山行報告(2000年10月下旬 北ア・黒部別山谷左股登攀)
秋色に染まる岩壁を登攀する
〜黒部別山谷左股、大スラブ最上部にて〜



今回の黒部別山パーティの下山遅延に関しまして、
関係者の皆様に多大なるご心配、ご迷惑をおかけしましたことをお詫びするとともに、
ご多忙のなか、迅速な救援体制をとっていただいたことに感謝致します。


 十月下旬、黒部別山谷を登攀した。メンツは、さわむらどん、にしやん、僕、西牟田の4人だ。
 もともとこの時期、さわむらどんとにしやんが奥鐘西壁中央ルンゼ〜唐松岳継続を計画していた。僕自身、その山行に参加したいと思いつつ、今の自分の実力で奥鐘西壁中央ルンゼを登ることができるのか、はなはだ自信はなかった。しかし、にしやんが僕たちに紹介した『黒部へ』(志水哲也著)をきっかけに、さわむらどんの久恋の山、黒部別山左股へと計画は移っていった。黒部別山左股なら僕でも登れるかもしれない(何の根拠もないんだな、これが、笑)と考えた僕は、さわむらどんとにしやんに同行を申し込んだ。
 そんな矢先だ、オーストラリアのバイク横断旅行から帰ってきた西牟田から連絡が入ったのは。「トランゴをめざして、フリークライミングのトレーニングをはじめたい」と。さわむらどん、にしやん、僕の三人は寄ってたかって、西牟田を責めあげる。「フリーもいいけど真髄はオールラウンド・クライミングだぞ!」「本チャンに行かずして、トランゴが登れるか!」「おまえも黒部別山に来い!」「本チャンに行くと言うまで、ビンタオヤジからビンタされまくりやぞ!」(笑)
 かくして、西牟田がこの計画に加わった。彼にすれば十年ぶりぐらいの本チャンだ。本チャンへの復帰第1戦がこの黒部別山左股なのだ(彼の勇気(蛮勇?)には敬服するなあ) いかにも山歩会的なパーティ編成だ。山歩会のよき(悪しき?)伝統だ。
 そして、どうせなら、と僕たちは欲を出してルート・日程を以下のように決めた。

 第1日 京都&上野=魚津=宇奈月温泉=欅平−阿曽原−十字峡(泊)
 第2日 −黒部別山谷出合−大スラブ登攀−R3−ビバーク適地(泊)
 第3日 −黒部別山南峰−ハシゴ谷乗越−内蔵助谷出合−黒部ダム=信濃大町

 2泊3日予備日なし、かなりの強行軍が予想されたが、過去の資料を調べる限り、決して不可能ではなく、勝算は十分にあった。
 そして、僕たちは出発した…。


 10/21(土)曇のち時々晴れ
 05:40 北陸本線魚津駅にて

 05:00過ぎ、夜行急行「きたぐに」から下車する。いつものことながら、この「きたぐに」の座席は最低だと思う。もともと電車式三段寝台車両を座席車両として使用しているのだ。中央本線の夜行急行「ちくま」が特急用車両(「しなの」と同型)を使用しており快適にリクライニングできるのに比べて、この差はいったい何なんだ? 北陸本線は冷遇されているのか? 北陸人よ、怒りに立ち上がれ! ま、ともあれ、京都から乗車したさわむらどんと僕は、当然、こんな非人間的な座席など使用しない。さわむらどんは荷物棚で場所を確保、僕は更衣室の床を確保、ごろ寝で寝ることにしたのだ。
 1ヶ月ぶりの魚津駅。まだ2回めだというのに妙に懐かしい。これから僕はこの魚津駅に通いつめるような、そんな予感がしないでもない(?) ここで上野発夜行急行「能登」の到着を待つ。京都組のさわむらどんと僕、東京組のにしやんと西牟田はここで合流。今回は4人パーティだ。
 まもなく、にしやんと西牟田が「能登」から下車してきた。
 片手を挙げて「まいど!」といういつもの山歩会式挨拶が交わされる。いつ会っても山歩会の連中は変わらない。嬉しくなる。「能登」ではラウンジカーで寝てきたとのこと。乗客数をカウントしつつ運転している廃止間近の「能登」の方が、なんで北陸本線のメイン夜行「きたぐに」よりええねん!
 天候は曇り。昨日、気圧の谷が通過した。糸魚川あたりでは土砂降りだったらしい。魚津の空はまだ曇っているが、雲の切れ間からは朝の光が射し、天候の回復が感じられる。

 09:00 黒部峡谷鉄道欅平駅にて

 秋の紅葉の季節、トロッコ電車は観光客で満席状態だった。下界を引きずり込んできたかまびすしい観光客たち! でも彼らともここでお別れだ。ここからの入山者が数パーティあるも、中高年パーティばかり。彼らはどこに行くのだろう? 阿曽原から仙人池方面だろうか。
 欅平駅からいきなりの急登、標高差約300mを登り切ると、水平道となる。ここから黒部川に沿って、標高950m±30m程度を維持しながら阿曽原まで、まさに文字通りの水平道が続く。大正及び昭和初期にかけての黒部川電源開発時代に作られた歩荷(ぼっか)道だ。途中、奥鐘西壁が圧倒的な高度感をもってそそり立っている。その岩壁を眺めるとき、僕たちはしっかりと立ち止まる。この水平歩道、及びさらに上部の日電歩道を歩くときには景色を眺めながら歩くことは禁物だ。道幅はせいぜい1m、ちょっとつまずくだけで高さ百mほどの断崖絶壁を黒部川の谷底まで転落しかねないのだ。色づきはじめた紅葉のなか、僕たちは進む。
 …とまあ、水平道の記述は、1ヶ月前「鹿島ウラ沢」の記録でも記載したので、そちらをご覧頂くとして、前回記載していない何点かの情報等を記載することに留める。

「志合谷」
 1ヶ月前には下部ではブロック崩壊が見られたものの、水平道付近は残雪に被われていた。今回はズタズタに切り裂かれており、いつ崩壊してもおかしくない状態。ここは志合谷をくぐる長いトンネルで抜けるので、入口でザックからヘッドランプを取り出し、さて、トンネルに入ろうかと思った矢先…。
 ドッカーン、ドドドーッ、という雷鳴にも似た爆音が黒部の谷に充満する。一瞬、何が起きたかわからず、地震かと思って緊張するが、眼前でまさにスローモーションビデオのように(陳腐な表現だけど、ほんとにそうだった)志合谷のスノーブリッジが次々と崩壊していっているのだ。僕たちは唖然として顔を見合わせ、口々に叫ぶ。
「いやや〜ッ!」
「やめてくれ〜ッ!」
 というのにも訳がある。実は、今回入山しようとしている黒部別山谷の出合付近にはズタズタに崩壊しかけているであろうスノーブリッジが残っていると予測されているのだ。僕たちが入山したときにあんな崩壊が起きたら? ひとたまりもなく、僕たちは押し潰されるだろう。
「あんなブリッジが残っていたら、即、撤退やで?」
「あたりまえやないか!」
「すぐにチムニー状ルンゼに逃げような?」
「了解、了解!」
 僕たちは方針を確認しあう。こんなズタズタのスノーブリッジがある別山谷なんかに誰が入るものか。
 しかし、そのときの僕たちには、そんなスノーブリッジの連続する別山谷にまるで魅入られたかのように踏み込んでいくことになるとは予想もしなかったのだ…。

「高熱隧道付近」
 阿曽原小屋でやはり誘惑に負けた僕たちは缶ビールを買ってしまう。でも阿曽原峠へのひと登りでアルコールは汗として吹っ飛んでしまう。秋の実りをむさぼるサルの群を眺めながら林のなかをしばらく歩くと、突然、コンクリートの建物2棟が現れる。こんなところにいったい何なんだと思うが、ここは関西電力人見平寮だ。この付近には黒部第四発電所や黒部第三発電所の取水口となる仙人ダムがあり、四季を通じて多くの人々が働き、生活している。そうい職員のための寮だった。
 そこから先、登山道は仙人ダムの施設のなかを通ることになる。僕たちが通る通路の向こう側は小説でも有名な高熱隧道が山腹を貫いている。熱水源(つまり温泉源)があるために、トンネルのなかはサウナ状態。高熱隧道近くでは壁から硫黄が染み出し、タマゴの腐ったような独特の臭いが充満している。僕たちはトロッコ電車を欅平で降りたが、実はトロッコ軌道はそこから先、はるかな黒部第四ダムまで地中深く延々と続いている。関西電力専用軌道だ。この軌道を使って、発電所やダムの保守管理のために人々が往来している。その軌道の一部が高熱隧道となっているわけだ。

 15:30 十字峡にて

 仙人ダムを過ぎ、東谷出合近くにかかる吊り橋付近からあと、半月峡のあたりまで、次々と登山者たちとすれ違う。その多くは例によって中高年グループだ。なかには小学生ぐらいの子どもに腰ひもをつけて歩いていた親子三人連れもあった。そして、彼ら全員に共通するのは、誰もがみな表情がこわばっていることだった。大集団とのすれ違いだから、当然、僕たちが道を譲らざるをえない。ここ日電歩道は岩壁をくりぬいた細い道だ。すれ違うのも容易ではない。しかし、誰もがみな、道を譲る僕たちに礼ひとつ言わず、黙々とすれ違うだけだ。その理由は、翌朝、判明することになる。
 S字峡付近の紅葉を眺めながら延々と歩き、ふと吊り橋が現れる。十字峡だ。欅平から阿曽原まで約4時間、そして阿曽原から十字峡まで約2時間、予定よりも早く、15:30頃には十字峡に着いた。ここで黒部川本流に東側から棒小屋沢、西側から剣沢が合流しているのだが、まさに十字の形にぴったりと合流していることからこの名前が付いた。自然の造形は、ときにさまざまな偶然を働かせるものだ。
 今日はここで幕営予定だ。運よく小さな広場状のところがあり、そこで快適に幕営する。ただ、水が得られない。眼前に豊かな水流があるのだが、断崖の下、数十mもの彼方だ。剣沢にかかる吊り橋のたもとからザイルを下ろし、剣沢の水を汲み上げる。憧れの剣沢大滝から流れ落ちてきた水だけに、にしやんの感激はひとしおだ。
 さて、僕たちはここで装備を解き、天幕を張るのだが、なんや、どのザックからもどのザックからもゴロゴロと酒ばっかりが転がり出てきよるで? いったい僕たちは何をしにきてんねん?(酒飲みにきてんねんけど?) あまりの多さに、酒、全員集合! で、全員集合写真を撮りました。
 ざっと点呼を取ります。
 スコッチウイスキー: 800cc
 バーボンウイスキー: 400cc
 ワイン      :2000cc
 日本酒      : 900cc(with ふぐのヒレ)
 ビール      :4900cc
    合計    :9000cc

 まあ、1cc=1gと簡単に換算しても、装備軽量化に血道を上げてきた僕たちは、実に9000cc=9kgのアルコールを担ぎ上げてきたのだった…。しかし、結果的に言うならば、これらの酒はたった二晩で消費し尽くされ、しかも二晩めの半ばには「おい、もう酒はないのか?」「酒が足らんぞ!」との言葉が交わされることになったのだ。

 その晩、僕たちは酒を飲みながら語り続ける。話題の中心は僕たちの組織の名称だ。
「京大山歩会同人「黒部の牛」っちゅうのはどうや?」
「う〜ん、牛ねえ、どうも昔の「牛」のイメージがあるからなあ」
(以前、山歩会には「真昼の牛」という同人があった。もう二十年も前…)
 そのあとも「黒部の灯」「黒部のねずみ」「黒部のおっさん」「黒部の虫」など、抱腹絶倒的名称、もっとたくさん候補が挙がったのだが、あれ? 覚えていない? そうだ、記憶を失ってしまったのだ。だってシュラフに入った記憶さえ、僕にはまったくないんだもの…(汗) 少なくとも、ワイン、日本酒を飲み尽くし、ビールとウイスキーの半分は飲み尽くし、僕たちは完璧な酔っ払い状態で眠りについたのだった。

 10/22(日)晴れのち曇り
 08:30 黒部別山谷出合(標高1050m)にて

「おい、もう五時半だぞ!」
「しもた〜、寝過ごしたか〜」
 という会話とともに、僕たちは飛び起きる。
 あまりに快適な酒、あまりに快適なテン場、あまりに快適なシチュエーション…、で結果として僕たちは1時間ほど寝過ごした。この1時間の遅れが、あとでどのような結果を招くかも知らずに。
 07:00、十字峡を出発。黒部川をさらに上流へたどる。両岸が屹立し、黒部川本流に巨大スノーブリッジが現れると、下ノ廊下核心部である白竜峡も近い。
「おい、なんだ、あれ?」
「こいつはすごい!」
 ここで僕たちの疑問は氷解した。昨日、すれちがったパーティの誰もが引きつった表情をしていた理由、それはこの白竜峡にあったのだ。日電歩道のこの部分だけは岩壁をくりぬいた道を造ることができず、岩壁の表面に杭を打ち、そこに丸太を掛け渡すいわゆる「桟道」となっているのだ。それは、昔も今も変わらない。ここは非常にスリリングだった。もしかしたら、今回の山行の全行程中、いちばんスリリングだったかも、と下山後も全員の意見が一致。スノーブリッジなどとはちょっとちがった種類のスリルだ。そのあとも岩壁を穿った道をたどり、僕たちはさらに上流をまざす。
 そして、黒部別山谷出合だ。
 何だ、このスノーブリッジは? ズタズタに切り裂かれているじゃないか!
 僕たちはしばし呆然として、出合スノーブリッジを見上げる。しかし、なぜか、撤退しようという言葉は誰からも出なかった。まるで魅入られたかのように、僕たちはどこを登るか、どうすれば登れるかを検討しはじめていたのだ。ちょっとした困難を突きつけられると、意外とあっさりあきらめてしまうことがある。しかし、圧倒的困難を突きつけられると、むしろ敵愾心を燃やして、逆にその困難に挑んでしまうことがある。もしかしたらそんな心境だったのかもしれない。
 それでもどこか気が進まなかったのだろうか。登攀具を身につけ、ルートを探し、水と行動食を摂り、約30分近くを出合でついやして、09:00少し前、僕たちは黒部別山谷に突入した。
 さしあたっての目標は出合スノーブリッジを高巻きすることだ。僕たちは比較的傾斜の緩い右岸側壁にルートを求めて取り付いた。この高巻きはさしたる困難な部分もなく、ノー・ザイルで再び別山谷左股に降り立つ。しかし、降り立ったものの、そこに立ちふさがるスノーブリッジは相変わらず悪い。沢床を崩壊したブロックが埋め尽くし、さらにそそり立つスノーブリッジの崩壊がいつ起きるかわからない。
 スノーブリッジと側壁の隙間(シュルント)を狙って越えていこうか、との考えもあったが、あまりに危険すぎるということで、ここでも側壁の高巻きをはじめる。すると、そのときだ。落雷のような爆音が響き渡り、スノーブリッジが崩壊し、僕たちが狙っていたシュルント部分を襲ったのだ。もしもあのとき、あそこを選択していたら、僕たちは全滅していただろう。そのあとも小規模な崩壊が連続する。後立山稜線を越えて陽が昇り、気温が上がってきたせいなのだろう。崩壊音を聞きながら僕たちは、ずるずるの泥壁のトラバースをはじめる。
 トップを行くさわむらどんが動きを止める。
「ん〜、ここはワンポイントかもしれんが、ザイルを張ろう」
 そして、慎重にザイルを伸ばす。足元から落石が頻発し、それが大落石を誘発して、すさまじい音響とともに谷底に吸い込まれる。さわむらどんは安全地帯まで登り、ザイル先端をフィックス。しかし、途中でプロテクションを取れる支点がない。落ちるとかなり厳しい。気休めのザイルだ。西牟田も慎重に通過。三番めが僕だ。ザイルをゴボウで登ろうか(両手掴みで登ること)とも思ったが非常に厳しいトラバースだ。念のため、プルージックで身体をザイルに固定する。先行ふたりが使った大きな岩を足がかりに、安全地帯に抜けようとした瞬間、その岩が動いた、ずるずると。
「あ〜、いかんいかん」
 僕は叫び声を上げながら落ちる、その何百kgかの岩と一緒に。落ちてもプルージックで止まる「はず」だとはわかっている。でもランニングビレイがないから相当落ちるだろうなあ…。
 ふと気が付くと岩壁途中で止まっていた。どうやら、ザイル末端をにしやんが確保しており、にしやんを滑落に引きずり込んだものの、かろうじてにしやんが止めてくれたようなのだ。やれやれ。何とかその岩壁から脱出する。手足ともに負傷、ずるむけ。

 15:00、大スラブ基部(標高1250m)に降り立つ

 僕の滑落を契機に、トラバースにはザイルをフィックスすることにした。にしやんがルート工作、先端をフィックス。西牟田がもう一本のザイルを持って、フィックスをたどり、にしやんとともにさらに上部のルート工作、僕とさわむらどんが下部工作を回収するというパターンだ。延々とルートを延ばす。この頃には、すでに撤退さえ不可能になっていた。
 かすかな記憶をたどりながら、ピッチ数を思い出す。たぶん、7〜8ピッチはザイルを伸ばしたのではなかろうか。
 下部は草付き泥壁に無数の浮き石が加わった非常に険悪なトラバースが続いたが、上部に進むにつれて快適な花崗岩のスラブが現れはじめた。先行のにしやんが「お〜、快適じゃ〜、5.8クラスのスラブやで〜」と叫んだのを聞いた途端、さわむらどんと僕はそれまでの靴を脱ぎ捨てて、ラバーソールに履き替え、快適なフリクションで登攀を楽しんだ。そして、スノーブリッジにアイスバイルを打ち込んでシュルントをこわごわと越え、シュルントの底から側壁に這い上がり、また巨大な一枚岩を快適に乗り越えて、僕たちはさらに上部をめざす。
 振り返るといつのまにか、すばらしい高度感。紅葉の岩壁が美しい。
 部分的に二度ほどの懸垂下降を交え、陽の傾きかけた午後三時過ぎ、僕たちはようやく大スラブ基部に降り立った。
 とにかく相当に予定から遅れている。大スラブ基部から、にしやんと僕、さわむらどんと西牟田がペアを組み、8mmザイルをシングルで使って、大スラブ登攀を開始する。8mmザイルでまともに転落したら切れる可能性があるかもしれないが、大スラブは比較的傾斜も緩やか、フリクションも快適に効いている。ザイルにそれほどのテンションがかかる転落などないだろうという判断だ。
 特に下部3〜4ピッチはコンチで登る。ほとんどランニングも取っておらず、ザイルを出した意味があったのかどうか(笑) しかし、途中から傾斜がやや強まり、スタッカートに切り替える。そろそろ疲労がつのってきており、注意力散漫となってくる懸念があったからだ。
 しかし、この大スラブはラバーソールのフリクションが滅茶苦茶快適に効いて、もう最高! もしかしたら手を使わずに二本脚で登れるのではないかというくらいに快適だった。

 17:00 大スラブ上部テラス(標高1550m付近)にてビバーク

 しかし、秋の日はつるべ落とし。17:00近くなると日没の宵闇が迫ってきた。あと数ピッチで大スラブの登攀は終了するだろう。この状況だとヘッドランプをつけた夜間登攀も可能だろう。そう考えはじめていた矢先、小さなテラスをにしやんが見つける。平坦なテラスではない。うかうかしていると転がり落ちそうな傾斜のテラスだ。しかしルンゼ状になった底部では風が防げそうだし、何よりもこの付近にはこれ以上のビバーク適地はない。
 ここでビバークに決定。
 しかし、問題があった。R3まで行くつもりだったので、水を担ぎ上げていないのだ。4人の担ぎ上げた水を合計すると、2リットル強。これで、今日の晩飯、明日の朝飯、明日の行動前半までをカバーしなければいけない。
 傾斜テラスなので天幕は張れず、シュラフだけをかぶったビバークとなる。テラス周囲にザイルを張り巡らし、僕たちは常にそこにカラビナをかけて転落に備える。夜中に寝返りを打った瞬間に滑落、という事態を避けるためだ。
 天候は下り坂、夕方には高層雲が空を埋め尽くし、明日の天候悪化を告げていた。しかし、夜になると一時的に持ち直し、満天の星空が広がる。素晴らしい星空だった。僕たちは軽食を摂り、残った酒を飲み尽くしながら、さまざまに語り合う。酔いのまわった大先輩殿ふたりから、僕と西牟田はお説教を受ける(笑) やれ、動作が遅い、やれ、次にすることを常に考えろ、やれ、もっと経験を積め…、などなど。耳が痛いが、ありがたく、そして気持ちよく拝聴する(ときにはむかついたけどね、大笑い) 好きなことだからこそ、そしてそれなりに敬意を払える先輩だからこそ、素直にその説教に耳を傾けられるのだろう。会社の飲み会で受ける不愉快なお説教とは大違いだ。
 時折、説教を聞き流しながら、星空をみやる。頭上には秋の星座、ペガススの大方形、そこから星をいくつかたどると、アンドロメダ大星雲の淡い光芒を確認できた。何年ぶりだろう、いったい。やがて北東天からはすばるが昇る。明るい流れ星もいくつか認める。元天文少年の僕がひとりで興奮していると、酔っぱらったにしやん(ほんま、にしやん、相当、酔っぱらっとったで?)がぼそっと過去の秘密(?)を洩らす。
「おれも高校で天文部員やったんやで?」とにしやん
「なんや、僕もそうやったんやで?」と僕。
「おまえ、なんの望遠鏡、持っとった?」とにしやん。
「タカハシの50mm」と僕。
「おれ、65mm」とにしやん。
「おまえら、ほんまになあ…」とさわむらどんがあきれたように口を挟む。
 もう、みなさん、ご存じだよね。いろんなところで先輩、後輩であり続けたにしやんと僕は、あろうことか、高校のクラブ活動でもそうだったわけ。
 やがてアルコールが切れ「今度はもっと担ぎ上げような」という意志を確認し合ったあと(笑)、午後11時過ぎ、僕たちは眠りにつく(傾斜地で座ったまま眠れたら、の話だけどね)

 10/23(月)曇りのち雨、午後には風雨強まりガス深し
 11:00 R3登攀終了

 04:30起床。
 意外によく眠れた。
 しかし、酔っぱらったせいで(?)寝場所陣取り合戦に敗れたにしやんは、いい寝場所が得られず、朝方からコーヒーを飲みながらずっと起きていたようだ。朝食はコーヒーと行動食だけで済ませる。とにかく水がない。ラーメンがあっても水がなければどうしようもないのだ。
 どんなときでも、どんなところでも、自然に呼ばれてしまう僕は、やはりこのビバーク地でも呼ばれてしまった。みんなに「三度のメシよりも規則正しいやつだ」と笑われながらも、何とかしなければいけない。明るくなる前(見せ物じゃないから)ビバーク地からカンテを越えて、大スラブに身をさらして、用を足す。用を足すのも命がけ? もちろん、スラブに打ち込んだハーケンにセルフビレイを取ったうえのことだ。明けゆく山々を眺めながら、ロープにぶら下がって用を足すのも快適だった(笑)
 06:00出発。
 空はもう雲にすっかりと被われてしまっている。いつから雨が降り出すのか、それだけが問題だ。ビバークテラスから上部に3ピッチザイルを伸ばし、最後は馬の背状のカンテを乗り越えて、07:30頃、大スラブ登攀終了。ここから藪漕ぎで稜線に出ることもできるが、できることなら藪漕ぎは避けたい。それに僕たちには水がない。左手下方にはR3の水流が見えている。いったんR3に下ることに決定。
 R3ではむさぼるように水を飲み、渇きを癒す。このころから小雨が降りはじめる。
 さて、取りうるルートはふたつだ。当初予定どおりにR3登攀を継続して黒部別山を越えるか、あるいは大へつりチムニー状ルンゼを下降するか。
 しかし、僕たちはチムニー状ルンゼの略奪点を確認できていない。しかも、まったく状況のわからないチムニー状ルンゼを下降するのは非常に不安だ。別山谷のスノーブリッジの状況からして、チムニー状ルンゼも同じような状況であることを否定できないのだ。むしろ、多少時間がかかるかもしれないが、主稜線、そして下降尾根に踏み跡があるという黒部別山に予定どおり上がってしまった方がいいかもしれない。ハシゴ谷乗越から先は一般登山道だ。うまくすれば何とかぎりぎりで最終下山時刻に間に合うかもしれないし、悪くても今晩遅くには黒部第四ダムに着けるのではないか。
 僕たちはそのような考えで、R3登攀継続を選んだ。
 R3上部は比較的傾斜も緩く、ノー・ザイルで登りつめていく。やがて水流が途絶えるが、今日中の下山を確信している僕たちは水を汲むこともなく登攀を続行する。やがて岩床が途絶え、脆いルンゼ状の草付きがはじまる。右手に岩壁が現れ、その基部を巻くように左へ左へとトラバース気味に登りつめていく。
 いつのまにか雨は強くなり、ガスは深くなっている。背後を振り返るもすでに後立山主稜線は見えず、それどころか周辺の地形さえ確認できなくなってしまっている。最後にぼろぼろの草付きを微妙なバランスで登り切り、灌木のなかに逃げ込む。藪漕ぎは藪漕ぎで鬱陶しいのだけど、でも頼りない手がかりしか得られない草付きよりははるかにましだ。灌木をかき分け、11:00過ぎ、僕たちはようやく尾根上に立つ。

 16:00 不明地点にてビバーク(標高2300m付近? 低気圧による気圧降下で不明)

 密生した藪をかき分けてなおも登り続ける。踏み跡らしきものはほとんどないに等しい。これも黒部別山主稜線の南の外れだからだろうと自分を納得させる。主峰に近づくにつれて踏み跡ももう少し明瞭になるだろう。1時間ほども登り続けただろうか。やがて、小さなピークに達する(仮にこのピークを第1ピークと呼ぼう、実は南峰)が、いったいどこのピークだろう?
 緑色の針金が灌木の枝にからみついている。なにか標識をくくりつけていたものだろうか。あたりを探すがプレートらしきものは見つからない。
「南峰か? 南峰なら三角点があるはずだ」とにしやん。
 確かにR3を左方向に詰め上がり、主稜線をたどると最初のピークは南峰だ。しかし、あたりの藪をかき分けるがそれらしきものもない。周囲はガスに包まれてホワイトアウト、僕たちはコンパスで進むべき方向を確認せざるをえない。さもなければ、とんでもない枝尾根に迷い込んでしまう。主稜線はほぼ性格に南北に走っている。念のため、二人以上でコンパスを合わせる。まちがいない、こちらが北だ。第1ピークを同定不明のまま、僕たちは主稜線を北へ向かう。
 それにしても、いったい何という藪だ? そもそもこれを藪と呼ぶのか? 灌木ならまだ始末はいい。強引に押し広げ、あるいは押し通ればいいのだから。しかし、僕たちの行く手を遮るのはそんな生やさしい藪ではなかった。トウヒ? シラビソ? それともコメツガ? とにかく樹の名前ははっきりとはわからないけれど、それらの針葉樹が密生し、しっかりと枝を張っている。樹齢は十年以上は経っているような、そんな太いものばかりだ。それらの枝をはね上げ、押し下げ、あるいは四つん這いになってくぐり抜ける。細い尾根上を忠実に北にたどろうとするのだが、これらの針葉樹が尾根上に生え、それがかなわないときにはネマガリタケの密生した滑りやすい左右の斜面をトラバース。滑落せぬよう腕力で灌木、ネマガリタケにしがみつきつつ。
 足元を見れば、確かに踏み跡らしきものがあるような気もする。しかし、それだけのこと。足元だけだ。足首から上はずっとこのような密生した濃い藪に行く手を阻まれたのだった。
 これだけの藪だ。遅々として行程ははかどらない。僕たちはいつしか時間感覚、距離感覚を失いはじめる。あれから1時間は歩いたような気がする。1時間? じゃあ、いったい何m進んだのだろう? 2km? まさかそんなに進めまい。それじゃあ、1km? 500m? それともたった200m?
 地図で見ると、黒部別山主稜線は南峰から北峰まで、わずか2kmしかない。ほぼ中央やや北寄りに主峰があり、主峰の南、この主稜線のほぼ中央部から西に顕著な尾根が派生している。この尾根こそが、僕たちの求める下降路だ。過去のどの記録を見ても「踏み跡がある」と記載された尾根だ。それさえ発見できれば楽勝のはずだ。この尾根を見失ってしまっては下山できないのだ。
 やがて再びピークが現れる。のっぺりとした草原状のピークだ(これを仮に第2ピークと呼ぼう、実は無名ピーク)
 ここで、僕たちは錯誤を起こす。山中で「迷った」ときの典型的な心理状態に陥ってしまったのだ。
「さっきのが南峰とすると、今度は中間ピークか?」
「いや、あれだけ進んだんだぞ? 中間ピークなんか、とっくの昔に通り越したんじゃないか?」
「じゃあ、主峰なのか?」
「しかし、このピークの向こう側は激しい下りになっているぞ?」
「北峰の北側の下りなのか? だったらこれ以上進むと剣沢に踏み込んでしまう」
「でも本当に北峰まできているのか?」
「待てよ、そもそもさっきのが南峰だという証拠もないじゃないか」
 結局、僕たちは第1ピークまで引き返すことに決める。もう一度、西に派生する尾根を慎重に確認しながら、という理由で。そうなると、西側に下る「踏み跡らしきもの」がすべて「踏み跡」に見えてくるから不思議だ。「めざすのは尾根だ」と言い聞かせつつ、危うく下りたい衝動を抑える。
 苦労の果てに再び、緑色の針金のあるピークに戻る。もう一度、周囲の三角点を探す。やはりわからない。南峰のはずだ。でも本当に南峰なのか?
 気温は急激に下がっている。身体は雨と汗に濡れ、体温が奪われている。行動食も水もほとんどなく、疲労も激しい。この季節、疲労凍死が起きたって何の不思議もない。
「だめだ。無駄に動いても体力を消耗するだけだ。ビバークしよう」
 僕たちはそう結論する。どこか岩陰でビバークするのか、この雨のなか?
 南峰直下、西側斜面に小さな平坦地を見つける。かろうじて天幕を張れる。そこに二人用天幕を2張り、設営。靴を履いたまま、濡れねずみの僕たちは天幕に潜り込む。
 すでにあたりは宵闇が立ちこめはじめている。
 にしやんはトランシーバーで交信を試みるも、電波が弱く、キャッチされないようだ。
 食料はすでにない。今日の朝食用のラーメンが4人分あるが、いかんせん水がない。水を集めると、4人で2リットル弱しかない。各自の非常食とスープ1杯のみで晩飯を終える。ラーメンを2人分作ろうかという声もあったが、明朝の行動前に取っておくことにする。残った水は1.5リットル程度。これで明日、藪を越えて下山できるのか。
 夕方、わずかに視界が得られるも現在位置を同定できるに至らない。主峰近くにはカモシカ平という平坦地があるという。もしかしたら僕たちがビバークしている平坦地がそうなのか? だとしたらあのピークは南峰ではなく主峰じゃないのか?
 さまざまな疑問、疑念がよぎるが、解決は明朝に持ち越そう。もしも、明日、晴れたらの話だけれども。風雨が強まっている。低気圧が通過して冬型の気圧配置になると、明日も荒天の可能性が高い。
 最終下山時刻を過ぎる。緊急連絡先のKYOはどう考えるだろう? 即座に富山県警に捜索要請をするのだろうか?
 天幕のなかでさわむらどんと僕は話し合う。
 この山域、そしてこの天候。たぶんKYOは僕たちが天候待ちをしていると判断するだろう。だから、必ず1日は待つ。そして、あいつは待つと決めたら、まわりが何と言おうと頑固に持論を貫くはずだ。あいつとのつきあいは長いから、わかるような気がする。多くの山を一緒に登ってきたし、多くの酒もともに浴びてきた。僕はKYOの判断と行動に確信に近いものを持っていた。
 だとしたら、たぶんタイムリミットは明日午後5時。それまでに黒部ダムに下山しなければ、確実に県警山岳救助隊は動く。もしかしたら山歩会が組織するかもしれない捜索隊も。
 明日、晴れてくれれば…。
 そんなむなしい願いとともに、濡れたままで寝袋にもぐり込み、僕たちは眠りにつく。

 10/24(火)晴れ
 07:00 ビバーク地を南峰付近と同定、ビバーク地から北へ出発する

 長い夜だった。渇きが激しい。唇はからからに乾いて腫れあがっていた。浅い眠りの夢うつつのなかにさまざまな人々が現れては去っていった。不思議とはっきりした意識のなかで、これがひどくなったらきっと幻覚、幻聴と呼ぶんだろうなと考えていた。
 ひと眠りのあと眼が覚めると、まだ夜中の12時だった。朝までまだまだ長い。でも、先ほどまで吹き荒れていた強風も止み、雨も降り止んでいる。天候回復が期待できるか? かすかな望みを抱きつつ、再び浅い眠りに沈む。
 隣でさわむらどんが飛び起きた。換気口から外を眺めて短く叫ぶ。「晴れているぞ!」と。
 その声で、皆、飛び起き、次々と天幕から這い出る。
「おお、あれは八ツ峰じゃないか!」
「とすると、あれが立山方面、富士ノ折立、真砂岳の稜線だな」
「おい、地図とコンパス!」
 僕らは寄ってたかって、地図とコンパスで現在地を同定する。
「これで現在地がわからなかったら、わしら、全員、山は廃業じゃ」とにしやんが笑う。
「十分後に、全員廃業を宣言しとったりして」と笑いながら僕も応じる。
 わかった。やはり僕たちはまだ南峰付近にいる。昨日の第1ピークはやはり南峰だ。まちがいない。
 残った水のうち、1リットルを使ってラーメン2食分を作り、4人で分け合う。残った水は500cc。そして、昨晩、食器に溜めた雨水(枝葉混じり)が500cc。
 昨日からトランシーバーで交信を試み続けているのだが、応答がない。たぶんトランシーバーの出力が弱すぎるのだ。だからこの奥深い黒部からは届かないのだろう。どこか稜線の山小屋がチャンネルを開いてくれれば、という淡い期待を抱くが、この季節、この近辺で開いている山小屋は唐松岳山荘と剣御前小屋しかない。結局、呼びかけはあきらめるが、トランシーバーは常にONの状態にしておく。
 そして手早く装備をまとめ、07:00に出発する。魔の山域、黒部別山からの脱出だ。
 稜線に上がると、昨日の第2ピークが無名ピークだとすぐにわかる。恥ずかしながら、あえて告白しよう。僕たちは昨日、第1ピークと第2ピーク、直線距離でわずか300mほどの距離を行ったり来たりしていたのだ。黒部別山主稜線をを北から南まで2kmも往復したような感覚で。まるで釈迦の手のひらの上の孫悟空だ。視界のない藪山がこんなに恐ろしいものだとは。
 現在地がわかり、視界を得られたとは言え、藪の激しさは変わらない。踏み跡なんてまったくないぞ! 確かに僕たちが参考にした記録は20年前のものだ。でも、この20年間、日本の山ヤはこの黒部別山主稜線をトレースしていないのか? 誰もが大スラブを登り、R3を登ったあと、主稜線に上がらずに懸垂下降で取り付き点に下降しているのか? そもそも、今の山ヤはこんな山を登らないのか?
 あ、あれは…。そうだ、ヘリの爆音だ。
 僕たちのあいだに緊張が走る。やはり捜索要請がなされたのか? 深紅のヘリが一直線に黒部別山に向かってくる。富山県警山岳救助隊のヘリ「つるぎ」って赤色だったっけ、白色じゃなかったかなあ、とつまらぬことをぼんやり考えながら、ヘリを見守る。このヘリが黒部別山周辺を低空で周回しはじめたら、目標はたぶん僕たちだ。にしやんはトランシーバーを操作している。もしも捜索要請がなされたのなら、救助隊はこちらの使用周波数、コールサインを知っているはずだ。必ず、ヘリからの呼びかけがあるはずだ。こんな近距離なら絶対に交信できるはず。
 しかし、ヘリは交信することなく、また低空で周回することもなく、立山方面へ飛び去った。
 僕たちは無名ピークを越え、主峰に向かってジリジリと肉薄を続ける。2万5千図上の2239m最低コルを越えて、主峰の登りにかかる。もうまもなく左手に顕著に派生する尾根が見えるはずだ。はずだ、はずだ…。わからへんぞ、藪が濃すぎてちっとも見えんわい。わしらは皆、山ヤ廃業か?
 しかし、そのうちに開けた窪地が現れる。ああ、これが本物のカモシカ平だ。尾根はこの付近から西側に派生しているはずだ。僕たちは尾根を確認することをあきらめ、主稜線西側の藪斜面に突っ込む。突っ込んでみると、相当北側に偏っていたことがわかり、南へ南へと草付き斜面をトラバースしながら尾根を求める。このトラバースが最悪だったのは確かだ。
 やがて、細い尾根上に出る。そこで、ついに赤テープを発見する。やった、この尾根だ! で、踏み跡は? やっぱりあれへん。確かに踏み跡らしきものはあるのだが、主稜線と同様に密生した藪に消えている。灌木、針葉樹林、ネマガリタケ。向こうは相変わらずの三部構成で僕たちの行く手を阻もうとする。
 しかし、あとはとにかくこの尾根に忠実に下り続けるだけだ。水はすでに飲み尽くしている。
 それから2時間の格闘のあと、僕たちはよれよれ状態でハシゴ谷乗越に立っていた。両手、両腕は藪漕ぎで受けた切り傷、刺し傷で無数の傷がついている。両脚も灌木から受けた脚払いで内出血だらけ。まさに全員、満身創痍だった。
 ハシゴ谷乗越着、11:45、昨日から12時間近く続いた藪との闘いはこうして終わった。

 15:40 黒部第四ダム

 ハシゴ谷乗越から休憩もそこそこに下山を開始する。水がないのだ。とにかく水があるところまでくだらないと。水を求めて必死に駆け下ろうとするも、もはやその体力がない。のろのろと登山道を下りはじめる。
 それから30分後、小さな水たまりを見つける。ここで僕たちは水をむさぼる。もしかしたら一度に、2リットルほども飲んだかもしれない。旨かった! きっと今までで最高の水だ!
 ようやくひと心地ついて、あたりを見回す余裕が出てくる。内蔵助平は全山紅葉、色とりどりの素晴らしい紅葉に包まれていた。しかし、カメラはすべてザックの底、サバイバルに必要ないものはザックの底に押し込んだのだ。それを引きずり出す気力もなく、僕はその素晴らしい紅葉を記憶にだけ焼き付けていた。
 そこから黒部ダムに至るまでずっと、僕たちは紅葉のトンネルのなかを歩き続けた。もっとちがったシチュエーションだったら、僕たちはきっとこの紅葉を楽しんだことだろう。でも今の僕たちにはそんな余裕はない。午後5時までに黒部ダムに下山しなければ。
 内蔵助谷に沿った道をのろのろと駆け下り(矛盾した表現、気持ちに身体がついていかないからね)、黒部ダムをめざす。昨朝からまともな食事をしていない身体にはかなりこたえる。あの魔の山域から脱出することができた気持ちの余裕のせいだろうか、内蔵助谷出合付近の紅葉は、今までにどこで見た紅葉よりも素晴らしいものだった。
 出合から黒部川沿いにしばらく登ると、高さ186m、黒部第四ダムの堰堤が眼前にそびえ立つ。僕たちは谷底からあの高さまで登りつめなければいけない。これが正真正銘、最後の登りだ。
 堰堤のたもとでトランシーバーを持った作業員に出会う。三日ぶりにひとに出会う。それだけ、ひとが立ち入らない奥深い山々だったのだ。笑顔で「ご苦労さん」と声をかけてくるだけだ。うん、まだ通報はされていないぞ。
 15:40、黒部ダム着。
 15:55、緊急連絡先であるKYOに連絡を入れる。
 やはり、KYOは1日、僕たちの下山を待っていた。しかし、リミットは16:00、県警がその日のうちに対応できるぎりぎりの時間に設定されていた。すでに山歩会捜索隊は、KYOをはじめ7名からなる第一次捜索隊のメンバーをそろえて出発できるばかりにスタンバイ完了、あと五分遅ければ、捜索隊出発及び県警への捜索要請にGOがかかったという。多くの人々の多大な心配と迷惑をかけつつ、それでも何とか、なさけない僕たちは、最後の最後に皆の期待に応えることができた。

 しかし、僕たちの下山遅延を聞き、これほど多くの仲間たちが自らの時間と身体を投げ出して、現場捜索に、あるいは後方支援に携わってくれようとしたことが、僕たちはたまらなく嬉しかった。僕たちはこれほど多くの仲間立ちに支えられていたのだ、と。そして、今回の事件が山歩会の新たな方向性を生みだし、将来におけるより激しい動きへつながって行くことを願ってやみません(自分たちで種子をまいておきながら厚かましいけれど) 願わくは、雨降って地固まれば…、かつてのように山に結集できれば…。
 僕は思う、山歩会はやはり不滅だ、と。


             *          *          *          *


 今回の下山遅延について、山歩会用掲示板で、僕が背景・原因分析を行っています。僕たちの反省を込めて、ここに再度掲示いたします。

(以下、抜粋)
NG 25 Oct 2000 06:35:09
 下山後しばらくはいつも山時間で眼が覚めます。
「掲示板を賑わしてな」と書いて入山しましたが、こんなに賑わしていただけるとは思っていませんでした。けど、嬉しくて涙が出ますわ、ほんま。
 改めて、今回の件に関して、山歩会のみなさんにご心配、ご迷惑をおかけしたこと、ほんとにすみませんでした。それにご多忙ななか、救援体制を取っていただいたこと、留守家族を精神的に支援していただいたこと、ほんとにありがとうございました。
 反省点並びに最新情報はいっぱいあります。今後、掲示板や山行報告のなかでみなさんにご報告することで、けじめをつけていきたいと思っています。

 みなさんも「なんでや?」とお思いだろうから、私の個人的見解を簡単に書きます。

1)目的を遂げたか
 別山谷出合〜大スラブ〜R3〜黒部別山主稜、全て計画通りに登った。大スラブ途中のテラスで水不足ビバーク、翌日は黒部別山南峰付近(結果的にそうわかったけど、ガスのなかでは同定できなかった)で、水&食料不足ビバークを強いられました。
2)誤算は何だったか
 a)別山谷出合のスノーブリッジが予想以上に悪く、高巻きに相当な時間がかかった。
 b)黒部別山主稜、及び下降尾根にまったくと言っていいほど踏跡がなく、12時間近い藪漕ぎを強いられたこと。登山体系は確かに20年前の記録ですが、もしかしたらここ10年間以上、このルートには夏の間、ほとんど入山者がいないのではないだろうか。
 c)その藪のなかで荒天を迎え、ガスのなかでホワイトアウト、自分たちの現在地が同定できず、下降尾根を視認できなかったこと。でも、これは今日、晴れた状態でもあの藪のなかでは非常に困難だった。
3)予想以上に悪いなか、なぜ黒部別山をめざしたのか
 a)チムニー状ルンゼの略奪点が確認できなかった。
 b)また確認できても、別山谷から予想して、状況不明なチムニー状ルンゼの下降をためらった。
 c)黒部別山主稜ならびに下降尾根に「踏跡がある」との記録を読み、チムニー状ルンゼを下降するよりもより確実な(と思った)黒部別山ルートを選択した(結果的に12時間の藪漕ぎでした)
 d)それに、一度、別山谷に踏み込むと、もはや撤退は不可能だった。
4)今回の最大の反省点
 この奥深い山域に、予備日を設定せず、三日間で挑もうとしたこと。この一点に尽きます。この件に関しては「今後、勤務先の年休取得可否に拘わらず山行優先で予備日を設定、無断欠勤等は個人の責任」という方向を確認しあっています。今回は私がネックとなってしまいました。
5)幸運だったこと
 a)荒天が約1日足らずで回復し、翌朝、視界が得られて現在地を確認できたこと。視界が得られなければ、水もなく非常に危険な状態でした。
 b)この時期の荒天なのに寒気が流入しなかったこと。標高2500m以上では降雪となりましたが、僕たちがいた2300m付近は雨でした。
6)今回の最大の収穫
 騒ぎを起こしておいてとんでもないですが、こんなにも心強い仲間たちに支えられていたことを確認できたこと。ほんまに涙に耐えません。

 以上、掲示板としては長々と書きましたが、みなさんの疑問に早くお答えするのが責任だと思ったので、私の個人的見解ではありますがとにかくご報告します。

 ほんとにほんとに、ありがとうございました。
(以上、抜粋終わり)