訣別〜ゆめにらくど、もとめたり〜

誰もが信じて疑わない
たったひとつの前途
それが明るく、まばゆいものであればあるほど
危険をはらんでいることを…誰が知ろう?

それが壊れたとき…どうなるのだ?



1.参戦の決意、エレオノーラの真実

 ひとはなぜ、あらそうの?
 かみさまがそうしているから?
 だったら…


 結局、スクネ血盟と相手の血盟の間には、敵対的ではあるものの、講和がかろうじて成り立ち、全面戦争だけは免れた。
 どうやら相手側は、他の血盟とも争っているらしく、スクネに戦力を割いている余裕がない…というのが、実情だったようだ。
 噂を聞きつけ、ワシズミが他の血盟の人々に事情を聞いてみると、似たり寄ったり。
 その血盟に好戦的…というか、どうも独善的な血盟員がいて、我こそ正義なりとばかりに暴走している、というのが、情報収集の結果だった。
 エレオノーラ自身もその相手と対峙し、直接対話したところ、どうやら彼はどこかの城主とつながりがあるらしく、それを嵩にきているところもあるらしい…

 城主となるのは、君主の憧れのひとつ。
 だが勝ち得るだけでは終わらない。
 攻め取ることより、守ることのほうが難しいのだから…。
 それは城主に引き取られ、多忙な政務の傍ら、たびたび襲ってくる敵を排除し続けていた彼の姿を見ていたエレオノーラだからこそ、よく知っていることだった。
 またしても、悲しい思い出が蘇る。
 エレオノーラへの恋慕に狂いさえしなければ、どれだけ優れたひとだったことか。
 いま思えば、ひとつの城に収まる器ではなかった。
 ケンラウヘルが姫のひとりを嫁がせたほどの人物…もしかしたら、アデンそのものの後継者となっていたかもしれない。
 もっとも反王に寿命などというものがあるのかどうか、誰も知らないけれど。


 戦うと言い切りはしたものの、まだ人を傷つけることに、そしてその結果、変貌せずにいられるかどうか自信のないエレオノーラは、ほっとしながら、久々の休日を、薬草集めに費やしていた。
 もちろん狩りの最中に、薬草など使っている時間はない。
 けれども宿で飲む香草茶や、枕の下に入れる安眠効果のある薬草、それに血止めの薬など、役に立つものはいくらでもある。
 まだ体調が万全でないエレオノーラを気遣って、アララとワシズミが同行してくれた。

 ――そういえばイルレタが、香草茶を随分と気に入ってくれていた…ありったけ、持たせてあげればよかったな。

 無口なイルレタだったけれど、食後に香草茶を淹れてあげると、いつも美味しそうに飲み干してくれた。時にはおかわりを欲しがることもあって、それが彼の疲労度を知る目安にもなった。

 スクネを去り、新たな血盟を作ると言っていた若者たちは、血気に逸り、城攻めの傭兵もやってみると言っていた。
 無事に帰ってこれるといいけれど…
 幸か不幸か、エレオノーラが戦争そのものを目の当たりにしたのは、叔父の死を幻視したとき一度だけだった。
 故郷は政情不安定ながら、城主の統率力と常に鍛錬を怠らない兵の精強さに、君主たちも手を出しあぐねていたようだ。
 もっとも軍事には強くても、みな人柄はよく、子供などは簡単に城に忍び込めたものだったけれど…
 ワシズミをふと見やり、エレオノーラは微笑んだ。
 あのころから、随分と経つ。
 戦闘には向いていないと自称しながらも、ワシズミの身体もずいぶんと逞しくなった。
 猟犬もずいぶんと成長して、彼ひとり、どこかへ狩りにでかけることも増えた…
 それを少し寂しく思いもしたが、自分自身も、魔法使い単独でないと危険な狩場にワシズミを連れて行くわけにはいかないこともある。
 成長するとはこういうことなのだ、と、嘆息しながら、エレオノーラはひたすら薬草集めに専念した。
 その傍らではワシズミとアララが、時折現れるライカンスロープや蜘蛛を片付けている。
 アララも出会った頃は、エルフの森への道がわからず、オロオロしていたものだった。
 花火がやたらと好きで、へっぽこ忍者とふたり、ドンドン打ち上げては宵越しの銭がないと苦労していたのも、いまでは懐かしい思い出だ。
 さすがに今はもう「お金 花火に 全部 使っちゃった!」と泣いている姿は見ない。
 稼げる金額が増えただけで、未だに花火は常備しているようだけれど…。
 ひととおり、あたりの薬草を集め終えると、エレオノーラは立ち上がった。
「え? まだ結構残ってるじゃないか」
 ワシズミが周りの草と、籠の中身を見比べながら言う。
 するとエレオノーラにかわって、アララが珍しく、真面目な顔つきで答えた。
「あのね ぜんぶ 摘んじゃうと もう 生えてこなく なるでしょ? だから わざと 残して おくの!」
「なるほど…」
 アララの専門は攻撃と治療のようだけれども、象牙の塔では一通りの課程を修了しないと、一人前とはみなされない。
 だから得意げに、薬草学の知識を披露していた。
 …もっとも授業が始まってすぐに習う、初歩中の初歩なのだが…
 ふたりのやりとりを微笑みながら見守りつつも、エレオノーラは溜息をつく。
「戦争だなんて…心配だわ。みんな、怪我しないといいのだけど…」
 嘆息するエレオノーラに、アララが陽気な口調で言った。
「あの連中 前から血の気 多かったもん。多少 痛い目にあったくらいじゃ 懲りないよ! …でもね 正直 アララも 戦争 してみたいよ?」
 意外なことばだった。
 アララはいつもマイペースで、仲間に優しく、攻撃よりも回復の魔法を優先してくれている。
 エレオノーラが試験でおこなった、上級の回復魔法を真っ先に習得したのも彼だった。仲間が危ないとなると、実にタイミングよく、全員を癒してくれる。
 かわりにふらつくアララを癒すのが、エレオノーラの重要な仕事になっていた。

 でも…
 ふと、エレオノーラは思い出した。
 件の血盟と講和が成り立つ前、ひとりで狩りに出たアララが、その血盟のメンバーに襲われ、返り討ちにしてやったと言っていたことを。
 どうやら案外、この子も血の気が多いのかもしれない。
 他の血盟員がどこまで理解しているかはわからないけれど、案外ワシズミも、熱しやすく冷めやすい面がある。

 ――類は友を呼ぶ、とは、よく言ったもの…

 それが自分自身にも該当することを、心の隅に押しやりながら、エレオノーラはそっと溜息をついた。

 ああ、塔の設備が使えたら。
 籠の中身をしげしげと眺め、エレオノーラは嘆息せずにいられなかった。
 君主という役割は、疲労を伴うもの。
 いつしかひどい肩凝りを抱えるようになったワシズミに、時間と体力のあるとき、エレオノーラは香油でマッサージをしていた。
 香油は希少な品物なので、購入すれば高くつく。
 けれど象牙の塔にはそれを醸造するための設備があったし、実際エレオノーラの作る香油は時間がかかるぶん質がよいと評判だった。
 …ないものをねだっても、仕方のないことでは、あるのだけれども。

 日が傾きだす頃、アララが空腹を訴えだし、3人は宿へと戻っていった。
「なんか 嘘みたいに 平和だよね… 敵は出るけどさ」
 食事をあっという間に食べきり、お茶をすすりながら、アララは笑った。
「こんな時間も大事さ。いつも戦ってばかりじゃ、身がもたない」
 ワシズミはゆったりと寛いだ様子で、少食なエレオノーラが食べ終わるのを、じっと待っている。
「でも… これで いいのかな」
 ぽつりとアララが呟いた。
 表面上は平和であっても、反王の圧政はいまだに続いている。
 アデン城に戦を挑めるほどの力をもつ君主は…まだ、いない。

 スクネの血盟員たちも今ではかなり成長し、魔法使いの大半は、最高位の呪文を使いこなすほどになっている。
 特に政王あたり、塔に戻れば一流の講師として歓迎されるだろう。
 伸び悩んでいたエレオノーラでさえ、体力不足は相変わらずではあるものの、猟犬と魔法をうまく使いこなし、ひとりで旅をできるだけの魔力を身につけていた。
 むろん他の血盟にも、力ある血盟員は数多くいるはずだ。
 それでも…反王に対抗するためには、彼の抱える騎士団、そして魔女ケレニスに打ち勝つ策を練り上げ、それを過たず指揮できるカリスマのある君主の存在が不可欠になる。
 血盟どうしで、争っている場合ではないのだ。

 しかしいくつかの城を巡っての、また私怨による、血盟間の闘争は終わることがない…
 アデンへの道が冒険者には閉ざされている以上、仕方のないことなのかもしれない。

 でも、たったひとり。
 誰もがその人に喜んで従う盟主がいれば。
 前王の王子デポロジューこそ、と噂されてもいるが、なにも王家の血筋に拘る必要はないはず。
 それよりも…

「エレ? どうしたの?」
 アララがエレオノーラの顔を、まともに覗き込んでいる。
 まずい。
 もしかしたら、また変化を起こしていたかも…
 不安になってワシズミを見ると、大丈夫だとうなずいた。
 単に話しかけても反応がなかったから、心配されただけらしい。

「うちは お城は 取らないって いってた、よね…」

 どこか悲しげな表情。
 この子も去っていくのかもしれない。
 どうしてみんな、戦争ばかりしたがるのだろう?
 エレオノーラには、わからなかった。

 夜、そのことをワシズミに問うと、彼は複雑な表情をした。
「人それぞれだよ。戦争を終わらせるため、権力が欲しいから、血盟員にせっつかれて…みないろいろな事情を抱えている。そうだろう?」
 見つめ返され、エレオノーラはうつむく。
 彼女ほど重い宿命に振り回されている者は、そうそういないだろうから。
「でも…矛盾してるわ。戦争を終わらせるための戦争なんて」
 みんなが心配で、近頃眠れない…
「…男だから、かもしれないな。反王打倒、アデンの王位。誰だって夢みるものさ」
 ぽつりと呟くワシズミに、エレオノーラはふいに不安を感じ、しがみつく。
「大丈夫。オレは、死なない」
 それでもワシズミの腕のなかで震え続けるエレオノーラに、ワシズミはひとつの提案をする。
「なあ、今度の城攻め、見学にいってみないか?」
 エルサイズやブングテンが参戦しているはずの、ハイネ城の攻防。
 人が争う姿など、見たくはなかったけれど、それでもエレオノーラは頷いた。

 いちおう武器を持たない者は攻撃しないのが、戦争の不文律となっている。
 それでも混戦の最中だったり、私怨を持つ者がいたりすると、安全は保障されないわけだから、帰還の巻物を手に握り締め、ふたりはハイネに向かった。
 北に湖、南に海と、守りの堅いハイネ城。
 青と城を基調に建てられた美しい場所が、いま、流血の舞台と化している…

 そこはルールなどない、ただ敵を倒すためだけの場所。
 騎士たちが先陣をきり、相手構わず切りかかる。
 攻撃側のエルフの弓兵が隊列を作ろうとするのを、防衛陣は必死に止める。
 目の前では3人の敵に囲まれながら、そのすべてをなぎ倒す騎士がいる。
 みんな血を流しながら、戦っていた。
 無意識のうちに杖に伸びる手を、ワシズミが止める。
「だめだ。ここでは治癒の魔法だろうと、使っちゃいけない。戦争参加者とみなされて、殺される」
 わかってはいても、つらかった。

 段々と戦場は混乱していった。
 敵と味方の区別をつけるのが手一杯。
 なかには噂どおり、私怨で無関係の相手を殺している者さえ、いた。
 人と人とがぶつかり合い、常に移動し続けるなか、エレオノーラは必死に、知人の姿を探す…
 そして、見つけた。

「エルフ隊、ひとつにまとまれ! 各個撃破されるぞ!」
 叫んでいるのは、エルサイズ。
 その傍らで、時には攻撃、時には味方の治癒と、様々な魔法を駆使しているのは、ブングテン。
 ふたりとも酷く傷ついていた。

 狩りのときなら、何のためらいもなく、ふたりの傷を治してあげられるのに。
 それよりも、ふたりを止めてしまいたいのに。
 エレオノーラは目に涙を溜めながら、それでもふたりの戦う様を、必死に見つめていた。
 麗しい石像と化したように身動きひとつしないエレオノーラの身体を、ワシズミがしっかりと抱き締める。

 それでもこれは、人間どうしの戦いだった。
 エレオノーラの脳裏に、まざまざと蘇る、故郷を滅ぼした殺戮とは違う。
 あれは…攻め手の怪物も、人間も、城の者をひとりたりとて生かしておく意志などなかった。
 ただ城を、すべてを消し去るために押し寄せる、破壊者たち。
 過去と現実、ふたつの光景が、エレオノーラの心を締めつける。

 目を塞ぎ、耳を閉じ、子供のように身を丸め、すべてから逃げ出してしまいたかった。
 けれども、これが現実。
 そして眼前では、大切な友たちが命を賭けて戦っている…


 やがて、戦争の決着がついた。
 防衛側の勝利。
 攻撃側は数こそ多かったものの、統制がとれていなかった。
 決して好きではなかったが、エレオノーラは城主のもとで、また象牙の塔の課程でも、軍事に関することはひととおり学んでいた。
 魔法使いのなかには軍師になる者も多いため、戦争の絶えない今のアデンでは、必須科目ともいえた。
 ファウラも予見の才を評価されてはいたものの、基本的には軍師として、また城主の政務を補佐する者として、魔術よりすぐれた頭脳を発揮することが多かった。

 ――ああ、弓隊が標的をひとつに絞っていれば。魔法使いも分断されては、補助魔法が届かない!

 不本意ながら、エレオノーラの知能はすばやく、攻守双方の戦い方を分析する。
「でも戦争の主力は、やはり騎士だ。打たれづよい彼らが突っ込めば、魔法使いの体力ではひとたまりもないよ」
 いつのまにか、エレオノーラは自分の思考を独り言として呟いていたらしい。
 応じるように、ワシズミが言った。
 そういえば彼も、武家の出身として、戦について学んでいたのだった。
「…あなただったら、どう戦うの?」
 ふと尋ねてみると、ワシズミはいつになく真剣な表情で、しばらく考えこんでから、答えた。
「奇襲だな。相手の君主さえ倒せば、あとは総崩れになるはずだ。卑怯かもしれないが、こうして戦争を見学している間に、城の…そうだな、防衛側の君主が立ちそうな場所へ瞬間移動できるよう、目印をつけておくのがいいだろう」
 スクネ血盟は魔法使いが多く、騎士が足りない。
 正面からぶつかれば…勝ち目はない。
 そこまで考えたワシズミの戦略に、エレオノーラは目を瞠る。
 ――でもそれだけでは、防衛側を崩すことはできても、城主の地位を手に入れることはできない。
 城攻めには奇妙なルールがある。
 防衛側の君主はあらかじめ、守護塔と呼ばれる建築物に自分の王冠を隠しておく。
 攻め手の君主はそれを崩し、王冠を手にしなければ勝利できないのだ。
 エレオノーラは、さらにワシズミの意見を展開させてみた。
「そうね。奇襲部隊と、守護塔の破壊部隊のふたつを用意しないと。あなたは守護塔に。そして相手の君主が倒れたら、すぐさま守護塔を壊せば…」
 そこでふたり、顔を見合わせる。
 戦争はしない。血盟会議で、そう決めたはずなのに、いつしか戦略を練っている互いの頭が、どうにも皮肉に感じられた。
「…戻ろう。戦争は終わった。エルサイズたちが心配だ」
 ワシズミの言葉にエレオノーラは頷き、瞬間移動の呪文を唱えた。

「いや、負けちゃったよ」
 ハイネの町でエルサイズたちと再会したエレオノーラは、その傷の深さに驚きながら、すぐさま治療の魔法を唱える。
 一度では足りず、何度も詠唱を続けるうちに、周りの人々も酷い怪我をしているのが気になった。
 そこまでして、城が欲しいのか。
 城主になるということは、反王の配下に加わるという意味ではないのか。
 目の前の、かつての仲間たちは、そこまで深くは考えていないようだけれど…むしろ戦争そのものを、楽しんでいるように見える。
 その疑問を、エルサイズとブングテンに投げつけてみると、ふたりとも笑い出した。
「そうだな、狩りも楽しいけど…こうして人と人の間で力試しをするのが、たまらないのかもしれない」
「それに戦争は大人数でやるやろ? 魔法の使いがいがあるねん」
 命を賭けた、究極の力試し。
 ふたりにとっては、戦争はそんなもののようだ。
 アインハザードの子供たちであるエルフでさえ、同じ考えとは…
 グランカインの血を受け継ぎながら、戦いを厭うエレオノーラとの、皮肉な対照。
 笑っていいのか、嘆いていいのかわからず、エレオノーラはただ黙々と、人々の治療を続けた。
 戦が終わった以上、敵も味方も関係ない。
 魔力が尽きるまで治癒魔法を使い続け、その後は血止めや化膿止めの薬草で手当てをする。
 見ず知らずの魔法使いにいきなり手当てされて驚く者もいたが、たいていは
「ありがとう」
 と、素直に感謝のことばを述べてくれた。

 それから、一週間ほどあとだったろうか。
「やっぱり アララも 戦争にいきたい!」
 半ば恐れ、半ば予測していたことばだった。
 ワシズミも覚悟はしていたらしく、黙ってうなずき、彼を見送る。
「あ でも 戻ってくるからね! ちゃんと血盟 守っててくれなきゃ やだよ!」
 彼は彼で、徐々に人の少なくなるスクネを心配しているのだろう。
 その思いやりが嬉しくて、エレオノーラはもちろんと頷き、アララを見送った。

 その後も、わりとまめなアララとエルサイズは、ことあるごとに連絡をよこしてくれた。
 たまたま狩場で遭遇し、再会を喜び合ったこともある。
 ブングテンは…もともと少々、不精な性質なので、便りのないのは元気な証拠、と考えることにしていた。
 イルレタは、まだ参戦するには未熟だといって、狩りに専念し、腕を磨いているようだ。
 いかにも堅実な彼らしい…エレオノーラは、全員の無事を知ると、そっと安堵の吐息をついた。

  ところが…


2.アデン

 王国の首都
 そこは最も富の溢れる場所
 そして最も悲しいところ…


 4つの城、2つの砦を巡る攻防が数回繰り返されたあと、突如、アデン城の反王ケンラウヘルが、配下の黒騎士隊に布令を出した。
「今までのやりかたでは、手ぬるい。すべての君主を抹殺せよ」と。

 また君主たちに対しては、
「アデンの城を貴様らのために開いてやろう。この私に打ち勝てる自信のある者は、宣戦布告してみるがいい」
 と、不適な挑戦を始めた。

 そして、今まで堅く閉ざされていた、アデンへの道が開かれた。
 とはいえ、象牙の塔へ与えられた命令により、テレポートによる移動は禁じられている。
 ハイネから、冒険者自身の姿を映して襲いかかってくる魔物ドッペルゲンガーが現れる、鏡の森を通過するか…あるいは、オーレンから遠路をたどるか。
 アデンへの道は、そのいずれかだった。
 どちらにせよ、魔物と戦い抜く実力のある冒険者でないかぎり、辿り着けない場所。
 それが、アデンだった。

 野心、あるいは好奇心で、アデンへと向かう者は後を絶たなかった。
 けれども危険な道中に倒れ、また断念して引き返す冒険者たちが多く、実際にアデンへと足を踏み入れることのできたものは…せいぜい、半数ほど。
 そしてその誰もが、アデンの広大さ、また美しさに、驚くことになった。
 ギランの町の規模。ハイネの風雅な光景。
 そのいずれにも勝る、王国の首都。
 エレオノーラも血盟の友たちと、難路を越えてアデンへ到着したとき、その広さに息を呑んだ。
 この都市を…そしてアデン王国全土を支配する。
 それは君主たちにとって、あまりにも魅力的な夢だろう。
 けれど…そのためには、玉座に在るケンラウヘルを倒さねばならない。


 その頃から、アデン近辺を始め、各地に黒騎士の精鋭部隊が出没し始め、君主たちにとって…またすべての冒険者たちにとって、苦しい戦いを強いられることになった。
 狩りの最中、突如現れる彼らは、それまで国内のごく一部を巡回していた騎士たちとは比較にならないほど精強で、またいくつもの部隊が隊列を組んでいる。
 それらを指揮する白い鎧の隊長は、さすがに精鋭部隊から選りすぐられただけあって、戦闘力だけではなく知能も優れていた。
 まず体力のない魔法使いや、冒険者の連れている猟犬・魔物を狙ってくる。

 しかもそれまでは、君主以外には攻撃をしてこなかったはずの黒騎士が、冒険者とみれば容赦なく襲い掛かってくるようになった。
 特に、もともと危険な鏡の森近辺では犠牲者があとを絶たず、その騎士たちを率いるケンラウヘルの自信のほどを、思い知らされる。

 それでも…
 アデン城主の座は、妖しいほどの引力で、君主たちを惹きつけ、捕らえ、離さなかった。

 いくつもの血盟が連合を組み、ケンラウヘルに対し、宣戦を布告する。

 でも…どうしていま、このときに?
 エレオノーラの胸には、不安と疑問が渦巻いていた。
 ケンラウヘルが何を狙っているのか…わかるような、わからないような、そんな不安が。
 彼は何かを待っている。
 その正体を…彼女は、知っているような気がするから。

 スクネは戦争には参加しなかった。
 それでもやはり、友たちが心配で、ワシズミに頼み込み、エレオノーラは再び見学者としてアデンへ向かう。
「今回は…いつもの戦いじゃない。非武装だろうがなんだろうが、敵は襲ってくるだろう。彼らの目的は、君主を名乗るもの全てを殲滅し、反逆の芽を摘み取ることなのだから」
「そうね…」
 頷き、エレオノーラは単身、アデン城へ足を踏み入れた。

 数千人の人々が、城を取り囲んでいた。
 緊張に満ちた雰囲気。
 ここにいたって、作戦を確認する人々の声。
 無言で武器の手入れをする騎士たち。
 魔女ケレニスの噂に備え、対魔法の準備をする魔法使い。
 だれもが恐怖と、その先の栄光とを感じていた。
 これだけの人数がいるのだから、城は間違いなく落ちる、と。

 途中、知った顔をいくつも見かけ、せめてもの祈りをこめて、彼らの武器に祝福を与え、加速の呪文を放つ。
 
 残念ながら、彼らに勝機はあるまい…
 たとえ実力がどれだけあろうとも、烏合の衆ではならないのだ。
 これだけの人々を、誰かひとり、統率する絶対者がいなければ…
 戦場を徘徊する限り、それにふさわしい君主の姿は、なかった。

 それでも、ひとりでも多くの知己に、生きて帰ってきて欲しかった。
 だからこそ、目を離せないまま、いよいよ開かれた城門のなかへ、エレオノーラもまた、足を踏み入れていった…

 鬨の声をあげながら、城へと駆け込んでいく人々。
「陛下に栄光あれ!」
 叫びながら、彼らを迎え撃つ城の精鋭部隊。

 無数の武器がぶつかる金属音、魔法の詠唱、ヒュンヒュンと唸りをあげる弓の音。

 そのすべてを圧する声が、城のどこかから聞こえてきた。

「ケンラウヘルこれに在り! さあこの首、見事討ち取って見よ!」
 嘲笑に満ちた怒号は、戦いの興奮をさらに増し、攻め手の人々は予め立てていた作戦も忘れ、声のほうへ押し寄せていく。

 戦いはしない。
 けれども反王の姿…そしてその傍らにあるはずの魔女ケレニスの姿を、ひとめ見てみたかったのは、エレオノーラも同じ。
 わずか一声で、数千の人々を狂わせた反王の声の見事さに感心と絶望をおぼえながら、エレオノーラもまた、人の流れに押されていった。

 ところが…

 王宮間近の広場。
 そこにケンラウヘルその人の姿は、在るはずだった。
 けれどもエレオノーラは、それを見ることができない。
 なぜなら…
 広場に足を進めた途端、ばたばたと倒れていくひとびと。
 それを踏み分け、さらに歩を詰めた誰もが、同じ運命をたどる。
 罠だった。
 魔女ケレニスの強大な呪文が、人々を刈り取られる稲穂のほうに、易々と薙ぎ倒していく。
 恐ろしい速度で放たれる攻撃魔法に、魔法使いたちの対魔の呪文など、とうてい追いつかない。

 屍山血河を超えて、なんとかケンラウヘルに対峙した者もいたようだが、ケレニスの魔法で弱りきった身体を、ケンラウヘルの斬撃が容易に滅ぼしていく。

 戦とさえ呼べない、ただの殺戮だった。

 たまらずエレオノーラは杖を手に取り、まだ息のある人々を癒していく。
「さがって! 魔法を浴びたらひとたまりもないわ!」
 思わず、叫んでいた。

 それでも、ふらつきながら立ち上がった人々は、火に寄っていく羽虫のように、ふたたび戦場へ向かい、また倒れていった。
 あまりの有様に見兼ねて、どうしようかと躊躇しているうちに、ある姫君の姿が屍の山のなかに倒れているのが見えた。
 友人たちの属している血盟の、大事な姫。
 その人だけでも戦場から隔離しようと、エレオノーラは広場へ足を踏み入れる。
 
 それは一瞬のことだった。
 凍てつく冷気に全身を砕かれ、エレオノーラの意識が薄れていく…

 声がした。
『おらぬか…これだけ待てば、ひとりふたりは現れるかと思うたものを』
『ほほ。妾が陛下にまみえるまで、どれほどの時間を要しましたことか。それを思いますれば、まだまだ』


 気がつくと、町のなか。
 誰かが、呼んでいた。
「エレ…エレオノーラ!」
 まって…まだ、眠いの…
 なぜか幼い頃に戻ったような、奇妙な気分で、うぅん、と抗議の声をあげる。
「よかった まだ 息がある!」
 独特の喋り方で、その人物はすぐ、誰だかわかった。
「エレ、聞こえるか? アララが、倒れてるエレをここまで運んでくれたんだ」
 なつかしい、なつかしすぎて、胸が痛くなる声。
 毎日当たり前のように聞いているのに…なぜだろう。
 ワシズミは私を抱き起こすと、全身の怪我の状態を確かめる。
「倒れてたとき びっくりしたけど 傷が浅くて よかったよ!」
 アララが笑顔で言うと、ワシズミもうんうん、と何度も頷いた。
「それにしても、なんて無茶をするんだ! 戦闘中は、非武装だろうとなんだろうと無関係だと…」
 わかっていた。
 でも、どうしても放ってはおけなかった。
 姫だけではない。
 ひとりでも救える命があるならば。
 そう願っているうち、いつしか足が、戦場へと向いていた…

「…ワシズミ」
 エレオノーラは、全身の痛みをこらえながら、口火を切った。
「なんだい?」
 優しい目をした彼に、エレオノーラは躊躇する。
 巻き込んではいけないけれど…彼しかいない。
「…次の攻城戦、布告しましょう」
「!!」
 ほかならぬ、誰よりも戦いを嫌っているはずのエレオノーラの口からでたことばに、二人が息を呑む。
「いまのやりかたでは、誰も勝てはしない。死人がいたずらに増えるだけ…ずっと一緒にいて気づいたけれど、あなたは戦争の指揮に向いているわ。それに…魔女ケレニスの強大な魔力は、確かにタラス老に匹敵する。止められるのは…たぶんタラス老か…私だけ」
 これまでの年月、反王に逆らうことなく、ひたすら塔を守り続けてきたタラス老が、いまさら参戦するはずもない。
 だとしたら。
 しばしの沈黙のあと、ワシズミは言った。
「なあ、エレオノーラ。戦となれば、人は死ぬ。相手の黒騎士だって、人間だ。彼らを失って泣く家族もいるだろう…それでも、というのか?」
 きゅっと唇を噛み締め、エレオノーラは頷いた。涙を堪え、震える声で、ワシズミに哀訴する。
「だからこそ。早く戦いを終わらせなければ、死人の数が増えるだけだもの。この悲しい争いを、もう終わらせたいの! ワシズミ、助けて!」
 ことばもなく二人を見守るアララの前で、ワシズミとエレオノーラは長い間、見つめあっていた。
 そして、ワシズミが言った。
「わかった。やってみよう…オレの力がどこまで及ぶか、わからないけれども」

 まずは血盟会議を開いた。
 ふたりがアデンでのやり取りを繰り返し、全員に訴えると、誰も拒む者はいなかった。
 それどころか、アララが話を流したのか、血盟から離れていたはずのエルサイズやブングテン、イルレタが、彼らの君主と共に、血盟へ戻ってきた。
 ワシズミは苦難のすえ、連合君主…君主をも自分の血盟に参入させる資格を得ていたから、彼らの参入を快諾し、軍議にとりかかる。
 すべてを聞いたエルサイズが、慎重に問いかけてきた。
「…普段は攻撃魔法なんて苦手なくせに、エレが時々、すごい魔法を使ったりするのは、見てきた。でもケレニスに勝てるなんて…人間じゃ、無理じゃないのか?」
 ここまできて、エレオノーラは、未だに自分の真実を、血盟員たちにすら、明かしていないことを思い出した。
(もう、いいわよね)
 ワシズミに目で訴えたあと、彼女は出生の秘密を、みなに語って聞かせた。

 水をうったような沈黙。
 誰も口をきかなかった。
「エレが…グランカインの、娘…」
 合点がいったように、政王が静かにつぶやく。
「たまに様子がおかしかったのは…そのせい、か?」
 エレオノーラは、静かに頷いた。
 自分自身は、命に執着などなくても、彼女のなかの闇の鬼神はそうではない。
 むしろ父神に従うため、嬉々として殺戮を愉しむことすらあった。
 その矛盾するふたつの心が、彼女という存在そのものを締め付け、身も心も弱らせていた…
 初めて明かされたその事実。
 誰も信じないかもしれない、と思った。
 あるいはエレオノーラに不信を抱き、去っていくかもしれない。
 それでも長く共に戦い、信頼を築いてきたはずの彼らを説得できなければ、その先はない。
 覚悟のうえで、エレオノーラはすべてを明かしたのだった。
「…おかんがグランカインの娘なら、俺は孫ってことカヨ。じゃーこー、ズドンと超強力な魔法とか使えてもいいはずなんだけどなー」
 ふいに、ガントレットが素っ頓狂な声をあげる。
「あほ! お前エルフやんか! アインハザードの葉っぱがなにゆーとんねん」
 ブングテンが、ガントレットの頭を容赦なく叩く。
「いてて!」
 弾けるように、みんなが笑い出す。
 硬直していた空気が、いっきに緩んだ。

「…グランカインはその身を千々に砕かれて、その破片があちこちに埋め込まれているというわ。たぶん、私もそのひとつ。そして反王ケンラウヘルも…もしかしたら、ケレニスも。だから、彼らは私を無視することは、できないと思うの」
 自分がケレニスの注意を引き付けている間に、ケンラウヘルを倒す。
 その戦法を打ち明けたとき、誰もがしばらく、考え込んだ。
「オレも参戦してたから、わかる。ケレニスがいる限り、ケンラウヘルは倒せない」
 エルサイズの言葉に、アララも頷いた。
「逆にいえば…ケレニスの援護がなければ、やれるかもしれない、つうことか」
 いままで、血盟の主義に基づき、戦争にはまったく関心のなかった政王が、腕を組み、熟考に耽る。
「これでも噂は色々、集めといたんや…確かに黒騎士どもは、叩けば倒せる。問題は…ケンラウヘル自身も魔物を呼び出してくるらしい。それをなんとかせな、ケンラウヘルに手が届かんで」
 他の血盟をも説得しなければならないとなると、確実に勝てる策を練らねばならない。
 魔女ケレニスは抑えるという前提のもと、あれこれとみなが意見をぶつけ合う。
「…今日は徹夜だな」
 だれかが、つぶやいた。



3.連合血盟会議

 ゆめはゆめ
 けれどもそれなくして
 ひとはどうしていきていくのだろう?


 エレオノーラは、悪夢で目が覚めた。
 よくあること。
 けれど今日のそれは、あまりにも鮮明で、エレオノーラの繊細な神経を苛立たせた。
 純白の布が真紅に染まる。
 聖なる場所が、血に穢れていく。

 ――また、繰り返されるの?
 故郷での恐るべき光景が、脳裏によみがえる。
 それでいて、なにか複雑な想いが交錯した。
 必要な犠牲。
 解放感。
 大きな悲しみ。

 ――きりがない。
 混乱した頭をすっきりさせるため、まだ暁闇のうちに起き上がり、エレオノーラは洗面所に向かった。
 するとそこに、既に人影がひとつ。
(ブンちゃん?)
 黎明の思い出が、蘇る。
 あのときも悪夢に苛まれ、ふたたび眠りに落ちるのが怖くて、むりやり起き上がったものだった。
 声をかけようとして、エレオノーラは頭を振った。
 その華奢なシルエットは、明らかに女性のもの。
「あら、エレさん」
 代わりに微笑んだのは、ペトルーシだった。
 彼女も少々伸び悩み、最近ワシズミから「暁闇の宝玉」なる称号を贈られている。
 いまは、まさしくそのとき。
 彼女も意識して、早朝の狩りに乗り出そうとしているのかもしれない。
 でも…今朝は…

 結局、会議はほんとうに徹夜となった。
 戦争経験者の生々しい報告を基に、作戦を練り上げ、またどの血盟君主が力を貸してくれるか、リストアップする。
 信じられないことだが、なかには反王からの褒賞目当てに、反王やケレニスに支援する血盟もあったようだ。
 さらにどの戦争でもありがちな私闘などされては、せっかくの作戦も台無しになる。
 それらをどう防ぎ、どう戦うか。
 かつてワシズミがハイネ戦で言っていた手段は、アデンでは使えない。
 アデンの城全域は、ケレニスの強大な結界に守られ、瞬間移動が使えなくなっているからだ。
 結局は、ケンラウヘルに直接対峙する騎士隊と、反王についた血盟の討伐隊、そして召喚された魔物に立ち向かう弓兵・魔術師隊を編成し、魔法使いはその補佐にあたるというほぼ正攻法しかないだろうと、話は落ち着いた。
 ケレニスと彼女を支援する血盟は、エレオノーラがなんとか防ぐ。
 …問題はそこだった。
 エレオノーラ。
 彼女は癒し手として、またスクネの重要な血盟員として、ある程度の知名度を得ている。
 けれども…彼女ひとりで、ケレニスと相対できると断言できる根拠を、どのように示せばよいのだろう?
 そこだけがまとまらず、結局夜は更け…

 ほんの少し前、みなが疲れきり、それぞれの部屋に戻ったばかりだった。

 なのに…

「ペトさん、寝てないでしょ? 無茶な狩りは危ないわ」
 止めるエレオノーラに、ペトルーシはきっぱりと、答えた。
「わかっています、危なくなる前に、ちゃんと帰ってきますよ。それに…今日はなんだか、気分が高揚しているんです」
 眠ってなどいられない。
 なにかをしたくてたまらない。
 そんな強い輝きを、彼女の全身から感じ取ったエレオノーラは、彼女の身を案じながらも、ただ
「うん…気をつけてね」
 とだけ言って、送り出した。

 あらゆる情報の嵐を整理しかね、エレオノーラは顔を洗ってから、無人のホールにひっそりと座り込み、考えた。
 自分の役割はあまりにも重要で、かつ危険なもの。
 他の誰でもない、エレオノーラの失敗こそが、全滅に繋がりかねないのだ。
 そのプレッシャーが、悪夢を呼び寄せたのかもしれなかった。

 ――でも…私、独りじゃない。

 ペトルーシとの短いやりとり。
 そして彼女の芯の強さが、エレオノーラの心まで吹き込まれるようだった。

 翌朝…というより昼から、皆は慌しく活動を始めた。
 ワシズミは知己である君主たちに次々と、書簡をしたためる。
 他の血盟員たちも、かつて所属していた血盟の君主や知人たちに連絡を送っている。
 ただひとり…歌う島からずっと、ワシズミと共に在り続け、スクネ以外の血盟を知らないエレオノーラだけが、なすべきこともなく、緊張と不安に苛まれていた。

 意識を失っていた間に聞こえた、あの短いやりとり。
 それが何を意味するのか、今のエレオノーラには、はっきりと理解できた。
 彼らは…グランカインの欠片を捜し求めているのだ。
 おそらくはそれを集め、ケンラウヘルの力をもっともっと、強くするために。
 いままで君主たちを、冒険者たちを、泳がせていたのは、欠片を持つ者が現れるのを、待っていたのだろう。
 そして…なんらかの予兆があったのだろうか、今こそと言わんばかりに、彼らは動き出した。

 いまや知覚と記憶とを共有しているふたりのエレオノーラは、ごく稀に、ひそかな心話を送ってくれる兄アウラキリアから、いくらかの情報を得ていた。
 父神が地上へ、風竜リンドビオルを送り込もうとしていること。
 アデンだけでなく、エルモアの地にもなんらかの干渉を行う意志があるらしいということ。
 それが成功すれば…いよいよ聖地エルフの森へ、大軍勢を派遣するであろうという、本来の目的を決行する日も遠くないこと。

 それは近頃、頻繁に使者を地上へ遣わし、冒険者たちへの加護を行っているアインハザードの行動と呼応しているように感じられる。
 いよいよ、世界の興亡のときは近いのだろうか…


 皮肉なことに、遠いアインハザードの神殿で、神官もまた、瞑想のなか、同じ結論に至っていた。
(グランカインの夢…その内容は窺い知れない。けれどもそれが、世界を救う可能性…一瞬のとき、一挙手一投足…可能性はあまりにも低い。けれども有を捨てて虚無に走るにはまだ早い。神よ、この世界は、あらゆるいのちは、まだ存続を望んでおります。どうかまだお見捨てあられぬよう…)
 老齢の身を床に休めることすら忘れ、彼はひたすらに祈る。
 そのためにこそ、人生のすべてを捧げてきたのだから。

 神官は水晶球に向かって語りかける。
「どうです、タラス殿。星の動きに変化は?」
 穏やかな老人の声が、それに応じた。

『アインハザードの輝きのもとに、流星がやってきました。またグランカインを示す星の座相はいま、激しく明滅しております。いずれも解釈が難しく、まだその意味の為すところは…測りかねておりまする』

 アインハザードの星と、グランカインの夢。
 双方に何らかの、著しい変化があった、あるいは起こるということだろうか?
 反王の動きといい、時代はいよいよ動き出すようだ。

 もしかしたら…自分やタラスも、なんらかの行動を起こさねばならないかもしれない。
 沈黙と忍耐の日々の終りを予感し、神官は短い遠話を終えた。


 数日後。
 スクネ血盟の盟主ワシズミの主催で、君主会議がおこなわれた。
 集まった君主は20名ほど。
 単独で出席する者もいれば、腹心を連れている者もいる。
 ワシズミもエレオノーラを同席させていた。
 戦場で倒れていた、かの血盟の姫君も参加しており、存命であったことにエレオノーラは心から安堵した。

 広いはずのホールが、多人数の緊張した囁きに満たされる。

「本日はご多忙な中、お集まりいただき、恐縮であります」
 ワシズミが口火を切ると、早速、戦争を主に活動している姫君が、質問を始めた。
「わたくし、前回のアデン戦に参加しておりました。けれど…反王と魔女ケレニスはあまりにも強大で、とても勝ち目があるとは、思えませんでしたわ。ワシズミ殿、あなたの仰る必勝の策というものを、是非聞かせてくださいな」
 結論を焦る姫君を、他の君主が諌める。
「まあそう、逸りなさるな。この面々がすべて顔見知りというわけでもない。まずは名乗りをあげようではありませんか」
 同じ君主とはいっても、年齢も活動内容も、まるで異なる。
 そんな彼らが一同に会し、語り合う機会そのものが稀なのだ。
 まずは、それぞれの紹介から始めなければなるまい。
 大先輩とも言える勘吉の言葉に感謝しながら、ワシズミは自らスクネ血盟の紹介を始め、円卓に座している人々がそれぞれ、自己紹介をしていくのを慎重に聞き止めた。
 特に連合君主の資格を得ている者は、それだけの試練を潜り抜けているわけだから、自信もあれば、プライドも高い。
 ワシズミ自身、その困難さを知っているから、彼らの意見は特に尊重しなければ…と、注意を払うようにした。

「奇妙な縁ですな。ふだん、君主どうしで会合を開くなど、そうそうあることではない」
 誰かがゆったりと笑みを浮かべ、言った。
 君主は血盟の主という立場上、どうしても縦の連携が多くなる。
 いわば弱肉強食だ。
 しかしいまは、そんなことを言っていられる場合ではない。
 目指すは打倒ケンラウヘル、そしてケレニス。
 だが…その後、誰がいったい玉座に就くのか?
 表面上は友好的でありながら、誰もがそれぞれの様子を窺っていた。
 このワシズミという若者は、王となる野望を秘めているのか、それともただの無謀な若者か?
 もしアデン戦に勝利を収めたとしても、誰かが抜け駆けし、王座を手にするかもしれない。
 王の位に興味のない者は、それほど緊張した様子もなく、この大規模な会合をただ、楽しんでいた。
 しかし…野心ある君主は、他の君主たち、そして腹心たちの実力を探ろうと、互いの行動の観察に余念がなかった。
 特に会議を招集したワシズミと、その傍らのエレオノーラに向けられる視線は厳しい。

「そうですね…ただ、志はひとつ。打倒反王!」
 ワシズミが短く言うと、誰もが頷いた。
 しかしすぐ、みな不安げに表情を曇らせる。
 どうやって?
 ケンラウヘルに近づくことすら許さない、ケレニスの強大無比な魔力。
 そしてケンラウヘル自身の人間離れした剣技。
 命がけで反王に突撃した騎士たちが、いくら傷を負わせても、ケレニスの治癒魔法でたちどころに回復されてしまう。
「…策は、あるのですか」
 更紗姫が静かに問いかける。
 彼女こそが、ソムヌスたちが所属している血盟の姫であり、エレオノーラが戦場に飛び込んで、守ろうとした女性であった。
「…」
 ワシズミが答えあぐねていると、エレオノーラが無礼を覚悟のうえで、敢えて答えた。
「あります」
「よせ! 言うな!」
 がたりと椅子が倒れる音。
「…倒せるかどうかはわかりませんが、少なくともケレニスを戦線から離脱させる方法は…あります」
 ワシズミの制止をあえて無視して、エレオノーラは言った。
「反王の身体には、グランカインの欠片が宿っていると聞きます。そして私はグランカインの娘…彼らは私を無視できないはずです」
 反応は、さまざまだった。
「グランカインの…娘、だって!?」
「ばかな…」
「でもそれが本当なら…」
 それぞれが口々に、自分の本音を吐き出し始める。
 君主たちのなかには、そのまま席を立つ者もあった。

「破壊神の子を抱えた君主の言葉など、信じられない」
 それが、彼らの主張だった。

『お待ちなさい』

 敢えて力あることばを放ち、エレオノーラは彼らの足をとどめる。
 自分の意志に逆らい、再び着席した君主たちは、怯えた目でエレオノーラを見た。

「申し訳ありません、みなさまを力ずくで操りたいわけではないのです。むしろ心をひとつにしなければ、この戦、勝てません…ただ」
 あえてゆっくりと、エレオノーラは全員を見つめていく。
 その瞳には、魔性の力はかけらもない。
 彼女自身の率直な想い…戦で家族を喪った者の悲しみと、民をも巻き込む悲惨な戦争を終結させたいという真摯な願いが込められていた。
「この場を立ち去られる前に、どうか話だけでもさせてくださいませ。心よりのお願いでございます」
 ある者はエレオノーラの瞳に打たれ、またある者は反王打倒のチャンスを利用しようと、ふたたび席に着いた。

「魔法使いの皆様はご存知かと思いますが…この世界は善神アインハザードと悪神グランカインのあくなき闘争によって成り立っています。しかし」
 そこでエレオノーラは、語気を強めた。
「畏れ多いことながら、神々にもそれぞれのつとめがございます…だからといって、その義務と逆の想いをお持ちでないかといえば」
 更紗姫づきの参謀が頷いた。
「…その昔、アインハザード神は巨人族の傲慢に怒りを覚え、御自ら、かの種族を滅ぼされようとされた、とか」
 エレオノーラは微かに笑みを浮かべ、あとを続ける。
「その通りです。そしてグランカインに慈愛がないかといえば…」
「エレオノーラ」
 そのとき、ワシズミが口を挟んだ。
「まわりくどい」
「…はい」
 確かに彼らも、多忙な時間を割いてここまで来ているのだ。
 急がねばなるまい。
「では結論から申し上げましょう。双神のいずれが滅びても、この世界は消失します。闘争ではなく…神々が共存と維持というみちをお選びになれば、アデンに平和がもたらされる」

 誰もが動揺した。
 神の意志を動かすことなど、できるはずがない。
 所詮人間は、神々の操り人形なのだから。

 その思考を読んだかのように…実際のところ、表情と微光から読み取って、エレオノーラは告げた。
「可能です。個々の人間は、たしかに弱い。けれども願いをひとつに合わせた人間の想いは、他のどの種族をも凌駕します…それがグランカインの被造物たる人間に、偶然与えられた、最大の賜物」
「!!!」
 人間が…グランカインの?
「馬鹿な! 人間はアインハザードの似姿ではないか」
 ある魔道師が、怒気に震える声でエレオノーラを糾弾する。
 しかし彼女は、悲しげに首を振った。
「それは…古代の人々が遺した、いつわりの伝承にすぎません。真実は…アインハザードとその子らが創造した生物たちを羨んだグランカイン神が、そのどれよりも優れた種族を生み出そうと、火地風水の4神からそれぞれの被造物に与えた残滓を集め、つくりあげた存在。それが人間なのです」
 居合わせたエルフたちのなかでも、特に歳を経た数名は、静かに頷いた。
 けれども…大半の参列者は激しい衝撃を受ける。
「ならば人間は破壊のために生まれた…魔物どもと変わりないことになる!」
 悲鳴のような、誰かの嘆息。
「…いいえ。慈愛と試練の女神アインハザードは、夫神が創造した人間をも、お見捨てにはなりませんでした。ゆえにこそ、いまわたくしたちはここにこうして在るわけです。世界の崩壊を止めるための想いを抱いて」

 数人の君主たちは、無言のまま席を立ち、去っていった。
 彼女の話は彼らにとって、あまりにも衝撃が強すぎたのかもしれない。

 それでも大半の参列者は、なにかを待つように着席したまま、誰かがことばを発するのを待ち続けている。
「つまり…」
 待ちかねて、ワシズミの傘下にある君主ディスクが口を開いた。
「絶対の善も悪も存在しない、ということですか…まるで世界そのものが、巨大な天秤のようですね」
「まさしく、然りです」
 エレオノーラが頷く。
「けれど反王ケンラウヘル…そして魔女ケレニスは、グランカインの力をより強めようと圧政をおこない、また砕け散ったグランカインの魂を集めようとしています。これでは均衡が崩れ、アデンが、世界そのものが滅びてしまうというのに」
 水を打ったような沈黙。
 反王とケレニスの思惑まで、考えていた者が、果たしてどれだけいただろう?
 アデンの支配だけでは、足りなかったというのか。
「…で、あなたは我々に何を期待している?」
 歌うように優しく、それでいてどこか厳しさを帯びた声が、沈黙を破った。
 その姫君、タイトネイブは周囲の視線を一身に浴びながら、軽く目を閉じ、微笑する。
 戦場にあっては勇ましく、会議の場では冷静沈着という、まさしく王者の相を持つ女性だった。
 エレオノーラはワシズミに視線で訴えかけ、ふたり唱和して答えた。
「反王を打倒し、世界の均衡を保つことを。平和な世界を…アインハザードの御力のみでも、グランカインの魔力のみでも、世界は維持できないのですから」
「だが」
 タイトネイブが再び、些かの躊躇と共に問いかける。
「あなたはグランカインの娘だと言った。しかしその願いは、グランカインの思惑に反するものだろう…それで、本当によいのか?」
 きっぱりと、エレオノーラは頷いた。
「私は…本来ならこの世に誕生することもなく、アインハザード神に滅ぼされても仕方のない身でありました。けれど母の祈りと献身を受け、寛大なる女神は母の願いどおり、人間として育つことをお許しになったのです。この身は…そして人間という存在は、双神の許しと慈愛によって成り立っているもの。それに応えたいと、みなさま、お思いになりませんか?」
 くくっと、勘吉がほくそ笑みながら、言った。
「つまりは壮絶な夫婦喧嘩を子供が仲裁しようというわけだな。面白いじゃないか」
 みなが目を丸くし…
 会議場に初めて、笑いが起こった。

「やってみようじゃないか」
「あの反王に一矢報いるチャンスってだけでも、興味はあるな」
「俺は腹心をあの魔女に殺られた。仇討ちができるってんなら、血盟の総力を挙げてやるまでだ!」
「さっそく血盟会議だ! みんなを召集しろ!」
「…閣下、それは無茶です…」
 彼らが口々に吐き出す本音は、どれも戦闘への意欲に燃えていた。
 ワシズミがほぅっと、ひそかに安堵の息を漏らし、そして声を張り上げる。

「みなさん、ありがとう…本当にありがとう。無謀とは思いながら、この会議を招集した甲斐がありました。このワシズミ、心から感謝いたします」
 立ち上がり、平伏さんばかりに頭を下げるワシズミに、みなが笑いかけた。
「あなたは確かに、空を翔る鷲の名に相応しい。諦めに沈みかけていた我々を、希望の大空へと導いてくれた!」

 ホールいっぱいに響き渡る歓声に、ワシズミは感涙し…そして厳かに、閉会を告げた。


4.訣別

 恋の罠は甘く切なく
 皮肉な運命をもたらすもの
 時に赤い糸を結ぶかと思えば
 断ち切ることも…


 エレオノーラは一人寂しく、長い夜を過ごしていた。
 今日もワシズミはいない。
 軍議は夜におこなわれるので、昼間、ワシズミは休息をとっている。
 その邪魔をするわけにもいかず、近頃、エレオノーラはひとりで狩りに出かけては、酷い傷を負って帰還していた。
 疲れきっていた。からだも、こころも。
 血盟員たちが心配し、同行を申し出てくれたが、どうしても誰かと一緒に行く気にはなれない。他人に気を遣う余裕がないのを、自覚していたから。
 自分が言い出したこととはいえ…つらかった。
 たった一日でいい、ワシズミと共に過ごしたかった。

 無聊に堪えかね、エレオノーラはひとり、窓を開け放ち、静かに歌い始めた。
 しとしとと、霧雨の降る夜更け。人の気配はない。
 水の都と呼ばれるだけあって、けぶるハイネの夜景は、美しかった。

 最初は旧い記憶のなかから、やさしい子守唄をうたいだす。
 けれどもそれは、喪われたいとこたちの思い出を鮮明に蘇らせてしまった。
 ますます寂しくなって、段々と甘く切ない、恋の歌を口ずさんでいく。

 あのひとだけが必要なのに。
 かのひとはいない。
 このせつなさを、どこにやればよいのだろう…?

 いつのまにか、その歌は二重奏になっていた。
 エレオノーラの高い声と調和した、ほそい男性の歌声。
 驚いて窓の外を見ると、エルフの男性が微笑んだ。

「ああ、邪魔をしてしまいましたか。あまりにも美しい声につい」
 どこかソムヌスに似ている、やさしげな面立ち。
「いえ…」
 答えながら、エレオノーラは困惑する。
 雨のなか、外を歩いている人がいるとは思わなかった。
 まして、自分の歌声を聴いていたなんて。
「よかったら続けてください。あなたの声は、私の心を震わせる」
「でも…」
 エレオノーラは、人前で歌ったことなどなかった。
 いとこたちを寝かしつけるため、ねだられて子守唄を聴かせてやった程度で…自分の歌に自信などない。
「おいやなら、私は退散しますよ。だが惜しいですね。その麗しい歌をただひとり、耳にできる光栄に浴する機会を失うのは」
 どんな女性の心も蕩かすほどに甘い声。拒否などできなかった。
 請願につられ、エレオノーラはふたたび歌いだす。

 いとしいあなたと、どこまでも。
 ねむるときには、かたわらに。
 めざめたときは、ほほえんで。

 城に訪れた詩人から、たった一度聴いただけの歌だから、歌詞はうろ覚えだった。
 けれども男性は、ただ静かに、耳を傾けている。
 ワシズミのいないせつなさに、エレオノーラの心は悲鳴をあげていた。
 それを感じ取ったのか…
 歌い終わると、男性はそっと、エレオノーラに語りかける。
「素晴らしい声をありがとう。礼というのもおかしなものですが…あなたの心、私の身体、いずれも冷え切っています。温めあうため、どうか招き入れてくださいますか、あなたのもとへ?」
 エレオノーラの歌を聴いている間に、青年はすっかり濡れてしまっていた。
 せめてタオルくらい貸すのは礼儀…でも彼は、それ以上のなにかを求めていた。
 恋の誘惑。
 エレオノーラがまともな状態であれば、自分が廊下に出て、彼にタオルでも渡しただろう。
 ワシズミ以外の誰にも、寝室の扉を開くはずなどなかった。
 なのに…
 気がつくとエレオノーラは、無言のまま、彼を部屋へ通してしまった…

 それは一夜の夢。
 あってはならない甘く危険なとき。
 青年はエレオノーラの身体を知り尽くしているように、時に優しく、時に激しく、彼女を翻弄した。
 いけないと拒否しようとする心とは裏腹に、身体はあくまで従順に、青年に応えていく…

 小夜啼鳥の声が絶えぬうちに、彼は静かに去っていった。

 ――なんということを。
 激しく後悔するエレオノーラに、もうひとりのエレオノーラが笑いかける。

『しかたないじゃない。寂しかったのでしょう? 鈍い誰かさんが気づきもしないうちに、冷え切った肌と心を、誰かに温めてもらいたかった…グランカインは欲望の神。これでよかったのよ』

 ちがう!
 エレオノーラは激しく首を振った。
 誰のために、彼が必死で動いているのか。
 私があんなことを願わなければ、彼はいまも、平和に狩りを続けていたはずだ。
 連日連夜、心身共に疲労をともなう軍議を続けているのは…エレオノーラが、彼に願ったから。戦乱の世を終わらせて欲しいと。

 なのに…なのに。

 青年の訪れは、それから数晩続いた。
 扉に堅く鍵を掛けて、眠ってしまえば、それでおしまい。
 なのに…できなかった。
 互いの名も知らないまま、ただ抱き合って、次の約束もないまま、離れていく。
 その繰り返し。

 重なる罪。
 ああ、みんな私を見ないで。
 夢魔に捉われた私に気づかないで。
 自責の念に苛まれ、ますますエレオノーラは他人との接触を避けるようになっていった…

 そんな彼女を、誰かが見ていた。
 華奢な妖精の少女…姉のように慕っていた彼女が、心塞いでいるのを心配し、わざわざやってきたのだが、彼女の訪れさえも、エレオノーラは「ごめんね、ひとりにして…」と、拒絶した。
 だから毎晩、夜中に起きだし、彼女の寝室ちかくを見回っていた。
 夢遊病かなにかだったら…ワシズミに教えてあげないといけない。
 いま、ふたりは一緒にすごす時間がほとんどないのだから。
 彼の代わりに、様子を見ていてあげないと。
 最初は心配しながら。
 そして徐々に…そこで何が起こっているかを悟り、胸中に怒りを秘めて。

 その夜も、青年は音もなくやってきて、そして去っていった。

 聞きなれた足音が近づいてくる。
 いつもより、早かった。
 慌てて身づくろいをして、出迎える。
「…今晩は、早かったのね?」
 どさりと寝台に身を投げ出し、ワシズミは言った。
「ああ。話がぜんぜん進まないから、打ち切った。みんな不利な立場の押し付け合いで、どうにもならない…」
 エレオノーラがそっと彼に触れようとすると、不意にワシズミは身を起こした。
「…最近、寝不足のようだな?」
 ぎくりと、エレオノーラの動きが止まる。
 伸ばした手は、虚空を握りしめたまま。
「オレが気づかないと、思っていたのか?」
 静かな…すべての感情を捨てきった、冷淡な声。
「一晩くらいなら、我慢しようと思っていたさ。だが…」
 答えられるはずがない。
「こっちを見るんだ」
 ワシズミの澄みきったつめたい、猛禽のような瞳と、エレオノーラの青というには柔らかすぎ、菫というには深すぎる、不思議な色の瞳が、刹那、重なる。
 エレオノーラの目は、ことばにならない悲しみを湛えていた。
「ごめん、なさい…」
 そこからひとつぶ、涙がこぼれると、彼女は固く目を閉じる。
「…」
 再び開かれた瞳は、深淵の黒。

『そうね。あなたにとって、それは裏切り行為かもしれない。でも…お忘れかしら、わたくしがどれほど、男の肌に馴らされてしまっているか。所詮わたくしは、毎夜ひとり寝などできない女だと』
 頬を伝う涙を拭いもせず、彼女は歪んだ笑みを浮かべる。
 
「…それが、答えか」

 強張りきった、ワシズミの顔。
 そんな冷たい表情を、エレオノーラは見たことがなかった。
 黒い瞳の彼女は、まだ飽き足りぬというようにワシズミを詰る。
 彼女のなかで、エレオノーラは胎児のように身を丸め、すべてを任せきりにしていた。
 投げやりになっていたのか、それとも彼女自身の胸にも鬱屈したものが溜まっていたのか。

『やはり狭量なアインハザードの使徒と、グランカインの娘である私の道は、交わることなどないのね…私は己の欲求にしたがっただけ。あなたはいまも、恨んでいるのでしょう。私があなたから、家族を、故郷を、すべてを奪ったことを』

「…もう言うな。いますぐここから去れ。おまえをスクネ血盟から除盟する」

 くすりと笑って、エレオノーラは言った。
『耳に痛い言葉だったかしら? ほほほ…あなた以外にも、わたくしを欲する者などいくらでもいる…では、お望みどおり去りましょう』

 右の背から血を吹きながら、彼女はあくまで優雅に黒い翼をはためかせると、黎明の空に舞い上がり、いずこへともなく去っていった…
 その瞳から溢れ、風に舞い、地へ、河へ、そして燃え盛る炎へと落ちていく無数の雫に気づく者は、誰一人いないままに。


5.孤独という名の自由

 夜空の星々も
 昼の光にあっては輝きをもたない
 最高の星、太陽に敬意を払い
 共存をゆるすやさしき月の慈悲を感じ

 そして

 自分の輝きのつよさを本当に知らなければ
 無為に燃え尽き、消えゆくだけ…


 エレオノーラは正式にスクネ血盟を脱退し、各地をひとり、気の向くままに放浪していた。
 まだ、ちからが足りない。
 時も満ちていない。
 ワシズミという矛盾のひとつを失った以上、彼女の目指すものは、ただひとつ。
 強くなり、父のために戦い、地上を壊滅させること。
 神々の望むかたちから、遥かに遠ざかってしまった世界をつくりなおすための、最初の一歩。
 そのために…

 独り身となった彼女を、ここぞとばかりに誘う君主もひとりやふたりでは、なかった。
 噂を知っていようがいまいが、エレオノーラという存在の持つ魔力の強さは…そして彼女が経験を積んだ冒険者であることは、一目見ればすぐにわかる。

 けれどもそれを、彼女はすべて断った。
 いまは誰かのために、自分のちからを使いたくはなかったから。

 あちこちで、狩りを続けた。
 火山、象牙の塔、雪山、クリスタルケイブ、オークの森、砂漠…
 他者と組む気にはなれなかったから、魔法使いが単独行をするのは危険なハイネや、ドラゴンバレーは避けた。
 愛犬たちを頼りに、日々敵を倒しては、ほんの少しずつ、強くなっていく。
 一抹の寂しさと引き換えに得た、気遣いの要らない自由。
 いつ、どこへでも、好きな狩場へ行けるのは、はじめのうち嬉しかった。
 血盟の仲間を育てるためとはいえ、不本意な狩場へ渋々顔を出し、そのたびに酷い怪我を負うのが苦痛で…思い返せば、そうした不満も別離の一因だったのかもしれない。
 ひとりで黙々と、作業のように魔法を放っては、幾多の怪物を屠っていく…その作業は、着実ではあったが、焦りも感じた。
 もっともっと。
 こんな緩やかな甘さを、自分に許している余裕はないというのに。

 ある日、砂漠で狩りをしているエレオノーラの前に、2体のバシリスクが同時に出現した。
 助けを求め、叫んでも、あいにく周りには誰も居ない。
 いてつく息の攻撃を、それでも数回は耐えて逃れようとしたけれど、立て続けではかなわない。
 立ち尽くすエレオノーラを、蠍や蟻の群れが囲んでいく…


6.見えなかった真実

 恋は盲目
 愛は真実

 でも、愛するがゆえにすれ違うこともある…


 泣き声が、きこえる。
 赤子の産声。
 ああ、抱き締めてあげたい。
 手を伸ばそうとすると、それは遠ざかり…消えた。

『甘い夢に逃げることはできませんよ。まだあなたの戦いは…終わっていない』

 ああ、まだ私は試されているのか。
 為すべきことがまだあると。
 眠り続けることは…ゆるされないと。


 ――すずしい…
 灼熱の砂漠とは打って変わった快さに、エレオノーラは目覚めた。
 帰還もまにあわず、倒れたあと…自分はどうなったのか。
 横たわっているベッドは、宿のもののようだけれど…いったいどこの街の?
 考えながら起き上がると、猛烈な頭痛がした。
「ああエレ、あかんで。まだ寝とき」
 促されるまま、ふたたび臥せり、相手の声と顔を、自分の記憶を辿る。
「ぼーっとしとるな。日光ダメ言うとったエレが、まさか砂漠で倒れとるとは思わんし、見つけたときは驚いた」
 多弁な彼は…誰だっただろう?
 覚えのある声。飄々とした姿。血盟員ではないのは、間違いない…
「いま天ちゃんが、つめたい水もってくるから、飲むとええ」
 天ちゃん…
 ワシズミと共に歌う島で戦い、それからも腕を磨き続けている女魔法使い、天姫の名が、まず先に浮かぶ。
 それから、いま目の前にいる魔法使いが、天姫との縁で知り合った相手…名前は、紋紅だったことを。
「紋紅、さん…?」
「ん? 忘れられてんかと思った。よかった」
 どうやら彼に、砂漠で救われたらしい。
 いや彼ら、というべきか。
 天姫が、ちいさな水瓶を持って、部屋へ入ってきた。
「あれ、エレちゃん、目さめたんだね。よかったぁ」
 今度はゆっくりと起き上がり、勧められた水を一杯、口にする。
 身体の…そして心の奥でちりちりと焦げていたなにかが、すっと冷えて鎮まる気がした。

 そもそも、人と話をしたのは、どれだけぶりだったろう?
 スクネ血盟…そして同盟君主たち以外の誰も、いまのところは、エレオノーラの正体を知らないようだ。
 最初のうちは、怒り狂ったワシズミがすべてを公表し、アインハザードの名を借りてでも、エレオノーラの追討令を出す可能性も考えた。
 いまは君主どうしの連携もあるし、やろうと思えば簡単なことだったろう。
 そもそもスクネの血盟員たちが事実を受け入れたことさえ、奇跡に近いのだ。
 けれど…その気配はなかった。
 ワシズミにとって、自分はそれほどの価値もない、ただの血盟員だったのか。
 それとも、話して一笑に付されたか。

「あのさ、エレ」
「エレちゃん、あのね」
 黙ったままのエレオノーラに、ふたりが一斉に声をかけ、顔を見合わせて苦笑する。
 たぶん、ワシズミとエレオノーラの決別を知らない…だからこそ、優しいひとたち。
 エレオノーラがもはや、スクネの血盟員でないことは、ワシズミと親しい天姫は少なくとも知っているだろう。
 けれどもその理由は…?
「ええ。天姫、先に話し」
 頷くと、天姫が口を開いた。
「あのね…ワシズミさんから、ちょっと事情は聞いたんだけど…」
 え?
 驚愕に目を見開いて、エレオノーラは天姫へと顔を向けた。
 それでも、助けてくれたというのか。
「うーんと…なんか、どう言ったらいいか、難しいけど…エレちゃんが寂しかったの、ちょっと、わかる」
「…でも…」
 俯くエレオノーラにかける言葉を失い、困惑する天姫にじれたのか、紋紅が口を挟んだ。
「ウワキのひとつやふたつでごたごたなる男も男じゃ! 俺が一番のオトコ、ぐらいにどーんと」
「そうじゃなくて!」
 天姫が、彼を止めた。
 彼女が伝えたいことと、まるで話が食い違ってしまうから。
「エレちゃん…あのさ。毎日、会議に出れなくて、寂しそうだったの、知ってた」
 噂は噂を呼び、連日の会議に出席する君主の数も、膨れあがっていった。
 やがてはホールにも収まらない人数になり…ごく一部の力ある、あるいはどうしてもと申し出た血盟を除き、参謀の出席は認められなくなった。
 エレオノーラもその例外ではなかった。
 彼女は確かに、アデン戦で重要な役割を担う可能性が高い。
 しかし軍の指揮に直接関与するわけではない。
 だから…ほんとうは、ワシズミのそばで、すべてを聞き、考え、彼と共に相談したかった。
 愚痴でもなんでもいい。彼の支えになって、どんなかたちでも、役に立ちたかった。
 それでも当のワシズミから求められないものを、エレオノーラのほうから言い出すわけにもいかず、遠慮して…
 かといって会議のあと、疲れきり、倒れこむように眠る彼に、むりやり話をしろとも言えず、つらかった。
「あのね、ワシズミさん、ほんとうはエレちゃんにも…一緒にいて欲しかったって」
「え…」
 天姫は、エレオノーラを失ってはじめて、彼から本音を聞かせてもらったと前置きして、訥々と話しはじめた。
「エレちゃんもワシズミさんも、とっても寂しがり屋で…でも、実は内気よね。ワシズミさんね、結構プレッシャーかさんでたって。会議を最初に招集した責任、新参者扱いされる不安…血盟員に弱みを見せるわけにもいかないし、エレちゃんはエレちゃんで毎晩つらそうな顔をしてるから、どこにも気持ちのやり場がなかったって」
 だったら…どうして自分を呼んでくれなかったのだろう。
 脱退したあとも、無視されたまま。
 だから自分など、単なる腐れ縁めいた存在にすぎなかったのかと、半ば恨めしく思っていた…。
 それをうちあけると、天姫は悲しげに首を振った。
「あのね、エレちゃん、すごく特異な立場になっちゃったでしょ。集まってくる人たちのなかには、エレちゃん見たさの好奇心だけっていうのもいたのよね。で、ワシズミさん、そういう連中からエレちゃんを守りたくて…あと、エレちゃんもそういう場に出たくないだろうと思って、言い出せなかったって。それに彼自身が言い出したのよね、参謀の出席は限定しようと。その本人が自ら参謀連れじゃ、話にならないでしょ」
「あ…」
 気づかなかった。
 いちおう会議の参加者以外には極秘扱いとはなっていたものの、破壊神の娘が存在するという噂は、密かに漏れていたらしい。
 最初の参加者たちはエレオノーラをその目で見、話を聞き、受け入れた。
 けれども途中からやってきた君主たちが同じように理解あるとは限らない。
 かといって、戦力は少しでも欲しいから、参加の申し出を徒に拒むこともできない。
 …そのうえ血盟どうしでも、勢力の大小もあれば、諍いを抱えていることもある。
 それらをすべて、一身に抱え込んだワシズミの負担はどれほど大きかったろう。
「それにな、ワシズミも他の古参から見りゃ若造やし、言いだしっぺやからって結構振り回されて、大変やったろな」
 紋紅の推測に、然りと天姫が頷く。
 天姫は勘吉の副官としてずっと、会議に参加していたから、ワシズミの苦労を知っていたし、だからこそワシズミも、他の誰にも言えなかったことを、彼女にこそ打ち明けられたのだろう。
 旧友であり、血盟員以外で…さらに数少ない信頼できる血盟の、会議参加者。
 しかもエレオノーラとも知己である天姫…だからこそ、吐き出せた苦悩の数々。
 すべてを聞くのに半日はかかったと、天姫はちょっと笑って言った。
「…言って、くれれば…」
 でも、もう遅い。
 エレオノーラはワシズミの愛と信頼を失い、ワシズミはエレオノーラの支えを失った。
 はっと、そこで気づく。
 もともとアデン攻略を訴えたのはエレオノーラであり、彼女が…少なくともケレニスの猛威を抑えるという前提で、話は進んでいたはずだ。
 その彼女が、スクネ血盟を抜け、ひとり放浪しているということは…
「あの…アデン攻めの話じたいは、進んでいるのですか? 私がいないのは、みなさんご存知、ですよね」
「…」
 天姫は困ったように、頷いた。
「結局、ね。神だのなんだのに頼っても無駄だ、力と数で押し切ろうっていう強引な話になって…だから余計、血盟どうしのまとまりとか、そういった問題が浮き上がってる。下手すると、アデン攻めどころか、血盟同士で戦争はじめかねないわね」
 …最悪の事態だ。
 自分の気持ちのほかに何も考えていなかった身勝手さを、エレオノーラは思い知った。
 かといって、いまさら自分が戻っても、話は振り出しにはならない。
 それ以前に、ワシズミは彼女を受け入れはしないだろう。
「…私…なんてことを…」
 これでは結果的に、反王の意図…それはグランカインの望みなのだろうが…に振り回され、すべてを崩壊へ追いやってしまう。

 どうすればいいのだろう。
 時は戻らない。
 これから、なんとかするしか。

『…』

 でも…

 思考の迷路をさまよううち、エレオノーラのふたつの意識は混乱し、いつしか表裏が入れ替わっていった…


7.ともだち

 ひとはどの種族よりも弱い
 だからこそ、団結しなくては生きていけない
 たくさんの力を、ひとつにまとめて


「わたくし…」
 エレオノーラが、虚ろな声で呟いた。
「父上さまのために、自分の意志で働いてきた、つもりだった…けれど結局は、駒のひとつ、生きた人形に過ぎなかったのかしら…この感情さえ、操られているだけのパペット・ドール…」
 彼女の黒い瞳は、なにも映していないように見えた。
 そこに在るのは、もしかしたら、無そのもの。
 同じで違う、もうひとりのエレオノーラに気づき、天姫と紋紅はすこしの間、顔を見合わせ、困ったように黙り込んだ。
 しずかで悲しい気配が、室内を満たす。

 思い切って口火を切ったのは、紋紅だった。
「詳しい事情はわからんけど、もしかしたら、今まではそうかもしれんな」
 でも、と前置きして、彼は続ける。
「それに気づいて、で、厭だと思うんなら、これから変わればええやんか。俺らみんな、まだまだ若い。未来はどうにでも変えられる」
「…珍しく、いいこと言うじゃない」
 天姫が微笑む。
「俺はいつも、いいことゆーてるわい」
 ふたりが笑うと、つられてエレオノーラも、少しだけ表情を緩めた。
「あなたがたは、わたくしが変わっても、同じように接してくれるのね…わかっているでしょうに」
 言葉遣い。そして目の色の変化。さらには微光の違い。
 鋭敏な魔術師であるふたりが、それを悟らぬはずはなかった。
「エレちゃんは、エレちゃんだもん。悲しそうで、悩んでて、困ってる友達。それはぜんぜん、かわらないよ」
 天姫の綺麗な笑顔が、エレオノーラに向けられる。
 どちらもエレオノーラであることを、確かに認めていることが、まっすぐな瞳から窺い知れた。
「ともだち?」
「うん」
 ふたりがうなずく。
「そやで、エレがスクネから離れて、ひとりぼっちになった聞いて、なんか泣き言のひとつも聞いてやろ思てたのに、なーんも音沙汰ないから、薄情なやっちゃって、心配してた。な?」
「こらっ」
 紋紅の頭を軽く叩きながら、天姫は真剣な表情で、エレオノーラに言った。
「薄情なんて、思ってないよ。ただ…ほんと、どうしてるかって思って、探してた。だから見つけて、助けてあげられて、うれしかったよ」
「わたくし、を?」
 答えは、同じだった。
「だって一緒に狩りしたり、しゃべったりした記憶って、なくならない。楽しかったし、このひとは信用できるって、思った。だから、エレちゃんは私の友達」
「おれもやで!」
 ――人間なんて、存在する価値もないって、思って、いたのに…嫌いだと…憎いと…
 はらはらと、エレオノーラの瞳から、涙が溢れ出して止まらない。
 そんな彼女を、二人は優しく抱きしめた。


8.ニ君

 血盟の誓いは血の誓い
 君主のためにすべてを捧げるという強い願い
 それを受け容れて己が配下と認める証


「な、エレ。これ持ってき」
 一緒に旅をしようと誘ってくれたふたりに、自分のできることを探してみたいと答えたエレオノーラは、ならばせめてものお守りにと、紋紅から受け取ったブリザードの魔法書を抱え、いささか途方にくれていた。
 魔女ケレニスもよく使う、強大な攻撃魔法。
 けれどもそれは、破壊神グランカインの神殿でしか、習得することができない…。

 これも、ひとつの運命だろうか。

 たぶん、一人旅の多い彼女にとって、広い範囲に効果のある魔法は便利だろうと、考えての贈り物だろう。
 その威力は相当なもので…それに比して、希少で値段も高い。
 そんなものを、旅の土産のごとくあっさりと渡してくれた紋紅に驚いて、最初は断ったが、「いいから」と手の中に押し込まれるものを、拒み通すことはできなかった。

 しかたない。もういちど、あの場所へ行こう…

 かつての故郷。無残な荒地。
 前は仲間が…そしてワシズミが守ってくれたが、いまはたったひとり。
 身を、心を守るのは、自分自身だけ。
 覚悟を決めて、エレオノーラはそこへ足を向けた。

 一度目にしてしまったせいか、最初ほどのショックはなかった。
 ただ迫り来る怪物を極力避け、やむをえないときだけ倒し、神殿へ到着すると、本を広げ、そこに書かれた呪文を詠唱する。
 即座に身体が真紅の光に包まれ、エレオノーラの脳内にはっきりと、それは刻み込まれた。

 そのまま帰還しようとして、エレオノーラは躊躇した。
 ここからでは、グルーディンに着いてしまう。
 2回の悪夢が重なるところ。
 聖なる石が崩壊し、城から脱出したときの逃避行。
 そして仲間と狩りにやってきて…昏倒し、村を脅威に陥れてしまった思い出。

 手にした帰還の巻物をしまい込み、ひとつ大きな溜息をついて、エレオノーラは歩き出した。
 ケントに向かって。
 あらたな試練への扉が、待つとも知らず。 

 ケントの村で犬を預け、心身の…とくに心の疲れを感じたエレオノーラは、村の大きな木の陰で休息をとろうと思った。
 この村には宿がない。だから銘々、木の下や村はずれなど、落ち着くところを見つけて一休みするか、あるいは宿のある町に向かってすぐさま出発してしまう。
 そのせいか、城下であるにも関わらず、この村に人はあまり集まらず、発展の兆しもなかった。
 よくいえば、農村ののどかさをいつまでもとどめているわけだが…

 薄曇の空でも感じる日光の熱さから身を避けようと、エレオノーラが歩き出した、そのとき。
 強烈な光が、視えた。

 明るい橙色の炎。
 それは静かに燃え上がり、なにかを待ちうけている。
 吸い込まれるように、エレオノーラの足は、その光へと向かっていった。
 
 村の広場に、ひとり腕を組み、思案に耽っている男性がひとり。
 君主の衣装がこれほど似合う人物も、そう多くはないだろう。
 威厳に満ちた、それでいて温かさと大らかさを持ち合わせたその輝きは、彼の放つ炎のような微光と、彼の双眸のいずれにも、はっきりと映し出されていた。
 王子というより、王の器。
 エレオノーラは魔法で獣を従わせたが、彼ならばその一瞥で、どのような獣も、人間も、畏れさせ、また惹きつけることができるに違いない。

 エレオノーラは、眼前の君主と過去の最愛のひととを脳裏に浮かべ、比べてみた。
 天を舞う鷲と、地を統べる獅子。
 そんなイメージが浮かんでくる。

「…」
 自然にエレオノーラは彼の正面へと回り、剣の代わりに杖を捧げ、跪いていた。
「あなたは?」
 深みのある声が、エレオノーラの胸を打つ。
「エレオノーラ、と申します。殿下の大いなる輝きに心打たれ、お仕えしたいと感じ…こうして臣下の礼をとらせていただきました。配下の末席に、この身を加えていただけますか?」
 エレオノーラ、と、彼は膝下の女魔法使いを見やり、名前を繰り返した。
 そしてしばしの黙考のすえ、頷く。
「よいでしょう。我が血盟は来る者拒まず、去る者追わずが信条…我が名は獅子王、見知りおいていただきたい」
 獅子王。まさしく、彼に相応しい名であった。
 エレオノーラは顔をあげると、血盟の誓いを捧げ、きっぱりと言った。
「心より忠義をお捧げ致します。獅子王さまの御心にかなわぬときは、この身を斬り捨てられることも厭いません」
 そのことばに、獅子王は破顔すると、すこし明るい声で応じた。
「それほど畏まることもない。大所帯だが、あなたが皆と意気投合できることを願うよ」
「…はい!」
 立ち上がり、深く一礼すると、エレオノーラは彼に従い、歩き出した。
 新たな道へ。




終.楽土の夢

なれし故郷放たれて
夢に楽土求めたり
神々の夢に彷徨える
われらたみびと
みなすべて
流浪の民とおぼしきや…


(双つ星の道は、遠く分かたれてしまったか…)
 タラスの瞑想室に、声ならぬ声が響く。
「左様に…。調和へと向かっていた天空の座相が、いまや刻々と変化しております。我が星見をもってしても、まったく先の知れないほどに」
 深く深く吐息をついて、タラスは答えた。
 アインハザードの祝福とグランカインの血筋。
 そのふたつを持つ両者の命運は、永遠に交わらぬ道へ向かってしまった。
 タラスの見た、理想の統治者を迎えて繁栄するアデン…楽土の夢は、喪われた。
 もはや、彼の心眼には、世界の将来が映ることもない。

 すべての犠牲は無駄に終わったのか?
 神々の争いは続き、世界は荒廃へと向かうだけなのか…

 神ならぬ身では、もはやそれを知り得ること、及ばない。
 もしかすれば、神々でさえ。