが切れ、1mほど高いところにバンドが続いている。そして切れた先のバンドにも岩壁がハング気味に張り出しており、そこには細い灌木が密生している。その灌木に「気休め」プロテクションが取られているようだ。
 どうにもこうにも悪い。岩は風化が激しくボロボロで確実なホールドが得られない。そんな状態で、幅、高さともに1mもある「断層」を乗り越えなければいけない。細かいホールドに指先をかけるため、ここで僕は手袋を外した。
 断層をまたぎ、慎重な動きで体重を移し、右手を新たなホールドにかける。いかんなあ、こりゃ脆そうだ。ゆっくりと体重をかけて身体を引き上げようとした途端、右手のホールドが欠け落ちた。
 そこから2mほど墜落、灌木に取られた「気休め」プロテクションは瞬時に吹っ飛び、さらに5mほど墜落。ふたつめのプロテクションでかろうじて止まる。7〜8m近く振られただろうか、身体は大きく振り子のように振られて、岩壁から突出したリッジに激突するがかろうじて右手で身体をかばう。しかし、そのせいで右手甲に深い裂傷を負う。
 やれやれ、また墜ちたぞ? いかんなあ、最近、墜ちグセがついちまった。
 しばらくザイルにぶら下がり、僕は呼吸を整える。大丈夫、落ち着いているぞ。右手甲はちょっとした出血だ。やれやれ、ほんとに生傷絶えないよな、最近は。
 下を見下ろすと、50mほどストン切れ落ちており、そこから急傾斜のガレ場が続いている。ん〜、なかなかの高度感だ。9mmザイルシングルでぶら下がるのはあまり心臓にはよくないぞ。
 さて、どう脱出するか。
 ぶら下がっている岩壁は垂壁に近く、直上での脱出は不可能だ。とりあえず、元のルートに戻るしかあるまい。左手5mほどのところに小さなテラスがある。にしやんにコールをかけ、若干ザイルをダウンしてもらい、振り子トラバースの要領でそのテラスに戻る。しかし、やはりハング気味。腕の支持がなければ立っていられないテラスだ。腕の筋肉が萎える前に脱出しないと。ホールドとしている岩角にテープをかけてアブミ代わりにしようとするが、そっと体重を移すだけで岩角が脆くも剥がれ落ちる。なんじゃ、こりゃ? ボロボロの壁やんけ? 周りを見回すも、まともなホールドもスタンスもない。どうやれば元のルートに戻れるのか。手先で岩壁を撫で回す。指先半分ほどのホールドを見つける。えい、これを使って強引に上がるしかないじゃないか。
 えいっと気合いを入れたワン・ムーヴでハングを何とか越え、ようやく元のバンドに戻った。しかし、これではただ振り出しに戻っただけ。このバンドの「断層」を越える手段を見つけないと。
 ハング気味のバンドで岩壁を観察、撫で回してホールドを探す。見つけた。あるにはある。多少無理な体勢になるが、微妙な体重移動で乗り越えるしかない。体重移動の算段を考え、深呼吸したあと「1、2、3…」と心のなかで数えつつ、微妙なムーヴをこなし、体勢が崩れる寸前に灌木の束をつかむ。こいつは絶対放さへんで〜、こいつを放したら再墜落じゃ! 腕力で強引に身体を迫り上げて「断層」を越え、上部バンドに移る。よっしゃ、勝ちじゃ!
 そのあとは草付き混じりの脆い岩壁、何とかかんとか、確保してくれているにしやんのそばに這い上がる。
「お〜、ご苦労さん」とにしやん。
「いやあ、参った、プロテクションが一個飛んだ!」と僕。折れた灌木に巻き付いたままのテープを見せる。
「どのくらい振られた?」
「数mぐらいかなあ」
「下のテラスから登ったのか?」
「いや、あそこはハングで登れなかった。それで…」と僕は脱出の顛末を話す。

 12/02(土)12:30、ししヶ岩第二岩稜、登攀終了、標高2505m付近

 そこから上部を見上げると、コルが見えた。おそらくあそこが終了点だろう。
 そのまま、僕がコルに向かって岩屑の斜面を右上してコルに至る。樹林の向こうに無名峰が見える。登攀終了だ。
 ザイルを巻き終え、踏み跡をたどって阿弥陀南稜に戻る。積雪、ほとんどなし。
 これじゃ、夏と同じだなあ。
 それでも僕には感慨深いものがある。今年2月初旬に、僕はさわむらどんとここを登った。天候は吹雪、視界ゼロ。積雪は太股から場所によっては腰までの深さ。トレースなどまったくなく、ラッセルにラッセルを重ねてここを登ったのだ。そのときには視界がなかったせいで、どこが無名峰やら、P1やらまったくわからなかった。阿弥陀岳本峰の姿さえまったく見ることはできなかったのだ。ところが今日は穏やかな冬晴れ。群青色の空に黒々とした阿弥陀南稜がくっきりと映えている。ほんと、穏やかな山だ。
 ここからはひたすらに阿弥陀南稜を登りつめるだけだ。
 右手前方には天狗尾根を従えた赤岳が見える。あの岩峰が大天狗、小天狗なのだろう。権現岳のむこうには富士山。左手には真っ白な北アルプスの山々の大展望が広がっている。
 13:30、P3ルンゼ取付。ここまでは積雪もほとんどなかったが、さすがにP3ルンゼには雪が詰まっている。慎重に登りはじめて…、今日何度めかの「何じゃ、こりゃ?」一昨日の積雪の下は完全な氷だった。2月はここもすごいラッセルだった。しかし、僕はもうアイゼンなしで登りはじめてしまっている。滑落すると非常にやばい。すぐさま張られているフィックスロープにプルージックで確保を取る。そして慎重に登り、わずかに氷棚となったところで、セルフビレイを取ってザックを下ろし、アイゼンを履く。さすがにほっとする。そこからはアイゼンとシングルアックスでの快適な登攀だ。
 P3上で、にしやん曰く「P3でフィックスロープに頼ったのはこれが初めてやな」と。結局、にしやんはアイゼンをつけずにこの氷を登り切ったのだ、やれやれ。

 12/02(土)15:10、阿弥陀のコルでビバーク、標高2650m付近

 さらに南稜最上部を登りつめ、14:30過ぎ、阿弥陀岳山頂(2805m)に立つ。初冬の陽光がまぶしい。とりあえず、にしやんと握手。眼前には黒々とした(泣)赤岳がそびえている。明日は赤岳西壁左ルンゼの登攀予定なのだが、これだけ積雪が少ないとちょっと問題だなあ。ここまで登るともう一般ルートだ。12月初旬の中途半端な季節とは言え、今日は土曜日。登山者の姿もちらほらと見える。そこから急な下りを阿弥陀のコルへ向かう。
 上層には絹層雲がかかりはじめている。次の気圧の谷の前兆だ。予報によると、この気圧の谷の後面には今冬いちばんの寒気が流入してくるらしい。こいつにはつかまりたくない。
「まあ、とりあえず、阿弥陀のコルでビバークして明日の天候を見極めようや。ここで行者小屋まで下ってしまったら、ビール漬けになってそれまでになってしまうで?」とにしやん。
「了解、了解。左ルンゼはともかくとして、もう一本、主稜でもいいから登りたいもんな」と僕。
 いちばん怖れていた飲料水の確保については、阿弥陀のコルに少ないながらも積雪があり、問題解消。ここでドーム・ツェルトを張ってビバークを決定。そして、明日は午後から天候悪化と予測し、天狗尾根下降は中止。朝の天候を見極めつつ、赤岳西壁主稜を登攀することに決定。
 幕営準備を終え、雪を溶かして水を作り、そういった作業を終えたあと、にしやんが担ぎ上げた貴重な1本のビールをふたりで分け合う。やっぱり冬山でもビールは旨いなあ。昨日はちょっとリッチな食事だったが、今日はお決まりの貧相なジフィーズ(登山用乾燥食品)だ。しかし、それ以外の食べ物がすごい。ソーセージ、カマンベールチーズ、その他もろもろ。食料を切りつめたらもっと軽量化できただろうに(笑) それらを食しつつ、ウイスキーを飲み、山を語り、そしてラジオを聴く。今日正午の富士山頂、気温マイナス10度。昨日よりは冷え込みが緩んだようだ。民放に合わせると宇多田ヒカル特集をやっている。「First Love」なんかが流れたりして泣けてくるなあ(笑) 空は再び晴れ上がり、満天の星。素晴らしい星空だ。いつものくせでアンドロメダ大星雲を探す。あった、あった。そう言えば、こないだの黒部別山でのビバークのときも怖いぐらいの星空だったなあ。ふと地上に眼を移すと、どこの街灯りだろう、あれは甲府か韮崎か、遠くに美しい街灯りが見える。
 おい、もう下界ではクリスマスの雰囲気むんむんなんだよ、なのに、なんで俺たちはこんなところで野郎同士、寒さに震えているんだよ。こんなことを自嘲気味に語り合いながら、いつしか僕たちは眠りにつく。

 12/03(日)08:30、赤岳西壁主稜、登攀開始、標高2700m付近

「おい、6時だ、起きろ!」
 相変わらず、僕たちは寝過ごした。やれやれ、それだけ昨夜は暖かかったということか。ただ、眠りは浅かった。
「そう言えば、おまえ、夜中にうなされていたぞ」とにしやん。
「そうそう、久々に金縛りにあったもんなあ」と僕。金縛りがある限り、僕の感性は衰えていないのかな(?)
 相変わらずのマルタイラーメンを味わうことなく流し込み、天幕撤収、登攀準備。
 07:30、阿弥陀のコル発、中岳を越えて赤岳中腹まで登りつめたあと、文三郎尾根を下降、その途中から赤岳主稜に取り付く。
 赤岳主稜の取付点はガイドブックの写真などでお馴染み、チョックストンがかかったチムニー状。
「お〜、ガイドブックで見たことあるぞ〜」と笑いながら、僕。
「もう一般ルートと同じぐらいポピュラーなんやな」とにしやん。
 確かにその通り。
 ここで登攀に不要な装備をデポ。登攀装備だけを持って主稜に向かう。
 ちょっとした登攀要素があるのは取り付きのチムニーとその上の1〜2ピッチだけ。あとは積雪も少なく、不快なガレ場の登りだ。しかも至るところに赤いペイントだのテープだのがあったりする。これがいわゆる「バリエーション・ルート」なんだもの。赤岳主稜はもう登るべきルートではないのかもしれない(もちろん厳冬期のシビアな条件下だったらそれなりにおもしろいだろうとは思う)
 取り付く頃から雲行きが怪しくなっていたが、もうすでにガスで視界が閉ざされている。展望が素晴らしいはずなのに楽しむこともできず、ただただガレ場を登りつめていくだけだ。ザイルで隔時登攀をしたのもほんの少しだけ。あとはコンティニュアス、もしくはノー・ザイルでの登攀だった。
 ところどころで、主稜左手に伸びる左ルンゼをのぞき込むが、状態は非常に悪い。積雪がないために脆い岩屑がむき出しになった状態で非常に崩れやすい状態だった。にしやん曰く「煉瓦の壁が崩れ落ちた」状態。こんなところは登りたくない。
 二時間ほどで赤岳山頂直下の一般登山道に突き上げる。10:30、登攀終了。
「あっけなかったなあ」と僕。
「だから言ったろ? 主稜なんかおもろないって」とにしやんが笑う。
 とりあえず、赤岳山頂(標高2899m)を踏むが、登山者で賑わっているのでそそくさと退散。文三郎尾根まで戻り、取付点でザックを回収、あとはただ文三郎尾根を駆け下るだけだ。
 11:50、行者小屋着。週末は営業しているかと思われた行者小屋は閉鎖されていた。ビールをあてにしていた僕たちはがっかり。ここで装備を分担しなおし、最後のコーヒーを沸かす。
 12:30、行者小屋発、美濃戸に向けて下山開始。

 ここから先はもう安全地帯だ。天候等の条件で予定どおりバリエーションルート5本継続登攀こそできなかったが、ししヶ岩第二岩稜はしっかり登った。これはいい経験だった。それを含めて3本継続は達成した。確かに積雪は少なかったけれど、充実した山行だったことは確かだ。
 それまで続いた緊張が解けはじめ、次第に安堵感、満足感が取って代わる。
 最高の時間。
 林床に積雪の残る冬の森を歩き下りながら、僕はわき上がる微笑みを抑えることができなかった。