ムービーランド
店長の 映画言いたい放題 201-250

★=1ポイント、☆=0.5ポイントで、最高は5ポイントです。


『赤目四十八瀧心中未遂』※R-18 観た日:2004/05/05
お薦め度:★★★☆ もう一度観たい度:★★★★★

監督は『ツィゴネルワイゼン』(1980,製作)の荒戸源次郎、撮影は『ぼくんち』(2003)の笠松則通、録音は『棒の哀しみ』(1994)の柿澤潔、音楽は千野秀一、編集は『無能の人』(1991)の奥原好幸。キャストは大西滝次郎、『バイブレーター』(2003)の寺島しのぶ、大楠道代、内田裕也、大森南朋、大楽源太、新井浩文、麿赤兒。

虫取り網を担いだ少年が蝶を追い、いつしか辿り着いたのは赤目四十八瀧。緑濃い夏から四季が巡る。2月、生島(大西)は、東京から兵庫・尼崎に流れ着いた。紹介を頼って辿り着いた焼鳥屋の勢子(大楠)にもらった仕事は、店で使う臓物を捌き串に刺すこと。窓も開かないボロアパートをあてがわれ、毎朝届けられる臓物をひたすら捌く。ただ生きていた。心はそこになかった。それが生島の望むことであったのだ。廊下も隣室も筒抜け、トイレは共同、そこに、入れ墨の彫師(内田)や売春部屋が混在する。このアパートに暮らす連中は、よそ者を観察していた。綾(寺島)もその一人だった。奔放な態度、出所したての兄(大楽)の存在、朝鮮人と勢子から聞かされていたことなどに、生島は命の未練を抗えなかった。だから綾が彫師の情婦と知っているにも関わらず、いきなり部屋に飛び込んできた綾が下着を脱ぎ捨てたとき、それらをも丸ごと抱え込む覚悟をしたのだ。兄の借金のため博多に売られる綾は、その身を憂い、生島に心中を誘う。二人の目に留まったのは、赤目四十八瀧のポスターだった。夏。深緑の清流を二人は上る。

上野昂志原作の直木賞受賞作の映画化。
暗い作品。重いのである。長いし。ハッキリ言って面白くない。
面白くないのだが、深い。見終わった直後は何だかな〜と思ったのだが、一晩たって、もう一度観なくちゃと考えが変わった。そこに制作側の意図があったのならお見事だが。深い、というキーワードでもう一度観ようかなと思わせる映画ってそんなにないはずだ。
尼崎というと、土地柄に馴染みのない私なんかからすれば、甲子園球場のある黄色と黒のシマシマの街、くらいにしか思わないのだが、この映画にそんな“陽の射す”部分なんて微塵も登場しない。修羅が這い回り、日々隣人に聞き耳を立てている。弱者を弄ぶことに余念がない。生まれたときからこの湿気に浸っているならともかく、よそから来た者には到底耐えられないだろう。彼が魂を持って入ればの話だが。
その生島だが、原作者上野、監督荒戸の代弁者なのは言うまでもないが、演じた大西は、正直に言えば大根である。セリフにも魂が入ってないし、東京弁もここでは空々しい。もっともそれでも良いからとキャスティングされた訳が当然ながらあって、もちろんそれは俳優らしい体格であろう(“眼差し”の件はあえてスキップ)。
むしろ(というかやはり)、綾である。問題である。寺島しのぶは確かに良い女優だが、魅せるならもっと綺麗な女を選んできた方が良い。しかしこの映画の中での設定では、綺麗でピチピチした女優では生活感が漂わない。セックスも魅せる必要はなく、しぐさにも魅せられる要素は必要なく、ひたすら生きている実感が感じられればよく、そう考えると適任である。先に“問題”と言ったのは、彼女がこの作品に出演を希望したのが撮影に遡ること5年前、25歳の時なのであった。綾役の覚悟を賞賛する意見がもっぱらだが、むしろ着目の早熟を恐怖する声を、ここでは敢えてあげておきたい。尾上菊五郎と富司純子が両親だったとしても、彼女の価値はもちろん彼女のものだ。
それに関する語句がないのに、真夏の密室での臓物解体とか、雨後の路地とか、ガマガエルの死体とか、入れ墨を彫る音とか、まぐわう二人とか、とんでもなく臭覚が刺激される。臭いのである。緑溢れる赤目渓谷にも、むせ返る大地の臭いが満ち溢れていて、それが容赦なく襲いかかってくる。語らずとも臭い映画。撮影スタッフの快勝だ。
赤目四十八瀧とは「あかめしじゅうやたき」と読む。関西圏でなくとも知らない人は上手く読めぬ。奈良と三重の県境にある名勝らしい。大坂からは、近鉄に乗って行くらしい。機会があれば今度行ってみようか。そして生と死の混濁する臭いを、胸一杯に吸い込んでみよう。


『ディボース・ショウ』 観た日:2004/04/22
お薦め度:★★★ もう一度観たい度:★★★☆

監督・脚本は『ファーゴ』(1996)のジョエル・コーエン、脚本・製作は弟のイーサン・コーエン、脚本・原案はロバート・ラムゼイとマシュー・ストーン、撮影は『ショーシャンクの空に』(1994)のロジャー・ディーキンズ、音楽は『ビッグ・リボウスキ』(1998)のカーター・バーウェル。キャストは『オー・ブラザー!』(2001)のジョージ・クルーニー、『マスク・オブ・ゾロ』(1998)のキャサリン・ゼタ=ジョーンズ、ポール・アデルスタイン、『華麗なるギャツビー』(1974)のエドワード・ハーマン、『スリング・ブレイド』(1996)のビリー・ボブ・ソーントン、『シャイン』(1995)のジェフリー・ラッシュ。

マイルズ(ジョージ)は離婚訴訟専門の凄腕弁護士で、最近も不倫妻を弁護し、被害者のTVプロデューサーの夫(ジェフリー)から全財産を巻き上げたばかりだ。今日は不動産王レックス(エドワード)から依頼がきた。浮気現場をビデオに撮られたが離婚を迫る妻マリリン(キャサリン)には一銭も払いたくないとのこと。虫の良い話だが、マリリンの目的が離婚を繰り返して財産を得ることと知ったマイルズ、法廷で策略結婚の証拠をつきつけ、クライアントの要望に見事応える。マリリンは無一文で放り出されたが、次にテキサスの石油王ハワード(ビリー)を見つける。恋に落ちたと言い、マイルズの事務所に、離婚したときの財産分与などが記された婚前契約書の作成を依頼してきた。“離婚太り”がモットーのマリリンが、財産目当ての結婚ではないという契約書をなぜ必要とするのかいぶかるマイルズだったが、とにかくこれを作成。しかしハワードは披露宴で契約書を食べてしまう。かくして離婚成立の暁により、マリリンは大金持ちとなる。ラスベガスで再会したマイルズとマリリンは、マリリンの“離婚太り”仲間の未亡人が独り身で死んだと言い、いつしか虜となっていたマイルズはたまらずにマリリンを連れてラスベガス名物の即席結婚式場へ向かった。

コーエン兄弟の最新作は、いつもの田舎者臭くて貧乏臭い人物が殆ど出てこないのであった。しかしコーエン色は健在。主役だろうが脇役だろうが、出てくる連中みなヘンテコ。白い歯を何より大切にする弁護士とか、酸素チューブをぶら下げて誰より早く出社するボスとか、汽車ポッポごっこが大好きな不動産王とか、えげつない訛りのテキサス野郎とか。唯一の女性マリリンも心がかなり変。この偏見とか意地悪とかの一歩手前の、反則ギリギリのニタリとするようなちょっと低温の笑い。これこそコーエン兄弟の天賦の才だ。
言葉も、今回は綺麗になったね。『ビッグ・リボウスキ』では史上最も「ファ○ク」をわめく映画を狙ったんじゃ〜ないかくらいにおかしかったけど、一応今回はL.A.のセレブリティ(というかマネーゴースト)が対象だしな。唯一残念なのが、お得意の象徴的スローモーションカットが出てこなかったことかな。楽しみにしてたんだけどな(こんなこと期待しているのは私だけか?)。
とにかく、コーエン作品をキャスト全員が楽しんでいるのがよく解る。コメディがコメディたる必然性は、脚本も演出も大事だろうけど、やはり俳優の技量なんじゃないかな。もちろんダメな脚本だったり方向違いな演出だったら面白くないんだろうけど(“汽車ポッポごっこ”って何だよ!面白いじゃないか!)。
その点、ジョージ・クルーニーは立派だ。もちろん『オー・ブラザー!』を挙げるまでもなく、彼は元々そっち側の人なんだろう。ヘンさに磨きがかかったわけだ。ケイリー・グラントのパクリだとまでは言わないが、上手に中年になれたと思う。まだまだ動けるし。コーエン兄弟を信頼しているのも好ましい。
キャサリン・ゼタ=ジョーンズはというと、う〜む態度がでかい。でかい態度を、大女優の貫禄ととるか、単に生意気ととるかで、好き嫌いがハッキリ分かれる女優だよな。個人的には、たぶん話せば良いヤツなんだろうけどいつも見下したようなあの目つきと顎つきがどうもな〜という感じですね。もう一回り、ウエストが細いといいんだけど。経産婦は理由にならぬ。せめて『エントラップメント』の頃に戻ってくれ。
そうそう、この映画の肝は“婚前契約書”である。結婚前の浮かれているとき、に離婚したときのために財産分与の取り決めなどを記しておくという馬鹿げた(と思うんだけどな……)モノで、恋愛と結婚生活との区別がないアメリカ(の特に高額所得層)では日常的になっているそうな。たしかキャサリン・ゼタ=ジョーンズも、マイケル・ダグラス相手に280万ドル×結婚年数の離婚料を婚前契約として認めさせたんだっけ。いずれにしても、性悪説が根幹の国の考えつきそうなことではある。それは題名にも現れている。邦名は『ディボース・ショウ』=離婚劇だけど、これもなんだかな〜と思うが、原名はもっと激烈で『Intolerable Cruelty』=鼻持ちならない残虐さ、だぜ。


『river』 観た日:2004/03/04
お薦め度:★★★ もう一度観たい度:★★★

監督(たぶん脚本も)は『man-hole』(2001)の鈴井貴之、撮影は藤原秀夫、照明は吉村雅治、録音は横山達夫、美術は中原芳雄、編集は小島俊彦。キャストは大泉洋、安田顕、去ろう重幸、音尾琢真、中村麻美、藤村忠寿、嬉野雅道。

北海道警の佐々木(大泉)は、ポリシーから弾を詰めない拳銃を携帯していたばかりに、麻薬常習者が取った人質を救えなかったばかりか取り逃がしてしまう。殺された女性の婚約者藤沢(安田)は彼女を見殺しにした警官を追っている。交通事故で足を壊した元スキージャンパーの九重(佐藤)はバーを経営している。三人は小学時代の同級生だった。ある夏、数ヶ月だけ一緒に過ごした転校生の横井が、同窓会の二次会で、佐々木と藤沢を、九重のバーに誘った。そこで出会った製薬会社の社員が、四人に、現在開発中の“過去の記憶を消す新薬”を盗み出す依頼をしてきた。自ら抱える消し去りたい過去に決別するため、横井を除く三人は計画を練り、見事成功する。今は廃校となってしまった母校の豊陵小学校に逃げ込んだ三人は、そこで横井の真意を知る。

ローカルTV番組『水曜どうでしょう』シリーズのメンバーにて、北海道のスーパースター大泉洋と鈴井貴之@ミスターが送る、映画第二弾。他のキャストにも『どうでしょう』関係者が名を連ね、さながら別冊『どうでしょう』の感あり。
このTV、ご存じない方のために軽く説明すると、いわゆる場当たりロードムービー。その際たる例がサイコロ(しかもキャラメルの外箱のアレ)を振って出た目のところに行かなければならないというシリーズで、日本国内にとどまらず海外までうろついたりした。藤村忠寿ディレクターと嬉野雅道カメラマンの計4名で繰り広げられるおバカライブ映像は、何が楽しいのかよくわからないが、楽しいのである。先日、遂に「ベトナム1800kmバイクの旅」でシリーズ最終回を迎え、しかし新たに「一生どうでしょう宣言」もしたのだった。
もともとが舞台畑から出てきた鈴井監督、企画演出は得意とするところなのだろう、映画にも興味があるのは理解できる。
脚本はまずまず。どこかで見たことのあるシーンの切り張りだけど。北野作品のテイストが透けているのも事実だが。演出もまぁまぁ。それよりも、絵がな……。痛いよな……。そのせいで凡作に磨きがかかっちゃっているのであった。どこにでも転がっているような構図作画だしな。
苦言を2つ。パンフレットがでかくて高い!内容も、ただの写真集とライナーノーツで、作評はないし(媚びた文章は願い下げだけど!)、だいいち、ミスターが監督をしたのはよ〜くわかったが、脚本が誰だか書いてないのである。格好悪い。
もう一つ、ラストの体育館のシーン。バスケットゴールにシュートするところ、どうもおかしいんだよな〜。小学生のバスケは“ミニバスケ”といって、ゴールの高さが中学生以上のルールとは異なり低いんだけど、アレ、一般のゴールだと思うんだよね。じゃあロケは小学校の体育館じゃ〜ないジャン。こういうディテールは、個人的には重要だと思うのである。何かのシーンで間抜けな素人振りが発覚したときに、熱は下がるのである。まぁ一度しか見ていないのでもしかして見間違いかもしれないけどね。
とにかく、ミスターにもう一作の猶予を与えようか。


『ロード・オブ・ザ・リング 王の帰還』 観た日:2004/02/26
お薦め度:★★★★★ もう一度観たい度:★★★★★!

監督・脚本・製作はピーター・ジャクソン、脚本はのフィリッパ・ボウエンとフラン・ウォルシュ、編集はジェイミー・セルカーク、撮影はアンドリュー・レスニー、美術はグラント・メイジャー、衣裳はナイラ・ディクソン、衣裳・メイク・SFXはリチャード・テイラー、SFX・VFXはニュージーランドのWETA社。キャストはイライジャ・ウッド、ショーン・アスティン、ヴィゴ・モーテンセン、オーランド・ブルーム、ジョン=リス・デイヴィス、イアン・マッケラン、バーナード・ヒル、リヴ・タイラー、ヒューゴ・ウィービング。

フロド(イライジャ)、サム(ショーン)はゴラムの案内で滅びの山への旅を続けていた。抗えない指輪の魔力に揺れるゴラムの心を察するサムの再三の忠告に、フロドは耳を貸さない。アラゴルン(ヴィゴ)、ガンダルフ(イアン)、ギリム(ジョン)、レゴラス(ローランド)は、アイゼンガルドの塔の陥落を確認したが、冥王サウロンの軍勢がアラゴルンの故郷ゴンドールへ向かったことを知る。アラゴルンはローハンへ援軍を申し入れるとともに、死者の道に今なお留められたままの猛者の霊を、王の末裔の名において解き放つことを約束に味方に引き入れることに成功、ゴンドールの都ミナス・ティリスでの壮絶な激闘を制した。サムの献身的な活躍で遂に滅びの山に辿り着いたフロドは、しかし遂に指輪の魔力に取り憑かれてしまう。

まさにファンタジー映画の頂点にして、語り継ぐに足る作品。
3部作9時間におよぶ、世紀の傑作の締めくくりに相応しい、完璧な幕。ピーター・ジャクソン監督にただ感謝するのみ。
『スター・ウォーズ』シリーズには、そのストーリーとそれを再現するだけのCG開発の開拓精神が漲っていた(脚本力はエピソード2では暴落したが)。それからおよそ30年近くの間、すべてのSF系映画(に限らないところがS.W.の凄いところでもあるんだけどね)は、S.W.を“越える”ために足掻いてきたと総括できよう。そして、この伝説に明らかな引導を渡したのが、本作だ。しかもこの映画の凄いところは、はなっからS.W.を“越えよう”なんていう陳腐な目的がなさそうなことである。
同時期の大作『マトリックス』シリーズには、その哲学性(と良く解釈しておこうか)と現在社会が抱える危機感が透けている。しかし本作にはそれもない。存在するのは、世代も国境も種の違いも越えた不変の感情、愛と信念と覚悟である。何を示唆するわけでもないのである。
彼らは、ただ好きなのだ。原作の『指輪物語』が。その想いが、スクリーンから止めどもなく溢れてくる。我々はそれに心地よく溺れていればよい。
ところで、この映画のリアルヒーローがサムであることを否定する者は、アラゴルンのファン以外にはいないはずだ。まぁイライジャ・ウッドの目ン玉ピグピグが好きな人もいるだろうけど、どう考えたってでぶっちょサムがいなけりゃ〜旅の結末はやってこなかったわけだしね。そして彼が愚直なだけの従者でないところが、きっとまたどこかのサラリーマンが自分を投影して共鳴と勇気をもらっているんだろ〜な〜なんて想像しちゃうわけだ。卑近だけど。
アラゴルンも素晴らしい。自らの血を呪っていた感すらある彼が、王の資質を目覚めさせ、遂に自軍を鼓舞させるに至る。「いつか人間が滅びるときが来るだろう。でも今日じゃない!」ここで泣かずにどこで泣くというのだろうか!
その他、出てくるキャラの立ち具合、隙のない脚本、CG不感症の輩でさえも唸らせる俯瞰シーンや戦闘シーン、融合した音楽、完璧な衣裳、いったい何に文句をつければいいのだろうか?イライジャ・ウッドの濡れネコのような顔でさえも、あたかも日光の東照宮の“逆さの柱”のように、わざと間違ったモノを混ぜたんだよ〜と言っているように思える。
そして、エンドロールの鉛筆タッチのイラストまでもが泣きを誘うのであった。
絶対に、DVD買います!で、3部作をすべて吹替で観たので(映像に集中したかったからね)、今度は字幕で観ることにしようっと。


『風の舞』 観た日:2004/02/15
お薦め度:★★★★ もう一度観たい度:★★

監督は宮崎信恵、撮影は上村四四六、録音は福田伸、編集は大高勲。ナレーションは寺田農、詩の朗読は吉永小百合。

13歳でハンセン病を発症した塔和子は、15歳で家族から引き離され、偽名をつけられて、瀬戸内海の小さな島にある国立療養所大島青松園に入所した。生きることのなにもかもを奪われたような日々だが、詩と出会い、魂を注ぐに足る目標を得る。強くきららかなその詩は波紋を広げていく。

あまり押しつけがましくない、丁寧なドキュメンタリー。
“風の舞”とは、療養所に立てられているモニュメントで、ここに閉じこめられた人々の魂だけでもせめて風のように舞って欲しい、との願いが込められているという。
1996年に「らい予防法」の廃止がなされ、ハンセン病患者と関係者は大きな大きな壁を突き崩すことができた。それまでの政府と世間の甚だしい勘違いは、唾棄に値するモノであった。感染力が極めて弱く、特効薬が存在し、何より社会復帰を元感染者はみな望んでいるにもかかわらず、ただ外見が醜悪だという理由(のみに起因するのか、個人的にはよくワカランが)で、収容所なみの冷遇と過酷労働と、社会から隔絶された人間であるが如く精神を痛めつけ続けたことを、隠すため保身のためだけに、化石のような役に立たない法律がつい最近までまかり通っていたのを、我々は忘れてはならない。
そんななかで生きる拠り所をたぐり寄せられた塔さんは、幸せでもあり、また痛い生き様であるとも言えよう。
映画は、ハンセン病の歴史をなぞるのだが、同時に塔さんの詩を雄弁に語る。彼女が凄まじい反偏見生活を生きてきたからこその言葉の昇華であるのか、内在する才能なのか、判断はつかないが、結果として残された詩はどれも艶やかで美しい。この詩こそが、間違いなくもう一つの主役である。
ところでこの映画、実は招待券をもらいイベントホールで観たのだった。チケットには「前売1000円、当日1200円」とある。一方、旅先で見つけた単館インディーズ系の劇場で、この映画が普通に上映されていた。鑑賞料はわからなかったが。この手のドキュメンタリー映画は、作る熱意が観てもらう熱意に還元されない場合が多いようだが、そもそもこの映画の存在自体をどれくらいの人が知っているのだろうか。映画情報誌とか地域のコミュニティ誌をくまなく探せば見つけられるのだろうか。あるいは、そんな努力をしなければ見つけられないような世界が確立しちゃっているのだろうか?個人的には観て良かったし、史実として、またいつも後手に回る政府・当局の実体把握の一例として、チャンスがあれば観た方が良いのではと思う反面、TVを退屈しのぎにつけたらたまたまやっていた位の感じじゃないと、たぶんもう観ないだろう。これは単純に映画という個人的商品価値の問題であって、この作品のテーマとか意義とかに問題があるわけでは決してないのだが、ん〜上手く言えないけど、やっぱりいつも観ている“映画”とは一線を画しているということなんだな。


『マトリックス・リボリューションズ』 観た日:2004/01/15
お薦め度:★★★★ もう一度観たい度:★★★☆

監督・脚本・制作総指揮はウォシャウスキー兄弟、撮影はビル・ポープ,A.S.C.、編集はザック・ステインバーグ,A.C.E.、美術はオーウィン・パタソン、衣装はキム・バリット、音響はデーン・A・デイビス、アクション監修はユアン・ウーピン、視覚効果監修はジョン・ゲイター。キャストはキアヌ・リーブス、キャリー=アン・モス、ローレンス・フィッシュバーン、ヒューゴ・ウィービング、イアン・ブリス、ジャダ・ピンケット・スミス。

現実世界で敵兵機センチネルを素手で倒し、意識を消耗して気を失っているネオ(キアヌ)は、現実世界とマトリックスの中間に押し込められていた。そこで出会った“プログラム”である家族にも“愛”の感情があることを知ったネオは、トリニティ(キャリー)とモーフィアス(ローレンス)の活躍で辛くも救出される。一方、ザイオンではベイン(イアン)の身体を乗っ取ったスミス(ヒューゴ)が、反乱のチャンスを伺っていた。ザイオンは既に機械軍の大量攻撃に耐えらず、次々と防御壁を破られている。生き残った人々はゲリラ戦を展開すつつ、寺院に引きこもり最期の時を覚悟を決めて待っていた。ネオは、予言者の言葉や今までの経験から、マシンシティの中心へ行く覚悟を決め、トリニティと共に向かった。数々の犠牲を払いつつも、遂に機械仕掛けの神デウス・エクス・マキナと対峙する。スミスの暴走がマトリックスにも人間にも危険であることを説いたネオに、デウスは最後のマトリックスへのアクセスを認めた。ネオとスミスのファイナルバトルが始まった。

最初から最後まで『風の谷のナウシカ』(1984)のパクリである。
構成もストーリーの役割も何もかも!ビックリ。圧倒的な機械軍の物量に屈するなと精神に叫ぶ指揮官。機械と人間との和平はどう考えても一時的だ。お互いの関係の根本は何も解決されていない。人間が機械のエネルギー源にされている同胞を救出に向かうのは間違いなく、機械はそれを許すはずもなく、しかしそのお互いの折り合いに関しては何の提示もない。極めつけは、最後にネオが触手に掲げられるアレだ。まるっきりナウシカの“金色の野に降り立つ”っていう場面じゃん。
これは、ウォシャウスキー兄弟がショボいというよりは宮崎駿の世界観の構築性を褒めるべきだろうか?
まぁたぶんマトリックスシリーズっていうのは、当初は濃密で重厚な脚本があって、それに見合う撮影手法が上手く発明できたので、独特の映像観が生まれたんだろうな。それが、エンディングに向かうにしたがい、いろんな側面を盛り込みたくなってきちゃって(それでも欲望に任せてオプションを追加したのではなく、かなりの削除がされているのが判るけど)、結末に着地するのに苦労してしまったんだな。そして、この苦労の仕方が尋常ではなくて、相当に七転八倒していて、当然ながら『ロード・オブ・ザ・リング』シリーズの出来とかも耳に入ってくるし(両方に参加しているヒューゴ・ウィービングもいるし!機密保持の契約があるとはいえ、ねぇ)、まぁ大変だったのでしょう。これが、単独の作成状況だったらきっと、もっと上手で軽快(軽薄ではない)なストーリー展開になっていたように思う。
つまり、惜しいのである。勿体ないのである。もっと大化けできる素材だったのに。
誰かが「最初は傑作、二作目はまあまあ、最後のコレはダメ」って言っていたが、単純に総括すれば同意できなくもないが、でもマトリックスシリーズは面白いです。それは間違いない。キアヌ・リーブスなんて大根役者を使って大丈夫か?なんていう思いもあったけど、オリエンタルチックなマスクのおかげなのか、この映画に十分に備えるだけのヒマがあったからなのかワカランが、ネオははまり役だし。
でも……DVDは買わないな、私は。


『ラスト・サムライ』 観た日:2004/01/15
お薦め度:★★★★ もう一度観たい度:★★★☆

監督・製作・脚本は『グローリー』(1989)のエドワード・ズウィック、脚本は『グラディエーター』(2000)のジョン・ローガンと『トラフィック』(2000、製作)のマーシャル・ハースコビッツ、撮影は『レジェンド・オブ・フォール/果てしなき想い』(1994)のジョン・トール,A.S.C.、編集は『ブレイブハート』(1995)のスティーブン・ローゼンブラム,A.C.E.と『フォーエバー・ロード』(1992)のビクター・ドゥボイス、美術は『マーシャル・ロー』(1998)のリリー・キルバート、衣裳は『ロード・オブ・ザ・リング』シリーズのライナ・ディクソン、音楽は『ライオン・キング』(1994)のハンス・ジマー。キャストは『レインマン』(1988)のトム・クルーズ(製作も)、TV『独眼竜政宗』(1987)の渡辺謙、『麻雀放浪記』(1984)の真田広之、『回路』(2001)の小雪、中村七之助、原田眞人。

オールグレン(トム)は南北戦争の英雄だったが、ネイティブアメリカンへの侵略の指揮や銃会社のキャンペーンに駆り出される毎日に辟易していた。そんな折り、日本が明治維新とともに富国強兵のために西洋式軍隊の整備を望んでいるということで、その指導官としての白羽の矢が立った。ところが日本に到着すると、軍隊は寄せ集めだし、軍事商人の大村(原田)は天皇(中村)とアメリカ軍事会社に媚びへつらっている。ビジネスとして割り切ろうとするオールグレンに、政府への反乱を企てる勝元盛次(渡辺)を討てとの命が下った。軍を率いて戦場へ向かったオールグレンは、しかし捕らわれ、勝元の村に連れてこられた。初めて見る“サムライ”の不可思議。不言実行、自己犠牲、研鑽、敵であるオールグレンへの礼儀。勝元の亡き弟の妻であるたか(小雪)も、敵であるはずのオールグレンを黙々と世話してくれる。オールグレンは次第に理解し始める。自らがアメリカに落としてきてしまったスピリットがここには脈々と息づいていることを。そしてそのためには命をも後回しにする覚悟を常にしている勝元へ、共鳴していくのだった。政府は勝元討伐に業を煮やし、強行に村を攻め立てることにした。自らの信念のため、決死の戦いに挑む勝元の軍に、オールグレンは参加した。

トム・クルーズが、トム・クルーズであるための映画。いろんな御託を並べはするが、結局はトムが主役なのである。だから死なない。ガトリング銃をあんなにバラバラと打ち込まれ併走する騎馬隊が全滅するのに自分はピンピンしているんだもの。それに、小雪と最後にキスするのも許せん!武士の妻は、夫を殺した男に易々と唇を預けはしない。トホホなエゴだ。まぁ日本の女優とキスしたかった気持ちはワカランでもないが。
それでは何がこの映画を見る気にさせるのかというと、それはやはり、丁寧にお金をかけた作り込みだろう。セット。衣裳。撮影の光量。上等であり、愛情がある。この辺、エドワード・ズウィック監督のオタク性が随所に感じられ、なかなか嬉しい。
もう一つは、やはり何といっても渡辺謙や真田広之らの日本俳優の踏ん張りである。“メガネで出っ歯で首からカメラをぶら下げている”日本人像が日本人ではないんだということを、身を持って示そうとしている。まぁこんなに力んではいないんだけど、つまりは自分が自分のままでいられるような演技を、自然体でしている。それが逆に際立っている。特に渡辺謙は、ハッキリ言って主役である。トムよりも明らかに良い。今年度のアメリカ映画賞では助演男優としてのノミネートであった。そりゃ〜製作者としても成功しているトムの向こうを張って渡辺を主役扱いに抜擢する実行委員はいないだろうけど、でも渡辺は良いです。
小雪。ヘタクソだが、見た目でOKなのかな。鼻の形が好みじゃないけど。
このレポートが遅かったのでもうDVDとか出てますね。観て損はないですので、どうぞご覧ください。


『ファインディング・ニモ』吹替 観た日:2003/12/27
お薦め度:★★★★★ もう一度観たい度:★★★★★

製作総指揮は『トイ・ストーリー』(1995,監督)のジョン・ラセター、監督・原案・脚本は『モンスターズ・インク』(2001,製作総指揮)のアンドリュー・スタントン、共同監督は『モンスターズ・インク』(2001,共同監督)のリー・アンクリッチ、脚本は『バグズ・ライフ』(1998)のデイヴィッド・レイノルズと、ボブ・ピーターソン、音楽は『アメリカン・ビューティー』(1999)のトーマス・ニューマン、CGはごぞんじピクサー社。

豪州グレートバリアリーフ。カクレクマノミのニモ(宮谷恵多)は、バラクーダに襲われた400個の卵の唯一の生き残り。生まれながらの小さい左胸ビレが特徴だ。父親のマーリン(木梨憲武)はニモが気が気でないが、そろそろ学校に行かせる年頃だ。仕方なくイソギンチャクの我が家から出て、珊瑚礁内にある学校へ連れていく。ところが課外授業中にニモは、ダイビング中の人間に捕獲されてしまう。人一倍臆病のカクレクマノミだが、そんなことは言っていられない。一人息子のニモを探す旅に出たマーリンは、途中で忘れん坊だが陽気なナンヨウハギのドリー(室井滋)と出会い、珍道中を展開することに。一方ニモは、シドニーの歯科医師の水槽に飼われていた。仲間と共に脱走を試みるニモだが、なかなか上手くいかない。そんなある日、ニモは、サメやアンコウやクラゲとの接触をかいくぐり息子を探す父の話がどんなに噂になっているのかを知ったのだった。そして遂に、マーリン&ドリーは、クジラにシドニー湾まで連れてきてもらった。

いや〜ピクサー最高!
水を扱うCGがチャレンジャーなのは、過去の作品を挙げるまでもなく周知の通り。それを、全編CGで作っちゃうんだから、それだけで凄いのである。
脚本も秀逸。エンディングに至るイベントにパワーダウンというか疑問というか、これって国民性?というか、があるが、そこまでの展開が大変よろしい。十分じゃないのかな。
キャラクターも立っていて(思い描いたキャラを魚にくっつけちゃえばいいので逆に苦労はないのかな)、わかりやすいし良い。
木梨憲武。巧いジャン!活舌も良いと思うよ。室井滋もバカっぽくて良い。よくこの二人を見つけたもんだ。
細かく書くことを必要としない、超お薦め映画。特に、家族で観よう。私は、ビデオを間違いなく買います。


『ブルース・オールマイティ』 観た日:2003/12/25
お薦め度:★★★ もう一度観たい度:★★★

監督・製作は『パッチ・アダムス』(1998)のトム・シャドヤック、脚本は『親指スター・ウォーズ』(1999)のスティーブ・オーデカーク、編集はスコット・ヒル、撮影は『ダンス・ウィズ・ウルブズ』(1990)のディーン・セムラー。キャストは『マジェスティック』(2001)のジム・キャリー(製作も)、『ショーシャンクの空に』(1994)のモーガン・フリーマン、TV『フレンズ』のジェニファー・アニストン。

TVレポーターのブルース(ジム)は、報道の要であるアンカーマンに憧れるが、三面記事ネタの現場レポートばかりにおわれている。ライバルに出し抜かれ、恋人のグレース(ジェニファー)との関係もギクシャクし、ほとほと愛想が尽きたブルースは遂に、神様にまで悪態をつく始末。ところがその直後、ポケベルが鳴り、知らない番号が表示された。無視してもしつこくかかってくる。試しに電話してみると、とあるビルに呼び出された。そこにいたのは、神様(モーガン)。ビックリするブルースに、神様は「自分の代わりをやってみろ」と言った。バカな話もあるモノだとビルから出たブルースは、しかし世の中を自由自在に操る力を手にしていることに気づいた!特大スクープを連発しライバルを蹴落とし、遂にアンカーマンの地位を射止めた彼は、しかしグレースの心の寂しさを理解していなかった。自分のことしか見えないブルースには、彼女の気持ちを感じる余裕などなかったのだ。

まぁこんなもんでしょ〜。退屈しのぎには丁度良い映画だ。
予告とか前評判とかを仕入れる限りでは、相当に良さそうな印象だったが、それは贔屓のジム・キャリーが主演だというアドバンテージのせいだったらしい。
実際、ジム・キャリーは巧い。トホホなくらい。やりすぎの一歩手前。なので、ファンは十分に満足できるだろう。
ん〜あんまり褒めるところがないな…… 面白いことは面白いんだけどね。CGはイマイチだけど。
監督も、誰が撮っても同じだと思うので、ノーコメント。
困ったな〜書くことがない。
あ、モーガン・フリーマンもジェニファー・アニストンも、ジムに引っ張られてお笑い演技を熱演している。ジェニファーがベッドで獣になっちゃうところなんて、旦那のブラピが見たら、どう思うかな。
ということで、お終い。


『シモーヌ』 観た日:2003/09/18
お薦め度:★★★★ もう一度観たい度:★★★

監督・脚本・製作は『トゥルーマン・ショー』(1988,脚本)のアンドリュー・ニコル、編集は『インサイダー』(1999)のポール・ラベル、撮影は『エリン・ブロコビッチ』(2000)のエドワード・ラックマン、作曲は『オー・ブラザー!』(2001)のカーター・バーウェル。主演は『ディアボロス/悪魔の扉』(1997)のアル・パチーノ、共演はレイチェル・ロバーツ、『マルコビッチの穴』(1999)のキャサリン・キーナー、『プラクティカル・マジック』(1998)のエヴァン・レイチェル・ウッド、『エイリアン4』(1997)のウィノナ・ライダー。

10年間コケ続けている映画監督タランスキー(アル)は、またしても主演女優ニコル(ウィノナ)にロケ地トレーラーの背が他の俳優のものよりも低いと難癖をつけられて降板されてしまった。映画会社の幹部で元妻のエレイン(キャサリン)とパソコンホリックの一人娘レイニー(エヴァン)は、そんなタランスキーが気になって仕方ない。ある日、タランスキーはおかしな男に会う。彼は「完璧な女優を作り出すCGソフトを開発したので、それに演出をして欲しい」というのだ。馬鹿げた話と一蹴したタランスキーだが、男の死後、そのソフトを立ち上げると、そこには驚異的に精巧なCG技術があった。タランスキーは自分好みの女優のイメージをキャラクター“シモーヌ”に次々と投入、そのまま一本の映画を作り上げてしまった。上映されるやいなや、美貌と演技力に誰もが魅せられた。オスカーまで受賞した“シモーヌ”だったが、彼女はもちろん実在しない。タランスキーは、マスコミへの対応や歌手デビューなどの難題を何とかクリアし“シモーヌ”を守り続けた。彼女がCGだと悟られては、せっかくの成功が無に帰る。ところが世間の注目は、タランスキーではなく“シモーヌ”に集中、深い孤独と嫉妬に沈むタランスキーは遂に、彼女を消去することにしたが、状況証拠から殺人罪で逮捕されてしまう。

滑稽で馬鹿馬鹿しくて、ちょっと未来にリアルな可能性が感じられるSF。『トゥルーマン・ショー』を思い出してもらえば、この映画が、それの延長であることが容易に理解できるだろう。
アンドリュー・ニコル監督の狙いは明白。マスメディアに起こるかもしれないちょっと未来のシニカルな風刺だ。ただし演技と演出によっては、容易に三流ドタバタムービーに成り下がってしまう性質のものである。ジム・キャリー然り、アル・パチーノ然り、そのあたりの配役と使い分けの上手さが、もう一つのこの監督の持ち味だ。
娘が父を助ける伏線があからさまなので(冒頭からトホホなくらいに)、ちょっとそこはいただけないけど。
アル・パチーノ。良いオジサンになったものだ。もちろん『ゴッドファーザー』シリーズ(1972〜)もいいが、最近の映画の方が、よっぽどよい。
レイチェル・ロバーツはカナダ出身のモデル。良いです。アメリカ人好みの造形なんでしょうけど、許す。
ウィノナ・ライダー。デパートで万引きした後にこれをチョイスしたのかどうかワカランが、『シザーハンズ』(1990)の時のような誰もが抱き締めたくなるような可愛さはもうなく(当たり前か)、役柄同様ふてぶてしい美形女優だ。
前出の通り、キャスティングに興味を持つのもアリだけど、この映画はやっぱり脚本でしょう。ツボにはまれば、代え難い佳作となるでしょう〜。


『座頭市』 観た日:2003/09/11
お薦め度:★★★★ もう一度観たい度:★★★★

監督・脚本・編集は北野武、撮影は『3-4×10月』(1990)の柳島克己、美術は『キッズ・リターン』(1996)の磯田典宏、照明は高屋斎、衣装は『夢』(1990)の黒澤和子。キャストはビートたけし、浅野忠信、大家由祐子、橘大五郎、ガダルカナル・タカ、大楠道代、夏川結衣、岸部一徳、石倉三郎、榎本明。

あんま師で盲目の座頭市(ビート)が、いつものように追っ手のヤクザを切り捨てた後に辿り着いた宿場町。胸の病に苦しむ妻(夏川)を連れた浪人服部(浅野)、両親の敵を求め彷徨う旅芸子の姉妹(しかし妹は男の変装)(大家、橘)も同宿している。この宿のヤクザ銀蔵(岸部)は、商人扇屋(石倉)とつるみ、おうめ(大楠)らを搾取していた。おうめの甥で遊び人の新吉(ガダルカナル)と賭場で知り合った市は、そのままおうめの家にやっかいになることになった。服部は、飲み屋「的屋」で銀蔵の組と出会い、用心棒になる。芸子は扇屋が敵と突き止め、市は隠れて助太刀をすることに。服部は銀蔵からの依頼で、市を押さえる役目をすることになる。このゴタゴタ、黒幕は銀蔵ではなかった。けりをつけた市はまっすぐに、黒幕の元に向かう。町は落ち着きを取り戻し、祭りのエネルギーを爆発させていた。

金髪たけしが、過去の作品を総括するがごとく取り組んだ、娯楽集大成。悪くない。演技も下手じゃないし。
一見してわかるのが、フィルムの色だ。プロローグのカットからして、淡色に現像しているのが意図的である。“キタノブルー”の布石か?とも思うが、それは早計。だって主人公が座頭市だもん。と思いきや、実はずっとこのままの色調で続くのだ。ん〜、この意図は?作品としての北野監督のイメージなのか、ロケ地がもはや時代劇を表現できないほどにすれっからしなのを、カバーするためなのか。
殺陣は、監督のオリジナルだそうだ。そう表現したかったから、自分で創ったということだろう。これまでの殺陣に不満があったから、自分なりの若かりし浅草での舞台経験を元にした“リアル”な殺陣を取り入れた、という。しかしぶった切るシーンでの出血の迫力を黒澤映画の模倣だけではなんだかな〜だし、他のチャンバラ映画ではせこいし、で、迫力をCGで味付けしたんだって。織り込むギャグは、まるっきり舞台劇、しかも関西系ではなくて浅草系だよ。ずらす方法論も、間も。
ただし、脚本の出来は、疑問である。エンディングの、市の本質に関わる部分が特に。アレは、独自性ではなくて単なる奇抜な苦し紛れだ。今を生きる若い連中が勝新流「座頭市」を知らないにしても(実際、映画館では勝新を知らないような口振りのヤツらばかりだったので、改めてビックリしたよ)、アレは取りあえず無しだろう!という感じである。ウルトラマンに「実は3分以上戦える方法があるんだぜ」って言ってるようなもんだもんな。
もっと笑っちゃうのが、農民のステップや建築のトンカチと音楽。でもハリウッド1960年代式ミュージカルをあからさまに模倣しているようで、諸手を挙げて、は賛成できないです。でも、どこかの映画雑誌が喚いているような「タップと時代劇のコラボ」は、全然違和感ないぞ。
ガダルカナル・タカ。飄々としているのが巧く見えるかもしれないが、単にお笑いステージの延長線上でヤッてるだけ。しかしだからといって映画の中で浮いてるだとかという事ではありません。
浅野忠信。表情を出さないことが演技としての個性と思っているようだけど、個性としては評価するけど、役者としての価値に関しては如何なモノだろうか。悪くはないです。でも良いとは思わないです。
榎本明。もっと牙を剥きだしてもらいたかったな〜。
ヴェネチアで銀獅子賞をもらっちまったもんで、あんまり悪口を言う人がいないんだけど、たしかに苦言を高らかにいうよりも、良い部分を示すほうに気をやるべき作品。観ようね。


『ファム・ファタール』 観た日:2003/09/11
お薦め度:★★★ もう一度観たい度:★★★

監督・脚本は『ボディ・ダブル』(1984)のブライアン・デ・パルマ、撮影は『プロヴァンスの恋い』(1995)のティエリー・アルボガスト、編集は『殺しのドレス』(1980)のビル・パンコウ、衣装は『ジャンヌ・ダルク』(1999)のオリヴィエ・ベリオ、美術は『スネーク・アイズ』(1998)のアン・プリチャード、音楽は『ラストエンペラー』(1987)の坂本龍一。キャストは『X-メン』(2000)のレベッカ・ローミン=ステイモス、『マスク・オブ・ゾロ』(1998)のアントニオ・バンデラス、リエ・ラスムッセン、『E.T.』(1982)のピーター・コヨーテ、エリック・エブアニー。

2001年のカンヌ国際映画祭メイン会場ル・パレでは、赤絨毯の上を歩くゲスト、ヴェロニカ(リエ)に注目が集まっていた。何よりその裸体に身につけているヘビをかたどった金とダイヤのビスチェに。ブラック(エリック)らは、このビスチェ強奪を周到に計画していた。カメラマンに扮したロール(レベッカ)はヴェロニカをトイレに誘い込み、レズ行為を装いビスチェを剥ぎ取るのだが、ガードマンとブラックの発砲騒ぎに乗じて一人で現場から去る。逃走中、教会の前で、風景写真を撮っていたカメラマンのニコラス(アントニオ)に驚いたロールは、教会の中に逃げ込むが、行方不明中のリリー(レベッカ、2役目)の両親に娘と間違われる。負傷しリリーの家のベッドで目覚めたロールは、そこでアメリカ行きのチケットとリリーのパスポート…自分そっくりの顔の…を見つけた。飛行機の中で悪夢にうなされ、知らずに臨席のワッツ(ピーター)の腕にすがったロールは、やがてワッツと結ばれた。過去は清算されたかに思えた。しかし7年後、ワッツはアメリカ大使としてフランスへ赴任することに。顔を見られたくないロールだったが、彼女をパパラッチしたのはまたしてもニコラスだった。一方、7年の刑期を終え出所したブラックは、ビスチェを取り戻すためにロールを追ううち、ニコラスの撮った写真を目にする。

TVゴールデンタイムでは決して放映できない映画。採算性もないし、何よりエロい。なんでこれがR指定じゃないのかワカラン。
デ・パルマ監督というのは、道楽か個人的暇つぶしのために映画というアイテムを振り回しているようにみえる。ところがそんな姿勢のくせに、物凄く卓越してかつ独特な、飛び抜けた才能を持っているので、内容は馬鹿馬鹿しくてエロくて、主人公もエゴ 丸出しでど〜しようもないヤツらばかりなんだけど、隙のない緊張感溢れる映像を紡ぎだす。確かにそれは魅力である。一対一で付き合い続けるにはとてつもないエネルギーが必要だろうけど。
過去の映画のモチーフがたくさん使われている。パクリというのは簡単。でもチャレンジも多いし、やっぱり完成度は高いのだ。
そして、不思議なカメラワークをする。右にいって左に振って斜め右後ろ、みたいな。あるいは二分割して同時進行させたりして観る者への情報量をわざと2倍にしたりして、編集も遊んでいるのだ。頑張らないとついていけない。
ファム・ファタールというのは、フランス語で“宿命の女”“男を翻弄する悪女”を意味するらしい。自分のためなら自分の肉体美を使うことを惜しまず、もちろん頭も良い、そんな豹みたいな女として選ばれたレベッカ・ローミン=ステイモス、いや〜エロいです。全裸もいとわぬ演技は、スーパーモデルとしての自負自信の現れでもあろう。あの肉体なら、どこをどの角度から見られても恥ずかしくはなかろう。もちろんモデル仲間であり友人のリエ・ラスムッセンも然り。
アントニオ・バンデラス。老けちゃったな〜……
音楽は日本が誇る“教授”坂本龍一だ。デ・パルマに「『ボレロ』みたいな曲を作れ」と言われ困惑したとか。で、ホントに『ボレロ』をパクッた。映像だけではない、音楽までもデ・パルマ臭がプンプンするというわけだ。参った。


『ゲロッパ!』 観た日:2003/09/09
お薦め度:★★★★★ もう一度観たい度:★★★★

監督・脚本は『ガキ帝国』(1981)の井筒和幸、脚本は羽原大介、編集は『陰陽師』(2001)の冨田伸子、撮影は『HANA-BI』(1998)『ホワイトアウト』(2000)の山本英夫、照明は『ピンポン』(2002)の渡邊孝一、美術は『敦煌』(1988)の大坂和美と『CURE』(1997)の須坂文昭。キャストは西田敏行、岸部一徳、常盤貴子、山本太郎、桐谷健太、吉田康平、ウィリー・レイノー、太田琴音、木下ほうか、田中哲司、ラサール石井、益岡徹、長塚圭史。

明後日収監される羽原組の組長(西田)には、心残りが2つあった。1つは、大好きなジェームス・ブラウン、JBに会うこと。名古屋でコンサートがあるのだが、これは収監の後なので間に合わない。弟分の金山(岸部)はこれを察し、子分の太郎(山本)らにJBの誘拐を命令する。羽原のもう1つの心残りは、別れた妻が連れていった一人娘のかおり(常磐)に会うこと。元妻は死んでしまっており、かおりは愛娘の歩(太田)と二人で暮らしているらしいのだが、どこに住んで何をしているのかも知らなかった。かおりは、有名芸能人のそっくりさんを所属させているプロダクションを経営していた。営業のため名古屋に来ていた一行は、JBのそっくりさん(ウィリー)が行方不明になり困惑する。その頃、政務秘書官の高井(ラサール)は、総理大臣が訪米中に起こした失態をもみ消すために四苦八苦していた。その証拠物は、JBのそっくりさんが持っているらしい。羽原は、やっとのことでかおりの自宅を突き止め、歩と一緒に営業先の名古屋へ向かうことになった。かくして一同は集結した。

井筒監督、たいそうな事を言うだけあって、よくできた映画だ。
練られた脚本は、個々のエピソードもよく立っているし、気配りもできている。ハッピーエンドの大団円は娯楽映画の定石だ。変にひねらなかったのは正解。
演出も、監督の目が行き届いている。カメラの遠くの方の人も真面目に演技している。この辺、「映画にはリアリティがなければいかん」と言い放つ井筒監督、面目躍如である。ここで言うリアリティとは、不自然でないという意味である。ファミレスでヤクザが騒いでいれば、見て見ぬ振りをするだろうが、完全に知らんぷりはしないだろう。そりゃ〜気にならないわけがないよな。長回しで撮っている羽原組の周りの客達を見て欲しい。なかなか巧いじゃないか。さらに、それをわかっていて敢えて広角で撮ってるわけだ。
しかし納得いかないカットもある。かおりが羽原を許すシーン。夜だから当然暗い。暗いので普通は照明をそれなりに当てるのだが、自然光(まぁちょっとは補正してるようだが)で撮っている。そうすると、レンズ絞りは開放近くにならざるを得ない。レンズというのは、絞り込むとピントが合う範囲が広く、あけるとピントが合う範囲は狭い。で、結局の所、羽原もかおりもピンボケなのである。意図はわかる。TVドラマみたいに照明をバンバン当てて撮ればもちろんピンボケなんてしない。しかしそれでは井筒流リアリティに欠ける。でも絵が撮れなければ仕方ない。ジレンマだ。
で、そういうことはパンフレットで解説しておくべきなのではないか?撮影が困難だったという部分を、労をねぎらう意味も含めてちゃんと記しておくのは大切なのではないか?なのに、このレコードジャケットをかたどったダメパンフには、そんなことは書かれていないのであった。制作のシネカノン、こんなツボを外した、奇天烈なだけのパンフ作ってんじゃないよ、まったく。
西田敏行。闘病明けなはずだが、元気いっぱい。トカゲのシーンもタクシーも、仕草にしっかり“点”が入っているのでメリハリがあり、しかしあまり気負っていないのか、いつものように演技力を見せびらかすような鼻に付く感じがない。良い出来。
岸部一徳。あ〜いう目つきだから、いろいろ重宝するよな。
常盤貴子。下手くそ。困ったモノだ。
山本太郎。チンピラぶりをいかんなく発揮している。
というわけで、映画館で観るには十分な作品。観ましょう。


『マトリックス リローデッド』 観た日:2003/07/31
お薦め度:★★★★★ もう一度観たい度:★★★★★

監督・脚本・制作総指揮は『バウンド』(1996)のウォシャウスキー兄弟、撮影はビル・ポープ,A.S.C.、編集はザック・ステインバーグ,A.C.E.、美術は『レッド・プラネット』(2000)のオーウィン・パタソン、衣装は『スリー・キングス』(1999)のキム・バリット、音響はデーン・A・デイビス、アクション監修は『グリーン・デスティニー』(2000)のユアン・ウーピン、視覚効果監修は『イレイザー』(1995)のジョン・ゲイター。キャストはキアヌ・リーブス、キャリー=アン・モス、ローレンス・フィッシュバーン、ヒューゴ・ウィービング、『ALI/アリ』(2001)のジャダ・ピンケット・スミス、グロリア・フォスター、ランダル・ダク・キム、ニール&エイドリアン・レイメント、『マレーナ』(2001)のモニカ・ベルッチ。

ネオ(キアヌ)は、人類の救世主としての立場はともかく、マトリックス(コンピューターが創造した仮想現実社会)が“確実に作られたもの”であることが認識できたので、マトリックスでは超人的な動きが可能となっていた。コンピューター側は遂に人類最後の都市ザイオンの場所を突き止め、72時間後に兵器センチネルを送り込む。察知した人類は戦士を敢えてマトリックスに送り、先制攻撃に出ることにした。一方、宿敵エージェント・スミス(ヒューゴ)は、ネオとの戦いでプログラムの一部が破壊されたせいで“バグ”化しており、コンピューターの制御システムから離れ、自己複製能力をも身につけ、独自でネオを追っていた。予言者オラクル(グロリア)、キーメイカー(ランダル)らとの出会いを経て、ネオは遂にマトリックスの創始者に出会う。しかしまさにその時、トリニティ(キャリー=アン)が命を奪われようとしていた。コンピューターの中枢への道とトリニティの救出の選択を迫られるネオ。そしてその頃、ザイオンはセンチネルの猛攻を受けていた。

完膚無きまでに、オタクの世界!
ついてこられないヤツはついてこなくて良い、と潔くストーリーは構築されトントンと進行する。映像のスピード感、美術や衣装の完成度、カメラワーク&編集の斬新さと挑戦性に、皆の意見が行きがちだが、むしろ個人的にはこのシナリオワークにこそ、このシリーズの真骨頂があると考える。つまりはストーリーを表現するために映像すべてが作られたのである。
驚愕のカメラワークはもちろん特筆。ウォシャウスキー兄弟の頭の中がまず凄いのだ。「こうしろ」と考え指示を出すわけだが、ここが平凡では非凡なカメラワークは生まれてこないわけだ。場面のカット、アングル、アクション、長さが、しっかりと脳味噌に積み上げられているからこそなのだ。
聞けば日本アニメが大好きらしい。アニメ的表現方法を実写に持ってきた、と解釈することもできよう。実際に映像はアニメチックである。日本のアニメ工房マッドハウスに表現サンプルを提供してもらったそうな。しかしそれも、“マトリックス的世界観”に一本筋が通っているからこそ、ちゃちで陳腐なお笑い映像には堕ちないのだろう。
たくさん言いたいことがあるのだが、取りあえず一つ。前作で、マトリックスでエージェント・スミスに撃たれたネオ、肉体の心臓が止まったのを見たトリニティがネオにキスすると、ネオが目覚める。アレを“愛の力”と安直な解釈が横行しているが、違う違う!“仮想現実”を実感した瞬間があの場面だったのだ。「マトリックスで肉体が傷つくわけがない」とネオが悟ったからこそ、被弾したこと自体が“仮想”だと理解できたからこそ、ネオは昇華したのだ。で、今回は?今回こそは、愛である。だよね〜。もみもみ〜。
とにかく観よう。特に映像についての模倣作品が登場する前に、オリジナルを体験しておくのは、悪くないぞ。


『茄子 アンダルシアの夏』 観た日:2003/07/31
お薦め度:★★★★★ もう一度観たい度:★★★★★

監督・脚本は『千と千尋の神隠し』(2001、作画)の高坂希太郎、原作は黒田硫黄(『茄子』アフタヌーンKC)、制作は『メトロポリス』(2001)のマッドハウス。声優(キャスト)は、北海道のスーパースター大泉洋(ぺぺ)、筧利夫(アンヘル)、小池栄子(カルメン)、平野稔(エルナンデス)。

ぺぺはプロ自転車チーム“パオパオ”のアシスト選手。世界三大自転車レース「ブエルタ・ア・エスパーニャ」に、エースのサポートとしてして出場している。本日のステージは故郷のアンダルシア。ところが今日は兄アンヘルと昔の恋人カルメンの結婚式で、町はそのお祝いムードで浮かれていた。しかしもちろん、町の英雄ぺぺを見逃す手はない。アンヘルもカルメンも、バーのマスターのエルナンデスも、路上にぺぺの応援メッセージを書きテレビに釘付けだ。チーム“パオパオ”はしばらく勝利から見放されており、パオパオビールの重役はスポンサー契約の打ち切りを臭わせていた。チームのエースがぺぺと相性が良くないことを知っていたので、追走する車内でぺぺの解雇を臭わせたのだが、搭載マイクがオンになったままで、その声がぺぺに聞こえてしまう。まったく今日は酷い日だ。そう思うぺぺだが、エースの落車でチームの代理エースに任命された。ロードを駆け抜け市街地に入り、敵チームのエースと共にもがくぺぺの運命は!

困った。今年の夏は当たりだ。
47分の珠玉作。ジャパニメーションの底力が凝縮されている。
取りあえず、何で題名が『茄子 〜』なのかを説明しましょう。原作者の黒田硫黄は“茄子”を題材に短編アニメを書いているのだが、その中に黒田も好きな自転車レースの話があり、宮崎駿がこれをスタジオジブリの作画担当で自転車大好き人間の高坂希太郎に見せたのである。
というわけで、キーワードとして地元特産の“茄子のアサディジョ漬け”が出てくる。まぁこの映画にとっては、“茄子”はたまたま(と安直に片付けてしまうのも何だが)である。作画の魅力を抜きには語れないのである。冒頭のCGと手書きのミックスシーンでクラッときたアニメ大好き人間はいっぱいいると思うけど、オタクじゃなくてもカット毎にどれだけのこだわりがつぎ込まれているか、伺い知れよう。
しかも、悪い意味で綺麗に制御されたCG画がズケズケ出てくるわけでもなく、ベタベタの色と筆遣いのセル画が“静止画”として画面を支配するわけでもない。違和感を覚えにくい配分。使用感を漂わせない配慮。このへんに、スタジオジブリとマッドハウスの力量が見て取れる。
キャラクターの立ち具合も見事だ。これは原作によるところが大きいかな。
大泉洋。『千と千尋』の番頭のカエルの声、なんて説明が不毛になるほどの、2世紀にまたがる最強のローカリスト。TV『水曜どうでしょう』を見たことない人、ご愁傷様。
というわけで、上映料金と上映時間のパフォーマンスが気になる人もいるかもしれないが、大丈夫、保証しますよ私でよければ。


『ブルークラッシュ』 観た日:2003/07/24
お薦め度:★★★★★ もう一度観たい度:★★★★★

監督・脚本は『ロック・スター』(2001、脚本)のジョン・ストックウェル、脚本はリジー・ウェイス、撮影は『ベリー・バッド・ウェディング』(1998)のデヴィッド・ヘニングス、水中撮影!は『キャスト・アウェイ』(2000)のドン・キング。キャストは『モンタナの風に抱かれて』(1998)のケイト・ボスワース、『ガールファイト』(2000)のミシェル・ロドリゲス、ベテランサーファーのサノー・レイク、『パトリオット』(2000)のミカ・ブーレム、『キューティ・ブロンド』(2001)のマシュー・デイヴィス。

アン・マリー(ケイト)はハワイ・オアフ島ノースショアに住むサーファー。エデン(ミシェル)、レナ(サノー)、妹の高校生ペニー(ミカ)と暮らしている。とにかく波乗りが大好きで、観光ホテルのルームサービスの仕事も上の空、良い波の予報をラジオでキャッチすると、すぐに海へ飛び出す。並外れた才能を持つアン・マリーは、しかし3年前のアクシデントで海底の珊瑚礁に叩きつけられたことを払拭できず、良い波が来ても積極的に乗れない。ロコ(地元の連中)はそれを野次るのだった。パイプライン大会が地元で行われることになり、それに参加して今の生活から脱出したいと考えるアン・マリーは、ある日ホテルでプロフットボーラーのクォーターバック、マット(マシュー)と恋に落ちる。マットがバカンスに来ていること、自分はただの現地の都合の良い女なのかもしれないこと、それはわかっているのだが、溺れる自分に歯止めがきかない。練習パートナーのエデンは、この大会がどれだけ大事かを思い出させようとする。何とかマットを振り切り、大会に出場するアン・マリーは、失敗を重ねることで遂に、過去を清算する。

今年度公開される映画の中で、注目すべき一本。ベストムービーかも。小規模上映かもしれないけど、ガイドブックをめくってでも上映館を探して観て欲しい。
テーマは、過去の克服だ。現実に立ち向かう勇気は、葛藤と臆病を凌駕するのだ。無心と集中に勝る敵はなし。
先日までバルセロナ国際水泳大会をやっていたが、もちろんこれだけに限らないのだが、個人の数値競技で最も美しいのは、何よりも自己ベストの更新だ。競技者はまずこれを目指す。レースとしてはビリだったとしても、自己ベストで、さらにそれが国内ベストだったりしたら、その競技者は報われるというものだ。上には上がいる。背伸びをしても始まらない。まずは自分を越えること。ここに魂の尊さがある。
これを、ケイト・ボスワースが明るく演じている。最初、可愛いサーファーをスカウトしてきたのかと思ったら、女優だったのね。しかも出演が決まってからサーフィンの特訓をしたというから、驚き。もちろんスタントは使っているんだろうけど、あの10メートルの波に立ち向かう姿は、素人とは思えない。
さらに、ドン・キングの撮影が映える。サーフィン映画といえば個人的には何といっても『ビッグ・ウェンズデー』(1978)なのだが(あの青春群像的な部分ではなくカメラカットとして)、本作はビッグ・ウェンズデー・シンドロームを真に乗り越えたと言えよう。
ミシェル・ロドリゲス。運動神経抜群なところを今回も披露。
ミカ・ブーレム。1987年生まれ。ちょっと〜可愛いんじゃない?今後注目。
とにかく観よう。理屈抜きで、ホントに良いです。


『ターミネーター 3』 観た日:2003/07/24
お薦め度:★★★ もう一度観たい度:★★★

監督は『U-571』(2000)のジョナサン・モストウ、脚本は『ザ・インターネット』(1995)のジョン・ブランカート&マイケル・フェリス、撮影は『コンタクト』(1997)のドン・バージェス、VFXはILM、メイクアップ&アニマトロニクス効果は『ターミネーター 2』(1991)のスタン・ウィンストン、編集は『アウトブレイク』(1995)のニール・トラビス、音楽は『パラサイト』(1998)のマルコ・ベルトラミ。キャストはアーノルド・シュワルツネッガー、『イン・ザ・ベッドルーム』(2001)のニック・スタール、『ロミオ&ジュリエット』(1996)のクレア・デーンズ、クリスタナ・ローケン。

1997年8月29日の“審判の日”を無事にやり過ごしながらも、ジョン・コナー(ニック)は世間から身を隠し続けていた。母サラは既に白血病で亡くなっていた。“審判の日”の3年も前に発病し余命幾ばくもないと言われながら、脅威の精神力でその日まで生き抜いたのだった。ある日、バイク転倒で怪我をしたジョンは、鎮痛剤を求めて動物病院に忍び入った。そこには中学校時代の同級生ケイト(クレア)が務めていた。この夜、2032年から究極の戦闘サイボーグT-X(クリスタナ)が、反乱軍の幹部になる予定者達を殺しにやってきた。しかもジョンとそしてケイトをもターゲットとしている。そしてT-Xからこの2人を守るために、T-850(アーノルド)も追ってきたのだった。動物病院と、その後のカーチェイスを逃げ延びたジョンは当惑する。“審判の日”は避けられたはず。しかしT-850は、スカイネットは存在すると言う。そして国防省に務めるケイトの父が、スカイネットを開発していることがわかる。

ダダンダンダダーン!と、観てきましたよ55歳のシュワちゃんを。半年かけてパンクアップさせたという肉体は、メイクもあるんだろうけど立派なものです。前作と何年たっていようが、自分を押し上げてくれたシリーズなので代役なんて立てられないしね。頑張ってます、カリフォルニア州知事に向けてフルチンで。
と、そんなことは置いといて。【マトリックス リローデッド】(2003)を観ないで我慢してこっちから観て、良かったです。最近のハリウッド系アクション映画は、掴みから一気呵成なのだが、本作も同じ。青いシートの前でなんかアクションする気は最初からないよ〜みたいな、100トン重機がバリバリ町並みを破壊していく様は、お見事。映画史上最高のトイレ格闘シーンも頑張ってる。
ターミネーターマニアらしいジョナサン・モストウ監督のこだわりが、しっかり感じられて、好感が持てます。あらすじ後半については他言無用なので無粋なことはやめますが、ここも巷で言うところの【T4】へのイントロとするよりも、過去の2作へのつじつま合わせというふうに思っておきましょう。オタクな監督のオタクらしい解釈なのでしょう。
ニック・スタール。そんなに悪くないよ。ジョン・コナーのキャラがそれだけ一人歩きしているとうことなんだろうけど。
クレア・デーンズ。タフだし下手じゃない。もう少し注目してあげるとするか。
クリスタナ・ローケン。ん〜、サイボーグというステレオタイプの呪縛がきついんだろうな。このシリーズに出てくるサイボーグを踏襲しているとは言えそうだけど。
彼らがL.A.を脱出して向かう先は、昨年秋に行ってきたモハベ砂漠だ。スカイネットを開発している所は、名前は言わないけどエドワーズ空軍基地だし。なんか、それだけで許せてしまう。
というのは、個人的感情ですね。


『チャーリーズ・エンジェル フルスロットル』 観た日:2003/06/28
お薦め度:★★★★ もう一度観たい度:★★★★★

監督は『チャーリーズ・エンジェル』(2000)のMcG(マック・ジー)、脚本は『ジュラシック・パーク3』(2001)のジョン・オーガストと、『シックス・デイ』(2000)のコーマック&マリアンヌ・ウィバーリー、撮影は『タイタニック』(1997)のラッセル・カーペンター、美術は『エボリューション』(2001)のJ・マイケル・リーバ、衣装は『ダイ・ハード3』(1995)のジョゼフ・G・オーリシ、編集は『タイムマシン』(2002)のウェイン・ウォーマン、武術指導は『マトリックス』(1999)のユエン・チョンヤン。キャストはドリュー・バリモア(製作も)、キャメロン・ディアス、ルーシー・リュー、『薔薇の眠り』(2000)のデミ・ムーア、『キング・オブ・コメディ』(2000)のバーニー・マック、『ハリーの災難』(1955)のジョン・フォーサイス、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』(1985)のクリスピン・グローバー、『ズーランダー』(2001)のジャスティン・セロウ。

さらわれたアメリカ連邦法執政局長官を救出すべくモンゴル奥地に潜入したエンジェルの3人は、お色気&アクション&機転で見事に作戦を成功させたが、長官は指輪がなくなっていることにショックを受けている。アメリカ司法長官が持っている対の指輪を合わせると、犯罪解明のために重要な証言をした人物をまったくの別人に仕立てるプログラムが現れるのだ。しかし既に司法長官は殺され、指輪は奪われた。チャーリー(ジョン)の次の指示は、この指輪の奪回だった。ディラン(ドリュー)は、実はこの証人保護プログラムによって再生された一人で、ところが彼女の証言により収監されていたかつての恋人シーマス(ジャスティン)が釈放され、アイリッシュ・マフィアの元に戻ったらしい。ひとまずシーマスをマークするエンジェルは、伝説のエンジェルであるマディソン(デミ)に励まされたり、“やせた男”(クリスピン)がまたまた付きまとってきたりしながらも、サーフィンやらモトクロスやら溶接工やらストリッパーやらいろんなことをしながら、真実に近づいていくのだった。

日米同時公開の初日に観ちまったぜ。
これほどストーリーの不要な映画も珍しい。ところがよくよく観ると、かなりしっかりと描き込まれている。ハリウッドの金の亡者達が砂糖の山にたかる蟻の如くこの映画に群がるのは、単純にエンジェルの色気?にほだされただけではないのである。
しかし、エンジェル(じゃなくてエンジェルを演じる女優)が何よりもこの映画に不可欠なのも周知。三人よれば文殊の知恵、折れない三本の矢、三人寄れば姦しい。トホホなくらいにパワー全開、まさにフルスロットルだ。現場を楽しまなければこうはいかない。
ドリュー・バルモア。今回、エンジェルになる前の話が3人ともに出てくるのだが、ドリューの場合はまったくの自伝的内容で、笑っちまうよ。前作も含め、製作も買って出ているだけに、もちろん映画自体を失敗するわけにはいかないし(前作では全裸を披露してたもんな。あんまり見たくないけど)、そんなパロディのような部分も込み込みで、まさしく身体張ってます。
キャメロン・ディアス。ドリューとの企画と出演のオファーを、バッテリーがあがるまで携帯電話で話し込んだというだけあって、前回に続き今回もノリノリ。というか、おバカ。こんなの誰も真似できないよ。どうしてあそこまでおバカなのか?それは、おバカ自体をキャメロンが楽しんでいるからだ。もちろん自分の肉体に自信があるから、というバックボーンがあるからだけど。
ルーシー・リュー。前回、エンジェルのパートナー役だったビル・マーレーを、喧嘩の上に本作から叩き出したらしい。生意気で有名なルーシーだけど、本シリーズに関してはエンジェルが全てなので、さすがのビル・マーレーもタジタジだったのだろう。性格は顔つきに出るよな〜。でも今回は、今まで彼女が出てきた映画の中では、もっとも明るく演じてます、何かに吹っ切れたように!
デミ・ムーア。改造人間ぶりには定評があるが、今回の整形手術は4,800万円らしいぞ。う〜む。
ところで、個人的にはエンジェル達に色気は感じないのだけれど、あの演技とそれを取り巻くいろいろに、カリカリしている連中がかなりいると思うんだけど(何とか女性人権団体とか)、ホントの所は如何なもんなんでしょ?キャメロンのお尻やドリューのオッパイにヒューヒュー言う男達と、あんな服着てキャピキャピした〜いという女達の狭間で揺れる、こんな映画はけしからん!と目くじら立てる自称大人達。
性や風紀を語るにはこの映画はあまりにコメディだし、アクションやCGを語るにはこの映画はやっぱりコメディなのだ。そう、だから、ワーワー論じること自体が無駄なのである。
そこを肝に銘じて(というほど一生懸命になる必要なんてないんだけど)、フルスロットルで楽しもうか。


『メラニーは行く!』 観た日:2003/06/28
お薦め度:★★★ もう一度観たい度:★★★

監督は『アンナと王様』(1999)のアンディ・テナント、脚本はC・ジェイ・コックス、撮影は『エバー・アフター』(1998)のアンドリュー・ダン,B.B.C.、衣装は『キューティ・ブロンド』(2001)のソフィ・デ・ラコフ・カーボネイル。キャストは『キューティ・ブロンド』(2001)のリース・ウィザースプーン、『ビューティフル・マインド』(2001)のジョシュ・ルーカス、『スクリーム3』(2000)のパトリック・デンプシー、『結婚ゲーム』(1979)のキャンディス・バーゲン。

メラニー(リース)はニューヨークの新進ファッションデザイナーで、現在何とニューヨーク市長ケイト(キャンディス)の息子アンドリュー(パトリック)と付き合っている。ティファニーを貸し切ってのプロポーズには、さすがにクラクラ!しかしメラニーには、清算しなくてはならない過去があった。出身地のアラバマには、幼なじみの夫ジェイク(ジョシュ)がいたのだ。しかも7年も離婚に応じてくれない。自らの人生を切り開くべく故郷に乗り込んだメラニーは、しかしそこで拭うことのできない過去の自分と、思いもよらない身内や知り合いとの接触と、何より故郷に馴染む自分の姿を見出すのであった。ジェイクの関係を改善できぬまま、アンドリューとの挙式の計画が進む中、メラニーは元アメフト選手のジェイクの現職業に気づかずにいた。ジェイクは再起をかけて、幼い想い出に基づく事業を成功に導いていたのだった。

典型的な恋愛コメディ。『トゥー・ウィークス・ノーティス』(2003)とこれと、どっちにしようかな〜と瞬間考えて、あっちはサンドラ・ブロック&ヒュー・グラントだもんな……と、こっちに即決。結論としては、当たりだと思う。ただし悩みのレベルは非常に低いんだけどね。
なので、内容に関してもスタッフに関しても、特に書くことないです。パンフレットではいろいろ褒めているけど、プロのライターってホント大変ですな。
リース・ウィザースプーン。『カラー・オブ・ハート』(1998)でトビー・マグワイアと双子の妹でヤリまくりのトホホ高校生を演じたり、『リトル・ニッキー』(2000)でアダム・サンドラーの母役の天使を演じたり、色物っぽいよね。全然美人じゃないし。ところがどっこい、特に女性達よ聞け、こういうタイプの娘は、男は実は好きなのであ〜る。何故か説明はできないが。十分に守備範囲圏内なのである。全然艶っぽくないけど。地元の幼なじみにこういう娘がいて、地元志向の男なら、こういう娘と生涯生きていきたいな〜と真っ先に思うタイプなのである。単にコメディエンヌと総括するなかれ。そして、重要な事は、彼女はそんな男心を心底わかっているようなのである。女心恐るべし!
パトリック・デンプシー。こういう濃い顔の男を、アメリカでは才気に富んだセレブリティと思うんだろうか?
ところでこの映画、原題は『Sweet Home Alabama』というのだが、どう考えても日本での『メラニーは行く!』の方が良いではないか。配給会社の営業マンorウーマン、良い仕事をしたね。


『8 Mile』 観た日:2003/06/27
お薦め度:★★★★ もう一度観たい度:★★★★

監督・製作は『L.A.コンフィデンシャル』(1997、監督・脚本・製作)のカーティス・ハンソン、脚本はスコット・シルヴァー、撮影はロドリゴ・プロエト、衣装は『パンチドランク・ラブ』(2002)のマーク・ブリッジス。キャストはエミネム、『ナインハーフ』(1985)のキム・ベイシンガー、『17歳のカルテ』(1999)のブリタニー・マーフィ、『クローン』(2001)のメキー・ファイファー。

1995年デトロイト。予想もしなかった自動車産業の衰退に不景気感が否応なく覆う街では、主に白人層からなるアッパー階級の北側居住区と、黒人層が多く住むブルーカラーの南側居住区とが別れている。ラビット(エミネム)は南側で、トレーラーハウスに母(キム)と幼い妹と暮らしている。友人達と夢中になっているのはラップだ。フリースタイルで相手を圧倒するラップバトルに出場するが、ラップは黒人の文化だと罵倒される。母は愛人との関係維持に躍起で妹の世話などしない。新しくできたガールフレンドのアレックス(ブリタニー)はモデルとしてのプロモート役を買って出だ男とスタジオでセックスしている。金はない。こんなクソッたれの街から這い出したい。友の励ましをうけ、ラビットは再びラップバトルのステージに上がる。

ヒップホップの新星にしてトップスターのエミネムが主演する、半自伝的青春映画!
個人的には、ヒップホップもラップも上っ面しか知らないのだが、しかしそんなことはど〜でもよい。映画としての出来が良い。何といっても、エミネムが痛々しくて良い。韻を踏むリリック(歌詞)をメモ用紙に絞り出す仕草も良いし、己の正義を貫こうとして拳を振り上げる立ち回りも良いし、バトルでの静から動へ一気にスイッチングする目も良い。カーティス・ハンソン監督は、恐らくこのエミネムという素材そのものに惚れたんだと思う。
もちろん、デトロイトという街と、ヒップホップに対する背景とが、上手にミックスできているのも強い説得力を持つことができた所以だろう。しかしアメリカって国は、いつまで経っても差別のなくならない所だよな〜……
キム・ベイシンガー。息子のラビットに「彼がクンニしてくれないの」と打ち明けるビッチな母親を好演。金がないとやっぱり荒むよな。
ブリタニー・マーフィ。プレス工場だろうがどこだろうがすぐにヤッちゃう向上心と無謀の区別のつかないリトルビッチな娘ッコをあっさりと熱演。こういうヤツ、いっぱいいるよね。
え〜、『ビッグ・リボウスキ』(1998)以来、久しぶりにこんなにたくさんFUCKとASSを聞きましたね〜。むしろ爽快。それにバトルのときのリリックの汚いこと!耳障りやリズムだけでノリノリな人もいると思うけど、ご用心。


『シカゴ』 観た日:2003/06/26
お薦め度:★★★★★ もう一度観たい度:★★★★★

監督・振付はロブ・マーシャル、脚本は『ゴッド・アンド・モンスター』(1998)のビル・コンドン、撮影は『シャーロット・グレイ』(2001)のディオン・ビーブ,ACS、美術は『X-メン』(2000)のジョン・マイア、衣装は『スリーピー・ホロウ』(1999)のコリーン・アトウッド、音楽はブロードウェイの名コンビ、ジョン・カンダー&フレッド・エッブ。キャストは『ブリジット・ジョーンズの日記』(2001)のレニー・ゼルウィガー、『マスク・オブ・ゾロ』(1998)のキャサリン・ゼタ=ジョーンズ、『プリティ・ウーマン』(1990)のリチャード・ギア、『ボーン・コレクター』(1999)のクイーン・ラティファ、『シン・レッド・ライン』(1998)のジョン・C・ライリー、『バードケージ』(1996)のクリスティン・バランスキー、『チャーリーズ・エンジェル』(2000)のルーシー・リュー。

1920年代のシカゴ。禁酒法で縛られているが故の退廃的なムードが立ちこめる街でショービジネスでのし上がるには、なりふりなど構っていられない。ロキシー(レニー)は、キャバレーのステージで大胆に踊り歌うヴェルマ(キャサリン)を羨望の眼差しで見つめていた。ところがヴェルマは、夫と妹の情事を見て逆上し殺してきたばかりだったのだ。一方、舞台へのコネがあるという家具屋に騙され続けてきたロキシーは、それがハッキリわかったとき、思わず彼を射殺してしまう。夫のエイモス(ジョン)による身代わり工作も不調に終わり、収監されたロキシーは、刑務所で憧れのヴェルマと再会した。ヴェルマは看守のママ(クイーン)に取り入り、悪徳だが敏腕な弁護士ビリー(リチャード)と組んで無罪を獲得しようとしていた。ビリーの主張は「殺人は犯したが相応の理由があり犯罪ではない」というもので、これまでも多くの女性犯を自由にしてきた実績がある。エイモスは、ビリーを雇うための約束の5000ドルを用意することができなかったが、ビリーはロキシーの事件が金になることを嗅ぎ分け、引き受けることにした。次第にビリーの色に染まってきたロキシーとその周辺。マスコミと世論をコントロールし、思い通りの結果を導くことに傾注するビリーに、次第に忘れられていくヴェルマは焦るが、ロキシーは「今、旬なのは私なの」とにべもない。富豪の夫人(ルーシー)が殺人事件を起こしたときも、ビリーの気を引き直すためにマスコミの前で妊娠している振りをし、世論を引き戻したロキシーは、公判でビリーの策略にも助けられ、遂に無罪を勝ち取ることに成功する。しかし世間は、ロキシーが期待したようには彼女を注目してくれなかった。人殺しのダンサーとして売っていく当てが外れた失意のロキシーの元に、同じく無罪で釈放されたヴェルマがやってきた。「殺人者1人は珍しくないが、でも2人ならどう?」

文句なし。ミュージカル映画が嫌いじゃなければ、大いに満足できる作品と思う。
ミュージカル界の天才演出家にて、『キャバレー』(1972)『オール・ザット・ジャズ』(1979)の監督でもあるボブ・フォッシーの代表作の映画化。彼が構築した世界観は到底真似できないし、何より映画化自体が模倣では不可能と言われていたのを、同じく舞台畑の才児ロブ・マーシャルが思うがままにアレンジした。
って、ミュージカルに疎い私がいくら読んだ話を付け焼き刃で説明しても、何ら重みはないですね。でも『オール・ザット・ジャズ』のロイ・シャイダー演じるフォッシー自身とかを思い出せば、少なくともこの作品の臭いとかは、映画を観ずとも感じることはできるだろう。
音楽は元からある。振付はフォッシーを真似ることなく新たに編み出したらしいが、もともとロブ・マーシャルはミュージカルの人なのでここもまぁ問題ないだろう。何より凄いのは、コマ割りと各カットと編集力だ。スリリングでエロティックなのはもちろん、繋ぎ方に破綻がない。ワンテイクで撮り上げた訳ではないだろうに、この流れ方は見事だと思う。
レニー・ゼルウィガー。やっと名前が言えるようになってきた。美人じゃないのに男好きするよな〜(特に横顔)。「何であんな娘がもてるのよ!」と同性からトイレで焼きを入れられるタイプなのは昔からだ。でも結構好きです。
キャサリン・ゼタ=ジョーンズ。マイケル・ダグラスとのバカ夫婦振り&出産のためにブヨブヨだった『トラフィック』(2000)から比べると、『エントラップメント』(1999)の頃に戻った身体が見苦しくなくて良い。もともとの素材は良いのだから、思い上がらず真摯に仲間と映画作りに取り組んでね。
リチャード・ギア。スケコマシの女ったらしこその本領発揮だと思うけど、歌はもちろん、タップダンスも本人だってさ。
ジックリと、上等な時間を過ごせる映画。ここでいかんなく発揮されているアメリカ臭さって、ここ最近特に撒き散らされている焦臭さとは違い、心地よいです。


『TAXi3』 観た日:2003/06/26
お薦め度:★★★ もう一度観たい度:★☆

監督は『WASABI』(2001)のジェラール・クラヴジック、脚本・製作は『グレート・ブルー』(1988)のリュック・ベッソン、撮影はジェラール・ステラン、編集はヤン・エルヴェ、音楽はDJコア&DJスカルフ。キャストはお馴染み、サミー・ナセリ、フレデリック・ディーファンタル、エマ・シェーベルイ、マリオン・コティヤール、ベルナール・ファルシーと、『アンナと王様』(1999)のバイ・リン。

クリスマス前のマルセイユ。タクシー運転手ダニエル(サミー)が駐車場でサンドイッチを食べていると、男が飛び込んできた。20分で空港まで行って欲しいらしい。札束を握らされたダニエルは大喜びで、さらに改造を加えたプジョー406を300km/hでぶっ飛ばし、見事依頼にこたえた。そんなこんなで相変わらずのダニエルに、一緒に暮らし始めたリリー(マリオン)はおかんむり、遂に実家に帰ってしまう。一方、エミリアン(フレデリック)はというと、いつの間にか?同棲までしているペトラ(エマ)が、妊娠!までしているのにも気づかずに仕事に没頭している。ジベール署長(ベルナール)が言うことには、頻発しているサンタクロース強盗がクリスマスに向けて大仕事をしようとしているらしい。そんな折り、雑誌記者のキウ(バイ)がマルセイユ署に密着取材を申し込んできた。相変わらずの頓珍漢に加えてキウにのぼせているベルナールに呆れたエミリアンは、またまたダニエルと組んで、怪しいサンタクロースを追いかけることになった。

日本で言うところの『釣りバカ日誌』のような、ご存じフランスの国民的映画の3作目。登場人物の細かい説明なんて、もう不要なくらいだし、プジョー406の“異常”なほどのボンドカー振りも健在なのである。つまり、安心して観られる要素は健在というわけだ。
だから問題は、この要素をどういじり回すか、という点なのだが、リュック・ベッソン破れたり!ここしばらくの彼の作品は、彼の才能が枯渇したのではないかと思うばかり。『ジャンヌ・ダルク』(1999)で打ち止めになったのだろうか。『WASABI』(2002)の酷さを払拭できない。
まず、冒頭のチェイスと逃亡劇。本編に何ら繋がっていない。あれを『TAXi4』への布石とするならば、製作スタッフは大バカだ。というか、アレが本編とどう繋がっているのかワカラン私こそ大間抜け、とおっしゃる方がいましたら、ご連絡いただきたいです。
それから、真ん中辺にもいろいろあるけど、エンディングの犯人グループ捕獲劇も、酷くスローモーでガッカリ。まだ前作のような戦車にランエボをぶつけるような感じの方が良かったよ。
個人的にはガッカリでしたね〜。
バイ・リン。ん〜、ケバいよね。巧いのか制作側におもねているのか本気なのか虚飾なのかわかんないけど、東洋人に対する西洋人のステレオタイプを助長するような演出や衣装は、何だかな〜……
え〜というわけで、前作からの腐れ縁を感じている人は、どうぞ。


『恋愛寫眞』 観た日:2003/06/25
お薦め度:★★★ もう一度観たい度:★☆

監督は『トリック-劇場版-』(2002)の堤幸彦、脚本は緒川薫、撮影は唐沢悟、美術は佐々木尚、編集は伊藤伸行、スチール写真は齋藤清貴。キャストは松田龍平、広末涼子、小池栄子、ドミニク・マーカス。

瀬川誠人(松田)は大学の写真サークルに所属している。ある日、「写真を撮って」とねだられたあげく友人の敵と言いながら男をぶん殴る里中静流(広末)に出会う。キャンパスでは奔放な有名人らしい。誠人は、彼女を被写体にして撮っていくようになった。いつしか一緒に暮らし始めた2人は、静流がカメラを手にするようになってから変わっていく。誠人についていきたい一心の静流は一コマ目から独自の才能を発揮し、誠人を嫉妬させる。遂に雑誌コンテストの入選という結果を出した静流に幼い怒りを爆発させた誠人に、身を引く決意をした静流。卒業と共にフリーカメラマンの道を歩み始めた誠人だが、上手くいかない。そんな折り、ニューヨークから静流の手紙が届いた。個展を開くという。しかし静流は1年前に死んだはずだった。とにかく、いても立ってもいられなくなった誠人は、あてもなくニューヨークに渡り、ゲイのカシアス(ドミニク)や、静流のルームメイトのアヤ(小池)と出会う。そして、遂に真実を突き止めた。

なんで、普通なら観ないこの手の恋愛なれ合い映画を観たのかというと、使っているカメラに惹かれたのである。キャノンnewF-1。日本が世界に誇るカメラ工業界が産んだ、多くの名機の1つである。まぁ自分が持っているということもあるけど。スチールカットがたくさん出てくるということもあり、それが見たかったのだ。ところが、ファインダーを覗くカットで露出計の動きがヘンだったり、レンズ焦点距離が誠人の持っているレンズとは明らかに違っていたり(ちなみに誠人のレンズは28mm?と50mmと135mmと200mm)、何だかな〜。
つまり、こういう小道具のつじつまをしっかり摺り合わせておかないと、オタクが見破るのは当然として、リアリティがなくなってしまい、結局の所、映画としての資質とか本質が脆弱になってしまうと思うのである。
もう一つ、とっても気になるのが、日本人のキスシーンの下手くそさである。いろんなところでいろんな人がいっぱい語っているはずなのだが、肝心の役者達にはどうも届いていないらしい。なぜか?キス慣れしていないからである。恐らく、松田龍平も広末涼子も、プライベートではいっぱいキスしていると思う。ところが映画では、なんて下手くそなキスなんだ!つまり、プライベートでの、性欲とかに直結するキスは、もちろん本気でその気なのできっと一生懸命だから見栄えのするキスなのだろう。ところがキスが日常にない日本では、つまりキスを挨拶代わりにしない(できない?親とか知り合いとか上司とかの前でも、っていう意味です)日本では、どうしていいのかわかんなようなのである。道ばたで若い連中がチューチューやってるじゃないかって?彼ら、役者じゃないでしょ。仕事として、好きでも何でもない相手と、説得力のあるキスができるわけないジャン。とにかく、唇を膨らませないでカレーパンマンみたいに薄っぺらく横に引っ張ってぶつけるようなのは、キスとは呼ばないのである。
松田龍平。ナイーブな演技で内面を云々、という評価がるようだが、かいかぶり。単に大根なのが結果オーライなだけ。でもセリフは活舌のおかげでまぁまぁだよね。
広末涼子。前髪が鬱陶しい。話し方もイライラする。彼女を指標にしている女性も多いと思うが、話し方だけは真似しないように。人生、媚びを売り続けていけるほど安直ではないのである。
小池栄子。良いです。良いですが、狂気への過程がまだまだ。スイッチが入ってパチンと切り替わるよりも、徐々にスライドしていく方がいいな。『黒い家』(1999)の大竹しのぶみたいに。
ん〜、TV連ドラ全盛の日本の現代恋愛映画なんて、こんなもんなのかな〜。ちょっと悲しくなって劇場を出たのでした。


『おばあちゃんの家』 観た日:2003/06/25
お薦め度:★★★★★ もう一度観たい度:★★★

監督・脚本は『美術館の隣の動物園』(1998)のイ・ジョンヒャン、撮影はユン・ホンシク、照明はイ・チョロ、編集はキム・サンボンとキム・ジェボン、美術はシン・チョミ。キャストはキム・ウルブン、ユ・スンホ、トン・ヒョフィ。

17歳で家出、ソウルでサンウ(ユ)を産み育てた母(トン)は、夏の間、田舎に一人住まいのおばあちゃん(キム)にサンウを預けて仕事探しをすることにした。サンウはたまったもんじゃない。コンピューターゲームやキャラクターカード、ファーストフードやスナック菓子に囲まれて気楽にワガママに暮らしていたと思ったら、水は汲みに行かなきゃならないしテレビは電波が来ないし、家はボロいしトイレは外だし、おまけにどう見ても貧乏なおばあちゃんは話せず聞こえないのだ。どうやったって上手くやっていけるはずがない。ところが、おばあちゃんはサンウの好き勝手な言いぐさやイタズラにも怒ることなく、ひたすら寛大で懐深い。ある日、町に行った二人。おばあちゃんの畑で採れたかぼちゃを売り、食堂でサンウ一人にソバを食べさせるおばあちゃんは、帰りのバスに乗らないと言う。サンウは気がつかなかった。腰の曲がった杖を手放せないおばあちゃんが、延々と埃っぽい坂道を登ってこなければならなかったのを。そしてサンウが友達の家に遊びに行ったとき、電池切れのコンピューターゲームを包んだ紙に、お小遣いがくるまれていたのを見たサンウは、転んで擦りむいた膝のまま、おばあちゃんに泣き甘えるのだった。その日、母から、サンウを迎えに来るという手紙がきた。サンウは電話もなく字も書けないおばあちゃんのために「身体が痛い」「会いたいよ」という2種類の絵はがきをたくさん書いた。「この手紙が届いたら、ボク飛んでくるから」そしてサンウは、母とソウルへ戻った。

韓国映画がここのところ元気が良いのはご存じのとおりだが、それは国策として映画業界そのものを盛り上げていこう(文化としても外貨獲得のための商品としても)というのが、上手く回っているからだと思う。国内物価の関係もあって、ちょうどよくコントロールされているんじゃないかな。しかしだからといって、ジャブジャブお金を使う大規模映画にばかり目が向いているわけでは決してないところが、韓国映画のホンモノ度を示している。
この映画もそう。なんてことはない、都会のクソガキが田舎のおばあちゃんに触れ、ちょこっと優しくなって帰っていく、というだけの話なのだが、優しい眼差しで包み込む、という観点でこの映画を作り上げたものだから、こんなにも力強い説得力を持つことができた。
子供(に限らないのだけれど)と接するとき、まずは“肯定”から始めないと、子供は絶対に心を開いてくれない。わかっていてもなかなかできないことなのだが、こんな技術的な戦術ではなくて、しかももっと効果的なものがある。まぁありきたりなんだけど、愛なんだよね。無償の愛。見返りなど考えもせず注ぎ続けることが、実は自らをも満たすことになるんだよね。それを気づかせてくれるおばあちゃん、凄いです。
で、何が凄いかというと、このおばあちゃんは、素人さんなのです。ロケハン中に道ばたを歩いていたおばあちゃんを、キャッチしたのだそうです。いや〜……
繰り返し観るにはちょっと何ですが、でも一度は観た方が良い映画ですね。
そういえば、山で鳴いてるセミ、あれ、ツクツクボウシだよな。日本と同じヤツなのかな?


『ぼくんち』 観た日:2003/06/19
お薦め度:★★★★★ もう一度観たい度:★★★★

監督は『顔』(2000)の阪本順治、原作は西原理恵子、脚本は『TOKYO BLOOD』(1993)の宇野イサム、撮影は『KT』(2002)の笠松則通、美術は『風花』(2001)の小川富美夫。キャストは観月ありさ、矢本悠馬、田中優貴、鳳欄、真木蔵人、今田耕司、岸部一徳。

関西のどこかにあるらしい水平島の裏側に、一太(矢本)と二太(田中)は住んでいた。ここの住人は、みんなが貧乏でちゃらんぽらんで一生懸命で運がなかった。支え合っているようで勝手だった。小学校なんてない。2人にはとうちゃんはいない。かあちゃん(鳳)は半年前にどこか出ていったっきりだったが、ある日、娘のかの子(観月)を連れて帰ってきた。うろたえる一太と喜ぶ二太をよそに、そそくさとまた出ていく母。自分なりの男気を貫くコウイチくん(真木)に弟子入りし一人立ちを志す一太と、犯罪の下手な安藤くん(今田)たちと無邪気に遊ぶ二太。ところが母がいきなり3人の大事な家を勝手に売ってしまった。かの子は仕方なく、昔とった杵柄でピンサロ嬢として働きだし、寮としてあてがわれたアパートを住まいとする。しかしやはり、こんな暮らしは無理がある。一太は島を出る決心をした。二太は遠くのおじいさんと暮らすことになった。「こんな時こそ笑うんや」二太は頑張って笑った。

天才漫画家サイバラの、傑作の映画化。原作の雰囲気をまずまず醸している。まぁ原作のあの、心に染みる貧乏と根性悪と意地汚さと、絆と愛と純真には、及ばないにしても、十分に映画として成立しているので文句無し。
それにしても阪本順治監督、よほど原作に惚れ込んだのか、やりたい放題である。原作のせいにしてやりたい放題、と言ってもよかろう。小汚い街と住人を思い切りよく描き、アイドル観月ありさに遠慮なくおちんちんだのまんこだのと言わせ、でも旅立つ二太には庇護の傘を捧げてあげるのだ。
その観月ありさ。ホントに美人である。ケバい服や化粧も似合うし。巧くなったしね。表情の回し方にイマイチ不満があるものの、これも経験あってこそ。これからもっと活躍してもらいたい。
真木蔵人。こっちも巧くなったよな。まだちょっとショボいけど。
鳳欄。えぐくて惚れっぽくて哀れなおばちゃんを好演。ケバケバしい役が、そんなにヘンに見えないのって難しいと思う。
というわけで、邦画の本年度お薦めの一本であるのは間違いない。観るべし。お子ちゃまでは計り知れない“昭和”の臭いのプンプンするこの映画を、深く堪能してほしい。


『WATARIDORI』 観た日:2003/05/22
お薦め度:★★★★ もう一度観たい度:★★★★

総監督はジャック・ペラン、共同監督はジャック・クルーゾとミッシェル・デバ、撮影監督はティエリー・マシャドとフィリップ・ガルギ、編集はマリー=ジョゼフ・ヨヨット、音楽はブリュノ・クレ。

フランスの農村。川で泳ぐハイイロガンが、北へ飛び立った。多くの渡り鳥は、太陽や星を座標とし、数千キロを飛び、極地方で繁殖する。北半球では、夏の繁殖期は北極域へ、冬は赤道などの温帯地域へ移動する。鳥によってはヒマラヤを越えたりするものもいれば、ペンギンのように数千キロを回遊するものもいる。そして半年後、いつもの川にハイイロガンが戻ってきた。

日本のことが結構好きなフランス人は、映画の題名にもそのままの日本語を当てはめた。WATARIDORIだって。ははは。
ただひたすら、鳥鳥鳥、の映画。ハイイロガンが主役なのかと思いきや、そういうわけでもない。途中に挿入される鳥たちの中には、時に脈絡もなくたまたま良さそうな映像が撮れたので紹介します、みたいなものもあるが、それよりも何というか、この作品の迫力は、まさに“飛ぶ”という行為そのもののリアリティに尽きる。
ジャック・ペロン監督は、CGなど一切使わずに鳥達の飛ぶ姿をフィルムに焼き付けた。カメラの目の前を全速力で飛ぶハイイロガン。どうやって撮ったのか?なんて考えるまでもなく、一緒に飛んで撮ったのだ。理屈は簡単、問題は撮り方ではなく、どのような手法で一緒に飛んだのか?である。
答えは「おいおいそれでいいのかよ〜」であった。卵から孵る前から、小型飛行機の音を聞かせ、クルーの声を聞かせる。孵化すると真っ先にクルーと機材を見せて、それらが自分の“親”であるかのように思い込ませる(生物学用語でいうところの“すり込み、インプリンティング”)。で、後は、クルー達は雛の親よろしく振る舞う。餌の取り方、泳ぎ方、飛び方。みんな雛に教える。やがて雛達は成長し、北へ旅立つ。さ〜カメラを回すぞ!と追いかけるが、なんてったってクルーは自分の親、彼らが飛んでいくのに何の支障もないのである。
たまったもんじゃないのは、今度はクルーの方だ。折りたたみ傘におもちゃのエンジン&プロペラをつけたような飛行機で、雪山は越えなきゃなんないし、荒海の上も飛ばなきゃなんない。
という、笑っちゃうほど非効率で馬鹿馬鹿しくて命懸けで純粋な方法で、丸3年もかけて撮影されたこの映画。いや〜凄いよ。
……ここで心配なのが、野生のようで野生でない鳥達(何たって親が人間とおもちゃの飛行機)の余生である。撮影はしたものの、じゃ〜サヨウナラってわけにはいかないのである。しかし聞くところによると、広大な敷地が既に用意されており、そこで彼らは暮らすらしい。なるほど〜。
って、いいのかこれで!という根本的な突っ込みを入れたくなるのも道理なのだが、しかし確かに、飛ぶという行為そのものが美しく、地べたをはいずり回って一生を送る人間という生き物にとっては、とても羨ましい彼らなのである。
鳥って、国境という概念もないしね〜。


『猟奇的な彼女』 観た日:2003/05/09
お薦め度:★★★ もう一度観たい度:★★★

監督はクァク・ジョヨン、撮影は『シュリ』(1999)のキム・ソンボク、編集は『カル』(1999)のキム・サンボム、美術はソン・ユンヒ、音楽はキム・ヒョンソク。主演は『イルマーレ』(2000)のチョン・ジヒョン、チャ・テヒョン、ハン・ジンヒ、ヤン・グムソク。

大学生で共益勤務要員として兵役を終えたキョヌ(チャ)は、1年前に一人息子を亡くしたおばさんのところへ行くのをサボり、友人と遊んでいた。その夜、地下鉄で酔っぱらった彼女(チョン)を見かけた。オヤジの頭に吐いている。目をそむけたが、乗客の視線はなぜか彼に。仕方なく彼女をホテルに連れていくが、彼女の通報でキョヌは警察に捕まってしまった。さんざんな目に遭った彼は、翌日、彼女の待ち伏せにあい、昨夜のことを問いつめられた。何もしてないと話すキョヌを、彼女は飲みに誘う。援助交際しているサラリーマンをぶっ飛ばしたあと、泣きながら3杯ほど酒を煽り、またもやぶっ倒れる彼女。その正義感と心の奥にある寂しさを垣間見たような気になったキョヌは、彼女と付き合うことを覚悟した。しかし覚悟したはいいが、彼女の行動は予測不可能で制御不能だった。妊娠したと嘘をつき必修科目の授業からキョヌを引っこ抜いたり、川の深さを計ってと泳げないキョヌを突き落としたり、男子禁制の自分の通う女子大の教室に“交際100日目記念日”のためにバラを持ってこさせたり。しかしやがて、彼女の中には死別した婚約者がまだいることをキョヌは知る。彼女はキョヌを郊外のある丘に立つ松の木の下に誘い、想いを綴った手紙を入れたタイムカプセルを入れようという。そして2年が過ぎる。

韓国で大ヒットした、何でも盛り合わせてある、ジャンルとしてはラブストーリー。
元々は、インターネット掲示板に書き込まれた話が膨らんで、遂には映画にまでなった、ということらしく、その意味ではコリアンドリームだ。
“猟奇的”というのは「突拍子もない、極めて個性的な、自己開放された」みたいな意味として今の韓国で使われている一大ムーブメントのようで、パンフレットでは「保守的で規制の多かった韓国社会において、ようやく自由表現という文化が胎動し始めた象徴と考えていいかもしれない」などと括っている。なるほど。
キョヌと彼女との付き合いの過程で描かれるサイドストーリーはどこかで見たものだし、手法はパロディというよりは安直な真似だし、エンディングは察しがついてしまうし、何より盛り込まれているギャグが全然笑えないのが痛い。でも脚本としてのまとまりはあると思う。
特に、彼女にこれ以上のウエイトを置いたら、この映画は壊れてしまうと思うのだが、それをよくわかって編集しているところは評価できる。キョヌなしではこの映画は語れないのである。
チョン・ジヒョン。個人的に言わせてもらうと、あんまり可愛くない。こればっかりは好みもあるので仕方ないが。汚れ役に体当たり〜、みたいな表現はもう止めようね。
チャ・テヒョン。日本のTVドラマ的な演技。巧いか下手かと言えば下手。こういう俳優って、日本にもゴロゴロいる。
ん〜、エンディングの歌は、いいですね。


『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』 観た日:2003/04/18
お薦め度:★★★★ もう一度観たい度:★★★

監督は、紹介するのも面倒くさいスティーブン・スピルバーグ、脚本は『スピード2』(1997)のジェフ・ネイサンソン、撮影は『A.I.』(2001)のヤヌス・カミンスキー、編集は『シンドラーのリスト』(1994)のマイケル・カーン、衣装は『オー・ブラザー!』(2000)のメアリー・ゾフレス、音楽はスピルバーグと一蓮托生のジョン・ウィリアムス。キャストは『ギャング・オブ・ニューヨーク』(2001)のレオナルド・ディカプリオ、『プリティ・リーグ』(1992)のトム・ハンクス、『ディア・ハンター』(1978)のクリストファー・ウォーケン、エイミー・アダムス。

1963年。フランク・アバグネイル(レオ)は15歳。尊敬する父(クリストファー)と美しい母のもとに素直に育っていたが、父の脱税容疑と母の不倫により両親は不仲になり離婚、傷心したフランクは家を飛び出す。駅でフランクはチケットを買うために、父から譲り受けた小切手で切符を買う。口座に預金はなかったが、当時は“小切手”という信用だけでものが買える時代だった。マンハッタンでの貧困に耐えられなくなったフランクは、小切手を偽造することを思いつき、やはり詐称した免許証とともに、大胆な小切手詐欺を始めた。甘いマスクに巧みな会話術は、特に女性から情報を聞き出すに好都合だった。しかし高額な換金はさすがに銀行も査定が厳しい。ある日、パンアメリカン航空のパイロットが高額小切手を両替しているのを見て、そのユニフォームに着目し、自分もパイロットになりすますことを思いつく。思いのほか上手くいったので、ついでにこのまま飛行機にも乗り放題、全米各地でやりたい放題。そんな時、病院でメソメソしていた看護婦ブレンダ(エイミー)を見初めたフランクは、今度は医者を偽りまんまと病院に勤務、ブレンダの両親にも気に入られ婚約。しかし、これほどまでに大胆かつ大被害を与え続ける彼を、FBIは当然ながら黙っていない。カール(トム)はチームを編成し、フランクを追い詰めていった。長い追跡劇の末、奇妙な親近感を覚える二人の関係は、カールの勝利で決着。しかし彼らの物語はこれで終わらない。

実話。もうそれだけで、時代背景という後押しはあったとしても、おバカ。そう、人生はおバカに満ちあふれている(いた)のである。ボニー&クライド(『俺たちに明日はない』(1967)とか)じゃ〜ないけど、でも主張はあっても暴力で中央突破していく手法でないところが、この実在する人物が実は今でも結構愛されている理由かな。
こんな美味しいネタを、スピルバーグが見逃すはずがないのである。で、どうせやるならトップスターで、と考える制作側の意図もよくわかる。大体において「スピルバーグがメガホンを取るので出てくれないか」という言葉ほどの甘露があるだろうか?
で、脚本に食いついたのがトムとレオっていうのもどうよ……、って、トムとレオ?トム&ジェリー?ん〜あのネコとネズミ、言い得て妙だが、しかし共通の危機に対して結託するところまでソックリですね〜今気づいたけど。ハハハ。
強いて言えばちょっと長いくらい。そつなく面白い。主人公の2人も活き活きしてるし、カメラも巧いし(カミンスキーだもん、当たり前!)、セリフも練り上げられているし。
それよりも、バイプレイヤーの健闘を称えたいですね。クリストファー・ウォーケンはもちろん“向こう側”の人です。巧いのは当然。
何といってもブレンダ役のエイミー・アダムス。体当たりだがそこまで不器用でなく、キュートだがそこまで媚びは売ってない。なんか、レニー・ゼルウィガーの駆け出しを想起させます。ブレイクして欲しいな。
スピルバーグファミリーの映画だとはいっても、『マイノリティ・リポート』(2002)のように構えて観なくても十分に楽しめる映画だ。でも仕掛けは結構あるけどね。でもシンプルを志したスピルバーグは、流行している(悪しき?)謎解きは強いてないけどね〜。


『たそがれ清兵衛』 観た日:2003/04/11
お薦め度:★★★★ もう一度観たい度:★★★★

監督・脚本は『幸福の黄色いハンカチ』(1977)の山田洋次、脚本は朝間義隆、撮影は長沼六男、照明は中岡源権、美術は西岡善信と出川三男、編集は石井巌、音楽は冨田勲。キャストは真田広之、宮沢りえ、田中泯、小林稔侍、岸恵子、大杉連。

井口清兵衛(真田)は、庄内(山形県鶴岡市)海坂藩の下級武士。五十石の貧乏に加え、病の妻とぼけの始まった母、2人の娘をかかえ、いくら内職をしても借金は減らない。もちろん身なりになど気を使っている余裕などない。城での仕事の後、遊びに行くわけでもなくすぐに帰宅するその姿を、同僚は“たそがれ清兵衛”と呼び嘲笑していた。妻が亡くなった後、いよいよ見かねた本家筋が再婚を薦めるが、清兵衛は好きこのんで貧乏をしてくれる人などいるはずもないと諦めている。ところが友人の妹朋江(宮沢)が、嫁ぎ先の甲田(大杉)の暴力のため出戻っており、彼と果たし合い(清兵衛は木刀だが)をしたりして、幼友達時代以来の近しい関係が始まった。娘達は朋江によくなつき、朋江も家の手伝いをしてくれた。あるとき、藩主の急死によりお家騒動が起こった。改革派の処分が進む中、その馬廻り役で剣客の余吾(田中)の切腹拒否に手を焼いた家老が、甲田との一件を聞きつけ、清兵衛に余吾を討つことを命ずる。清兵衛は命を捨てる覚悟を決め、余吾の隠れる住まいに向かった。

藤沢周平の短編『たそがれ清兵衛』『竹光始末』『祝い人助八』をミックスし良質な脚本を作り、現在の日本映画の各分野の第一人者がこぞって参加、メガホンが山田洋次。面白くない訳がない、と言わんばかりのこの映画、日本アカデミー賞への反発もあり、知らん顔をしていたのだが、やっぱり観ちゃいました。
で、やっぱり面白かったです。これが2002年度で一番面白い邦画かどうかは別として。
時代検証や人物・暮らしぶりなどの再現描写がしっかりしているのが、ちょっと見ただけでもよくわかる。時代劇初トライの山田洋次、相当綿密に取り組んだのだろう。パンフレットには「今までの時代劇には不満がいっぱい」とあるが、これまでの時代劇にはない生活臭が確かに立ちのぼっている。
殺陣も、いわゆるチャンバラはしたくなかったそうで、クライマックスに相応しいラストの斬り合いもお見事。これぞホンモノの真剣勝負と褒めそやされるのもわかる。もっとも、チャンバラ映画orテレビというのは、股旅モノの田舎芝居の延長なのだろうから、あれはあれで由緒正しいと思うので、だからこっちはこっちで認めてます。
カメラの中の隅々までモノが見えているのに注目。明るくて飛んだり、暗くて潰れたりしない。照明・露出決定・現像が上手くいかないとこうはならない。特に現場で大きく左右されるのは照明だと思うので、さすがは“鬼の源権”と言っておこう。
真田広之。確かに巧いよな〜。巧さが鼻につくような俳優にはなんないでね。
宮沢りえ。立ち居振る舞いをよほど練習したのでしょう。良い。
大杉連。どこにでも出過ぎ。
田中泯。目の光りがグー。
エンディングの夕日。もちろんたそがれ清兵衛に引っかけているのだが、時代が文明開化後に移ってはいるけれど、電線はいらないんじゃ〜ないかな?


『ピノッキオ』 観た日:2003/04/10
お薦め度:★★ もう一度観たい度:★★

監督・脚本は『ライフ・イズ・ビューティフル』(1998)のロベルト・ベニーニ、脚本はヴィンチェンツォ・チェラーミ、撮影は『L.A.コンフィデンシャル』(1997)のダンテ・スピノッティ、デザイン・衣装・装置は『ロミオとジュリエット』(1968)のダニーロ・ドナーティ、VFXは『グリーン・デスティニー』(2000)のロブ・ホジスン、音楽は『息子の部屋』(2001)のニコラ・ピオヴァーニ。キャストはロベルト・ベニーニ、ニコレッタ・ブラスキ、カルロ・ジュフレ、ミーノ・ベッレイ、ペッペ・バーラ、キム・ロッシ・スチュアート。

青い妖精(ニコレッタ)に触れた蝶が止まった丸太は、勢いよく石畳を駆け抜けてジェッペットじいさん(カルロ)の店先に。これを見つけたジェッペットは、これで人形を作ることを思い立つ。ところが出来上がってみると、勝手にしゃべり出すしイタズラし放題のとんでもない子供だった。彼にピノッキオと名付けたジェッペットは、学校に行かせようとしたりちゃんとした生活を教えようとするが、当の本人はてんで言うことを聞かない。

え〜、イタリアが誇る世界的童話を、国民的喜劇俳優(と書くとまずいのかな?)のロベルト・ベニーニが『ライフ・イズ・ビューティフル』で稼いだ金をつぎ込んで作った映画。国内では過去最大のヒットだったというし、イタリアきっての英雄なので取りあえず赤字にはなってないのでしょう。だから、作品そのものをど〜だとか言うのは止めましょう。50歳のおじさんが作りたくて作った映画ですから。あくまで原作に忠実に、がコンセプトらしいし。
そもそもが、フェデリコ・フェリーニ監督がロベルトを主役に、ピノッキオを映画化しようと企んだそうで、しかしフェニーニは志半ばで逝去、ならば自分で!と奮起したのだそうだ。フェニーニはロベルトを「ピノッキオ!」と呼んでいたらしい。落ち着きのないイタズラ小僧、というイメージだろか、確かにロベルトはヘンなお笑いおじさんである。
まぁロベルトがピノッキオなのは許すとしよう。青の妖精、なんじゃありゃ〜!『ライフ・イズ・ビューティフル』のヒロインがニコレッタ・ブラスキなのはまだ認めるが、いくら自分の妻だからといって、青の妖精はないだろう。あれじゃ〜ただの湯婆婆ではないか。でも、イタリア国内ではあれもアリなのだろうから、日本人の私がとやかく言うところではないのでしょう。勝手にやってくれればよろしい。
あ〜もう書くことがない。
そういえば、CGに相当金を使ったらしい。伸びる鼻とか。しかし単純に、ロベルトの早口の方がおかしくて感心するし、うさぎのぬいぐるみを終始くわえている執事の方が笑える。つまり、もっと節約できたのかな〜、と思うわけです。
あ〜あと、三角形のパンフレットは、やめてくれ〜!


『ロード・オブ・ザ・リング 二つの塔』(吹替) 観た日:2003/04/03
お薦め度:★★★★★ もう一度観たい度:★★★★★

監督・脚本・製作は『乙女の祈り』(1994)のピーター・ジャクソン、脚本は『ロード・オブ・ザ・リング』(2001)のフィリッパ・ボウエンと『ブレインデッド』(1992)のスティーブン・シンクレア、編集はマイケル・ホートン、撮影は『ベイブ』(1995)のアンドリュー・レスニー、美術はグラント・メイジャー、衣裳はナイラ・ディクソン、衣裳・メイク・SFXはリチャード・テイラー、SFX・VFXはニュージーランドのWETA社。キャストはイライジャ・ウッド、ショーン・アスティン、ヴィゴ・モーテンセン、オーランド・ブルーム、ジョン=リス・デイヴィス、ビリー・ボイド、ドミニク・モナハン、イアン・マッケラン、クリストファー・リー、バーナード・ヒル、リヴ・タイラー、あといっぱい。

中つ国。冥王サウロンの作り出した“指輪”を滅びの山に捨てに行く旅は困難を極めた。闇の勢力オークにさらわれたピピン(ビリー)とメリー(ドミニク)を追ったアラゴルン(ヴィゴ)・レゴラス(オーランド)・ギムリ(ジョン=リス)は途中、生き返ったガンダルフ(イアン)から、ローハンの王セオデン(バーナード)を助ける命を受け、4人は共にローハンに赴き、サルマン(クリストファー)が作り出したウルク=ハイの軍勢に抵抗する。“指輪”の持ち主フロド(イライジャ)は従者サム(ショーン)と、滅びの山のあるモンドールへ向かっているが、以前の持ち主ゴラムが彼らをつけていることを知る。ゴラムは欲にかられているが次第にフロドに心を開き始める。ピピンとメリーは、ファンゴルン森で、歩く木の長老“木の髭”に出会う。サルマンが森を破壊していることを目の当たりにした“木の髭”は怒り、サルマンが支配し泥兵士を作り出しているアイゼンガルドのオルサンクの塔を、仲間と共に攻撃する。

これほど訳のワカランあらすじも珍しいのではないか。文章力の稚拙さにトホホなのはともかく、物語の設定からキャラクターの立ち方から何から何まで、一見ではちんぷんかんぷんという人も多いと思う。
しかしそれこそが、原作『指輪物語』の偉大な高みであり、ファンタジーの最高傑作との誉れ高い所以だ。
これを、三部作にし、描き上げ、3時間ものあいだスクリーンに釘づけるピーター・ジャクソン、あんた凄いよ。この構成力と編集とアイデアは、もはや脱力感すら覚える。
オープニング、太陽を臨む切り立つ雪山からの俯瞰、あのシーンだけでももう凄いのに(どうやってアレ撮ったんだ?)、あまりの出来の良さにこれをスタンダードとされたら今後映画は撮れないんじゃないか?と思わせてしまうほどの、例の戦闘シーンですよ。反ハリウッドとか、そんな陳腐な動機では、この映画はできないです。ただひたすらに、作り手が作りたいモノ面白いと実感できるモノを、という欲求と、重箱の隅をつつきまくるオタクさがないと、ここまでの映像は仕上げられないよ。
参った。万歳。
イライジャ・ウッド。下手なんだけど、まぁ許す。
リヴ・タイラー。顔が長過ぎ!いや〜酷い。なんでこんなヤツを使うんだろうか?両親の七光り見え見え?
ヴィゴ・モーテンセンとオーランド・ブルーム。キャンペーン来日したときにイラクへの進軍を反対してたコメント、かなり格好良かったよ。
パンフレットもまずまずだ。押井守が良い解説を書いている。荒俣宏のほうは目も当てられないが。
まぁ、ビデオが出るまで、なんて言わずに、大スクリーンで観ようよ。ヒアリングOKならともかく、標準的日本人には、個人的には吹替をお薦めします。字幕に視線を持っていかれるコンマ何秒が、惜しいですからね〜。


『ギャング・オブ・ニューヨーク』 観た日:2003/02/13
お薦め度:★★★ もう一度観たい度:★★★★

監督は『タクシー・ドライバー』(1976)のマーティン・スコセッシ、脚本はジェイ・コックスと『シンドラーのリスト』(1993)のスティーブン・ザイリアンと『ユー・キャン・カウント・オン・ミー』(2001)のケネス・ロナガン、撮影は『ブロードキャスト・ニュース』(1987)のミヒャエル・バルハウス、編集は『レイジング・ブル』(1980)のセルマ・スクーンメイカー、衣装は『恋に落ちたシェイスクピア』(1998)のサンディ・パウエル。主演は『ギルバート・ブレイク』(1994)のレオナルド・ディカプリオ、共演は『ベスト・フレンズ・ウェディング』(1997)のキャメロン・ディアス、『存在の耐えられない軽さ』(1988)のダニエル・デイ=ルイス、『ロブ・ロイ/ロマンに生きた男』(1995)のリーアム・ニーソン、『E.T.』(1982)の主人公エリオット役のヘンリー・トーマス。

1846年アメリカ・ニューヨーク。19世紀初頭にアイルランドを襲った大飢饉から逃れるために、新大陸へやってきた移民は、しかし最悪な生活環境と、既にアメリカ大陸に渡ってきていた大陸二世以降の者達“ネイティブ・アメリカンズ”との敵対視と戦わなければならなかった。1846年、アイルランド移民の組織“デッド・ラビッツ”のリーダーであるヴァロン神父(リーアム)は、“ネイティブ・アメリカンズ”のリーダーであるビル・ザ・ブッチャー(ダニエル)と全面抗争に出る。壮絶な果たし合いの末、ヴァロン神父は討たれる。父の死を目の当たりにしたアムステルダム(レオナルド)は少年院にいる16年間、ひたすら父の敵を呪った。町に戻ったアムステルダムは、ビルに取り入ることに成功した。その間に知り合ったスリ師ジェニー(キャメロン)に想いを寄せるが、彼女はビルの情婦だった。アムステルダムとジェニーの親密と復讐心は、ジェニーに対する嫉妬心に取りつかれたアムステルダムの幼なじみジョニー(ヘンリー)の密告により、ジムに知られることになり、アムステルダムは瀕死のリンチに遭う。献身的なジェニーの看病によって復活したアムステルダムは、“デッド・ラビッツ”を再び立ち上げ、“ネイティブ・アメリカンズ”に戦いを挑んだ。しかしまさにその日、南北戦争における徴兵制に対する不満がニューヨーク市内で爆発し、始まった暴動を押さえるために、政府軍隊が彼らの町“ファイブ・ポインツ”に洋上から砲弾を打ち込んだ。

アメリカという国が、いかに未成熟でクソッたれなのか、暴力に訴えることが単純で短絡的には効果がある反面、粗野で非文明的で人類の進化の途中の失敗行為であることを、改めて知らしめた作品。
マーティン・スコセッシは、俳優らに言わせると「とにかく、次回作に何とか採用してもらいたい監督」らしく、その心持ちはわからなくもない。実際、スタッフも金も時間繰りも、その主導はスコセッシにあるように思える。ところが当の本人は、生み出す作品にムラが多い。良いのは間違いなく良い。『タクシードライバー』(1976)は良いし凄い。いくつかの映画も良い。しかし『レイジング・ブル』(1980)は眠くなるほど酷いし(ロバート・デ・ニーロは鼻につくほど巧いんだけどね)、『ハスラー2』(1986)はポール・ニューマンにオスカーを取らせるための商業映画だ。
で、この映画。リアリティとか(雪の広場での素手&鉈&木刀での果たし合いは血だらけで嫌悪すら覚える。悔しいが、この時点でスコセッシの勝ち)セットの出来とかカメラとか照明とかは、間違いなく一級品だ。まぁ150億円もかけられれば、俳優へのギャラ以外にもお金は使えるというモノではあるけれど。
演出にも、相当な個性を発揮していると思われる。それはスコセッシが直接語らなくても、彼の背中にビビる俳優が、結局は“スコセッシ色”になってしまっていることにも象徴される。レオ、キャメロン、ダニエル他、みんな彼の背中に引っ張られている。
とはいえ、この映画は深作欣二の『やくざシリーズ』そのものである。モチーフがあるのは、その作品に対し何ら価値に影響はしないが、しかしスコセッシのコメントに、黒澤・溝口・小林・市川・今村・大島の名前が出たとしても、深作の名前がないのは、この抗争映画に関してはヘンだ。
レオ。下手。チンピラだし。
キャメロン・ディアス。持てる者は、ボロを着て泥化粧をしても、美人を隠せない。トホホなくらい、ピンに映えるよな〜。
ダニエル。デ・ニーロに代表される“メソッド”と呼ばれる演技アプローチに対し、さらに過酷に、キャラクターに対する渇望でもって接することで、消耗も激しいが鮮烈な描き方ができるのだという。まぁ改めて書き立ててあげ奉ることもないと思うが(こういう、パターンのメーミングって、アメリカ人って好きだよね〜)、見苦しいほどのめり込んでいるので許す。
エンディングの風景。あえて書くのを保留するが、過去のモニュメントを現在の戦争のモチベーションにするには、そのモニュメント自体にとっても不幸だ。(実際問題、現実の戦争に対する関連性が明瞭ではないだけになおさら。)


『T.R.Y.』 観た日:2003/02/06
お薦め度:★★★ もう一度観たい度:★★★

監督は『ヒポクラテスたち』(1980)の大森一樹、脚本は『笑う蛙』(2002)の成島出、編集は池田美千子、撮影は加藤雄大,J.S.C.、美術は『楢山節考』(1983)の稲垣尚夫と竹内公一。キャストは織田裕二、渡辺謙、邵兵(中国)、孫暢敏(韓国)、黒木瞳、ピーター・ホー(台湾)。

20世紀初頭の上海、ヨーロッパの列国と日本は中国本土への覇権を画策していた。しかし伊沢修(織田)は、そんな政治的思惑からはなれたところで、人種も階級も関係なく、カモを見つけては騙して貧しい者達と分け合う“詐欺”を生業としている。語学堪能でもある伊沢を見初めた中華黎明会の関(邵)は、暗殺集団赤眉から身を守ることを持ちかけ、伊沢を革命活動に荷担させた。計画を聞いて伊沢が捻り出したアイデアは、日本陸軍から兵器を搾取し革命家に提供するために、東中将(渡辺)を騙すことだった。日本に渡り東と接触しながら、何とか武器を上海に送ることに成功するが、東も一筋縄ではいかない。しかも赤眉から孤立した殺し屋の肖(ピーター)には常に命を狙われる。紆余曲折の末、やっと武器の引き渡しにまでこぎ着けた伊沢は、しかし遂に東に正体を暴かれ、自らの命の引き替えに関らを欺くことを持ちかけられた。

何と申しましょう。総括すると凡作ということになるんだけど。
まずもって頭に来るのが、「これは東アジア競合の大作である」「国際意識が統合されたことに意義がある」「ハリウッドではよくある作成意識がアジアで達成されたのは素晴らしい」という類の“自画自賛”である。鼻持ちならないのである。こんな映画、作ろうと思えば日本国内でもできる。俳優も日本人で良い。外国人にはアテレコで吹替をすればよい(ハリウッドではこれは常識だ)。それを多国籍構成でキャスト・演出したからには、それなりの思惑が如実に現れていなければならない気がするが、その必然性がないのである。
これはひとえに大森監督の貧乏性による。端的なのがエンディングの貨車暴走&暴発のシーン。何であんなところをスロー再生しなきゃなんないの?このカットに金をかけているのはわかるけど、だからといってあんなカットを本編に乗せちゃ、しみったれが浮き出ちゃうじゃん。注入予算に尺の長さが比例するなんていう悪習は、もう打っちゃって欲しいのだよ。
情けなや、これが現在の日本映画の、邦画作家の、到着点なんだな……
まぁもちろん、気鋭上がる多国籍スタッフがまとまっての裏方作業や、俳優が自分のプライドだけでなく国家国籍を背負って取り組んだ(取り組まざるを得ない)演技には、敬服するんだけどね。
織田裕二。ゴジラ顔。今回は大したことないな。もちろん全てが当たりなわけはないので、取りあえず今回は見逃してやるぜ。
黒木瞳。綺麗だよな〜。ずるいよ。
渡辺謙。ちょっとやりすぎ。凄みを出すあまり、表情に明るさがない。相反するような両者だが、彼には演じ分けられる資質があると思うのだが。
まぁ……ヒマなら観に行ってください。


『オールド・ルーキー』 観た日:2003/02/06
お薦め度:★★★★ もう一度観たい度:★★★

監督は『パーフェクト・ワールド』(1993、脚本)のジョン・リー・ハンコック、脚本は『小説家を見つけたら』(2000)のマイク・リッチ、撮影は『ザ・ロック』(1996)のジョン・シュワルツマン,A.S.C.、編集はエリック・L・ビーソン、音楽は『オー・ブラザー!』(2000)のカーター・バーウェル。主演は『ライト・スタッフ』(1983)『オーロラの彼方へ』(2000)のデニス・クエイド!、『ほんとうのジャクリーヌ・デュ・プレ』(1998)のレイチェル・グリフィス、『背信の行方』(1999)のアンガス・T・ジョーンズ!、『ザ・リング』(2002)のブライアン・コックス。

ジム・モリス(デニス)。子供の時からピッチング練習だけは忘れなかった彼は、遂にメジャーリーグのミルウォーキー・ブリュワーズに1巡指名されたが、肩を壊し挫折、今はテキサス州ビッグ・レイクで高校の化学教師と野球部監督をしている。もともとアメフトが強いこの高校は、野球部はじり貧だ。息子のハンター(アンガス)だってちょっとガッカリ。そんな彼らにジムは「誇りを持ち精一杯やった達成感を持って卒業しろ」と説く。ところが生徒達は「なら監督もプロに再挑戦してくれ」と交換条件を出してきた。渋々受け入れるジムだが、何とチームは地区優勝。引っ込みがつかなくなってしまったジムは、カンパベイ・デビルレイズのトライアウト(入団テスト)に義理で参加する。ところがそこで、彼は何と97マイル(156km/h)の剛速球を投げた!すぐさまスカウト団が動き始める中で、しかしジムには妻ローリー(レイチェル)と3人の子供達の事が気が気でない。夢を追うと収入が乏しくなるのは明らかだ。しかしローリーは気丈に言う。「8歳の息子が自分の父親が夢を叶える日を待ちわびているというのに、あなたは息子に何て言うの?」そして遂に、ジムは35歳のルーキーとして、地元テキサスのザ・ボールパーク・イン・アーリントンのマウンドに立った。

実話である。ウヒャ〜もうそれだけで信じられない!
久しぶりに泣くために観に行った映画。そりゃ〜泣くよな〜。設定がホームドラマ&努力根性勝利だもんな。でも許す。
野球というスポーツにおいてなぜピッチャーが特別な存在なのかというと、ゲーム時間の半分を彼の活躍が占めているからである。ピッチャーが球を投げないとプレーがスタートとしない。しかもピッチャーの投げる球で試合を終えることもできる(打たれて終わることもある)。つまり紛れもなくピッチャーこそが野球というスポーツの最も重要な因子なのだ。もちろん、打者は華やかだ。華麗な守備は素晴らしい。しかし本当に力のあるピッチャーがいたとしたら、彼は27人を切り捌くことでゲームを完結することができる。良くも悪くもまさに主役。野球は点を取るスポーツだが、どんなに優れた打者も、優れたピッチャーには叶わない。
だから、ジム・モリスが憧れるのである。
ジョン・リー・ハンコック監督は、最後までリズムを変えない。ゆったりとした間を意識的に継続している。これが大変良い効果をもたらしている。
デニス・クエイド。物凄く良いのだが、ちょっとオッサン過ぎるかな。あんな山なりのボールが97マイル(156km)とは思えないもんな。『メジャーリーグ』(1989)でチャーリー・シーンは85マイル(136km)投げたらしいけど、あ〜いうホントの直球ならまだ説得力あるけどね。でも文句はこの部分だけ。渋くて良い俳優です。
アンガス・T・ジョーンズ。久しぶりに凄い子役を見た。不細工だけど可愛い。
親方ディズニーの作品だから、クオリティも安心性もお墨付き。風紀を乱す部分はどこにもない。そういう意味では物足りない、なんて思う私はへそ曲がり。


『マイノリティ・リポート』 観た日:2003/01/16
お薦め度:★★★★ もう一度観たい度:★★★★

監督は説明不要のスティーブン・スピルバーグ、脚本は『アウト・オブ・サイト』(1998)のスコット・フランクと、ジョン・コーエン、編集は『シンドラーのリスト』(1993)のマイケル・カーン、撮影は『プライベート・ライアン』(1998)のヤヌス・カミンスキー、衣装デザイナーは『バック・トゥ・ザ・フューチャー』(1985)『タイタニック』(1997)のデボラ・L・スコット、視覚効果スーパーバイザーは『コクーン』(1985)『スター・ウォーズ エピソード1 ファントム・メナス』(1999)のスコット・ファラール、音楽はスピルバーグ組としては当然の事ながらジョン・ウィリアムズ。主演は『卒業白書』(1983)のトム・クルーズ、『エクソシスト』(1973)のマックス・フォン・シドー、『ギター弾きの恋』(1999)のサマンサ・モートン、『タイガーランド』(2001)のコリン・ファレル、『ザ・コンテンダー』(2000)のキャサリン・モリス、ロイス・スミス。

2054年ワシントン。犯罪予防局は3人の予知能力者“プリコグ”によってなされる殺人犯罪予知によってそれを未然に防ぐことにより、6年間にわたり殺人事件を未然に防いできた。このチーフを務めるアンダートン(トム)は、過去に息子を誘拐されたことで家庭を崩壊させており、犯罪の事前把握に尽力を注いでいた。ワシントンD.C.のこのシステムを全国区にしたい考えの司法省は調査員としてウィットナー(コリン)を局に派遣している。ある日アンダートンは、“プリコグ”が、アンダートン当人が殺人を犯す予知をした。アンダートン自身はまったくいわれのない事だった。殺害される人物との面識はなく、もちろん動機のない。しかし犯罪予防局は、事前に殺人を防ぐべく、マニュアルに則りアンダートンを捉えるため、任務を遂行し始める。アンダートンは、人物認定に採用されている網膜捕捉システムをかいくぐるため違法手術まで行い、自らの潔白のために逃走を続けた。一方で、システム構築者の上司であるバージェス局長(マックス)及びアイリス博士(ロイス)に助けを求めた。そのうちアイリス博士は「“プリコグ”の予知は完璧ではなく、その少数意見(“マイノリティ・リポート”)は破棄される」「それはシステムの完璧性を追求した結果だ」と言うのであった。ならば自分に対する予知は冤罪ではないのか?アンダートンは藁にもすがる心持ちで“プリコグ”きっての能力者アガサ(サマンサ)を誘拐し、自らの潔白を確認するためにその“時刻”へ対峙する。ところが、“事実”の起こった現場の状況は、アンダートンを敵視するウィットナーをしても納得できるものではなかった。何かがおかしかった。ウィットナーはバージェス局長の自宅へ向かった。そのころアンダートンは、とうとう犯罪予防局によって捉えられてしまった。そんな窮地を救ったのは、誰でもないアンダートンの元妻のララ(キャサリン)だった。彼女は遂に今回の経緯をバージェス局長から導き出した。

この映画を「わかりにくい」「何度か見なければ理解できない」とのたまう輩やメディア(や、スピルバーグ本人!)があるようだが、そんな連中はどっかに消えちゃってください。スピルバーグは単に面白い原作を見つめてそれを映画化したくなっちゃっただけなんだから。
確かにCGは凄いし、カメラワークは計算し尽くされ&洗練されている(あくまでもハリウッド式に、だけど)。でも、今から50年後の未来が、映画に出てくるようなものズバリだったとしたら、お笑いです。コンピューター用記憶ディスクがなんであんなにでかいの?画面操作がなんであんなにカンフー臭いの?犯罪を示唆する方法がなんであんなにおみくじチックなの?犯罪者を捕まえる警棒がどうしてゲロ吐き仕様なのさ?スピルバーグは、ただ遊びたいだけなんだって。それを世界中のマスコミが深読みしているだけなんだって!
ストーリーも平凡。新しいトライもトリックも見つからない。
しかし、面白いんだよな〜。スピルバーグマジックなんだよ。
あ、最初はヒールっぽく登場したウィットナーの描き方は、凄い。こういうシナリオには、素直に唸らされます。
トム・クルーズ。口開けポッカン男。スピルバーグとのコラボレーションが話題になっているけど、結果的には、主役はトム君じゃなくても良かったね(というか、誰でも良かったのでは?)。
コリン・ファレル。最初、ブレンダン・フレイザーかと思っちゃった。ゴメン。でもブレンダンだったら、知的なイメージは出せないもんな。
マックス・フォン・シドー。最初から胡散臭い。もっと明るくないと、この映画には似合わない感じがする。
サマンサ・モートン。良いです。ちょっと注目。今度はもっとまともな役が見たいな。
ところで。なんでアメリカ映画に出てくる日本人の名前は、カトーかヤカモトなんだ?特にヤカモト。何なんだヤカモトって?


『ハリー・ポッターと秘密の部屋』(吹替) 観た日:2002/12/26
お薦め度:★★★☆ もう一度観たい度:★★★☆

監督は前作に続き『ミセス・ダウト』(1993)のクリス・コロンバス、脚本はスティーブ・クローブス、編集はピーター・ホネス、撮影はロジャー・プラット、美術はスチュアート・クレイグ、衣装はリンディー・ヘミング、音楽はジョン・ウィリアムズ!キャストは、ダニエル・ラドクリフ、ルパート・グリント、エマ・ワトソン、ロビー・コルトレーン、リチャード・ハリス、アラン・リックマン、マギー・スミス、トム・フェルトン、ケネス・ブラナー。

12歳になるハリー(ダニエル)は、相変わらずダーズリー家で虐げられていた。ホグワーツ魔法魔術学校での荷物も何もかも取り上げられてしまっていた。フクロウのヘドウィグさえも檻から出させてくれない。しかしそれよりもハリーを悲しくさせているのは、親友ロン(ルパート)・ハーマイオニー(エマ)からの手紙が全然来ないことだった。落ち込んでいるそんなある日、ハリーのベッドの上に、見たこともない妖精が立っている。屋敷しもべ妖精のドビーだった。「ポッター様はホグワーツへ戻ってはいけません」と言う。友人達からの手紙を隠していたのもドビーの仕業だった。ドビーとの大立ち回りのせいで部屋に監禁されてしまったハリーは、ロン達の空飛ぶ車のおかげで脱出に成功、そのままロンの家で残りの夏休みを過ごし、いよいよ2年生としてホグワーツに戻ることになった。授業は厳しくも楽しく、箒を操る球技クィディッチに没頭するしていたハリーはある日、廊下に謎めいた言葉を見つける。「秘密の部屋は開かれた」とある。そして、次々と生徒が襲われ始めた。これは宿敵ヴォルデモート卿に関係することなのか?そんな時、ハリーは白紙の日記を拾う。それは『T・M・リドル』なる、かつてホグワーツに学んだ生徒の持ち物だった。

ご存じ、お化けお正月映画。
原作の売れ具合からして、みんながこぞって観るのは確かに間違いなく、思惑通りみんなが観ている。興行的には大成功だ。多くのグッズも登場し続け、かえるチョコは私もつい買っちゃったよ(カード入りとはいえ150円は高いよな〜)。
もともとが活劇童話の実写版なのだから、内容を何だかんだと言うのはそれこそ何なのです。面白いです。だからそれだけで、この映画は結実してます。
しかし、長い!この映画についていろんな非商業的コメントを、それなりに見聞きしていますが、みんな言ってますね、長いって。2時間41分か。劇場では、冒頭にダラダラとコマーシャルが入るために(人気作なのでCM量も半端じゃない)、3時間はかかる。3時間座ってるとさすがに、ケツが笑うよ。よく周りの子供達は頑張って観ているもんだ。つまり、長かろうが何だろうが面白ければ子供はへっちゃらなのであった。
この辺に関しては、ワーナー社も頭が痛いだろう。“良作2時間以内の法則”は、ヘッド陣も心底心得ているはず。「撮っちゃったのでフィルム切れませ〜ん」なんていう監督の屁理屈は、興行のし易さに比べれば蚊の鳴くようなもんだ。短ければ1日の回転数だって稼げるもんね。
本件については、ただただ原作者J.K.ローリングとの“魔法契約”が効いているからに他ならない。「原作と本編を変えたりしちゃダメよ」である。確かに本映画は、原作とは異なる部分がある。しかし原作を見事にトレースしている。しかし理由は、これだけではないと思う。
ワーナー側は“契約”以上に、この原作を手放したくないのだ。こんな金の卵に途中でそっぽを向かれたら、と考えることほど恐ろしいことはないなずだ。だから、興行の定理よりも“契約”を優先したのだ。
まぁ、実際面白いし、世界中どこでも客は入るし、記録媒体がVHSからDVDに移行しつつある今、このくらいの長さなんて焼き込むのは簡単至極だから年末になったらクリスマスプレゼント作戦でまた一儲けできるのである。まさに、ハリポタ現象だ。
パンフレットが酷い。スタッフのことが全然書かれていない。ただの写真集だ。まぁこのほうが子供も喜ぶだろうけど。
ところで、真ん中過ぎのでっかい石像にしがみついているハリーの写真の、背後の黒い線って、あれワイヤー?ファイト一発!
あ、最後の最後にまで映像があるので、エンドロールに我慢できなくて席を立っちゃうなんてことのないように。


『オースティン・パワーズ ゴールドメンバー』 観た日:2002/09/06
お薦め度:★★★★★ もう一度観たい度:★★★★★

監督は『ミート・ザ・ペアレンツ』(2000)のジェイ・ローチ、脚本はマイケル・マクラースとマイク・マイヤーズ、編集はジョン・ポールとグレッグ・ヘイデン、美術はラスティ・スミス、衣装はディーナ・アッペル、音楽はジョージ・S・クリントンとクインシー・ジョーンズ。キャストはマイク・マイヤーズ、ビヨンセ・ノウルズ、マイケル・ケイン、ヴァーン・トロイヤー、ロバート・ワグナー、セス・グリーン、ミンディ・スターリング。

2002年、ハリウッドでは、1967年からやってきたオースティン(マイク)を称える映画の撮影が進行中。監督はもちろんスティーブン・スピルバーグ、主演はもちろんトム・クルーズ、ヒロインはもちろんグウィネス・パルトロウ、敵役はもちろんケビン・スペイシーとダニー・デビートとジョン・トラボルタ、音楽はもちろんクインシー・ジョーンズ。なかなかの進行具合に思わず踊り出すオースティンは、もちろんブリトニー・スピアーズのおっぱいミサイル攻撃にも怯まない。一方、Dr.イーブル(マイク2役目)は宇宙から生還、やはりハリウッドでエージェント業を成功させているNo.2(ロバート)らと共に、性懲りもなく世界征服を企てる。まずはオースティンが愛してやまない父であり英国一のスパイであるナイジェル(マイケル)を、成金悪者ゴールドメンバー(マイク3役目)に誘拐させた。オースティンはタイムマシンで1975年に戻り、ゴールドメンバーの経営するディスコ「スタジオ69」に潜入、歌手として既に調査をしていたかつてのパートナー、フォクシー(ビヨンセ)と共に、ナイジェル救出を試みるが、ゴールドメンバーはDr.イーブルのいる2002年に逃げる。もちろん追うオースティンとフォクシー。遂にゴールゴメンバーが日本にいることを突き止めたオースティンらは、東京らしいところに向かった。Dr.イーブルの1/8コピー、ミニ・ミー(ヴァーン)と息子のスコット(セス)の争いは過激さを増すし、ファット・バスタード(マイク4役目)はスモウ部屋で相変わらず小汚いし、挙げ句の果てにナイジェルはとどめの爆弾告白!

え〜、年末年始にかけて前作『オースティン・パワーズ デラックス』(1999)を地上波で観た方も多いと思う。あんなお下劣なセリフをどう吹き替えるのかとワクワクして観ていたが、いや〜セリフの善し悪しはともかく、マイク・マイヤーズの演技・演出がたまりませんです〜!Dr.イーブルとミニ・ミーのコンビも最高。で、本作ですが、何といいますか、もうこれ以上のおバカお下品はできるのか?というくらいの見事な仕上がり。
とにもかくにも、マイク・マイヤーズはこの映画で、ただ下ネタがやりたかっただけなんだな。しかし、それだけで留まらないところが、マイクがただ者じゃない証拠。
この映画に盛り込まれたパロディのエキスと、演出のキレと、演技の間に、誰もが惚れ込むからこその、メインキャスト・スタッフの成立とカメオ出演者のノリノリ演技なのだ。
ヴァーン・トロイヤー。最高です。前作、本作と、彼がいなけりゃ成り立たない。
ビヨンセ。歌はともかく、マイク達が掛け合っているその横で見せる仕草や表情が、良いです。巧いというよりは天然?
マイケル・ケイン。伸び伸びと楽しんでます。自分のパロディを自分で演じられる幸せを噛みしめてます。こんな年寄りになりたいですね。
ん〜、こんなお下品なモノは子供には観せられないし、こんな面白いモノは子供には勿体ない。「早く大人になりなさい、そうすればこんな“大人の世界”があるんだよ」というところかな。
とにかく、1分あたり1.8億円のこの映画、観る価値あり。でも下ネタだけど。


『ピンポン』 観た日:2002/08/22
お薦め度:★★★★★ もう一度観たい度:★★★★★

監督はVFX畑の曽利文彦、脚本は『GO』(2001)『笑う犬の発見』(TV)の宮藤官九郎、撮影は『サトラレ』(2001)の佐光朗、美術は『トカレフ』(1994)の金勝浩一、CG担当は『チャーリーズ・エンジェル』(2001)の松野忠雄、編集は『ケイゾク/映画』(2000)の上野聡一、音楽は『富江』(1999)の二見裕志。キャストは『GO』の窪塚洋介、『ワンダフルライフ』(1998)のARATA、歌舞伎の中村獅童、『北の蛍』(1984)の夏木マリ、『無問題2』(2002)のサム・リー(李燦森)、『溺れる魚』(2001)の大倉孝二、『Shall we ダンス?』(1997)の竹中直人。

星野=ペコ(窪塚)と月本=スマイル(ARATA)は、共に片瀬高校卓球部に所属している。天真で勝ち気で天才肌のペコは「この星の1等賞になりたいの」が口癖で、卓球部で練習するよりもガキの頃から通っている卓球場で賭試合をする方が性に合っている。幼なじみのスマイルは「卓球なんて死ぬまでの暇つぶし」と言いながらも、カットマンとしての素質は高く、卓球部の小泉監督=バタフライジョー(竹中)はスマイルの才能を買っていたが白けた性格に業を煮やしてもいる。インターハイ神奈川予選は、日本一の風間=ドラゴン(中村)率いるスキンヘッド集団の海王学園高校が下馬評通り圧倒的な強さを見せており、さらに上海から再起を賭けて留学してきた辻堂学院高校の孔=チャイナ(サム)も侮れない。ペコは、これも幼なじみで海王学園の佐久間=アクマ(大倉)にまさかの完敗。スマイルもチャイナ相手に甘さが出て逆転負け。慢心をペシャンコにされたペコはガックリ落ち込んだが、卓球場の女主人オババ(夏木)の元で再起を計る。スマイルは小泉との約束で彼の練習メニューを黙々とこなした。そして1年が過ぎた。

天才漫画家松本大洋の代表作。
最近、心地よいスポ根モノが邦画に続いて現れている。何といっても『ウォーターボーイズ』(2001)である。そしてこの『ピンポン』もホンモノの体育会映画である。
上っ面をなぞらえたあらすじであれば、「挫折を見た主人公が根性で鍛え直し最強の敵に再び立ち向かう!」となる。まぁその通りなのだが、ところがどうして、登場人物の立ち回りやセリフ演出や絡ませ方が、ただ事ではないのである。
脚本の出来もある。しかしとにかく、原作が出色なのである。原作にスタッフ・キャスト全員が思い入れているからこその、ここまでの仕上がりなのであ〜る!
曽利文彦監督は『タイタニック』(1997)でVFXを担当したという。その性質が映画の随所に現れている。オープニングからして、ペコが橋から飛び降りる場面、どうやって絵にしたのかワカラン。
さらに、実際に卓球をする場面。球はCGなのだが、カットもスマッシュも軌道が綺麗に再現されているし、シーン毎のこだわりがこの映画特有の個性となって立ち上がっている。『スター・ウォーズ エピソード2』(2002)に使用されたデジタル撮影機材「HD24P」を導入しているのも、表現の自由のために本気の姿勢を見せたからだ。
音楽も良い。ジャーマンテクノっぽい。
窪塚洋介。ココリコ田中チックな顔だ。でもこいつ、巧いのか?
ARATA。こっちは巧い。気に入った。
夏木マリ。物凄く良いです。湯婆婆、恐るべし。
このインプレッションはかなり時期遅れだけど、本作はとにかくお薦め。観るべし!ついでに原作も読むべし!


『猫の恩返し』 観た日:2002/07/25
お薦め度:★★★ もう一度観たい度:★★★

監督は『とべ!くじらのピーク』(1995、原画)の森田宏幸、美術は『海がきこえる』(1993)の田中直哉、音楽は『耳をすませば』(1995)の野見祐二、主題歌はつじあやの。アテレコは『大阪物語』(1999)の池脇千鶴(ハル)、『二十歳の微熱』(1992)の袴田吉彦(バロン)、『HANA-BI』(1997)の渡辺哲(ムタ)、『エロティックな関係』(1992)の斉藤洋介(トト)、丹波哲郎(猫王)、『バトル・ロワイアル』(2000)の前田亜季(ユキ)、『ちゅらさん』(TV、2001)の山田孝之(ルーン)、『バウンスkoGALS』(1997)の佐藤仁美(ひろみ)。 ハルは17歳の高校生。ラクロス部に所属し現在片想い中。ちょっとうまくいかなかったある朝、道を渡る猫を車から助けた。すると何とその猫は、後ろ足で立ち礼を言うではないか。いかれてしまったのかとビックリするハルだが、しかしその夜、猫の大行列がハルの家にやってきて、猫王がハルに、朝助けたのは王子だったと言い、ハルに恩返しをすると言うのだ。翌日から、ヘンテコなこと(殆どはありがた迷惑)が起こる。そして遂に、ハルは猫の国に招待されてしまった。片想いの彼が後輩の娘と仲良くしているのを目撃したハルは「猫の国も良いかもね〜」と呑気に考え始めたが、どこからか「行っちゃダメ、猫の事務所を探して」という声が聞こえる。声に従いデブ猫ムタを見つけたハルは、ムタの後を追って遂に探偵バロンに出会う。彼に相談を持ちかけるハルはしかし、猫王の家来にさらわれ猫の国に連れ去られてしまった。

ご存じスタジオジブリの最新作で、古典怪談『耳なし芳一』のパクリ。
『耳をすませば』に出てきた陶器の猫バロンで一本作ってみるか、という軽薄な動機から成り立った映画。この映画の主人公である雫が書いた(はず)の小説が現実になった、という設定らしい。
ん〜、何か地に足が着いてないな〜全体的に。浮ついているというか、氷の上を小走りしているような感じ。そつのない作画だし押さえるところは押さえているけど、テクニックとしてのオリジナリティは希薄だ。どれもジブリ作品のどこかで見ている。
もちろん、作画テクニックは世界一なんだし、ツボは心得ているので大きな不満はないのだが、う〜む、どうも好きになれないのである。日本映画史上に燦然と輝く『千と千尋の神隠し』(2001)の後釜だから霞んでいる、とかいうようなことでもないと思う。
例えば、バロンがハルに向かって早々に言ってしまう「自分の時間を生きろ」というセリフ。この映画の背骨なわけだが、これを暗に知らしめるのと口に出してしまうのとでは、観るモノとしては安直すぎてトホホなわけだ。
主題歌は、いい。ウクレレ最高。既存のフラのメロディラインから逸脱しているのにリズムベースがフラのアレンジなのが成功している。つじあやの、注目だ。
たぶん、ビデオ&DVDはそれなりに売れるだろう。親方ジブリだし。でもそれは真の実力ではない。ジブリ作品に、我々は常に新しい驚きを期待する。その意味では失敗作だ。ジブリ次作はお婆ちゃんとお兄ちゃんの恋物語だそうだ。汚名返上できるか?


『スター・ウォーズ エピソードII』 観た日:2002/07/18
お薦め度:★★★ もう一度観たい度:★★☆

監督・脚本・製作総指揮は『アメリカン・グラフィティ』(1973)のジョージ・ルーカス、脚本は『ナイル殺人事件』(1978)のジョナサン・ヘイルズ、衣装はトリシャ・ビガー、撮影監督は『バーティカル・リミット』(2000)のディビッド・タッターソル,B.S.C.、特撮はI.L.M.、音楽はジョン・ウィリアムズ。キャストはユアン・マクレガー、ナタリー・ポートマン、ヘイデン・クリステンセン、クリストファー・リー、フランク・オズ(ヨーダ)、サミュエル・L・ジャクソン、イアン・マクダーミド、ペルミア・アウグスト、アンソニー・ダニエルス(C-3PO)、ケニー・ベイカー(R2-D2)、『ワンス・ウォリアーズ』(1994)のテムエラ・モリソン。

共和国の連盟から離脱する星が絶えず、銀河元老院は困惑していた。ジェダイもその人数が足りず、共和国軍の設立が叫ばれている。元ナブー国王女のパドメ(ナタリー)は元老院議員として惑星コルサントに向かった。暗殺を企てられたアミダラに、オビ=ワン(ユアン)とパダワン(見習い)のアナキン(ヘイデン)は護衛につくことになる。幼少の頃からの憧れだったアミダラに、アナキンはジェダイが決して持ってはいけない感情、恋を抱く。オビ=ワンは星図に載っていない星カミーノの存在を知り、ヨーダの命により探索に向かう。するとここでは、極悪犯罪人だが身体能力に優れたジャンゴ(テムエラ)の遺伝子を使ったクローンを大量に生産していた。しかもこれはジェダイからの注文だというのだ。一方、惑星ナブーへ戻るパドメと、護衛するため同行したアナキンは、互いに禁じられていると知りながら、恋心を募らせていた。しかしアナキンは母の生命の危機を感じ、パドメ護衛の任務を無視し惑星タトゥーインへ向かう。そこにはタスケン・レイダー一族に連れ去られ息を引き取る間際の母がいた。怒りに身を任せ、アナキンはレイダー達を皆殺しにしてしまった。ジャンゴを追って惑星ジオノーシスに着いたオビ=ワンは、元ジェダイのドゥークー卿(クリストファー)が陰謀の画策者であることを知った。アナキンとパドメ、ジェダイ騎士達、そしてカミーノで作られていたクローンを利用した共和国軍は、ドゥークー卿と通商連合を倒すため、ジオノーシスへ向かった。

ジョージ・ルーカスが黒澤明の『隠し砦の三悪人』をモチーフ(誰かが「クロサワが、断りもしないで勝手に俺の映画を使った」って言ってたぞ、とふざけたら、ルーカスは本気でビビッたんだって。でも黒澤も『乱』(1980)に出資してもらってたから、お互い様)にして、自分の思うところの、活劇としての全ての面白い要素を全部突っ込んで作ったのが、1978年の『スター・ウォーズ』だった。大コケするだろうと思っていたら大当たり(これって、みんな思うようだ。ジェームズ・キャメロンも『タイタニック』(1998)はダメダメになるだろうと思っていたらしい。実際ダメ映画だけど……)。それじゃ〜と残り2つを撮って、さらに1993年には「9部作構想」(最近になって「6部作」にトーンダウン)をブチ上げる。
そしてできた『エピソードI』(1999)。過去の3作に陶酔し、いつかはルーカスと仕事がしたい、という世界中の精鋭なるオタクが集ったこの映画は、ルーカスが「惑星ナブーは水の星、ね」とポツリ呟くだけで、ものの見事に美しいあの星を作り出しちゃったし、「こんなキャラ、CGでできる?」と言えば、『ロジャー・ラビット』(1989)があれだけ苦労して実写とアニメを合わせたことなど今は昔、あっという間にジャージャー・ビンクスを飛び回らせてしまう。
つまり、スタッフ全員がルーカス教、スター・ウォーズ教なのだ。技術的に、彼らに表現できない“仮想世界”はないのだ。
そして、さらにルーカスは要求をエスカレート、自分のイメージする世界観を描き出すために、青や緑の壁紙の前でいろんな服やメイクをまとった役者に演技をさせて、残り(というか、ホントはこっちの方が重要)をCGで表現する。
役者は、何だかわからずに棒を振り回したり(あとでライトセーバーに早変わり!)、叫び声を上げたり。演技に魂が入るわけが、ない。サミュエル・L・ジャクソンのつまらなそうな顔!
ということで、この映画、本末転倒なのである。
確かにいろいろと凄い映画だ。でも私にとっては右から左、心に引っかかってこない。ちょっと悲しい……
得意のCGも、パドメ暗殺のための虫が2匹、チョロチョロとベッドに上がっていくところ。な〜んでシーツが虫の重さで沈まないの?(って、私もやっぱりオタクだ〜。)
ヘイデン・クリステンセン。酷すぎる。ルーカスは演出力はもともとないんだけど、それにしても、見事な大根。
ナタリー・ポートマン。立派な腹筋。あれなら、お腹を見せびらかしたいでしょう。
え〜、とうわけで、観たい人はどうぞご自由に。


『メン・イン・ブラック2』 観た日:2002/07/10
お薦め度:★★★ もう一度観たい度:★★★

監督は『アダムス・ファミリー』(1991)のバリー・ソネンフェルド、製作総指揮はスティーブン・スピルバーグ、脚本・原案は『ギャラクシー・クエスト』(1999)のロバート・ゴードン、脚本はバリー・ファナロ、美術は『ワイルド・ワイルド・ウエスト』(1999)のボー・ウェルチ、音楽は『ナイトメア・ビフォア・クリスマス』(1993)のダニー・エルフマン、SFX・VFXはILM、特殊メイクは『スター・ウォーズ』(1977)のリック・ベイカー。キャストは『ある愛の詩』(1970)のトミー・リー・ジョーンズ、『エネミー・オブ・アメリカ』(1998)のウィル・スミス、『いまを生きる』(1989)のララ・フリン・ボイル、『ラスト・ゲーム』(1998)のロザリオ・ドーソン、『クロス クリーク』(1983)のリップ・トーン、犬のフランク・ザ・パグ。

異星人が地球に移り住むようになってからというもの、それを隠しトラブルを未然に防ぐ組織「メン・イン・ブラック」は大忙し。なかでもエージェントJ(ウィル)は大忙しだ。しかし相棒に恵まれない。そう、かつての師匠であるエージェントK(トミー)のような。仕方なく今は犬のフランクと組んでいる。ある日“ゼルダの光”なるものを求めて最悪エイリアンのサーリーナが地球にやってきた。ヤツは雑誌の下着モデル(ララ)に化け、暴れ始めた。鍵を握るのはピザ屋で働くローラ(ロザリオ)らしい。そして秘密を知るのは唯一、25年前にこの事件に立ち会った最強のエージェント、Kである。しかし彼は“ニューラライザー”によって記憶を消去され、今は田舎の郵便局に務めていた。ゼルダの女王とKとの関係は?ローラとJは??そして地球の運命は???

エイリアンとのトラブルを、目撃者の記憶を片っ端から消しつつ、淡々とクールにドライにそっけなく解決していく「メン・イン・ブラック」の活躍を描くシリーズモノ。ポップコーン片手に88分を何にも考えずに過ごそう。以上!
・・・と、これで終わりにしても良いのだが、ちょっと短いのでもう少し。
前作から5年、予算も特撮技術もギャラも高騰しているが、やってることは何にも変わらない。だから安心して観られる。
以前にはなかった衝撃の秘密がラストに出てくる。
ローラを見つめるKの表情に全てがこもっている。
って、もうこれ以上書くことがな〜い!
あ、もう1つ。『〜3』が出たとしたら、今度こそ劇場には行かないゾ!


『マジェスティック』 観た日:2002/07/04
お薦め度:★★★★ もう一度観たい度:★★★★

監督・製作は『ショーシャンクの空に』(1994)『グリーンマイル』(1999)のフランク・ダラボン、脚本・製作はマイケル・ストーン、撮影は『バーティカル・リミット』(1999)のデイビッド・タターソール,B.S.C.、編集はジム・ペイジ、美術はグレゴリー・メルトン、音楽は『遠い空の向こうに』(2000)のマーク・アイシャム。主演は『トゥルーマン・ショー』(1998)のジム・キャリー!、TV『X-ファイル』(1993〜)のローリー・ホールデン、『北北西に進路を取れ』(1959)『エド・ウッド』(1994)のマーティン・ランドー。

1951年。彼(ジム)は浜辺に打ち上げられていた。額の左側に打撲による裂傷があった。何かに顔を舐められた。愛犬と散歩していた男が彼を町のレストランに連れていき、朝食を奢った。常連の町医者が来たので、彼を紹介した。居合わせた誰もが、彼を知っているような気がした。彼のことに気が付いたのは他ならぬハリー(マーティン)だった。間違うものか、彼は息子のルークではないか!第二次大戦で行方不明になったルークが帰ってきた。このニュースは、終戦後すぐに妻を亡くし、その後何もかも失ってしまったハリーの心を明るくしただけでなく、この町ローソンの、出兵し帰らなかった62人もの若者の事で火の消えたようになっていた人々を元気づけた。しかしハリーは、浜辺で発見される前の記憶の一切を失っていたのだ。婚約者のアデル(ローリー)も始めは半信半疑だったが、緊張するとしゃっくりが出る癖を治す唯一の方法であるキスがこの男にも通用したものだから、彼をルークと確信した。ハリーが失っていたものはもう一つあった。映画館“マジェスティック”だ。町のシンボルだったこの映画館はすっかり寂れていた。ハリーはルークと共に、この映画館を復活させようと奮迅した。一方、彼はみんなが自分をルークと呼ぶことに違和を覚えたが、なにしろ初めての様な気のするピアノもガンガン弾けるし、アデルもいる。だんだんと、自分はルークなんだ、この町で伸び伸びと映画館を運営していこう、と思うようになる。ある日『サハラの海賊』という映画を上映することになった“マジェスティック”で、ルークはこの映画から決定的な記憶を思い出す。彼はこの映画の脚本を書いた。そう、彼の本名はピーター・アプルトンだ。そして何故か「赤狩り」の対象にされハリウッドから逃れようとして車で奔走していたのだった。奇しくもその夜、ハリーが心臓麻痺で死んだ。息子に看取られての満足な死だった。そして葬儀の日、FBIが来た。

「天才」「完璧主義者」「映画の隅々を知る男」と誉れ高きフランク・ダラボンの最新作にして、演技派二枚目お笑い俳優ジム・キャリーの才能爆発の映画。
カメラが素晴らしい。すべてのカットが寸分の狂いもない絵になっている。ビックリ、お手上げ。
キャストも素晴らしい。文句のつけようがない演出も、ダラボンの腕の見せ所かと思うが、何より脚本に隙がないのである。こんな仕事ができたら、と羨ましいやら呆れるやら。
で、ここまで褒めていて何で★が4つなのか、である。どうしても許し難い事が2つあるのである。
1つは、クライマックスの“赤狩り”(この話は長くなるので、ここでは触れません。皆さん各自でお調べを)の法廷でのセリフ回し。いや、ジム・キャリーに非はないのかもしれない。英語のヒアリング不足なので、映画のせいにはできない。むしろ翻訳が悪いのではと憶測する。石田泰子の訳が、堅すぎるというか難し過ぎるというか、とにかく出来が悪いのである。ここ最近の彼女の仕事のうちでは最悪だ。
もう1つは、ラストシーンだ。正義の心を取り戻したピーターが電報を書くときからなだれ込んでいく一連の流れが速すぎるのだ。これは監督や脚本のせいではないように思う。ひとえに編集の、ハサミの入れ方が悪いように見える。“溜め”がもう一つ足りないのである。だからきっと、私のようなすれっからしでなくても、あそこが想像できてしまうのではないだろうか。でも判っちゃいるけど泣いちゃうんだけどね。
いずれにしても、凄い映画がまた出てきた。上記の2つの欠点はあら探しと取っていただいて結構。観て損など、もちろんない。そして、付和雷同のピーターが確固たる生き様を掴むその全てに、ジム・キャリーの渾身の演技と共にのめり込んでくれ。


『ルーヴルの怪人』 観た日:2002/06/28
お薦め度:★★ もう一度観たい度:★☆

監督はジャン=ポール・サロメ、脚本は『ラ・ブーム』(1980)のダニエル・トンプソンと『愛を弾く女』(1992)のジェローム・ロネール、撮影はジャン=フランソワ・ロバン、VFXはアラン・カルス(VFX工房デュボア)。主演は『ブレイブハート』(1995)のソフィー・マルソー、『TAXi』(1997)のフレデリック・ディフェンタール、『クリクリのいた夏』(1998)のミッシェル・セロー。

リザ(ソフィー)はルーヴル美術館の向かいのボロアパルトメントに老母と2人で暮らしている。拡張工事をしているルーブルの振動を気にしていた。いつものように部屋が停電してしまった日、SOS電気工のマルタン(フレデリック)がやってきた。リザに一目惚れしたマルタンは、その後もちょくちょく訪れるようになる。ある日、工事中に倉庫から3000年前のミイラが発見された。調査するにつれ、このミイラの名前がないこと、不思議な仮面をつけていることがわかってきた。名前がないミイラは成仏できないので、来世に蘇ることができないのだ。遂にアパルトメントの地下室が崩れてしまったことから、リザはマルタンとともにそこに忍び込んでみる。すると、なんとルーヴル館内に入ることができた。そしてこの頃から、停電とともに、ルーヴル館内に黒いマントの怪人が現れるようになる。かつて同じように怪人が現れたことがあり、そのときに調査を担当した元刑事ヴェルラック(ミッシェル)が捜査に復帰、怪人を捕まえることに全力をあげる。一方、リザは数々の変調に怯えていた。

フランスでは知らない者がいないというルーブルの怪人“ベルフェゴール”についての、何度目かの映画。国内では本格的なCG満載の映画として大ヒットしたそうだ。
……う〜む、ハリウッド作品を越えた?と大喜びしているようだが、ただの勘違いである。なにも映画のスタンダードは、アメリカではないのだ。低レベルのCGが作れたといって、それが映画の本質の部分のクオリティを高めるわけではない。なによりも、そのCGが幼稚なのである。まぁ先にCGありき、ではないのでそんなに目くじらを立てるほどではないけど。
ソフィー・マルソー。その名前を聞いただけで胸がキュンとなる世代にとっては、そりゃ〜もう、女神様です。あんなに顔が長かったっけ?とも思うけど。お尻もちょっと弛んじゃってるけど。まぁ、今年が年女。それを考えれば立派なモノです。
ミッシェル・セロー。奇しくも『約束』と同じくして登場作品を観たわけだけど、使い勝手のある俳優ではある。
この映画、きっとルーヴルの歴史的背景とか“ベルフェゴール”のこととかを知っていれば、もっと面白いのかも。しかし私にはサッパリ。史上初めて館内に入ったカメラが片っ端から、侵略と強奪の限りを尽くして蒐集した作品を映してくれるのがせめてもの慰みだ。でも“モナリザ”は、ピンボケじゃ〜ないのが見たかったな〜。


『約束』 観た日:2002/06/27
お薦め度:★★★ もう一度観たい度:★★★

監督・脚本はこれがデビュー作のドニ・バルディオ、共同脚本はアレクサンドル・ジャフレイ、撮影はアラン・ルヴァン、編集はアンヌ・アルグース。主演は『アサシンズ』(1997)のミッシェル・セロー、ジョナサン・ドゥマルジェ、カミーユ・ジャピィ、ジャン=クリスタ・バーグ。

アントワーヌ・ベラン(ミッシェル)は脳内出血でアルツハイマー症を患い、今や身体どころか表情の自由さえも失ってしまった。片やマルタン(ジョナサン)は、小児ガンで入院している10歳の少年、退屈のあまり高齢者入院棟にかっぱらいに通う毎日だ。ある日、退屈にまかせて忍び込んだ病室で、マルタンは動かないベランを見つける。遊び相手になると直感したマルタンは、しかしベランをただの“おもちゃ”と認識したわけではなかった。言葉は発しなくても、ベランはマルタンにとって気持ちを受け止めてくれる最善のクッションだった。ベランも、最初はただただ鬱陶しい忌々しいガキだったが、ウィンクで会話ができるようになった頃から、このガキこそ自分の意志を理解する唯一の人間だと気付く。ある日、マルタンがベランを黙って車椅子に載せ、病院の外に連れ出した。ベランの友人の下で、彼の誕生日を祝おうと画策さたのだ。明日をも知れぬ命のマルタンの好意が心に染みるベラン。旧友の力添えで海辺へ向かう2人は、更なる友情を交わす。

フランス映画らしく、説明セリフのやけに多い饒舌な映画。
とはいっても、主人公がアルツハイマーのじいちゃんなのだから仕方がないか。とにかくかつてのヌーベルバーグを踏襲しつつも新視点で展開し、でもウィットは変わらずにあるという、結構贅沢な映画なのである。
なってったって、しゃべれない。動くのはまぶたと喉(飲み込む)のみ。隣室のババァの勘違いによりベッドからたたき落とされてもなすがままだ。しかも意識がハッキリしているのだから、始末に終えない(でもセリフは笑わせてくれる)。
まぁ、上手に撮れた映画だ。これといったものはないけど、そこそこに楽しめる佳作だ。


『まぶだち』 観た日:2002/06/19
お薦め度:★★★★★ もう一度観たい度:★★★

監督・脚本は古厩智之、プロデューサーは『萌の朱雀』(1997)の仙頭武則、撮影は『火垂』(2000)の猪本雅三、編集は『攻殻機動隊』(1996)の掛須秀一、美術は『いさなの海』(1997、装飾)の須坂文昭、録音は畑幸太郎、音楽は『楽園』(1998)の茂野雅道。キャストは『釣りバカ日誌7』(1994)の沖津和、高橋涼輔、中島裕太、TV『中学生日記』(1990)の清水幹生。

うだるような夏。長野県北部に住むサダトモ(沖津)は、何を言われても身が入らない、よくいる中学生。テツヤ(高橋)や周二(中島)らと連れだって、駄菓子屋で万引きしたりするけど、結局のところ何も変わらない事を知っている。テツヤはサダトモとの付き合いに浸っている自分が気に入らず、敢えて反発したりする。担任の小林(清水)は、クラスの生徒を“不良(人間)−クズ−優等生(人間)”と分け、“生活記録”という日記を毎日書かせ、「貴様らはまだ人間になれていない」と厳しく支配する。ある日、万引きが小林にばれ、サダトモら5人は、親の呼び出しと共に原稿用紙30枚の反省文を書かされることになる。唯一みんなの前で父に殴られなかったサダトモは、しかし自宅に帰った後で父に呼び出され「やっぱりお前を殴ることにした」と言われる。叩きのめされたサダトモは、必死になって反省文を書き上げた。初めてサダトモの本音を見た小林は“クズ”から“優等生”への格上げをするとともに、文化祭の意見文発表会にこの反省文をクラス代表として取り上げると言った。しかしサダトモは、そんな評価こそが気に入らないのだった。一方他の連中はもっと悲惨で、未だに小林に許してもらえない。最低なのが周二。努力は試みるが、何をやっても浮かばれないばかりか、家庭科の授業中にノミを過って手の甲に突き立ててしまう。この事件のおかげでサダトモ・テツヤ・周二の3人は、また元通りに仲良く連れ歩くようになった。そして、橋の欄干の上を歩いているとき、いつものにやけた表情のままで、周二は川へ飛んだ。

日本の原風景をよく捉えた作品。
古厩監督は、優れた脚本家で、適切な演出力を持っている。この2つが、この映画のすべてと言って良い。数分のロングカットも冴える。
陽が昇っている間ずっと鳴き続けているセミと、むせかえる草のえぐい臭い。濃い日陰。霞む青山に残るゲレンデの傷跡。さらと流れる川。一足毎に舞い上がる校庭の土埃。そして、何が何だかわからなくて、わからないっていう事だけはわかっていて、他人に指摘されるのが嫌いで、見つけようともがくのは面倒くさい。そんな、“人間”になり切れていないほんの数年間のある一面を、丁寧に再生している。注意深く思春期を過ごした成果だろう。
特に、小林という教師の作り込みが素晴らしい。
こんなにも鬱陶しいオッサンが担任だったら、多くの中学生が登校拒否になるだろう。しかもこの小林には信念がある。それが一般社会から見ていびつだろうが独断だろうが「自分は“クズ”から“人間”になろうとしているヤツらの尻を叩いているんだ」という心意気があるので、方法論を曲げずに指導し続ける。「こんな教師、まっぴら御免」という寸評が多い。しかし、恐らくこのクラス(に限ったことではなく、最近の中学生以上の学生の殆ど)を第三者が見たら、みんな同じ顔に見えるに違いない。小林はこれを否定したがっている。良くも悪くも個性を発揮させたがっている。画一を悪と思っている。誰か一人でもいいのでここから抜け出してくれないかと願っている。そう思える。でも煩わしい。うざったいのである。ははは。生徒も私も、もう笑うしかない。
テツヤや周二やその他多くのキャストは、現地調達の無名の人達なのだそうだ。しかし地に足が着いた良い演技だ。
欧米映画にありがちな女体への好奇心を一切描かないのも、古厩監督の個性が垣間見えてすがすがしい。
ロッテルダム国際映画祭でグランプリを取ったそうだ。こういう映画が評価されるのは、日本を評価してくれているようで嬉しい。


『I am Sam アイ・アム・サム』 観た日:2002/06/19
お薦め度:★★★★ もう一度観たい度:★★★

監督・脚本・製作は『ストーリー・オブ・ラブ』(1999、脚本・製作)のジェシー・ネルソン女史、共同脚本は『グッドモーニング・ベトナム』(1982、製作)のクリスティン・ジョンソン、撮影は『アウト・オブ・サイト』(1998)のエリオット・デイヴィス、編集は『スター・ウォーズ』(1977)のリチャード・チュウ,A.C.E.、音楽は『エボリューション』(2001)のジョン・パウエル。主演は『デッドマン・ウォーキング』(1995)のショーン・ペン、『Tomcats』(2001)のダコタ・ファニング、『危険な関係』(1988)のミッシェル・ファイファー、『ハンナとその姉妹』(1986)のダイアン・ウィースト、『ワイルド・アット・ハート』(1990)のダーラ・ダーン。

サム・ドーソン(ショーン)は7歳程度の知能しか持っていない、しかしビートルズのことなら何でも記憶している男。行きずりのホームレス女性との間に生まれた娘ルーシー・ダイアモンド(ダコタ)を必死に育てている。友達や隣室のアニー(ダイアン)に助けられ、コーヒーショップで働きながらも、2人は幸せに暮らしていた。しかしルーシーは小学校に入学すると、自分が父の能力を追い越すことを恐れ勉強に身が入らなくなっていった。これを心配しソーシャル・ワーカーがルーシーを施設に入れることを提案、父娘を引き離しにかかった。困惑するサムは新聞から敏腕弁護士リタ(ミッシェル)を見つけ、彼女の事務所に出向いた。リタはやり手のキャリアで負け知らずの女を自負していたが、夫は浮気をしており、自分も深夜の帰宅が続き一人息子との関係もギクシャクしている。そんなリタにとって、サムはあまりに愚鈍に見えた。ライバル達に見栄を張って無料弁護を引き受けたリタは、しかし次第にサムの娘を思う深い深い愛に気付いていく。サムは頭の回転が遅い弱者ではなく、無垢で、誰よりもルーシーを愛しているこの世の中で唯一の父なのだ。リタはいろいろ策を練るが敗訴、ルーシーは里親ランディ(ローラ)らの夫婦と共に暮らすことになった。

いわゆる“知的障害”の父と無茶苦茶可愛い子役と、女性監督の組み合わせなんて、そんな「お涙頂戴見え見え」映画なんて観るもんか〜!と思っていたんだけど、ひょんなことから観る羽目に。しかし、なかなか良いではないですか。
サムを、自立した“知的障害者”として描いている点が、まず良い。仕事をしているし周りの人達も彼を受け入れている。サムも生きることに前向きだ。確かに世間一般で言うところの“大人”の連中よりはトロいかもしれないが、彼の人生においてはそんなことはどうでも良いのだ。ルーシーがいるから。このわが子を思う親の気持ち、これほど見返りを求めないものは、およそこの世に唯一無二である。ルーシーもそれを日々感じているから、子供らしいワガママを言うことはあっても、サムが他のパパと違うことに気付いても、「パパだけが私のパパよ」と笑うのだ。
ところで“知的障害者”という言葉についての私見。パンフレットで詳しく書かれているとおり、これは現在の人間社会を形成する大勢の人達(“健常者”と呼ばれている)から見た、かなり一方的な単語に思う。ちょっと脱線するが、“健常者”と“それ以外”(この中に“知的障害者”が含まれる。他には“身体障害者”や“病人”や“老人”)という区別は、しかしたまたま運良く大きな身体機能の欠落がなかったという連中が作り出した組分けである。“人間”という枠から見てみれば、たいして差なんてないように思う(ましてや“人種”なんて!)。
一方、欧米式のレディーファーストというやつこそ、女性への差別の表れだと思う。国際線のトイレに並ぶ列を次々と飛び越えていく女性を見るとき、確かに並ぶ男性が「どうぞ」と言うから前へ進んでいくんだけど、あれは「女性は“弱い”ので“強い”男性としては守ってあげなければ」という思い上がりの図式が、どうしても浮かんでしまう。そしてこんな時にばっかり「だって私は女だもの」と平気でのたまう女のずる賢さも。・・・脱線し過ぎだ〜。
ショーン・ペン。巧すぎ。役作りのリサーチが成功している。
ダコタ・ファニング。可愛い。そして空恐ろしい演技力。
ミッシェル・ファイファー。目が離れている。
それにしても不思議なカメラワークだ。恐らくは固定で撮っていて、編集時にセリフに合わせて微妙にフレーミングをいじっているんだと思うが、これ以上振ったら下品になるギリギリを上手く理解している。この絵を目的で観に行くのも、いいかも。


『少林サッカー』 観た日:2002/06/11
お薦め度:★★★★★×100! もう一度観たい度:★★★★★

監督・脚本・主演は『食神』(1996)『喜劇王』(1999)のチャウ・シンチー(周星馳)、アクション指導はチン・シウトン、音楽はレイモンド・ウォン、CGはセントロ・デジタル・ピクチャーズ。キャストはン・マンタ(呉孟達)、ヴィッキー・チャオ(趙薇)、パトリック・ツェー(謝賢)。

黄金の右足としてサッカー界のスターだったファン(ン)は、チームメイトのハン(パトリック)の策略で足を折られ、その後20年もハンの付き人としていいようにあしらわれているが、自分のサッカーチームを持ちたくて仕方がない。街を歩いていると、シン(チャウ)という少林拳の使い手に出会う。シンは世間に少林拳を広めることこそが使命と信じている。ファンはシンの恐るべき足技に目を見張り、サッカーを薦める。シンは同門5人を誘い、新しくできたファンのチームは全国大会を痛快に勝ち進み、遂にハン率いるデビルズと雌雄を決することになった。少林拳サッカーとハイテク薬物サッカーのぶつかり合いは、まさに壮絶!

今世紀初の、申し分のないおバカ映画。オープニングロールでもうノックアウトだ。
チャウ・シンチーという男、私は全然知らなかったんだけど、何というか、お笑いに生きる映画人である。下ネタは殆どないが“ズレ方”は直球で下品だ。でもその“半ズレ”は心地よい。見事なのである。
アダム・サンドラーほどフリーキーではない。マイク・マイヤーズほどお下劣ではない。ジム・キャリーとかロビン・ウィリアムスのようなスマートさ(“おかしい”よりも“巧い”になっちゃうアレ)はかけらもない。
その彼が、CGという魔法を、わかりやすく大胆に露骨に大量に使い込んだのが、この映画なのである。ノリは『キャプテン翼』で、ワザは『リングにかけろ』だ。あまりに潔い馬鹿馬鹿しさに感動。
キャストもヘンテコ。演出も変。ストーリーは物凄くわかりやすいから、この辺りのこだわりが余計に引き立つ。
ヴィッキー・チャオ。チャン・ツィイーを凌ぐほどの大人気アイドルらしいが、そんなことを微塵も感じさせないメイク。まともな顔を一度も拝むことなくエンディングまで行っちゃう。最後の最後にビルにあるポスターで「あ、こんな子なんだな〜」というくらい。事務所がよくOKしたもんだ。
理屈抜き!観よう!で、パンフレットを買って、もう一度観よう!


『ビューティフル・マインド』 観た日:2002/05/30
お薦め度:★★★★ もう一度観たい度:★★★

監督・製作は『身代金』(1996)のロン・ハワード、脚本は『評決のとき』(1996)のアキバ・ゴールズマン、『ファーゴ』(1996)のロジャー・ディーキンズ、編集は『アポロ13』(1995)のマイク・ヒル&ダン・ハンリー、衣装は『グリンチ』(2000)のリタ・ライアック、音楽は『タイタニック』(1997)のジェームズ・ホーナー。主演は『L.A.コンフィデンシャル』(1997)のラッセル・クロウ、共演は『ホット・スポット』(1990)のジェニファー・コネリー、『アポロ13』のエド・ハリス、ポール・ベタニー、ビビアン・カードーン、『サウンド・オブ・ミュージック』(1965)のクリストファー・プラマー。

1947年、数学者を目指すジョン・フォーブス・ナッシュ・ジュニア(ラッセル)は、名門プリンストン大学の大学院に入学した。社交的ではないことを自覚している彼は、相部屋のチャールズ(ポール)が唯一の友達だった。次々と成果を発表していく同期に焦燥感を覚えていくナッシュだが、遂に『非協力ゲーム理論』を確立し、晴れて希望していたマサチューセッツ工科大学ウィーラー研究所へ赴任することになった。時は米ソ冷戦時、もっと国に貢献できないのかという気持ちがナッシュをまた追い込んでいった。そのとき、政府の諜報員を名乗るパーチャー(エド)という男が近づいてきた。ナッシュにソ連からの暗号解読をお願いしたいというのである。ナッシュは没頭していった。それは結婚したアリシア(ジェニファー)にも打ち明けられない極秘任務だった。しかしナッシュの身辺にはソ連のスパイらしき男達が出没するようになり、遂に母校の講演会の時に、彼らに捉えられてしまう。ところが、ナッシュの研究室を訪れたアリシアは、そこで驚くべきものを見つける。

『ナッシュ均衡』『ナッシュ交渉解』『非協力ゲーム理論』などの定理を20代で次々と発見し、現代経済学ほか多くの分野に貢献するも、精神分裂症(統合失調症)に苛まれた天才科学者の半生を綴った作品。
統合失調症というのは、詳しくはわかんないけど、現実と幻覚の境目がなくなってしまうモノらしい。大学院時代の親友チャールズとその姪のマーシー、諜報員パーチャーは、すべてナッシュの創作した人物で、従って相部屋生活も極秘任務も全部存在しないのである。この辺を上手に絵にしたロン・ハワード監督の手腕には目を見張るものがある。
そんな“異常”な彼を見守り支え続けたアリシアとの夫婦愛を、確実に描ききる脚本も見事だ。
病状と折り合いをつけるまでになったナッシュの、アリシアへのは気高い。1994年にノーベル経済学賞を受賞したときの、その式典でのナッシュのスピーチには、かなり酔う。
ラッセル・クロウ。モチョモチョした仕草とか口の聞き方とか、彼に似つかわしくない演技ではある。巧いか下手かは敢えて言わない。でもアル中とか精神病とか障害者とかの演者に賞を与える傾向は、特にアメリカでは変わらない。
ジェニファー・コネリー。こっちは巧い。でも他にもこの役を演じられる女優はいそうだが。
エド・ハリス。はまり役なのは認めるが、演技に新鮮さはないね。
しかし同じ伝記物でも、『ALI』とのこの違いは一体全体ど〜したことだ?


『ALI』 観た日:2002/05/30
お薦め度:★★★ もう一度観たい度:★★★

監督は『ヒート』(1995)のマイケル・マン、脚本は『ニクソン』(1995)のスティーブン・J・ライベルと同クリストファー・ウィルキンソンと『フォレスト・ガンプ/一期一会』(1995、脚色)のエリック・ロス、撮影は『スリーピー・ホロウ』(1999)のエマニュエル・ルベツキー、編集は『インサイダー』(1999)のウィリアム・ゴールデンバーグと『ザ・ハリケーン』(2000)のスティーブン・リブキンと『リバー・ランズ・スルー・イット』(1992)のリンジー・クリングマン、美術は『エリザベス』(1998)のジョン・マイヤー、音楽はリサ・ジェラードとピーター・バーグ。主演は『インデペンデンス・デイ』(1996)のウィル・スミス、共演は『真夜中のカーボーイ』(1969)のジョン・ボイド、『エニー・ギブン・サンデー』(1999)のジェイミー・フォックス、『バスキア』(1996)のジェフリー・ライト、『ニュー・ジャック・シティ』(1991、兼監督)のマリオ・ヴァン・ピーブルス。

カシアス・クレイ(ウィル)は22歳、「蝶のように舞い蜂のように刺す」と大口を叩きながら新チャンプとなる。ほぼ同時に黒人イスラム集団“ネイション・オブ・イスラム”に入信、名前をモハメド・アリと改名した。多くの取り巻きが現れ、マスコミはその過激発言に注目し、強靱な肉体は挑戦者をなぎ倒し続けた。しかし、ベトナム戦争のための徴兵要請がきたとき、アリはそれを宗教的個人的な理由で拒否、逮捕されてしまう。ボクサーとしてピークの時期にライセンスを剥奪されたアリは、しかし主張を取り下げない。何よりも自らの信念を貫いたのだ。3年が過ぎ、やっと勝訴したアリは、しかし現時点でのチャンプであるジョー・フレイジャーとのタイトル戦に判定負けしてしまう。ボクサーとして既に下り坂だという指摘もあるなか、ジョージ・フォアマンへの挑戦権を得る。場所はザイールの首都キンシャサだ。

ご存じモハメド・アリの半生を描いた映画。
何でしょう、この脱力感は。映画館に向かう途中も観ようかど〜しようかずっと迷ってたんだけど、今思うに、やっぱり観なくても良かったかな〜、という感じなのである。
ウィル・スミスがアリの肉体と精神をコピーし、完璧に演じきった。マイケル・マン監督がリアルなカメラワークと人物描写の演出を行った。
で、何?それが、何なのだろう?こんな疑似ドキュメンタリー作品を作って、それで何を見せたかったんだろうか?
まぁもちろん、アリは偉大だし、それは認める。アリを信奉している人が多いのも認める。でもな〜、それだけじゃ〜な〜。
CG技術が進歩し、何でもかんでも本物よりもリアルに作れるようになった。対象人物をリサーチして何度も繰り返して演技してリアルに真似できるようになった。でもそれって、そこが到達点であり、それ以上の部分ってないように思う。
ウィル・スミスの努力も認めるけど、俳優の価値は役作りの過程でも本人描写の的確さでもなくて、独創性と発展性だと考える私にとっては、この映画に関しては、ハイハイよく頑張ったね〜、で完結してしまう類のモノなのであった。
ボクシングのシーンは、特にカメラワークが新鮮。これは素直に凄い。
取りあえず、デートムービーじゃないな。ビデオが出るまで待ってもいいんじゃないかな。


『パニック・ルーム』 観た日:2002/05/23
お薦め度:★★★ もう一度観たい度:★★

監督は『エイリアン3』(1992)『セブン』(1995)のデビッド・フィンチャー、脚本は『ミッション・インポッシブル』(1996)のデビッド・コープ、撮影は『暴走特急』(1995)のコンラッド・W・ホールと『ザ・ビーチ』(2000)のダリウス・コンディ,A.S.C.,A.F.C.、編集は『ゲーム』(1997)のジェームズ・ヘイグッド,A.C.E.と『ファイト・クラブ』(1999)のアンガス・ウォール、音楽は『ロード・オブ・ザ・リング』(2000)のハワード・ショア。主演は『コンタクト』(1997)のジョディ・フォスター、共演はクリスチャン・スチュワート、『バード』(1988)のフォレスト・ウィテカー、ドワイト・ヨーカム、ジャレッド・レト。

夫の浮気で別居を決めたメグ(ジョディ)と娘のサラ(クリスチャン)は、当てつけにマンハッタンのど真ん中にある古い家を買うことに決めた。庭付き4階建て。しかし3階が少し狭い。不動産屋は鏡の裏にある「パニック・ルーム」について説明を始めた。完全に隔離されたその部屋には、いかなる外部干渉をも退けるという。2人が越してきたその夜、以前の持ち主が「パニック・ルーム」内に隠した財産を狙って3人の男が押し入ってきた。メグとサラは、間一髪「パニック・ルーム」に逃げ込む。

え〜、ハッキリ言って凡作。
何よりも脚本が酷い。まず「パニック・ルーム」の設定がよくわからない。こんな部屋なんてなくても、この映画は成立する。
3人の悪者も、あんなキャラクター設定をしてしまったら、その後のストーリーの転がり方なんて丸わかりだ。ここの所は、演出としてのフィンチャー監督も悪いのだが。
さらに、閉鎖された空間での秒を争うイベント(エレベーターで逃げるシーンとか)の、移動距離と時間との関係などにご都合主義が見え見え。こういうの、妙に気になるのだ。
カメラワークはフィンチャー節である。『ファイト・クラブ』で覚えたテクニックがエスカレートしており、これはこれで良い。
ジョディ・フォスター。カンヌ映画祭の審査委員長を蹴って、『羊たちの沈黙』(1991)の続編である『ハンニバル』(2001)への出演も蹴って、さらに妊娠がわかって、それでも出た映画。う〜む、まぁ良い。美人は得、ということで。
某オカマ映画評論家が20,000円払っても観るべき映画とTVで言っていた。何をとち狂っているんだか。でも作品に出来のムラがあったとしても、それは人間がすること、仕方がないのである。フィンチャーの、次作に期待する。


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