山行報告(2000年6月下旬、比良山系猪谷)
多段20m滝直登
猪谷支流ヒジキ谷、多段20m直瀑にて
息も詰まるような冷たいシャワーを浴びつつ、直登を果たす



 『関西周辺の谷』(中庄谷直著、白山書房刊)によると、比良山系の最難度の沢は三級(中庄谷直氏のグレーディングに基づく)であり、それは、貫井谷、猪谷、八幡谷の三谷であると言われる。このうち、もっとも難しいと言われるのが貫井谷であり、ここは一時期は転落事故が相次いだため、入谷禁止措置(誰がどういう権限で禁止できるんだろう?)が取られた「悪谷」である。その貫井谷に次ぐ「悪さ」を持つのが猪谷と言われ、少しグレードが下がって八幡谷が続くと言われる。
 僕たち(KYO&NG)は、昨年、八幡谷を目標としてトレーニングを続け、沢登りシーズンも終わりに近い九月中旬、完登することができた。そして、そのときに今年の目標として、大峰・芦廼瀬川本流(四級)を掲げた。そのためには、比良山系最悪の谷、貫井谷を完登し、比良山系の沢を卒業しておきたい。それが僕たちの思いだ。
 確かに、グレーディングでは芦廼瀬川本流の方が難しいとされている。しかし、それは登攀、泳ぎ、へつり等、沢登りの総合力に対してグレードをつけたもの。こと「登攀」に関しては、もしかしたら、貫井谷の方が圧倒的に難しいかもしれない。そういう意味では、貫井谷完登も今年の目標なのだ。その前段階として、猪谷完登を目指すのも、僕たちにしたら当然の帰結だ。それも、できるだけ早い時期にやっつけておきたい。そんな気持ちがあるために、六月下旬という梅雨のさなか、僕たちは猪谷登攀を計画した。

 今年の梅雨は、何故か「週末、雨」という周期だ。平日に青空を見上げながら出勤するのは、ほんと、精神衛生上、まったくよくないものだ。それでも僕たちは雨に降られながらも、沢への突入を続けた。今度の猪谷は今年になって三本めの沢となる。
 前夜、激しい降雨があり、僕たちは増水を心配した。週末になって活発化した梅雨前線によって、各地でゲリラ的豪雨があったとも聞く。結果的には、心配したほどの増水ではなかった。しかしながら、かなり激しい水流に翻弄されることになったのは確かだ。でも、これだけの増水のなかで、猪谷を完登できたことは僕たちの自信を深めることにもなった。

 以下、記録。


 07:00 京都、KYO宅にて

 今回の目標は、比良山系第二の難度を誇る猪谷だ。だから、それなりの敬意を払うべく、いつもより一時間繰り上げて、午前七時、KYO宅に参上。いつものようにコーヒーを淹れてもらう。天候と装備について、簡単に打ち合わせ。天候については、まあ、行ってみようや、と。実際に増水状況を見ないことにはわからない。装備については、一応、フル装備持参で合意。ザイル、スリング、カラビナだけではなく、ハーケン、ハンマー、アブミも持っていくことにした。やはり猪谷についての最新情報がないだけに不安だ。手元にあるのは、二十数年前の遡行記録のみ。この二十年間で、沢がどんな変容を遂げているか、わかったもんじゃない。そのことは、前回の三舞谷でも実証された。また、これも前回の経験から、ツェルトを持参することにする。やはりこれくらいの難度の沢になると、何が起きるかわからない。前回だって、道に迷いかけて、あわやビバーク寸前までいったのだ。でも、今日は日曜日。下手にビバークになったら、翌月曜日は大騒ぎになるだろうなあ。
 07:20頃、KYO宅を出発。途中、花園橋を過ぎたあたりで若者二人が手を挙げているのに気付き、急停車。やはり、ヒッチハイクだった。僕たちも学生の頃、よくヒッチハイクをした。社会人になって車を持った今、過去の恩返しの気持ちをもって、今度は僕たちが若い連中を乗せてやらないとね。
 彼らに話を聞くと、京都大学山岳部とのこと。これから比良山系八幡谷を登るらしい。所属クラブはちがっても、同じ志を持つ僕たちの後輩だ。やはり嬉しい。彼らと情報交換しつつ、車を走らせる。昨今は山岳部員も減少の一途をたどっているらしい。現役部員はわずかに六名。たった六名では冬山技術の継承も難しい…。そうだよな、いまどき、若者のあいだでは登山など、はやらないんだろうなあ。もっと楽しいことなんか、いっぱいあるもんな。だいたい、山なんて女っ気なんてないもの…。
 僕たちも京都大学山歩会のOBだと名乗る。でも、すでに解散して久しかったから「君たちは知らないだろうけれどね」と付け加えて。けれども、北ア・幕岩での遭難事故を知っていたらしく「ああ、あの事故は残念でしたね」と言われて胸が詰まる。山歩会ではふたりめの犠牲者だ。そして、山歩会解散につながった事故…。
 彼らを細川集落まで乗せ、おたがいに「気を付けて」と別れる。
 でも、若いヤツらでも、登ってるヤツは登ってるんだ。それがわかって、KYOも僕も嬉しかった。いつか、山岳部の部室を訪ねてみようかな…。

 08:30 国道367号、猪谷入渓口

 国道脇に駐車、ここで装備をチェック、身につける。猪谷をのぞき込むと、激しい水量。明らかに増水している。でも、明るい曇り空で、時折、薄日すら射しそうな気配。僕たちは入渓を決心、猪谷沿いに林道を歩きはじめる。
 林道が途絶え、そこから僕たちは沢に入る。いきなり第一ゴルジュが現れる。最初の滝、3m直瀑は水流のなかを登る。そのあと、いくつかの滝が連続するが、ここは何の問題もなく通過する。最後の二段6m直瀑も『関西周辺の谷』では高巻きを指示しているが、僕たちはすべて直登だ。こんなところで、もたもたしてはいられない。問題は、このあと、第二ゴルジュ、第三ゴルジュなのだ。

 09:20 第二ゴルジュ

 続いて、第二ゴルジュに突入する。やはり高巻きを指示されている最初の5mの滝も難しくはなく、やや拍子抜け。おいおい、こんなんでいいんかい? 簡単すぎるやないか? 僕たちは連続する小滝を快適に越えていく
 次に現れたのは、わずかに落差1mほどの滝だ。しかし、こいつは侮れなかった。小さな滝なのに釜(滝壺)は深く、泳ぎながら滝に取り付くことになる。しかも、取り付きはオーバーハング気味。ここを登るのは腕力勝負だ
 この傾向は、猪谷全体を通して見られた。小さな滝でも釜は深く、例外なくオーバーハング気味の登攀を強いられた。いずれも微妙なバランスが必要で。これが猪谷の難しさだろうと思われる。
 このあと、『関西周辺の谷』で「2mの滝のへつりが悪い」と記述された2mの滝が現れる。こんな小滝のへつりのどこがそんなに悪いのか、僕たちは実際に出会うまで理解できないでいた。しかし、ここはほんと、最悪のへつり。釜は深く、足が立たない。しかも取り付きはオーバーハング。ホールドは細かく、スタンスも細かい。これ、最悪。それでも腕力自慢のKYOはわずか五分ほどで何とか通過したが、僕は十分はかかったと思う。確かに最初の取り付きさえクリアすれば、あとは難しいながらもそれほどではない。けれども、最初の取り付きのオーバーハングがどうにもならんぐらいに悪いのだ。登りかけては落ち、また登っては落ち、そんなことを繰り返しているうちに、身体は冷えて次第に腕力も萎えてくる。しかし、ここは根性でクリア。とにかく、クリアせんことには前に進めない。
 しかし、この悪いへつりをクリアするとゴルジュは急に狭まる。僕たちは両岸の岩壁に手足を突っ張りながら、どうどうと流れる激しい水流の上を越えていく。壁は滑りやすく、確かなスタンスは得られない。ほんと、バランス・クライミングの連続だ。
 そして、第二ゴルジュ最後のチョックストンのかかる滝を微妙なバランスで登り切って、ようやくひと心地つくことができた。

 10:00 第三ゴルジュ

 しかし、息つく暇もなく次々と滝が現れる。第三ゴルジュに突入だ。『関西周辺の谷』に紹介されているように「へつりと滝登りの連続で、緊張のほぐれるときがない」、まさにその通りだ。
「ああ、落ちるんじゃないかな」と、そんなわずかな不安を持ちながらも、悪い滝をひとつ、微妙なバランスでクリアする。何とか登り切って、息をついて顔を上げれば、そこにはさらに悪い滝が待ちかまえている。そんなことの連続だ。「勘弁してくれよな、まったく」思わず、そんな愚痴がこぼれ落ちる。でも、これでもか、これでもか、と立ちふさがる滝群に、僕たちはいつしかSMチックな(笑)快感を覚えはじめる。こんな快適で愉快な沢は確かにはじめての経験だ。
 第三ゴルジュ入口の6m滝は、右岸をからみながら中程まで登り、行き詰まったところからは両壁に手足を突っ張りながら、水流を越えていく。
 休むまもなく続いて、5m滝が現れる。ここは右岸のチムニー状に沿って身体を迫り上げていく。最後のバランスが微妙だが、チムニー状の出口チョックストンに残された残置スリングを使って、A0で抜ける。
 これでもか、という感じで、続いて7m滝が立ちふさがる。ひとめ見た感じでは非常に悪そうに見えるが、水流のなかに豊富なスタンスやホールドが用意されている。しかし、この滝はやや逆層気味。左岸の滝身の間際を、右岩壁のホールドを頼りつつ、慎重に登り切る。途中、一ヶ所のバランスはやや悪い。
 あと少しで第三ゴルジュを抜けられるというところで、第三ゴルジュ出口4mの滝が立ちふさがる。見ためにも悪く、陰鬱な滝だ。『関西周辺の谷』では「左に回り込んで巻き登る」とあるが、僕たちはここまですべての滝を直登してきた。ならば、この滝も何とか直登したい。まず、KYOが挑戦し、シャワーを浴びながら五分ほど悪戦苦闘。どうもよくない。落ちそうになって焦っているのがわかる。スタンスが滑りやすい上に、確かなホールドが得られないようなのだ。ハーネスからやや焦り気味にスリングを外し、ようやく残置ハーケンを使って降りてきた。ワン・ムーブがどうしても悪く、ザイルを出すという。
 そう言えば、僕たちはここまでザイルを使っていない。確かに悪い滝が続いたが、ザイルなしで何とかクリアしてきたのだ。
 しかし、確保支点が見当たらず、クラックにナッツを埋めて、気休め程度の確保支点を得る。
 KYOがトップで再挑戦。相当渋っていたが、結局、アブミ(縄梯子みたいなもの)を使って、いちばん難しいムーブをクリア、僕の視界から消えていった。アブミを持ってきてよかったなあ。実は最後まで持っていこうかどうかと迷って、二本のうち一本だけ持ってくることにしたのだ。
 しかし、僕と彼のあいだを岩がさえぎり、そのあとの彼の動きがまったく見えない。しかも轟音ともいえる水流の音で声も通らない。結局、ザイルの動きから彼の動きを読むしかないのだ。おそらく核心部を抜けたと思われるところで、ザイルの動きが一旦止まり、少ししてから激しくたぐり寄せられはじめた。おそらく、彼が確保体制に入ったのだろう。今度は僕だ。
 僕はビレイを解除し、ナッツ・スリングを回収、いよいよ滝に取り付く。
 悪い。悪すぎ。ホールドは細かく、こりゃたまらんわい。
 微妙なバランスで小さな岩角に立ち、片手と歯でプロテクションを回収し、アブミを回収したところで、すとんと落ちた。
 しもた。
 もちろん、KYOは僕の落下に備えてザイルを張っていたから、1mぐらいの落下だ。
 でも、アブミの回収を終えてから落ちたのは痛い。もう一度、セットし直すか?
 幸い、僕が右腕を精一杯伸ばしたその先、数十cmのところに岩角がある。しゃあない、投げ縄だ。スリングを二本つないで、その岩角に投げる。三回めぐらいにうまく引っかかる。あとはこのスリングを両手でつかんでゴボウ登りだ。ははは…、邪道とは言え、見ろ、こうしてちゃんと登り切ったぞ?
 こうして、さまざまな滝を越えていくと、今まで培ってきた滝の登攀技術の総合力が試されているような気がした。
 わずかな平坦地が現れ、ヒジキ谷分岐が現れた。

 11:20 ヒジキ谷

 ふう。ようやく核心部を抜けた。この先、ヒジキ谷にも大きな滝はあるが、深いゴルジュ帯からは脱出した。左に本谷を見送り、ヒジキ谷に入ると、さすがに水量も減ったような気がする。
 天候は幸いにして安定している。時折、暗い谷底に薄日す射し込んでいる。そんなとき、鮮やかな新緑がまばゆく光る。
 やや広くなったゴルジュを抜けると、正面に4段15m大滝が現れた。『関西周辺の谷』では左岸を巻くように指示があるが、ここまできた僕たちは当然…、直登だ。この滝は岩に深く穿たれたチムニー状の滝だ。激しいシャワーを浴びながらチムニーへ突入。当然、チムニー登りの基本、両手足を両壁に突っ張って、せり上がっていく。快適な登攀だ。
 続いて現れた多段20m大滝も同じだ。ここはその前の滝よりも、さらにチムニーが深い。最後は激しいシャワーをもろに浴びながら、左岩壁を直登、滝の落ち口左岸に登り切る。
 核心部を抜けてからも、息つくまもなく滝が連続する。
 このあと、正面に2段20mの大滝が懸かる。
 これは…。
 チムニー状はさらに狭く、滝の中程でちょうど胸ぐらいの高さにまともに水流を食らうことになる。この水量で果たして登ることができるか? 僕が偵察で中程まで登るが、抜けられる自信がない。ここで水流に叩き落とされると、いちばん下まで転落だ。これは何としても避けたい。残置ハーケンでもあれば、プロテクションを取って挑戦してみようとも思ったが、結局、残置ハーケンも見当たらず、この滝の直登はあきらめた。
 但し、この滝の高巻きは相当に悪く、ザイルを駆使することになった。

 12:30 源流帯

 2段20m大滝の高巻きを終えると、突然、穏やかな源流帯となった。部分的に小滝が現れるものの、穏やかな平流が続く。この先で、KYOはシカの角を拾う。当たり前かもしれないけど、このあたりには野生のシカがいるんだな。
 このあとは、武奈ヶ岳北方稜線に向けて激しい藪漕ぎが待っているのかと思うと、ちょっと気持ちが萎えかけたが、何と、源流部で地図にも載っていない立派な踏み跡と交叉した。この道を下るべきかどうか、KYOと意見調整。前回、三舞谷の下りでは、踏み跡に踏み込んで、迷いに迷った結果、あやうくビバークになりかけたからなあ。しかし、道標らしきものもあることから、近道となるこの踏み跡を下ることに決定。
 簡単な食事を終えたあと、下山開始。14時半過ぎには猪谷林道入口に戻った。
 この道は地図には記載されていないが、「コメカイ道」と名付けられ、昔から往来されていたようだ。地図に記載されない理由は、その下部に立派なアカマツ林があるからではないかと思う。それ以上はここには書かない(意味深長…)



 おそらく、山歩会でも猪谷を登った記録はあまりないのではないか。それほどにここは難しかった。
 でも、今回の猪谷は非常に充実したクライミングができたし、ここの滝をほとんど直登できたことは僕たちの深い自信にもつながったと思う。少なくとも、比良山系最悪の沢「貫井谷」に突入するための、わずかな自信を得ることができたのは確かだ。
 さて、次の貫井谷がちょっと楽しみになってきた。