ムービーランド
店長の 映画言いたい放題 251-300

★=1ポイント、☆=0.5ポイントで、最高は5ポイントです。


『ゲド戦記』( seen by DVD )
観た日:2007/07/15
お薦め度:★★★★ もう一度観たい度:★★★★★

2006年06月19日に、劇場で観ました。でも当時から、書けなかった(というか、書きかけ)レビュー。いろいろ考えされられたのさ。で、もう一年たっちゃった。そしたら、先週DVDが発売されて(その遥か前から延々とPR広告が垂れ流されてましたね)、買っちまった。
で、観た。2回観た。うむ。
ジブリ作品って、アニメとしてのクオリティはとっても高いので、それだけで“観せちゃう”ところがある。でも、ジブリ作品であることと、宮崎駿作品ではないことの差って、とっても大きい。
その一つ目は、“言葉による唐突な主張や説明”があるかないか、だ。本作の場合は「“限りある生”=“死”を受け入れることで今を一生懸命に生きられる」という主張が、言葉でなされちゃうのだ。ハイタカもテルーも話し過ぎなのだ。ところが、宮崎駿が演出する作品は、言葉の代わりに映像で説明がされ、映像を観てみんなが納得することができる(と、思う)のだ。
それから、コマ割りとかシーンとかにも唐突さがある。最たる部分が、竜の登場である。テルー(テハヌ)と竜の関係がワカラン。でもテルーは竜になる。まぁまぁ想像しなさいよ、ってことなのかもしれないけど、かなり不親切な感じを受ける。
たぶん、ストーリーを“削る”のと“省く”のは違うのだ。“削る”作業は“磨き上げる”に似たものだが、“省く”というのはただ単純に“そこからなくなる”ことを意味するわけで、だから、観る人の第一声に「意味がわからなかった」というのがあるわけ。この“省かれた部分”を自分なりに想像しつつ補完しつつ観ることができると、最初に観た時点で、面白いという意見に収束することができるかもしれない。でもそれを強いるのは、製作側のエゴともいえるよね。
失敗作でも駄作でもないと思う。世界中で親しまれている大巨編を取り上げるのだし、監督の意思思想が反映されるのが映画というものだから、いろいろ言われたとしても、別に構わないと思う。
でもな〜、あんなに文句タラタラ非難ブーブーだった本作を、DVDを売らんがために、さも名作っぽく祭り上げるのはなぁ。商売だからね〜上手に広告するに越したことはないんだろうけどね〜。
ま、親殺しまでしちゃったわけだし、吾郎監督も、逃げ出さないで次々と作品を発表しつづけてくださいな。


『茄子 アンダルシアの夏』( seen on TV )
観た日:2007/06/30
お薦め度:★★★★ もう一度観たい度:★★★★★

2003年作のアニメ。
上映当時、47分という短さにもかかわらず通常料金だったので、元は取れるのか〜?と思いながら観たのだが、ノックアウトされました。そして、今回もKOされた!
当時の寸評では、ぺぺ役の大泉洋を「2世紀にまたがる最強のローカリスト」と称していたが、なんというか、もうローカルタレントではありませんねぇ。
スタジオジブリの作画監督の高坂希太郎が、監督をしているので、なんとなくジブリ作品みたいな気がしてしまうのだが、製作はマッドハウスです。ジブリは関係ありません。ま、絵も、ジブリじゃないもんね。
個人的には、自転車レースには詳しくないけど、でも、このアニメでは、そんなことは関係なくレース自体が楽しめる。特に、最後のガチャガチャが、いいですな。
人間関係がしっかりしていて深く織り込まれているので、むしろそっちの方が楽しめるかな。これを言葉で細かく説明せず、絵で見せているのがいいです。
後味爽やかだし、短いアニメだから、買って持っていて一日の最後に観てスッキリして……ってのも、アリかな。


『ダイ・ハード』( seen on TV )
観た日:2007/06/24
お薦め度:★★★★☆ もう一度観たい度:★★★★☆

1988年作。ブルース・ウィルスが、まだ映画界では無名で、まだおでこにそれなりに毛が残っていたときの映画。
アメリカの何とかという映画雑誌で、最近、アクション映画のナンバー1に選ばれたらしい。
たしかに。この映画は面白い。人がジャカスカ死んじゃうけどね……。
最初は『タワーリング・インフェルノ』(1974)のパクリかと思った。火がいっぱい出るし。で、映画館で観ました。浅はかでした。派手なドロボウと、妻と別居中の裸足男との戦い、でした。
この裸足。キーワードですね。誰もが、簡単に想像できてしまう痛さです。割れたガラスの上なんて、歩けません。ま、『オーメン』(1976)(でしたっけ?)の針の上もどうかと思いますが、普通の人は、修行でなければ針の上は歩かないので、やっぱりガラスですかね痛いのは。
また、人のよい下っ端警官、マヌケな上司、もっとマヌケなFBI、割と誠実な日本人社長、マヌケな同僚、ゾンビな敵、とか、ロレックスとかすべる畳とか、ブルース演じるマクレーン刑事が何度もつぶやく「考えろ!」にあやかる必要なんてないくらい、よ〜く考えられて作られている映画です。
撮影がヤン・デ・ボンだったんだね。知らなかった。
ま、面白い映画であることは間違いなし。ブルース・ウィリスが嫌いならともかく、観ましょう!


『ハッピーフィート』(吹替)
観た日:2007/04/29
お薦め度:★★★★ もう一度観たい度:★★★★☆

監督・共同脚本・製作は『マッド・マックス』(1979)、『ベイブ』(1995)!のジョージ・ミラー、共同脚本はジョン・コリー、ジュディー・モリス、ウォーレン・コールマン、音楽は『シュレック』(2001)のジョン・パウエル、振り付けは『フットルース』(ミュージカル)のケリー・アビー、タップダンスは天才セヴィアン・グローバー、美術は『M:I-2』(2000)のマーク・セクストン。声優にイライジャ・ウッド/手越祐也(マンブル)、ロビン・ウィリアムズ/ブラザートム(ラモン/ラブレイス)、ブリタニー・マーフィー/園崎未恵(グローリア)、ヒュー・ジャックマン/てらそままさき(メンフィス)、ニコール・キッドマン/冬馬由美(ノーマ・ジーン)、ヒューゴ・ウィービング/水野龍司(長老ノア)。

皇帝ペンギンは、歌で人生を表現する。そんな南極で、歌姫ノーマ・ジーンを射止めたメンフィスは、過酷な吹雪の季節、守っていた卵をうっかり落としてしまった。心配していたが何事もなく息子マンブルが産まれた……ように思えたのだが。彼はオンチだった。かわりにタップを踏んだ。皇帝ペンギンとしてはまったくの落第者。すべてを受け入れ愛そうとするノーマ・ジーンとは対照的にメンフィスは心を痛める。ある年、魚がなかなか取れなかった。長老ノアは、その元凶はマンブルだと言う。謎を追って、偶然知り合ったアデリーペンギンのラモンらと“禁断の地”へ旅に出たマンブルは、人間の漁港に到着、マンブルは漁船を追い、泳ぎ疲れ、都市の浜辺へ漂着、水族館に引き取られた。お腹一杯に餌を与えられ、南極の魚が取れないことを調べるという、本来の目的を忘れてしまうマンブル。しかしあるとき、心の声が聞こえ、無意識に踏んだタップが見学客に見つけられた。驚いた科学者たちはマンブルに無線機をつけ、南極に連れて行った。マンブルは皇帝ペンギンの国に帰った。真実を話すマンブルに同調する家族らと、彼を受け入れない長老たちの前に、ヘリコプターが下りてきた。

この映画の出来がいいのは、半年以上前から知っていたので、最近は新作映画はなかなか観る余裕がないけど、これだけは見たいって思っていたのだった。
もう、アニメなのにあんなに毛がフサフサしているとか、見たことない動きをするとか、そんなには部分には驚きはしない。ペンギンたちが一頭ごとに別の踊りをしていることにも驚かない。既に開発された技術だからね。まぁ楽しいけどね。
この映画の見所は、なんといってもマンブルの疑問から展開する、前半とはまったく違う後ろのシナリオである。なんなんでしょね、この映画。別に、子供に、踊るペンギンで釣って乱獲防止キャンペーンを植えつけようとか、そういうことなワケではないと思う(クジラも魚を食いまくってるが、その部分には触れられてはいないけど)。しかし、ただ楽しいとか、冒険活劇だとか、ハッピーエンドだとか、そんなところに着地点がないハリウッドCGアニメっていうのは、珍しいではないか。
というか、きっと、ストレートな脚本じゃなくて、こういう癖のある変化球でストライクを取れないと、打者を打ち取れない(集客できない)ってことなのかな?環境問題なんかを入れないと、出資者を説得できないってことなんだろうか?世知辛いね……。
なにはともあれ、出来はいいです。観て損はなし。陳腐な言い回しだが、オトナも子供も楽しめると思う。


『オズの魔法使い』( seen on TV )
観た日:2007/02/21
お薦め度:★★★★★ もう一度観たい度:★★★

1939年の作品である。
どうよこのCGの完成度。魂がこもってるよね。特にワイヤーアクション(って、当時はそんな言葉なかっただろうな……)。ドロシーをさらっていく“飛ぶサル”のところなんてさ!いや〜きっと、みんながこれを真似して、今日の香港映画や日本の映画やTVがあるんだと思う(この辺は、語りつくされていると思うので、あんまり偉そうに書けませんが)。
ほかにも、たとえば悪役の魔女が水をかけられて溶けていく場面や、案山子男が襲われるシーン。もちろんフロアに穴を開けているんだけど、当時の無垢な子供達は、これを見てどれだけ衝撃を受けただろうか?まぁスレッカラシな子供もいたと思うけど。
ドロシー役のジュディー・ガーランドは、可愛いし初々しいし素晴らしい。他の配役も2.5枚目の感じでよい。
あと、主題歌『虹の向こうに(Over The Rainbow)』がやっぱり素晴らしいですね。スタンダードナンバーとしての地位という既成でなく、純粋に良い歌です。
それにしてもアメリカって、今も昔も、竜巻に悩まされてきたんですね〜怖いね〜……
あ、言い忘れたけど、犬のトト、可愛いっす!
そそ、“オズ(oz)”って、原作者ボームの出身地“ニューヨーク(NY)”のその次、っていう意味があるんだってさ。ほほぅ。『2001年宇宙の旅』(1968)のHAL9000が、IBMの“次”を差しているのも、これのオマージュなんだな〜シミジミ。


『ファイヤーフォックス』( seen on TV )
観た日:2007/02/01
お薦め度:★★★★ もう一度観たい度:★★★

なかなか観る機会がなく、やっと観ることができた。
冷戦時代に、マッハ5で飛び思考を認識して攻撃できる戦闘機『ファイヤーフォックス』を開発したソ連に、潜入し略奪するアメリカ空軍一のパイロットの話である。クリント・イーストウッドが、制作・監督・主演をしている。
1982年の映画だから、CGも現代的に出来上がっていて、そっちの見栄えもいいのだが、それよりも、冷戦時代で、スパイ活動とか反体制勢力とかが実際にあったという背景に、映画にのめり込める説得力がある。
そうそう、これについては、現代の若者(う〜私ってオヤジ?)には理解できないモノなのであろう。だいたいにおいて、ソビエト連邦共和国も東ドイツ(ドイツ民主共和国)も知らないヤツがいるんだもん。そういう人は親が持っている(かもしれない)社会の地図帳を借りてみましょうね。
で、戦闘機のアクションシーンは、たしかに凄い。20年以上前のクオリティとしては凄い。
でもやっぱり、クリント・イーストウッドでしょ。なかなか俳優として上手いんだよ彼。そう見えないけど……(偏見?)。表情もそうだけど、任務の重さと、自分のために命を投げ出す反体制主義のロシア人への困惑に、揉まれていく数日間を、ベトナム戦争への反省のオマージュと共に、キッチリと演じているのが好感です。
それから監督としても!『硫黄島からの手紙』とかで、話題再燃な感じがあるけど、イーストウッドは映画人として力あると思うよ。特に監督として。もちろん『
ミリオンダラー・ベイビー』なんかを敢えて取り上げることもないよね。
ちょっぴり笑ったのが、ゴールデン・ブブローブ賞の授賞式の映像だけど、渡辺謙よりもイーストウッドのほうが小さく見えた(というか微妙に大きいか?程度)こと。なんか、もっとでかいイメージだったからね。まぁ別にいいんだけどさ。
というわけで、CG創世記でリアルなスパイ映画終末ということで、押さえておいてもいいのではないでしょうか。


『オーロラの彼方へ』( seen on TV )
観た日:2007/01/23
お薦め度:★★★★★ もう一度観たい度:★★★★★

2001/01/19に映画館で観た。当時の寸評は以下。
『オーロラの彼方へ』
デニス・クエイドが、なんてったってカッコいいですよね〜これ。この後に彼は『オールド・ルーキー』でも、渋い演技を見せているのだが、個人的にはこっちの映画のほうが断然良いですね。
そして息子役のジェームズ・カヴィーゼルも、演技に食いついてきているし。
なによりも脚本の練りこみ方と演出の繊細さが、とっても秀逸だから、見ていて飽きないし、また見たくなる。30年を飛び越えて進むストーリー、父と息子の絆、出演者一人ひとりの演技の細かさなど、見所満載である。単なるSF映画の枠を完全に突き抜けていると思う。
ただな〜、オーロラが出たからといって、時空は飛び越えないけどね。そんなこと言ってたら、南極とか北極圏とかなんて、天然のタイムトンネルだもんね。
実は私、オーロラを観に、アラスカに行きました。凄かったな〜。頭の中で勝手に、シャンシャンと鈴の音が聞こえてきたもんな。雪の上に寝転んで、何時間もただただボケ〜ッと、真上に揺らぐ光のカーテンを見ていたっけ。掲示を受けた気がするよね、アレは、ね。


『ノッティングヒルの恋人』( seen on TV )
観た日:2007/01/18
お薦め度:★★★★ もう一度観たい度:★★★☆

1999/10/01に映画館で観た。当時の寸評は以下。
『ノッティングヒルの恋人』
ジュリア・ロバーツ、やっぱり可愛かった。でも顔はヘンだ。個々のパーツがでかすぎる。というか、小さい顔面骨格にアレが乗っかってるからそう見えるのかな。特に口がでかいよね!でも仕草が可愛かったので許してあげる。あ〜いう仕草や表情って、天性なのか努力なのかわからないけど、この映画では、良かったです。
ヒュー・グラントは、やっぱり情けないと思う。純情ぶってもさ〜、情けなさが先に、鼻につくというか。まぁあれも演技のうちなんだろうな。
リス・エヴァンスは文句なしだ。半ケツ出しの言動異常の行動奇天烈が、とってもピッタシである。あれが同居人なのは怖いが、向かいのアパートに暮らしてる程度であれば、大歓迎である。その他にも、いろいろヘンなイギリス人がゾロゾロ出てきて、やっぱりイギリスっていう国は、ヘンな人が多いんだなって思う。
今回、字幕が、劇場版と替わっている(と思う)。こうまで内容が替わるもんなんだな〜と、改めて思う。(だからといって、それに良い悪いというものが付いてくるってわけではないです。)
夜中に忍び込むプライベートガーデン。ロンドンっぽくてなかなか良いね。ああいうふうに忍び込んだ所って、なんでワクワクするんだろ。演出も撮影も良いです。どこまで上にあがるんだ!っていうカメラ、グーです。
ラブコメなんだけど、ベタベタしてないし、エンディングも許せるし、まぁ買うほどではないかも知れないけど観てない人は、借りて観てもいいと思います。


『Shall We Dance ?』( seen on TV )
観た日:2007/01/12
お薦め度:★★★ もう一度観たい度:★★★

ご存知、周防正行監督の1996年の大ヒット作を、ハリウッドがリメイクした作品である。
実は!いままでこの映画を、観たことがなかった。
なによりも、原作の映画に、とっても忠実なのが、ビックリです。ここまで原作を尊敬してくれてるのは、なんか凄く嬉しいぞ。
リチャード・ギアって、なんか、ヘンじゃん。痴漢オヤジみたいで。ジェニファー・ロペスも、なんだかな〜。でも、この映画では、ふたりともなかなかかっこよかったですな。
でも、竹中直人があんなに気持ち悪いのに、こっちではあんまり気持ち悪くなかったのがガッカリ。というか、竹中直人って、いつもやりすぎだと思っているんだけど、この映画に関しては彼を超える演出はハリウッドでもできなかったってことで、それは凄いもんだぜ。
家族愛を、原作よりも、より強く描いているのも、なかなかいいじゃん。
でも、商業的に、あっちではどうなんだろ?
まぁ売れても売れなくても、映画というものは、その存在が薄れるものではないんだけどな。


読者の皆様、2007年もよろしくお願いいたします。
どっこい私、生きてます。

いつもながらの不定期で、ごめんなさいです。
間隔があく理由は、単に、新作映画を観に行く時間が取れないことです。こればかりは、なんとも仕方ないのです。仕事とか、いろいろ理由があるからね。

でも、映画は観てます。TVとかだけど。

で、書きたい気持ちも、もちろんあります!

ではどうしたら、自分の“書きたい”気持ちに折り合いがつくのか?

これまで、劇場で観た映画のみ、その感想を書いてきました。その専らは、自分のための感想文みたいなもんでした。だからパンフレットも100%買って(売り切れで手に入らない場合を除く)、自分の肥やしにしてました。

2007年は、ちょっと趣向を変えようと思います。

このメルマガが始まって、今年で8年くらいです(明確に覚えてないところが、私らしいな……)。
よく続いたもんです。
現在の情況として、いままで同様では、いつになったらメルマガが発行できるのか、全然わからないのです。
時代背景として、新作映画の情報は、たとえばネットを通じてであれば、正確なものが得られるようになってきているということも、当然ながらあります。まぁ私ごときが、偉そうに、新作情報を伝える義務とか使命とかなんて、あるはずもないのですが。

新作映画、という縛りがあると、書けないのです。私、書きたがりなんだね。いまさらですが。

だから、感想文という部分は変わらないのですが、観た映画について、とにかく何でも、書いていこうと思うのです。

初めての、主旨変更ですが、どうぞみなさま、これからもお付き合いくださいますよう、お願い申し上げます。

あ〜、え〜と、昔観た新作のインプレッションもあるので、そっちも混ぜます。
もちろん、新作を観たときには、いままでどおり書きます。

そんなこんなですが、どうぞよろしくお願いします〜!


『単騎、千里を走る。』 観た日:2006/02/21
お薦め度:★★★★ もう一度観たい度:★★★

監督は『初恋のきた道』(1999)のチャン・イーモウ、脚本はヅォウ・ジンジー、中国組の撮影監督は『HERO』(2003)のジェオ・ショーディン、美術はスゥン・リー、編集はチェン・ロン、日本組の監督は『鉄道員(ぽっぽや)』(1999)の降旗康男、撮影は『ホタル』(2001)の木村大作、美術は若松孝市、編集は川島章正。キャストは高倉健、リー・ジャーミン、ジャン・ウェン、チュー・リン、ヤン・ジェンボー、寺島しのぶ、中井貴一。

漁師の高田(高倉)は、仲たがいしている息子(中井)が末期ガンであることを、その妻(寺島)から聞く。そして息子が取り組んでいた中国南部の雲南省での、舞踊俳優リー(リー)の舞台を撮影するため、ひとりで現地に赴くことにした。それは息子との溝を埋める旅でもあった。言葉のわからない高田は、旅行代理店のジャン(ジャン)と、片言の日本語の現地ガイドチュー(チュー)に頼りながら、リーを探すが、そのリーは暴行罪で服役中だった。彼に踊ってもらうため、役人らへ仲介を求め、なんとか刑務所に訪問できた高田だが、リーは高田に自分の息子ヤン・ヤン(ヤン)への想いが重なり、泣き崩れてしまい舞うことができない。高田はリーの息子を連れてくることを誓い、息子の村へ向かった。やっとヤン・ヤンを見つけたそのとき、高田は自分の息子が死んだことを知らされる。舞踊の撮影は、間に合わなかったのだ。

チャン・イーモウ監督が、高倉健に憧れて、高倉健のためにシナリオを練って作った映画。
『HERO』とかごつい映画も得意だが、本作は、中国人キャストはほぼ全員素人。地元で生きる人たちのリアルを引き出すという演出も得意な彼ならではの手法である。
高倉健が、夕暮れの男鹿半島で、仁王立ちしてる。カモメが飛んでる向こうで、雲間から差す日の光が幾筋にもなって水平線に刺さっている。
これって、泣くでしょ?泣けちゃうよね自動的に。
困ったな〜。こんな絵。
でも、これを撮ったのは、チャン・イーモウではなくて、降旗監督なんだよね。降旗組(というか、高倉組)としては、まぁ必然のカットなんだけど、こういうのって中国の人たちには、届くのかな。
で、中国でのシーンのほうはというと、ん〜。まぁなんといっても、高倉健のために書いたシナリオだからね……。悪くはないですがね……。
寺島しのぶが、グッと抑えた最高の演技をしている。
一方、中井貴一は、しゃべるだけでもヘタさが滲み見えてしまうぞ。というか、あの大向こうを張ったようなしゃべり方、改めてこいつってヘタだな〜と思いました。
ま、とにかく、健さんの、映画です。
そうそう、『単騎、千里を走る。』というのは、三国志のなかの話で、関羽が劉備の妻と共に曹操から脱出するという場面の、仮面劇のことである。


『スキージャンプ・ペア』 観た日:2006/02/17
お薦め度:★★★★★ もう一度観たい度:★★★★★

総監督(原作)は真島理一郎、監督は小林正樹、撮影は吉田誠。キャストは志賀圭二郎、益子智行、益子和浩、谷原章介、アントニオ猪木、船木和善、八木弘和、荻原次晴。

スキージャンプ・ペアという競技がどのように生まれ、そしてトリノオリンピックに繋がっていったかを、ナレーター(谷原)を通じて紹介していく、二部構成のドキュメンタリー。北海道工科大学の原田敏文教授(志賀)は、冷凍庫内でポッキンアイスが2つに分裂するのを発見し、1994年に「一部の有機体が氷点下環境において、加速飛行する時、その素粒子は、分裂し、安定状態を保つ」という通称“ランデブー理論”を発表した。これを追求すると、スキージャンプはペアで飛ぶほうが、飛距離が増すことになる。この理論を裏付けるため、教授は双子の息子たち(益子兄弟)に特訓をおこない、遂にペアでの飛行に成功する。スキージャンプペアという新競技への理解、競技人口の増加に奔走する原田教授の熱意は、徐々に賛同を集め、海外からの挑戦者も現れた。アントニオ猪木の平手108発、原田教授の死去、離れ業の完成、バミューダ事件など、紆余曲折しながらも、遂にこの競技はトリノオリンピックに正式採用される。

文句なく、お勧め。レンタルではなく、一家に一本って感じ。
もともとはCG制作の過程で生まれたネタである。これがDVDになり(こっちは観たことある人、多いんじゃないかな?)、遂に劇場映画である。しかもCGと実写の合体作として、である。
ホンモノのアスリートが出ていることが素晴らしい。船木や八木や荻原、勇姿がまだ瞼に焼きついている人も少なくないだろう。彼らが、自分の言葉で、スキージャンプペアを語っている。凄い。
さらに、108つの煩悩を吹き飛ばすために、ランデブー飛行を成功させ滑走してくる競技者を、張り手でなぎ倒すアントニオ猪木の、その本気度!妙に説得力がある。
ちりばめられた小ネタやパロディの数々も、とっても素敵でくすぐられる。
いまや、近代スポーツ文化はかなり成熟している、という意見もあるが、しかし南米アマゾン川の逆流現象“ポロロッカ”の波に乗るサーファー(落ちたらピラニアが待ってる)とか、まだまだ未知の競技がありそうだし、って、そんなことはど〜でもいいから、誰か、ペアでジャンプしてくれ!


『THE有頂天ホテル』 観た日:2006/02/01
お薦め度:★★★★☆ もう一度観たい度:★★★★★

監督・脚本は三谷幸喜、編集は『みんなのいえ』(2001)の上野聡一、美術は『スワロウテイル』(1996)の種田陽平、撮影は『ホワイトアウト』(2000)の山本英夫、音楽は『メッセンジャー』(1999)の本間勇輔。キャストは役所広司、伊東四朗、生瀬勝久、戸田恵子、香取慎吾、西田敏行、佐藤浩市、松たか子、篠原涼子、角野卓造、原田美枝子、その他大勢。

大晦日。ホテルアバンティは、カウントダウンパーティに備えてネコの手も借りたいくらいの大騒ぎをしていた。副支配人の新堂(役所)は、思い付きを口にする総支配人(伊東)と保身が身上の副支配人瀬尾(生瀬)に悩みつつ、腹心の部下矢部(戸田)とやりくりに苦心する。ベルボーイの只野(香取)は、ミュージシャンの夢を諦め、今日を限りに実家に帰るつもりだったが、演歌歌手の徳川(西田)とバッタリ出会う。国会議員の武藤(佐藤)は、スキャンダルのほとぼりが醒めるのを待つためにアバンティに隠れており、ルームサービスの竹本(松)は、かつて武藤の愛人で一人息子がいた。コールガールのヨーコ(篠原)は客引きに余念がないし、ヨーコの常連の堀田(角野)の妻由美(原田)は、新堂の別れた妻だった。その他、ゴチャゴチャな登場人物たちが、不思議な幸運らしき糸に手繰り寄せられつつ、遂にパーティが始まる。

三谷幸喜が嫌いなら、あるいは理解できないなら、この映画は面白くない。わざとらしいし、ドタバタが舞台臭くて小さくまとまってるって思うかも。
でも、三谷幸喜が好きで、あるいは飲み込んでも消化不良を起こさないなら、細かい仕込みは笑いに繋げられるし、ドタバタは予定調和であってもそれごと楽しめるだろう。
つまりこの映画は、観る側の“視点”を選んでいる。
嫌いなら仕方ないけど、面白いと思ってくれるならどうぞ何回でも観てください、って感じ。
こう思うところが、すでに三谷マジックにハマってるといえそうなので、癪ではある。
猛烈なコマ割りを、編集に求め、そのための演技を役者に求め、自身はとんでもない演出をおこなったに違いない。でないと、こんなストーリーは組み上げられない。
こんな映画は、たしかに三谷しか撮れないかもしれない。そういう意味で、テクニックは観ておいて損はないだろうな〜。でもこの点でも、好き嫌いが出そうだけどね。
役所広司はさ、上手いよたしかに。画面に出てくると安心感があるしね。ただ、他の役者が“はっちゃけて”いるのも確かなので、誰に注目しても、結構な満腹感が得られると思う。
文芸的な香りはしないし、芸術的な意図は感じられない。娯楽。その一点で、しかし映画は成り立つという見本。
ま、金もかかってるけど……


『SAYURI』 観た日:2006/01/11
お薦め度:★★★★ もう一度観たい度:★★★☆

監督は『シカゴ』(2002)のロブ・マーシャル、脚本は『若草物語』(1994)のロビン・スゥイコードと『クイルズ』(2000、脚色)のダグ・ライト、撮影は『コラテラル』(2004)のディオン・ビーブ、衣装は『スリーピー・ホロウ』(1999)のコリーン・アトウッド、音楽はジョン・ウィリアムズ、チェロにヨーヨー・マ、ヴァイオリンにイツァーク・パールマン。キャストに『オペレッタ狸御殿』(2004)のチャン・ツィイー、『グリーン・デスティニー』(2000)のミシェル・ヨー、『ラスト・サムライ』(2004)の渡辺謙、『どら平太』(2000)の役所広司、『東京夜曲』(1997)の桃井かおり、『始皇帝暗殺』(1998)のコン・リー、『ヒマラヤ杉に降る雪』(1999)の工藤夕貴、『北の零年』(2004)の大後寿々花。

千代(大後)は、姉と共に、貧しい漁村の両親の元から関西の花街へ売られていった。器量を買われた千代は芸者の置屋へ、姉は女郎屋へ。生き別れた千代を待っていたのは、女将(桃井)、売れっ子芸者の初桃(コン)と、見習いのおカボだった。姉と会うために脱走したり、着物を汚したりして借金が増えていく千代だったが、ある日、お使いのときに会長(渡辺)と出会う。淡い感情を抱く千代。芸者の修行を続けていけば、いつかまた会長に会えるかもしれない。それが千代を支えた。やがて、初桃のライバル豆葉(ミシェル)が、千代を半玉として育てたいと申し出てきた。花街一の豆葉に仕込まれた千代は、やがてお披露目、水揚げを経て、さゆり(チャン)として成長していく。しかし、時代は第二次大戦に突入し、花街も混乱に巻き込まれた。さゆりは、会長と相棒の延(役所)の手配で疎開する。終戦後、延に呼び出されたさゆりは、アメリカ企業の出資を得るための手伝いをすることになった。

芸者という日本独特の“文化”を、アメリカ人が解釈したらどうなるか。というか、日本人でも、芸者ってもうよくわからないよね。だから、これを見て、芸者ってなるほどこうやって芸者として成長していくんだなって、単純に思おう。
日本に対する下調べは、かなりしっかりおこなわれていると感じる。鼻持ちならないような無茶な歪曲は、特に見受けられない。まぁチャン・ツィイーとミシェル・ヨーとコン・リーが、和服でいるってのが、ヘンといえばヘンだけどね。
つまり、監督のロブ・マーシャルにとっては、日本の匂いとアジアの匂いは、嗅ぎ分ける必要がないわけだ。自分の持つ表現を具現化できるなら、日本女性ではなくてもいいのだ(ついでに言うと英語がしゃべれるならもっといい)。ここが肝で、“日本と日本人の解釈を、外人がしているのではなくて、ロブ・マーシャルがしている”というわけなのだ。
だからこそ、桃井かおりが凄いわけさ。あんなに嫌みったらしい、いけ好かない、金金金〜の死なないばばぁを演じることができる女優なんて、そのへんにはそうそう転がってない。もちろんハリウッドにも。だから、桃井を見出したロブは偉いのである。そして、そのスタンスで説明するなら、チャンもミシェルもコンも有りなのだ。
まぁ、そんな桃井も、千代役の大後寿々花にはかなわない。ホントに凄いよこの子。物怖じしないし英語もがんばってるし。マジで天才子役である。機転に富んだ千代のせりふが浮いてない。
工藤夕貴も、とっても綺麗で上手。日本映画にももっと出演してほしいな。
ひとつ気づいたのが、いままでハリウッド映画のヨーロッパなんかの町並みのシーンを見てて、「あ〜ヨーロッパって、石を敷き詰めた道にレンガの家並みで、ミッチリと密集してるんだな」と思っていた。で、この映画を見て改めて気づいたんだけど、「あ、日本の町並みって、瓦屋根が折り重なっていて、ミッチリ密集してるな」ということ。つまり、セットなんだかCGなんだかわかんないけど、ハリウッド式の町並みってのが、ミッチリしてるんだ。『ラスト・サムライ』(2003)の横浜も、ミッチリしてるって思ったんだけど、やっと謎がとけたって感じです。


『ハリー・ポッターと炎のゴブレット』(吹替) 観た日:2005/12/29
お薦め度:★★★☆ もう一度観たい度:★★★★☆

監督は『フォー・ウェディング』(1994)のマイク・ニューウェル、脚色はスティーブ・クローブス、撮影はロジャー・プラット,BBC、美術はスチュアート・クレイグ、編集はミック・オーズリー、衣装はジェイニーティーマイム、音楽はパトリック・ドイル。キャストはダニエル・ラドクリフ、ルパート・グリント、エマ・ワトソン、マイケル・ガンボン、ブレンダン・グリーソン、レイフ・ファインズ。

ハリー(ダニエル)はホグワーツ魔法魔術学校の4年生になった。親友のロン(ルパート)家族やハーマイオニー(エマ)と共にクィディッチのワールドカップ決勝戦を観戦した夜、ヴォルデモート卿(レイフ)の恐怖を呼び起こすマークが夜空に打ち上げられた。波乱が予感されるなか、ホグワーツでは数百年ぶりに、三大魔法学校対抗試合が行なわれることが決定、ダームストラング校とボーバトン校の代表生が、ホグワーツに到着する。各校から1名づつが、学校の代表として名誉ある勝利を目指すのだ。選択するのは炎のゴブレット。危険が伴うこの競技は、上級生でなければ立候補できない。しかし、ゴブレットからは4枚の紙切れが吐き出されたのだ。4枚目には、ハリーの文字が。身に覚えのないハリーだが、魔法契約は覆せない。魔法使いとして未熟だが、ハリーは3つの課題を、上級生たちとおこなわなければならなくなった。ダンブルドア校長(マイケル)やマッド=アイ・ムーディ先生(ブレンダン)の見守るなか、課題は進められて行く。

シリーズ4作目。ということは、ハリーは4年生である。
今作のキモは、なんと言ってもヴォルデモート卿の復活である。
そこに集約するように、物語は進んでいくのだが、ところがどっこい、原作者のJ.K.ローリングは、物凄い想像力なのである。ここまでいろんな枝ネタを絡めても破綻が見えないのは、只者ではない。根性が違うのだ。
そんな原作を映像にしようというのだから、スタッフも大変である。
しかも、子供の成長物語なんだもんな。キャストも大変なのである。
ただ、映画化に伴い、キャストが減ったり出番が少なかったりするのは、ちょっと残念である。重要な役目のドビーはいないし、魔法省魔法ゲーム・スポーツ部長のルード・バグマンもいない。なんてったってシリウス・ブラックが実質出て来ない(まぁゲイリー・オールドマンのギャラが高いのはわかるけど)。ヴィーラも見たかったな。チョウ・チャンは、可愛くないな……
それに、多少の大袈裟もあるし。ダームストラング校は男子校みたいだし、ボーバトン校は完全に女子校だ(ヘンな色気?の登場シーンには失笑)。パブのホッグズヘッドの設定も違うし、ドラゴンは制御不能で鎖を千切るし。
な〜んて、多少の文句も言いつつ、映画としては、良い出来です。


『ティム・バートンのコープスブライド』(吹替) 観た日:2005/10/25
お薦め度:★★★★☆ もう一度観たい度:★★★★☆

監督は『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス』(1993)のティム・バートン(製作も)と、『ジャイアント・ピーチ』(1996)のマイク・ジョンソン、脚本は『ビッグ・フィッシュ』(2003)のジョン・オーガストと『アダムス・ファミリー』(1991)のキャロライン・トンプソンとパメラ・ペトラー、撮影は『マトリックス リローデッド』(2003)のピート・コザチク、美術は『ファイト・クラブ』(1999)のアレックス・マクダウェル、音楽は『チャーリーとチョコレート工場』(2005)のダニー・エルフマン。吹替にジョニー・デップ、ヘレナ・ボナム=カーター、エミリー・ワトソン。

ビクター・バン・ドート(ジョニー)は、両親の貴族になりたいという功名心により、名家だが破産寸前のエバーグロット家の一人娘のビクトリア(エミリー)と結婚しなければならない。心配とは裏腹に、お互いともに相手を気に入ったが、格式ある結婚式の誓いの言葉が覚えられず、ビクターはひとり森に迷い込む。セリフの練習をしていたビクターは、地面から突き出していた枝に、結婚指輪を差した。ところがそれは、死体の花嫁“コープスブライド”(ヘレナ)の指だったのだ。結婚式当日に殺された彼女は、愛を求め、花婿を待っていたのだった。活気ある!死者の世界に連れて行かれたビクターは、次第に恐怖心も薄れていき、コープスブライドの気持ちも理解できてきたが、もちろんビクトリアを忘れることはできない。

しかしティム、『チャーリーとチョコレート工場』を撮りながら、よくもこれを作ってたもんだよ。感心します。
しかもティムの持つ、あの奇妙な個性が惜しげもなく注がれている。切なくて綺麗。怖くて変。醜くて愛おしい。実写もアニメもおんなじスタンス。これこそ、天才の証なのだろう。
このストップモーション・アニメーションという手法は、昔の特撮映画によく使われてたヤツだ。骸骨が襲ってくるアレ。約2秒の映像のために12時間の作業が必要なんだそうだ。しかしこれもティムの世界を表現するにはとてもマッチしていると思う。
死者の世界は、骸骨ダンスとか(しかし歌って踊るとどうしてアメリカアニメはみんな、ディズニーになっちゃうんだろう?)蜘蛛の巣とかお墓とか、フルコースで出てくるのに、妙にみんな明るい。地上の世界よりも圧倒的なパワーがある。死者は、もう死なないから。とっても解りやすいが、でも未練もあるだろうな。どうせ生き返れないんだから、そんなのスッパリ忘れちゃえっていうパワーなのだろうか。これは、死んでみないとわかんないかも。
しかし、欧米は火葬しないから、こういう発想が生まれるんだとは思う。ゾンビもそうだもん。墓の中(地面の下)には、死後の世界が、たしかにあるんだろう。
『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス』と、セットで楽しみましょう。そして、掴む愛と、与える愛と、許す愛を、考えましょうか。


『チャーリーとチョコレート工場』 観た日:2005/09/15
お薦め度:★★★★★! もう一度観たい度:★★★★★!

監督は『バットマン』(1989)のティム・バートン、脚本は『チャーリーズ・エンジェル』(2000)のジョン・オーガスト、撮影は『コンスタンティン』(2005)のフィリップ・ルースロ,A.F.C./A.S.C.、美術は『ターミナル』(2004)のアレックス・マクダウェル、衣装は『エイジ・オブ・イノセンス/汚れなき情事』(1993)のガブリエラ・ペスクッチ、編集は『マーズ・アタック!』(1996)のクリス・レベンゾ,A.C.E.、音楽は『シカゴ』(2002)のダニー・エルフマン。キャストは『ショコラ』(2000)のジョニー・デップ、『ネバーランド』(2004)のフレディー・ハイモア、『ウェイクアップ!ネッド』(1998)のデイビッド・ケリー!、『バニラ・スカイ』(2002)のノア・テイラー、『鳩の翼』(1997)のヘレナ・ボナム=カーター、『スター・ウォーズ 帝国の逆襲』(1980)のディープ・ロイ!、『吸血鬼ドラキュラ』(1958)のクリストファー・リー!

ウィリー・ウォンカ(ジョニー)は、天才的な能力で奇跡のお菓子を次々と発明するが、産業スパイによりそれらが流出し、失意の内に工場内にこもり外部から断絶した生活をしているが、その才能は冴え続け、いまもヒット商品を量産している。誰もが工場内を見たいと思っている。ある日、最大の定番商品である板チョコ5枚に工場の招待状を入れたというニュースが全世界を駆け巡った。幸運にありついた5人の子供の中に、チャーリー(フレディー)がいた。彼はとっても貧しいがとっても温かい両親と祖父母2組と暮らしていた。かつて工場で働いていたことがある祖父のジョー(デイビッド)に付き添われ、超個性的なほかの4組の親子と共に、工場を訪れたチャーリーは、まさに現実離れしたものを次から次へと見ることになる。チョコレートの川と滝、働き者で皮肉屋のウンパルンパ族、くるみ割りに専念するリス、奇抜な試作品、物質転送装置。そして、寂しそうで、家族愛に飢えているような、ウォンカの表情。やがてチャーリーとウォンカは、友愛で結ばれていく。

ティム&ジョニデの、渾身のファンタジー!
ティム・バートンって、最高だ。なんであんなにサイケでグロくてビザールで、美しくてはかなくて切ない映像を創造できるんだろう。やっぱり原色を使いこなせるって、才能なんだな。パステルカラーとか黒とかグレーとか茶色なんて、誰だって工夫の余地があるもの。原色にはそれがない。イメージにストレートだ。それをふんだんに、見事な組み合わせで、例えるなら、朝起きて、確かに夢を見たんだけどその内容は覚えてないけど、こんな色だったな〜みたいな感じ。演出も独特だ。コマ割りも独創的だ。音楽もヘンだ。
その音楽だが、ダニー・エルフマンも、ティム作品には欠かせない作曲家というだけあって、凄い仕事をしている。
その凄い音楽に完璧に応えているのは、実はディープ・ロイだったりする。ウンパルンパ族全員を、ひとりひとり演じ切ったというのである。いったいギャラはいくら貰ったんだろう?と同情したくなるほどの、まさに孤軍奮闘振りだ。
そんな才能者たちにも埋もれずに、個性を発揮しているジョニデ。おいおい美形じゃん。透明アクリル製のエレベーターに顔面から当たりに行くし。会話もヘンだし、最高です。
子役のフレディー・ハイモアもよい。特別って感じはないけど。
ウォンカの父役の、マッドなクリストファー・リーも良い。昔からマッドだけどね。
ロアルド・ダール原作の『チョコレート工場の秘密』は、この映画の公開に前後して、図書館から消えた。児童文学のベストセラーなんだそうだ。まだ読んでないけど、そろそろ借りて読もうかな。


『皇帝ペンギン』(吹替) 観た日:2005/08/11
お薦め度:★★★★☆ もう一度観たい度:★★★★

監督・脚本・脚色は動物ドキュメンタリーを取り続けているリュック・ジャケ、撮影はジェローム・メゾンとローラン・シャレー、音楽はエミリー・シモン。吹替は、大沢たかお(父ペンギン)、石田ひかり(母ペンギン)、神木隆之介(子ペンギン)。

皇帝ペンギン(エンペラーペンギン)は、ペンギンのなかで最大であり、極寒の南極大陸で繁殖することで知られている。100kmの行進、120日に及ぶ絶食、マイナス40度、秒速70mもの強風に絶え、彼らはなぜこの地で子育てをするのか?その一部始終を、克明に記録する。

この映画が、優れたドキュメンタリーであるのはもちろんなのだけど、やっぱりひたすら、リュック・ジャケ監督とスタッフが、映画としての成り立ちという意味では、素晴らしいのである。たかがペンギン、されどペンギン!
ペンギンが嫌いという人は少ないと思う。子供のときに襲われた!とかいう不条理なトラウマがない限りは、可愛いヤツって思うんじゃないかな。普通は、ね。
内陸への100kmの行進、体重を1/5も減らしながらの抱卵、あっという間に凍結してしまう中での、卵の受け渡し、などなど、親って、生きるって壮絶だな〜と、感心しきり。
しかし、個人的には、ペンギンの交尾って、なんて色っぽいのだろうか!という、しょうもないところが、一番感動しました〜。


『宇宙戦争』 観た日:2005/08/10
お薦め度:★★★★☆ もう一度観たい度:★★★★☆

監督はスティーブン・スピルバーグ、脚本はジョシュ・フリードマンと『ジュラシック・パーク』(1993)のデヴィッド・コープ、撮影は『プライベート・ライアン』(1998)のヤヌス・カミンスキー、編集は『レイダース/失われた聖?』(1981)のマイケル・カーン、SFXは『スター・ウォーズ』シリーズのデニス・ミューレン、音楽は言わずと知れたジョン・ウィリアムス。キャストは、トム・クルーズ、『I am Sam アイ・アム・サム』(2003)のダコタ・ファニング、ジャスティン・チャットウィン、『ミスティック・リバー』(2003)のティム・ロビンス、『ロードオブ・ザ・リング/二つの塔』(2002)のミランダ・オットー。

ニューヨーク。レイ・フェリアー(トム)は、港湾で大型貨物の荷揚げをしている労働者。今日は前妻(ミランダ)が、長男ロビー(ジャスティン)と幼い娘レイチェル(ダコタ)を預けに来た。あまり良い父親ではないことを知っているレイは、ボストン・レッドソックスのキャップを被る息子とキャッチボールをしたり、娘の頼むヘルシーフーズのデリバリーに挑戦したりするのだが、しっくりいかない。そのとき、遠くから激しい暗雲と雷鳴がやってきた。頭上を襲う落雷に驚くレイは、様子を見に外に出たが、そこには驚くべき光景が待っていた。落雷の穴から、三本足の機械が出てきて、街と人々を襲い始めたのだ。壊れる建物と、蒸発する人間。なんとかその場を逃げたレイは、ロビーとレイチェルを連れ、ボストンに向かうが、すでに機械は殺戮を冷徹に遂行していた。自慢のアメリカ兵も、まったく役に立たない。彼らは、宇宙から来て、はるか昔に地中深く埋めていた機械を取り出したのだ。途中、ロビーは「真実が見たい」と、レイから去った。レイチェルと逃げ惑うレイは、数々の局面で、レイを命懸けで守ろうと誓う。

原作は、ハーバード・ジョージ・ウェルズ。火星からやってきた異星人の圧倒的な破壊力を記した著書は、なんと1898年。たまねぎをナマでかじる主人公にビックリしたな…(って、これは違う話か?)。ウェルズは他の著書として『タイム・マシン』『透明人間』『モロー博士の島』などがあり、どれも何度も映画化されている。そして、SF映画の名作として燦然と名を残す『宇宙戦争』(1953)も凄い。三色の目を持つ宇宙人、怖かった〜!
そんな背景を知らないと、本作の評価は、薄っぺらになりがちだ。ストーリーは唐突だし、エンディングの間抜けさは、すれっからしの観客を唸らせられないだろう。でもね、この映画は、だからいいんですよ。
スピルバーグが天才なのを、あえてここで書くつもりはないです。隠れ家に進入する探査端子から逃げるシーンは、まんま『ジュラシック・パーク』のヴェロキ・ラプトルとの攻防だし、昼間の特撮にチャレンジしたのは偉いけど、画像すべてを粗くして誤魔化しているのはなんだかな〜と思うし(そのてん、ジョージ・ルーカスは偉い!)、でも、スピルバーグは、天才なのです。
だって、怖いでしょ?そして、怖がらせようとして撮っていて、その怖さがノンストップで伝わってくるでしょ?
ダコタ・ファニング。とっても上手だ。ちょっと、目が、離れてるのがなんだけど、きっと財力で矯正してくるでしょう。
観ましょう。劇場でなくてもいいが、必ず観ましょう。エンターテインメントとして、上級です。


『スター・ウォーズ エピソードIII』 観た日:2005/07/25
お薦め度:★★★★☆ もう一度観たい度:★★★★★

監督・脚本、製作総指揮はジョージ・ルーカス、撮影は『バーティカル・リミット』(1999)のデイビッド・タッターソル,B.S.C.、編集は『60セカンズ』(2000)のロジャー・バートンと『ET』(1982)のベン・バート(サウンドデザインも)、衣装は『マグダレンの祈り』(2002)のトリシャ・ビガー、音楽はご存知ジョン・ウィリアムズ。キャストは、ユアン・マクレガー、『海辺の家』(2001)のヘイデン・クリステンセン、ナタリー・ポートマン、フランク・オズ(ヨーダ)、ケニー・ベイカー(R2-D2)、アンソニー・ダニエルズ(C-3PO)、ピーター・メイヒュー(チューバッカ)、イアン・マクダーミド、サミュエル・L・ジャクソン、クリストファー・リー。

共和国と分離主義者(ダークサイド)との戦争が長引くにつれ、共和国内には、ジェダイ評議会への不審と、パルパティーン議長(イアン)への権力集中が増してきていた。しかしジェダイたちは、悪の根本はダークサイドの根源、シス・シディアスの身柄確保にあることを信念に、フォースと共に戦っていた。アナキン(ヘイデン)は、その卓越したフォースで数多の戦争で手柄をたてていったが、いまだ評議会に受け入れられず、それを不満に思っている。しかもジェダイの掟を破りパドメ(ナタリー)と結婚までしていた。そんなアナキンにてこずるオビ=ワン(ユアン)だが、日に日に増す戦状にあってはアナキンを諭す時間も持てない。ある日アナキンは、身ごもったパドメが死ぬ予知夢を見るようになる。パドメを失いたくないアナキンは、ついついパルパティーンの語る言葉に耳を貸すようになった。「ジェダイには理解できないフォースのすべてが、ダークサイドには伝えられている。」もとよりジェダイ評議会に不信感を持っていたアナキンにとっては、パルパティーンの言葉は甘露だった。しかし、ついにパルパティーンは自分がシス・シディアスであることをアナキンに告げた。アナキンがジェダイ評議会にこれを伝えると、マスター・ウィンドゥ(サミュエル)らはパルパティーン討伐に向かうが、それを妨げたのはアナキン自身だった。ダークサイドに忠誠を誓うアナキンは、すぐさまダークサイドの先鋒として殺戮に没頭、パルパティーンはジェダイの反乱を語り、共和国を新たに銀河帝国としてこれを支配することを宣言する。状況を察知したヨーダは隠遁を決意。一方、民主主義の崩壊を見たパドメは、アナキンを説得しに惑星ムスタファーへ向かった。隠れてついて行ったオビ=ワンはアナキンと壮絶な決闘を繰り広げ、ついにアナキンを溶岩の炎に焼いた。しかし、すんでのところでシス・シディアスがアナキンを救出し、手術の結果、アナキンは漆黒のマスクを被ることになった。ダース・ベイダーの誕生であった。

悔しいが、凄い映画であった。
CGが凄い。冒頭の戦闘シーンが、もう凄い。意味もなく凄い。人類が、こんなシーンを創造できるようになるとは。どこまでもクリアなデジタル画像は、コンテンツの管理の容易さというだけでなく、明らかに優れた特質をもっている。
ストーリーも、前作の『エピソードII』に比べ、ずっと締まっていて良かった。避難轟々のジャージャービンクスはすっかり影を潜め、ひとり浮いていたヘイデン・クリステンセンにも慣れたし、ユアン・マクレガーは渋みを増してきていて(取り巻きが若いからなんだけど)、その他のキャラクターもしっかり立っている。
それにしてもヨーダ。強い。とてつもなく強い。上下の座席から「きゃ〜ヨーダかわい〜い!」と黄色い声が飛んでいたが、よく見たら子供だった。私とは違い、この子らには、ヨーダは緑色のシワシワ親父には見えないらしい。
そんな時代の経過のすべてもが、『S・W・シリーズ』の伝統なのだろう。
ジョージ・ルーカスは今回も、ワガママいっぱいだったようだ。確定した脚本がないのである。毎日、何かしらを思いつく。それを口にする。するとスタッフが、それを形にして持ってくるのである。映画完成に対して、どちらのほうがより偉いのかは明白である。しかしスタッフは、ルーカスにこき使われるのに快感を覚える連中ばかりなので、文句が出るわけがなく、ルーカスはもっと我が物顔になるのだが、そのことで映画の完成度は上がっていく。というわけで、こんな異常で奇妙な関係が許されるのも、この映画ならでは、かな。
とても出来の良いパンフレットは必読。
とにもかくにも、これでやっと、全六作すべてが出来上がったわけだ。で、次に作る映画で、ルーカスの評価が決定するのである。


『ミリオンダラー・ベイビー』※PG-12 観た日:2005/07/07
お薦め度:★★★★☆ もう一度観たい度:★★★★☆

監督・製作・音楽・はクリント・イーストウッド、脚本・製作はポール・ハギス、撮影は『ミスティック・リバー』(2003)のトム・スターン、美術は『スティング』(1973)のヘンリー・バムステッド、編集は『スペースカウボーイ』(2000)のジョエル・コックス。キャストは『ボーイズ・ドント・クライ』(1999)のヒラリー・スワンク、クリント・イーストウッド、モーガン・フリーマン。

ボクシングジムを経営するフランキー(クリント)は、チャンピオン候補を育てつつも、慎重すぎるゲームメイクで逃げ出されたりしていた。フランキーは昔、治療スタッフとして参加した試合で、その選手に結果的に無理強いをさせたせいで、彼を失明に追い込んだことを忘れることができなかったのだ。その彼は現在、スクラップ(モーガン)というあだ名で、ジムで用務員をしている。ある日、マギー(ヒラリー)がフランキーに教えを請いに現れた。女に教える気はないと、にべもないフランキーだが、スクラップは彼女が真摯にトレーニングしているのを垣間見ていた。熱意に遂に折れたフランキーは、別居して手紙も届かない実の娘にマギーをいつしか重ねていく。32歳という年齢だが、家庭の貧困とボクシングへの一途な取り組みにより、マギーはその強打を開花させていき、連戦連勝を重ねていった。しかいフランキーはいつも同じ助言を最初に言う。「自分を守れ。」防御の重要さと、スクラップでの経験を忘れぬための自戒がこめられたこの言葉は、しかし最も重要なタイトルマッチで生かされなかった。再起不能に陥ったマギーとフランキーは、師弟を超えた愛に結ばれていく。

ただただ傑作。リアルな出血シーンがあるのでPG-12指定(12歳未満の観客は保護者同伴)だが、臆せず観て欲しい。
まず一言。これはボクシング映画ではない。はぐれ者同士の親子映画である。
泣けなかった。しかし、泣けば良い、泣かねば悪い、というものでもない。私は、映画を観終わった瞬間から、結果的にいつまで映画のことを考え続けているのか、これが“訴えかけてくる映画”の特質だと認識してきた。そして本作のことは、思えば96時間考え続けている。そして、もうしばらくは。
尊厳死か〜。十把ひとからげに語る気はないが、やり遂げて若く死ぬのと、老いさらばえてなお命にしがみつくのとでは、前者がいいよなやはり。
クリント・イーストウッド。『荒野の用心棒』(1964)や『荒鷲の要塞』(1968)を、あるいはTV『ローハイド』(1959〜)を知っている人たちは、『許されざる者』(1992)で「あ〜やっと監督業でも結実したな」などと無責任な安堵感を抱いたものだったが、そこが到達点ではないこと(驚くべきことに演技者としても!)には賞賛せざるを得ない。同年齢の高倉健と、映画人としての質を比較するとこれまた興味深い(もちろん、どちらもいぶし銀で、優劣などあるはずがないぞ)。
滋味深いのが、音楽と映像のマリアージュだ。近似のテイストを見出せるジョン・カーペンター監督と比較すると、画像へのさりげない調和では、イーストウッドのほうが上に思う。
ヒラリー・スワンク。『ボーイズ・ドント・クライ』(2000)で彼女はオスカーを獲った。この映画についての私のレビューを紐解くと、「ヒラリー・スワンクは熱演だ。認める。でもオスカーはないんじゃないか?」とある。性同一性障害の実話を描いたこの映画は、彼女の演技力以上にテーマが抜きん出ていた。しかし今回は、過去を完全に払拭した。いうなればマラドーナの“神の手ゴール”の直後の“七人抜きゴール”みたいなものかな。とにかく、肉体改造の進行中の彼女は、凄いよ。そしてベッドの中の彼女も。シーツの中の左足が見えないシーンの、その神々しいことといったら。唯一共感しなかったのは、私は自殺はしないと、思う。
モーガン・フリーマン。彼にとっては、頑固婆のお抱え運転手も囚人も大統領もバットマンの影のサポーターも、みんな一緒なのである。こういうのは演技派とは呼びたくないな……。ただし、クリント・イーストウッドとの友情溢れる下品な掛け合いは、秀逸だ。
パンフレットは必ず買いましょう。出色の出来。これで700円は安いはずです。ワーナー、見直したよ!『バットマン ビギンズ』をこきおろして、ゴメンね。


『逆境ナイン』 観た日:2005/07/06
お薦め度:★★★★ もう一度観たい度:★★★★☆

監督は『海猿』(2004)の羽住英一郎、脚本はTV『いきなり!黄金伝説。』の福田雄一、撮影は『電車男』(2005)の村埜茂樹、照明は『みんなのいえ』(2001)の澁谷亮、編集は『踊る大走査線 THE MOVIE』(1998)の松尾浩。キャストは『CASSHERN』(2004)の玉山鉄二、堀北真希、藤岡弘、、田中直樹。

不屈闘志(玉山)は、全力学園野球部キャプテンだが、弱小チームは強豪サッカー部に練習場所を奪われそうだ。校長(藤岡)は、「全力でないものは死すべし!」がモットーで、次の練習試合で甲子園大会優勝校の日の出商業に勝たなければ廃部にすると不屈に告げた。ナインはヘナチョコだし不屈も骨折。しかし不屈は、こんな“逆境”を神に感謝し、そのすべてを乗り越えようと常に全力!神風が吹き廃部は免れたが、校長から次は甲子園の切符を手に入れるよう指示された。しかも監督としてやってきた榊原(田中)は野球素人。追試をかいくぐり、マネージャー月田(堀北)への恋心を乗り越え、やっとのことで日の出商業との決勝戦を迎えた全力学園。しかし負傷者が続出し、しかも9回表を終わり112対0の圧倒的不利だ。どうする不屈!

原作は、漫画家の島本和彦。
題名からしてバカ映画の予感がビンビンではないか。しかも原作者が、暑苦しい連中を描かせたら天下一品の島本和彦なのである。
案の定、クールとかスタイリッシュとか爽やかとか華麗とか、そんな“現代っぽいお洒落な”ものは一切現れない。汗と鼻水と泥んこと絆創膏が、最初から最後まで延々と出てくるのである。しかも、どう考えても乗り越えられそうにない“逆境”が、根拠のない根性で突破されていくさまは、あまりに小気味よく、主人公不屈の燃えるハートに比べれば、宇宙から“自業自得”と書かれた石碑が降ってきたなど、まことに小さな問題だ。
詳しく紹介しまうとネタバレにも繋がるのだが、あまたの金言からひとつだけ紹介しよう。不屈が決勝戦で、ナインに告げるこれだ。「男の3つの条件が揃ったとき!男は無茶を承知で戦うんだ!ひとつ!男はいざという時にはやらなければならない!ふたつ!今がいざという時である!みっつ!俺たちは男なんだ!」
それにしても、藤岡弘、。名前の最後の“、”が示すように、彼は暑苦しい。田中直樹も、ナンセンスさがとっても暑苦しい。この俳優独自のオーラがとても素晴らしいスパイスで、まさにナイスキャストである。
ナイスキャストといえば、堀北真希だ。紅一点で天然ボケのマネージャーの存在が、特に不屈キャプテンに与える影響は計り知れず、しかし天然なのでそれに気付いていない。巧く演じたものだ。演出を考え始めると苦悩しそうな気もするが、難なく演じているのは逆に本人も天然だからか。
劇場でまず観ましょう。そして映像メディアかTVでまた観ましょう。でもそのときに「なんだこれ、『少林サッカー』(2002)と『ピンポン』(2002)の真似ジャン」なんて、思っちゃダメよ。


『バットマン ビギンズ』 観た日:2005/06/30
お薦め度:★★☆ もう一度観たい度:★☆

監督・脚本は『インソムニア』(2002)のクリストファー・ノーラン、脚本・原案は『ブレイド』(1998)のデイビッド・S・ゴイヤー、撮影は『ミニミニ大作戦』(2003)のウォーリー・フィスター,A.S.C.、編集は『いまを生きる』(1989)のリー・スミス,A.C.E.、美術は『M:I-2』(2000)のネイサン・クローリー、音楽は『ライオン・キング』(1994)のハンス・ジマーと『シックス・センス』(1999)のジェームズ・ニュートン・ハワード、衣装は『耳に残るは君の歌声』(2000)のリンディ・ヘミング。キャストは『シャフト』(2000)のクリスチャン・ベール、『サイダーハウス・ルール』(1999)のマイケル・ケイン、リーアム・ニーソン、『アイス・ストーム』(1997)のケイティ・ホームズ、ゲイリー・オールドマン、モーガン・フリーマン、『28日後…』(2002)のキリアン・マーフィー。

ゴッサム・シティで何不自由なく暮らしていたブルース・ウェイン少年(成人としてクリスチャン)は、目の前で両親を暴漢に殺害された。復讐と自戒を抱き、やがて世界を放浪するうちに、ブータンの刑務所でヘンリー・ドュカード(リーアム)に見出される。彼は“影の軍団”を率いるラーズ・アズ・グール(渡辺)の片腕だった。“影の軍団”は、腐敗した国家を転覆浄化させることを目的としている武闘集団で、次はゴッサム・シティに手を下そうとしていた。ブルースはここで修行を重ねていたが、殺戮では平安は訪れないことを悟り、“影の軍団”から退く。ゴッサム・シティに戻ったブルース。両親の会社は事実上乗っ取られ、マフィアは腐敗を撒き散らしていたが、幼馴染で検事補のレイチェル(ケイティ)や、汚職のはびこる警察で正義を貫くジム(ゲイリー)の存在も知る。家族同様の執事アルフレッド(マイケル)と、会社の応用科学部長のルーシャス(モーガン)および試作品を手に、バットマンとして不正に挑み続けるブルース。一方、市内に毒ガスを撒き散らす計画が、着々と進んでいた。

大雨の中、わざわざ時間を作ってお金を払って観たのに、とってもガッカリした映画。
『スパイダーマン』(2002)へのコンプレックスが、負のほうに働いた結果、こんなになっちゃったのか。『ハムナプトラ』(1999)が、『スター・ウォーズ I』(1999)を手がけることになったILMの、同僚への怨念で、快作に仕上がったのとは対照的だ(ILMに入社したら『S・W』を手がけたいのは当たり前だからね)。まぁ本作については、後者の関係とは違って、脚本と脚色と演出に難があるわけだけど。その意味で、クリストファー・ノーラン監督の罪は深い。
バットマン役のクリスチャン・ベールは、『太陽の帝国』(1987)では伊武雅刀が扮する日本軍人に「difficult boy」と言われていたクリクリ坊主の可愛い子役だったのだが、本作ではパッとしない。リーアム・ニーソンはただのジェダイだし、ケイティ・ホームズはノーブラのブラウス姿が唯一の見せ場だし、渡辺謙にいたっては何の役にも立ってない。
一方、マイケル・ケインは執事として素晴らしい説得力だ。ゲイリー・オールドマンはビックリするほど普通の人で、出演しているのがわからないほど。モーガン・フリーマンは相変わらずの訳知り顔で、物語を陰から支配する。
とにかく、ワーナー・ブラザーズの大失敗作。『ハリー・ポッター』や『マトリックス』のシリーズの利益を注ぎ込んだろうけど、上手くいかないときはこんなもんです。
それにしても!第一作目(1989)のティム・バートン監督、つくづく天才だと思う。惚れ惚れする!


『50回目のファースト・キス』 観た日:2005/06/29
お薦め度:★★★★★ もう一度観たい度:★★★★☆

監督は『ナッティ・プロフェッサー2』(2000)のピーター・シーガル、脚本はジョージ・ウィング、撮影は『許されざる者』(1992)のジャック・グリーン、編集は『ビッグ・ダディ』(1999)のジェフ・ガーソン、音楽は『ウェディング・シンガー』(1998)のテディ・カステリッチ。キャストは『リトル・ニッキー』(2000)のアダム・サンドラー、『25年目のキス』(1999)のドリュー・バリモア、『ホット・チック』(2002)のロブ・シュナイダー、ブレイク・クラーク、『ロード・オブ・ザ・リング』シリーズ(2002〜)のショーン・アスティン、『ゴースト・バスターズ』(1984)のダン・エイクロイド。

ハワイ・オアフ島。ヘンリー(アダム)は水族館で海獣の世話をしつつ、“ゆきずりの恋”を求める旅行者をモノにするのを趣味にしていた。ある朝、カフェでルーシー(ドリュー)に会う。これまでの女性とは違う彼女の魅力に一目惚れしたヘンリーは、明日も同じ時刻にここで会うことを約束した。ところが翌朝、ルーシーは彼を変質者扱い。驚くヘンリーにカフェのママは、彼女が不幸な事故により短期記憶喪失障害を抱えていることを教えた。一日眠ると、前日のことを忘れてしまうのである。ルーシーの父親(ブレイク)と弟(ショーン)は、姉のために同じ一日を一年間も続けていた。衝撃を受けたヘンリーだが、彼女への気持ちが真実と気づき、猛然とアタックを開始する。毎日が、悪友ウーラ(ロブ)にも手伝ってもらって出会いのきっかけ作り。ある日ヘンリーは、今までのことをビデオにまとめ、ルーシーに見せる方法を思いついた。ショックを受けるルーシーだが、悪くても一日たてば忘れるからと家族を説得。突破口が開けたかに思えたが、ルーシーも、ヘンリーとの毎日を日記に書きとめていたのだ。このままでは彼を縛り続けてしまう。ルーシーは別れを決意する。

アダム・サンドラーと“土流”親方のラブコメ(というか、コメラブ?)だもの、外れはないだろうと踏んで、観に行ったのだが、いや〜泣かされました久々に。
この二人、全然かっこよくないし美人じゃないのだが、なんというか、映画人としてのオーラがビンビン出ていて、しかもそれが高慢な感じの出方じゃない(高慢なオーラの持ち主っているよね〜誰とは言わないけど)ので余計に、安心して没頭できたのであった。
脚本が、なかなか良い。最初の30分は特に良い。アダムとロブの絡みは素晴らしいのひとこと。途中から後半にかけ、着地点がどうなるのかちょっと心配したが、あのエンディングならまずまず納得だ。
配役とセリフも、とてもいかしている。もともとアダムは、フリーキーな登場人物が大好きなのだが、それにみんなが楽しんで応えているので、こちらもリラックスして笑っていられるのだ。『ロード・オブ・ザ・リング』シリーズで真の主人公を演じたショーン・アスティンなんて、あれやこれやでとんでもないキャラになっちゃってるし、ベテランのダン・エイクロイドだって、真面目に医者を演じている(彼が真面目だと、それだけで面白いのだ)。
それにしても、ハワイは美しい。そしてハワイでなければたぶん、成立しない映画だろう。ハワイという土壌と空気感が、この素晴らしい映画の主役の一人なのは間違いない。
必見です。必ず観ましょう!


『female フィーメイル』※R-18 観た日:2005/06/28
お薦め度:★★★☆ もう一度観たい度:★★☆

その1.『桃』
原作は姫野カオルコ。監督は『深呼吸の必要』(2004)の篠原哲雄、脚本は公園兄弟(真辺克彦&鴨義信)、撮影は上野影吾、編集は山本浩司。キャストは長谷川京子、池内博之、野村恵里、草野康太。
森岡淳子(長谷川)は恩師の葬儀に出席するため、14年振りに故郷に帰った。地元の同級生は、淳子の噂で持ちきりになった。淳子は中学3年(野村)の当時、ある教師(草野)と“いやらしい”関係だった。淳子をかばう矢崎(池内)に「ただ、やりたかっただけよ」と、遠い目でつぶやく淳子。そして、桃をしゃぶるように食べた。

その2.『太陽の見える場所まで』
原作は室井佑月。監督は『ヴァイブレータ』(2003)の廣木隆一、脚本は及川章太郎、撮影は鈴木一博、編集は菊池純一。キャストは『いま、会いにゆきます』(2004)の大塚ちひろ、『あげまん』(1990)の石井苗子、片桐はいり。
佳代(片桐)が運転するタクシーを止めたマチコ(石井)は、助手席に潜んでいた日出美(大塚)に「ゴートーです」と告げられる。手には包丁。理由を聞くと、ホストクラブに通い詰め100万円の借金があるという。しかし、佳世もマチコも、もっと多額の借金を抱えていたし、日出美の身の上は到底承諾できない。いつの間にか結託した三人は、現実逃避を試みるが。

その3.『夜の舌先』
原作は唯川恵。監督・脚本は『恋の門』(2004)の松尾スズキ、撮影は山中敏康、編集は上野聡一。キャストは高岡早紀、近藤公園、ルビー・モレノ。
工場勤務の正子(高岡)は、セクハラ課長の要求に応えるたびにゲットした有給休暇をため海外旅行に出かけた。そこの露天商(ルビー)から買った香炉と香に、気になる男性の髪の毛を入れ、焚いて眠ると、その男性と好きなことができる夢を見る言われ、なんとなく浅山(近藤)の髪の毛を手に入れる。彼との濃厚なセックスの夢を満喫した正子は次第に、夢の中におぼれていく。

その4.『女神のかかと』
原作は乃南アサ。監督・脚本は『蛇イチゴ』(2003)の西川美和、撮影は山崎裕、編集は宮島竜治。キャストは大塚寧々、森田直幸、藤原希。
小学6年生の真吾(森田)は、積極的なガールフレンドの奈月(藤原)と手を繋ぎながら、彼女のマンションに来た。秀才の真吾は、奈月に勉強を一緒にしようと誘われたのだ。そこで真吾は、美しい母梗子(大塚)に目を奪われる。自分の母親とはまったく違う梗子がちらつき、成績も落ちていった真吾に、梗子はいじわるく「おばちゃんのこと、見てもいいよ」と言うのだった。

その5.『玉虫』
原作は小池真理子。監督・脚本・撮影・編集は『鉄男』(1989)の塚本晋也。キャストは石田えり、小林薫、加瀬亮。
女(石田)は、じじい(小林)に囲われている。気が向いたときに通ってくるじじいに生活費をもらっている。仕事をしたいと言うこともあったが、「世間知らずのお前は、いまの生活が良いに決まってる」とじじいにたしなめられている。ある日、じじいは仕事仲間という若い男(加瀬)を連れてきた。たじろぐ女はしかし、その意味を悟った。後日、じじいと男は、座敷で向かい合わせた二人組みと、壮絶に撃ち合う。

この映画は、いわゆるコンピレーションフィルムというやつで、2002年に始まった『Jam Films』の流れを汲むものである。今回は思いっきりエロス(というか、エロ)を追求するという企画で、書き下ろし小説を元に作品作りをしたという。
20分くらいの作品に、各監督の個性が出ている。
でもな〜、なんとなく、それだけなんだけどね。
『桃』は、監督の演出がすべてだろう。長谷川京子の桃の食べ方は、映画史上に残るだろうね。でも二十歳の野村恵里の熱演の方(エロすぎて書けない!)が、凄いことは凄い。
『太陽の見える場所まで』は、個人的には一番映画らしくて良かった。残り時間の少ないふたりに比べてまだ若い強盗役の大塚ちひろは、結果的にたった一人で夢の続きを見るのだ。
『夜の舌先』は、エロコメディだ。90年代まで残っていた、深夜枠の民放のエロ番組そのものだ。片岡早紀、いいですねエロで。
『女神のかかと』は、男の子の性の目覚めをそれっぽく撮ってるけど、個人的にはあんまり共感できませんでした。男の子は、かかとで欲情するほど詩人でもフェチでもありません。
『玉虫』は、さすが塚本晋也、巧い。怖い。女役の石田えりは、弱さは武器なのか天然なのかよくわかんなくて、前向きなのか守りが得意なのかわかんなくて、そんな多くの女性が共感できる部分を的確に演じていて、さすがである。
最近、女性向けのヌード写真雑誌とかがいっぱい出ているが、この映画もその類といえよう。何となく可愛いパッケージだし。でも、結局はエロ映画なのである。ようするに、外見を営業的に装えば、“男性”よりも外見に見栄を張りたがる“女性”にも観てもらえそう、ということなのだろう。それが私が、この映画があざとく思えてあんまり良い気がしない理由なのであった。
でも、こっそりエッチな気分に浸りたい人は、どうぞ観てくださいね〜!


『クローサー』※R-15 観た日:2005/06/23
お薦め度:★★★★☆ もう一度観たい度:★★★

監督は『卒業』(1967)のマイク・ニコルズ、脚本・原作はパトリック・マーバー、撮影は『コットン・クラブ』(1984)のスティーブン・ゴールドブラット ASC,BSC、編集は『コーラスライン』(1985)のジョン・ブルームと『シャフト』(2000)のアントイナ・バン・ドリムレン、衣装は『イングリッシュ・ペイシェント』(1996)のアン・ロス。キャストはジュリア・ロバーツ、ジュード・ロウ、ナタリー・ポートマン、クライブ・オーウェン。

ロンドン。小説家のダン(ジュード)は、交通事故に遭った女性に付き添い病院へ行った。ニューヨークから来た彼女の名前はアリス(ナタリー)。ストリップをして稼いだ金で、イギリスに来たと言う。二人は付き合い始めた。ある日、アリスを書いた小説のプロモーション撮影のためにスタジオを訪れたダンは、写真家アンナ(ジュリア)に心を奪われるが、アリスがいることを知ったアンナは、ダンを拒む。別の日、ダンはチャットで、医師ラリー(クライブ)相手に女性を演じていた。偽名をアンナとし、彼女が好きな水族館で会う約束をした。真に受けたラリーは、そこで偶然にアンナと出会う。ほどなく、二人は恋に落ちた。そして、アンナの個展の会場で、四人は顔を合わせることになった。

本当なら、こんなベタベタな恋愛映画なんて好みではないのだが、しかし、出てる役者が役者だし、しかもR-15指定だし、監督はあのマイク・ニコルズだし、と、ちょっと食指が動いたのだった。
観て正解!ひとつひとつのシーンに、俳優達の複雑な表情が複数も垣間見えて、演技合戦が好回転しているのだった。猥褻な単語の連発も、スリリングでとても良い。
これは俳優の力量もさることながら、監督の演出の賜物であろう。さすがは古株マイク・ニコルズ、綿密で一筋縄ではいかないカットをたたみかけてくるのであった。
大人(オヤジ)の渋さ爆発の医師ラリーは、許し方を知っている。写真家アンナは、先天的な破天荒さだが可愛がられ方を知っている。小説家ダンは、いつも失うことを恐れている。
この三人の“大人”に比べて、アリスは明らかに“未発達”である。だから、人生にリセットが効く。そもそもアリスという名前だって、ねぇ。しかも裸一貫だし。
このアリスを、ナタリー・ポートマンが怪演しているのだった。
24歳か……、いいなぁナタリー。『スター・ウォーズ』シリーズでヘンな衣装を着ているよりは、このストリッパー役のほうが、個人的には断然好きなのだが、そんなことを抜きにしたとしても、この映画では彼女の美貌がとても上手く表現できていると思う。まぁ自分に自信がなけりゃ、肌は見せないんだろうけどね。とにかく、とても立派なチャレンジで、エロ剥き出しのインテリを演じたクライブ・オーウェンと共に、主演のジュリア・ロバーツとジュード・ロウを食っちまったのは間違いない。
本作は、舞台劇を元にしている。ハリウッドではよくあるパターンである。しかしこんな濃厚な物語を、舞台ではどう表現しているのだろうか?こっちにも興味が湧いてきたぞ。


『猟人日記』※R-18 観た日:2005/06/21
お薦め度:★★★★ もう一度観たい度:★★★☆

監督・脚本は新鋭デヴィッド・マッケンジー、撮影は『ザ・ビーチ』(2000)のジャイルズ・ナトゲンス、音楽はトーキング・ヘッズのブレインで『ストップ・メイキング・センス』(1984)のデヴィッド・バーン。キャストは『スター・ウォーズ エピソードI』(1999)のユアン・マクレガー、『コンスタンティン』(2005)のティルダ・スウィントン、『マイ・ネーム・イズ・ジョー』(1998)のピーター・ミュラン、『キッド』(2000)のエミリー・モーティマー。

第二次大戦後の英グラスゴー。運河を行き交い荷物を運ぶ平底船に住み込みで働くジョー(ユアン)は、スリップ一枚しか着ていない水死女性を雇い主レズリー(ピーター)と引き上げる。閉塞的な船での生活。本ばかり読み、物憂げに遠くを見つめるジョー。レズリーの妻で船の所有者のエラ(ティルダ)はジョーに誘惑され、肉欲に溺れ、遂にレズリーを捨てた。ジョーは、離婚調停を進めるエラから逃げるため陸に上がる。パブで知り合った男の家に下宿しつつ、死んだ女性の殺人罪立件としての裁判が始まることを知り、公判を傍聴するジョーは複雑だった。死んだ女性は、実はジョーと二年以上も一緒に暮らしたキャシー(エミリー)だった。小説家志望のジョーとキャシーの関係が終わった二ヵ月後、偶然出会った二人は、川辺のトラックの下で久しぶりにセックスしたが、そのとき彼女の妊娠を知る。つれなく振り切るジョーに追いすがるキャシーは、川に落ちた。彼女は泳げなかった。

アウトロー作家として知られる(らしい)、アレグザンダー・トロッキの原作を忠実に映画化したという。
映画としての力量が、まず凄い。全篇、粘つくような生臭いセックスばかりを配置しながらも、やるせなくて不完全燃焼で生きる価値が見いだせなくて、しかし知恵があり観察力に長け寡黙が自分に有利に働くことを知っている主人公ジョーを、陽光の乏しいイギリスの景色と共に、冷静に淡々とスクリーンに刻み続けるのである。
もちろんこれは、書いて撮ったデヴィッド・マッケンジーの才覚ではあるけれど、ユアン・マクレガーがまた、期待に応える名演を見せているのであった。ライト・セイバーを振り回しているだけだと思ってたけど、こんなに巧かったなんてね〜感心。
しかし、文字通り身体を張っているのは(ユアンもチ○コを見せてるけど)、女優たちなのである。がさつでいつも疲れている中年女を巧く演じているティルダ・スウィントンは、張りを失いつつある乳房にハエを這わせ、クラッカーを口から撒き散らしまくし立てる。『キッド』ではブルース・ウィリス相手にキスもしない純情娘を演じていたエミリー・モーティマーは、カスタードとケチャップまみれになり抗いながらもジョーに屈してイカされてしまうのだった。
成人指定だしインディペンデントな映画だけど、見つけたら観ておいたほうがいいと思う。何度も観る映画かどうかはわからないけれど。


『オペレッタ狸御殿』 観た日:2005/06/01
お薦め度:★★★★☆ もう一度観たい度:★★★★

監督は『ツィゴイネルワイゼン』(1980)の鈴木清順、プロダクションデザイナーは『肉体の門』(1964、美術)の木村威夫、脚本・作詞はTV『新ルパンIII世』の浦沢義雄、視覚効果は『陰陽師』(2001)の石井教雄、撮影は『お葬式』(1984)の前田米造、衣装は『式日』(2000)の伊藤佐智子。キャストは『初恋のきた道』(1999)のチャン・ツィイー!、『血と骨』(2004)のオダギリ ジョー、『野生の証明』(1978)の薬師丸ひろ子、『ピストルオペラ』(2001)の平幹二朗、『模倣犯』(2002)の由紀さおり、『バトル・ロワイアル』(2001)の山本太郎、美空ひばり(デジタル)。

がらさ城の主、安土桃山(平)は現世一の美貌を自慢していたが、推定100歳の預言者びるぜん婆々(由紀)に、息子の雨千代(オダギリ)が殿の存在を脅かすと言われ、かつての妻と同じように、雨千代を霊峰・快羅須山に追放した。雨千代はその途中の狸ヶ森で、訳あって唐からきた美しい狸姫(チャン)と出会う。二人は瞬く間に恋に落ちるのだが、人と狸は本来、愛し合ってはいけないもの。いくつもの困難の後、遂に狸姫は倒れてしまう。救う手立てはただひとつ、快羅須山に住む極楽蛙の鳴き声を聞くことだ。狸御殿の狸たちが尻込みする中、雨千代がひとり、快羅巣山へ向かうのだった。

ぶっ飛び映画の登場だ!
オペレッタ(喜歌劇)というのは、悲劇で終わるオペラ(歌劇)と違い、ハッピーエンドで結末を迎える舞台劇のことである。私、その区別を知りませんでした。
そして、狸を題材にした映画は、太平洋戦争中より続く日本映画のお家芸である。たしかに、狸=陽気のイメージにオペレッタの要素が結びつくのは難しくないかも。当時より大スターが歌い踊ることで、奇妙で摩訶不思議なジャンルが確立していったのだった。
鈴木清順は宮城千賀子のファンだったんだそうだ。で、彼女が主演した『歌ふ狸御殿』(1942)を当時観て(“当時”というのが、もう凄い!)、いつかは“狸もの”に挑戦しようと思っていたんだそうだ。とんでもない82歳である。
“狸もの”には、古今きっての大スターが主演しなければならないというのが清順の持論らしいが、起用されたのは、あろうことかチャン・ツィイーである。脚本は“唐から来た狸姫”となっているが、だからといってさ〜、たしかに歌って踊れるとはいえ、天下のチャン・ツィイーだぜ。と思うのだが、本人はまんざらではないというのがこれまた凄い。清順マジックにかかってしまっているのだった。でも彼女は、やっぱり巧いよ。プロポーションも抜群だし。
そんなチャンを、実は薬師丸ひろ子が食っちゃってる。立ち居振る舞いはもちろん、歌は相変わらず巧いし、存在感があるのだった。
由紀さおりも良い。歌はもちろんだけど、演技が斬れてる。
いちおう、お薦め度は4.5ポイントだけど、ガツガツした人とか心に余裕のない人とか洒落の通じない人は、この映画は観てはいけません。チープさを強調した舞台とか、ヘンテコなCG(清順の頭の中はきっとあのようになっているのだろう)とか、金ピカの蛙とかを見て、憤ること間違いないですから。または、こういう類の映画を楽しめる気がしない人は、劇場ではなくて映画ソフトが出回ってからそれを借りましょう。それで充分でしょう。でも、連綿と続いてきた日本映画の正統派喜劇の匂いを嗅ぎたい人、限られた予算で頑張って作っていた邦画全盛の時代の手触りを現代調&清順調にアレンジしなおした世界に興味を持った人は、ぜひチャレンジしてほしいです(深読みなしです。“チャレンジ”ですよ、挑戦!)。


『真夜中の弥次さん喜多さん』 観た日:2005/05/18
お薦め度:★★★★ もう一度観たい度:★★★★

原作は朝日新聞四コマ漫画『地球防衛家のヒトビト』(現在)のしりあがり寿、監督・脚本はTV『笑う犬の情熱』(2003、構成)『ピンポン』(2002、脚本)の宮藤官九郎、編集は『突入せよ!「あさま山荘」事件』(2002)の上野聡一、撮影は『木更津キャッツアイ 日本シリーズ』(2003)の山中敏康、美術は『嗤う伊右衛門』(2003)の中澤克巳、VFXは『秘密』(1999)の曽利文彦と田中浩征、録音は『T・R・Y』(2003)の藤丸和徳。キャストは長瀬智也、『ラスト・サムライ』(2003)の中村七之助、小池栄子、阿部サダヲ、生瀬勝久、寺島進、竹内力、板尾創路、皆川猿時、山口智充、清水ゆみ、楳図かずお、中村勘九郎、毒蝮三太夫、研ナオコ、ARATA、荒川良々。

江戸時代の長屋。弥次郎兵衛(永瀬)はお初(小池)という女房がいながら、ヤク中の喜多八(中村)とホモ仲だ。リヤル(現実)と夢の区別がつかない喜多のヤク中が進むにつれ、何とかしなくてはと悩む弥次は、ある日“お伊勢参り”のDMを見て、喜多を早速旅路に誘う。笑いを取らないと通れない関所、喜び組、アーサー王と秘剣エクスカリバー、三途の川と奪衣婆、不思議なバーと毒キノコなどを経験しつつ、二人はとにかくバイクで爆走だ〜!

想像を超えて面白かった。クドカンに屈した気がして悔しい。
なにしろ原作が、しりあがり寿である。彼は天才だ。説明するまでもないのであるが、でもそのアニメを映画に(しかも実写に)するには、相当の工夫が必要なのは想像に易い。ここに脚本と演出の妙が生じるのであって、それこそが映画の真髄である。その意味で、クドカンはやっぱり誉められて然るのかもしれない。
ストーリーは一体に見えて細切れだ。ポイントに強引に名優&曲役者が並べられている。このあたりはTV構成作家としての配役強制権をちらつかせている気がする(悪口ではない、為念)。
その最たる例が中村勘九郎のアーサー王である(設定がもう可笑しいでしょ!)。しかも勘九郎の演技はコソコソしていて面白いのである。息子、食われたり!
でもその息子の中村七之助、存在感が物凄い。歌舞伎の名門とかという看板のせいでなく、ポップなのである。マッドなロック感がある。ジェンダー的妖艶さがある。金髪で女子高校生的な集団的陶酔感があるのである。
そして、その演技を蹴散らす長瀬!なんでここまでテンション続くの?4時間モノの舞台ソープオペラの主役として成立できるパッションである。TOKIOのチャラキャラと見くびっていました。ごめんね長瀬。
キャストの滑舌が良い。録音が良いのも効いているのかも。
この映画の唯一の弱点は、長いことである。三途の川のあたりについては、原作から考えれば盛り込みたくて仕方ない気持ちはよくわかるし、実際によい解釈がされていると思うけど、途中までの疾走感にブレーキがかかっていることは否めないし、ここが「この映画が長い」と思わせてしまっている敗因でもあると思う。
それと、弥次喜多は結局、大井川も越えられないで映画が終わってるけど、もし“パート2”を作ったりしたら、軽蔑しちゃいますよ私は。
ともあれ、お薦めである。上映館が全国で150に満たないらしいが、見つけたら観ておいて損はないんじゃないかな。


『レモニー・スニケットの世にも不幸せな物語』(吹替)
観た日:2005/05/18 お薦め度:★★★★☆ もう一度観たい度:★★★★

監督は『ムーンライト・マイル』(2002)のブラッド・シルバーリング、脚本は『ギャラクシー・クエスト』(1999)のロバート・ゴードン、撮影は『スリーピー・ホロウ』(1999)のエマニュエル・ルベツキ,A.S.C.,A.M.C.、編集はスピルバーグ側近のマイケル・カーン,A.C.E.、視覚効果アドバイザーはILMのスティーヴン・ファングメイヤー、衣裳は『シカゴ』(2003)のコリーン・アトウッド、音楽は『アメリカン・ビューティー』(1999)のトマス・ニューマン。キャストはジム・キャリー!、エミリー・ブラウニング、『ロード・トゥ・パーディッション』(2002)のリアム・エイケン、双子のカラ&シェルビー・ホフマン、『ラスト・サムライ』(2003)のティモシー・スポール、ビリー・コノリー、キャサリン・オハラ、『クレイマー、クレイマー』(1979)のメリル・ストリープ。

裕福な家庭に生まれたヴァイオレット(エミリー)、クラウス(リアム)、サニー(カラ&シェルビー)の三姉弟妹は、突然“光の矢”により家を焼失、両親も死んだ。身寄りの乏しい三人は、相続管理の銀行員ポー(ティモシー)に連れられ、遠縁で舞台俳優のオラフ伯爵(ジム)のところに向かう。しかしそれが更なる、そして果てしない不幸と不運の始まりだった。オラフはとんだ食わせ物で、三人の莫大な遺産にしか興味がなく、得意の変身と用意周到な手立てで、三人の殺害を企てる。しかし長女の発明の才能と、長男の読書で培った知識と、次女の強力な噛みつきで、三人はなんとか陰謀を切り抜け、生き延びていく。

大人は馬鹿や鈍感ばっかりで、良い人は全部殺されちゃう。でも主人公の三姉弟は天賦の才能で、降りかかる災難を乗り切っていく。こんなレモニー・スニケット(本名ダニエル・ハンドラー)の、不幸と不運をテーマにした現代童話が原作だ。「人生何がおきるかわからない」「良い子にしてれば報われるなんてウソだ」が信条なのである。もうこれだけで面白そうな匂いがプンプンするではないか。
そして、この刺激的な物語は、とっても不思議な世界観の作品に仕立て上げられている。大道具小道具が洒落ている。ヘンテコなグッズもあるし、説明なしで謎のままのアイテムもある。車がかっこいい。それに奇天烈な生き物もいっぱいいるし。まぁドリームワークスとILMが参加しているので、CGには事欠かないわけなのだが。
しかし、いくら天下のスピルバーグ組でも、手に負えないものがある。役者と演出だ。
そこで登場、われらがジム・キャリーである!ホントに凄いよ、彼は。内臓も含め、全身の筋肉を自在に操る演技力は、現存する人類のなかではトップだと思うぞ。竹中直人が頑張って真似ようとしているけど、ジムを見ちゃうと全然ダメダメですね。
そしてメリル・ストリープが、久しぶりに良いです。近年の彼女は綺麗に撮ってもらいたい願望&私って巧いのよ的優越感が強いように思えてならなかったので嫌いだったんだけど、この映画ではそんなのかなぐり捨て、パチンコ台の役モノのような鼻メガネをかけ、目じりのシワを強調し、岩場(セットだけど)を腹ばいに転がる。出演を楽しんでいるのがよくわかる。
子役も、不幸そうな表情で良いです。この演出は監督とジムの共同作業だろうか。この不幸感が今後のトレードマークにならないことを祈る。
ところで、とんでもない俳優がカメオ出演している。ヒントは、メリル・ストリープ&家族愛&フレンチトースト&オスカー男優。もうわかりますよね?どこに出てるかまでは秘密。でも鼻がデカいから、すぐにわかっちゃうだろうな。
オープニングのクレーアニメはともかく、エンドロールの影絵のアニメーションと音楽は秀逸だ。間違っても席を立ったりしないで、余韻に浸ってほしい。
それと、一般的日本人なら、吹替版をお薦めします。映像とジムの演技に集中できると思うから。ナレーションのジュード・ロウの声はDVDにでもなってからチェックすればよろしい。もちろん二回以上観るのもアリだけどね。


『コーラス』 観た日:2005/05/12
お薦め度:★★★☆ もう一度観たい度:★★★

監督・脚本・脚色・台詞・音楽はクリストフ・バラティエ、脚本は『バティニョールおじさん』(2002)のフィリップ・ロペス=キュルヴァル、撮影は『グラン・ブルー』(1988)のカルロ・バリーニ、音楽は『WATARIDORI』(2001)のブリュノ・クーレ。キャストは『バティニョールおじさん』ジェラール・ジュニョ、ジャン=バティスト・モニエ、フランソワ・ベルレアン、マクサンス・ペラン、ジャック・ペラン、マリー・ビュネル。

1949年フランス。音楽の道に挫折し“池の底”という名の寄宿舎に赴任したマチュー(ジェラール)は、体罰と恐怖で子供達を押さえつけるラシャン校長(フランソワ)と、反抗心でいたずらを繰り返す子供達を目にし、自分に何ができるのか戸惑っている。特に問題と思うのがモランジュ(モニエ)だった。母(マリー)と二人きりの家族なのに、仕事の関係で一緒に暮らせない心の隙間が、行動の屈折として現れてしまうのだった。ある日、歌を口ずさむ子供達を見て、マチューは彼らの更正と精神的安定に、合唱を教えることにした。途中、大人への不審感に抗えない子供の反乱なども経験するが、この合唱団は徐々に歌にのめり込んでいき、粗暴な行動は目に見えて少なくなっていった。とりわけモランジュは、天才的なボーイソプラノの才能を発現させ、マチューは彼の音楽院への転校を思い浮かべるのだった。出資者への合唱会を成功に収めたある日、寄宿舎が火事になる。責任を問われ解雇されたマチューの先に待っていたのは、一番の年下で孤児のペピノ(マクサンス)だった。

フランスで2004年に社会現象をも巻き起こした話題作、ということらしい。サントラ盤も売れているらしい。アメリカ映画じゃなくてフランス映画なので、ロックやゴスペルじゃなくクラシックだけど、それでも売れているというのは好感だ(もっとも時代背景はロック誕生以前なんだけどね)。
手に負えない子供達を音楽で矯正(ってこの言葉はちょっと不道徳かもしれませんゴメン)するという、このようなコンセプトの映画はとってもたくさんある。私が最近観たものではたとえば『スクール・オブ・ロック』(2003)とか。同じ系列でスポーツものになるともっとたくさんある。『がんばれ!ベアーズ』(1976)とか(テイタム・オニール、可愛かったな……)。なので、この手の映画にチャレンジするときは、製作者は当然ながら過去の作品にはない“新規性”を必要とすると思うのだが、残念ながらこの映画には、この“新規性”と呼べるものはないように思う。
ではなぜ、フランスでは社会現象が起こったのか。
やっぱりこれでしょう。ジャック・ペランのマジックですね。
『ニュー・シネマ・パラダイス』(1989)の、エンディングでボロ泣きしている彼です(ついでに我々もボロ泣き)。ジャック・ペランが製作に関わっているので、映画の細工が、なんとなく『ニュー・〜』を踏襲している気がしてしまうのである。と言うよりも、これを監督したジュゼッペ・トルナトーレ色っぽい、と言ったほうが適切かもしれないなぁ。トルナトーレ色というのはつまり、計算高いということ。「ここで感動してくれ!」というのがアリアリである、ということである(あくまで私見ですからあんまり突っ込まないでくださいね)。これはもちろん、エンディングの、マチュー先生が去っていくときの、二段構えのオチのことだ。
それにしても私が感情移入できないのが、このオチの二段目である。一般常識を持ち合わせている人ならば、あれは誘拐というものであって、あそこがもしも“最も泣ける部分”であるならば、この映画の一般的評価ってヘンだよ。ねぇ……
もちろんペピノ役のマクサンス・ペランは、文句なく可愛い。ジャック・ペランの息子じゃなけりゃ〜もっと良かったのにな。
子供達のキャスティングも、適切だった。とりわけ良かったのが、やはり“奇跡のボーイソプラノ”の呼び声高いジャン=バティスト・モニエだろう。声もだが、歌うときの表情が素晴らしい。
ジェラール・ジュニョは、ユーモラスにお間抜けな恋心を演じたり、子供達には優しいパパだったりと大活躍だ。主演作の『バティニョールおじさん』、興味が湧いてきた。
ひとつ改めて教訓を悟った。子供は叱るよりも、尊重して褒めたほうが、言う事をきくようだし、成長するようだ、やはり。


『コンスタンティン』 観た日:2005/04/21
お薦め度:★★★★☆ もう一度観たい度:★★★★★

監督はこれが映画デビューのフランシス・ローレンス、脚本はケビン・ブロドビンとフランク・カペロ、美術は『アメリカン・ビューティー』(1999)のナオミ・ショーハン、撮影は『ビッグ・フィッシュ』(2003)のフィリップ・ルスロ,A.F.C./A.S.C.、編集は『チャーリーズ・エンジェル』シリーズ(2000〜)のウェイン・ワーマン,A.C.E.、衣裳は『トラフィック』(2000)のルイーズ・フログリー。キャストはキアヌ・リーブス、『ハムナプトラ』シリーズ(1999〜)のレイチェル・ワイズ、シア・ラブーフ、ティルダ・スウィントン、プルイット・テイラー・ビンス、『イン・アメリカ/三つの願い事』(2003)のジャイモン・フンスー、ギャビン・ロズデイル。

コンスタンティン(キアヌ)は生まれながらにして人間界以外の存在が見えていた。これを苦に自殺を図るが蘇生された。これにより、カトリックの教えにより彼は地獄に落ちる約束をされたのだが、地獄の有様を知るコンスタンティンはそれを承諾できず、人間界に来ている地獄からのハーフブリード(使者、天国からも来ていて、共に人間界に存在している)が悪事を働くごとに地獄に追い返す役(つまりエクソシスト)をすることで、自分が死んだ際に天国に行けることをアピールしている。しかし天使ガブリエル(ティルダ)は、これを偽善とにべもない。アンジェラ(レイチェル)は双子の妹イザベル(レイチェル二役)の自殺を不審に思い、彼女が死の間際に「コンスタンティン」とつぶやいたことから、彼に近づくが、それは彼女が過去に封印した能力の再確認も意味していた。一方、キリストを刺し殺した“聖なる槍”を発見したメキシコ人の失踪ともに、大いなる陰謀“地獄と天国の、人間界の争奪”の計画が進んでいった。

新しいスタッフによる、開拓意識溢れる映画である。その部分をまず評価しようではないか。予定調和的な、あるいはどこかで見たことのあるシーンが連発しているとしても。
とはいえその理由が、古い(というか失敗に及び腰な)ベテラン製作者の息が臭過ぎるからというものならば、困ったチャンだけど。
フランシス・ローレンスは、ブリトニー・スピアーズ、ジャネット・ジャクソン、ウィル・スミスなどのミュージックビデオの製作で知られた映像監督である。画像の繋ぎ方とか処理の仕方に、そんな感じが見て取れる。これは実は面白い現象だと思う。ミュージックビデオ監督が映画の手法に“降りてきた”のではなくて、自分のやり方を“貫いている”のである。そういう見方としても、この映画は面白いと思う。
まぁCGがやりやすいので、夜のシーンが多いのはご愛嬌だけど(これはなにも彼に限ったことではなくて、CG映画全体への警鐘と受け止めて欲しいんだけどな)。
キアヌ・リーブスは、相変わらずの大根ぶりだ。大根なのが持ち味だといってもいいだろう。あるいは大根を隠すためにこんな同じような役柄を選ぶのだろう。その意味では賢い。何でもいいが、やっぱり『マトリックス』終了の今、天国に両手を広げて召されて行ってはいけないんじゃないの???
レイチェル・ワイズは、う〜む、巧いのかどうなのかワカラン。胸のポッチは嬉しいけどね。

(以下、ネタバレなので、観てない人は読まないほうが……)

アンジェラが最後に「裏があったのね」と言うところがあるが、これは「私には思いもよらない“何らかの裏取引”があったのね」と言ったのだと思うのだが、どうだろう。深読みする必要はないと思うんだけど、いろんなサイトやブログの書き込みでは、話題になってますね。アンジェラは、コンスタンティンがまさか、マモンの復活を阻止するため二度目の自殺をしてルシファーを呼んだり、イザベルを天国に引越しさせちゃうし、しかもそれらが自己犠牲と評価されて“神”から天国へ招聘されつつも、ルシファーによって肺ガンを治されて人間界に連れ戻されるなんて展開は、考えもつかないだろうから(コンスタンティンにとっても予想外だろうけど)。
もうひとつ、パートナーのチャズは、“神”にその働きが認められたので、天国側のハーフブリードとなり、人間界を見守る使命を得たのだと思う。この件、エンドロールで帰っちゃった人たち、ダメ
ダメですね〜!
あと、笑えるつもりで盛り込まれたたくさんのシーン(最たる例がエンディングのガムを食うやつ)が、笑えないのがちょっと痛い。

(以下、追加です〜。)
アンジェラは、妹のイザベルと共に、子供の頃から“普通は見えないもの”が見えてたわけだが、それを明かす前に、すでにそれを示唆するシーンが冒頭にあった。後から気づいた。コンスタンティンがガブリエルと話す教会の聖堂のアレだ。アンジェラは、妹が“見えないもの”が見えたことで病院に入れられてしまったようなことがわが身に降りかかるのを恐れ、その能力を放棄してきたのだけど、コンスタンティンと話すガブリエルしっかり見てるじゃん。ね〜。
笑える武器の数々だが、いちいち理屈がくっついているところが真面目だ。これは昨今のロールプレイングゲームと同じだ。この手のアイテムやシーンは数々あって、天国にも地獄にも中立のクラブ・ミッドナイトなんて、笑っちゃう場所もある。『紅の豚』(1992)のホテル・アドリアーノの真似だ。
ん〜でもな……たぶん、天国のハーフブリードがもしこのクラブに出入りしたとしたら、地獄のハーフブリードたちの悪さを覚えちゃって、悪知恵がついちゃって……って、そうかガブリエルはそれで地獄と手引きをしちゃったのかな。
その天国と地獄だが、人間界の“上”に天国があり“下”に地獄があるという、既成観念のように認知されている概念とはまったく違う世界観が、この映画にはある。人間界の“その場所”が、天国の住人にとってはまさに光輝き満足感溢れる所である反面、地獄の住人にとってはそこがまさしく地獄絵図になる。これってけっこう良いかも。というかこの部分だけはまさにオリジナルだ。
ところで、コンスタンティンはこれから、仲間が片っ端から死んじゃったので、どうやって商売を続けていくんだろう。エクソシスト仲間だったミッドナイトは、原則として中立の立場を貫くんだろうから、新しいパートナーにはなりえない。アンジェラは可能性がある。でもアンジェラは単に“見える”だけなので、新しい能力が発現しないと役に立つかどうかワカラン。ということはやはり、天国側のハーフブリードとして再生したチャズかな。コンスタンティンよりはいろんなところに出入りができるだろうし、一度死んじゃってるからもう死なないしね。それよりも、武器が手に入らなくなっちゃったのは痛いな。怪しい武器商人を新たに開拓しないといけないわけだ。
ん〜パート2の匂い、プンプンだぞ!


『カンフーハッスル』(吹替) 観た日:2005/03/05
お薦め度:★★★★★ もう一度観たい度:★★★★★

監督・製作・脚本・主演は『少林サッカー』(2001)のチャウ・シンチー、脚本はツァン・カンチョンとローラ・フオとチャン・マンキョン、アクション監修は『マトリックス』(1999)のユエン・ウーピンと『プロジェクトA』(1983)のサモ・ハン・キンポー!、撮影はプーン・ハンサン、編集は『HERO』(2002)のアンジー・ラム、美術は『WHO AM I?』(1999)のオリバー・ウォン、視覚効果は『キル・ビル』(2003)のフランキー・チャン、音楽は『少林サッカー』のレイモンド・ウォン。キャストはブルース・リャン、ユン・ワー、ユン・チウ、チャン・ウォックワン、ティン・カイマン、ラム・ジーチョン、ドン・ジーホワ、シン・ユー、チウ・チーリン、フォン・ハックオン、ジア・カンシー、ホアン・シェンイー。

文化革命以前の中国。街にはギャングが横行している。抗争で生き残ってきた斧頭会(くとうかい)に入り、いつか成り上がりたいとシン(チャウ)は、いつも意気込んでいた。子供の頃に傾倒した、いわれもないカンフーの書物が、彼の心の糧だった。一方、庶民が暮らす豚小屋砦では、のらりくらりする大家(ユン・ワー)と凶暴で大声の婦人(ユン・チウ)のもとで、慎ましい生活が営まれていた。しかしシンらの心無い暴走で、豚小屋砦と斧頭会は果てしなき抗争に陥ることになる。カンフーの隠れた達人達が、豚小屋砦を守るが、斧頭会は刺客を送り、しかし隠匿していたカンフー家主夫婦が彼らを撃破。怒り心頭の首領サム(チャン)は刑務所から最強のカンフー達人である火雲邪神(ブルース)を脱走させ、決着をつけようとするが、なんとサムは唐突に火雲邪神に殴殺されちゃう。火雲邪神の生きがいは、自分と対等のカンフー達人と拳を交えることなのだ。そして出向く豚小屋砦に立ちはだかるのは、火雲邪神に殴打されたおかげで覚醒したシンだった。

立体的に見渡せない読むに足らない批評など、主観的にも客観的にも、この映画をコメントするには稚拙である。
まずはハッキリ斬っておきたい。この映画はチャウ・シンチーの過去の作品とは違い、コロンビア(=ソニー・エンタープライズ)が出資している、れっきとしたハリウッド映画だということだ。だから、いつもの“こきたない”“裏寂れた”(でも個人的にはまずまずだと思うけど)チャウ・シンチーは、ちょっとだけ影を潜めている。資本と流通経路を確保した代償として、心を売ったように思われているのかもしれないけど、そうじゃない。チャウ・シンチーは憧れのカンフー映画を作るという“翼”を得たのだ。
彼は、自分の中に棲む往年のカンフースターを、たくさん起用している。それだけの資金と説得力を、コロンビアと組んだおかげで得ることができたのだと思う。それは、彼が今まで作ってきた映画で“成り上がれた”証なのだと思うのである。
また、先天的に怪我に強かったり、唐突に達人になっちゃったりするところに不自然さがあるのは否めないけど、これも彼が“カンフー達人になりたいのになれない凡人”を自覚していたからこその、夢というか魔法なのだ。そう考えれば、けっこう可愛いではないか。
男っていうのは、量の多少はあるにしても、みんなそんなもんなのである。“憧れの姿”に変身したいのである。多くはできないんだけどね。
この“憧れ”は、名誉や金を得ることではなくて、肉体的に強靭な、群がる敵を片っ端からなぎ倒すような、圧倒的な力を得ることであり、チャウ・シンチーの場合は、まさにカンフーだったのだ。
そんな思い込みがあるからこそ、本物のカンフースターを起用し、アクション監修にユエン・ウーピンとサモ・ハン・キンポーを用いたのだ(この二人が揃うって、凄くない?)。
というわけで、また観ます。必ず。


『ジャッカス・ザ・ムービー 日本特別版』※R-18 観た日:2005/02/16
お薦め度:★★★★☆ もう一度観たい度:★★★

監督・製作はジェフ・トレメイン、共同製作はスパイクジョーンズとジョニー・ノックスヴィル。キャストはジョニー・ノックスヴィル、スティーヴォー、クリス・ポンティアス、バム・マージェラ、ライアン・ダン、ブランドン・ディカミロ、ジェイソン‘ウィーマン'アクーナデイブ・イングランド、エレン・マクーギー、プレストン・レイシー。

やったこと。☆レンタカーを借りて、ボッコボコにして返す。☆両親の寝室に大量の花火を爆裂させる。☆ゴルフ場のカートを暴走させてクラッシュ。☆身体のいたるところに電気マッサージ器の電極をつけてみる。☆万引きする。☆店に展示してある便器にウンコする。☆ワニの池の上で、パンツに生肉を挟んだまま綱渡りする。☆砂浜で、砂ででっかいヴァギナを作って、ペニスの着ぐるみで突入する。☆ブリーフにゴムをつけて木の枝に縛り、飛び降りる“パンツバンジー”。☆老人のメイクをして、電気カートで町中をかっとばす。☆女子キックボクシング王者とリングで対決。☆バリカンでいきなり後ろから頭髪を襲う。☆両親に内緒で自宅にでかいワニを放置する。☆尻にロケット花火を刺して打ち上げ。☆雑貨屋でいきなりボクシング。☆雪にオシッコをかけて、氷レモンだと言い張り食べる。☆とにかく棒高跳びする。☆渋谷を、パンダの着ぐるみで暴れる。☆鼻からワサビを吸う。☆荒地をかっ飛ばしながら刺青をする。☆ジンベイザメにフェラチオさせる。☆手足の指の股や口元を、封筒を縦に引いて切ってみる。☆肛門にミニカーを入れ、知らん顔で医者にレントゲンを撮らせる。

……という、つまり日本で、TV『電波少年』とかTV『黄金伝説』とかでやってきたようなことを、さらに過激にやってみた、というおバカ映画である(もっとも“元祖”はどこか知らぬ)。
ジャッカス=jackass というのは“どうしようもない大馬鹿”というアメリカのスラングだそうだ。まぁ JackAss、だもんな。
で、もともとはケーブルテレビの人気番組らしく(ビデオも販売されている)、要するに、日本でも知っている人は知っているっていうヤツだ。
それにこの作品は日本特別版ということだから、日本のロケも入っているのだが、渋谷の街っていうのは面白いものがたくさんあるわけで、最高なのが日体大のエッサッサに遭遇した連中のリアクションだ。深くは描かれていないのだが、アレ、トランクス一丁で雑居ビルの入り口でいきなりやってるのを見たら(コンパの締めなんだろう)、誰でも驚く&喜ぶよね。もっとも、いくらなんでも寿司屋のカウンター(これ、日本語で正式に言うと何なんだ?)で、並べた握りの上に思いっ切りゲロを吐くなよな……
というわけで、総括するのはとても難しい。パンフレットやインフォメーションを見ていた限りでは『ピンクフラミンゴ』(1972)を想定してたんだけど、ぜんぜん違うし。でも面白いのは確か。
オープニングとエンディングのみ、練られた演出があるのが、逆にやらせっぽくて(演出だからやらせなんだけど)、センスもある、子供には見せられない映画ですね。


『ターミナル』 観た日:2005/01/20
お薦め度:★★★ もう一度観たい度:★★★★

監督・製作はスティーブン・スピルバーグ、脚本は『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』(2002)のジェフ・ナサンソンと『シザーズ・カップ』(1999)のサーシャ・ガバシ、撮影はヤヌス・カミンスキー、編集はマイケル・カーン、衣裳は『ファーゴ』(1996)のメアリー・ゾフレス、音楽はジョン・ウィリアムズ。キャストはトム・ハンクス、キャサリン・ゼタ=ジョーンズ、『ザ・コア』(2003)のスタンリー・トゥッチ、『ラッシュアワー』(1998)のバリー・シャバカ・ヘンリー、『60セカンズ』(2000)のチー・マクブライド、クマール・パラーナ、ディエゴ・ルナ、『ドラムライン』(2002)のゾーイ・サルダナ。

ビクター・ナボルスキー(トム)は、東欧の小さな国クラコウジアから一人ニューヨークにやってきた。荷物はわずかな衣類とピーナッツ缶だけだった。ところが入国する直前に、祖国でクーデターが勃発、パスポートが無効となったために、入国も帰国もままならない状況に陥ってしまったのだ。空港国境警備局のディクソン(スタンリー)は厄介者のビクターを出世の妨げと思っており、願わくばゲートから出ていき不法入国者として逮捕されて欲しいと、あの手この手を使うが、彼はいつもすんでのところで切り抜けていった。だんだん英語も上達し、フロアで働く連中と友情を持つようになっていったビクターは、フライトアテンダントのアメリア(キャサリン)と出会った。アメリアは不倫中で、いつも愛に渇いていた。居場所のない二人は必然に惹かれていき、ついにビクターはアメリアに告白することに。アメリアに素性を打ち明けつつ、ビクターはニューヨークに来た理由〜ピーナッツ缶に入っているものの真実〜を説明した。そしてついに、祖国クラコウジアに和平が訪れ、ビクターのパスポートの失効が解除された。喜びに湧くフロアの仲間達に囲まれるビクターに、アメリアは別れたはずの不倫相手に無理を言って工面してもらった特別ビザを手渡した。これにディクソンのサインをもらえば、アメリカに入国できる。しかしディクソンは、ビクターにパスポートを返しながら、祖国への帰国を促す。

スピルバーグという男は、まったく先進的なテクノロジーをもって誰もが度肝を抜くようなSFを撮るかと思うと、ヒューマンタッチな練り込まれた佳作を紡ぎ、またはこじゃれた小品(予算はウルトラだけどね)を“息抜き”に作るのである。
この映画はまさに“息抜き”である。フランスのシャルル・ドゴール空港に15年以上も滞在する実在のイラン人がモデルではあるけれど、内容は『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』の延長のような空港モノ(さらにトム・ハンクスもいるし)だし、クスッと笑える(かどうかは別にして、それを狙っているのは確か)、何と言うか、とっても過剰な比喩をするならば、ビリー・ワイルダー的な映画にしたがっているのがアリアリである。それを、トム・ハンクスが、自らのコメディアン的キャラクターと圧倒的な演技力でもって具現化しているのである。この“ワイルダー的な香り”が、スピルバーグの手腕なのかトム・ハンクスのオーラなのかよくワカランが、まぁどっちでもいいや。
そのトム、こいつも一体全体なんでしょうね……“貧乏”がつきそうなほどに器用な役者だよな。監督はともかく、出資金を出すほうも集めるほうも、恐らく「あ〜トムが出るならいいよ」ってな感じで大金をポンと動かすんだろうな。もちろん「スピルバーグが撮るなら」ってのもあるけど、トムが大看板であるのは間違いないのである。
そこに、すれっからしではあるけれどキャサリン・ゼタ=ジョーンズが入っているんだから、もう映画としてはどうかわかんないけど商品としてはステータスと宣伝効果があるので、儲けがトントンだったとしても十分に元が取れてしまうのである。たぶん。
スタンリー・トゥッチ。一応悪役の役回りで、もちろん一生懸命に上手に悪役を演じているんだけど、どう見てもあんまりワルじゃないってのが臭ってきてしまうので(でもかなりの知的人種でないとできない職種だから、下品が前面に出ているような役者にはあの役はできないんだけど)、なんとなく物足りないなぁ。
まぁアレですね。空港のセットを一から作ったとか、そういう話題が先行してますけど、この映画がスピルバーグ作品(=なんとなく権威っぽい)だとかではなくて、コメディライクに受け止めて楽しめるならば、観て損はないと思います。


『海猫』 観た日:2004/12/10
お薦め度:★★★☆ もう一度観たい度:★★★

監督は森田芳光、脚本は『失楽園』(1997)の筒井ともみ、原作は谷村志穂。キャストは『黄泉がえり』(2003)の伊東美咲、佐藤浩市、仲村トオル、深水元基、三田佳子、白石加代子、ミムラ、蒼井優。

野田美輝(ミムラ)は、フィアンセの突然の激怒と別れ話にショックを受け、失語症で入院した。祖母のタミ(三田)に「お母さんに何があったの?」と、フィアンセが離れていった原因を尋ねる。タミは、今まで一度も語らなかった自分の娘、薫(伊東)の秘密を、美輝の妹、美哉(蒼井)にも打ち明け始める。……薫は、タミとロシア人との間にできた娘だった。函館の信用金庫に勤めていた薫は、南芽部の漁師邦一(佐藤)と結ばれ、猟師町へと嫁いでいった。慣れない海での生活、特に昆布漁は、船に弱い薫には大変だった。邦一に荒々しく身体を求められ、それも愛の形のひとつだと納得していた。しかし同時に薫は、邦一の弟の広次(仲村)の視線をいつも感じていた。広次は実家を離れて函館に住み、工場で働きながら教会のイコンに魅せられていた。その絵に、青い瞳の薫を重ねながら、兄嫁の薫にひたむきな愛情を注ぐのであった。近隣の港の漁師と漁場の抗争で負傷した邦一は、函館の病院に入院したが、そこの看護婦と深く付き合うようになる。気配を感じ取った薫は、一途に想いを向けてくる広次に惹かれる自分に抗えなくなっていく。

上映ギリギリに観に行ったので、パンフレット買い損なった〜!まぁwebでスタッフやキャストのプロフィールは確認できるんだけど(ちなみにあらすじは、パンフは参考にしません、為念)。
そんなぼやきは別にしてこの映画。森田芳光監督は、巧いのである。鼻につくくらい。テクニックがあるのである。
演出も凄い。巧すぎる。
あえて欠点が見えるとすれば、そこだ。それを欠点と言われてしまう森田は、だから凄いのである。
これは、褒め言葉としてはふさわしいのかワカラン。個人的好みからすれば、実はあんまり褒めてないよね(って、読めばわかるか……)。
伊東美咲。完成直後は全裸シーンがバンバンだったらしいけど、本編は何もかもカットされている。別に裸が見たいわけではないが、そこここにそれらしくハードな片鱗が見える。いわゆる体当たり演技で、そこに着陸している総評は多い。あんなにしゃべらなければ、外面に目が行くのは当然か。でもなんで、あんなに口を開けているんだ?というか、唇がくっつかないのである。和製トム・クルーズじゃん。あれが、女優としての“表情の演技”を台無しにしてると思うのは、私だけかな〜。
佐藤浩市、良いです。男の視点から言うと、“マグロ”の女房よりも“いろいろしてくれる”浮気相手のほうが、そりゃ〜気持ちよくて居心地いいだろうな。でもそれを長続きさせようとか両方離さないとかっていうのは、お子ちゃまの発想だ。それを「可愛い」とのたまう“大人”の女性も多いようだけどね。まぁ自分の旦那とか身内にこういうタイプの男がいたら、かなり迷惑である。
仲村トオルが陰気くさい。なぜ?
三田佳子。恐るべし美貌。老けない。メイクと照明の技だけではない魔法が、彼女には存在している。眼力もまったくもって強力。
え〜今度はノーカット版を見てみたいですね。ダイジェストで。


『血と骨』※R-15 観た日:2004/12/09
お薦め度:★★★★ もう一度観たい度:★★★★

監督・脚本は『クイール』(2004)の崔洋一、脚本は鄭義信、撮影は浜田毅,J.S.C.、美術は磯見俊裕、照明は高屋斎、編集は奥原好幸、音楽は岩代太郎。キャストはビートたけし、鈴木京香、新井浩文、田畑智子、中村優子、濱田マリ、オダギリジョー、寺島進。

1920年代、済州島から大阪に向かう第一君が代丸に、金俊平(ビート)は乗っていた。日本で一旗上げようと意気込んでいた。同じ朝鮮人街に暮らす李英姫(鈴木)と所帯を持ち、花子(田畑)と正雄(新井)をもうけた。英姫には連れ子がおり近所で結婚して暮らしていた。このように家族はいた。裕福ではなく、差別されていたかもしれないが、幸福の礎はあったはずだった。問題は、俊平の素行そのものだった。欲望に忠実で屈強な肉体が振るう暴力は、家族をつねに恐怖に陥れたし、行動は理不尽で、怒りのはけ口は家族に向かった。俊平は近所に清子(中村)を囲い、脳腫瘍で倒れると今度は定子(濱田)を囲った。行きずりの関係から産まれた朴(オダギリ)の居候も気に入らなかった。蒲鉾工場の経営から高利貸しに転進し財産は貯まったが、俊平はびた一文誰にも触らせなかった。英姫は耐えたが子宮がんで死んだ。花子は逃げるために嫁いだ先でも幸せをつかめずに首をつった。正雄はさびれた温泉街まで流れていった。しかし俊平はわが道を行き、最後に何のつもりか、全財産を北朝鮮に寄付して、北へ帰っていった。定子との間にできた唯一の末息子を強引に連れて。無一文で床に臥せりながら、若き日の第一君が代丸を思い出す俊平。その横でとうもろこし粥をすする息子の耳に、俊平の息が止まるのが聞こえた。

なんでしょうコレ。酷い映画だ。金俊平という人物が、とにかく酷いのである。精力も暴力もぶちまけたいだけぶちまける。野生的とか本能の赴くままにとか、いろいろ擁護の言葉もあるかもしれないが、個人的な感想としては、こいつ馬鹿だ。第三者でいられるならば一人くらいこういう男がいてもいいけど、自分の生活空間にこんなのがいたら堪らんだろうな。
崔監督は、巧いのだろう。演出にも長けているのだろう。脚本力もあるのだろう。映画として仕上げるための営業力にも優れているのだろう。
俳優陣も、そりゃ〜演じ甲斐があるよね、この登場人物ならば。チャレンジしがいがあるってものでしょう。なんてったって、ビートたけしと同じフィルムに納まることができるんだし。
というわけで、そこらじゅうに流れている結論と同じになっちゃってとても癪だが、う〜やっぱりビートたけしなんですね、この映画は。「“素で演じている”っていうことが“演技の極意”というわけで、それができる数少ない俳優の一人がビートたけしである」という枕詞は、もう飽きたけど、でもたしかにそうなんだよな……
動作を簡潔に正確におこなうときに、最短距離を動くというのがある。優れたアスリートは、挙動がシンプルである。点と点を結ぶ動きが常に直線だ。直線=最短距離だから、見ていて気持ちいい。例だが、野球で、外野にフライが飛んで外野手がそれを掴むとき、落下点にまっすぐ走れる外野手は優秀だ。そういうことが演技にもあって、ビートたけしってそういうことができる俳優なんだと思う。演技に躊躇がない、という言い方だけでは的確には現せないこのイメージ、やろうと思ってもできないが、やろうと思わないともちろんできないだろうな。
と、たけしパワーが炸裂しているからこそ観る者が救われている、そんな、恐ろしい映画です。


『隠し剣 鬼の爪』 観た日:2004/12/07
お薦め度:★★★★ もう一度観たい度:★★★★

監督・脚本は山田洋次、脚本は朝間義隆、撮影は長沼六男、美術は出川三男、美術監修は西岡善信、証明は中岡源権、編集は石井巌、録音は岸田和美、衣裳は黒澤和子、音楽は富田勲。キャストは永瀬正敏、松たか子、吉岡秀隆、小澤征悦、田畑智子、緒形拳、小林稔侍、高島礼子、倍賞千恵子、田中邦衛、田中泯。

江戸幕末の庄内海坂藩で下級武士として生きる片桐宗蔵(永瀬)は、妹(田畑)、女中のきえ(松)らと慎ましく暮らしていた。やがて妹は旧友島田(吉岡)に嫁ぎ、きえも町の商人の家に嫁いでいった。三年が過ぎ、よろず屋の店先できえと再会した宗蔵は、きえのやつれようを見る。妹から、きえは嫁ぎ先で虐げられていることを知った宗蔵は、臥せるきえを取り戻しに乗り込んだ。次第に元気を取り戻すきえを嬉しく思う宗蔵だが、その頃城内では、西洋式練兵と兵器の導入を決めた藩に謀反を企てた罪で、かつて同じ道場に通っていた狭間(小澤)が捕らえられていた。狭間は牢獄から脱出し、農民を人質に立てこもっている。老中の堀(緒形)らは、同門の宗蔵に、狭間を討つことを迫る。民家に向かった宗蔵に狭間は「なぜ門下一の使い手の俺ではなくお前に、戸田先生は秘伝“隠し剣 鬼の爪”を授けたのだ」と問い詰めるが、宗蔵は「ここで見せるような技ではない」と、それをひたすら隠した。果し合いは結局、訓練していた藩の鉄砲足軽により決着した。友を失った宗蔵に追い討ちをかけるように、狭間の妻(高島)がこうささやいた。「老中は狭間を助けると約束してくださったのに。」

前作の『たそがれ静兵衛』(2002)で日本の映画賞を総なめにした山田組が、ふたたび同じ原作者藤沢周平の時代劇を手がけた。
って、まぁそうなんだけど。
無難である。レベルは高いが、流行語的に言えば“サプライズ”がない。さらに、今回の技が“暗殺仕様”であることや、「真実の切り合いにおいて綺麗事など言っていられはしない」という戸田師範の考えそのものが、ちょっとなんだかな〜なのである。
作画は素晴らしい。照明と露出の妙が良い。さすがは鬼の権厳。演出も良い。笑いも取れている(見え見えだけど)。衣裳も、黒澤和子はいつもながら素晴らしい。
でも、作品全体としては『たそがれ静兵衛』には及ばない。
前作がクランクアップしてからすぐに、この映画に取りかかったという。おそらく前作では撮り切れなかったことが、作品完成を前に見えてきていたのだろう。だからすぐに本作をはじめたのだろう。そこに、落とし穴があったとしたら悲しい。
そう、つまりこの映画は、悲しいのである。『寅さん』シリーズでは量産を強いられた山田洋次だが、もちろん楽しみもあったはずだ。そのひとつには“前回の宿題こそを今回は”なんじゃないかな。映画人として、やり残したこと、見直して物足りなかったことを、次回作にやりたい、だから“早く次を撮りたい”って意気込むのは、よくわかるつもりだ。でも結果、煮詰め切れないこともある。山田洋次の思いが昇華しているならば『寅さん』シリーズは回を追うごとに名作になっていくはずだ。もちろんゲストキャストが変わるから演出が行き届くわけがないけどね。
老いも、あるのかな。
そんな“焦り”を、嗅ぎ取ってしまった。


『ハウルの動く城』 観た日:2004/11/23
お薦め度:★★★★★ もう一度観たい度:★★★★★

監督・脚本は宮崎駿、スタッフはもちろんスタジオ・ジブリ、音楽は久石譲。キャストはソフィー=倍賞千恵子、ハウル=木村拓哉、荒地の魔女=美輪明宏、カルシファー=我修院達也、マルクル=神木隆之介、ヒン=原田大二郎、サマリン=加藤治子。

出兵する兵士に花を掲げている町で、亡くなった父を継ぎ、帽子屋を切り盛りする18歳のソフィー。母は奔放でいつも旅行に出かけているし、妹はカフェの看板娘だ。しかしソフィーは、長女の務めと帽子を作る。楽しくないわけではないが、甘んじて受け入れているのだ。ある日、兵士にからまれたソフィーは、見知らぬ青年に救われた。彼は魔法を使ったのだ。そして誰かから逃げていた。その夜、店に現れた荒地の魔女は「ハウルによろしく」とソフィーに呪いをかける。瞬間にしてソフィーは、90歳の老婆に変えられてしまった。魔法使いの青年こそが美女の心臓を食らうと恐れられているハウルで、荒地の魔女はハウルを追っていたのだった。老婆になったソフィーは、家を離れ、ハウルに会うために荒地に向う。呪いをかけられているカブ頭の案山子と共にハウルの動く城にたどり着いたソフィーは、そこに家政婦として住み込むことにした。肝心のハウルは魔法の扉の向こうにしょっちゅう出かけてしまい、あまり城には帰ってこない。ハウルと契約をしている炎の悪魔カルシファー、弟子?のマルクルと暮らし始めたソフィーは、人間達に恐れられているハウルが実は、臆病と言えるほどに繊細であることを知った。瞬く間にハウルの虜になってゆくソフィー。しかし世界は戦争の道を走り、国中の魔法使い達も徴兵の令がおりる。王室に仕える魔女サリマンの呼び出しを嫌がるハウルの代わりに王城に向かったソフィーは、同じく呼び出された荒地の魔女と再会した。そして、サリマンとハウルの関係をソフィーは知る。

公開2日間で110万人を動員したらしい。日本新記録だそうだ。世間は韓流ブーム真っ盛りで、純愛大好きのうねりがタッポタッポと駆け巡っている。それに見事に乗っかっている、とも言えなくもないのだが。
宮崎駿という男は、還暦をとうに過ぎているのに危うい幼さを未だ持つとんでもない確信犯である。まさしく世界最高峰の作画技術だ。絵の動かし方をホントに良く知っていると、オタクじゃない私も感服する。さすがに小ネタは二番煎じになりつつあるが、笑わせどころではしっかり落とすし(それをセリフではなく絵で見せるところが宮崎流の真骨頂)、構成の罠は幾重にも張り巡らされている。
そんな百戦錬磨のオヤジが選んだ少女は、白馬の王子様に一目惚れしてしまった。見てくれだけでなく、精神構造までもが“少女マンガの理想の先輩!”なのである。「どうせ私なんて可愛くないし……」とうそぶき可憐を装う少女なら誰もが、一生のうちに一度でいいからこんな相手と恋したいって思うだろうな。カッコいいのに守ってあげたい。しかも本人はそんなことこれっぽっちも意識してやってないのである。
たしかにアレは、堪らないよな〜。自意識過剰ないけ好かない野郎はゴロゴロ転がってるけどな。まぁ『未来少年コナン』のラナみたいな女の子がもしいたら、他の女の子たちは気が狂うだろうけど、それの反対ですね。
そんなソフィーだが、見た目は90歳のばあさんである。呪いは誰にも話せない。でも作品中ではその年齢が場面ごとに変わっている。もちろんこれも宮崎流の確信的手法であって、ソフィーがハウルと気持ちが通じているときか、ハウルがソフィーを想っているときに、彼女の呪いは弱まるのである。まさしく“恋する娘は綺麗になる”の、アニメ的模範解答だ。
そんなソフィーの物語だから、戦争なんてどうでもいい。ソフィーはハウルの心配だけに全神経を集中させている。そこには、町が焼けようが帽子屋が破壊されようが妹の命が危うかろうが、関係ない。それらはすべて十把ひとからげ、その他大勢である。恋する女は、怖いなぁ。
……などと、とにかくお子ちゃま以上の年齢の観客にとっては、恋愛をこれでもか!と語るには、好都合な映画である。珍しいよね、スタジオジブリがここまでストレートに恋愛映画を作るなんて。枯れてきたので少年回帰かな、駿ちゃん。
久石嬢のスコアが最高。彼の書き下ろし映画音楽の中では出色。三拍子はやはり、心を揺さぶられるのだ。


『誰も知らない』 観た日:2004/10/08
お薦め度:★★★★☆ もう一度観たい度:★★★☆

監督・脚本・編集は『ワンダフルライフ』(1999)の是枝裕和、撮影は『ディスタンス』(2001)の山崎裕、録音は『幕末純情伝』(1991)の弦巻裕、美術は『害虫』(2002)の磯見敏裕と『五条霊戦記』(2000)の三ツ松けいこ、音楽はゴンチチ。キャストは柳楽(やぎら)優弥、北浦愛(あゆ)、木村飛影(ひえい)、清水萌々子(ももこ)、韓英恵、YOU、タテタカコ。

秋、福島けい子(YOU)と12才の明(柳楽)が、アパートの二階に越してきた。隣人に挨拶をすませ、荷物を運び込む。トランクを開けると、中から茂(木村)とゆき(清水)が出てきた。夜になり、明は駅で待つ京子(北浦)を迎えに行った。4人の子供はそれぞれ父親が違う。けい子は、子供を学校に行かせていない。長男の明は唯一、外出が許されていて、買い物などをする。残りの3人は外出禁止だ。京子は洗濯が仕事。幼い茂とゆきは、大きな声を出すことを禁じられている。ある日、けい子は20万円と伝言を残し、どこかに行ってしまった。好きな男ができたらしかったが、子供の存在はまだ秘密らしい。家賃や光熱費を払うと、たちまちお金はなくなった。明は、たまに送られてくるけい子からの仕送りと、兄弟の父親と思われている男にところに無心に行ったり、コンビニで賞味期限の切れた食べ物をもらったりして、弟妹を養う。明も京子も、もう母が帰ってこないことを薄々感じていたのだった。ライフラインはもう止まっている。そして、ゆきが、椅子から落ちた。

久しぶりに心がざわつかされた。
2004年のカンヌ映画祭で、最優秀主演男優賞を史上最年少かつ日本人初で、柳楽優弥が取ったことで、この映画は一気に話題に上ったわけだが、いやいや!そんなに単純なものではありませんよ。この是枝監督というのは実に、なんというか、クセモノ。この監督がどんな感じなのかを一番簡単にイメージできるのは、日産セレナのテレビCMの「モノより思い出」シリーズだ。でも、ここで言っているイメージは、子供への演出力ではなくて、カメラのフワッとしたあの画面である。フレーミング、アングル、とても特徴的な浮遊感があって、でも落ち着いていないとか浮かれているとかではなくて、真面目さがあるように思う。アレが、最大の彼の武器のようだ。
映画は、実際の事件を元にしている。
話は、一言で片付けるなら、親のワガママに振り回されながらも親を嫌いになれない子供の悲劇、である。とにかくけい子が許せない。生理的にダメだ。信じられない。こういう女は、子供を生む資格がない。子供たちは恐らく戸籍がないが、それを言っているのではない(それも大問題だけど)。子供たちが“自分を好いている”ことを知っていて、それを“利用”しながら、“自分のためだけ”の恋を探しているのだ。挙句の果てに「ママが幸せになっちゃいけないの?」と言い放つわけだ。要するにこの家には子供が5人いるわけで、でも経済状況を打開できたり“女”を武器にもできることを実践しているのは、母親たるけい子だけだ。
そのくせ、子供たちは、どんなことが身に降りかかろうとも、誰も一度も泣かないのに、けい子は眠りながら泣く。それを明は見ているのだ。起きているときだけではなく寝ているときでさえ、けい子はズルいのである。
そう、大人はズルいのだ。そしてズルさを知らないぶんだけ、子供は無垢に見える。
もちろん、この大人のズルさと子供の無垢さは、この映画の対比である。現実には、得てして逆の場合もたくさんあるのは知っている。でも、母子家庭5人家族のイニシアチブは、当然ながら常に母親にあるわけで、そういう意味ではこの閉じたコミュニティでは、ズルいけい子はいつも上位にあるのだ。
是枝監督は「けい子を単純な悪者にはしたくなかった」と言う。ユニークであるのは間違いない。でも、こんな親がゴロゴロしていることを否定できない現代社会は、圧倒的に病んでいるという他はない。
一方の子供たちは、明るい。学校に行けないとかお腹が空いたとかの不満はあるものの、閉じた社会の中で暮らす子供たちは、その中しか基本的に知らないから、それが異常と思っていないので、その中で楽しみを見出している。そんな長所を先天的に持ち合わせているのが、子供というものなのである。だから、稀にアパートの外に出られたときの爆発の仕方といったら!
ゴンチチが良い。タテタカコの挿入歌もとても良い。
というわけで、見終わった直後の私は、まだ心が痛くて(何もラストシーンのアレのみを指しているわけではないです為念)再び観る勇気が出ない。でも、機会があったら、ぜひ観てほしい。そして、心をざわつかせてもらいたいです。


『シュレック2』吹替 観た日:2004/08/24
お薦め度:★★★★ もう一度観たい度:★★★★

監督は『シュレック』(2001)のアンドリュー・アダムソン(脚本・脚色も)とケリー・アズベリーとコンラッド・バーノン、脚本はジョー・スティルマンとJ・デビッド・ステム&デビッド・N・ウェイス、音楽監修は『オースティン・パワーズ』シリーズのクリス・ドゥリダス、作画CGはご存じドリームワークスSKG。声優はシュレック=マイク・マイヤーズ/濱田雅功、フィオナ=キャメロン・ディアス/藤原紀香、ドンキー=エディ・マーフィー/山寺宏一、長ぐつをはいたネコ=アントニオ・バンデラス/竹中直人、リリアン王妃=ジュリー・アンドリュース!

大冒険を終え、ハネムーンを楽しんで、自宅の沼に帰ってきたシュレックとフィオナは、留守番していたロバのドンキーを追い出してしっぽりしようとするが、外のファンファーレに驚かされる。使いの者が手紙を持ってきたのだ。フィオナの故郷“遠い遠い国”で、両親であるハロルド国王とリリアン王妃が待っていると言うのだ。怪物の自分が(まぁフィオナもだが)歓迎されるわけがない、と渋るシュレックをフィオナが説得し、ドンキーも一緒に“遠い遠い国”へ向かう。案の定、ハロルドとは大喧嘩。しかしハロルドの喧嘩の真意は別の所にあった。妖精のゴッドマザーとの契約があったのだ。ゴッドマザーは自分の息子チャーミング王子こそフィオナの夫に相応しいと、シュレックとフィオナの仲を裂こうとしていたのだ。ハロルドは殺し屋を雇い、シュレックに差し向けた。

原作はウィリアム・スタイグの『みにくいシュレック』(1990)。
しっかし〜、これほど安直なキャラ設定はないよね。もう個々を説明する必要がないんだもの。既に何百年も前から地球人に受け入れられているんだもの。いくら「ひねってます」とスタッフが叫ぼうとも(せいぜいピノキオに赤いTバックをはかせるのが関の山)。そして第一作同様に、そのキャラを逆へ逆へと持っていけば、この物語は完成だ。
と、書いちゃえば簡単なんだが、実行はもちろん大変だろうな。
言いたいのは、崇め奉るほどの映画じゃないってことです。面白いのは間違いないんだけどね。
一作目は字幕で観た。今回は吹替だ。だからシュレックが関西弁だなんて知らなかった。というか、一作目同様、アテレコに濱田雅功がやってるわけだから、関西弁でない訳がない。でもベタだよな〜、『ファインディング・ニモ』とか『モンスターズ・インク』の吹替が秀逸だったから余計にトホホに思ったのか?
そういえばパンフレット、吹き替えの声優リストくらい付けてくれてもいいじゃん。5人しか書かれてないぞ。しかもコメントも取れてないし。ゴッドマザー、誰がやってんだ?ネットで調べろって言うのか??え、配給会社、何か言ってみろ!
そうそうコメントと言えば、なんで主役のマイク・マイヤーズのコメントが載ってないんだこのパンフ。
ん〜手抜きだ。
とまぁ大きく脱線したけど、誰かの歌をつぎはぎして(つまりオリジナル挿入曲じゃないってこと)威張ってるんじゃないよとか、文句もたくさんあるんだけど、作品全編90分の原則は守ってるし(そうしないとDVDも作りにくいからな)、テーマも大人が観てもそれなりに納得できるし、売れてる理由は十分わかりますね。
ジュリー・アンドリュース!よく出てきてくれました。そうなんだよ、その声を聞きたいだけの理由で、吹替版をキャンセルするというのもアリだな。でもファミリーで観るなら字幕は無理だな。でも関西弁のシュレックって……


『スパイダーマン2』吹替 観た日:2004/08/23
お薦め度:★★★★ もう一度観たい度:★★★★★

監督は『ギフト』(2000)のサム・ライミ、脚本は『普通の人々』(1980、脚色)のアルヴィン・サージェント、撮影は『マトリックス』シリーズのビル・ポープ,A.S.C.、美術は『フェイス/オフ』(1997)のニール・スピサック、編集は『死霊のはらわた』(1984)のボブ・ムラウスキー、視覚効果はILMの重鎮ジョン・ダイクストラ,A.S.C.、作曲は『バットマン』(1989)のダニー・エルフマン。キャストは『シービスケット』(2003)のトビー・マグワイア、『ジュマンジ』(1995)のキルスティン・ダンスト、『バレー・カンパニー』(2003)のジェームズ・フランコ、『ブギー・ナイツ』(1997)のアルフレッド・モリーナ、『愛しすぎて/詩人の妻』(1995)のローズマリー・ハリス、『ラブ・オブ・ザ・ゲーム』(1999)のJ.K.シモンズ。

ピーター・パーカー(トビー)は大学生になり、一人暮らしをしていた。しかし授業も宅配ピザのバイトも、MJ(キルスティン)との約束さえも、遅刻してしまう。仕方ないのだ。ニューヨークには、あちこちに危機が散らばっているから。スパイダーマンとしての十字架は重いが、自分の不注意で死なせてしまった伯父との約束もある。力を持った者は責任も負う。しかも誰にも自分の姿を知られるわけにはいかない。重い宿命に、しかしピーターは徐々に挫けていく。怪人グリーン・ゴブリンだった父ノーマンをスパイダーマンに殺されたハリー・オズボーン(ジェームズ)はピーターの親友でもあったが、父の真実の姿を知らず、スパイダーマンを逆恨みしている。ある日、ハリーは彼が出資している科学者Dr.オトー・オクタヴィウス(アルフレッド)を、ピーターの勉強の参考になるだろうと紹介する。オクタヴィウスの核融合反応の公開実験に立ち会ったピーター達は、人工知能を持つ4本の金属アームを脊髄に装着したまま制御不能になったオクタヴィウスの暴走を目の当たりにする。オクタヴィウスは怪人ドック・オクになってしまった。ドック・オクは欲望のまま、さらなる核融合実験の準備を進め、ハリーに原料の調達を迫る。ハリーはスパイダーマンを自分の前に差し出すことを取引条件とした。一方ピーターは、MJの不意の婚約宣言などでヒーローとしての気力を失っていた。

220億円もかけた壮大な青春恋愛映画。等身大のヒーロー作品で、コミカルで、人生観への含蓄もある。
サム・ライミ監督というのは、こんなに力があったんだね。もちろん原作あってのことではある。キャラクターはすでにしっかりしているし。
そのキャラ、不運カメラオタクのピーターに、隣に住む女優志望のMJに、幼なじみの金持ちハリー(スパイダーマンを逆恨み続行中)に、結婚式場でMJに逃げられた宇宙飛行士ジョン(新たな敵になる予定?)。みんな身内。アメリカン・コミカル・TVホームドラマの王道。ドタバタ恋愛コメディの基本。ワハハと合いの手を挿入すれば、ゴールデンタイムに家族揃ってリビングで安心して見られる作品として転換するのは容易い。つまり、蜘蛛に咬まれたり、異常な新薬を飲んだり、肉体に触手を装着したり、というのは、恋愛ドラマのスパイスなのである。いやはやなんという強力なスパイスだ!
マンハッタンを疾走し壁を這い昇るシーンのCGは一作目よりもキレが増しており素晴らしい。列車の暴走を命懸けで止めてくれたスパイダーマンをドック・オクから身を挺して守ろうとする乗客達は、内面から吹き出す正義感に輝いている。伯母さんのヒーローについての定義は、ピーターでなくともジンとくる説得力がある。パワーが落ちて壁を降りられなくなりエスカレーターを使う姿は情けなくておかしい。そんなエピソードや小ネタは、しかしやっぱりサイドメニューなのであ〜る。
それにしてもトビー・マグワイヤは巧くなったよな。というか『サイダー・ハウス・ルール』(1999)から良かったが、そこから格段の進歩があるよね。伸びるときって伸びるんだよね。
キルスティン・ダンストもますます綺麗になった。前作では赤毛が似合ってなかったけど、今回のはなかなか良い。アングロサクソン系の女性が持つ青いクールな瞳が、大変良いです。
二十歳くらいの青年。大人というにはまだ若い。自らすすんでなろうと思ったヒーロー稼業ではない。MJに想いのたけをぶちまけたいが、悪者達が彼女を巻き込むかもしれないから、自分の真実を打ち明けられない。オロオロしているうちにMJを失ってしまう。という、ここにやっぱり主眼があることを、強烈なサイドメニューでぶっ飛ばされないようにしましょう。


『ドラムライン』 観た日:2004/06/30
お薦め度:★★★★ もう一度観たい度:★★★

監督はチャールズ・ストーン三世、脚本はテキナ・ゴードン・チズムとショーン・シェップス、撮影はシェーン・ハールバット、編集は『ボディ・ダブル』(1984)のビル・パンカウ,A.C.E.、美術はチャールズ・C・ベネット、衣裳はサルヴァドール・ペレス、音楽はジョン・パウエル、制作&音楽総指揮はダラス・オースティン。キャストは『メン・イン・ブラック2』(2002)のニック・キャノン、『エボリューション』(2001)のオーランド・ジョーンズ、『ノット・ア・ガール』(2002)のゾーイ・サルダナ、レナード・ロバーツ。

高校でマーチングバンド部だったデヴォン(ニック)は、アトランタの名門AT&T大学バンド部からスカウトを受け、推薦で入学することになった。ここは古くからマーチングバンドが盛んな地域。スポーツ競技のハーフタイムなどに行われる応援は彼らの大事なアピールの場であり、またコンテストでは激しい運動量と統一性、そしてプライドがぶつかり合うバトルが展開される。スネアドラムの天賦の才を認められたデヴォンは、1年生として唯一の一軍メンバーとして受け入れられるが、生来の奔放さや才能の自惚れによりドラムリーダーのショーン(レナード)と対立する。彼をスカウトしたリー監督(オーランド)もデヴォンが楽譜を読めないことを知った時点でレギュラーから外した。入学時から彼とつき合い始めたチアリーダーの上級生レイラ(ゾーイ)も両親に彼を紹介できない。そんな時ライバルであるモーリス・ブラウン大学から誘いを受けたデヴォンは、編入するためにそこの監督のもとを訪れた。しかし監督は次回のコンテストにAT&Tがどんな構成を持ってくるのかをしつこくデヴォンに聞くのだった。自分が求めている“本物”の音楽がどこにあるのか、自分がどれだけ未熟だったのかに気づいたデヴォンは、心を入れ替え、AT&Tチームの為にリー監督やショーンと作曲を行い、そんな彼をチームも改めて受け入れていった。そしてコンテストの日がやってきた。

未熟な小僧が、友達や恋人や先輩や恩師に囲まれながら成長していく、大団円でハッピーエンドの青春映画!と括ってしまえばそれですんでしまうような、ありきたりのモチーフの作品で、世の中に随分と垂れ流されているテーマでもあるのだが、単純にそんな言葉で片付けられないモノがある。それはズバリ“マーチングバンドのドラムライン”というキーワードの刺激性に他ならない。
人間がオギャ〜と地球に誕生して最初に手にした“楽器”が肉声であるならば、次はもちろん肉体を使ったモノも含めた打楽器であるはず。だから打楽器は、一途に心に届きやすい。単調な拍子も組み合わされた複雑なリズムも、同等に感動する。それをバトルするのである。そそられない訳がないではないか!
だからこの映画の題名を見ただけでもう観なきゃ!と思ったのだが、ドラムパフォーマンスは思った通りでなかなか良かったのだが、それよりもストーリーが思った以上にヘンじゃなくて良かったです。青春成長モノってとにかく手を換え品を換え……って感じだけど、それでも廃れないのは、アレンジが底をついていない証拠だよね。まぁニーズも相変わらず旺盛だという市場原理もあるんだろうけど。
ゾーイ・サルダナ。可愛いですね。個人的にビヨンセと同格。
2002年の映画なので、今回観たのは2年越しになるので、もしかしたら上映されていないところが多いのかも。というか一度すでに上映されているのかも。だからなのかもしれないけど、パンフがCDジャケットのような大きさ&体裁である。資料として読むには迷惑千万だ。ペラペラでも良いからB5orA4にしてくれ!>配給会社


『スキャンダル』※R-18 観た日:2004/06/30
お薦め度:★★★ もう一度観たい度:★

監督・脚本は『情事』(1998)のイ・ジェヨン、脚本はキム・デウとキム・ヒョンジョン、撮影は『純愛中毒』(2002)のキム・ビョンイル、美術はチョン・グホ。キャストはTV『冬のソナタ』のペ・ヨンジュン、『情事』のイ・ミスク、『接続』(1997)のチョン・ドヨン、イ・ソヨン、チョ・ヒョンジェ、チェ・ソンミン、ユン・ソンニョ。

18世紀末の朝鮮。裕福な身分であり、稀代の好色にして画家のチョ・ウォン(ペ)とチョ夫人(イ・ミスク)は、初恋同士の間ではあるが、結ばれなかった。チョ夫人は、夫が跡継ぎを産ませるために側室としてソオク(イ・ソヨン)を迎えることを怒り、彼女を妊娠させてくれとチョにもちかけるが、16歳の小娘を攻略することなど容易いとチョは関心がない。それよりも、結婚直前に夫となる男が死んだのにその後9年にわたり操を守り続けるヒヨン(チョン)を狙っていたのだ。そこで2人は賭をすることにした。ヒヨンを落とせたらチョ夫人はチョが今まで手に入れられなかったもの…自分の身体を。しかし落とせなかったらチョは僧侶になるのだ。チョはヒヨンに猛烈なアタックを開始するが、ヒヨンは極めてガードが固い。そのうちに、チョは生まれて初めて、ヒヨンに対し愛を感じ始めた。遂に結ばれたチョとヒヨン。新しい愛に生きる覚悟を決めたヒヨンだが、チョ夫人にとってはただの賭の対象でしかなく、チョに早くいつものように振ってしまえと催促する。ガックリと落ち込むヒヨン。改めて心の声を確かめたチョは、チョ夫人との賭を反故にし、ヒヨンを追った。怒りにまかせて奸計を企むチョ夫人により、チョは刺殺される。涙が溢れるチョ夫人。彼女もやはり、チョを愛していたのだった。ヒヨンは、チョが描いた渾身の絵画を見て彼の真実を知ったが、既に遅く、ヒヨンもまた薄氷の湖を進み、湖底に沈んだ。

フランスで1782年に書かれた小説『危険な関係』が原作。題材が面白いせいか、何度も映画化されているようで(私は観たことないけど)、その一つが『華麗なる関係』(1976)。シルビア・クリステル!とナタリー・ドロンが出演しているあたり、どんな映画か想像がついちゃうね。そしてそんな元ネタを、200年前の朝鮮に舞台を置き換えて撮られたのがこの映画だ。
とにかく、貞操もなにもあったもんじゃない。全員ヤリまくり。いいのかこれで。いくら上流階級という連中が退屈だったとしても、だ。現実の反面だとしても、ねぇ。
何はともあれヨン様である。『冬のソナタ』のアレだ。とはいってもこの番組、一度も観たことがない。そもそもTVドラマ自体を殆ど観ないのであった(最近観たヤツは……『アリー my LOVE』の最初のクールかな?)。まぁそれはいいけど、とにかく韓国でも大人気のヨン様、あまたの映画出演のオファーを断り続けた末に、この映画を選んだらしい。理由はよくワカラン。パンフレットではいろんな能書きを垂れているけど。
で、そんなヨン様が観たくて〜という建前と、セックス観たさの本音がガッチリ噛み合っちゃったんだから、そりゃもう劇場はマダムで溢れちゃうわけだ。ごもっとも、である。
ん〜でもね、あまり映画を観慣れていないからなんだと思うけど、みんなエンドロールの最中に席を立っちゃうんだよね。だから、最後の最後に出てくる、側室のソオクがお腹をさすりながらニヤリ笑いをする場面を、見逃しちゃうわけだ。あの笑顔、良いですね〜ドロドロしてて。お腹の子はもちろんチョの分身なわけだし。正室の身分の観客が殆どだと思うので、退席しちゃったそういう人達にこそ是非、あのニヤリを観て欲しかったな〜。


『ハリー・ポッターとアズカバンの囚人』吹替
観た日:2004/06/28 お薦め度:★★★ もう一度観たい度:★★★

監督は『大いなる遺産』(1998)のアルフォンソ・キュアロン、製作は『ハリー・ポッターと賢者の石』(2001、監督)のクリス・コロンバスとデイビッド・ヘイマン、脚色はスティーブ・クローブス、撮影はマイケル・セレシン、編集はスティーブン・ワイスバーグ、美術はスチュアート・クレイグ、音楽はジョン・ウィリアムズ! キャストはダニエル・ラドクリフ、ルパート・グリント、エマ・ワトソン、ロビー・コルトレーン、トム・フェルトン、マイケル・ガンボン、アラン・リックマン、デイビッド・シューリス、ゲイリー・オールドマン、ロバート・ハーディー。

大馬鹿者の伯母さんをつい魔法で膨らませてしまったハリー(ダニエル)は、怒りにまかせて家を飛び出したものの、魔法省の通達でひよっこ魔法使いがホグワーツ魔法魔術学校以外で魔法を使ってはいけないことを知っていたので、退学になる覚悟をした。しかし偶然に魔法使い御用達のナイト・バスに乗ることができた。飲み屋兼宿屋の「漏れ鍋」に辿り着いたハリーは、そこでファッジ魔法省大臣(ロバート)と出会う。彼はなんと黙って魔法を使ったことを咎めないばかりか、ホグワーツへの進学も認めるという。不思議に思うハリーだが、翌日ロン(ルパート)の父から事情を聞かされた。悪の根源“名前を言ってはいけないあの人”の崇拝者であるシリウス・ブラック(ゲイリー)が難攻不落と思われていたアズカバン刑務所を脱獄し、ハリーを狙っているというのだ。両親殺しに荷担したシリウスに憎しみを抱くハリーだが、それにも増して恐ろしいのは、シリウスからホグワーツとハリーを守るために配備されたアズカバンの守人の吸魂鬼ディメンターであった。ハリーはディメンターに出会うたびに両親が殺される場面を思い浮かべてしまうのだ。新しく「闇の魔術に対する防衛術」の教授に就任したルーピン教授(デイビッド)に、ディメンターを追い払う呪文「エクスペクト・パトローナム」を教わるハリー。そして遂に、両親殺しの真相が明らかになった。

原作と前2作にビビって、オリジナリティを模索した結果、失敗した映画。
ハリポタの、原作フリークと映画フリークの両方を舐めてるのである。原作に対するアレンジは許容範囲として考慮できるけど、なんでハグリッドの小屋が斜面なんだよ〜!とか、そもそも暴れ柳が平坦な中庭にないんだよ〜!とか。その辺りからもう違和感アリアリなわけですよ。最低でも舞台背景は前作と同じにすべきだよな。クィディチのユニフォームとかダンブルドア校長の衣装とかが替わっていることなんて小さな事だから、誰も突っ込んだりしないけどさ〜、ホグワーツそのものの舞台が少なくとも過去2作品とは変わってしまっているってのがとっても変。当然ながら校舎もいろいろいじられているわけで、新規性を訴えたいキュアロン監督の意志は尊重できるけどそれはそれだ。
実はワーナー・ブラザーズ社は、この作品に関しては難儀している。昨年末のクリスマス商戦にワーナーが持っていったのが『マトリックス』3作目で(これはたぶん『ハリポタ』シリーズの核であるところのダンブルドア校長役のリチャード・ハリスが死んじゃったとか監督が変わったとか、いろいろ理由があるのだろう)、だから本作は夏休みロードショーに回されたんだろうけど、でもさ〜理由はそれだけではないよね多分。「忍びの地図」「暴れ柳」「ホグズミードの叫びの屋敷」「クルックシャンクス」などなど、キーワードは取りあえず登場してはいるけれど、どうもキャラクターとしての立ち方が中途半端だ。原作者J・K・ローリングとの間に、どんな契約の変更が行われたのかも想像がついちゃうね。ローリングが金に目が眩んだとは思いたくないので(現在ではもう十分に金持ちなんだし)、ここはやはり、ハリウッド商業主義に悪者になってもらいましょうかね〜。
まぁ結局の所、原作に追いつけなくなっているのである。というか、原作の完成度が過去2作品とは比べられないくらいに上がっているのである。それとのギャップを埋めようと足掻くうちに、筋書きもキャラもいじらなきゃならなくなってしまったわけだ。だから舞台となるホグワーツも思い切って変えましょう、マダム・ロスメルタの店「三本の箒」はパブだから未成年入店禁止にしましょう(だってこの映画は健全育成に荷担させるんだから)、みたいに、どんどん骨抜きになっていってしまったのだ。とことん残念。「プロングズ」の説明もないんだぜ!
そんなわけで、パンフレットには映画の筋書きが書かれていないのである。恥ずかしくて書けないのである。情けないにも程があるよね。
しかもしかも、当初は3部作と言っていた(ような気がする)のに、4作目も制作されるという。ハリーら生徒達がどんどん成長しているのに、ホントに撮れるのか?
というわけで、これ以上胸くそ悪くなるようなら、もう作らない方が良いよ、ワーナー。


『愛の嵐』ノーカット完全版 ※R-18 観た日:2004/06/23
お薦め度:★★★★ もう一度観たい度:★★★

監督・脚本は『Galileo』(1968)のリリアーナ・カバーニ、脚本はイタロ・モスカティ、撮影はアルフィオ・コンティーニ、音楽はダニエレ・パリス。キャストはダーク・ボガード、シャーロット・ランプリング、フィリップ・ルロア、ガブリエル・フェルゼッティ、イザ・ミランダ、アメディオ・アモディオ、マリノ・マッセ。

1957年冬のウィーン。マックス(ダーク)はオペルホテルで夜勤のフロント係をしている。彼には、戦時中にナチス親衛隊員として多くのユダヤ人を虐待した過去があった。同じように潜伏する仲間達による“会合”では、自分達の過去を消すための画策が常時行われている。ある日、アメリカ人指揮者の仕事についてきた妻ルチア(シャーロット)がオペルホテルにやってきた。マックスとルチアは、一目でそれとわかった。二人は、親衛隊と捕虜の関係を逸脱した、肉欲をむさぼり合った仲だったのだ。マックスには捨てたい過去であり、ルチアには思い出したくない過去だが、肉体に刻まれた快楽は消えていなかった。部屋に忍んできたマックスを拒絶するルチアだが、結局は嬉々と受け入れるのだった。一方、元親衛隊の仲間達は、自分達にとってルチアが新たなる恐怖となることに気づき、マックスともども証拠隠滅を図ろうとする。マックスはルチアと共に自室に閉じこもり、結末の見えている抵抗を、ただセックスに溺れながら続ける。

1973年のイタリア映画。『スイミング・プール』公開にセットで、これはもちろん主演のシャーロット・ランプリング繋がりなのだが、粋な計らいで映画館が企画上映したのを観たのである。
題名を見てまだわからない方は、ゲシュタポ帽子にトップレスにサスペンダーに革黒長手袋で歌う女の、あまりに有名な(パロディもワンサカ現れましたね)シーンのある映画、と言えばおわかりになるだろうか。
サディズムとマゾヒズム、自分が構築している世界を完全に捨ててなお貪欲に求め合う肉愛の世界、未だ傷跡が癒えぬナチスの取り扱い方など、公開時はいろんな意味で話題満載だったらしい。日本での公開当時は、映倫のせいでブツ切りだったのだろう。今回は完全ノーカット版ということだ。でも今見ても、どこがカットされたのかよくわかんないけど。というかカットする場面がどれなのか見当がつきませんでした〜。現代が如何に不感症で危険なのか、という逆説でもあるかも。
1970年代というのは、フリーセックスとかドラッグとかヒッピーとか、いろいろな“もがき”が行われている時代である。まぁカルチャー論なんてガラじゃないし、詳しく知らないからここで書けるモノなんてないんだけど、映画に関して言えば『ラスト・タンゴ・イン・パリ』が1972年にイタリアでベルナルド・ベルトリッチ監督によって作られているし、1976年には大島渚監督が『愛のコリーダ』を作っている。もっとも大島監督はベルトリッチに「日本でもハードコアを撮れよ」と言われてその気になったらしいので、順序としては『ラストタンゴ〜』と『愛の嵐』の2作品がなかったら『愛のコリーダ』は生まれてなかったかもしれないけどね。
とにかく、大戦後30年くらいが経過し、世代が一回交替して、価値観の入れ替わりもおこったわけで、こういう映画が生まれる土壌は成熟していたんだろうな。
ナチス圧制の異常状況で、肌の相性の良い、性的嗜好も一致した、圧する側と圧せられる側の二人が出会ってしまったらどうなるのか?という命題を、リリアーナ・カバーニ監督は1970年代の感覚で描ききっているこの映画、一般ロードショーはないでしょうけど、観る価値はあるんじゃないかな。


『スイミング・プール』※R-15 観た日:2004/06/22
お薦め度:★★★★★ もう一度観たい度:★★★

監督・脚本は『8人の女たち』(2002)のフランソワ・オゾン、協同脚本は『天使の接吻』(1988)のエマニュエル・ベルンエイム、撮影は『ベッドタイム・ストーリーズ』(1998)のヨリック・ルソー、衣装は『焼け石に水』(2000)のパスカリーヌ・シャヴァンヌ、音楽は『クリミナル・ラヴァーズ』(1999)のフィリップ・ロンビ。キャストは『愛の嵐』(1974)『まぼろし』(2001)のシャーロット・ランプリング、『ピーターパン』(2003)のリュディヴィーヌ・サニエ、『白い炎の女』(1987)のチャールズ・ダンス。

ロンドンに暮らす推理小説家のサラ(シャーロット)は、焦燥し疲弊していた。シリーズは売れているけど満たされない。出版社社長のジョン(チャールズ)との“関係”も終焉の近づきを感じている。ジョンはサラに、気分転換に南仏プロヴァンスの自分の別荘へ行くことを薦める。渋々従ったサラだが、好天と静寂に包まれているここは、ロンドンとは別天地だった。さっそく構想に励む彼女。しかし、深夜の騒音と共に突然やってきたジョンの娘のジュリー(リュディヴィーヌ)には閉口する。創作に適した環境は一変。マリファナと酒と男。全裸で泳ぎプールサイドに寝そべるジュリーに、嫌悪と苛立ちと、何より若さと奔放さへの嫉妬を覚えるサラだが、ジュリーが顔にあざをつくって帰ってきた朝、それまで抱いていなかった感情が浮かんできた。好奇心。サラはジュリーを題材に新たな小説を書き始めた。食事に誘い持ち物を盗み見るサラ。しかしジュリーにとってもサラは好奇心の対象であった。ある日ジュリーは、サラの外出を見計らい彼女の部屋で執筆中の原稿を読み、驚く。その夜、サラも旧知のレストランの給仕を別荘に誘ったジュリーは、3人で過ごしたあとに、プールで給仕を殺害する。

観終わった後に、頭の中でいろいろ転がして楽しめる作品。久しぶりに、鼻に付かない上等な謎かけ映画を堪能しました〜。
フランソワ・オゾン監督か。知らなかったな。近作は『まぼろし』『8人の女たち』か、探して観てみようかな。こういう、書くことも撮ることもできるような人って、正直羨ましい。というか妬ましいですね。
しかし、このオゾン監督というのは、エロです。よ〜くエロ心を理解しています。女を綺麗に撮ろうという気はないです。「オレは女を綺麗に撮りたいんだ」ともし彼が女性に言っているのだとしたら、それは単に口説きのための常套句にすぎませんね。でも女は騙されるんだろうな〜。
それは置いといて。ダブルヒロインのうち、先にリュディヴィーヌ・サニエを褒めておこうかな。彼女、凄いですね。脱ぎっぷりも凄いけどそっちじゃなくて、ジュリーが内面に隠すトラウマから来る感情の唐突な出し方とか、事件の後の従順さとかが。ん〜実写『ピーターパン』ではティンカーベルを演じているそうだが、この映画のビッチ振りからちょっと想像できないけど、巧い女優ということは間違いなさそうだ。
もちろんシャーロット・ランプリングも凄い。フランス女優というのは、ブリジット・バルドーとかソフィア・ローレンとかソフィー・マルソーとかを敢えて挙げるまでもなく、年を重ねてもポンポン脱ぐんだけど、それがまた綺麗なんだよね〜。シャーロットももちろん綺麗だ。というか、彼女1945年生まれなんだぜ。演技の細かさも絶品。一人のシーンでの表情とかしぐさとか、巧すぎる。演技の教科書になり得ると思う。
音楽も良いです。監督との信頼関係が窺えますね。

[[[以下、謎解きなので、観てない人は読まない方が……]]]

順序立てて観ていくと、当然ながらエンディングの、ジョンの出版社に現れる、今まで見てきたのとは似ても似つかぬ“可愛くない”(失礼!)ジュリーに戸惑うと思う。なんだこのジョンという男はいろんな所に種を撒いていやがるんだな、という見解も然りだが、そしてもちろんその解でもつじつまは合っているのだが、その後に出てくる別荘のシーンでの、サラの快活な素振りをよく見れば、全てわかるというモノ。ようするに、さっきまでスクリーンで展開されてきたシーンのうちの、ジュリーに関する全ては、サラの頭の中で展開している小説のストーリーなのである。ジュリーが関わっているシーンは全て、サラの想像なのだ。レストランの給仕がかっこいいな〜と思うのは恐らく真実。管理人のおっちゃんをくわえ込むのもたぶん真実。いくら電話しても出てくれないジョンも間違いなく真実。で、ジュリーが現れて、男をガンガン連れ込んで、ジョンと母親と彼女の関係とかお腹の傷とか殺人とか、は、全部虚構。最後の“可愛くない”ジュリーは、本物だ。結局の所、映画における南仏での出来事は全て、サラの想像でしかないのであった。しかしサラは、別荘で過ごすうちに確実に“再生”している。このリフレッシュこそが、オゾン監督が女性に抱く思慕であり願望であり、懇願なのだろう。フランス男はマザコンだというのは、どうやら拭いようのない真理らしい。


『真珠の耳飾りの少女』 観た日:2004/06/10
お薦め度:★★★★ もう一度観たい度:★★★★

監督は本作映画デビューのピーター・ウェーバー、脚本はオリビア・ヘトリード、撮影は『鳩の翼』(1997)のエドゥアルド・セラ、美術は『アドルフの画集』(2002)のベン・ヴァン・オズ、音楽は『リード・マイ・リップス』(2001)のアレクサンドル・デプラ。キャストは『ロスト・イン・トランスレーション』(2003)のスカーレット・ヨハンソン、『ブリジット・ジョーンズの日記』(2001)のコリン・ファース、『28日後...』(2002)のキリアン・マーフィー、『イン・ザ・ベッドルーム』(2001)のトム・ウィルキンソン。

1665年のオランダ・デルフト。グリート(スカーレット)は、タイル職人の父が事故で失明したので、画家のフェルメール(コリン)の屋敷に住み込みで働くことになった。子沢山のフェルメール家では、義母と妻がパトロンのライフェン(トム)に絵を売ることにやっきになっているが、肝心のフェルメールが遅筆なので、いつも家計は火の車だ。グリートは日夜の重労働に明け暮れていたが、アトリエの窓を拭くときに、光の差し具合が変わることに気づく。小道具の配置の不安定にも。フェルメールは彼女に才能を感じ、雲の色を分析させ、遂に絵の具の調合を試させるまでになった。奉公人と主人の関係は、同じ芸術を、そして互いをプラトニックに理解するまでになっていった。しかし妻は、急接近する夫とグリートに嫉妬を隠せない。ある日フェルメールは、グリートにモデルを頼む。グリートは恐れ多いと固辞するが、フェルメールは妻が大事にしている真珠のピアスを用意し、青いターバンを捲いて、彼女をアトリエに座らせた。

誰もが恐らく目にしたことのあるフェルメールの傑作『真珠の耳飾りの女』(通称『青いターバンの女』)を見て、一気に書き上げたというトレイシー・シュヴァリエの原作を、イギリスTV界を主な活動の場としているスタッフが見事に表現した、渾身の作品。
こういう映画って、たぶん民放ゴールデンじゃあ放映しないんじゃないかな。視聴率取れないもん恐らく。ところが佳作というヤツは、えてしてそんなものなのである。
何より美術とカメラが素晴らしい。17世紀のオランダ。株式会社発祥の地らしく、倒産なんてものが既に存在している町。不衛生な運河は、交通の主題であり、洗濯用の水を汲み、下水や生ゴミを捨てる。市場は雑然としているが物資は豊かそうだ。そんな雑然とした生活のまっただ中にある、天才画家フェルメールの家に潜む、静寂。光と色の息づくアトリエ。これらを対照的かつモノの見事に描き出しているのだ。
しかも、これらは創作なのである。歴史背景の考証は当然されているだろう。しかし、謎が多い(らしいです、パンフによると)フェルメールの残された絵画から推理された彼の生活感や作画環境には、説得力あるリアリティさに溢れている。まさに、フェルメールへの敬愛と、脚本への深慮だ。
そしてそして、またもやスカーレット・ヨハンソン!彼女が出ていなければ、じゃなくて『ロスト・イン・トランスレーション』(の映画史上最も寂しいお尻)を観ていなければ、恐らくこの映画、見落としてたろうな。巧いのである。美形なのは言うまでもないが、何というか、演技としての努力じゃないところで、女優として内在するべき光を既に持っているような感じ。それが彼女を包んでいる。その総括が“巧い”の言葉になるなんて、ちょっと褒め過ぎか。でも、スッピンのアップで撮れるときに撮れるだけ撮っておいた方が良いに決まってるよな。
あと、音楽も良い。ちょっと『ハリー・ポッター』っぽいけど。まぁ12個しか音符ってないので仕方ないところはある。使われ方に『ドライビング・ミス・デイジー』(1989)を思い出したよ。
夏休みを前にして、超豪華資金たっぷり商業映画がそろそろ出始めているけど、そんなヤツらがかかる前のセットアップとしては十分過ぎる映画なので、でもたぶん上映期間は長くないだろうから、急いで観ておこう。
……しっかし、女の嫉妬にもとづく感って、恐ろしいな〜!


『深呼吸の必要』 観た日:2004/06/03
お薦め度:★★★★ もう一度観たい度:★★★★

監督は『はつ恋』(2000)『命』(2002)の篠原哲雄、脚本は長谷川康夫、撮影は柴主高秀,J.S.C.、照明は長田達也、美術は都築雄二と浅野誠、編集は奥原好幸。キャストは香里奈、谷原章介、成宮寛貴、金子さやか、久遠さやか、長澤まさみ、大森南朋、北村三郎、吉田妙子。

沖縄のある島に、求人広告に誘われて6人の若者がやってきた。彼らは3月31日の出荷期限までにさとうきび畑で作業するきび狩り隊として、農家の平良(たいら)さん宅に泊まり込みで働くことになるのだ。ひなみ(香里奈)は東京で派遣の仕事をしていたが、今回の公募に興味を持ち、この地にやってきた。他の5人とはもちろん面識がない。全国を渡り歩いて収穫のバイトをしている田所(大森)が先輩として切り盛りする。朝7時起床、8時から昼食を挟んで18時までの作業という。休みは進行にもよるが週1日。居間をカーテンだけで仕切った雑魚寝生活が始まった。翌朝、連れて行かれたきび畑は、想像を大きく上回る広さ。これを35日間で刈り取らなければならない現実に呆然とするも、おじい(北村)の「なんくるないさー(どうにかなるさー)」の言葉と共に、初めてのきび狩りが始まる。途中、里帰りの辻元(久遠)も加わったきび狩り隊だが、ある嵐の夜、田所が事故で大怪我をしてしまった。出荷の期限が迫る。

題名の通り、変な力の入っていない映画。こういう映画を撮るのは実は力がないとできないわけで、この篠原監督というのは、なかなかに力のある人物である。過去の作品を観ていない。残念。これから観ようっと。
面識も何もない青年男女が、ただたださとうきびを刈るために集まってきて、おたがいの詮索も特にしない(共同生活なので徐々にばれてくるのだが)。恋愛のもつれもない(あえて排除されている)。平良家のおじいとおばあも、良くも悪くもいろいろある日々を淡々と楽しんで生きている。黙々と肉体労働を重ね、食って寝て、自分が自分であるままに“生きて”いけばいいんだな〜と自分なりに気づいていく、というのがテーマなのだ。しかし、その辺にゴロゴロ転がっている“自分探しの旅”とか“自己の再発見”とかが、押しつけがましく語られているわけではないし、研鑽の上に悟りを開くわけでもない。日常の、身体を使った生活。繰り返される根元的な喜怒哀楽。それが、結果的に自分を見つけ見つめ直すことに繋がっているので、観ているこちらも肩肘張らずに溶け込んでいけるのだった。そう、これこそが、監督の力量なのだ。
そして、そんな日常がやがて、平良家の危機を感じ取り、早朝から、深夜の車のライトを使ってまでもの刈り取り作業に、自発的に繋がっていく。もちろんこれも、自分が自分であるままの結果なのである。
リストカットの痕を隠す高校生、野球に挫折した学生、患児を看取ることに疲れた小児外科医。シングルマザーになることをためらったり、化粧や派手な振る舞いで自分を隠したり。いろんな連中がいるなか、実は主人公格のひなみだけは、何にもない。派遣が仕事という、まぁ“正社員”からみれば“フリーター”の類に入る肩書きではあるけど、そんなことは彼女の負い目にはなっていないし、他の連中のように逃げたい隠したい自分を背負っているわけでもない。語り部や狂言回しでもない。ただいるのだ。もちろんボケッと佇んでいるという意味ではないんだけど。でも、存在感がないわけでもないし(そういう撮り方をしているからだけど)、不思議な役柄である。彼女が巧いのかどうかワカラン。素で勝負しているといえば聞こえは良いが、そんな言葉で括る気もないんだよな。まぁ深呼吸の伸びのときにシャツ越しにあばら骨が見えちゃうような体躯には、個人的にセクシャリティは感じないのだが、そんな性的臭いの乏しい、もとい、両性に分け隔てなく受け入れられそうなキャラは、確かに昨今の流行りである。
田所という人物像には感心させられた。全国の農家を渡り歩き、四季の収穫の手伝いを行う、という自由業があるのか〜。思いつきもしなかったが、言われてみればそういうのもアリですね。やりたいというわけではないですけど。
彼ら(田所以外だよ)が再びきび狩り隊としてこの島に来ることは、恐らくないだろう。もちろん来れば歓迎してくれるだろうけど、平良家もそれを深く望んでいない。だからといって平良家が若者達の再生工場を自負しているわけではないし、来る連中も自分を癒やしに、あるいは内面の何かを見つけに、この仕事を求めたわけではない。あくまで、日常の描写。そんな描写から何かが得られたのであれば、この映画に出会えた我々は、幸せといえそうだ。


『スクール・オブ・ロック』 観た日:2004/05/28
お薦め度:★★★★ もう一度観たい度:★★★★★!

監督は『恋人までの距離(ディスタンス)』(1993)のリチャード・リンクレイター、脚本(キャストも)は『チャック&バック』(2000、出演)のマイク・ホワイト、音楽コンサルタントはジム・オルーク、作曲は『ベルベット・ゴールドマイン』(1998)のクレイグ・ウェドレン、撮影はロジェ・ストファーズ,N.S.C.、編集はサンドラ・エイデアー、衣裳はカレン・パッチ。主演は『愛しのローズマリー』(2001)のジャック・ブラック!、『ワーキング・ガール』(1988)のジョーン・キューザック、『メリーに首ったけ』(1998)のサラ・シルヴァーマン、ジョーイ・ゲイドスJr.、マリアム・ハッサン。

デューイ・フィン(ジャック)は人生の全てをロックに捧げる男なのだが、ロックの神様はデューイに振り向いてくれない。居候しているネッド(マイク)とパティ(サラ)に家賃が払いないどころか、自分で立ち上げたバンドが造反し追い出されてしまう。トホホなただ中、ネッド宛てに電話がくる。名門私立小学校の臨時教員の依頼だ。ネッドになりすまして収入を得る当てがついたと喜んだデューイ、当然ながら児童に勉強を教える気なんかサラサラないのだが、ある日のこと、音楽室で演奏する児童らを見て、目の色を変えた。こいつら磨けば光るジャン!さっそくいつも持ち歩いているロックバンド用機材を教室に持ち込み、めぼしい子供に楽器やコーラスを任命し、あぶれた子にもマネージャーや衣装係や照明やボディーガードを与えた。全ては自分がバンドコンテストに出演するためだ。つまずく子には勇気を与え、とまどう子には元気を注入した。最初はされるがままだったみんなに、次第にロックンロールの精神が宿っていった。厳格なマリンズ校長(ジョーン)も口八丁で丸め込んだデューイは遂に、バンド「スクール・オブ・ロック」を率い、ニセ教師を追いかけてきた親たちを尻目に、舞台に立つ!

参った。泣けた。コメディ一色の、泣きを誘う所なんか全然ないのに。「優勝を狙うんじゃない、最高のステージを見せろ!」なんて、最たるセリフ。逆に、この映画で泣ける人とは友達になれそうだ。
何といってもジャック・ブラック扮するデューイの、この馬鹿馬鹿しい純情さである。自分のことしか考えていない。だから居候相手になりすまして臨時教員として家賃を稼ごうとしたり、校長の弱みにつけこんで平日のコンテスト出場を承認させたりする。
じゃあなんで結果的にデューイに敵がいないのか。彼が馬鹿馬鹿しいほどに純情だからだ。これって、生きていく中で結構重要なことなのだ。誰でもが持ち合わせることのできる資質じゃないのだ。最初は「?」だらけだったクラスの子達が、結局はデューイの言いなりになっていく。それどころか、デューイの言葉に触発され、ロックに自我を後押しされ、遂には親からも自立していく。見事な反面教師ぶりなのだが、もちろんデューイはそんなことは望んでいない。見ている方向は自分なのだ。それはワガママの極みの男だからだ。
こういうシンプルで古典でしかし説得力ある脚本は、とても難しいと思う。だからこんなに成功させられる脚本家のマイク・ホワイトには、凄い才能があると思う。
とはいっても、まぁやはり、とどのつまりはジャック・ブラックに行き着いてしまうんだけどね〜。最高だよジャック!
もちろん子役も凄い。脇役も『サタデー・ナイト・ライブ』出身のベテランコメディエンヌだし、キャストの妙は見事だ。
また観ます。絶対。でもこの映画ほど、吹替だと死んでしまうんだろうな〜と思わせる作品も、そんなにないだろうな。


『ロスト・イン・トランスレーション』 観た日:2004/05/19
お薦め度:★★★★ もう一度観たい度:★★★★

監督・脚本・製作は『ヴァージン・スーサイズ』(1999)のソフィア・コッポラ、撮影は『バッファロー66』(1998)『マルコヴィッチの穴』(1999)のランス・アコード、編集は『フル・フロンタル』(2003)のサラ・フラック、美術は『ナインスゲート』(1999)のアン・ロスと『アダプテーション』(2002)のK.K.バレット、音楽はブライアン・レイツェル。キャストは『ゴースト・バスターズ』(1984)のビル・マーレイ!、『モンタナの風に抱かれて』(1998)のスカーレット・ヨハンソン、『プライベート・ライアン』(1998)のジョバンニ・リビシ、『最終絶叫計画』(2000)のアンナ・ファリス、林文浩、藤井隆。

盛りを過ぎたハリウッドスターのボブ・ハリス(ビル)が東京に来た理由は、サントリーのウィスキーCM撮影のためだった。成田からハイヤーで新宿のホテル、パーク・ハイアット東京に来る間に見上げるネオンの洪水は、孤独と喪失感をむち打つには十分すぎた。ホテルから見下ろす新宿御苑や代々木公園方向の平たい視界。着たことのない部屋着。解らぬ言葉でわめくCM監督。ずいぶん前から噛み合わない妻との長距離電話は、いっそうボブを追い込んだ。このホテルには、カメラマンの夫(ジョバンニ)についてきた妻シャーロット(スカーレット)もいた。忙しく出歩く夫とは対照的に、時間を持て余すシャーロット。結婚して2年、大学を今年卒業したはいいが、今は何をやるでもなく、夫との距離をこんなに感じてしまうなら東京なんかにこなければよかったと後悔していた。出会うべくして出会った二人。惹かれ合う気持ちを理性で抑えながら、時間は過ぎる。やがてボブがL.A.へ帰る日が来た。ハイヤーに乗り込みホテルから離れるときに、人混みに消えていくシャーロットを見つけたボブは、道横に車を停めさせた。

『ヴァージン・スーサイズ』は、見逃したままである。なので、ソフィア・コッポラについて、マスコミの記事とか、もっと単純にフランシス・フォード・コッポラの娘だとかという情報しか持ち合わせていなかったし、この映画についても、前評判は上々だとか、賞を山ほど獲ったとか、全編日本ロケだとか、父親と黒澤明が共演した関係でサントリーを登場させたかったとか、そんな話ばかりが先行して頭の中に入っていた。
ところが、こんなにたくさんの“余韻”とか“間”とかが盛り込まれている上等な作品だとは、思ってもみなかった。
アンチ・ハリウッドと括ってしまうのは単純な発想だろう。確かに商業主義的な製作過程をあまり感じないし、こじんまりしたスタッフでやってるんだろうな〜と想像できちゃう作り方である(そうは言っても製作総指揮が大巨匠のオヤジさんなんだけど)。
狙っている。しかし狙い通りに作れるなら、それはアリだ。
ソフィアは東京が大好きらしい。しょっちゅう遊びに来ているらしい(と、パンフに書いてある)。今回の映画は、東京での体験を確信犯的に盛り込んだそうだ。実際、東京のことをよく見ていると思う。いくら日本人スタッフがたくさんいたとしても、監督の思い込みというものはなかなかクリアできないだろう。なにしろアメリカという国は、日本を制圧したときから130年にもわたって日本を見下してきたわけだし(そうじゃないと新参国というのは自己を確立できないモノらしい。イラク虐めも、メソポタミア文明に嫉妬してるんだろうな……)、そんな“見下され映画”は、面白半分ならまだしも、普通の日本人はもう見たくないよね。で、そんな面が、この映画からは感じないのだった。二人のアメリカ人が、単純に文化の違いからくるズレにぶつかっている、それだけ。ここが日本じゃなくてもアリかな、という感覚。そう、東京という町が、ソフィアの中で主客ともども適切に消化されているんだな。
その文化の違いからくるズレ、多くはコメディなのだが、これをビル・マーレイが、実によく表現している。鼻の頭に赤い玉をつけちゃえば、そのままベテランピエロだ。ピエロには憂いが必要で、まさしくビルは憂いている。家族、特に妻とのすれ違い。以前はあんなに近くて、一生近いままだと信じていたのに。守るべき子供ができて妻が変わったのか、自分が変わらな過ぎるのかわからないが、明瞭に皮膚感覚として悟っている夫婦の乖離。そんな“中年の危機”をも、乾いた空気感と共に、周囲に発散しているのが凄い。巧いぞビル!
スカーレット・ヨハンソンも良い。やっぱり女は厚い唇じゃないとね。それに、あんなに寂しそうにベッドに横たわるお尻を初めて見たよ。このお尻を見て思い出したんだけど、本編とはまったく関係ないんだけど、クリスティーナ・リッチのあの寂しそうなオッパイと共に“寂しそうな女性の象徴”として後世に記憶されるべきだ。
それと、藤井隆(というか、マシュー!)。凄いよな〜。マシューTVって実際凄い番組だと思うよ。パンフレットには一言も書かれてないんだけど、もっと大々的に取り上げられても良いんじゃないかな、マシュー。もちろん目を付けたソフィアも凄いぞ。
(以下は、観てない人は読まない方がいいと思います。)
エンディングの、ボブの聞こえぬ囁きとシャーロットの返事。当然ながら「L.A.に戻ったら連絡くれ」「イエス」だと思っていたのだが、どうもパンフレットを読むと違うようで、プラトニックな二人の最初で最後のキス云々とある。そうか〜?この二人は、東京だから寂しいんじゃなくて、いま自分を取り巻く環境そのものが寂しいんだから、カリフォルニアに戻ったら、東京で被っていた理性なんかには折り合いをつけちゃって、きな臭いことしようぜ〜、っていう意味だと思うんだけどな。違う?


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