ムービーランド
店長の 映画言いたい放題 101-150

★=1ポイント、☆=0.5ポイントで、最高は5ポイントです。


『BROTHER』 観た日:2001/02/01
お薦め度:★★★ もう一度観たい度:★★★

監督・脚本・編集・主演は北野武(ビートたけし)、製作は森昌行(日本側)と『ラスト・エンペラー』(1986)のジェレミー・トーマス(英国側)、撮影は柳島克己、録音は堀内戦治。キャストはオマー・エプス、真木蔵人、寺島進、加藤雅也、大杉漣。

抗争の果て、足場を失った暴力団員幹部の山本(ビート)は、ロサンゼルスにいる義理の弟ケン(真木)の元を訪れるが、ケンはデニー(オマー)ら地元の黒人達とドラッグの売人をしていた。山本はケン達や日本から自分を慕ってやってきた加藤(寺島)を引き連れ、胴元であるラテン・アメリカンを全滅させ、シマを奪う。中華街を仕切っている白瀬(加藤)とも契りを交わし、山本らは大きく成長したが、遂にイタリアン・マフィアとの抗争に突入する。

映像は相変わらずクール。あえて引かせて(役者から離れて)撮るのは北野流。“キタノブルー”も健在だ。ぶっ放す銃の薬夾の転がる音も見事。でも、死に過ぎ。
あらすじを見れば、なんてことのないドンパチ映画。しかし、中身にはさまざまな“brother”の形態が盛り込まれている。もちろん骨子は“男気”だ。
日本人臭い任侠が世界に通じるか。問題はここだ。アメリカなんて、男同士で飯を食いに行っただけでホモと噂される所。「aniki〜」を連発するオマー・エプスに、どれだけ同調できるだろうか。
残念なのは、大竹まこととか、TVで共演している連中を使う事。約束したのでそれじゃ〜端役で、みたいなのが丸見えで興醒め。
寺島進。こういう役はホント上手い。『HANA-BI』(1998)の刑事役もそうだが、“素”が元々こうなのだろう。別の役を見てみたい。
今度は、鉄砲とかドスとかの出てこない作品が見たいなぁ。


『ダンサー・イン・ザ・ダーク』 観た日:2001/02/01
お薦め度:★★★ もう一度観たい度:★★★★★

監督・脚本・カメラは『奇跡の海』(1996)のラース・フォン・トリアー、振付はビンセント・パターソン、美術はカール・ユリウスン。主演・音楽はビョーク、共演は『シェルブールの雨傘』(1964)のカトリーヌ・ドヌーブ、『グリーン・マイル』(1999)のデビッド・モース、『レナードの朝』(1990)のピーター・ストーメア。

1960年代。セルマ(ビョーク)はチェコからアメリカに渡ってきたやってきた移民。彼女は、遺伝性の目の病気で、最近視力の低下が顕著であり、もうすぐ失明することを知っている。一人息子にもその遺伝病は備わっているが、手術を受けることで回復させることが出来る。その為の移住であり、現在は、工場で働き内職もして、爪に灯をともすような生活の中で、コツコツと手術費を貯めている。年上の同僚キャシー(カトリーヌ)や好意を寄せてくれるジェフ(ピーター)、大家のビル(デビッド)夫妻に囲まれ、小さな幸せの中にいる。セルマは音楽、特にミュージカルが大好きだ。町の劇団で『サウンド・オブ・ミュージック』を演じるために練習をしている。セルマにとって、生きることは確かに苦しいが、息子という生きがいの為なら辛くないし、音楽があるから自分が自分のままでいられる。ある日、ビルが妻の浪費癖について相談に来た。セルマには貯めたお金があるが、もちろん貸すわけにはいかない。しかし隠し場所をビルに知られる。セルマがいない隙にビルは金を盗む。返して欲しいと迫るセルマに、ビルは「妻の愛を無くすくらいなら死んだ方がましだ」と言い、セルマに自分を銃で撃つように願う。

2000年のカンヌ映画祭のパルム・ドールと主演女優賞に輝く、デンマーク映画。
どこかの寸評でこの映画を「ミュージカル映画」と解説していたが、どこをどう観ればそんな解釈ができるのか、そいつの頭の中を割って覗いてみたいものだ。
しかし、たった一つの希望である息子の視力回復のために、この道程、この結末はないんじゃないか?トリアー!
トリアー監督は、いわゆる『ドグマ95』の創始者である。
(詳しくは、映画言いたい放題-9にある『MIFUNE』をご覧下さい。)
カメラは手持ち、セットはなし、照明は自然光など、いわゆる反ハリウッド映画の急先鋒である『ドグマ95』。
ところが、彼はミュージカルも撮りたくて仕方がない。しかしミュージカルと『ドグマ95』は正反対の位置にある。だから、通常時は『ドグマ95』に則した方法を選択し、ミュージカル部分には最大100台のデジタルカメラを配したりした大がかりなデジタル処理を施した。
そして、そのミュージカルシーンは、セルマが人生に負けそうになるときに逃げ込む“想像”の世界をシュールに表現する。秀逸。
不器用で、義理と人情の板挟みから、最も損な思いをさせられるセルマ。天才ビョークが憑依されたごとくに魅せてくれた。もう、演技の範疇ではない。セルマ=ビョークだ。
どうしよう。喜びは、はっきりいって見いだせない。でももう一度観たい。心の襞を増やすのにはもってこいの映画だ。しかし万人に勧める気は、はっきりいってない。
揺さぶられる作品。私は、もう一度観ることにする。


『オーロラの彼方へ』
観た日:2001/01/19 お薦め度:★★★★★ もう一度観たい度:★★★★☆

監督は『真実の行方』(1996)のグレゴリー・ホブリット、脚本はトビー・エメリッヒ、撮影は『シンプル・ライン』のアラー・キヴィロ。主演は『シン・レッド・ライン』(1998)のジム・カヴィーゼルと『ライト・スタッフ』(1983)のデニス・クエイドのダブルキャスト、共演はエリザベス・ミッチェル、『シティ・オブ・エンジェル』のアンドレー・ブラウワー。

1969年10月、ニューヨーク・メッツが快進撃でワールド・シリーズへ進んだ年、太陽の活発な活動は、ニューヨーク上空へもオーロラを生み出していた。フランク(デニス)は消防士として危険な業務についている。30年後の1999年10月、偶然にもまた、オーロラが出現していた。ジョン(ジム)は刑事で、「ナイチンゲール殺人事件」と呼ばれる30年前の未解決事件の手がかりとなりそうな白骨死体を手掛けていた。父フランクは、ちょうど30年前に火災事故で死んだ。当時6歳だったジョンは、父を想わない日はなかった。家で父が愛用していた無線機を見つけたジョンは、修理して電源を入れてみる。すると、誰かが交信してきた。それは何と、父フランクではないか!瞬時に理解し合った親子。事故死を伝え聞いたフランクは、それを回避、生き残ることが出来たが、この事で未来に歪みが生じる。父の代わりに母(エリザベス)が死ぬのだ。しかも「ナイチンゲール殺人事件」の犯人の餌食となるのである。父子は知恵を絞り、回避に全力を注ぐ。

今年の正月映画は、ホント当たりが多い。この作品もそうだ。綿密で、タイム・パラドックスを慎重にクリアした、何よりも普遍的な、アメリカチックに言えば“良き父と息子”をどっしりと描いた、秀逸なる映画である。
見事なオリジナル脚本。このおかげで、この映画はほぼ成功したと言っても過言ではないだろう。
オーロラとは、太陽の活発な活動により強い電磁波が地球に届くことで、地球上空100km以上のところで起こる、原子レベルの発光現象である。蛍光灯が光るのに似ている。この物理現象は、光や電波が「時間を超える」には、理論的に完全否定できない強さらしい。この説がバックボーンになっている点で、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』(1984)などの娯楽SFとは一線を画す。
ジム・カヴィーゼルとデニス・クエイドの、あの入魂の演技!脱帽である。
男だったら、こんな頼れる父に憧れ、またそうなりたいと思うはずだし、あるいは、こんな誇れる息子を育て愛したいと思うはずだ。パンフレットとか各種メディアでは、いろんな所を一押しにしているが、どれも見当違いだ。この映画の肝は、無線を通じて30年という時間と常識観念を直ちに乗り越えて分かり合う、父と子の確かな絆にあるのである。
参った。降参。白旗。絶対に観ろ!
しかし、日本映画の、何と痩せっぽちな脚本のことよ。


『愛のコリーダ2000』 ※R-18
観た日:2001/01/12 お薦め度:★★★★★ もう一度観たい度:★★★★

監督・脚本は『青春残酷物語』(1960)の大島渚、製作代表はアナトール・ドーマン、撮影は『天使の恍惚』(1972)の伊東秀男、美術は『切腹』(1962)の戸田重昌、照明は『羅生門』(1950)の岡本健一。キャストは藤竜也、松田英子。

昭和11年。料亭吉田屋に、阿部定(松田)という新しい住み込み女中が入った。主人の吉蔵(藤)は、定の色気についちょっかいを出すが、そこから2人は、お互いに溺れていく。遂に駆け落ちし、待合宿に落ち着いた。定が求める行為を何ら否定せずに応える吉蔵。宿の女将でさえ「じきに吸い取られて殺されちまう」と忠告する程だったが、しかし耳をかさない。昼夜を問わずまぐわう2人に、次第に死の影が近づいてくる。「首を絞めても良いか?」と問いかける定に、吉蔵は「後が苦しいから途中で止めるなよ」と答える。

大島渚による日本初のハード・コア映画。フランス資本。カンヌ映画祭での11回もの上映と、絶賛。各国の猥褻論議の中心。日本での、フィルムではなく冊子に対する猥褻物販売での立件と、「猥褻がなぜ悪い」という開き直りの弁論。無罪確定。
そして、25年後の今日、倫理上のボカシ修正以外はノーカットで観ることのできる我々は、今を感謝しよう。
性行為自体をとやかく言う気はないのである。
藤竜也のチンチンが立ちっぱなしで凄げ〜!というのも、確かにそうだが、それほど言う気もないのである。
定がそのチンチンを四六時中舐めていて、遂にキンタマと一緒に切り取って持ち歩くのも、ガタガタ言う気はないのである。
お互いがお互いに、そして何よりも自らにのめり込むのが、肉欲も含めた愛の形であると定義するならば、まさしくこの映画はその表現の究極形の一つを指している。ハード・コアはその手段。手段をごちゃごちゃ言うなら、ヤクザ映画も青少年保護条例に立派に抵触する。あくまで描き出したいのは、誰もが行う行為でありながら今まで触れなかった肉欲の直接描写をも直視した“愛”だ。
松田英子。素人ながら、プロポーションと脱ぎっぷりの良さでキャスティングというが、艶妖で貪欲で恍惚をまき散らすその演技は、もはや演技の枠を木っ端微塵に吹き飛ばしている。そう、彼女は演技なんてしていないのだ。定は吉に惚れている。彼女は定そのものなのだ。たまたまカメラが向いているだけだ。
最後。コリーダって、闘牛のことさ。


『バトル・ロワイアル』 ※R-15
観た日:2001/01/11 お薦め度:★★★★ もう一度観たい度:★★☆

監督は『蒲田行進曲』(1982)『おもちゃ』(1999)の深作欣二、脚本は深作健太、撮影は柳島克己、美術は部谷京子、編集は阿部浩英。キャストは藤原竜也、前田亜季、ビートたけし、山本太郎、安藤政信、柴咲コウ。

修学旅行へ向かうバス。深い眠りを疑問に思った七原(藤原)は、ガスマスクをしているガイドに殴られる。着いたところは無人島の廃校。自衛隊の完全武装の中、彼らは“BR法”の対象クラスに選ばれたことを聞かされる。“BR法”とは、健全なる大人の育成を目的として、3日間の期限の中、全国から任意に選ばれた中学3年の1クラス全員が、最後の一人になるまで殺し合いをするというもので、首には爆薬入りの標識がつけられ、逃げることは許されない。クラス担任として、キタノ(ビート)が任命されていた。七原は中川(前田)と共に逃げるが、狂気に走る他の生徒は各々に与えられた武器を手に、殺人を繰り返していった。外部参加の川田(山本)と合流した2人は、殺し合いを楽しんでいる外部参加の桐山(安藤)との戦いにも勝ち、遂に生き残るのは3人だけになった。

面白くないと言ったら、嘘。でも……
若い俳優、というか、高校生くらいの、人生経験がまだまだという意味(それを悪いと言ってるんじゃないよ)での若さだけど、そういう俳優に対して、死ぬ(殺される)のは、難しいよね。私は、死んだ人は見たことがあるが(親戚とか)、“死んでいく”人は見たことがありません。だから、どんな「死に方」が“リアル”なのか、わかりません。でも、この映画の殆どの俳優達の「死に方」は、“リアル”ではないことはわかります。何か呟いて、ガクッと頭を振って死ぬのって、何だか嘘っぽくありませんか?(不謹慎って言わないでね) まして、死に際の一言、今際の捨て台詞、なんて、全然リアリティがない。
一方、よく動いて、元気で、キラキラしてて(でも、あんなにかわいい女の子ばっかりのクラスなんて、この世にないよ)、これは若い俳優でなければできないと思う。
そんな子が銃やナイフを手にしている事へのアンバランスが、しかも「BR法」の根底にある日本の社会的失敗感が“本物”だけに、奇妙な現実感を持っていて、だから正視するにはバカバカしくて、そんな空気を知ってか知らずか、走り回る、若いがゆえに未完成な俳優。
……っていうのがグルグル回っちゃっています。
深作欣二という監督は、ダボハゼのような男で、何でもまずは食べてしまう。『宇宙からのメッセージ』(1978)なんて、それはそれはトホホな映画で、しかも『スター・ウォーズ』(1978)の余力に乗っかろうという完全なあなた任せの映画。と思えば、『仁義なき戦い』(1973)シリーズのように、エキセントリックなカメラワークを見せたり。
しかし、今回、一つの真理を得た。深作監督は、後輩を育てたいのだと思う。ビートたけしが「思ったよりもフレーム内の演出に緻密だ」と言っているが、これはまさしく若い俳優を育てずして死んでたまるか!という男気の現れなのだ。だから、映画になりそうにないような題材も、果敢に挑戦するのだ。大体が、孫みたいな俳優達をひっくるめて「第二のピラニア軍団(かつての、大東映組の、チンピラヤクザの大部屋俳優のこと)ができた〜」と喜んでいるくらいだもの。
藤原竜也。わりと巧いので驚いたが、怪我したあとの力の入り方が過剰。歯並び、矯正してね。
前田亜季。ビックリ。もっとボリュームが出たほうが好みだが、この娘はこのほうがいいのかもしれない。20年前の角川映画にいそうな娘。
ビートたけし。世界的にも希有な、現役の暴力シーンの達人。
もし観に行くとしたら、全体のラフな構成よりも、ディテールに垣間見える、監督の俳優への愛をくみ取ってください。


『PARTY7』
観た日:2001/01/10 お薦め度:★★★★ もう一度観たい度:★★★

監督・原作・脚本・絵コンテ・編集は『鮫肌男と桃尻女』(1998)の石井克人、撮影は『風花』(2000)の町田博、照明は木村太朗、美術は都築雄二、造形は『さくや妖怪伝』(2000、監督)の原口智生、音楽はジェイムス下地、アニメーションはマッドハウス。キャストは永瀬正敏、浅野忠信、原田芳雄、小林明美、岡田義徳、堀部圭亮、我修院達也、森下能幸、津田寛信、岡本信人、松金よね子、大杉漣、島田洋八。

三木(永瀬)は、閑散としたホテルニューメキシコへチェックインした。変なホテルマンに悩まされるが、401号室へ通される。そこへ、かつての恋人であるミツコシ(小林)が突然訪れ、結婚するので以前の借金を返せと言う。次に、三越のフィアンセであるトドヒラ(岡田)が、ミツコシに会いに来る。実は三木は、組の金を持ち逃げしてきたのだ。兄貴のソノダ(堀部)が居場所を突き止めた。一方、この401号室のベッド側の壁のレリーフはマジックミラーになっていて、オーナーのフクダ(原田)は“キャプテンバナナ”として覗きを謳歌していた。またフクダの親友の息子であるオキタ(浅野)も逮捕歴のある覗き常習犯で、父の遺言を元に、ついにこの覗きの楽園に足を踏み入れることに成功、キャプテンバナナとの覗き談義に花を咲かしていた。401号室では、遂に組の若頭(我修院)も現れ、銃を乱射する。

え〜、キャラクターの作り込みと動かし方、シーンの作り方、場面の展開、画角まで、マンガです。面白くないと言ったら嘘になりますが・・・
セリフ、演出、カメラ割り、みんな石井監督の裁量です。でも、長いセリフに命を吹き込むのは役者の技で、長けた演技も役者あってのもので、撮影と照明の優はスタッフの才能で、じゃあ監督としては一体どんな仕事をしたのだろうか?みんなの能力を気持ちよく出すようにし向けるのが監督の妙技、と言われてしまえば、その通りと言うしかないのですが。う〜む・・・
特に、広角を強調したカット。マンガ家・松本大洋のコマ割りそっくり。あのカメラを“オリジナル”とするには、私としては抵抗がありますなぁ。
結局の所、脚本と演出の2つが、石井監督の肝なのでしょう。
永瀬正敏と浅野忠信、共にベストアクト。
小林明美、何なんだあの唇は。反則だ。
原田芳雄、物凄くノリノリ。演技に舌を巻きます。
オープニングのアニメ。これが一番の収穫かも。
もしTV放映があったら、再度観てみましょう。で、そこで最終判断をしようと思います。ホントにこの映画が面白いのかどうか。


『初恋のきた道』
観た日:2001/01/10 お薦め度:★★★★★ もう一度観たい度:★★★★★

監督は『あの子を探して』(1999)のチャン・イーモウ、脚本はパオ・シー、撮影はホウ・ヨン、美術はツァオ・ジュウピン、音楽はサン・パオ。奇蹟のヒロインは『グリーン・デスティニー』(2000)のチャン・ツィイー、他キャストはスン・ホンレイ、チャオ・ユエリン、チョン・ハオ。

父が死んだ。息子(スン)は、実家へ向かう。母(チャオ)が一人、父が教鞭をとった校舎の前でうずくまっていた。今、父は町の病院にいる。町からこの村まで担いで帰らないと、父の魂は迷ってしまうと言う。古くからの迷信だ。しかし村には若い衆がいない。担ぎ手のない事を告げるが、母は聞く耳を持たない。そして、夜なべをしてまで、父の棺にかける布を織るという。年老いた母の背に、息子は、父と母の出会いを想う。母(チャン)は18歳、村に初めてできる学校の教師としてやってきた父(チョン)は20歳だった。一目見たときから、母は父の虜になった。いつも父を見ていた。父の教科書を読む声は心地よく、毎日校舎のそばへ行き聞いていた。気持ちが通じて、別れがきて、待って、出会った。そして、自分が生まれたのだった。結局、父は100人以上の担ぎ手によって、帰ってきた。隣村から人足を雇う手はずまで考えていた息子だったが、父の教え子達が、遙か遠くの地からも無償で駆けつけてきてくれたのだ。

まいった。降参です。完敗です。
本物の骨太映画。チャン・イーモウ監督の天賦、恐るべし。
希有な脚本ではない。しかし、物凄い映画を撮った。
見事な風景。眼に冴える自然の美しさ。人々の表情や服装の素直な描写。それらを、(カットへの凝りは別にして)一切の捻りなしで、ドカン!と観る者に投げつけてくる。こちらは、受け止めるだけで精一杯です。
現代がモノクロ、過去がカラー、という撮影も、誠に天晴れ。
そして、ああ、チャン・ツィイー!!!!!
世界中で、もう彼女しか生き残っていないのではないか?と思わせるような、『本物』の“女の子”を、まさに活き活きとフィルムに焼き付けているのだ。
あの表情を、媚びていると揶揄することも簡単だし、概ね男の眼で見る“可愛い”と女の眼で見るそれは違うから、媚びている旨の批判は、女性陣からより強く出そうだ。
でも、あえて言わせていただく。ホントに可愛いです。下心なしに、思わず抱き締めたくなるくらい!
『グリーン・デスティニー』を先に観てしまった人、ご愁傷様というしかない。彼女が類い希な役者であろうことは承知である。だから、『グリーン・デスティニー』のカンフー女も、この映画での、純真無垢の、赤い綿入りバンテンの袖に手首を潜らせたまま肘を曲げずにピョコピョコ走るあの姿も、彼女の演技によるものだともわかっている。でも!それが何だというのだ?チャン・ツィイーの本質的な価値が、演技が巧いからって、下がるモンじゃない。
その彼女を追うカメラ。高さを彼女の顔の位置に固定し、余すところ無く撮り切っている。
もう、チャン・ツィイーのプロモーション映画といってもいい。
まぁ思いっきり偏った感想になってしまったが、素朴で真っ直ぐで無骨な“本物”に勝る策略はない、と改めて思いました。
最後に。中国語の題名は、『我的父親母親』です。邦題の、何とセンスのあることよ。


『バーティカル・リミット』
観た日:2001/01/04 お薦め度:★★★★ もう一度観たい度:★★★★

監督・製作は『マスク・オブ・ゾロ』(1998)のマーティン・キャンベル、脚本はロバート・キングとテリー・ヘイズ、撮影監督は『グリーンマイル』(2000)のデビッド・タッターソル、編集は『刑事ジョン・ブック/目撃者』(1985)のトム・ノーブル、視覚効果スーパーバイザーは『12モンキーズ』(1995)のケント・ヒューストン、特殊効果スーパーバイザーは『クリフハンガー』(1993)のニール・コーブッド。キャストは『セント・オブ・ウーマン/夢の香り』(1992)のクリス・オドネル、『エンド・オブ・デイズ』(1999)のロビン・タニー、『ライト・スタッフ』(1983)のスコット・グレン、『U571』(2000)のビル・パクストン、『007/ゴールデン・アイ』(1995)のイザベラ・スコルプコ。

ピーター(クリス)は、父と妹のアニー(ロビン)とロッククライミングを楽しんでいたが、事故で墜落、ザイルに3人がぶら下がる事になった。フックの抜ける気配を察した父は、ピーターにザイルを切ることを提案、猛反対するアニーを黙してザイルを切る。父は墜落死したが、2人は助かった。しかしこの事は、2人に深い溝を作った。3年後、ピーターは自然写真家として活躍し、アニーは名クライマーとして成功をおさめていた。世界第2の高峰K2のベースキャンプで2人はたまたま出会う。アニーはこれから、企業家のヴォーン(ビル)らのガイドで、山頂を目指すところだった。強引なヴォーンの意見に抗えない隊は、天候の悪化を無視して強行、しかし雪崩に巻き込まれ、クレパスに落ちてしまう。ピーターは救助のために仲間を募り、救出作戦に向かう。パキスタン軍から提供されたニトログリセリンを担いで、クレパスを爆破しようというのだ。かくして、過酷で危険なアタックが始まる。

題名のバーティカル・リミットとは、登頂限界のことだ。この映画に出てくる登山家は、みな無酸素(ボンベなし)でK2に挑む。地上の1/3の酸素量。加えて極寒。極めて乾燥した気象環境は、肺気腫を誘発する。このような状況で、天候も冴えない中、妹の無事のみを信じて登る兄。その兄は、父を死なせているのだ。
まず、この脚本がいい。上手い所に目をつけている。突拍子もない程のアイデアではないが、見つけた者勝ちだ。
アクションも、目新しいものではないが、SFX・VFXの進化のおかげで、極めてスリリングに仕上がっている。特にカメラワーク、どんな具合にあのカメラ割りが監督の頭の中に入っているのか、ホント不思議。
ただし、死に過ぎ。
クリス・オドネル。今度はアクションなしで見てみたい。ロビン・タニー。『エンド・オブ・デイズ』では可愛かった。この映画では、よくワカラン。
イザベラ・スコルプコ。いい女っぽいが、よくワカラン。
というように、みんな本気で体当たり演技なので、役者として上手いのかどうか、全然わかんない。
つまり、山と、特撮技術に、みんな食われてしまっているのだ。
でも、それでもいいか、という満足感が、この映画にはある。
この正月一番のお気楽ドキドキ映画。ハンバーガーのセットでも持ち込んで、アクションにビクッとしながら楽しむのがいいのでは。


『ダイナソー』
観た日:2000/12/24 お薦め度:★★★★ もう一度観たい度:★★★★★

監督は『アメリカ物語』(1986)『ポカホンタス』(1994)などに関わってきたラルフ・ゾンダッグと、『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス』(1994)などに関わってきたエリック・レイトン、脚本はジョン・ハリソンとロバート・ネルソン・ジェイコブス、音楽は『ベスト・フレンズ・ウェディング』(1997)のジェームズ・ニュートン・ハワード、吹き替えに袴田吉彦(アラダー)、江角 マキコ(ニーラ)。

イグアナドンのアラダーは、数々の偶然から、テナガザルに育てられた。彼はテナガザルの家族を大切に思っている。ある日、空の上からたくさんの火の玉が落ちてきて海に落下、強烈な風と火が襲ってきた。テナガザル達と海に飛び込み、必死で泳いだアラダーは、何とか陸地に泳ぎ着いたが、そこは一面の焼け野原だった。途方にくれながらも歩いていくと、たくさんの恐竜達と出会った。それは遙か遠くにある「生命(いのち)の大地」と呼ばれている場所へ向かう一団だった。はぐれると、肉食恐竜に食べられてしまう。アラダーらは、彼らに合流した。途中何度も危機を迎えたが、団結により脱出し、旅は続く。

正真正銘、ディズニー印の作品である。まさに徹頭徹尾が、愚直に純情で、苦楽を共にした団結力が何よりも強く、正義は勇気を奮い起こし、頑張った分だけ報われる。
いいんです。面白いのだから、否定できません。実社会から見てあまりに都合が良くても。だって、映画だもん。
デジタル満載だが、“フル”ではない。草木が風になびく様をデジタルにしてしまうとかえって不自然なので、自然の描写はフィルムらしい。これに恐竜達を3Dで重ねるのだ。見事。もう恐いモノはないなぁ。
プロローグのタイトルバックの、卵の殻の内側からの絵、技有り。オープニングの俯瞰とディテール、お見事。小惑星の衝突による衝撃波と惨劇の描写、ご立派。
そしてこの手の映画は、聞き及ばない字幕を欲張るよりも、素直に吹き替えで楽しむのが、私の常である。見栄はいけません。
江角マキコ、声の低いところが、キャスティングポイント?
え〜、一言で説明すれば、『ライオンキング』(1993)の恐竜版です。あの世界観がOKならば、楽しめること間違いなし!


『カル』
観た日:2000/12/08 お薦め度:★★★★★ もう一度観たい度:★★★★

監督・製作は『接続 ザ・コンタクト』(1997)のチャン・ユニョン、撮影はキム・ソンボク、照明はイム・ジョヨン、美術はチョン・グホ、音楽はチョウ・ヨンウク。主演は『八月のクリスマス』(1998)『シュリ』(1999)のハン・ソッキュ、共演は『美術館の隣の動物園』(1998)のシム・ウナ、ヨム・ジョンア、チャン・ハンソン、ユ・ジュンサン。

ソウルで、連続殺人事件が起こる。それは、バラバラにした人体の一部を他の死体に合わせているという猟奇的なものだった。しかもその切り口から、犯人は解剖学に詳しい人物のようだ。チョ刑事(ハン)とオ刑事(チャン)は、人口歯から被害者を割り出し、判明している3人の被害者がいずれもチェ・スヨン(シム)と交際していたことを突き止める。しかしスヨンは、パリに留学していた事、父親が著名な画家だという事以外は、過去について語ろうとしない。ヨスンの友人であるスンミン(ヨム)は、彼女がパリ時代から付きまとわれているギヨン(ユ)のストーカー行為に悩まされていることをチョらに相談、ギヨンを尋問するが、その最中にヨスンが何者かに襲われる。

韓国で大ヒットした、サスペンススリラー。
驚くような特別な捻りやオチがあるわけではないが、物語として充分に堪能することができる。伏線の張り方も、凝ったものではないが、それはそれで悪いわけではない。この辺『シュリ』に類似するところがある。ニューコリアンシネマの特徴かな?
言葉で説明することなく、画面でストーリーや伏線を語る手法や良し。最近の映画では、そうそうお目にかかれなくなった。特にハリウッドものなんてしゃべりすぎ。しゃべって泣かそうとする。それなら本を読んだ方がいいもんね。映画なんだから、見せてくれなきゃね。
一方、なぜそうなのか分からない部分もある。なぜチョ刑事は収賄容疑中という設定なのか。海外には捜査の手が及ばないのか。ここいら辺は、甘い気がする。
ハン・ソッキュ。『八月のクリスマス』『シュリ』と本作、まったく異なるキャラクターを、上手に演じ切っている。韓国一の俳優という肩書きは本物だ。
シム・ウナ。純アジア系のベッピンさんです。最後の最後に笑うのだが、彼女は笑顔がいい。そんな役柄が似合うと思うのだ。仏頂面では、演技も上手いのか下手なのかわからないしね。
血が噴き出すシーンとか、解剖された死体とか、SFXが良いなぁと思っていたら、そこいら辺に関しては日本で作っているらしい。別に日本の技術を褒めている訳ではない。純国内生産にこだわらない姿勢と、その相手が日本であったという事実。ここに、韓国映画のパワーを感じる。
面白いです。パチパチ。みなさん観ましょう!


『BLOOD THE LAST VAMPIRE』
観た日:2000/12/08 お薦め度:★★★★★ もう一度観たい度:★★★★★

監督は『老人Z』(1991)の北久保弘之、企画協力は『パトレイバー』(1989)『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』(1995)の押井守、脚本は神山健治、キャラクターデザインは寺田克也、音楽は『らせん』(1998)の池頼広。声優は工藤夕貴。

1966年10月。小夜(さや、工藤)は、謎の“組織”との連携のもと、人の姿に変化し社会に溶け込む“翼手”を追っている。“翼手”は吸血鬼とも鬼とも呼ばれており、一瞬にして大量出血させる以外に奴らを殺す手だてはない。そのため小夜は、日本刀を武器としている。“翼手”が横田基地周辺に生息するという情報から、小夜はベースのハイスクールに潜入する。ハロウィンパーティの夜、3匹の“翼手”達が動き出した。

「押井塾」の企画する、フルデジタルアニメーション。
質の高い脚本に加え、テンポ、音楽も非常によく仕上がっている。加えて、ストーリー設定に工夫が見られ、吸血鬼モノという陳腐なジャンルに深みを与えている。最初、何で1966年の横田基地が舞台なのか分からなかったが、観て納得。人間と吸血鬼は、互いに殺し合う点では同等だもんね(書いちゃうと、この作品が面白くなくなっちゃうから、この辺の詳細は秘密)。
2Dと3Dが滑らかに融合されており、もはや一昔前のギクシャクした画面は影を潜めた。
しかし、個人的にどうしても馴染めない気になる部分が、アニメには存在するのである。
この作品では、例えばハロウィンパーティのダンスシーン。一見各々が踊っているのだが、よく見れば同じパターンを繰り返している。3秒とか5秒とかのインターバルで、ぐるぐる使い回しているのである。実写では(というか、生身の人間)そんな事はありえない。雪がちらつくシーンとかもそうだね。
まぁそんな事は、アニメファンにとっては些細なことなのかも知れないが。(でもだからこそ、ディズニーの最近の作品の群像シーンが、生々しく見えるのかも。)
48分という短編にしたのが効を奏し、大変に見応えのある作品です。アニメ嫌いの人に観て貰いたいです。
で、人間と“翼手”と小夜との「違い」を、考えましょう。(オチはパンフにも書いてないので、見逃さないように!)


『漂流街』
観た日:2000/12/01 お薦め度:★★★★ もう一度観たい度:★★★

監督は『アンドロメディア』(1998)の三池崇史、脚本は龍一朗と橋本浩介、音楽は遠藤浩二、撮影は今泉尚亮。キャストはTEAH、ミッシェル・リー、吉川晃司、及川光博、奥野敦士。

不法滞在者を詰め込んだバスを、マーリオ(TEAH)の乗るヘリが襲った。強制送還になるケイ(ミッシェル)を奪い返すためだ。マーリオとケイは、カルロス(奥野)から偽造パスポートを入手、出国を企てる。しかしケイに執着する中国系マフィアのコウ(及川)に阻まれた。一方、岡島組の伏見(吉川)は、コカインの売買でコウとつき合い始めていた。その初めての取引の最中、マーリオらが乱入し、現金ではなくコカインを持って逃げてしまう。マーリオは出国用の資金を得るためにそのコカインを売りさばくが、そのせいでコウらに仲間の居場所を突き止められてしまう。マーリオとコウ、伏見との戦いが始まる。

馳星周の小説を映画化。無国籍性が顕著なのは、この原作のおかげだ。主人公マーリオがサッカー小僧なのも、馳ならでは。
でも映画としては何だかな〜。よく分かりません。面白くないわけじゃないんだけど。
カメラワークとかテンポとか面白い所あるなぁと思ったら、別のカットでは関連無く『マトリックス』(1999)のパクリ。
こういうの、やってみましたできました、で、挿入するものではない。案の定、何かの雑誌で三池監督は「やりたくてやった」みたいな事を言っていた。「金がかかった」と。そりゃ〜、闘鶏賭博のシャモをオールCGでやれば、ちょい役俳優のギャラの何十倍か何百倍かはあっという間に飛ぶだろう。問題は、あれが必然かどうかである。「俺の映画だ何が悪い」と言うかもしれないが、それは駄々っ子の捨て台詞だ。まぁそう言わないかもしれないけど。
冒頭の、マーリオがケイをさらう理由もわかんない。マーリオが伏見を撃ち殺すシーンで、のたうつ伏見が己の血で路地に描く“Love”の文字とか、いいのになぁ。あと、伏見とコウの腰巾着同士が、揃いも揃ってホモで、みんな死んでトップに押し出される、とか。(あ、これは原作or脚本の方を褒めるべきかな?)
要するに、テンションの安定しない監督なのであった。
TEAH。日米(アフリカン?)のハーフ。彼、いいです。切れがあって。随分とカメリハを重ねたらしいけど、あれだけの演技ならマルでしょう。
ミッシェル・リー。香港在の女優。美人です。でも、大陸系松島奈々子みたいだ(仏頂面でボーっとしてるって事)。
及川光博。なかなか。一重瞼がグー。でも、これも作られた中国人のイメージだね。
吉川晃司。横柄で良い。演技いらず。
珍しい出来の日本映画(こう括るとまた噛みつく連中がいると思うが)です。観て損はないと思います。


『カノン』
観た日:2000/12/01 お薦め度:★★★★ もう一度観たい度:★★

監督・脚本・制作・撮影・編集はギャスパー・ノエ、共同製作はファッションデザイナーのアニエスb。主演はフィリップ・ナオン、共演はブランディーヌ・ルノワール、フランキー・パン。

男(フィリップ)はパリの郊外で馬肉専門店を経営していた。唯一の家族である娘シンシア(ブランディーヌ)が初潮のために汚した服を見て、強姦されたと思い込んだ男は、無関係の労働者に暴行し逮捕、娘は施設へ入った。保釈金と引き替えに、店も家も全てを失った男は、カフェの女主人(フランキー)とねんごろになり、一緒に暮らし始める。妊娠した女はカフェを売り、2人は北の町リールへ移る。男はここで馬肉店を開きたがったが、女は資金を貸さない。折り合いも悪くなった。世の中全てに嫌気がさした男は、女の腹を殴り、パリへ戻る。しかしここでも良い兆しはまったくない。最後に思い出したのは、シンシアの事だった。妻は、娘が産まれてすぐに、誰かと駆け落ちしており、男は娘に“女”を転化していた。失う物など何もない男には、もはや親子のモラルさえも守るべき事ではない。

世の中にはジャンルを問わず3通りの映画があって、それは、好みに合った快作と、鼻持ちならない駄作と、心がかき回されるだけでなぜこれがこの世にあるのかよくワカラン問題作である。で、この『カノン』は、駄作と問題作の中間だ。
クライマックスの手前で、「警告!もうこれ以上観たくない人は、あと30秒のうちに席を立て」というカットが挿入されている。笑える余興で、これが気に入って観ることにしたのだが。
変なズームカットと壊滅的な効果音が、心の最も不快な部分を探り当てるが如くに、まったく不用意に盛り込まれている。あたかも肝試しでいきなり顔につけられた濡れコンニャクのようで、不愉快極まりない。
絵は暗く、灰色か青い。主人公は笑わない。
ところが、主人公の、丹念に練り込まれた背景や、一方的で情けないほど哀れで臆病で自虐的なセリフ。ギャスパー・ノエの不器用で実直で溢れんばかりの熱意のなせる業である。彼には、間違いなく非凡な才能がある。
エンディング。男は、己が抱える娘への愛に改めて気付いた。しかしその愛は、アガペーではなくエロスだった。トホホだ。中には「そうじゃないだろ、こいつは最後の最後で人間として踏み止まったんだ!」と言う人もいるかもしれないが、でも、愛する娘のオッパイを愛撫する良き父なんて、この世に存在しないと思うし、もし存在するなら、その娘はもう娘ではなく都合のいい道具に過ぎないと思う。
歪曲しているのだ。これを、誰にでもある一面、と総括するほど、私はしたり顔できない。
観た方がいい映画。でも、反芻はともかく、消化(納得)はできないのではないか。


『ラストタンゴ・イン・パリ 完全版』 ※R-18
観た日:2000/11/24 お薦め度:★★★ もう一度観たい度:★★★

監督・脚本はベルナルド・ベルトリッチ、キャストはマーロン・ブランド、マリア・シュナイダー、ジャン・ピエール・レオ。

ジャンヌ(マリア)は、パリで部屋を探していた。あるアパルトメントに空き部屋があったので、そこに入ってみると、なぜかポール(マーロン)がいる。何気なく、しかし激しくキスをし、SEXをする2人。ポールはアメリカ人。安宿の主人で、妻が自殺したばかり。妻は常宿している紳士との関係を公にしていて、ポールもそれを黙認していた。奇妙な夫婦だった。ジャンヌには映画監督の彼がいて、パリを舞台に主役として制作に取り組んでいた。彼からは求婚されている。45歳のポールと二十歳のジャンヌは、お互いの名前すら知らずに、ただこの部屋で会い、獣のように肉体をむさぼり合う。

ベルトリッチ監督の名を世に知らしめた、1972年のイタリア映画。その廃退的ムードと強烈なガチンコSEXで、イタリアでは公開4日目にして上映禁止(1987年に解禁)、さらに1973年にはマーロン・ブランドとマリア・シュナイダーがイタリアのポルノ裁判で有罪を受けた。
私も、知っているのはその猥褻さの噂のみ。特に映画史上初?の、あからさまなアナルファックの描写は、興味津々。今回は完全版ということで、きっと余計なモザイクもないだろうし、しめしめ、と思い劇場へ向かったのであった。
・・・SEXシーンは、1972年当時はどうなのか知らないが、まぁこんなもん。バターを使ったアナルファックも、う〜、今一。職業柄、世界のアダルトビデオを観過ぎたせいなのか?でも、いきなり“駅弁ファック”(知らない人は、そっちの知識の旺盛な友人に聞きましょう)を見せられたら、そりゃ〜イタリア人でもビックリするよなぁ。
崩壊へ向かうエピソードの転がり方は、当時の映画作成の風潮も然りと思うが、ベルトリッチの非凡さも勿論感じることが出来る。SEX描写ばかりを言うつもりはサラサラないのである。朽ちていく広葉樹のような肌触りの空気感や、今もって前衛的なカメラワークと編集は、褒めるに値する。
マーロン・ブランド。浮気も何もかも容認していた妻の突然の自殺に、絶望し困惑した男を、実に見事に演じている。花に飾られた骸に向かい、怒り苦しみ泣く、そのロングカットの秀逸なこと。SEXですぐイッちゃうのはご愛敬。
マリア・シュナイダー。一言、剛毛。
観終わって劇場を振り返ると、年配(というか、お年寄り)ばかりだった。この映画の公開当時、いかにセンセーショナルな作品だったかが伺い知れる。


『チャーリーズ・エンジェル』
観た日:2000/11/24 お薦め度:★★★★ もう一度観たい度:★★★☆

監督はTVCM・ミュージックビデオ畑の新人 McG(マックジー)、製作はTV『地上最強の美女たち! チャーリーズ・エンジェル』(1976〜81)『ダイ・ハード』(1988)のレナード・ゴールドバーグと『25年目のキス』(1997)のナンシー・ジュボネン、撮影は『タイタニック』(1997)のラッセル・カーペンター,A.S.C.、編集は『U-571』(2000)のウェイン・ウォーマン,A.C.E.とピーター・テシュナー、美術は『カラーパープル』(1988)のJ・マイケル・リーバ、武術指導に『マトリックス』(1999)のユエン・チョンヤン。キャストは『アルタード・ステーツ』(1980)のドリュー・バルモア、『マルコビッチの穴』(1999)のキャメロン・ディアス、『シャンハイ・ヌーン』(2000)のルーシー・リュー、『ゴースト・バスターズ』(1984)のビル・マーレー、『キャメロット・ガーデンの少女』(1997)のサム・ロックウェル、『ロッキー・ホラー・ショー』(1975)のティム・カリー。

爆弾を抱え機内に潜伏する男。彼をいきなりつまみ出したアフリカ系の大男は、一緒に非常口から飛び出した。上空数千メートル!2人を追ってヘリからダイビングする女性。男の持つ爆弾を空中で解除すると、大男の背中からはスカイダイビング用のパラシュートが。そして3人は、美女の操縦するモーターボートの上に着地した。大男もまた、変装した女性だった。彼女たちは“チャーリーズ・エンジェル”。ディラン(ドリュー)、ナタリー(キャメロン)、アレックス(ルーシー)である。チャーリーの経営する探偵事務所の有能な助手で、マネージャーのジョン・ボスレー(ボブ)と共に、頭脳とお色気とアクションで難事件を次々と解決していく。さて、今度の依頼は、電話などの声から個人を認識し、人工衛星を使ってその個人を追跡するというコンピュータープログラムが、開発者のノックス(サム)と共に盗まれた、というものだ。“チャーリーズ・エンジェル”は、ライバル会社の社長コーウェン(ティム)に近づき、ノックスへ辿り着くための手がかりを探る。

ご存じ、超人気TVシリーズ『地上最強の美女たち! チャーリーズ・エンジェル』の、待望?の映画化である。「グッド・モーニング・チャーリー」ですよ、あなた。ファラフォーセット・メジャース!良かったですな〜。
だから、内容は推して知るべし。問題は、どう捻るかだが・・・
とにかく最低なのが美術。西洋文化圏の思うところの“日本”は、とにかく酷い。ボーダーレスの今日に至っても、こいつらバカ。ここを「誇張すべき所だから許す」なんて訳知り顔で語る日本人のあなたも、売国奴です。相撲ゲームを言っているのではありません。もしもこれが、日本市場でのヒットを狙ってのことだったら、打つ手無しの脳天気モノだ。
『マトリックス』のユエン・チョンヤンが武術指導に入っています。もう丸分かり、俳優にこってりとした訓練を何ヶ月も課して、肉体で演技させています。少なくとも組み手に関しては、CG無しです。もっとも、エンジェル達は銃の使用が御法度なので、ワイヤーアクションを組み入れたのは賢明でしょう。ただし、インパクトは無し。というか、『マトリックス』のパクリで、新しい試みは一切無いです。この辺、極めて退屈。
監督のMcG、TVシリーズ『アリーmyラブ』を気にし過ぎ!ちょっと腹が立つほど。仕事も恋も一生懸命、なんて、何を今更。格闘中に携帯電話でラブラブ会話?クライアントとセックス?おいおい、チャーリーだって嘆いていると思うぞ。
ドリュー・バルモア。『この映画がすごい!』(宝島社)では“土流親方”と呼ばれていますが、う〜、才色兼備というには、“才”も“色”も・・・ まぁ顎の弛みファンというのもいることだし(って、ちょっと『アリー』入っちゃいましたね)。製作兼任というのは、25歳にしてキャリア20年のパワーがなす技ですな。
キャメロン・ディアス。いいですね〜。口がオバQだけど、好きです。『マルコビッチの穴』の反動が、ドカンと出てます。
ルーシー・リュー。狐目の女。『ポカホンタス』です。やめてくれ〜!
ビル・マーレー。大好きです。もっといろんな映画にガンガン出て欲しい。
ティム・カリー。未だに『ロッキー・ホラー・ショー』の人造人間って呼ばれてて、ちょっと可哀相だね。
ピチカート5の歌が挿入されていたのがグー。スキヤキソングが出てきたのよりも嬉しかった(でも九ちゃんのオリジナル)。あと、ゴジラシリーズの挿入歌もあったけど。
とにかく、エキストラも含め、そこいらじゅうの国に媚びまくっている映画です。笑っちゃうよ。


『スペース カウボーイ』
観た日:2000/11/10 お薦め度:★★★★★ もう一度観たい度:★★★★★

監督・製作・主演は我らがグレートダディ、クリント・イーストウッド、脚本は共にニューフェイスのケン・カウフマンとハワード・クラウスナー、撮影は『許されざる者』(1992)のジャック・N・グリーン,A.S.C.、美術は『スティング』(1973)『ガープの世界』(1982)のヘンリー・バムステッド、音楽は『マディソン郡の橋』(1995)のレニー・ニーハウス、VFX・SFXはご存じILM。他キャストは『逃亡者』(1993)のトミー・リー・ジョーンズ、『M★A★S★H』(1970)のドナルド・サザーランド、TV『マーベリック』(1957〜1960)のジェームズ・ガーナー、『ベイブ』(1995)のジェイムズ・クロムウェル!、『この森で、天使はバスを降りた』(1996)のマーシア・ゲイ・ハーデン、『ペイバック』(1999)のウィリアム・デベイン。

1958年。フランク(クリント)、ホーク(トミー)、ジェリー(ドナルド)、タンク(ジェームズ)の4人で結成する「チーム ダイダロス」は、宇宙飛行士になるべく超音速飛行機での訓練に明け暮れていたが、上官のボブ・ガーソン(クロムウェル)は、彼らの替わりにチンパンジーをロケットに載せた。それから40年。すでに退官していたフランクは、NASAから、旧ソ連時代からある気象衛星『アイコン』に搭載されている軌道制御システムが故障し、35日後に地球のどこかに落下してしまう、それを修理できるのは当時の開発者であるフランク以外にはいないと言われる。なぜアメリカの最高機密である宇宙機器が旧ソ連に渡っていたのかは不明だが、しかしこのシステムはあまりに旧式のため、地上からコントロールができない。フランクは「チーム ダイダロス」の復活と、自分達が直接宇宙に行ってこれを修理するという事を条件に、このプロジェクトに参加する。4人は、かつての上官で今やNASAの幹部ガーソンとまた仕事をすることになった。若手クルーと同等の訓練を繰り返し、意気揚々とスペースシャトルに乗り込んだ4人は、いよいよ人工衛星アイコンに接触するが、しかしその様相は気象衛星とはまるで異なるものだった。さらにフランクらは、内部に核ミサイルが搭載されているのを見る。

やってくれたよ、クリント・イーストウッド!『マディソン郡の橋』とかで、おじーちゃんなのに色恋ムービーにでしゃばるな!(しかも下手くそ・・・)なんて思ってたが、いやいやこれは凄い映画ですよ。
だいたいが、爺さんが群れで宇宙に向かう、なんて骨子だけで、もう何だか泣けちゃうのだが、向かう連中の何と骨太なこと!たまらんですな。
トミー・リー・ジョーンズ。彼だけが他のメンバーと比べ一回りも若いのだが、顔のしわのおかげ?で全く違和感無し。しかも美味しい役です。
ドナルド・サザーランド。でかいジジイですね。意気盛んな所も、まったく自然にこなす。日本の年寄りは、こうスマートには女は口説けまい。
ジェームズ・ガーナー。巧いですね。渋いし。TVがメインみたいですが、ちっちゃい映画にも随分と出ているようです。以降注目。
ジェイムズ・クロムウェル!憎々しいほどの巧い悪役振り!『ベイブ』の無口な農夫がここまでやるとは!
マーシア・ゲイ・ハーデンとウィリアム・デベインが、NASAスタッフとして良い味を出している。特にウィリアム・デベイン。『アポロ13』(1995)のエド・ハリスばりの演技だ(これは褒め過ぎかな?)。
とにかく、年寄りしか出てこない(『コクーン』(1985)よりもある意味徹底)映画だ。そう、だからいいのだ。
NASAでの訓練風景は、『ポリスアカデミー』(1984)のパクリっぽいけど、これはまぁご愛敬。
特撮・CGも、こういう使われ方なら全然OK。歓迎します。
ラストの、フランク・シナトラの「Fly Me To The Moon」が、映像と相まって誠に見事。
99点です。あとの1点は、“女”が出てこないこと。まぁクリント・イーストウッドに女を出せと言っても無理なことは承知(下手すりゃ娼婦とか出しそうだし)。だからこの映画は、99点が満点なのです。


『ミラクル☆ペティント』
観た日:2000/11/10 お薦め度:★★★ もう一度観たい度:★★☆

監督はハビエル(弟)・フェセル、脚本はギジェルモ(兄)&ハビエル・フェセル、撮影はハビエル・アギレサロベ、音楽はスソ・サイス、美術はセサル・マカロン。主人公はルイス・シヘス、キャストにシルビア・カサノバ、パブロ・ピネド、ハビエル・アリェル、エミリオ・ガビラ、ハンフリ・トペラ。

ペティント家は、代々バチカン教会へウェハースを献上する仕事をしており、それを誇りにしていた。跡継ぎとなったペティント(ルイス)も、もちろんウェハース作りに精を出すが、問題は、盲目の妻オリビア(シルビア)との間に子供ができないことだ。しかし、それもそのはず、2人は子供の時に子沢山のある男の「秘訣は、毎日のタラリンタラリンさ」と言う言葉と、そのときにしていた、ズボン吊りを両親指に引っかけてビヨンビヨンと引っ張る仕草が、子作りの方法と未だに思い込んでいるのだ。ベッドに腰掛けるオリビアと、その横で「タラリンタラリン」に励むペティント。そして50年が過ぎる。いよいよもって子供の欲しい2人は、神に祈った。と!火星から小人の兄弟(ハビエルとエミリオ)が地球の小型自動車型宇宙船の故障で不時着し、さらに精神病院を脱獄してきたパンチート(パブロ)もやってくる。大賑わいのペティント家だが、しかしやがて、息子達?は旅立ちの時を迎える。

スペイン映画。公開された1998年は、国内で興行新記録を樹立した。
フェセル兄弟は、共にTVCM畑出身で、カンヌ広告祭で金獅子賞を受賞している。本作が長編第一作目である。
え〜、コメントし難い映画。ジャンルはコメディなのだろう。面白くないと言ったら嘘だが、独特のユーモアセンスが、私個人としてはどうにも消化し切れないのだ。マイノリティへの差別が満載なのである。
小学生のペティント少年は学業に疎く、教師は体罰承認の為に親に電話をする。盲目の少女オリビアは、ただ白目を向いているだけの演技だ。もちろん目の見えている子役である。それが、白目を向いてわざとらしい下手くそな演技をする。大人になったオリビアにしても、まったく同様。火星人の2人は、低身長の俳優。もう1人の養子パンチートは知的障害、精神病院をパンチートと共に脱獄する少年は孤児で、母親は彼を孤児院に押しつけ外国で生きようとするし、孤児院の先生は楽しそうに虐待をしている。
ワカラン。ワカランが、これがスペインの笑いのツボだったとしたら、私はスペインには住めない。(だいたいが、子供欲しさに毎日何度も「タラリン」にふける一途に無知な2人を見てて、思わず涙ぐんでしまった私である。)
ただ、このようなマイノリティが、実におおらかに描かれているのも事実だ。そう、この映画の救いは、ナンセンスなストーリー&キャスティングながら、ホンワカとしたムードがそれを相殺していることである。
それに、映像の美しさ。冒頭のペティントがたたずむ田舎の麦畑の中の砂利道。夕焼けの羊雲と大地との対比には、ジンときました。
まぁ、わざわざ劇場に観に行かなくてもいいかな〜。ただし、こういう映画は、吹き替えが生きると思いますよ。広川太一郎や青野武の絶倫アドリブトークでゲラゲラ笑えるといいんじゃないかな。


『キッド』
観た日:2000/11/01 お薦め度:★★★★★ もう一度観たい度:★★★★

監督は『クール・ランニング』(1993)のジョン・タートルトーブ、脚本はオードリー・ウェルズ、撮影は『ダイ・ハード3』(1995)のピーター・メンジス・Jr、音楽は『めぐり逢えたら』(1993)のマーク・シャイマン。主演はブルース・ウィリスとスペイシー・ブレスリン、ヒロインは『スクリーム3』(2000)のエミリー・モーティマー。

ラス(ブルース)はVIP達の立ち振る舞いを助言するイメージ・コンサルタントとして成功をおさめている。部下のエイミー(エミリー)は、ラスに好意を抱いているが、彼のあまりに冷徹で計算高い仕事のこなし方に、ついていけないと時折感じている。ある日、ラスは自宅に侵入してくるラスティ(スペンサー)という少年を捉えた。ところが色々話しているうちに、ラスティは8歳になろうとする自分だということに気付く。ラスはノイローゼだと思いこむが、秘書にもラスティの事が見えている。エイミーは2人を見比べながら、たちどころに奇妙な関係を受け入れた。ラスは子供時代の記憶を封印している。それは悲観するに余りあるものだった。そのまっただ中に生きているラスティの出現は、ラスを混乱させるのだった。小太りでそそっかしいラスティ。小学校ではイジメられっ子だ。一方ラスティは、パイロットになってチェスターという名の大型犬を飼い、素敵な家族に囲まれて・・・という自分の夢を、一切実現していないラスに失望する。ラスティにとっては、経済的な成功など何の意味も持たないのだ。ラスはラスティと向き合うことで少しずつ少年時代の事を思い出していく。

珠玉の小品!
脚本家のオードリー・ウェルズは、このアイデアを10年間暖め続け、ジョン・タートルトーブに持ちかけたという。
赤い飛行機、ドライアイ、犬のチェスター、いじめっ子、教師の体罰、両親との関係と過去の封印、いろいろな要素が、上手く伏線として張られ、しかも嫌みでない。
この映画の根底にあるのは、男のロマンだと思う。女性が見た男性像と、男性が見た男性像という、越えられそうで越えられないギャップがある気がする。そこの所を、カップルで観に行って、酒の肴にするのがいいかもしれない。
ブルース・ウィリス。子役とのコンビということで、『シックス・センス』(1999)に味をしめて、すわ二匹目のドジョウ?と思ったけど、でもね〜、ホント彼は巧いです。ただの禿げオヤジではありません。まぁ、デミ・ムーアとの離婚も決まり、慰謝料も膨大だろうし、バンバン映画に出て稼がないといけないのだろうが、でも手を抜いてはいませんね。
スペンサー・ブレスリン。でぶっちょの子役が脇でなくメインで出てくるのは、そんなに記憶にない。ナチュラルな演技は計算されたものではない。その“危うさ”が、上手くブルースとシンクロし、ラストまで続く。
エイミー・モーティマー。ポヨヨンとした雰囲気が、擦れてない可愛さを醸している。ブレイク必至!“飾ったピュアさ”を必死にまとうメグ・ライアンのようにはならないでくれ〜!
さすがはディズニー印の作品。暴力もエロ(キスシーンさえも!)も一切無し。
超お薦めの映画。泣けますよ。


『五条霊戦記』
観た日:2000/11/01 お薦め度:★★ もう一度観たい度:☆

監督は石井聰互、キャストは隆大介、浅野忠信、永瀬正敏、岸部一徳、船木誠勝、勅使河原三郎。

平安時代末期。平家は源氏を滅ぼし京の都を支配した。しかし夜な夜な武士が斬られるという怪事件がおきる。封鎖されている“あの世”を繋ぐと言われている五条橋から来る“鬼”が侍を斬ると、人々は噂していた。武蔵坊弁慶(隆)は、過去の殺生三昧を悔い改め今は修行の身だが、不道明王のお告げを受け、鬼を退治するべく京に来た。元刀鍛冶で、今は死んだ侍から刀を盗んで集めている鉄郎(永瀬)と知り合った弁慶は、恩人の高僧(勅使河原)の制止を無視し、“鬼”との接触を図る。“鬼”の正体は「遮那王」(浅野)と名乗る、清和源氏の血を引く正統な後継者と、2人の護衛者だった。遮那王は平家侍を斬ることで剣を鍛えており、「源九郎義経」の名で元服を迎えるべく奥州へ立とうとしている身だった。一方、“鬼”の噂を支配していたのは、平家側だった。◎◎(岸部)は、情けをかけて殺さなかった源氏の赤ん坊がよもや刃向かってくるとは思っていなかったので、体裁を保つために“鬼”としていたのだ。度重なる“鬼”征伐にも屈せず、逆に平家侍を皆殺しにしていく遮那王たちは、遂に神仏をも否定、剣こそ唯一の拠との思いを抱き、弁慶と五条橋で対決する。

観に行くのを躊躇っていたが、予感は当たり。どうしようもない映画。
石井聰互監督の怨念は感じるが、つまらない。脚本はベタ。撮影・照明は陰湿。セットはまぁまぁ。音楽は、これ見よがしでトホホ。
何だかよくわからない殺陣。演者が上手いのか下手なのか、全然わからない編集。細かいカットをデジタルで繋ぎ過ぎなんだよ。やり過ぎはいけないのだ。
オチも、“鬼”が3人出てきただけでもうバレバレ!まぁ義経は、結局は頼朝に追われる身だから、どんな“血”であろうとも構わないのだが。
隆大介。いいです。ごつくて。
浅野忠信。何で浅野がキャスティングされたのかわからない。元服前の少年(数えで15歳前って事でしょ?)の設定は、無理があり過ぎ。演技も下手。
永瀬正敏。時代劇はやめた方がいい。雰囲気まるでなし。画面から浮いてる。役回りも不適切。
観ていて胸が痛くなる映画。日本映画界は、韓国を見習うべきだ。


『インビジブル』
観た日:2000/10/20 お薦め度:★★★ もう一度観たい度:★★★

監督は『ロボコップ』(1987)『氷の微笑』(1992)『スターシップ・トゥルーパーズ』(1997)のポール・バーホーベン、脚本は『エンド・オブ・デイズ』(1999、製作も)のアンドリュー・W・マーロウ、撮影は『ネバーエンディング・ストーリー』(1984)『トータル・リコール』(1990)のジョスト・バガーノ A.S.C.、美術は『ハムナプトラ 失われた砂漠の都』(1999)のアラン・キャメロン、音楽は『オーメン』(1976)のジェリー・ゴールドスミス。主演は『フットルース』(1984)(!)『アポロ13』(1995)のケビン・ベーコン、『リービング・ラスベガス』(1995)のエリザベス・シュー、『完全犯罪』(1994)のジョシュ・ブローリン。

天才科学者のセバスチャン(ケビン)は、アメリカ国防省の特別チームのリーダーとして、人間の透明化の研究をしている。動物実験では、既に透明化には成功していたが、元に戻す方法につまずいていた。しかしそれも遂に克服、ゴリラでの実験も成功した。国防省からの成果催促の中、セバスチャンは危険を承知で自ら実験台となる。透明化には成功したが、やはり懸案の可視化に失敗、同チームの元恋人リンダ(エリザベス)やマシュー(ジョシュ)の必死の解析にも関わらず、セバスチャンの身体は透明のままとなった。元々狂気を孕んでいたセバスチャンは、透明になった身体を、逆に欲望を達成するための道具として使うことにした。最初は覗きやイタズラであったが、隣人のレイプや、遂には殺人まで犯してしまう。セバスチャンの驚異を外部に知られてはならないと、研究所はセバスチャンを捕獲しようと躍起になるが、逆にセバスチャンに次々と殺されてしまう。

ご存じ“透明人間”が、現代のVFXで味付けしたらどこまでできるか?を具現化した作品。
ポール・バーホーベンと聞くと「・・・変態?」と答えが返ってくる訳だが、『トータル・リコール』等の変質的エロ度は健在。何たって“透明人間”だもの。寝ている女性同僚のオッパイを触ったり、隣のアパートに住む美人を驚かせながらレイプしたり。それに、ケビン・ベーコンが徐々に透明になっていくシーンも、充分にエロです。
しかし!「最新VFXではこういう表現方法も可能です」的な、先立つ技術にストーリー後付け、みたいな臭いがプンプンするんだよな〜。私のへそが曲がってるだけかな〜?
ケビン・ベーコン!バーホーベンの変態性にあの表情はうってつけ。VFXのために全身を緑や青や黒で塗ったくったそうだ。「彼を変装させて全員と演技させCGで彼を消した。これが画面では“見えない”彼の存在感を、感じさせる手法として成功した」というバーホーベンの論は正解。
エリザベス・シュー。オッパイを出したくないとごねてバーホーベンを納得(説得?)させたそうだが、シャツ越しの乳首はOK。この辺が、男の私としては皆目ワカラン。女にとっては、“シャツ越しの乳首”は“パンチラ”と同義語なのだろうか?更に、この映画は彼女がケビン・ベーコンよりも先にクレジットされているが、これは何故?
タイトルバックのCGが、顕微鏡で覗いた検体を巧く模している。
内容としては、とりたてて言うことはない作品。CGとかをご覧になりたい方はどうぞ。


『サルサ!』
観た日:2000/10/06 お薦め度:★★★★ もう一度観たい度:★★★

監督・脚本・原案はジョイス・シャルマン・ブニュエル、協同脚本は『ブルジョアジーの密かな愉しみ』(1972)『存在の耐えられない軽さ』(1988)のジャン=クロード・カリエール、撮影はマニュエル・ムンツ、衣裳はクリスチーヌ・ジャキン、音楽はグルーポ・シエラ・マエストラとジャン・マリ・セニア、振付はジョルジュ・モーレとアニュウルカ・シャトラン。主演はヴァンサン・ルクール、パワフルヒロインはクリスティアンヌ・グゥ、共演はエステバン・ソクラテス・コバス・プエンテ、カトリーヌ・サミー、アレクシ・バルデス。

レミ(ヴァンサン)は、音楽学校を主席で卒業し将来を嘱望されるピアニスト。コンクールでも高い技術を審査員に見せていた。が、突然演奏を止め、サルサを弾き始めた。敷かれたレールよりも心から沸き上がるラテン音楽に身を投じたい。そんな思いが彼を突き動かしたのだ。レミはキューバの友人フェリペ(アレクシ)を頼ってパリに行くが、フェリペには「お前の肌はミルク色、サルサはチョコレートにしか奏でられない」と言われてしまう。フェリペに紹介されたキューバの伝説的作曲家バレート(エステバン)の所に転がり込んだレミは、黒く化粧をし名前も“モンゴ”と名乗り、キューバ人になりすますことにした。サルサダンス教室を始めた“モンゴ”は、そこでナタリー(クリスティアンヌ)と出会う。キューバ人としてナタリーと接する“モンゴ”は、次第に彼女に惹かれていく。

フランス映画とは思えない、文学的な臭いのしない(失礼)娯楽ダンスムービー。
キャラクターの立て方が陳腐、というか貧弱、というか卑近すぎ。詳しく書くと映画が面白くなくなっちゃうから書かないけど、自主制作マンガでもこんな設定は今やしないと思う。でもそれを力技でガブリ寄ったブニュエル監督は、もしかしたら凄い才能の持ち主なのかも。スピード感があって面白いのです。
フランス国内に根強く残る、白人エリート意識による人種偏見を、キッチリ描いているのがナイス。博愛と自由と平等は、努力目標なのだ。それを隠さないのが良い。同じ視線で、キューバ人の明るさの裏にある悲哀も描いている。この辺は脚本を褒めたい。
音楽もグッド。『ブエナ★ビスタ★ソシアル★クラブ』(1999)みたいに、サントラ盤やライブステージで大金を掴もうというような姑息さがないので、かえって良い。
ヴァンサン・ルクールは、これが長編映画の初主演だそうだ。素面のレミよりもモンゴの方があからさまにかっこいいのが笑える。ピアノは全然弾けないが、手の動きだけは完璧に真似たそうだ。ということは、現場ではピアノだけが無茶苦茶だった訳だ。想像するとこれは凄い。
クリスティアンヌ・グゥ。こういうグラマラス(=デブ?)でパワフルな女優は、まさにラテン系ならでは。アジア人には望むべくもない。
楽しい映画です。思わぬ拾いモノという気がします。観ましょう。


『マルコビッチの穴』
観た日:2000/09/29 お薦め度:★★★★★ もう一度観たい度:★★★★★

監督は才気溢れるスパイク・ジョーンズ、恐るべき脚本はチャーリー・カウフマン、撮影はランス・アコード、編集はエリック・ザンブランネン、音楽は『ベルベット・ゴールドマイン』(1998)のカーター・バーウェル。キャストは『コン・エアー』(1997)のジョン・キューザック、『8mm』(1999)のキャスリーン・ターナー、『ベリー・バッド・ウェディング』(1998)のキャメロン・ディアス、『ラウンダーズ』(1998)のジョン・マルコビッチ、『インナースペース』(1987)のオースン・ビーン、『メジャーリーグ』(1989)のチャーリー・シーン。

卓越した技術はあるが売れない人形師クレイグ(キューザック)は、ペットショップに勤める妻ロッテ(キャメロン)と2人でニューヨークに暮らしている。クレイグは収入を得ようとファイル係を求めている会社に面接に行くが、そこはビルの“7と1/2”階にあった。合格したクレイグは、フロアの共有廊下でマキシン(キャスリーン)に出会い、一目惚れをする。ある日、ロッカーの隙間にファイルを落としてしまったクレイグは、それを取るためにロッカーを移動させた。するとそこの壁に板が打ち付けてあり、剥がすと大きな“穴”があいていた。恐る恐る進み入ったクレイグは、吸い込まれるように“穴”に落ちていった。するとそこは、俳優ジョン・マルコビッチ(本人)の頭の中だったのだ!彼の目から覗き見る彼の生活。そして15分後、クレイグはニュージャージーへ続くハイウェイ横の草むらに放り出されていた。信じられない経験。これをマキシンに話すと、彼女は「入れ替わり願望」を満たす商売としてこれを利用する事にした。また“穴”に入ったロッテは、マルコビッチになった自分に男性への性転換願望があることに気付く。マキシンはマルコビッチに接近した際、その瞳の中から覗くもう一人の存在(ロッテ)を知り激しく欲情する。一方、精神に違和感を覚えるマルコビッチは、マキシンを追い、彼女の商売と“穴”の存在を知った。マキシンを手に入れたいクレイグは、マルコビッチに入り込むことでマキシンを抱き、しかもそのまま長時間マルコビッチの中に入り続けるコツを掴んだ。マルコビッチを乗っ取ったクレイグは、マキシンと組んで、マルコビッチの名声を利用し彼を人形師として再スタートさせる。1人残されたロッテは、この会社の社長であるレスター(オースン)に近づき、この“穴”の真実とレスターの本当の姿を知る。

驚くべき才能!かつて語られてきた「今まで見たことのない」という言葉は、この映画にこそ相応しい。
まずは、上記の下手糞な要約があまりに陳腐で惨めに感じてしまうほどの、恐るべき脚本だ。チャーリー・カウフマンは、これが初の映画用脚本だという。一見バラバラな要素(人形師、7と1/2階、壁の穴、マルコビッチ、変身願望など)と、特徴のあるキャラクター設定を、全く事も無げにまとめ上げている。
さらに、この脚本を軽々と越えてしまったスパイク・ジョーンズの監督としての天賦の才!まったくもって呆れるばかりである。彼は、あらゆる映像シーンの革命児的扱いであるが、映画に対してもその才能は充分に発揮されている。恐るべき脚本ももちろん称えるに充分なのだが、この映画に対してはスパイク・ジョーンズの方が一枚上手だ。
斬新な設定やマルコビッチの達者な演技に目が行きがちなこの映画だが、個人的に最も気になったのは、マキシンの生き様だ。マキシンを溺愛していくクレイグは、実は最後までクレイグとしては愛してもらえない。マキシンが愛しているのは、実はマキシン自身なのだ。マルコビッチと、瞳の奥に感じるロッテ或いはクレイグとの3Pに欲情する自分に酔っているのだ。しかし、そんなマキシンを見せつけられたクレイグとロッテにとっては、愛する対象はマキシンとなってしまう。マキシンを殺そうとするロッテは、マキシンの「お腹の子はロッテの子だ」(正確には、ロッテがマルコビッチに入っているときにセックスした事でできた子、という意味)と言い、ロッテの男性願望を満たすことで窮地を逃れる。しかしそれは、生き残るためのでまかせでしかないのだ。ところがマキシンは、言葉や行動にした瞬間にそれが真実になるので、マキシン自身にはさしたる問題ではない。かようにして、クレイグとロッテは振り回される。
ボサボサのキャメロン・ディアス。美しい演技だ。ヘンテコなキャラクターばかりだが、マキシンへの一途さは充分に輝いている。
ふう。いろいろ書いたけど、この映画ほど「本当の所は、観てみないとわからないよ」と言いたくなる(というか、単に適切に説明できないだけ)映画も珍しい。間違いないのは、この映画は新しい扉を開けたという事だ。


『最終絶叫計画』
観た日:2000/09/29 お薦め度:★★★☆ もう一度観たい度:★★★☆

監督は『ダーティ・シェイム』(1994)のキーナン・アイボリー・ウェイアンズ、撮影は『ビーン』(1997)のフランシス・ケニー、衣裳はダリル・ジョンソン。キャストはアンナ・ファリス、『パラサイト』(1998)のジョン・エイブラハムズ、『アメリカン・パイ』(1999)のシャノン・エリザベス、ショーン・ウェイアンズ、マーロン・ウェイアンズロシリン・ムンロ、レジーナ・ホール、カーメン・エレクトラ、シェリ・オテリ。

ハロウィンの夜、女子高校生が殺された。犯人は『スクリーム』のマスクを被っているが、デザインがちょっと違う。次の朝、シンディと5人の仲間達は、昨年交通事故によって死なせてしまい、港に投げ捨ててしまった男が蘇ったのかも、と話す。この辺は『ラストサマー』に似ているがちょっと違う。しかし次第に仲間は殺されていき、ついにシンディとマスクマンの一騎打ちとなる。『マトリックス』のような戦いのうち、遂にマスクマンは窓から落ちる。警官や保安官が駆けつけてくるが、しかしそこに彼はいなかった。『13日の金曜日』みたいだがちょっと違う。

“パロディ”というジャンルがある。正しい提議は知らないが、世間に認知されているオリジナル作品の美味しいところをもらってきて、全く同じ事をするか、かすかに雰囲気から元ネタが伝わる程度まで加工するか、あるいはそれらの中間かの形に仕上げる。まぁ、こんなところかな。
“オリジナル”と“パロディ”は、その創造性の価値観を比較するものではないと思う。もともと土俵が違うのだから。野球とソフトボールのチームが自分達のルールでもって試合をしようとするようなものだ。
……以下、自分のポテンシャルは棚に上げて書きます。
最近よく思うことなのだが、話は飛んで音楽業界の事なのですが、例えばある男が良いメロディを思いついたとして、それをコンピューターか何かで音譜にして、ついでに楽器ソフトでアンサンブルを組み立てて、音声ソフトで声も作っちゃって、世の中に発信したらミリオンセラーになった!としますね。で、彼は本物の楽器なんて全然弾けない。さて、こんな彼は“ミュージシャン”か?“シンガーソングライター”か?
私は違うと思います。彼が持っていたものは、良いメロディと、センス。時代を掴み、売れる楽曲に気付いたセンス。この2つだけで、もし彼がいっぱしの“ミュージシャン”を名乗るとしたら、彼は大馬鹿者だ。
時代に合致するセンスというものは、成功するための重要な才能だから、それを否定する気は全くない。しかし、センスだけで大手を振って歩いていくのは、本末転倒だと思うのだ。
なんだか“パロディ”を悪者にするが如き文章にも読めますが、私としては“パロディ”を否定する気はサラサラありません。ただ、こういう映画を観て、上記のような「センスだけでのらりくらりと時代を生きていく」ことを選んじゃう人が増え、結果的に“本物”が減るとしたら、それは相当に不幸なことだなぁと思うのです。
あんまり堅苦しい事なんて考えず、ただただ笑い飛ばしてくれればいい、というのが、こんな映画の正しい観方なのでしょ〜がね〜。


『60セカンズ』
観た日:2000/09/22 お薦め度:★★★★ もう一度観たい度:★★★★

監督は『カリフォルニア』(1993)のドミニク・セナ、製作は『フラッシュダンス』(1983)『トップガン』(1986)『ザ・ロック』(1996)『アルマゲドン』(1998)のジェリー・ブラッカイマー、脚本は『コン・エアー』(1997)のスコット・ローゼンバーグ、撮影はTV出身のポール・キャメロン、音楽はロックグループ『イエス』のギターを弾くトレバー・ラビン。主演は『リービング・ラスベガス』(1995)のニコラス・ケイジ、共演は『17歳のカルテ』のアンジェリーナ・ジョリー、『テンダー・マーシー』(1982)のロバート・デュパル、TV『フレンズ』のジョヴァンニ・リビージ、『サイダーハウス・ルール』(1999)のデルロイ・リンドー、『エリザベス』(1998)のクリストファー・エクルストン。

ハリウッドで車泥棒を生業としているキップ(ジョヴァンニ)は、カリートリー(クリストファー)から依頼された50台のプレミアムカーを集められず、命を狙われる。すでに足を洗い子供にカートを教えているキップの兄メンフィス(ニコラス)は、キップの事を聞かされ、昔の仲間達を集めて、車の下調べを始める。一方、過去に何度もメンフィスを取り逃がしているキャッスルベック刑事(デルロイ)らは、メンフィスが戻ってきたことを知り、彼を追う。下見を終えたメンフィスらは、1晩で一気に50台を盗むことにした。順調に作業をこなすなか、メンフィスは最後に、かつて2度も盗み損なっているシェルビーGT500に手をかけるが、キャッスルベックの追跡にあう。必死のカーチェイスが始まる。

隙のない作り。面白い。ブラッカイマー節は健在である。
音楽がいい。トレバー・ラビンは『コン・エアー』『アルマゲドン』などにも参加している、いわばブラッカイマー組の一員である。スタイリッシュ。
脚本には、特筆すべきものはないが、無難な構成でアクションを押し出している。「ヒューマンドラマを織り込むのが信条」とはブラッカイマーの言葉だが、この作品にとってはちょっと努力不足だ。でも、面白いから気にしない。
ニコラス・ケイジ。最高!私のツボにズッポシはまる。顔つき然り、体つき然り、演技(というかテンション)然り。ギトッと全身から滴らせる不飽和脂肪酸がいい。よく燃えそうだ。この映画を観たいと思ったのも、予告編で、ニコラスが仲間達に向かって泥棒開始の気勢を上げるシーンが(目をつむって頭を下げ、前に上げた両手をプルプル震わせながら、「さあ、行くぞ!」という所)あまりにも“ニコラス”だったからである。
アンジェリーナ・ジョリー。よくワカラン。唇はいい。ポテッとしてエッチっぽくて。でも、この映画では、ただの色気の添え物の気がするが。オスカー助演女優をとった真偽は別の映画で確かめよう。
デルロイ・リンドー。巧い。『サイダーハウス・ルール』ではただの近親相姦オヤジだったが、こういうアクション物もよく似合う。しかしエンディングの“あれ”はないと思うぞ。
ポップコーンムービーのお手本。娯楽大作。良いではないか、楽しければ。
でも、パンフとかのコピー「男は60秒で車を盗み、女は60秒でハートを盗む」は、あんまりだと思うぞ。アンジェリーナが一体誰の心を盗んだんだい?


『リプリー』
観た日:2000/09/01 お薦め度:★★★★ もう一度観たい度:★★★

監督・脚本は『イングリッシュ・ペイシェント』(1996)のアンソニー・ミンゲラ、撮影は『刑事ジョン・ブック/目撃者』(1985)『レイン・マン』(1988)のジョン・シール,A.C.S.,A.S.C.、編集は『アメリカン・グラフィティ』(1973)のウォルター・マーチ,A.C.E.、音楽は『シティ・オブ・エンジェル』(1998)のガルリエル・ヤレド。主演は『グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち』(1997)のマット・デイモン、共演は『ガタカ』(1997)『イグジステンズ』(1999)のジュード・ロウ、『恋に落ちたシェイクスピア』(1998)のグゥイネス・パルトロウ、『エリザベス』(1998)のケイト・ブランシェット、『マグノリア』(1999)のフィリップ・シーモア・ホフマン、『クロコダイルの涙』(1998)のジャック・ダベンポート。

1958年ニューヨーク。アルバイトのピアノを演奏していたトム(マット)は、たまたま借りたプリンストン大学のジャケットにより、主賓の造船王グリーンリーフ氏に見そめられ、同校卒の、イタリア・モンジベロで遊び呆けている息子ディッキー(ジュード)を連れ戻してきて欲しいと依頼される。船はナポリに到着、そこでアメリカ名家の令嬢メレディス(ケイト)と会う。トムはつい、自分をディッキーだと偽ってしまった。モンジベロではディッキーが、ローマで知り合った作家の卵であるマージ(グゥイネス)と一緒に暮らしていた。爛漫で奔放で、しかし女性に手の早いディッキーに惹かれていくトム。しかし勿論、その想いはディッキーには届かない。ディッキーにとってのトムは、面白いが所詮は下層階級の野暮な男なのだ。サン・レモで小舟に乗ったときに告白したトムは、ディッキーに拒絶されたことから衝動的に彼を殺してしまう。その時、トムは“ディッキー”として生きることを思いつく。

原作はパトリシア・ハイスミスの『THE TALENTED MR. RIPLEY』。言わずと知れた『太陽がいっぱい』(1960)の元ネタである。しかし、元が同じでも脚本家や時代が違うとここまで変わる。この映画は『太陽がいっぱい』の焼き直しなどでは断じてない。だいたいが、アラン・ドロンvsマット・デイモンである。一緒な訳がない。
マット・デイモン。暗い!『ラウンダーズ』(1998)でもそうだった。いや、『グッド・ウィル・〜』も『プライベート・ライアン』も暗い。こいつ、こういう性格なのか?朋友のベン・アフレックみたいに脳天気な役もやって見せてくれ(あれほどバカ丸出しも困るけど)。でも、元々気付いていたのかディッキーと出会って目覚めたのか知らないが、受け身オンリーのホモセクシャルという従順な小型犬のような複雑な役を、あれだけきっちりこなせるというのは、やっぱり巧い証拠です。
ジュード・ロウ。かっこいいです。巧いし。汚れ役を見てみたい。
グゥイネス・パルトロウ。どうしたんだそのエラは?まぁいい。変な水着姿は勘弁するとして、ちょっと可愛い子ブリブリし過ぎでないの?
ケイト・ブランシェット。若いようなオバサンなような、ウブともやり手とも見える変な表情。グゥイネスと握手するシーンで、火花が見えた気がしたのは私だけ?(昨年のアカデミー賞を思い出しちゃったもので・・・)
女性陣は?なキャストだが、作品としては上手くまとまっています。監督の手腕?ですかね。嘘は嘘を呼ぶ。もう塗り固め続けるしかない。血染めの手は乾かない。でも、自分は死ねない。そんな“一生拭えない不安”を、巧く表現できていると思う。
どうかな〜、青春スター映画というにはややスレてる俳優ばっかりだし、ストーリーテリングは出来てるけど長い(2時間20分)し、どうも諸手を挙げて歓迎!みたいな映画じゃないのだ。でも面白くないかと言えば嘘だし、う〜む。
音楽がいいです。ジャズで。画面に巧くマッチしています。
どの映画誌にも書いてないようだからここで書きますが、ジュード・ロウのおチンチンとお尻が見れますよ。お得!


『ホワイトアウト』
観た日:2000/08/25 お薦め度:★★★★★ もう一度観たい度:★★★★★

監督はTV『振り返れば奴がいる』(1993)の若松節朗、原作・脚本は真保裕一、撮影は『HANA-BI』(1996)の山本英夫、照明は『お葬式』(1984)の本橋義一、録音は『始皇帝暗殺』(1999)『お受験』(1999)の小野寺修、美術は『ラヂオの時間』(1997)の小川富美夫、編集は『パラサイト・イヴ』(1996)の深沢佳文、VFXは『ゴジラ』シリーズ、『ガメラ』シリーズ、『リング』(1998)の松本肇。キャストは織田裕二、松嶋奈々子、佐藤浩市、石黒賢、吹越満、橋本さとし、中村嘉津雄、山田辰夫。

奥遠和ダムの作業員である富樫(織田)は、3ヶ月前、共に遭難者を救助に行き二重遭難にあって亡くした親友の吉岡(石黒)への後悔を拭えぬままでいる。吉岡のフィアンセである千晶(松嶋)は、吉岡の職場を1度見ておきたいとの想いから、奥遠和ダムを訪れる。しかし、まさにその時、極左翼テロリスト“赤い月”のメンバーにより、ダムは占領される。リーダーの宇津木(佐藤)は政府に50億円を要求、交渉不成立の場合はこのダムを破壊する、と宣言した。極寒で吹雪のダムは天然の要塞だ。屋外にいた富樫は、ハイテク装備したテロリストに、銃もなく立ち向かう。

堂々のエンターテインメント大作。勧善懲悪で、ひねりもあって、男同士の約束とか、ドラマとしての芯もしっかり通っていて、文句無し!いやはや、ここまで満足できる脚本・撮影・構成がかつてあっただろうか?
テロリスト達を倒す方法にもオリジナリティがある。映像も音響も、スケールを損なうことなく十二分に迫力を伝えてくれている。久しぶりにベタ褒めです!
織田裕二、がんばった。でかい口ばかりが気になっていたが、今回は良い出来だ。
松嶋奈々子。相変わらずの大根姉ちゃんである。長身の松嶋のために、テロリストらのキャスト選定は185cm以上の俳優というのが条件だったそうだが、そんな苦労をするくらいなら、松嶋を首にすればよかったのに。
中村嘉津雄。上手すぎる。こういう上司なら、みんな付いていけるね。
題名の“ホワイトアウト”とは、雪とガスと地吹雪とで周囲が真っ白になり何も見えなくなる状態を指す気象用語だそうだ。
とにかく、黒澤明と時代劇・ヤクザ物以外で、初めて成功した娯楽邦画。日本には雪がよく似合う。
必見!必見!!必見!!!


『ボーイズ・ドント・クライ』
観た日:2000/08/24 お薦め度:★★★★ もう一度観たい度:★★

監督・脚本は、新人女性監督のキンバリー・ピアース、脚本はアンディ・ビーネン、撮影はジム・デノールト、編集は『ゴースト・バスターズ』(1984)のトレイシー・グレンジャー、音楽はネーサン・ラーソン。主演は『ベスト・キッド4』(1994)のヒラリー・スワンク、クロエ・セヴィニー、アリシア・ゴランソン、ピーター・サースガード、ブレンダン・セクストン3世。

ネブラスカ州リンカーンから同州フォールズ・シティにやってきたブランドン(ヒラリー)は、バーでキャンディズ(アリシア)に声をかけ、彼女の家に泊めてもらう事になる。彼女や、ジョン(ピーター)、トム(ブレンダン)、ラナ(クロエ)らと、この何もない町でバカ騒ぎを楽しむ。ここでなら自分の事を隠さずに暮らせるかも知れない、そう思うブランドンは、やがてラナと恋に落ちる。しかし、スピード違反の罰金を払いに行ったブランドンが戻らないのを心配したラナは、ブランドンが女性収監所に入れられているのを見る。問いつめるラナに、ブランドンは自分が2つの性を同時に持っている事を伝える。女性の肉体に男性の心。性同一性障害のブランドン。しかしその事実は、周囲を急展開させる。

実話の、性同一性障害を真正面から取り上げた映画。監督・脚本のキンバリー・ピアースの極めて入念な下調べの結果、この力作が生まれた。
何だかな〜、重いんだよな〜。いや、テーマや構成を考えると、決して重いことが悪いわけではないんですが。これは恐らく、主演のヒラリー・スワンクの撮り方にあると思う。彼女を男に見せなくてはならないから、カンカン照りの下ではカメラを回せなかったのかな。
ヒラリー・スワンク。爆笑問題の太田光と、ネプチューンのえら張りの彼を足して2で割ったような顔と姿勢。まぁそこのところはどうでもいい。問題は彼女の男への成りきり方だ。
ヒラリー自身もいろいろ調べて、スタッフにも聞いて、リハーサルを繰り返したのだろう。なかなか上手である。そう、上手。彼女は男ではないのだ。
一方、性同一性障害の、心が男性で肉体が女性の人の場合はどうだろうか。かなりの例で、既に幼児期に肉体と心の乖離を自覚しているという性同一性障害では、ヒラリーよりも“男性”として生きている時間が当然ながら長い。だからもっと男性らしいのだろう。
では、彼らは“男性”なのか?“男性らしい人”なのか?「男は男らしく、女は女らしく」という認識が支配し、敬虔なカトリックの多いネブラスカ州という土壌では、性同一性障害の彼らは、“どちらでもない人”なのである。映画でも、「悪魔」とまで呼ばれている。ゲイだのレズだの性転換だの、が明るく賑やかに大手を振っているように見えるアメリカは、実は“何でも可!”が信条の日本よりも、状況としては厳しいのかもしれない。
私ならどうか。自分自身は、性は同一だ。友人が性同一性障害であったとしても、どうでもいい気がする。「その人が気に入ったから」が理由の友人関係だからだ。それでは、自分の肉親、特に自分の子供がそうだったら?頭では理解してあげられるかも知れないが、心の奥底ではちょっと困る。なぜなら、孫の顔を拝めなくなってしまうからだ。血縁が途絶える。この1点のみが、どうも私の中の拒否反応の部分のようである。
というように、相当に掘り下げて考えることを提示している映画。マイノリティに対する考え方も突きつけてくれる。これを機会に、私ももう少し時間をかけて、ジェンダーについて考えてみよう。
1つだけ、強く言いたい。ヒラリー・スワンクは熱演だ。認める。でも、オスカーはないんじゃないか?アカデミーは、マイノリティやハンディキャップドに甘すぎる。彼らをどうこうしろ、などと言う気はこれっぽっちも思ってないが、彼らを選び続ける(というか、彼らを演じる俳優を選び続ける)必要はないはずだ。


『TAXI 2』
観た日:2000/08/18 お薦め度:★★★★ もう一度観たい度:★★★

製作・脚本は『レオン』(1994)のリュック・ベッソン、監督はジェラール・クラヴジック、撮影はジェラール・ステラン、編集はティエリー・オス。キャストはサミー・ナセリ、フレデリック・ディーファンタル、マリオン・コティヤール、エマ・シェーベルイ、ベルナール・ファルシー、ジャン=クリストフ・ブーヴェ。

改造したプジョー406のタクシーを気持ちよくぶっ飛ばす無免許野郎のダニエル(サミー)は、恋人リリー(マリオン)の父ベルティノー将軍(ジャン=クリストフ)に会いに行く。今日は日本から防衛庁長官がマルセイユに来る日なのだが、うっかりそれを忘れていたベルティノーは、乗せてもらったダニエルの暴走が気に入り、ダニエルに長官の護送の任務を命ずる。一方、マルセイユ警察署のエミリアン刑事(フレデリック)、ペトラ刑事(エマ)らは、ジベール署長(ベルナール)の名付けた「ニンジャ作戦」を遂行すべく配置についていたが、日本からやってきたヤクザたちに長官を誘拐されてしまった。ヤクザ達は日本から持ち込んだ三菱ランサーエボリューションに乗っている。プジョーvsランエボのチェイスが、パリの街で繰り広げられる!

ご存じ『TAXI』(1998)の続編。
リュック・ベッソンは、『ジャンヌ・ダルク』(1999)で隠していたリュック流おバカギャグを、この作品につぎ込んでいた。どこまでもベッソン節。コテコテ。毒気というか、アクは健在。
特別に言うことは何にもありませんが、車の話だけ。街乗りでは恐らく世界一速いと思われるランエボが、プジョー406なんぞに負けるはずがありません。でもいいの。406には、羽根まではえてるんだから。
エミリアンとペトラは、いつからいい仲になったんだろう?前作では、エミリアンはいいようにあしらわれていたんだけどな〜。
あと、ペトラは、トイレで用を足しているときに拉致されたんだけど、そのときにパンツを落としていったでしょ?でも、忍者との殺陣のときにストッキングを履いてるのは何故?
まぁいいや。面白かったから。
ところで、外国映画に出てくる日本人(というか、日本人の描き方)を見ていると、世界では日本人はこういう風に見られているんだな〜、と勉強させられますね。でも出演者たちも、ちょっとでも変だと思ったらガンガン言った方がいいぞ。いくらヤクザの親分だと言っても、後ろに白塗りの芸者(しかも2人)なんて連れてないぞ!
まぁいいや。面白かったから。
フランスで史上最大のメガヒットとなったこの映画、パーティームービーとして吹き替えを見たいですね。


『サイダーハウス・ルール』
観た日:2000/08/04 お薦め度:★×100!! もう一度観たい度:★★★★★

監督は『マイライフ・アズ・ア・ドッグ』(1985)『ギルバート・グレイプ』(1993)のラッセ・ハルストレム、原作・脚色は『ガープの世界』(1978)『ホテル・ニューハンプシャー』(1981)のジョン・アーヴィング、撮影は『真夏の夜の夢』のオリヴァー・ステイプルトン,B.S.C.、衣裳デザインは『ヒマラヤ杉に降る雪』(1999)のレネー・エールリッヒ・カルフィス、編集は『ガタカ』(1997)のリサ・ゼノ・チャージン、音楽は『エマ』(1996)のレイチェル・ポートマン。主演は『ラスベガスをやっつけろ!』(1998)『カラー・オブ・ハート』(1998)のトビー・マグワイア、共演は『アルフィー』(1966)『ハンナとその姉妹』(1986)『リトル・ヴォイス』(1998)のマイケル・ケイン、『マイティ・ジョー』(1998)『ノイズ』(1999)『レインディア・ゲーム』(2000)のシャーリーズ・セロン、『200本のたばこ』(1999)のポール・ラッド、『ブロークン・アロー』(1995)のデルロイ・リンド、『クレイマー・クレイマー』(1979)のジェーン・アレキサンダー、『ライト・スタッフ』(1983)のキャシー・ベイカー。

メイン州ニューイングランドにある孤児院。孤児達に愛を注ぐ院長のラーチ(マイケル)は産婦人科医でもある。ホーマー(トビー)はここで産まれ育った。ラーチはホーマーに医療の知識を教え、「人のためになる事を考えろ」と常に言い続けていたが、ホーマーにとってはラーチの行う中絶手術(州法で禁止されている)が許せなかった。ある日、やはり中絶のためにやってきたキャンディ(シャーリーズ)と恋人の軍人ウォリー(ポール)に、とっさに「町に連れていってくれ」と頼み、孤児院を後にする。ポールの親の経営するリンゴ園で働くことになったホーマーは、“サイダーハウス”と呼ばれる労働者用の宿舎に寝泊まりし、作業をリーダーのローズ(デルロイ)に教わった。キャンディとの恋にときめくホーマーだが、ローズの娘の妊娠と、その父親がローズであることを知る。さらに、戦地に赴いているポールが下半身不随になったという知らせがくる。もう子供でい続けることは出来ない。ホーマーに、自ら決断を下す時がきた。

映画万歳!ラッセ・ハルストレム監督万歳!ジョン・アーヴィング万歳!
原作も脚色も監督も俳優もスタッフも、何もかもが巧くいくとこんなに輝ける作品が生まれることを、改めて確認させていただきました。ありがとう、と素直に言いたい。
個々のキャラクターは複雑で淫猥で外道だ。上っ面な総括をすると、主人公のホーマーは無垢だが、籠の外に出してくれた恩人ポールの恋人をかっぱらっちゃう。キャンディは快活な美女だけど、ポールが戦場で戦っている隙に世間知らずの坊やとねんごろになっちゃう。ラーチは孤児にとって包容ある父だけど、堕胎を正義と信じ、かつホーマーの学歴をでっち上げて医学部の卒業証書を偽造する。ローズは頼れるリーダーだが、自分の娘とセックスしちゃい、あまつさえ妊娠させちゃう。
でも、何でこんなに温かいんだろう。スクリーンの隅々から滲み出ている優しさは、一体何だろうか。監督の技量か?俳優、特にトビー・マグワイアの“子犬の目”のせいか?編集の妙か?いやいや、原作・脚色の秀逸さなのか?違うんだよな〜、全ての要素が、足し算ではなくかけ算で現れているからなんだよな〜。
孤児達の、養子縁組を希望する“両親”が訪問してきたときの、選んでもらいたいという必死なアピールと、もらわれていく子を送り出した後の深い絶望と切なさ。“足長おじさん”は気まぐれだ。しかし孤児院の絆は、血の絆よりも格段に濃いことも知っている。
ラーチ院長の、就寝前のいつものセリフ「メイン州の王子、ニューイングランドの王」が誠に見事な伏線で、堪えていた涙が最後にドッと溢れてしまったよ。
題名の“サイダーハウス・ルール”とは、宿舎“サイダーハウス”に貼られている、宿舎使用に関する禁止事項のことだ。しかし肝心の労働者達は文盲だし、その内容も何だかピントはずれ。実際には役に立たないルール、これもこの映画の重要な伏線なのだ。
一部では、シャーリーズ・セロンのナマお尻に注目が集まっていますが、もちろん見物ではありますが、どうかそれだけを楽しみにせず、是非とも映画館に足をお運び下さい。
そしてもし、この映画があなたの心の奥の琴線にわずかでも触れたのなら、どうぞパンフレットをお買い下さい。きっと宝物になります。見事な内容です。こういう800円なら、全然惜しくないです。


『パーフェクトストーム』
観た日:2000/08/03 お薦め度:★★ もう一度観たい度:☆

監督・製作は『U・ボート』(1981)『ネバー・エンディング・ストーリー』(1984)『アウトブレイク』(1995)のウォルフガング・ペーターゼン、『ワイルド・ブラック 少年の黒い馬』(1979)のビル・ウィットリフ、撮影は『イングリッシュ・ペイシェント』(1996)のジョン・シール,ACS,ASC、編集は『エアフォース・ワン』(1997)のリチャード・フランシス=ブルース,A.C.E.、特殊効果監修はILMとジョン・フレイジャー。主演は『スリー・キングス』(1999)のジョージ・クルーニー、共演は『ブギー・ナイツ』(1997)のマーク・ウォールバーグ、『リトル・ロマンス』(1979)のダイアン・レイン、『アビス』(1989)のメアリー・エリザベス・マストラントニオ。

カジキ漁師のビリー(ジョージ)は、最近不調で、同僚のリンダ(メアリー)に差を付けられっぱなしだ。もうじき、漁の季節が終わる。一発大逆転を狙って、海に繰り出すビリーと5人の仲間達。しかしそのとき、台風と低気圧2つがぶつかり合うように接近しており、かつて経験したことのないほどの大嵐が起きようとしていた。

がっかりの映画だ。ペーターゼン監督、『U・ボート』で見せた衝撃の映像、『ネバー・エンディング・ストーリー』で流した涙、あれはいったい何だったのだ?いつのまにか彼はその辺に転がっている能無しディレクターに成り下がってしまった・・・
言うこと無し。クソ映画。ILMの、『ディープ・インパクト』(1998)とかで得た“水”のVFXと、でっかい水槽でジャブジャブやった“水”のSFXをくっつけただけ。退屈。でっかい大波が来るけど、だから何?って感じ。
無理矢理盛り込むヒューマンタッチストーリーも、捻り無しの在り来たりのコンコンチキ。
いくら実話を基にした作品だといっても、エンターテインメント性が擬人的“ドンブラコッコ”にしかないんじゃ〜、どうしようもないよ。
ジョージ・クルーニー、きったない漁師役はビンゴ。『アウト・オブ・サイト』(1998)みたいな勘違いはしないで、このままきったなくオヤジになってくれ。
ダイアン・レイン。待つ女はもう止めろ。
何かの雑誌で「ファミリーOKの映画」なんて言ってたが、とんでもない。子供に嫌われちゃうゾ、おとっつぁん。彼女を連れていくのも止めろ。その場で振られちゃうゾ。
それでも「俺は波フェチ&CGフェチだ〜、文句あるか!」という方、「クルーニー様、命」な彼女、そんなに観たいなら観なさい。


『グラディエーター』
観た日:2000/08/01 お薦め度:★★★★★ もう一度観たい度:★★★

監督は『エイリアン』(1979)『ブレードランナー』(1982)『ブラック・レイン』(1989)『1492・コロンブス』(1992)のリドリー・スコット、脚本は『アミスタッド』(1997)のデビッド・フランゾーニと『永遠の愛に生きて』(1993)のウィリアム・ニコルソンとジョン・ローガン、衣裳デザインは『天地創造』(1966)『ウィズアウト・ユー』(1999)のジャンティ・イェーツ、撮影は『プランケット&マクリーン』(1999)のジョン・マンソン、編集は『JFK』(1991)のピエトロ・スカリア、音楽は『ブラック・レイン』『ライオン・キング』(1994)の巨匠ハンス・ジマー。主演は『L.A.コンフィデンシャル』(1997)『インサイダー』(1999)のラッセル・クロウ、キャストは『誘う女』(1995)のホアキン・フェニックス、『ディアボロス/悪魔の扉』(1997)のコニー・ニールセン、『アミスタッド』のジャイモン・ハンスゥ、『孤独の報酬』(1963)の老優リチャード・ハリス、『三銃士』(1973)の好々爺オリバー・リード。

西暦180年のローマ帝国。マキシマス(ラッセル)は勇猛かつ信頼の厚い将軍で、北方のゲルマニアを統括するために任地で腕を振るっていた。アウレリウス皇帝(リチャード)はマキシマスを実子コモドゥス(ホアキン)よりも重く見ており、帝国の後継者にと誘っている。コモドゥスにとってマキシマスは疎ましい存在だ。コモドゥスはアウレリウスを殺害し、新皇帝としてマキシマスを処刑するよう命ずるが、とっさの機転でマキシマスは逃走。妻と娘の待つ故郷へと急ぐが、既に家族は処刑されていた。生きる支えを失ったマキシマスは奴隷商人プロキシモ(オリバー)に拾われ、競技場で殺し合いを行う剣闘士“グラディエーター”として生きることになる。やがてマキシマムは、ローマのコロッセオで開かれる闘技大会に出場する機会を得、宿敵コモドゥスと対面する。

ハリウッドの商業主義に飲み込まれた、哀れな監督リドリー・スコット。『1492・コロンブス』『G.I.ジェーン』(1997)なんてクソ映画を撮っちゃって。かつての『エイリアン』『ブレードランナー』『ブラック・レイン』の切れ味はもう戻らないのだろう、と思っていた。・・・御免なさい。私が悪うございました。
徹頭徹尾、(あえて)新スコット流哲学に貫かれた、見事な映像だ。濃厚な戦闘シーン、愛憎渦巻く人々の衝突劇(常に1対1の会話である。心理描写が入念だ)、CGとわかっていても息を詰めて見つめてしまう広大なセット。ライティングと相まって、コンピューター臭くない映像に仕上げている。
他映画誌に山ほど語られている事なのだが、個人的にも避けては通れない話なので、やはり一言。古代ローマ時代という背景は、『ベン・ハー』(1959)・『スパルタカス』(1960)という2大金字塔を無視できないのである。しかし当時の巨大セットは、やもすれば地平線まで続くスケール感には乏しかった(とは言っても、『スパルタカス』の奴隷対帝国軍の戦いは見事だった。でもこれは『スター・ウォーズ1』(1999)がパクッているけど。ゴメン、話飛び過ぎ)。その辺を、実写とCGを組み合わせれば巧くできる現代の方が、こういう類の映画は上手に作れるのかもね。
それに、ラッセル・クロウの濃さ!チャールトン・ヘストンには負けるけど、カーク・ダグラスには勝ってるぞ!とても36歳には見えん。
何よりも憎らしいほどに巧いのが、ホアキン・フェニックス。故リバー・フェニックスの実弟だが、そんなことはこの際関係ない。コモドゥスは、父アウレリウスとの相愛関係は遂に築けず、皇帝をマキシマスに譲るなんて言われちゃうし、シスコンは大人になっても治らず実姉ルッシラ(コニー)に「俺の子を産め」と迫るが、実はルッシラは子供の頃からマキシマスが大好き。これじゃ〜歪むよな〜、性格。賄賂と保身に腐りきった元老院を切り離すとか、いいところもあるんだけど。なんて、こんな役を、ものの見事に演じています。グッド。
この夏の一押しです。満腹感は『M:I-2』よりもあると思います。
観終わった後に、劇場の階段でアベックの女性の方が「マキシマスって凄いね〜。歴史の教科書で調べてみようかな〜?」と言っているのを聞いて、「何をほざいてんだ、このバカップル!完全フィクションに決まってんだろ!」と思ったのですが、実はそれも間違いで、マキシマスは確かに創作ですがそれ以外の主要キャストと史実は実在でした。俺もバカの仲間入りジャン・・・


『アメリカン・パイ』
観た日:2000/07/28 お薦め度:★★★★★ もう一度観たい度:★★★

監督・製作は『アンツ』(1998、脚本)のクリス&ポール・ウェイツ兄弟、脚本はこれが初出稿のアダム・ハーツ、編集は『タッカー』(1988)『プリティ・ウーマン』(1990)のプリシラ・ネッド・フレンドリー、A.C.E.。キャストは、ジェイソン・ビッグス、クリス・クレイン、『がんばれ!ルーキー』(1993)のトーマス・イアン・ニコラス、エディー・ケイ・トーマス、『花嫁はエイリアン』(1988)のアリソン・ハンニガン、『アメリカン・ビューティ』(1999)のミーナ・スバーリ、『ビッグ・リボウスキ』(1998)のタラ・リード、ショーン・W・スコット、『遠い空の向こうに』(1999)のクリス・オーウェン、ナターシャ・リオン、シャノン・エリザベス、ジェニファー・クーリッジ、『スプラッシュ』(1988)のユージーン・レヴィ。

ジム(ジェイソン)・オズ(クリス・クレイン)・ケビン(トーマス)・フィンチ(エディー)は高校三年生。もうすぐ卒業だというのに、未だ童貞だ。あの嫌みなシャーマン(クリス・オーウェン)が遂に初体験したのを見ていきり立った4人は、プロム(卒業パーティ)までに童貞を捨てると誓い合う。しかし、ジムはドジで父(ユージーン)に望まぬ性教育をされちゃったり、オズは年上の女子大生のガールフレンドに子供扱いされちゃったり、唯一ちゃんとした彼女ヴィッキー(タラ)のいるケビンもいつも“3累止まり”だし、フィンチは潔癖性の変わり者。前途多難だ。ジムは好意を寄せていたナディア(シャノン)からのアプローチで事に及びそうになるが、興奮しすぎて暴発2連発、それがインターネット映像で高校中にライブされ、別の意味で人気者になってしまった。そんな彼に話しかけてくるミッシェル(アリソン)を、結局プロムに誘うことにした。オズはラクロス部にいながらも、出会いを求めて合唱部に入部し、ヘザー(ミーナ)と出会う。ヘザーとのデュエットを志願したオズだが、合唱コンクールの日はラクロスの試合と重なっていた。ケビンは兄から、高校に代々伝わる“性の秘伝書”のありかを教えてもらい、ヴィッキーに試すが、セックスばかりを考えているケビンに、ヴィッキーはつれない。フィンチはヴィッキーの友人ジェシカ(ナターシャ)に巨根の噂を200ドルで流してもらい、一躍“寝てみたい男”の筆頭になるが、スティフィラー(ショーン)のイタズラで下剤を飲まされ女子トイレで爆発、人気は急降下。そしてプロムを迎える。

正統派大バカ青春セックス切望童貞物語。と思っていた。が、違った。
いや、違くはないのだが、どうせただただ女性の裸が出てきてボインボインのウハウハストーリーだろうと思っていたら、そうではなかった。裸なんてシャノンのオッパイだけ。だから、そ〜いうのを期待している人は、観てもしょうがないと思う。
ウェイツ兄弟とアダム・ハーツは、秀逸な脚本を書いた。彼らは、いままでの“下ネタティーンズ映画”の大ファンでありながら、“下ネタ”だけに終わらせなかった。
童貞・処女とおさらばする事は、誰にとっても一大事である。その詳細を忘れた人はいまい。その喪失パターンをおおよそに分類し、それをキャスト達に上手く振り分け、しかも事後の余韻までをも極めて巧みに演出した。
それらを忠実に真摯に演じきったキャストの面々。大したものだ。彼らは、いわゆる“明日のスター達”である。
ジェイソン(ジム)。情けなさが最高。親にオナニーを見つかるほど、子供にとって情けない事はない。ましてや、親父にポルノ雑誌を買ってもらう(さらに、女体の解説までしてもらう)なんて!でも、アップルパイの真ん中に指を突っ込むときに、しっかり中指と人差し指の2本を使うところは、よく勉強している。
クリス・クレイン(オズ)。マッチョです。ミーナ・スバーリに乗っかったら彼女つぶれちゃうほどです。それにしてもラクロスの試合はどうなったんだ?ヘザー(ミーナ)と合唱コンクールをとったのはいいけど、宿敵との雪辱戦を投げるのはいかがなものか?
ミーナ(ヘザー)。くりくり目。でも倍近く離れた旦那がいます。関係ないか。
ショーン(スティフィラー)とクリス・オーウェン(シャーマン)。巧い。嫌われ変人役を、強い嫌悪感なく演じられるのは、天分だと思う。
ナターシャ(ジェシカ)。セックスを論じる彼女は、でも彼がいない。『アメリカン・ビューティ』のミーナ役みたいだ。
プロムの後の朝の会合。ジムは奪われた。オズは輝きを得た。トーマスは切なかった。フィンチは深みを知った。・・・若いっていい!(陳腐な締めだ。トホホ)
個人的には、ケビンの“舐め殺し”攻撃でイキそうになって思わずよがってしまうヴィッキーの、その声を扉越しに聞いてしまったヴィッキーの父親に、心揺さぶられてしまいました。


『MONDAY』
観た日:2000/07/24 お薦め度:★★★☆ もう一度観たい度:★★★☆

監督・脚本は『弾丸ランナー』(1996)『ポストマン・ブルース』(1997)『アンラッキー・モンキー』(1997)のSABU、撮影は佐藤和人(J.S.C.)、美術は丸尾知行、編集は小永組雄。主演は『39(刑法第三十九条)』(1999)の堤真一、キャストは松雪泰子、西田尚美、麿赤児、大河内奈々子、安藤政信、大杉漣、野田秀樹、山本亨。

高木光一(堤)は、知らぬ間にホテルとおぼしき部屋のベッドで寝ていた。なぜこんな所で寝ているのか、全く記憶がない。ポケットのタバコを取り出すと、一緒に“お清めの塩”が出てきた。記憶の糸がほつれてくる。確か土曜日に近藤(安藤)のお通夜に出ていたはずだ。そのあと、恋人の由紀(西田)と会って、それからバーで飲んでいるとヤクザの花井(山本)とその情婦の優子(松雪)と会って、花井に連れて行かれた彼の経営するクラブで飲んで踊って・・・。そのうちに、今日が月曜日だということがわかり、新聞の一面には、はなぜかショットガンを持つ自分の姿が!

「映画は脚本が全て!」と豪語する自称“天才”SABU監督の、第4作。2月9日〜の第50回ベルリン国際映画祭では、国際批評家連盟賞を受賞している。
ん〜、カット全てがちょっとずつ長い。というかしつこい。SABU監督は和歌山県生まれである。コテコテ度が関西系なのである。この辺は、好みが別れる所であろう。笑わせようとサービスを盛り込んでいく所も関西っぽい。
堤真一。彼こそが天才。彼の演技力が映画を引っ張っているのである。間抜けな踊りと、酔っぱらっていく様(都合2箇所)が秀逸。
松雪泰子。う〜む。しゃべらなかったから良しとするか。ベルリンの人々は、この日本人らしくない女優を見てどう感じたのだろうか?
西田尚美。馬鹿っぽさを巧く演じている。こっちが素なのか?と思うほどだ。『ナビィの恋』(1999)とは正反対。
野田秀樹。巧いッス。文句のつけようがありません。
……で、結局の所、面白いのか面白くないのかよくわかりません。陳腐な警察の特殊部隊(隊員の装備する何か、お尻のところにぶらさがっているものに、“US”って書いてあるんだよ!そんなの嫌でしょ?)の突入シーンは、もう止めてくれ〜!って感じだし、銃社会に対する寒い説教はお笑いだし(あ、監督はそのつもりで撮っているのかも)。それに、“夢オチ”は嫌いなんです、私。
取りあえず、世間的な評価はまずまずなんで、星を3つつけておきました。ご覧になりたい方はどうぞ。私は、もう一度は観るつもりです。TVで。だって、面白いのか面白くないのかよく分からなかったんだも〜ん。
しかし、日本って、ホントに人材不足なんだなぁ。特に製作サイドに。薄給が悪いんだよね〜。


『ミッション:インポッシブル2』
観た日:2000/07/10 お薦め度:★★★ もう一度観たい度:★★★★

監督は『男たちの挽歌』(1983)『フェイス/オフ』(1997)のジョン・ウー、製作は『ミッション:インポッシブル』(1996)のポーラ・ワグナー、脚本は『さらば冬のかもめ』(1973)『チャイナ・タウン』(1974)のロバート・タウン、音楽は『ブラック・レイン』(1989)『ライオン・キング』(1994)のハンス・ジマー。主演(・製作)は正面美男子のトム・クルーズ、ヒロインは『インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア』(1994)『シャンドライの恋』(1999)のタンディ・ニュートン、共演に『マスク・オブ・ゾロ』(1998)のアンソニー・ホプキンス、『エントラップメント』(199『救命士』(1999)のヴィング・レイムス、『ディープ・インパクト』(1998)『エバー・アフター』(1999)のダグレイ・スコット。

休暇のためにロック・クライミングを楽しむIMFエージェントのイーサン・ハント(トム)は、例によって本部から指令を受ける。それはバイオサイト製薬から盗まれた「キメラ」と「ベレロフォン」という2つの物質を奪取することだった。「キメラ」は投与後20時間で発症し始める殺人ウィルスで、「ベレロフォン」は「キメラ」の特効薬である。司令部は女泥棒のナイア(タンディ)をパートナーに指名する。彼女は、本件の首謀者であり元IMFエージェントのショーン・アンブローズ(ダグレイ)の元恋人であった。スペインでナイアを見つけたイーサン。2人は瞬時に恋に落ちた。しかしナイアをアンブローズのアジトに潜入させなければならない事を知ったイーサンは、悩んだ末、全力で彼女を守る事を誓う。ナイアは難なくアンブローズに接近できたが、やがてアンブローズにそれを気付かれる。

随分と前から、あまりにかっこいいコマーシャルを何度も観せられていたので、すっかりおもしろい映画だと思い込み、ワクワクして観に行ってしまった。えてしてこういうパターンというのは、その内容に裏切られるものだが、今回もそのジンクスは裏切られなかった(変な言い回し)。
ジョン・ウー監督。自分の映画にマーキングするのが大好きな男である。両手撃ちの銃。何故かシーンにぶち込まれる鳩。アクションのスローモーションシーン。許す。こだわりは認める。でも何だか、今回は、散歩中にオシッコをかけまくる神経質な痩せ犬を思い出してしまったよ(ファンの方、ゴメン!)。ラストの1対1の殴り合いは長すぎる。バイクシーンは、センスいいがやっぱり長い。中盤のたるい展開も、もっと切りようがあるはず。・・・スローモーションの使いすぎ?
トム・クルーズ。身体もしっかり作っているし、かっこいい。ロック・クライミングのシーンも、命綱の影は見えないかな〜なんてあら探ししたが、見つからなかったし(でも、横っ飛びはリアル感無さ過ぎでギャグになってたぞ)。いいんです、彼が金を出して彼が主演の映画なんだから。
タンディ・ニュートン。イギリス人の父とジンバブエ人の母を持つその容姿は、ハリウッドでは映える。しかし最近のハリウッド女優はみんな、シャツ越しの乳首はOKなのだろうか?ちょっと昔は、ちゃんとニプレスをしていたんだけどなぁ。
パンフレットが最低!開きA3サイズに、トムの写真ばっかりを載せている。女性客に媚びを売っているとしか思えん!役者・スタッフ紹介の文章には作品製作年がない。評論はなし。橋から炎上落下する車のドアにはワイヤーが写っている。もっと違うカットを使えばいいだろう、えぇ?しかも800円!なめんなよ東宝!
ビデオ・DVDで十分な映画。やや鼻につく“お金の臭い”を知らんぷりできるのなら、映画館でどうぞ。


『ミッション・トゥ・マーズ』
観た日:2000/07/07 お薦め度:★★★ もう一度観たい度:★★★

監督は『愛のメモリー』(1976)『殺しのドレス』(1980)『レイジング・ケイン』(1992)のブライアン・デ・パルマ、脚本は『スピード』(1994)『ブロークン・アロー』(1996)のグラハム・ヨスト、撮影は『ボディ・ダブル』(1984)『ホッファ』(1992)のスティーブン・H・ブラム、視覚効果は『プレデター』(1987)『アルマゲドン』(1998)『シックス・センス』(1999)ドリーム・クエスト・イメージズと、ご存じインダストリアル・ライト・アンド・マジック(ILM)、音楽は『荒野の用心棒』(1964)『アンタッチャブル』(1987)『ニュー・シネマ・パラダイス』(1988)の巨匠エンニオ・モリコーネ。主演は『フォレスト・ガンプ/一期一会』(1995)『アポロ13』(1995)『グリーン・マイル』(1999)のゲイリー・シニーズ、『青いドレスの女』(1995)のドン・チードル、『ディアボロス』(1997)のコニー・ニールセン、『ザ・プレイヤー』(1992)の監督業もこなすティム・ロビンス、『ザ・エージェント』(1996)のジェリー・オコーネル。

(お願い:もしまだこの映画を観ていなくて内容を知りたくない!という方は、“*”に挟まれた部分は読み飛ばして下さい。)
2020年、NASAは火星に有人探索機マーズ1号を向かわせた。6ヶ月の航海の末に火星に到着したクルー達は、火星表面で人口建造物を思わせる白い突起を見つけ、レーダーで調査するが、突然あたかも生きているような巨大な砂嵐が起こり、キャプテンのルーク(ドン)を残して死亡する。悲報を聞いた本部は、直ちにマーズ2号を派遣し、事態の把握と生存者の救出に向かう。その中には、優れたパイロットでありながら、同じミッションクルーだった妻を病気で失い失意にあるジム(ゲイリー)がいた。マーズ2号は、火星到着時に流星雨による機体損傷でキャプテンのウッディ(ティム)を失うも、何とか火星に着陸し、基地に向かう。
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温室は機能しており、そこではなんと死んだと思われていたマーズ1号のキャプテンであるルーク(ドン)が生存していた。ルークは、明らかに人面をかたどった建造物から発せられるノイズを解析していた。それは途中が欠損したヒトDNA配列を示しているようだった。ジムらは欠損部分を追加し、それを音に変換して建造物に発信する。すると建造物からまばゆい光が溢れ出した。ジム・ルーク・テリー(コニー)は基地の緊急用ロケットにフィル(ジェリー)を残し、建造物の中に入っていく。内部は真っ白で、地球と遜色ない空気・気圧が満ちる空間だった。突然壁が開き、奥で太陽系の立体CGが始まった。数億年前の地球と、それに劣らない水に満ちた火星。しかし大隕石の衝突で、火星表面は焼けただれた。“火星人”は生命の基であるDNA情報を宇宙船に乗せあらゆる方向に放った。その1つが地球に向かった。地球の生命の始まりは、こういう訳だったのだ。そのうちに床の模様が動き出した。ジムはこれも宇宙船であることに気付き、ルークとテリーを基地に返し、自分1人残った。“火星人”の作った宇宙船は、ジムを乗せて出発した。ジムは、新たなる“生命の始まり”となった。
**********

デ・パルマ監督が『ミッション・インポッシブル』(1996)の続編の話を蹴って撮った映画。
う〜む……脚本が陳腐。前半の人間模様は説明的だし、マーズ2号の事故とウッディ船長の死亡もお涙頂戴見え見えだし(いっそのこと全部カットすればいいのに)、エンディングに続く一連の流れは幼稚。
赤い惑星・火星の砂嵐も『ハムナプトラ』(1998)の二番煎じだし、宇宙船(特に内部のセット)はまんま『2001年宇宙の旅』(1968)のパクリだし(といっても、科学的根拠に基づく製作では同じ結論になるということかもしれないが。『ロスト・イン・スペース』(1998)みたいにSFらしさを押し出すよりは、説得力はある)。
デ・パルマ節は散見できるが、私からすれば、やっぱりただのコンピューターを使った遊戯に見える。壮大な失敗作という感じである。
とにかく、地球の生命の起源を、宇宙からの生命(またはDNA)の到来に求める仮説には、オリジナリティがなくて嫌なのだ。国債を発行して取りあえず今はしのぎましょう、みたいな場当たり政治みたいじゃない?(違うか・・・)


『アメリカン・ヒストリーX』
観た日:2000/07/05 お薦め度:★★★★★ もう一度観たい度:★★★

監督・撮影監督はCM界の新鋭、英国出身のトニー・ケイ、脚本はこれがデビュー作のデビッド・マッケンナ、編集は『オール・ザット・ジャズ』(1979)『結婚の条件』(1988)のアラン・ハイムと、『フレンチ・コネクション』(1971)『地獄の黙示録』(1979)『ボディ・ダブル』(1984)のジェリー・グリーンバーグ、音楽は『フル・モンティ』(1997)のアン・ダドリー。主演は『真実の行方』(1996)『ラリー・フリント』(1996)『ファイト・クラブ』(1999)のエドワード・ノートン、共演は、『ターミネーター2』(1991)『I Love ペッカー』(1998)のエドワード・ファーロング、『ヘアー』(1979)『歌え、ロレッタ!愛のために』(1980)のビバリー・ダンジェロ、『スター・トレック:Deep Space Nine』(1993)のエイヴリー・ブルックス、『ゴングなき戦い』(1972)のステイシー・キーチ、『Ride』(1998)のガイ・トリー。

ダニー(ファーロング)は、兄デレク(ノートン)を敬愛している。デレクは白人至上主義のスキンヘッズの一員で、ネオナチズムに傾倒し、影の指導者キャメロン(ステイシー)の信頼も厚かった。デレクをスキンヘッズに向かわせたのは、消防士である父が消化活動中に黒人に殺された事に起因していた。怒りをマイノリティに向け同感する人々を引きつける兄は、ダニーにとってまさにヒーローだった。ある日、家の車を盗もうとした黒人3人組に対し、デレクはその1人を射殺、重傷のもう1人の首の骨をへし折った。過剰防衛で逮捕された兄。しかしダニーにとっては、なんら兄に対する尊敬の念を失墜させるものではなかった。兄のようになりたいと、同じ組織に加わりスキンヘッドにするダニー。ある日、ダニーの通う高校の校長ボブ(エイヴリー)に、更正の目的で毎日レポートを提出するよう命じられる。題は「アメリカン・ヒストリーX」。最初の課題は「兄の投獄の過程について」だった。それはダニーが読書感想文の対象図書にヒトラーの『わが闘争』を選んだからだ。しかしレポートを完成させるために兄を辿る過程で、デレクの白人至上主義の発端は、父の死ではなく父のマイノリティ優遇政策(国の行う、就職などの権利をマイノリティに優先する政策)に対する異論だったことに辿り着く。そしてまさにその日が、デレクが刑期を終え出所する日だった。兄との再会を喜ぶダニー。しかしデレクは、以前の尊敬する兄とはまるで様変わりをしていた。収監初期、白人グループと行動を共にしていたデレクは、自分と同じように全身にネオナチの入れ墨をする白人がスパニッシュにヤクを売っているのを目撃する。また、一緒に仕事をしている黒人のラモント(ガイ)とは次第に打ち解けていく。自らの思想と乖離する白人グループとの付き合いを敬遠し始めたとたん、グループからシャワールームでレイプされた。ラモントには「これでお前の味方がいなくなった。今度は黒人グループにも狙われる」と言われる。しかしデレクは、出所まで何もされなかった。刺すような視線を始終感じていたにも関わらず。そして生きながらえた理由は、ラモントの口利きだったことに気付き、憎悪からは何も生まれず、憎悪を盾にしても何も救われない、ということを悟ったのだった。戸惑いながらも兄を受け入れるダニー。スキンヘッズに掛け合い弟を導くデレク。バラバラだった家族も団結できるかに思えた。

まずは見事な脚本!日本なんかに安穏と暮らしていては絶対に書けない、というかアメリカという国でしか生まれ出ないストーリーだ。
アメリカに住む、アフリカ系(黒人)・ヒスパニック系(中南米人)アジア系などの少数民族、ユダヤ系・カソリックなどの非プロテスタント、ゲイ、ホームレス、身体障害者などの、マイノリティ(少数派)に向けられる憎悪に起する犯罪を『ヘイト・クライム』といい、これらを起こす集団を『ヘイト・グループ』という。ヘイト・グループは1996年のFBIの調査によると400以上あり、その127団体がクー・クラックス・クラン(KKK)の系列、100がネオナチ、42がスキンヘッズ、81がキリスト教右翼であるという(パンフレットより)。
エドワード・ノートンは、この映画を撮った後に『ファイト・クラブ』を撮ったそうだ。こんなマッチョになって、それを惜しげもなく捨て『ファイト〜』の痩せっぽちに。ど〜なってんだ、エド!?
ノートンの演技が褒められるのはもちろんなのだが、しかし私としてはあえてエドワード・ファーロングを持ち上げておきたい(そういう専門誌も多数)。ビックリである。美形だし。
観ていて、長いなぁ(約2時間)なんて考えていたら、最初にトニー・ケイ監督が編集した作品は90分だったという。それをスタジオ側が長くしたのだそうだ。しかし今度は監督の怒りが収まらない。ということで、彼は「この映画は私のものではない!」と言っているそうだ。ふむ。私は、監督の感性に近いのかな?
根深いテーマを丁寧に扱った良作。エンディングに近づくにつれ増す不安感(『シティ・オブ・エンジェル』(1998)に類似)にお尻をムズムズさせながら観よう。


『ザ・ハリケーン』
観た日:2000/06/30 お薦め度:★★★★★ もう一度観たい度:★★★★

監督は『シンシナティ・キッド』(1965)『夜の走査線』(1967)『ジーザス・クライスト・スーパースター』(1973)『月の輝く夜に』(1987)のノーマン・ジュイソン、脚本・製作は『イッツ・フライデー』(1978)『ワン・フロム・ザ・ハート』(1982)のアーミアン・バーンスタイン、共同脚本はダン・ゴードン、音楽は『ヘルレイザー』(1987)『ラウンダーズ』(1998)のクリストファー・ヤング、撮影は『バートン・フィンク』(1991)『秘密の花園』(1993)『ショーシャンクの空に』(1994)のロジャー・ディーキンス,ASC,BSC。主演は『遠い夜明け』(1987)『グローリー』(1989)『マルコムX』(1992)『ボーン・コレクター』(1999)のデンゼル・ワシントン、TV『ビバリーヒルズ青春白書』のヴィセラス・レオン・シャノン、『フォー・ウェディング』(1994)のジョン・ハンナ、『ペイバック』(1999)のデボラ・カーラ・アンガー、『スクリーム』(1996)シリーズのリーヴ・シュレイバー、『ユージュアル・サスペクツ』(1995)のダン・ヘダヤ、『夜の大捜査線』(1967)『エンド・オブ・デイズ』(1999)のロッド・スタイガー。

ルービン・カーター(デンゼル)は、1分間に80回とも90回ともいわれる猛ラッシュで次々と相手をキャンパスに沈める黒人ボクサーで、人は彼を“ザ・ハリケーン”と呼んだ。ところがある日、殺人事件の犯人と間違えられ投獄される。ルービンを陥れたのは、彼を子供の時から敵視する白人刑事のペスカ(ダン)だった。ルービンは、いわれのない罪で終身刑が確定する。獄中で彼を支えるものは執筆活動だった。ルービンの書いた「第16ラウンド」は人々に読まれ、ボブ・ディランなどの著名人が再審請求運動を行った。しかし、再審でも有罪判決を言い渡されてしまう。すべては、証人の口封じや偽証、証拠改ざんなどによるものだった。ルービンは、塀の外に向かう心を故意に封じ込めることで絶望に打ちのめされるのを回避するようになり、支えてくれた妻とも離婚する。あるとき、カナダ人のテリー(ジョン)・リサ(デボラ)・サム(リーヴ)の3人の保護者と暮らす黒人少年レズラ(ヴィセラス)は、古本市で「第16ラウンド」を手にする。アル中の親元から引き取ってもらい読み書きを教わっているレズラには、この本の著者ルービンに対し共感を覚える部分が多く、獄中の彼に初めての手紙を書く。次第に心を通わす2人。やがて、ルービンの無実を証明するためにトロントからニュージャージーに移ってきたレズラら4人は、州裁判所を飛び越え連邦裁判所に再審請求するための準備に入る。様々な妨害にも屈せずに膨大な証拠を集め、遂に裁判の日を迎える。

これは本当にあった出来事を元にした映画である。
まずは、こんなことが真実だったというのが凄い。人種差別・偏見と組織ぐるみの事実歪曲に基づく、一個人の社会からの抹殺。そして何度も屈服しそうになりながらも、支えてくれる人たちから与えられた光を糧に、一縷の望みにかけるルービン・“ハリケーン”・カーター。自由と平等を掲げるアメリカにカナダ人が乗り込んでいく事にも、痛烈なる批判を感じる。
恐るべき脚本。ルービンの幼少期や20年に渡る投獄生活など、あまりに長い時間を書き上げる事から、映像として途中随分と説明せずにはしょる箇所も見受けられるのだが、そんなことなど吹き飛ばす激情のセリフの数々!その一つ一つを、是非噛みしめてボロボロ泣いて欲しい。
撮影の妙。クレーンとステディカム(カメラマンが走り回ってもカメラがブレないというおいしい装置)で舐めあげる映像と、光は柔らかく影は濃く撮る巧さ。黒人、特にデンゼルを、より黒く撮っているように思える。これはエンディングに効を奏すのだが。
それにしても、デンゼル・ワシントンの肉体改造をいとわぬ役作りに、改めて脱帽である。ボクサー役は、裸なのでごまかしが利かないのである。45歳にして、25歳のプロボクサーの身体を1年に渡るトレーニングで作り上げた。そして徹底的なボクシングの訓練。トレーナーの言うことには「もう少し若ければボクサーデビューもできた」との事。まぁ眉唾な気もするが、とにかく映像を見ればこの言葉がリップサービスという訳でもないことが分かると思う。演技に関しては今更語ること無し!
レズラ役のヴィセラス・レオン・シャノンが、なかなかに可愛い。彼はもっと巧くなると思う。あのまま背が伸びないと良いのだが。
揺るぎなきものは誇りであり、最後まで信じるに足るものは正義である。それを、改めて観る者に刻み込ませる映画。
帰り道、佐野元春の『young bloods』のフレーズ“鋼のようなwisdom 輝き続けるfreedom”を思い出して、また泣いた(意味はかなり違うんだけどね)。


『マン・オン・ザ・ムーン』
観た日:2000/06/02 お薦め度:★★★★ もう一度観たい度:★★★★

監督は『カッコーの巣の上で』(1975)『ヘアー』(1979)『アマデウス』(1984)『ラリー・フリント』(1997)のミロシュ・フォアマン、脚本は『エド・ウッド』(1994)『ラリー・フリント』のスコット・アレクサンダーとラリー・カラズウスキー、音楽はR.E.M.。主演は『マスク』(1994)『ジム・キャリーのエースにおまかせ エース・ベンチュラ2』(1995)『ケーブルガイ』(1996)『トゥルーマン・ショー』(1998)のジム・キャリー!共演に『パルプ・フィクション』(1994・製作)のダニー・デビート(本製作も)、『200本のたばこ』(1999)のコートニー・ラヴ、『プライベート・パーツ』(1997)のポール・ジアマッティ。

アンディ・ホフマン(ジム)は、子供の頃から外で遊ぶよりも一人芝居を好む、ちょっと変わった性格で、大人になっても芸で身を立てようとクラブ廻りをしている。あるとき、プレスリーの物真似を偶然見た腕利きプロデューサーのジョージ(ダニー)に気に入られ、TV新番組『サタデー・ナイト・ライブ』の栄えある第1回目のゲストとして出演する事になる。その後、TVシリーズ『タクシー』は大人気を収めるが、スタジオ観客や視聴者が、アンディに、よくある他のコメディアンと同じような十八番芸・定番芸を求めていることに失望し、あえて観客を挑発する事に凝り始め、観客と喧嘩をしたり失望させたりと、何が起こるかわからない演出をするようになった。トニー・クリフトン(アンディが演じる全くの別人格の自称ラスベガスのスーパースター。後に代役をもうける)の登場や、女性とのプロレスでの悪役は、しかしその過激さ、前衛さに、次第に人気低下・客離れを起こさせていった。それでも止まらないアンディ。しかし、彼はガンに冒されてしまったのだ。闘病生活さえも、恋人リン(コートニー)以外には信じてもらえない。

孤高のスタンダップ・コメディアン、アンディ・カフマンの、ショー・ビジネス界を一気に駆け抜け35歳で夭折した生涯を描いた作品。2度のオスカーに輝くミロシュ・フォアマン監督の会心作である。
ジム・キャリーの独壇場!私にとって彼はツボ、秘孔なのです。おかしさからくる笑いと切なさからくる涙が、同時に心に津波のように押し寄せる、誠に希有な俳優です。デンゼル・ワシントンよりトム・ハンクスよりロビン・ウィリアムズよりサミュエル・L・ジャクソンよりケビン・スペイシーよりロバート・デ・ニーロより、え〜と、あと誰がいるかな?とにかく誰よりも巧いハリウッド・アクターだと思っているのです。そう思っている人、私だけではあるまい!
特に終盤の、迫り来る死の恐怖と戦いながらも頑なに自分流のスタイルを貫き、遂に念願のカーネギー・ホールでワンマンショーを行う場面。あそこで、アンディ(=ジム!)を見て、笑うより(もちろん、充分におかしいのだが)切なくて哀しくて涙が止まらなかった人、私以外にも絶対いるはずだと思う!
ただ、如何せん残念なのは、自分の語学力の無さである。こういう映画こそ字幕に頼らないでヒアリングで楽しめればな〜と、つくづく思うのだ。
万人に諸手を挙げておすすめする映画ではないのかも知れない。しかし、単なる自伝映画ではなく、コメディでもない。極めて上質で緻密な脚本による作品である。それを確認してもらいたい気もする。
最後に忠告!ここまで読んでいただけたならもうお分かりだと思うが、この映画は抱腹絶倒のコメディアン物語ではありません。引いて観ろ!なんて勿論言う気はありませんが、たんなるポップコーンムービーだと思って劇場に行くと、痛い目に会います。


『どら平太』
観た日:2000/06/02 お薦め度:★★★★★ もう一度観たい度:★★★★

監督・脚本は『炎上』(1958)『犬神家の一族』(1976)『細雪』(1983)の市川崑(表示できなかったら御免なさい。“山へん”に昆、です)、協同脚本は黒澤明・木下恵介・小林正樹、美術は『地獄門』(1953)『御法度』(1999)の西岡善信、編集は『誘拐』(1997)の長田千鶴子。キャストは役所広司、片岡鶴太郎、宇崎竜童、浅野ゆう子、菅原文太、石倉三郎、石橋蓮司、大滝秀治、江戸家猫八、岸田今日子、尾藤イサオ、うじきつよし。

江戸より数百里の海に面した小藩。堀外(ほりそと)と呼ばれる一角は、抜け荷・密売・博打・売春と、ありとあらゆる悪が行われており、それら全てを3人の親分(菅原、石倉、石橋)が仕切っている。また、城では家老(大滝)たちが堀外からの賄賂で私腹を肥やしており、結果、堀外は何のお咎めもない。江戸に参勤中の殿より遣わされた望月小平太(役所)は、新たに町奉行として着任する。持ち前の遊び人気質から、彼は“どら平太”と呼ばれていた。外堀は武家立ち入り厳禁にもかかわらず、どら平太は頻繁に侵入し、“どら”ぶりを発揮しつつ証拠をつかみ、城と堀外の不正を一掃する。

原作は、山本周五郎の『町奉行日記』。
市川・黒澤・木下・小林の4人は、日本映画の将来を憂い、『四騎(よんき)の会』を結成、その協同執筆の脚本による第一作目が、この“どら平太”である。市川以外は既にこの世にはいないが、しかしこの監督達の名前を見るだけで、沸き上がるワクワク感は何だ!
と、のっけから“魔法”にかかっちゃったような気がするが、事実、面白いんだからしょうがない。
時代劇の舞台を借りてはいるが、現代にも十二分に通じる設定である。
しかし、捻りが効いている!勧善懲悪、悪の親玉と腐った役人を同時に裁くのだが、その尺度は、法や慣習はなく、男気なのである!
市川監督は、編集に独特のテンポを紡ぐ。会話のシーンで、片方の最後の一言一文字に重ねて、相方に絵を移すのである。また、口論でも何でもない会話を、両方同時にしゃべらせるのである。この功績は、編集の長田千鶴子による所が大きい。
洒脱で色彩豊か。テンポがあり緩急自在。巧く溶け合っている。血は流さないなどのこだわりも、鼻につかずに巧妙。
ただし照明だけは何とかして欲しい。レフ版をどう当てるのかということだと思うが、影が複数あるの、嫌いなんです。いや、なにも、自然光だけで撮れ!と言ってる訳ではないのですが。『ストレイト・ストーリー』(1999)のデイヴィッド・リンチにも、同じ事言ったんだけどなぁ(なんて、聞いちゃいないって)。
役所広司。困った。器用貧乏というのはあるが、まさしく器用長者。殺陣はいただけないけれど。片岡鶴太郎。早口でよくワカラン。自分では巧いと思ってるところがちょっと嫌い。宇崎竜童。巧い。良い枯れ方をしてると思う。浅野ゆう子。う〜む。でも他にあの役が出来る女優がいるかというと、思いつかないのも確か。適任ではある。菅原文太。もっと表情を出した方が良かったのでは?でも文太兄ぃが元気で、ホント良かった。
後世に残せる、数少ない娯楽映画。チマチマしたテレビ画面なんかで観ないで、劇場でゲラゲラ笑いながら観ましょう。


『ロッキー・ホラー・ショー』
観た日:2000/05/27 お薦め度:★★★★★ もう一度観たい度:★★★★★

監督・脚本・音楽はリチャード・オブライエン、撮影は『マーズ・アタック!』(1996)のピーター・スチツキー。主演はティム・カリー、共演は『デッドマン・ウォーキング』(1995)のスーザン・サランドン、バリー・ボストウィック、リチャード・オブライエン、パトリシア・クイン、ジョナサン・アダムス、リトル・ネル。

ジャネット(スーザン)とブラッド(バリー)は、友人の結婚式に出席してほだされ、その場で婚約、恩師のスコット博士(ジョナサン)のもとに報告に行こうと、嵐の中、車を飛ばすがパンク。しかたなく通りがかりに見た城へ電話を借りに行く。執事のリフ・ラフ(リチャード)とメイドのマジェンダ(パトリシア)に中に通された2人は、城の主人フランク(ティム)がまさに人造人間に命を吹き込もうとしているパーティの真っ最中だった。そして今宵、快楽の開放が2人に訪れる。

今更ながら、星をつけるのもおこがましい、1975年の傑作ミュージカル映画にして、カルトムービーの雄。
変な解説は、フーリガンをいたずらに焚き付けることになりかねないので、詳細は以下のHPをご覧下さい。
オフィシャルサイト(英語): 
http://www.rockyhorror.com/
Charles Atlas Club(日本語): http://www.ifnet.or.jp/~kei-t./
[LIP'S]ROKKY HORROR(日本語):
http://www.kabinet.or.jp/kabinet/users/shiny/LIPS.html
さて、今回は嗜好を変えて、鑑賞レポートをば。
劇場初体験である。ビデオを観たことはある。しかし、世の中には体験しなければその本質に触れられないというものは多く、この映画なんぞはまさにその典型である。ちょうどサタデーナイトプレミア上映なる催しを行う劇場があり、そこへ乗り込んだのである。しかしながら、そこは悲しき初心者。模様眺めの域を出ない。取りあえず、汚れてもいい服装で臨んだのでした。
いつもはつつましい劇場へのエントランスには、「この映画は世界的に大騒ぎしながら観ることを常としています。その点、ご了承ください」だの、「スクリーンは劇場の命です。決してモノは投げないで!」だの、物騒な張り紙が所狭しと貼られており、その周りにはメイドのコスチュームの女の子や、怪しいジージャンの男、クラッカーを配る親切?なスキンヘッドなどがウロウロ。もうこの辺の空気が既にキてる。
で、開演。
……恐れ入りました。今度観に行くときは、ペンライトとクラッカーと紙吹雪と鳴り物と、ヒールと網タイツを持っていこう。
ティム・カリー。セクシー!他の評価が見つからない。彼の為にフランク役はある、と言うか、フランクを演じるために彼はこの世に生を受けたのである。スーザン・サランドン。歌が上手い(吹き替え?)。オスカーを獲った今、この映画は彼女にとって、勲章か汚点か?リチャード・オブライエン。天才である。ヘビメタのような歌声もよい。リトル・ネル。前から気になってたのだが、乳首見えちゃってるが、彼女としてはOKだったのだろうか?一発撮りのシーンなので、文句が言えなかったのだろうか?
肉体の欲求のままに快楽を追い、惑溺する。閉じた世界であれば、それはめくるめく。どこかにツケはあるかも知れないが、それは後回しでも良い。今が気持ちよければそれでよいのだ。
ビデオが廃盤なのが、まったくもって惜しい!


『大いなる幻影』
観た日:2000/05/26 お薦め度:★★★ もう一度観たい度:★★★

監督・脚本は『神田川淫乱戦争』(1983)『ドレミファ娘の血は騒ぐ』(1985)『カリスマ』(1999)の黒沢清、撮影・照明は柴主高秀、編集は大永昌弘。キャストに武田真治、唯野未歩子、安井豊、松本正道。

2005年、異常な量の花粉が覆い尽くす街。ハル(武田)は音楽制作の仕事をしている。所在が希薄な自分は、いつ消えてしまってもいい存在と考えており、刹那な出来事にも無感情で踏み込んでいく。ミチ(唯野)は、銀行で海外小包の受け取り窓口を担当している。外の世界に旅立つことを常に思う。時折気に留めた小包を自宅に持ち帰り、コレクションにしている。ハルとミチはつき合い始めて長く、お互いを空気のように自然に吸い込んでいる。ある花粉が飛び交う日、ハルは医者の村井(松本)と出会い、花粉症治療薬のモニターを薦められる。事後の同意だったが、この薬は稀に生殖障害が起こるという。しかし友人は、100%子供が作れなくなるという噂だ、と言った。ハルとミチは、お互いがこの薬のモニターをしていることを知り、そのことで少しずつ心が離れていく。しばらくして、ミチの郵便局は覆面の強盗に襲われた。その1人をカウンターの中に引きずり込んだミチは、それがハルと知る。壁にもたれ消えてゆくハルに、帰り支度を済ませたミチが、事も無げに手を伸ばした。ミチにはハルが見えているのだ。

前回観た『カリスマ』もそうだったが、黒沢監督の作品は、消化に時間がかかる。
極端に会話のない、それでいて高揚もないロングカットが続く。
この映画、最初はどこが“愛の物語”なのだろうと思った。脈絡の乏しいシーンが多く挿入されている。こういうの、「私は頭良いのよ」みたいな評論家のふりして知ったような事を言うのは、どうも・・・。監督の意図・裏を読め!というにはあまりに乱暴な絵だと思うんですけど。暴徒。自殺。近所に住む外人。漂流する白骨(解説には「兵士」とあるが、なんでこれが兵士なのか私には解らない!)。「音」に頼る“不安感の掻き立て”(最近、こういうの多いですよね)よりは、まだ不愉快ではないが。
でも、ハルは何度もこの世から消えてしまうがミチによって助けられたし、ミチは自分のいる場所から何度も逃げだそうとするが適わず、しかしハルに「俺がここにいる」と言ってもらえる。
「セックスと結婚(出産)の2パターンを拒否した恋愛映画にしたかった」とは黒沢監督の弁。生殖能力を無くす副作用を持つ薬を登場させることで、それを証明している。
武田真治。ヘラヘラとも切れかかっているとも見える表情。こういう俳優はあまりいないので、そういう意味では貴重。
唯野未歩子。ワンピースの似合う子はいい。パンフレットの、映画・黒沢監督へのコメントが天才的なので、必読。
観ていて苦痛はない。息苦しさもさほどない。カラーなのにモノクロームのような絵に、距離は感じるが疎外感はない。やはり、消化するのに何度も反芻しなければならないようだ。


『アメリカン・ビューティー』
観た日:2000/05/22 お薦め度:★★★★ もう一度観たい度:★★★★☆

監督はこれが処女作のサム・メンデス、脚本はTVコメディ畑のアラン・ボール、音楽は『ショーシャンクの空に』(1994)『ジョー・ブラックをよろしく』(1999)『グリーン・マイル』(1999)のトーマス・ニューマン、撮影は『明日に向かって撃て!』(1969)『マラソンマン』(1976)『めぐり逢い』(1994)のコンラッド・L・ホール。主演は『セブン』(1995)『ユージュアル・サスペクツ』(1995)『L・A・コンフィデンシャル』(1997)『交渉人』(1998)のケビン・スペイシー、『グリフターズ/詐欺師たち』(1990)『アメリカン・プレジデント』(1995)のアネット・ベニング、『愛に翼を』(1991)『パトリオット・ゲーム』(1992)のソーラ・バーチ、ウェス・ベントレー、『アメリカン・パイ』(1999)のミーナ・スバーリ、『希望の街』(1991)『モンタナの風に吹かれて』(1998)のクリス・クーパー、『セックスと嘘とビデオテープ』(1989)のピーター・ギャラガー。

レスター・バーナム(ケビン)は、雑誌社の広告業務を担当している。自分の生活すべてに閉塞感を覚え、生きながらに死んでいるとさえ感じている。妻のキャロリン(アネット)は不動産ブローカーをしている。物質的な成功を夢見ており向上心も旺盛だが、営業成績はパッとしない。一人娘の高校生ジェーン(ソーラ)は、チアリーダー部に所属している。いつも苛立っているが、その理由が何なのかは自分でもわからない。レスターはキャロリンの虚栄心に辟易としており、キャロリンはレスターを退屈な夫と思い、ジェーンは両親が疎ましく、親の立場から見ればジェーンの心が何処にあるか皆目わからない。ある日、ジェーンが母校のバスケットボールの試合でチェアリーディングをするので、両親揃って見に行く。そこでレスターは、ジェーンの友人で美貌のアンジェラ(ミーナ)に一目惚れする。アンジェラに好かれたいという思いが、レスターの停滞した心に動き出すきっかけを与えた。ジェーンは、隣りに越してきたリッキー(ウェス)が、自分をビデオに収めていることに気付く。最初は迷惑と感じていたジェーンだが、次第にリッキーに惹かれていく。キャロリンは、レスターの変化に唖然とし、孤独感をより強め、同業者のバディ(ピーター)と逢瀬を重ねるようになる。やがて、運命の豪雨の夜を迎える。

本年度のアカデミー賞で、5部門(作品・主演男優・監督・オリジナル脚本・撮影)を獲得した作品。
アラン・ポールの脚本が、たらい回しの末にスピルバーグのところに持ち込まれ、彼は一発OK、ドリームワークスでの制作が決定する。
監督のサム・メンデスはイギリス出身で、舞台演出を手掛けており、その斬新な仕事ぶりから今回の抜擢となった。メンデスは、撮影前にリハーサルとして俳優陣を集めた。進行によっては顔を合わせることがないかも知れない俳優同士を合わせることにより、より入念な脚本の理解・登場人物の背景の把握・セリフの練り込みができたそうだ。
“アメリカン・ビューティー”とは、バーナム家の庭に咲き誇る真っ赤な薔薇の名前である。しかし、この映画に登場するアメリカ人(これは登場人物のみを差すのではなく、現在のアメリカという国の、ひいては良くも悪くも科学文明に依存する人々、ということだ)の、個々の“美”意識は、ことごとく仮面の下に隠されている。それは故意であったり無意識であったりするのだが、それが開放されたときに、奇妙なバランスで構成された身の回りの世界は崩壊し、(あえてこう書くが)喜劇は起こるのだ。
この映画に一貫して窺えるものは、俯瞰からくるドライな手触りである。ただ、パンフレットや各誌にあるように、それは監督がイギリス人だから、というのはあまりに短絡であろう。脚本の解釈は、あくまで監督の才能。メンデスの発想が“そう”だったのだ。
しかし観客の立場からすれば、この映画は救われない。さらりと乾いており、わずかに自虐的で、そうとうに皮肉が込められている映画、と部分的には解釈できる。しかし私はエンドロールを見ながら、喜怒哀楽のどれを選んで良いのかわからなかった。心を揺さぶられたことは確か。しかし、その浮遊した心の落ち着き場所が定かでないのだ。ある意味、後味が悪い。お尻がこそばゆい。
「完璧なる映像!」との評価は充分にわかる。特異性はないが計算し尽くされたカット。同じシーンを何カットも重ね合わせることで、人物の鼓動をも写し込むことに成功している。しかし、むしろ音楽とのマッチングから映像が引き立てられていることの方を注視すべきであると思う。トーマス・ニューマン、恐るべし!
俳優陣には文句なし。ケビン・スペイシーの、冒頭とラスト近くの体つきの変わり様に注目だ。3人のティーンエイジャーの脱ぎっぷりも潔し。
ある意味、『マトリックス』(1999)や『シックス・センス』(1999)に匹敵する、新感覚な映画。いろいろ考え込む意味でも、お1人で観に行くことをお薦めする。


『カリスマ』
観た日:2000/05/19 お薦め度:★★★★ もう一度観たい度:★★★★

監督・脚本は『CURE』(1997)『ニンゲン合格』(1998)『大いなる幻影』(1999)の黒沢清、撮影は林淳一郎、照明は豊見山明長、美術は丸尾知行。キャストに役所広司、池内博之、大杉漣、風吹ジュン、洞口依子。

人質を撃ち殺しその場で射殺された犯人から「世界の法則を回復せよ」というメッセージを受け取った刑事の藪池(役所)は、その言葉を忘れられぬまま、ある森へと迷い込む。そこは、いくら新しい苗木を植えてもすぐに枯れてしまう不思議なところだった。奥まった高地には、鉄パイプに囲まれ栄養剤の点滴が多数ほどこされている木があった。桐山(池内)は、この木を“カリスマ”と呼んで世話をしている。周囲の木々が枯れてしまう原因は、どうやらこの木にあるらしかった。桐山は、この木に負けて枯れるのも自然の摂理だと言う。植物学者の神保(風吹)は、森の生態系の為にはあの木は邪魔だと言う。植林作業員の中曾根(大杉)らは、とにかくその木を除去し、あわよくば売ってしまおうとする。藪池は、森全体もその木も共に生き残る術はないのか、と考えた。それは、先日の事件のときの、人質と犯人の両方を救う手だてはないか、という思いに似ていた。しかし、神保の言う「生き残ろうとする力と、その為に相手を殺そうとする力は、結局同じ」という意見も同意できる。そのうち、各人の思いの中で“カリスマ”は焼かれてしまう。しかし藪池は、新しい、藪池自身にとっては真の“カリスマ”を見つける。人々が迷走し困惑するなか、藪池は「生きようとするもの同士、なすがままに生きればいい」と悟り、中曾根の連れてきた兵隊を使って、かつて自分が従属した社会・都市を破壊する。

『CURE』以来、特にフランスで大人気の、黒沢清監督の作品。
遅ればせながら、私、『ネオ・クロサワ』作品は、これが初めてです。すみません。とりあえず、謝っておこう。
何通りにも解釈できる脚本、良い。知ったような事を言いつつ結局は私利私欲のみに突き動かされている藪池以外のキャストの設定、良い塩梅。狂気の気配とは裏腹のユーモア、ニンマリ。絵心のある(ちょっとあざといかな?とも思うが)カメラ構図、考えている。この辺は、フランスで受ける要因か?
役所広司、巧い。安心して見ていられる所が、唯一の不満だ。ロビン・ウィリアムスのようにはならないで欲しいものだ。
池内博之、『スペース・トラベラーズ』(2000)でも好演だったが、あのときはセリフはないに等しかった。今回、しゃべってもイケることが判明。今後に期待大。
洞口依子が刺されるときの剣の特撮(SFX?CG?)はお見事だが、車のフロントグラスに映る木立の流れ(CG丸出し)はブツギレのコマ送りでかなり情けない。
1つだけ、大不満がある。このクソパンフレット(じゃなくて、ペラの集まりが段ボール紙に詰まっているだけのもの)は、一体何なんだ!しかも千円もとりやがって!おい、制作のキングレコードと制作/配給の日活・東京テアトル、猛省しろ!バカにすんな!
まぁ、とにかく、独自で且つ力量のある監督であることは確か(別に改まって言うことでもないのだが)。他の作品もチェックしてみよう。


『親指スター・ウォーズ』
観た日:2000/05/13 お薦め度:★★★★ もう一度観たい度:★★★★★

遙か遠い昔、親指銀河の彼方。親指帝国サムパイアの反乱で親指共和国は崩壊した。共和国の残党はアホヤ姫を中心とした反乱軍を結成し、帝国軍と戦っていた。ローク・グランドランナーはウビ=ドゥビ・ベノビより授かったサム・パワーを駆使し、反乱軍と共に帝国軍の基地サムスターの攻撃に参加する。

『親指タイタニック』
観た日:2000/05/13 お薦め度:★★★★ もう一度観たい度:★★★★★

親指大西洋の海底で発見された沈没船サムタニックから見つかった全裸の絵の報道を見たある老婦人が、TV局に「モデルは私である」と通報し、家に来た彼らに、今まで決して口にしなかった驚異の物語を語り始める。

ともに、監督・制作総指揮・脚本・主題歌(『親指タイタニック』)は『ナッシング・トゥ・ルーズ』(1997)『パッチ・アダムス』(1999・脚本のみ)のスティーブ・オーデカーク、3Dアニメはジェフ・シェーツ、2Dアニメーターはスコット・ダルトン。キャストは親指、足の指。

説明するのも馬鹿馬鹿しい、じゃなくて、おこがましい、ご存じ『スター・ウォーズ』(1977)と『タイタニック』(1998)のパロディ。
『親指スター・ウォーズ』は、『スター・ウォーズ 1/ファントム・メナス』(1999)オープニングの前夜に全米でTV放送され、映画館に徹夜で並んでいたスター・ウォーズ・フリーク達に地団駄を踏ませた。味をしめた監督以下スタッフは、これまた史上最大のヒット作『タイタニック』を親指の元にひれ伏させることを計画、見事に成功する。
全てのキャストが“親指”である。正確に言えば、親指の腹。そこに、CGやペイントで顔が付いている。目と目が寄っていて、鼻がなくて、口がでかい。かつらを被り服を着ている。で、爪が剥がれると死んじゃう。
パロディの気合いも違う。
『親指スター・ウォーズ』。役名だけでも、ローク・グランドランナー、アホヤ姫、ハンド・デュエット&バカバッカー、プリシー・ピオ&ビーポ・ビープ、ウビ=ドゥビ・ベノビ、ダーク・ベイダーにガバ・ザ・ハットだもの。戦闘機はグーとかパーの形だし、サム・スターはそのまんま指だし、クライマックスのローク対ダークでは、オリジナルを越えた度肝を抜くアイデアが飛び出し、劇場は騒然!いや〜こんなの、『ゴーストバスターズ』(1984)のマシュマロマン登場以来ですよ!
『親指タイタニック』。酒場での指相撲で乗船券をゲットしたジェイクと、彼より明らかに一回りでかいデブのゼラニューム。彼女が持ち込む車には“濡れ場用車”の文字。チープなCGがかえっていい味だしている客船サムタニック。乗船客や船上員の馬鹿馬鹿しいやり取り。沈没後に海に浸かっているのがゼラニュームなのは、誰もが納得だろう(紫色になってるけど)。何よりも素晴らしいのは挿入歌。セリーヌ・ディオンを凌駕する歌唱力に、椅子からずり落ちること間違いなしだ。
ホントは、オール満点5つ星をつけたいところなんだけど、『スター・ウォーズ』や『タイタニック』を知らない、という方もいるかも知れないと思ったので(知らなきゃ笑えないもん)、ちょっと減点しました。ビデオになったら、字幕も吹き替えも両方観たい。
最後に、翻訳の林寛治、偉い!!!


『MIFUNE』
観た日:2000/04/17 お薦め度:★★★ もう一度観たい度:★★★

監督・脚本は『エマ EMMA』(1987)のソーレン・クラウ・ヤコブセン、撮影はアンソニー・ドット・マントル。キャストにアナス・ベアテルセン、イーベン・ヤイレ、イエスパー・アスホルト、ソフィエ・グロベル、エミル・ターディング。

クレステン(アナス)は、家族を捨てコペンハーゲンでビジネスマンとして成功を掴み、社長の娘クレア(ソフィエ)と結婚した。しかしそんな幸せな日々の中、父が死んだことを告げる電話がきた。家族などいないと聞かされていたクレアは戸惑うが、クレステンは彼女を説得し、一人で葬儀のために実家へ向かう。実家の農園は荒れ放題で、知的障害を持つ兄のルード(イエスパー)が一人で泣いていた。クレステンに、幼かった日々が蘇ってくる。ルードにとってクレステンは、“決して諦めない7人目のサムライ「ミフネ」”、絶対のヒーローで、2人はよく『七人の侍』ごっこをして遊んだものだった。クレステンは、手に負えない家の整理のために、家政婦募集の広告を新聞に出す。一方、リーバ(イーベン)は高級娼婦だが、ストーカーに悩まされており、仕事上の失敗もあって、家政婦としてクレステンの家で働くことにした。そのうち、リーバのもう1つの悩みの種である弟のビアーケ(エミル)が全寮制の学校を放校され、彼もこの家にやってくる。

デンマークの映画で、1999年のベルリン映画祭の銀熊賞(準グランプリ)作品。
まず、「ドグマ95」について説明しなければならない。「ドグマ95」とは、コペンハーゲンで1995年秋に結成された映画監督の集団のことで、作家性を重視したコンセプトや、メイクアップ・セット・特撮・見え透いたストーリー展開に反発し、「純潔の誓い」という10の戒律の元に映画を制作するものである。おもしろいので、長くなるが全部紹介する。
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【純潔の誓い】1.撮影はロケーションのみで、小道具・セットは持ち込まない。2.撮影時に発生した音楽以外に、音楽は使わない。効果音も使用しない。3.カメラは手持ち。カメラの前で映画が作られるのではなく、映画が作られる所にカメラがある。4.カラー作品で 、且つ照明は認めない。露出のためにどうしても必要なら、カメラに照明を1つだけつけてもよい。5.フィルター処理等は認めない。6.殺人・武器・故意のアクションは認めない。7.時間的・地理的な乖離は認めない。(註:歴史映画やSF、デンマーク国内なのにニューヨーク、なんて〜のはダメ、ってことかな?)8.ジャンル映画(アクション・SFなど)は認めない。9.フィルムサイズは、スタンダード(アカデミー35mm)のみ。10.監督名をクレジットに載せない。
さらに、監督は個人的な趣味趣向を控える。作品の創造を放棄する。全体の調和よりも、瞬間を切り取り、登場人物やその置かれた状況から真実を引き出すことに専念する。
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どうです、変でしょ?ヨーロッパ中で起こっている、『反ハリウッド運動』の1つだと思うけど、確かにハリウッド式商業映画主義は私も大嫌いだけど(その割には結構観てるけど・・・)、何もここまでやらなくてもなぁ。
この映画の最大のモチーフは、もちろん黒澤明監督の『七人の侍』(1954)に出てくる、三船敏郎演じる菊千代である。菊千代は百姓の出でありながら、それを隠し通せると思い込み、用心棒の最後の1人として雇われるわけだが、この映画の主要4人にも、口に出せない秘密を持っている(ルードは“天然”か)。
もう1つ、「ミフネ」という言葉は、デンマーク人にとっては、大変に口当たりの良い発音の言葉らしい。
ソーレン・クラウ・ヤコブセン監督は、贅沢に盛り込まれたキャラクター設定を、破綻なく繋いでいる(クレステンとリーバがどうなるのかは、最初からわかっちゃうけどね)。ただ、いきなり生ギター演奏者が出てきたり、いなくなったリーバが帰ってきたり、必要のないシーンというか理由のわからないカットとかもあって、編集にちょっと不満を感じる。
各俳優は、ピンと立ったキャラクター設定にも助けられ、活き活きと演じている。
なにはともあれ、上記の「ドグマ95」に興味を持たれた方は、観てもよいのではないでしょうか。
ちなみに、ヤコブセン監督は、「次回作は“普通”に撮る」ってさ。


『Go!Go!L.A.』
観た日:2000/04/17 お薦め度:★ もう一度観たい度:★

監督・脚本は『レニングラード・カウボーイズ・ゴー・アメリカ』(1989)のミカ・カウリスマキ、供同脚本はリチャード・レイナー、撮影はミッシェル・アマチュー、編集はエワ・J・リンド。主演はデイヴィッド・テナント、共演に『アイズ・ワイド・シャット』(1999)のヴァネッサ・ショウ、『バッファロー'66』(1999)のヴィンセント・ギャロ、『パッション・ベアトリス』(1987)のジュリー・デルピー、キャメロン・バンクラフト、カメオ出演でジョニー・デップ、レニングラード・カウボーイズ。

スコットランド・ブラッドフォードで葬儀屋をしているリチャード(デイヴィッド)は、旅をしているバーバラ(ヴァネッサ)に一目惚れした。彼女はロサンゼルスに住む女優の卵。バーバラを忘れられないリチャードは、彼女が忘れたマッチにプリントされている店の名前だけをたよりに、ロスへ向かう。何とかバーバラを見つけ出し、偶然出会ったモス(ヴィンセント)に住む家も紹介してもらい、モスとビバリーヒルズの豪邸のプール掃除の仕事を始める。リチャードの一途なプロポーズに根負けしたバーバラは、遂に結婚することを決め、親友のジュリー(ジュリー)とモスも恋に落ちた。しかしバーバラは、自称映画監督のパターソン(キャメロン)との縁が切れない。嫉妬するリチャードを置いて、バーバラはパターソンのところに向かう。

イギリス・フランス・フィンランドの合作。
最初、ヴィンセント・ギャロの最新作ということで、物凄い期待感を持って劇場に向かった。面白い墓場のオープニングで参列者を凝視したが、いない。いないどころか、いつになっても出てこない。と思ったら、ダウンタウンの胡散臭い野郎の役でやっと出てきた。が、ブツブツ早口でしゃべっているが、『バッファロー'66』のあの素晴らしい切れた鬱屈した演技が出てこない!
何だ、この映画。ヴィンセント・ギャロが作ったんじゃないジャン。というか、勘違いした事は私に非があるとしても、ミカ・カウリスマキ監督って、全然才能ないジャン!構成も脚本も、何もかもつまらないしくだらない。
そもそも、誰がどう見ても主人公はデイヴィッド・テナントなのに(一番長く写ってるし、当然キーキャラクターだし)、何でヴィンセント・ギャロやジュリー・デルピーがメインなの、このパンフ?クソ製作会社やバカプロデューサーの臭いがプンプンするぞ!そう、これは『ホーンティング』(1999)で感じたリーアム・ニーソン&キャサリン・ゼタ=ジョーンズと配給先のドリームワークスの、あの嫌な感じに酷似しているな。
私、結構怒ってます。ジョニー・デップがポスターに張り付いて出演していることや、レニングラード・カウボーイズが未だ元気に髪の毛を盛り上げてたのは良かったけど。どうしようもないストーリー、たいして上手くない俳優陣、どれを取っても、金を払って見る程の映画ではありません。


『ストレイト・ストーリー』
観た日:2000/04/17 お薦め度:★★★★★ もう一度観たい度:★★★★

監督は『エレファント・マン』(1980)『ブルーベルベット』(1986)『ワイルド・アット・ハート』(1990)のデイヴィッド・リンチ、脚本はジョン・ローチと『レッズ』(1981)『ブルーベルベット』のメアリー・スウィーニー、撮影は『息子と恋人』(1960)『グローリー』(1989)で2度オスカーを取っているフレディ・フランシス、音楽は『ブルーベルベット』『隣人は静かに笑う』(1999)のアンジェロ・バダラメンティ。主演は『カムズ・ア・ホースマン』(1978)のリチャード・ファーンズワース、『キャリー』(1976)『歌え!ロレッタ・愛のために』(1980)『ミッシング』(1982)のシシー・スペイセク。

アルヴィン・ストレイト(リチャード)は73歳。腰を痛めており、目も悪い。娘のローズ(シシー)と2人暮らしだ。ある日、10年来仲違いしている兄が脳卒中で倒れたと聞く。兄弟は仲が良く、昔はよく2人で星を見たものだ。絶縁の時間を埋めたいと思うが、アルヴィンの住むローレンスと兄のいるマウント・ザイオンは500kmも離れている。車の運転ができないアルヴィンは、芝刈り機にトレーラーを付けて出発するが故障、トラクターに乗り換えて、再びマウント・ザイオンを目指す。時速8キロの旅。ゆく先々でいろいろな人に出会いながら、アルヴィンは進む。

実話を元にしたストーリー。
素晴らしい!デイヴィッド・リンチ、恐れ入りました。オープニングが『スター・ウォーズ』みたいで、何でこんな無関係な宇宙の絵を、と思ったが、違った。深かったよ。
「1本の枝はすぐ折れるが、たくさんの枝は折れない。これが家族だ」には“三本の矢”を思い出して失笑したし、枝をバンダナで束ねた絵は、不幸でない『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』だけど、許す。墓場のシーンはさすが!と思い、逆に映画から浮いてたけど、許す。
ただし、撮影が良くない。というか悪い!太陽により、影が右側に伸びているのに左背後の家の壁にも影がある。銀レフ板の為だが、いい加減にしてくれ!逆光でのハレーション全開の俯瞰シーンも、勘弁してくれ!夜のたき火のシーンは暗いので撮影が難しいのはわかるが、ピンボケはないだろう!撮影監督のフレディ・フランシスが持つ2つのオスカー像は、きっと木製に違いない。
リチャード・ファーンズワース、御年80歳である。しかし、あの目!口ほどに物申す目!本年度のアカデミー賞主演男優ノミネートも頷ける。
シシー・スペイセクも絶品だ。ちょっとトロくて、一生懸命で、4人の子供を施設に取り上げられた悲しい女性を、演じきっている。
恐らく、史上最遅のロードムービー。よく、各駅停車の旅とか、風の向くまま気の向くままのヒッチハイクとか、憧れる旅の形態があるけど、それらのどれよりも遅い。トラクターだもん。時速8キロ。でも、だからこそ目に入った物を全て脳味噌でよく噛むことができる。老人だから尚更だ。
映画館がお年寄りでいっぱいだった。こんなの、正月の寅さんぐらいしか知らない。


『ロルカ、暗殺の丘』
観た日:2000/04/14 お薦め度:★★★★ もう一度観たい度:★★★★

監督・脚本・制作は『ラ・グラン・フィエスタ』(1986)『タンゴ・バー』(1988)のマルコス・スリナガ、撮影はホアン・ルイーズアンキア、美術は『パットン大戦車軍団』(1970)のヒル・パロンド。主演は『アンタッチャブル』(1987)『ゴッドファーザー PART3』(1990)のアンディ・ガルシアと『ラ・バンバ』(1987)『ミ・ファミリア』(1995)のイーサイ・モラレス、共演にマルセラ・ウォーラースタイン、ジェローン・クラッベ、ミゲル・フェラー、『Film d'Amore e d'Anarchia』(1973)のジャンカルロ・ジャンニーニ。

1934年のスペイン。共和派に対抗するフランコ将軍率いる反乱軍は、まさに内乱を企てんとしていた。そんな中、リカルド(イーサイ)と友人のホルヘは、同郷の偉大な詩人にして戯曲作家のフェデリコ・ガルシア・ロルカ(アンディ)の戯曲「イェルマ」を観て感動する。しかしロルカは既に、あまりに前衛でかつ共和派よりなので、現在の政治情勢では危険人物と捉えられていた。父の反対を押し切り、彼の詩集「ジプシー歌集」にサインをもらいに楽屋に行ったリカルドは、ロルカに会うことができ、天にも昇る気持ちだった。2年後、国内の緊張はさらに高まっていた。ロルカが故郷グラナダに帰ってきていることを知ったリカルドは、ホルヘと共に彼の家に向かうが、まさにその時・午後5時に、反乱軍の蜂起が始まった。逃げ切れなかったホルヘは射殺されてしまった。ホルヘの父である軍人のアギーレ(ジェローン)はリカルドを責めなかったが、息子の死の原因はロルカだと思い、彼をより憎む。ある夜、リカルドの父が何者かに連れ去られ、血だらけで帰ってくる。その夜、一家はスペインを出て、プエルトリコに移住することを決心する。同じ日、ロルカは暗殺された。1954年、新聞記者になったリカルドは、ロルカ暗殺の謎を探りに、父の必死の反対を押し切りスペイン・グラナダへ戻る。

スペイン・アメリカの合作。スペイン圏を舞台にしているが、英語で進行する。リュック・ベッソンの『ジャンヌ・ダルク』もそうだったが、世界的ヒットを画策する常套手段だ。
列強国の軍国主義による、地球規模での最も不安定であった20世紀前半にあって、スペインも内乱により国民同士で多くの血を流した。ピカソもダリも亡命したなか、しかしロルカは身の危険もかえりみずに祖国に戻り、捉えられ、殺される。そしてその暗殺の秘密を暴こうとする者・リカルドにも、秘密警察の監視の目は光る。
体制に不都合な言論を暴力と決めつけ制裁を加えるという非道が、まかり通った悲しい時代。思えば日本も、つい55年前まではそうだったのだ。
やもすると寸断バラバラはいサヨウナラになってしまう、過去と現在の交錯する画面を、難なく見せる脚本・編集の妙。耳慣れない名前なのでちょっと戸惑うが、あの多くの登場人物を丹念に見せていて、圧巻のエンディングになだれ込む構成。物語としてのレベルの高さに加え、映画として第一級のエンターテインメント性をも備えている。
冒頭の、リカルド少年が憧れの人ロルカに接見するときの、こぼれ落ちる瞳の輝き!泣ける!
アンディ・ガルシア、イタリア人臭さがいい味をだしている。
この作品、有名どころの映画館ではかかっていないのだろうか?ドンパチハデハデアクションが大好きな方やピコピココンピューター画像が命!という方には確かに合わないかもしれないけど、生半可な“お芸術映画”より遙かに香り高く、テンポ良いミステリーで、絵も美しい。私としては、まさに待ってました!の映画でした。


『救命士』
観た日:2000/04/11 お薦め度:★★★★ もう一度観たい度:★★★★

監督は『タクシー・ドライバー』(1975)『レイジング・ブル』(1980)『ケープ・フィアー』(1991)のマーティン・スコセッシ、脚本は『タクシー・ドライバー』『アメリカン・ジゴロ』(1980)のポール・シュレーダー、撮影は『プラトーン』(1986)『JFK』(1991)『カジノ』(1995)のロバート・リチャードソン、編集はセルマ・スクーンメイカー。主演は『ランブルフィッシュ』(1983)『ワイルド・アット・ハート』(1990)『コン・エアー』(1997)のニコラス・ケイジ、他キャストに『トゥルー・ロマンス』(1993)『エド・ウッド』(1994)のパトリシア・アークレット、『夢を生きた男/ザ・ベーブ』(1991)のジョン・グッドマン、『パルプ・フィクション』(1994)のビング・レイムズ、『プライベート・ライアン』(1998)のトム・サイズモア。

1990年代初期のニューヨークで救命士として働くフランク(ニコラス)は、半年前に喘息発作で倒れたローズを救えなかった時から、彼女や他の救えなかった亡霊たちの幻覚に悩まされ続けている。そして、生死を彷徨う救急患者と、犯罪とドラッグと銃のはびこるこの街に打ちのめされており、既に気力が切れかかっている。ラリー(ジョン)と組んだ夜、心臓発作で倒れた男を救出したフランクは、彼の娘のメアリー(パトリシア)に病状の深刻さを伝え、家族の支えになることを促す。運ばれた聖母マリア病院は数多の患者で満杯だ。逃げ出したいフランクだが、マーカス(ビング)と組んだ次の夜も救急指令の無線は鳴り止まない。そのうち、たびたび病院に来るメアリーにいつしか安らぎを覚えるようになったフランクは、しかし彼女の倒れた父の無言の声“俺を殺してくれ”の言葉に動揺する。トム(トム)と組んだ夜、遂にフランクは無軌道な行動を押さえられなくなる。

職人マーティン・スコセッシの、技の冴える力作。難しい構成だが、演出に長け、脚本・編集も素晴らしい出来だ。映像にシニカルなユーモアが見える所があり、それがむしろ街の狂気を演出している。狂うことが普通じゃなくなることなら、ユーモアも充分に狂気の素質がある。
医療現場の最・最前線での、患者を救えなかった時の苦悩と救えた時の快感との狭間で、過去をスッパリ忘れるかジョークで笑い飛ばすかしか自己精神の防御の術がない、救命士という仕事。過酷である。ニコラス・ケイジは、その過酷の部分は巧く演じていたが、防御し切れず狂気に踏み込む部分の、ある意味最も彼らしい脂ぎったギラツキ感が足りない気がする。「お前はギトギトだ!」って言われ過ぎちゃったのかしらん。変に押さえず暴走気味の方が、ニコラスらしいと思うぞ。
パトリシア・アークレットはご存じニコラスの妻。しかしその絡み方は、『アイズ・ワイド・シャット』のニコール&トム夫妻ほどの、火花を散らすような感じはない。ほんのりとしている。というか、ニコラスが優しすぎる。役者の“格”を気にするところじゃないと思うが。
トム・サイズモアの切れた演技がよい。目がいい。
しかし、『ウエスト・サイド・ストーリー』じゃないけど、ニューヨークは夜が似合うね。
いい仕事を見させてもらいました、という感じの映画(嫌みじゃないよ!)。


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