山行報告 (2000年 6月初旬 北海道・利尻山北稜)
「一瞬の青空、夕暮れの利尻山」
(標高約1200m、長官山付近から望む)



 十年前の4月末、僕たちはここでひとりの友人を失った。
 山歩会のそれまでの二十年に及ぶ歴史において、遭難、あるいは遭難未遂は幾多もあった。僕の現役時代にも、年に1回以上はそのようなことが起きていたのは確かだ。でも、そのたびに僕たちは悪運に恵まれ、負傷もしくは全くの無傷で無事生還を続けてきた。
 そのせいだろうか、僕たちはその事実を受け入れることが、なかなかできなかった。悪い夢を見ているんだ、いつかはこの夢も覚めるんだ。そう信じ込もうとさえした。でも、時の流れの後には、石井はもう僕たちのところには帰ってはこない、そういう事実だけが重く残った。
 その日以来、十年間、僕は利尻を訪れることはできなかった。
 あのとき、冬山から離れてしまっていた僕は、すでに体力と技術を失い、石井のために何をしてやることもできなかった。捜索隊の無線を中継し、むなしい指示を送り続けることしか、僕にはできなかった。真摯に山に登り続けていた石井の死は、穏やかな下界の生活に慣れきった僕からは遠くかけ離れたところにあった。僕は自分を許せなかった。

 「何故、君は死んだか。なぜなら君は己の生き方に真摯であったからではないか。己の生き方に真摯な者が生を閉じ、いい加減に生きている者がのほほんと生きながらえる、私を含めて。しかし、われわれは二度と君の轍を踏むまい。君が自らの死によって示してくれたこの現実の矛盾に対して、われわれは精一杯抵抗しよう」

 僕は石井の追悼文の最後に、このような約束をしたためた。現実の矛盾への抵抗。真摯に生きつつ、生き残る。この約束を果たすまでは、僕は利尻を訪れることはできない。そのためにも僕は冬山に帰らなければ、と思った。たとえ、どれだけの時間をかけることになるにしても。
 亀のような歩みだったと思う。
 体力的、精神的な鍛錬を経て、そして、僕の「流れ」がそちらに向かうのを誘い(いざない)ながら、ようやく僕が冬山に帰ることができたのは、それから七年後だ。技術的水準は低かったとは思う。でも僕は情けない不安を情けない精神力で何とか克服し、冬山単独行を続けた。幾度もの挑戦と敗退を続け、後立山主稜線での滑落から生還し、僕ひとりでは越えられないある限界に達したときに、KYOというパートナーに恵まれ、その夏、沢登りという世界にのめり込んでいった。
 そんな昨年の夏、突然、利尻が僕を呼びはじめた。痛いほどの呼び方だった。それまでは「行きたいなあ」程度だった気持ちが「行かなきゃ」という気持ちに変わった。利尻へのフライトを調べ、わずかにひとつ残っていた空席をインターネットで予約までした。でも、まだ早過ぎる、と思った。僕はまだ自分を許せない。僕ははやる気持ちを抑え、その冬を待った。「流れ」は僕にとっては上げ潮だった。不満足な結果に終わった年末の冬山単独行を終えたあと、澤村どんというパートナーを得た。彼のおかげで、僕は自分の限界をまた超えることができた。八ヶ岳阿弥陀南稜を登り、鹿島槍東尾根を登って、ようやく僕は利尻を訪れることを自分に許した。

              *          *          *          *

 6/2(金)08:30 伊丹空港にて

 この週末、またもや家庭を置き去りにして、僕はひとり山に向かう。自分の身勝手を深く詫びつつも、もう自分ではどうしようもできない。今行かなければ、きっとそのことを後悔してだめになってしまう。そんな気持ちもある。
 実は、最後の最後まで、僕は出発を渋っていた。僕の肩をポンと押してくれたのは、ある後輩の掲示板への書き込みだ。この夏、十年めの利尻へ訪れるという告知だった。意志の弱い人間はいつも何かのきっかけを待っている。出発直前、この書き込みを見て、不思議と何かが吹っ切れた。ああ、こんな気持ちでいるのは僕だけじゃないんだ、と。
 日本最北端の地、利尻が観光シーズンを迎える6月になると、千歳〜利尻直行便の運行がはじまる。僕はそれを待って、6月初旬の利尻行きを計画していた。この便の運行によって、関西から利尻へのアプローチは圧倒的に短縮されるのだ。
 伊丹08:30発、全日空771便で千歳へ。そして、千歳12:20発エアーニッポン735便で利尻へ。そして、13時過ぎ、僕はもう利尻空港にいた。こりゃ、なんという近さだ(*1)。
 最近、気を付けなければいけないのは、どこぞの狂人が全日空機をフライトシミュレートしてくれたおかげで、手荷物検査が厳しくなったことだ。情報によると、コンロのガスカートリッジを没収された空港もあるとか。安全上は正しい措置だとわかるのだが、でも利尻でEPIのカートリッジが入手できるとは思えない。さて、どうするか。
 1案:1個をザックの奥深く収納、囮の1個を見つかりやすいところに収納。囮だけを没収させる。
 2案:「あ、そういう話を聞いていたので、現地に別送したわ〜」とあくびをかみ殺しつつ、何気にのたまう。
 どちらにしようかと思ったが、2案でいくことに決定。
 しかし、伊丹空港の手荷物検査は緩く、登山装備を見ても何も問わずに預かってくれた。心苦しいウソをつかずにすんで、小心者の僕はあきらかにほっとした。

 6/2(金)14:00 利尻山北麓野営場にて

 千歳からのフライトは、現地(利尻)の天候が悪いため、予定よりやや遅れて出発。利尻に近づくと、雲海の上に利尻が見える。
 「ああ、利尻…」
 僕は思わずつぶやいていた。あの山の姿は僕の記憶にしっかりと焼き付けられている。十年前、石井を連れ帰ることができずに利尻を離れたとき、やはり僕は機上からその姿を食い入るように見つめていた。あそこのどこかにあいつが横たわっている、それなのに自分たちはあいつを連れて帰ることができなかったのだ、と無念の思いを抱きながら。今はもう感無量で何も言えない。でも、ようやく僕はここにやってきた。
 利尻空港に着陸すると、どんよりとした曇空。雲底はかなり低く、もちろん利尻山は見えない。雨すら降り出しそうな気配だ。天候不順。でもそれは出発前にわかっていたこと。この春は、沿海州からオホーツク海にかけて低気圧が停滞、北海道上空には寒気が入りやすいため、天候が思わしくないのだ。
 ここまできて、とやかく考えても仕方がない。やるべきことはひとつだ。僕は空港からタクシーに乗る。
 タクシーは北の果ての寒村を走り抜け、路傍には原野が広がる。無性に懐かしい。行く手左側には、奇岩・ペシ岬が見える。あの風景も、この風景も、僕の遠い記憶のなかに刻まれている。
 やがて、標高220mの北麓野営場に着く(*2)。ここまでくるともう雲の上に出た。新緑の梢の向こうに、利尻が見える。抜けるような青空が広がり、強い陽射しが降り注いでいる。しかし、気象情報では、今後、天候は悪化の一途をたどる。今日のうちにできるだけ距離を稼いでおきたい。
 快適そうな野営場をあとに、僕はひとり歩きはじめる。野営場には二張り、天幕が張られていた。
 機上から見た利尻にはほとんど残雪はなかった。せいぜい谷筋に残っている程度だ。それを裏付けるように、山麓では新緑が素晴らしく、その林床では春の花々が咲き乱れていた。
 入山の一週間前、利尻富士町役場(*3)に問い合わせたところでは「例年より雪解けが遅く、五合め以上では残雪が見られる」とのことだった。僕の質問に対する答えが要領を得ていなかったので、役場の人は登山の素人ではないかとは危惧したのだが、一応、アイゼン・ピッケルにプラスチック靴などの春山装備を携えた。しかし、こりゃ、まったく不要なのではないか?
 僕の記憶のなかでは、あの五月初旬の利尻の冬姿が必要以上に強く焼き付けられていたのかもしれない。でも、今は六月初旬。確かに利尻では花の季節のはじまりなのだ。
 登るにつれて、僕の危惧は裏付けられた。確かに、五合め以上の谷筋には残雪が多い。でも、僕のたどる北稜には残雪などありゃしない。そうわかるにつれて、別の不安も頭をもたげる。残雪がないということは、水の補給にも苦労するということだ。下手をすれば、今日と明日の二日間、手持ちの水1Lでしのがなければいけない。
 果たして、下山するパーティ二組とすれちがった。地元北海道の登山者だろう。だから、この時期の利尻の状況をよく知っているのだ。みな、軽登山靴で登っている。
 やれやれ。こんな重装備で登っている自分が恥ずかしかった。

 6/2(金)17:00 利尻岳山小屋(標高1200m付近)にて

 針葉樹林帯を抜け、やがて灌木帯へ。そして、いつのまにかハイマツ帯へ。低い標高で次々と樹相が切り替わるのは、さすがに緯度の高い土地、利尻だけのことはある。
 やがて、北稜を登るにつれて高層雲が広がりはじめた。眼下には素晴らしい雲海が広がっている。でも、そのおかげで日本海を望むことはできない。足元には春の花々が咲き競う。さすがに「花の名山」利尻だ。時期はまだ早すぎるとはいえ、美しい高山植物が足元の林床で風に揺れている。ツバメオモトザゼンソウ、そして、エンレイソウの一種(あとで調べると、北海道に分布するオオバナノエンレイソウと判明)など。
 こんな最北端の土地なのに意外と気温が高く、汗を搾り取られる。しかし、登るペースは快調だ。約3時間で標高差1000mを獲得し、夕方5時過ぎには長官山に立つ。残雪状況を見ながら、どこで飲料水用の残雪を確保すべきかをチェックしながら登ったが、避難小屋付近に豊富な残雪があることがわかり、ほっと一息つく(*4)。
 夕方、わずかな時間ではあるが、青空が広がる。雲海の果てに沈んでいこうとしている初夏の太陽が見える。しかし、数瞬後にはガスが流れ、太陽も利尻も包み隠してしまった。やはり天候は悪化に向かうのだろうか。ドコモのiモードで気象情報を収集。今晩は何とか安定しているようだが、明朝から降水確率が飛躍的に高まるようだ。
 広い避難小屋で、今宵、僕はひとりで眠ることになる。
 簡単な食事をした後、ウイスキーをなめながら小屋に備え付けのノートに筆を走らせる。そして、酔った勢いで、それまでほとんど誰にも話すことができなかった思い、怒りを書きつづる。
 誰が、どんな資格で山歩会を解散させたのか!
 解散を決めた当時の現役たち、君たちはそんな甘い認識で山に登っていたのか!
 でも、ここでそんなことを書いてもしかたがないね。どうしても読みたい人は、利尻に行ってノートを読んでくれ。少なくとも僕はいまだに怒りも悔しさも忘れない。
 翌朝、天候が大きく崩れる前には利尻北峰に立ちたい。そのために、八時前にはシュラフに潜り込んだが、窓の外はまだまだ明るかった。これも緯度が高い利尻ならではのことなのだろう。

 6/3(土)03:00 利尻岳山小屋にて

 いろんな夢を見た。その夢はどこかであの記憶につながっていた。
 ふつうの人々よりも第六感(シックス・センス)が強いと自認する僕は、もしかしたらここで「何か」に出会うかもしれないと、半ば怖れ、半ば期待してもいた(苦笑)。金縛りも予知夢も既視感も、僕にとっては日常茶飯事の経験だ。しかし、大きな出会いはなかった。でも、あいつは僕の意識の表層下にきっと足跡を残したと思う。
 朝方、3時過ぎに眼が覚める。それまでにも風の音、小屋の軋みなどで幾度か眼を覚ましていたが、今度はちがう。雨の音だ。激しい雨が降りはじめていた。
 くそっ、もう降りはじめたか。しかも強風を伴い、相当に激しい。
 起きあがってみると、もう窓の外はうっすらと明るい。この緯度では朝の訪れも早いのだ。
 再び、シュラフにくるまる。
 ここまできたんだ、頂上まではあと少しだ。しかし、相当激しい雨だなあ。
 まだ覚醒しきらないぼんやりとした意識でそんなことを考えている自分に気付く。
 おいおい、ちょっと待て。僕の意志が試されているんだぞ。
 そう、ちょうど1年前、昨年6月初旬の東北・朝日連峰でもそうだった。あのときは低気圧のなかに突っ込んでいくことを承知の上で、激しい雨のなかを山毛欅の原生林に踏み込んでいったんだっけ。そうだ、こんな程度の雨なんて幾度も経験済みだ。僕の意志こそが問題なんだ。
 僕は起きあがり、朝食の準備をはじめる。そして、雨が小降りになるのを待つ。まるで僕の意志を試していたかのように、雨はやがて小降りとなり、一瞬の青空が広がった。
 昨日から不可解な天候が続く。激しい雨と抜けるような青空が交互する。気象変動が激しいのだ。これも日本海上の孤峰、利尻ゆえのことなのか。
 午前4時半、不要な装備を小屋に残置し、僕は利尻北峰に向かった。

 6/3(土)05:30 利尻山北峰(1719m)にて

 小屋から山頂までは、まさに無雪期ルートそのままだった。さらに急峻になる尾根をひたすら登るだけだ。何の困難さもない。せめてこのあたりから上は残雪を踏んで登れるのではないかと期待していた僕にとっては、ちょっと期待はずれ。やはり、無理してでも5月中に訪れるべきだったか。
 山頂の一角に飛び出すと、視野に奇岩・ローソク岩が飛び込んできた。山頂にある利尻神社の社も見える。
 午前5時半、利尻山北峰。
 天候は悪化の一途をたどっている。先ほどまで広がっていた青空もガスに覆い隠されている。眼下にはどこまでも雲海が広がる。
 晴れていれば、どこまでも広がる日本海が見えただろう。晴れていれば、東には北海道本土、北には礼文島、そしてはるかに樺太(サハリン)も見えたことだろう。
 僕は山頂で、あいつにウイスキーを飲ませてやった。社の四隅の礎石と三角点にウイスキーを染ませた。たっぷり飲ませようかと思ったけれど「すぐに酔っちゃうからやめてくださいよ」と笑うあいつの声が聞こえたような気がしたからやめた。
 利尻は深いガスに閉ざされつつあった。十年前のあの日と同じに。ひと吹きの風には雨の匂いがした。その匂いをかいで、僕は下山をはじめた。
 小屋に戻って装備をパッキングした後、午前7時過ぎ、僕は下山をはじめた。長官山で利尻を最後に振り返ったとき、ちょうど利尻はガスに隠された。
「石井、またいつかな」
 僕はそうつぶやいて、もう振り返らずに下りはじめた。それと同時に激しく雨が降りはじめた。
 そこからは滝のように激しい雨のなかを、僕はどこまでも下っていった。

 6/3(土)12:00 鴛泊港(標高0m)にて

 午前8時半には北麓野営場に着いた。相変わらずの激しい雨だった。そこからタクシー(*5)を呼んで、昨年オープンしたばかりだという利尻富士温泉(*6)に行き、汗を流して濡れたものを乾かした後、僕は鴛泊港まで歩いた。十年前、捜索のために駆けつけた僕たちは、礼文島香深港からのフェリーでここ鴛泊港に着いたのだ。そのフェリーは捜索に向かう僕たちを乗せるために、出航時間を1時間も延ばして待っていてくれた。事情を知った乗船客からは何の不満も出なかったという。
 ザックを背負い、疲れた足取りで鴛泊港まで歩く途中、僕はペシ岬に立ち寄った。日本海に切り立つ断崖だ。カモメがにぎやかに鳴き、飛び交っていた。まさに北の果ての岬だった。日本海はあのときと同じく灰色、でも波は穏やかだった。
 雲が低く垂れ込めた鴛泊港(*7)は、僕に十年前の利尻の空と海を思い出させた。
 でも、利尻は美しい土地だった。十年の歳月のせいかもしれない。灰色の空の色や海の色さえも、そしてもちろん春爛漫の新緑も、咲き乱れる花々も、僕にはすべてが優しく感じられた。僕の利尻への思いが少し変わった。
 鴛泊港から利尻空港に向かうとき、タクシー乗り場で、往路野営場まで乗せてくれた運ちゃんに会った。

「おお、もう下りてきたんけ?」
「うん、天気が悪かったからね、ひどい雨だった」
「ちゃんと上まで、登ったけ?」
「ああ、頂上は晴れてたよ」
「そっか、そりゃ、よかっただわな。供養もできたか」
「うん」
「もう、帰るんだな、んと、京都だったか」
「ああ」
「そっかあ、んじゃ、元気でなあ」
「うん、ありがと、おじさんもな、元気でな」

 僕は利尻空港に向かう。午後の千歳便に乗るのだ。
 車窓に流れる原野の向こう、利尻には雲が低くかかり、もはやその姿を望むことはできなかった。
 でも、僕はもっと楽しい思いを描いていた。
 近いうちに、僕はここを、この美しい利尻を再び訪れるだろう。
 たぶん、きっと。



 <注>

(*1)6月以前は、関西から利尻に入るのはかなり不便だ。
    伊丹−羽田−稚内−利尻と、途中で二回乗り換えるのが最短。
    しかし、羽田−稚内便がないときには、伊丹−羽田−函館−丘珠−稚内−利尻と途中で1泊して、四回乗り換えが必要だ。
    いずれにしても航空ダイヤは変更が多い。よく調べる必要がある。
(*2)利尻空港から約20分、料金約2000円。5月中旬〜10月中旬までオープン。
    電話BOX、トイレ、バンガロー有り。また幕営は無料。
    利尻北麓野営場:01638−2−2394
(*3)利尻富士町役場:01638−2−1111
(*4)但し、この残雪も6月中には消えてしまうと思われる。そうなると避難小屋近辺では水場は確保できない。
(*5)富士ハイヤー:01638−2−1181
(*6)利尻富士温泉:01638−2−2388
    5月〜10月は休館日なし、10:00〜21:00
    入浴料:大人400円、貸しタオル有、シャンプー・石鹸備え付け、コインランドリー有り(2台)
(*7)<みやげもの>
    「粒うにの一夜漬け」が絶品! いわゆる「練りうにのアルコール漬け」ではなく、塩漬けにしたもの。
    日本酒にぴったり、口に含むと潮の香りが漂う。騙されたと思って買ってみて!
    むらさきうに=1300円、ばふんうに=1800円
    鴛泊港フェリーターミナル向かい側に数軒連なる土産物屋で売っている。
    <食事>
    フェリーターミナル2階の食堂で。
    ウニめし=2800円(僕は食べ損ねた、ウニの集荷作業がお昼時に間に合わなかったため)
    ウニ寿司=1000円(3カン、これも集荷作業が間に合わず)
    いか刺し定食=1300円(イカが1匹まるごと盛りつけ、さすがに新鮮で旨い!)
    ボタンエビ刺身=1200円(これはもう絶品!)