転輪―ふたつめのみち


 もう終わりだと思っていた
 いままでのすべてはわるいゆめ
 悲しく痛い過去を忘れて
 いちからやり直せるのだと

 でも…わたしという存在そのものを縛る鎖は
 まだ…残っていた…


序.承前―手記

『…かくしてアインハザードの星は、試練より解き放たれ、己が道を往くこととなった。
 もともと彼は人間、エレオノーラから離れれば、本来在るべきであったとおりの生を全うできるであろう。その掌から星が失われ、君主としての力量は著しく損なわれるであろうが…。

 しかし…グランカインの夢たる我が弟子…エレオノーラは出自からして、人の子に非ず、たとえ与えられた使命を放棄したとしても、その未来はなお険しい。
 いやむしろ、運命に直面せず逃げ出した罪は、さらに彼女を苦しめることだろう。

 彼女の魂に救済は訪れるのだろうか。
 概して大いなる力というものは、欲する者ではなく、それを望まぬ者の手に与えられる。
 星のさだめは、いまなお、新たなる血盟の名前を以って彼女を縛り、次なる道を作り始めている。が、すでにそれは我が予見の及ばぬところとなった。

 人としてのささやかな幸福を望むエレオノーラ…彼女に安らかなる日がおとずれることを、ただひたすら、願ってやまない…

 花咲き、散る季節に――タラス』



1.あたらしき血盟

えたものと
うしなったもの
数え上げればきりがない

けれどそれに
何の意味が?


 エレオノーラが所属することになった血盟は、名をコンステレーション(Constellation)という。
 星座を意味することばだと、誰かが教えてくれた。
 はじめのうち、ウティと永井のほかに知る顔がなく、人見知りの激しいエレオノーラは、ふたりに連れられて狩りにいくか、犬だけを伴ってひとりでかけることが多かった。
 けれども魔法使いは、どの血盟でもだいたい不足している。
 コンステレーションも例外ではなく、ほとんどの魔法を習得済みのエレオノーラは、血盟の人々に請われ、新しい…危険な狩場へといざなわれていくことになった。

 過去の彼女にとっては、夢の地でしかなかった、海底や、象牙の塔の高み。
 そして…傲慢の塔、忘れられた島。
 放浪の身であったうちに、単独の狩りに慣れ、仲間との連携を忘れかけていたエレオノーラにとって、初めての狩場、見知らぬ人々と組んで戦うことは、かなりの試練だった。
 なんども傷ついては倒れ、そんなエレオノーラを守ろうとした仲間までが犠牲になったときには、脱退を考えもした。
 エレオノーラから悩みを打ち明けられたウティの反応は、にべもなかった。
「今ここを抜けたところで、同じことを繰り返すだけだろうが。悔やむなら腕を磨け。焦るな」
 返す言葉が見つからず、エレオノーラは自分の弱音をぐっと抑えこむ…。
 
 同じ血盟員として、共に狩りをするようになったウティは、エレオノーラの無謀さを叱責し、狩りかたを変えるよう、何度も彼女に言い聞かせた。
 そしてそのたび、エレオノーラは猛烈に反発する。
 ならば別々に狩りをすればいいのに、なぜかふたりは、翌日になると、一緒に出かけ…そして宿に帰るたび、ウティの怒鳴り声が響く。
「攻撃魔法を使うなと、何度言ったら覚えるんだ! ましてトルネードなんざ自爆もいいところだろうが!」
 その日もエレオノーラは、大量の魔物の真ん中で竜巻を起こし、反撃を受けて倒れ、ウティに連れ帰られていた。
 言われたことを、忘れたわけではない…が、敵に囲まれて傷つく仲間を…ウティを見ていると、どうしても耐えられない。
 だがそう言ったところで、「おまえに心配されるほど俺はヤワじゃない」と、冷たくあしらわれるだけだ。
 わかっているから、つい、エレオノーラも頑なになる。
「だって…ほかの仲間たちは、同じことをしてもピンピンしてるわ」
 不満げに抗議するエレオノーラに、ウティは何度となく同じことを言い聞かせた。
「基礎体力の差ってもんを考えろ。なんのために仲間がいると思ってるんだ? 信頼して攻撃は任せて、回復に専念すればいいだろう」
「いやよ。みんなばっかり矢面に立たせて、私は保身につとめろっていうの?」
 やっとわかったのか、とばかりに、ウティがうなずく。
「ああ、そうだ。それが全員の身を守ることになる」
 いやいやと、首を横に振りながら、エレオノーラはなおも反論を続ける。
「納得できないわ! …第一そんな狩りに慣れてしまったら、私ひとりじゃ戦えなくなるじゃない!」
 ―ひとりで戦う必要なんかないだろう。俺が…
 そう答えそうになったウティは、周囲の注視に気づくと、かるく深呼吸をして、肩をすくめた。
「まったく…頑固な女だな。黙って座ってりゃ淑やかなお嬢さんなのに、口を開けばガキっぽい負けん気だらけの小娘だ」
「そっちだって…親切そうだったのは最初だけじゃない! ウティのわからずや!」
 目に涙をいっぱい浮かべて叫ぶと、エレオノーラは自分の部屋へ駆け込んでいく。
 だまされた、とでもいいたげに苦笑すると、ウティもまた、酒杯を干して、寝室へと向かう。

 そんな光景が、いつしかクランの風物詩のようになり、最初はふたりを止めていた血盟員たちも、あれが彼らのコミニュケーションなのだろうと、遠巻きに見守るようになっていった。
 本人たちは、いたって真剣だったのだが。

 しかしウティとは対照的に―というか、ウティが厳しすぎるとでも皆、思ったのか―仲間たちの大多数は、エレオノーラを責めはしなかった。
「同じミスを繰り返さなければ、それでいいんだよ」
 彼女をかばって深手を負った騎士、Yenが屈託なく笑う。
 装備を整えるより、まず自分の腕を…と、彼はみなが驚くほどの軽装で、強い敵の徘徊するエルモアにでかけては、大怪我をして戻ってきていた。
 エレオノーラはそれを真に受け、感心していたが、彼の戦いぶりを見るにつけ、単に無謀な人物なのだと、気づいてしまった。
 もっともそんな無鉄砲を続けられたのも、天賦の才と不屈の努力ゆえ。いまや彼は、血盟のなかでもかなりの実力ある騎士に成長しているようだ。
「ハイリスク、ハイリターン。みんな承知の上さ。そりゃ、ヌルい狩場で時間をかければ、いつかは強くなれる。だが俺たちは、そのいつかが、待てないんだ」
 新婚のJecyが、妻に同意を求めると、Belldanndyは戸惑ったような複雑な笑みを浮かべながら、頷いた。
「みんな、戦いには厳しいわ。入ったばかりのあなたには、つらいかもしれない。でも…忘れないで。みんな味方。あなたの仲間」
 エルフの声は歌うように響く。
 なかでも風の精霊に愛されたBelldanndyのそれは麗しく、聞くものの心を和ませた。
 控えめなくせに芯の強い彼女とは、共にでかける機会も不思議に増え、エレオノーラは真っ先に彼女と打ち解け、いろいろな話をするようになった。
 …過去のできごと、自分自身のことは、まだ告白できなかったけれど。
 口数の少ないエレオノーラの代わりに、Belldanndyがいろいろと、自分自身のこと、血盟のこと、そして夫とのなれそめなど、さまざまなことを聞かせてくれる。
「Jecyはね、軽く見えても、狩りにはすごく真剣なの。私だって、何度も怒鳴られたりしてる。でもそのたびに、確実に強くなれたわ。だから信じてるし、これからもずっと、一緒に歩いていこうと思ってる」
 微かに頬を染める彼女は、とても愛らしかった。
 結婚指輪のサファイアが、Belldanndyの瞳そのもののように、青くきらきらと輝く。
 なにもなければ…ケンラウヘルが現れなければ、あるいはエレオノーラが戦争などけしかけなければ、いまごろは…
 自分の指に目をおとすと、手から滑り落ち、砕けてしまった思い出の欠片が、いまでもエレオノーラの胸に容赦なく突き刺さる。
 ふいにうつむいたエレオノーラの様子に、なにかを悟ったのか、Belldanndyはしばらく困ったように佇んでいた…が、ふいに、自分の荷物のなかから、何かを取り出し、エレオノーラに手渡した。
「これ、食べてみて」
 それは黄金色の、うすい焼き菓子だった。
 エルフしか…しかもたったひとりしか、製法を知らない特別なワッフル。
 妖精族が一枚口にすれば、わずか数分とはいえ、心身の限界を超えた力を発揮できるという。
 エレオノーラのかつての血盟の仲間たち…彼女を母と慕ってくれていた若者たちが、誇らしげに見せてくれたそれは、ほとんど流通のないとても貴重な品物だった。
 なのに…
 Belldanndyの優しい表情につられ、エレオノーラはその好意に甘えて、焼き菓子を受け取った。
 噛み締めるまでもなく、口のなかでほろりととろけるそれは、なにか懐かしいような、幼いころ…ほんとうにしあわせだったころの、甘酸っぱい幸福感をもたらしてくれる。
 エレオノーラの脳裏に、封印していた過去がよぎる。
 幼いなりに一生懸命家事を手伝ってくれるからと、叔母がねぎらって、時折作ってくれたお菓子も、こんな味だったような気がする…。
「おいしい? あ、もしかしたら口に合わなかったかな。私達と人間じゃ、微妙に味覚が違うっていうけど…」
 目頭が熱くなり、慌てて目を伏せながら、エレオノーラはただ、首を振り、とてもおいしいわ、と、つぶやいた。

 なんて暖かな場所。
 優しい仲間たち。
 もう失いたくない…失うのが、こわい。
 Belldanndyの目に留まらないよう、そっと涙をぬぐうと、エレオノーラは精一杯の微笑を浮かべた。

 もちろん、楽しいことばかりではない。
 日々の戦いは、エレオノーラがそれまで経験してきたものよりずっとずっと激しく、疲労も積み重なっていった。
 そして慣れと疲労は、時として大きな過ちの元になる。
 その教訓は、痛いほど身についていたはずだったのだが…


2.傲慢の意味

かつて巨人族は
神々に並ぼうと
天に聳える巨塔を築いた

それは驕れる彼らの象徴
廃墟と化した今では戒め
傲慢を神々は決して赦さず、との…


 獅子王から、傲慢の塔へ行くと告げられたエレオノーラは、支度を整え、待ち合わせの場所に向かった。
 待っていたのは、ウティとJecyにBelldanndy、そして騎士が一人。
「よし、全員そろったな」
 Jecyが早くも塔へと足を向けようとする…が、そこに獅子王の姿はない。
 見覚えのない戦装束の騎士は、鋼鉄の兜で顔をしっかりと覆っている…けれど。
 彼の発する圧倒的な覇気、そしてエレオノーラを引き寄せた、燃えるような橙の微光。
 彼女が誰何する前に、騎士は自ら、口を開いた。
「俺は烈王だ。この姿でいるときは、そう呼べ」
 烈王、と、いぶかしげにエレオノーラが繰り返すと、騎士は快活に笑った。
「やはりお前は、ごまかせなかったか。大抵のヤツは気づかないんだがな」
「気づかないフリをしてるだけですよ、みんな…礼儀ってモンがあるでしょう」
 冷めた口調でウティが言うと、Belldanndyがくすりと笑った。
「おしのびってやつね。バレバレだけど。まあこの人は、かなり掟破りの君主だから。そういうことに、しておいてあげて?」
 たしかに彼は、君主の身ではまとうことが出来ないはずの装備をしっかりと身につけていた。
 重厚な鎧にエルフの盾、腰に刷いているのは…ツルギ。
 総じて君主は、騎士ほどに腕力も体力もない。
 武術・魔術の訓練を双方受けているかわりに、いずれも初歩のものにすぎず、専門職には劣る…それが、常識だった。
 訝しげに頷くエレオノーラに、Jecyがそっと耳打ちする。
「烈のヤツはさ、武家の末っ子で、君主になんざ、なるつもりなかったんだよな。だから騎士として、がっちり修行してたんだが…兄貴連中がみんな、討ち死にしちまって、しかたなく跡取りになったってわけさ」
 なるほど、戦乱の世では、よくある話だ。
 実際、アデン王国における職業のしきたりは厳しく、個人的な能力差や向き不向きにかかわらず、決められている事柄が多い。
 どれだけ腕力が強かろうと、魔法使いは杖と数種類の剣のほか、携えることを許されないし、防具も鉄製のものはほとんど使えない。
 これは魔法の源であるマナと鉄の相性がよくないという理由づけもされているけれど…そのほかにも、理由のわからない決め事の数々が、それぞれの持ち分を厳しく仕切っている。
 とくに君主は、自ら武具をまとって戦わなければならないはずなのに、制限が多く、本人の能力が優れていても、一対一で戦えば、とうてい騎士にはかなわない。
 生来騎士として育てられたとしたら、その制限に苛立つのも、しかたのないことなのかも。
 エレオノーラも、彼女の魔法使いとしての素養を、宮廷魔術師ファウラが惜しんだからこそ、魔法使いの道を選ぶことが許されたけれども、そうでなければ、城主の養女として、君主としての教育を施され、他のみちはなかったろう。
 そんな彼女だからこそ、獅子王…烈王の思いも、いくらか理解できる気がした。
 けれども獅子王が、そんなやすっぽい同情などを受け容れる相手ではないことも、いままでの経緯で感じ取っていたから、エレオノーラは無言でうなずくと、出発を促す烈王に従い、歩き始めた。

 その日、傲慢の塔に他の冒険者たちの姿はなく…異常なほどに、敵の数が多かった。
 主な狩場は4階、獲物はレッサードラゴン。
 なのに2階で早くも足が止まり、大量のディアウルフに鈍化の呪文をかけるうち、エレオノーラの魔力は底をついてしまった。回復魔法もおぼつかず、エレオノーラの疲労を感じ取ったエルフたちの弓を撃つ手も、鈍りがちになる。
「エレに頼るな! エルフども、自分の傷は自分で治せ!」
 烈王の檄をうけ、エルフたちはそれぞれ、自分で回復魔法を使い始める。
 ひとたび指示が与えられれば、修羅場慣れしている彼らに迷いはなく、その判断も行動も素早かった。
 ようやく敵の一群を処理し終えて、小休止しているとき、ウティがエレオノーラに近づき、言った。
「力の配分を考えろ。確かに敵の動きを鈍らせりゃ、結果として回復は少なくて済む…が、その調子で魔石が足りるのか?」
 標的の動きを鈍らせる呪文スローは、マナの力だけでなく、術者の体力をも奪い、またマナの凝縮した結晶…魔力の石を必要とする。
 指摘されるまでもなく、エレオノーラは、計算以上に多くの魔石を消費してしまったことを後悔していた。
 レッサードラゴンにスローは不可欠。そのほかにも、塔の4階には、魔力によって意志を得、人を襲う剣ダンシングソードや、靄のように不明瞭な姿で奇襲をかけてくるナイトメアが出現する。
 正直、魔石はいくつあっても足りないのだ。
「…」
 ことが仲間全員の命にかかわるだけに、エレオノーラは反論できず、答えに詰まった。
「エレオ、これ使え」
 そんな彼女を見かねたのか、Jecyが何かを放り投げる。
 魔石の詰まった袋だった。
「どうせ俺には無用の長物だ。役立ててくれ」
「そんな…だめよJecy」
 エルフはレッサードラゴンに弓を放ち、挑発する役目を負うことになる。強烈な炎の一撃を避けるため、魔力反射の呪文は不可欠だ。
 そして魔力反射(カウンターマジック)を使うためにも、魔石は必要…。
「いいわ。私、多めに石を持ってきてるから、半分こしましょう」
 エレオノーラが魔石の袋を返すより早く、BelldanndyがJecyに寄り添い、自分の魔石を半分、夫に渡してしまった。
 信用ねえな、と苦笑しながら、それでも受け取るJecyの表情からは、明らかに安心感が伝わってくる。強がってはみたものの、やはり魔石なしでは少々心もとなかったのだろう。
 互いに庇いあい、いたわりあう仲間たちの姿。
 それはエレオノーラに、砂漠での出来事を思い出させた。
 ともだち…
 エレオノーラの真実を知ってさえ、彼女をそう呼んでくれた、ふたり。
 この仲間たちも、いつか自分を、友として認めてくれるようになるだろうか。
 そのためにも、全力を尽くさなければ。
 貴重な魔石の詰まった袋を握り締め、魔力と…敵に立ち向かう精神力とが回復したのを確認すると、エレオノーラは立ち上がった。

 しかし…
 4階の惨状は、彼らの想像を絶していた。
 ダンシングソードの一群が、真っ先に、脆弱な魔法使いを狙ってくる。
 それを引き剥がし、エルフたちは自ら囮となって、迷宮の闇に消えていった。
「戻れ! 分断されれば勝ち目がない!」
 ウティの叫びは、彼らのもとへ届いてはいなかったろう。
 あるいは追いすがる剣を振り払うことに必死で、とても応じる余裕がなかったのかもしれない。
 ひゅひゅ、びゅん!
 キン! カーン…キキィン!
 弓鳴りと甲高い金属音が、無数に響く。
 それは徐々に遠ざかり…消えた。
 そして彼らは戻らず…
 レッサードラゴンが…最大の脅威が、やってくる。
「しかたねえな」
 烈王が舌打ちしながら、懐から数枚の巻物を取り出すと、そのうちの一枚を広げた。
 たちまち彼の体を、魔力の光が包み込む。
 カウンターマジックの巻物だった。
 誰でも魔法が使えるよう、魔術師が呪文を封じたその巻物は、一般には流通していない貴重なもので、よほどの危地にないかぎり、使うものではない。
 つまり…いまがまさしく、そのときだと、烈王は判断しているのだ。
 エレオノーラは緊張に身を強張らせる。
 すなわち…全滅の恐れがあると、彼が判断している証拠なのだから。
 自分を見つめる4つの瞳に対し、烈王はかすかに頷いた。
 それは暗黙の了解。自分の命は己自身で守らねばならない、という。

 エレオノーラは、今すぐ帰還してしまいたい恐怖と、仲間を守りたいという意志の相克に、かろうじて耐えていた。
 仲間を守ってこそ魔法使い。少なくとも、彼女はそのために戦っている。
 だが…自分よりはるかに経験も知識も上回る仲間たちでさえ、死の恐怖を抑えかねる…エレオノーラの瞳にはそれが、はっきりと視えてしまった…そんな状況に、自分自身が耐えきれるのか。
 そして…生命の危機にさらされたとき、自分が自我を失ってしまいはしないだろうか。
 彼らの前で…黒い魔女である自分をあらわにしたくはなかった。
 すくなくとも、まだ。

 そんな彼女の怯えを悟ったのか、ウティが軽く、エレオノーラの肩を叩く。
「このぐらいで尻尾まいてちゃ、この先やってけないぜ。俺に噛み付いた勢いはどうしたんだ、子猫ちゃん」
 彼の皮肉にきっと眦まなじり)を吊り上げると、エレオノーラは回復呪文を立て続けに唱えるかたわら、まだほんの微かな、敵の気配を探り、それを自分自身の感覚とつなぎ合わせた。
 不可視の糸のように、かぼそいけれども伸縮自在のそれがある限り、エレオノーラが敵を見失うことはない。
 象牙の塔で学んだ技術のひとつだったけれど、いままで使ったことは、ほとんどなかった。
 今までエレオノーラの役割といえば、仲間を癒すこと、そして目の前の脅威を払うこと。
 まだ現われてもいない敵を察知し、排除するのは、エルフや騎士たちに任せきっていた。
 でも…いまは、それだけでは、足りない。
 自分の持つ、すべてのちからを出し切らなければ、勝てない相手。
 この血盟の人々は、あえてそうした敵に挑み、勝利と敗北を重ねつつ、自らを磨き上げている。
 エレオノーラも、それに倣わねばならない。
 ――それができないなら、ここにいる、価値が、ない。
 悲しげな吐息をちいさく漏らして、エレオノーラは耳鳴りがするほどに、強く強く意識を集中した。

「…くるわ」
 エレオノーラが誰にともなく、ちいさく、つぶやいた。
 ほぼ同時に、烈王が、そして虚空を舞う剣を始末し終えたエルフたちが、戻ってくる。
 その、後ろには。
「いくぞ」
 エレ、呪文の用意を。
 言葉にするのも惜しみ、視線だけで、ウティはそう訴えると、すぐさま駆け出した。
 魔力を高める効果のある杖を握り締め、集中力を増す水薬を飲むと、エレオノーラは、目標が呪文の届く範囲にやってくるのを待った。
 烈王の身を包む微かな魔力のきらめきを、視界の端にとらえると、すばやく呪文を詠唱する。
 呪文が終わるのと、龍の出現は、呼吸を合わせたかのようにぴたりと一致していた。
 一瞬でも遅れれば、誰かの命が失われる、綱渡りのようなタイミングだった。
 最初の呪文は抵抗される。でもそれは、計算のうえ。
 3度、4度…
 失敗するたびに、仲間を守る魔法の光がひとつずつ、消える。
 さすがに焦りを感じながら、エレオノーラはさらに呪文を唱える。
 白銀の鎖がようやく、獲物を縛りつけた。
「やるぞ!」
 烈王の一声を受け、エルフたちは足を止め、一斉に弓を引く。
 そして龍の両脇から、騎士たちが斬りかかった。
「正面に立つんじゃないぞ!」
 レッサードラゴンの吐く息は、屈強の戦士でさえ一撃で倒す煉獄の魔炎。
 だからまともに立ち向かえば、人間のかなう相手では、ない。
 けれども間合いを取って囮が龍の注意をひきつけ、後背から攻撃を続ければ、倒すことはできる。
 もちろんそれには、熟練した技と、完璧なまでの連携を必要とする。
 JecyとBelldanndyは、そろって龍からぎりぎりの間合いを保ち、矢を放ち続ける…が、狡猾な龍はいっきに歩を進め、彼らに業炎を浴びせることもあった。
 それを防ぐために、スローの魔法をかけているのだが…人知を超えた力を持つ龍は、それすらも振り切ってしまう。
 いまも、ほんのわずか…刹那の引き際を見誤ったBelldanndyが、龍の一撃を受け、魔力の輪が弾け飛んだ。
「ベル!」
 彼女を背後に庇い、jecyが閃光の如く動く。
 矢の雨を降らせ、怒り狂った龍を、仲間たち…特に妻から引き離そうとした。
 しかし、間合いがあまりにも近すぎる。

 しゅぉう…ごぉっ…

 彼の身に、龍の炎がふりかかった…それも、2度。
「ぐっ…!」
 矜持の高いJecyだからこそ、かろうじてこらえているが、なまじの戦士なら悲鳴をあげ、その場に転がり伏していたろう。
「Jecy! 帰還しろ!」
 ウティが叫んだが、仲間を置いて逃げ帰るような彼ではない。
 短いつきあいでも、エレオノーラはそれを既に知っていたから、急いで治癒の魔法をJecyに放つ。
 ――ああ、カウンターマジックの魔法が、かけてあげられたら!
 太古の時代、魔術は万能であったという。しかし多くの技術と知識が喪われたいま、人の手で使いこなせる魔の力は、あまりにも小さく、限られている。
 それでも精一杯の努力をするしかない。
 怠れば、死あるのみ。
 神に近づき、さらには神を否定した巨人たちの傲慢ゆえに建造され、そして砕かれ廃墟と化したこの塔で、人の限界を超えようとしている彼らもまた、傲慢な存在なのかもしれない。
 それが神々の試練なのか、それとも崩壊した理想郷の業であるのか…
 エレオノーラの無言の問いに、答えるものは、なかった。

「エレ!」
 放心している場合ではない。
 呼ばれて我に返ると、龍は既に深手を負い、仲間たちは勝利への期待に顔を輝かせている。
 が、油断は禁物。敵は龍だけではない。
 ぼんやりとした、薄気味の悪い気配を感じ、振り返ると、悪夢の化身…ナイトメアが、いまにもエレオノーラを引き裂こうとしていた。
 すぐさま身を翻し、駆けつけてきたウティがそれに切りかかる。
 彼のために回復魔法を用意しつつ、不可視の糸で繋がれた龍の気配をたぐると、その命脈は確実に薄れていた。
 もう、ウティが戻るまでもないだろう…
 エレオノーラが気を緩めた、一瞬の、できごとだった。
 絶命の瞬間、龍は最期の力を振り絞り、その首をもたげた。
 そして…
 呆然と立ち尽くす、エレオノーラに向かって、顎を開いた。
 エレオノーラの双眸には、その向こうに、冥府の門が見えた、気がした。


間章.黄昏の領域

夢は幽冥
現は移る

ならば真実はどこに?


 ――また、ゆめ?
 気がつくとエレオノーラは、いつもの寝室に横たわっていた。
 かたわらに眠るのは、3人の幼い従兄弟たち。
 夜明け前の部屋は暗く、空気はつめたい。
 寒さが見せた、悪夢だったのだろうか。
 ぶるっとひとつ、首を振って、立ち上がる。
 顔を洗って、ついでに悪い夢も水に流してしまおう。
 …と、違和感をおぼえた。
 自分のからだは、こんなにちいさかったろうか?
 家はこんなに、おおきかったろうか?

 ――ちがう。これこそが…現実じゃ、ない。

「おい、エレ!」
「エレさん、しっかり…死なないで」
「縁起でもないこと言うなよ、ベル。大丈夫さ」
 いくつもの声が、重なって聞こえてくる。
 まるで不協和音のようで、頭が割れそうに痛い。
 …いや、頭痛の原因は、彼らの声ではなく…。
 ――ああまって。まだ眠らせて…とても眠いの…このまま…もっと…

 ふらふらと、寝床に戻ろうとすると、いつのまにか従兄弟たちが起き上がっていた。
 けれどその姿は、懐かしいちいさな子供たちではなく、なぜかみな、歳の頃合いがばらばら。
「エレ、まだ、だめだよ。つらいだろうけど、がんばって」
 悲しそうな顔のリュトは、5歳くらいだろうか。
「会いたかったよエレ。謝りたかった…でも、今じゃない。戻らなきゃ…捕まっちゃうよ」
 気まずそうに目を逸らしていた、10歳足らずのシンガは、そう言い切ると、まっすぐエレオノーラを見つめた。
 悔恨と愛情とが混ざり合った、複雑な瞳。
 エレオノーラが言葉を返そうとしたとき、最後のひとり…若い少女がふたりより一歩前に出て、口を開く。
「お願い、エレ。私たちが隠してあげられるうちに…ああ、もう時間がないわ」
 背後を振り返り、不安げに兄弟を抱き寄せると、彼女は涙に潤んだ目をエレオノーラに向ける。
「ほら…呼んでいる。耳を向けて、心を彼らに…思い出して、いまを、現実を」
 現実を。
 その言葉が、彼らの姿が、エレオノーラの意識にかかった靄を吹き飛ばした。
 最期の姿のままに留まっている、大切な家族たち。
 彼らのもとで、安らぎを得る日は来るのだろうか…

(起きてくれ、目を開けてくれ! エレ…俺のエレオノーラ!)

 誰かの声ならぬ声が、エレオノーラの心を強くゆさぶった。


 重い瞼をこじ開けると、くろいふたつの輝きが、まず視界に飛び込んできた。
 吐息がかかるほど近くに、いまや見慣れた顔。
「…ウティ?」
 あまりにも間近すぎて、表情はわからなかったけれど、彼の気配は伝わってくる。
 不安から、驚愕。そしてすべてを押し殺した無感動へ。
 彼はすばやく、猫のようにしなやかな動作で、部屋の隅に退く。
「意識ははっきりしてるようだな。今夜が峠だったとは、とても思えん」
 皮肉な笑みを浮かべると、エレオノーラの横たわる寝台に顎をしゃくる。
「ベルのやつ心配して、ずっと寝ずに看病してた…いまはご覧のとおりだがな」
 椅子に座ったまま、彼女は突っ伏して眠っていた。
 そのほそい腕はエレオノーラを抱きしめるように延ばされていた。
 冥府の使者にさらわれてしまわないよう、守るかのように。
 いとしごを慈しむ母親のように。
 そんなBelldanndyを起こしてしまわないよう、そっと身体を動かそうとすると、自分のものとは思えないほどに重く、違和感があった。
 世界が回るような…船に酔ったあとのような吐き気に襲われ、エレオノーラは再び身を横にするほかなかった。

 ふぅと一息ついたとき、扉が勢いよく開いた。
「おいベル、頼むから無理して、お前まで倒れたり…!」
 妻の身を案じて様子を見に来たらしいJecyは、彼女の姿を見るなり駆け寄ってくる。
 そんな彼の頭に冷水を浴びせるごとく、淡々とした言葉がJecyを止めた。
「寝てるだけだ。病人の前で騒ぐなよ、Jecy」
 こういう言動の端々から、ウティは面識の浅い人々に、冷たい人間だと誤解されることが多い。
 けれどもエレオノーラは知っていた。
 自分が憎まれ役を買って出ることでしか、やさしさを示すことのできない、彼の不器用さを…。
 今も、そう。
 目覚めて間もないエレオノーラと、疲労で眠っているBelldanndyを思い遣って、彼はあえて、動転しているJecyの頭を覚ますためにもっとも手っ取り早い手段をとった…
 それなりに長いつきあいで、ウティの気性を知っているとはいえ、Jecyは顔をしかめて足を止める。
「ああ、すまんな。わかっちゃいるが、可愛い奥さんが疲れ果ててるのを黙って見てられるほど、俺は薄情じゃねぇんだよ」
 氷と炎のように対照的なふたりのやりとりが、ほんのすこし可笑しかった。
 身体は動かさず、乾いた喉をなんとか動かしてみる。
「ごめんなさいJecy」
 エレオノーラの声を聞くと、Jecyは幻聴でも耳にしたかと、首をかしげる。
「大切な奥様を、私のために…」
 それが真実、エレオノーラの言葉と気づくと、彼はウティが止める間もなく、まだ動けないエレオノーラの肩をがっしりと掴み、軽く揺さぶる。
「エレオ! もう起きれるのか?」
 それが心からの懸念からくる所作だとわかっていたから、ほんの少し顔をしかめながらも、エレオノーラはJecyに軽くうなずいた。
 けれどもウティはそれを見るなり、これ以上はないというほどの渋面で、Jecyをエレオノーラから引き剥がすと、冷たく言い放った。
「同じことは言わん。出ろ」
 抜き身の刃のようなその気配に多少怯みつつ、Jecyはウティの肩をかるく叩いて笑った。
「すまんすまん。だがな、エレオを心配してるのは、お前だけじゃないってこった。他の連中だって狩りにも行かず、部屋でやきもきしてたぞ…お前がそうおっかねぇ顔して見張ってるから、ここに入っちゃこねえがな」
 そう言うなり、Jecyは愛妻の身体をやさしく抱き上げ、立ち上がる。
「Belldanndyを、寝かしてくる。お前も少しは休めよ?」
「余計なお世話だ」
 それが彼らなりの配慮とわかっていても、剣呑なやりとりに、エレオノーラは身の縮む思いがした。
 まったく、病人に気を遣うというならば、いまぐらいは控えて欲しい…。



3.血盟のひとびと

水盃―それは
血よりも濃い絆の象徴

けれど本当の絆には
いかなる誓いも必要ではない

それは時として
魂の自由を奪う鎖となってしまうものだから


 エレオノーラの容態が安定したという話が広まったらしく、それまで挨拶とほんの片言程度の交流しかなかった血盟員たちが、次々とエレオノーラの部屋を訪れるようになった。
 看護のためにほぼ常駐しているBelldanndyと、妻のそばに居たがるJecy。
 そんなふたり…おもにBelldanndyと仲のよいグラート、奈菜貴夫妻が、まず大きな花束を抱えてやってきた。
 よく見るとそれは、見た目の美しさだけでなく、香りや花弁などに薬効のある貴重な花ばかり。
「これでよかったのかな。グラにアドバイスしてもらって、わたしが摘んだの…」
 奈菜貴がはにかんだように笑むと、傍らに立つグラートが、うむ、と頷く。
 生来身体が丈夫でなく、刺激に弱いエレオノーラにとっては、とても有難い贈り物だった。
 夫妻が病室に出入りするようになると、今度は彼らを親代わりと慕っているエルクローが、狩場で集めてきた水薬を大量に持ってくる。
「おいおい、こんなに飲ませたら、エレオが腹壊すだろ」
 Jecyがからかうと、Belldanndyがそんな夫をたしなめ、エルクローに微笑みかける。
「こんなにたくさん、重くて大変だったでしょうに。頑張ったわねエルク」
「ううん、ベル姉! このぐらいなら、また持ってくるよ!」
 顔を輝かせて言うエルクローに、グラートが苦笑しながら言う。
「キモチだけで十分だ。頑張りやのお前が本気だしたら、この部屋が薬瓶で埋まっちまうだろ」
「はぁい…とうさん」
 照れながらグラートをそう呼ぶエルクローは、妙に幼げで、そして幸福そうに見えた。
 そんな、家族の肖像のような光景を、エレオノーラが眺めていると…
 どたん!
 勢いよくドアをあけて、少年が駆け込んできた。
「エルク、探したぞ! 薬いるって、怪我したのか!?」
 まだ小柄な身体には重そうな甲冑を身に着けた少年は、かるく息を弾ませながら、手にした袋をごとりと床に置いた。
「これ、塔でかき集めてきた。使ってくれエルク…ん?」
 周りの視線が自分に集中していることに、ようやく気づいた少年は、言葉を切ると、きょろきょろと大きな目で皆を見回した。
 エルクローはそんな少年に近づくと、ぽん、と肩を叩く。
「あのなリオ、ここ、いちおう病室なんだよ」
「えっ!?」
 リオ、と呼ばれた少年は横たわるエレオノーラに気づくと、すまなそうに頭を下げた。
「すいません」
「いえ…気にしないで」
 あまりにも消沈している彼を、どう励ましたものかと、エレオノーラが困惑していると、グラートが豪快な笑い声をあげる。
「まったく、リオはエルクのこととなると、周りが見えなくなっちまうな。エレ、こいつがリオノスだ。エルクの弟分てとこだな」
 その言葉を聞いたとたん、リオノスが露骨に顔をしかめる。
「…俺のほうが、歳、上なんだけどな」
「しかたないじゃない。エルクのほうが、しっかりしてるもの」
 奈菜貴がやんわりと微笑む。
 つられてみんなが笑った。
「ああ、薬がいるっていったのは、ここに寝てるエレさんのためだよ。俺は怪我なんかしてないぞ、リオ」
 え?
 驚いたように目を丸く見開いて、リオノスはエルクローをしげしげと眺め、また、寝台から大儀そうに身を起こしたエレオノーラに視線を移す。
「そかそか…よかった、じゃなくて! えと、エレさん、その…」
 リオノスは安堵に顔を緩めたが、それが、本当の怪我人であるエレオノーラに失礼であることに気づき、すぐさましょげて、うつむいてしまう。
 なんてくるくると変わる表情。嘘なんてとてもつけそうにない、彼の素直さが、エレオノーラの奥底に眠る母性をかすかに刺激した。
「気にしないで。大切なひとが元気で安心するのは、当然だもの」
 無意識のうちにリオノスを手で招き寄せ、ここまで駆けて来たのだろう、乱れた髪を優しく撫でながら、エレオノーラは笑顔で言った。
「これ、私が使わせてもらっても、いいのかしら?」
「もちろん! また持ってくるよ!」
 されるがままに頭をエレオノーラに委ねていたリオノスが、目を輝かせて答えた。
「ほどほどにな。お前ら、限度ってもんを知らねぇからな」
 それまで黙って皆のやりとりを見守っていたJecyが、しっかりと釘をさすと、エルクローとリオノスは、鏡のようにそっくりな表情で顔を見合わせた。
「あは、ほんとうに兄弟みたいね」
 エレオノーラが笑う。するとその場にいた全員が、明るい笑い声をあげる。

―いいな…この輪のなかに、私もいつか、入れたらいいのだけれど。
 エレオノーラはその微笑ましいやり取りを眺めながら、ふしぎと安らかな気分で眠りに落ちていく…。

 久々に夢のない、深い眠りから覚醒すると、さすがにBelldanndyたちの姿はなく、代わりに一組の男女が、エレオノーラを見守っていた。
 はたち前後と見える青年…普段着でも、鍛え上げられた体躯から、一目で騎士とわかる。
 けれどもその顔立ちは、騎士にしては、よくいえば柔和、悪く言うと、少しばかり締まりが足りないような…とにかく、まだまだ精神修養の最中といった様子が窺い知れた。
「よっ。なんか夢見が悪いらしいって聞いたから、話相手にでもなってやろうかと思ったんだが…お姫さんは、今日はご機嫌みたいだな」
 彼はRenyaと名乗り、見た目どおり人当たりがよく、快活で、よくしゃべり、屈託なく笑った。
 その背後では、細身の女性が黙々と、部屋の片づけをしたり、エレオノーラの着替えを持ってきたりと働いてくれている。
 名前を問うと、Trufill、と短く答え、彼女は困ったように微笑んだ。
 どうやらあまり、喋るのは得意でないたちらしい。
 そのぶん、いや倍以上にRenyaがあれこれと話しかけてくれたので、会話に困って沈黙するということは、なかったのだが。
「アレでも腕利きの魔法使いだよTruは。ほっそい身体に似合わず体力あるし、俺たち騎士の無茶な狩りにもよくついてきてくれるんで、重宝してるさぁ。そのへんのひ弱なwizじゃ、まずかなわないだろうなぁ」
 自分のことを指摘されたようで、少なからずエレオノーラは消沈したが、彼にはまったく悪気はないようだ。
 エレオノーラに欠けている天真爛漫さが、ふしぎと憎めない…。

 朗らかに…そして一方的に語りを続けるRenyaに、エレオノーラが律儀にいちいち頷いていると、ちいさなノックの音がした。
 訪れたのは、またもや騎士と女魔法使いの組み合わせ。狩りの帰りにそのまま立ち寄ったのか、ふたりとも武装したままだった。
 これだけ人数が多いと、さすがに把握しきれなくなる。
 せめてそれぞれの外見的特徴と名前だけでも覚えようと、エレオノーラは新たな客人をよく観察してみた。
 Trufillよりいくつか年上と見える、落ち着いた風情の女魔法使いの手には、輝くサファイアの指輪。既婚のようだ。
 では連れの大柄な騎士がその相手か…と思いきや、彼の左手は空。
「たまたま、宿の入り口で出くわしましたのでね。私は亜凛、彼はフラットレイです。エレオノーラ、よろしく」
 訝しげなエレオノーラの表情から、彼女の疑問を敏感に悟ったらしく、亜凛はゆったりと微笑み、会釈をした。
 そしてかたわらの騎士に顔を向けると、さああなたも、と会話を促す。
「フラットレイだ。よろしく…これ、見舞いな」
 彼が荷袋から取り出したのは…パンケーキにあらゆる果物、そして肉…とにかく大量の食料品だった。
「病気のときは、まず栄養つけな」
 豪快に笑う彼に、誰もが唖然として、なんとも返事をしかねたまま、黙り込んでしまった。
 まっさきに沈黙を破ったのは、Renyaだった。
「レイよぉ…ただでさえ鳥みたいに小食で、しかも病気のエレが、んな山盛りの食いモンどうやって消化すんだ? 自分の胃袋が他人の3倍あるってこと、すっかり忘れてるだろ」
 これには皆も苦笑する。
 体型どおりに大食漢だという彼は、宿でも、みなが見るだけでうんざりするほど大量の注文をして、それを軽く平らげてしまうと、あとでこっそり、Belldanndyが教えてくれた。
 その感覚で持ち込まれたのが、この見舞い品というわけだが…いったいどうすれば、捨てずに処理できるだろう?
 顔を見合わせていた一同のうち、Trufillが立ち上がり、抱えきれないほどの食べ物を少しずつ、宿の厨房へと運び込む。
「できるだけ日持ちするよう、厨房の食料庫を間借りさせてもらうことにしました」
 日光と暑さを嫌うエレオノーラの身体を気遣い、宿には常冬のオーレンを選んでいた。おかげで常に冷気を保った食料庫が、ここにはある。
 淡々とした言葉に、エレオノーラが少しだけ起き上がる。
「果物は干しておけば、お粥に混ぜてもいいし、真冬でも貴重な栄養源になりますね。フラットレイさん、ありがとう」
 大きな身体をすぼめて、ばつが悪そうにしていたフラットレイの表情が、ぱっと明るくなった。
「そかそか、食ってくれるか。じゃあまた持ってくるわ」
『もう、いいって!』
 全員の声が、きれいに揃う。


 その日、エレオノーラは、フラットレイの持ち込んだ食材を無駄にするまいと、いつもの倍近い―それでもようやく人並みの―量を平らげたあと、エルクローとリオノスの水薬を飲み、食後には奈菜貴の摘んだ花を浮かべたハーブティで胃を静めた。
 腹くちれば、瞼が緩む。
 自然と普段の警戒や不安もどこへやら、エレオノーラは深い眠りの海へと心を委ねていった。
(ああ、全身が重い…睡魔に呪いの砂をまかれるって、こんな感じなのかしら)
 でも決して不快ではない。
 自分の出生の秘密も何も知らない、無邪気な子供に戻ったような…そんな優しい満足感をもたらしてくれた、仲間たちに感謝しながら、エレオノーラの寝顔はやさしい笑みを浮かべていた。

(これが噂の…ふぅん、別嬪さんやな)
(あんま近づきなや、目覚ますで)
(こんなときでもなきゃ、じっくり拝めんやろ)
(おい、何する気や朱雀、まてって!)

 ―騒々しいなぁ…みんな、まだ起きる時間じゃないでしょ?
 3人の子供たちが、自分より先に目を覚ましてしまうと、寝室はいつも大騒ぎ。
 たしなめるエレオノーラがいないので、寝床で跳ね回ったり、暴れたり。
 あとで片づけをするのはエレオノーラの仕事だから、起きたあとで3人を叱ることになるのだが…それでも、元気のありあまる愛らしい子供たちを見ると、とても怒る気にはなれなかった。
 ひた。
 ひんやりした感触が、頬に触れる。
 子供たちの誰かが、悪戯しているのだろう。
「ん…だめよ…リュト? それともフルール?」
 まだ気だるい身体をなんとか覚醒させようと、かるく身じろぎしてから、目をこじ開ける。
 まず視界に入ったのは、秋の空のようにふしぎと実りのみどりを帯びた、優しい青の瞳。
 頬に触れているのは、女性にしては大きな、男性にしては繊細な、しろいながい指、そして風に揺れる稲穂の黄金を宿した髪。
 驚いて身を起こそうとしたが、動けばその人物―髪と瞳の色から察するに、エルフだろう―にぶつかってしまう。
「…あなたは?」
 訝しげに問いかけると、あーあ、と溜息をつきながら、後ろに立っていた青年…エルフが答えた。
「起こしてすまんね。僕は翠王、そっちは翠朱雀」
 いえ、と首をかるく振ると、朱雀と呼ばれたエルフが少し顔を離して、エレオノーラに笑いかける。
「いい夢見てたらしいな、すまん」
 初対面の女性の寝顔を覗き込むという無礼をしていたわりに、まったく悪いと思っていない朱雀の様子が、かえってエレオノーラの警戒心を緩めた。
 この血盟の人々は、なんて個性的なんだろう。
 スクネにいたころは、誰もがエレオノーラを慕いながら、どこかほんの少し、距離を置いていたようにも思う。
 その頃を思い出すと、ちくりと胸が痛むが、いまここで嘆いても、目の前のふたりに心配をかけてしまうだけ。
 ようやく身を起こせるようになって、頭と共に思い出そのものを振り切ると、ぎこちない笑顔をつくった。
「はじめまして。最初の挨拶がこんなところからで、申し訳ありませんけれど」
 すると翠王が慌てた様子で、手を振った。
「とんでもない! 押しかけたのこっちやし。でもまぁ、聞いてたより回復してるみたいで、ほんとよかった」
 ほれ、と、いまだにエレオノーラをじっと覗き込んでいる朱雀を引き剥がすように下がらせる翠王は、世話焼きで心配性な弟のように見えて…無事成長していれば、リュトもこのように、時折無茶をするシンガの止め役になっていたのだろうな、と、エレオノーラは可笑しいような、悲しいような、複雑な心境になった。
 ふと涙がこぼれそうになるのを、なんとかごまかそうと、ふたりに話しかけてみる。
「おふたりとも、翠、がつくお名前ね?」
 ああ、と朱雀が頷き、答える。
「俺ら、まだほんのガキの頃に森を飛び出して、迷うてな。戻れなくなって難儀してたところを、人間の猟師に拾われて、まあ兄弟みたいに育った。名前もその親父さんがくれた。もっともいい歳だったから、とっくに逝ってもうたが」
 それは…
 悲しい思い出を語らせてしまったのかと、エレオノーラは罪悪感に駆られそうになった…が。
「俺らっていうなや朱雀! 僕は止めたのに、どんどん先行って…あれは朱雀が悪い!」
 憤懣やるかたないといった様子で、翠王が反論した。
 喧嘩になるのでは、と及び腰になったエレオノーラの傍らで、朱雀はかるく笑うと、翠王の頭をぽんぽん、と叩く。
「冒険あっての人生や。ま、さいわいこうして、揃ってピンピンしてるわけやし、森にも一応戻れた。いいやん」
 ぐっと言葉に詰まった翠王。どうやら万事、この調子らしい。
 彼らのちょっと不思議な言葉遣いも、養い親の影響だろう。
「見舞い、遅れてごめんな。これ集めてた」
 朱雀が懐から取り出したのは、数枚の巻物だった。
 閉じたままでさえ、帯びた魔力の強さに光り輝いているそれは…
「看病は他の連中が、十分やってるだろから、エレが回復したあとで、身を守るもんが必要だろ思てな。ふたりで集めてきた」
 その価値をすぐに見て取ったエレオノーラは、慌てて首を振り、ふたりにそれを返そうとする。
「こんな貴重なもの、受け取れないわ」
 しかし翠王の手が、それを改めて、エレオノーラの両手に押し込んだ。
「金とかと違う。これは僕らなりの見舞いやから…受け取って。な?」
 懇願するように言われ、むしろすまなくなって、エレオノーラはこくりと頷くと、それを受け取った。
「まあ元気になったら、労働で返してくれればええやん。魔法使いは貴重なんやから、頼むわ」
 屈託ない朱雀の笑顔につられ、エレオノーラも笑みを浮かべると、手の中の宝物をしっかりと抱きしめた。
 ―あとで…防具に貼ってみよう。どれがいいのかしら…?


 のちに思えば、かれらは寂しがりのくせに、自分からは人を誘うことのできない内気なところが、奇妙に一致していた。
 エレオノーラの件は、そんな血盟員たちが一堂に会する好機だったのかもしれない。



間章.ほんとうのつよさ

強くなければ蹂躙される
強いだけでは蹂躙する

悲しい循環を止めるもの
それを人は、情とよぶ…


 エレオノーラが病床から起き上がり、村のなかを散策できる程度に回復した頃、獅子王が初めて、彼女の部屋を訪れた。
 いままで見舞いに、あるいは他の仲間たちと歓談にやってきていた仲間たちと違い、獅子王の表情はかたく、目つきは厳しい。
 その気配を敏感に悟り、エレオノーラは寝台から離れると、深く頭を下げ、その用向きを問うた。
「エレ、なぜあのとき、龍の正面に立った」
 振り向いたのは、龍のほうだ。
 不意のできごとに、エレオノーラは対応する余裕がなかった。
 そう弁解もできるだろう。
 けれども…刹那の油断は、確かに、あった。
 勝利を確信し、緊張を解いたのは間違いなく、エレオノーラの失態だ。
 まだあのとき、龍は息があったというのに。
「…もうしわけ…ありません」
 エレオノーラは、ただそれだけを答え、唇を噛む。
 快癒したわけではなく、まだ血の気の戻らぬ彼女の顔色が、蝋のように白く変わっていった。
「詫びなどいらん。自分自身が学んだろう、生死を張ったギリギリの世界では、どれほど些細なミスも許されないことを」
 言葉もなく、うなずく。
 その教訓は彼女の心身に痛いほどに刻み込まれていた。
 一ヶ月近くも寝込み、その間にみなはどんどん狩りを続け、成長している。
 ただでさえ実力の及ばない彼らに、さらに差をつけられた焦燥感。
 そして不足がちな魔法使いである自分が、狩りに参加できないことによって仲間たちにかけた負担を思うと、自責の念にかられる。
 …そんなエレオノーラの心をも慰撫するためにも、仲間たちはしばしば、彼女のもとを訪れてくれていたのだが…
 優しさに甘えていては、また同じことを繰り返す。
 心身の弱りきった状態では、それも必要だったけれども、そろそろぬるま湯から抜け出す時期だ。
 獅子王の来訪は、それをエレオノーラに告げるとなく、告げていた。
「当分の間…俺の許しがあるまで、傲慢での狩りにお前は連れて行かない。しばらくは単独で動け。どうもうちの連中は、お前をやたらと甘やかすきらいがある」
「…はい…御命、承りました」
 エレオノーラの返答に、鷹揚にうなずくと、獅子王は無言のまま、去っていった。

 それからほどなく、少しばかり荒い足音と共に、Jecy、Belldanndy夫妻がエレオノーラの部屋へやってきた。
「烈のヤツ無茶言いやがって。病み上がりのエレオをひとりで放り出せるわけ、ねーだろ。構わんから、俺たちと一緒に行こう」
 獅子王への反逆となる発言を平然といってのけるJecyに、Beldanndyもうなずく。
「あんなの、エレさんのせいじゃないもの。気にすることないわ。ね、もう少し回復したら、私達と狩りに行きましょう?」
 優しく手を差し伸べるBelldanndyに感謝しながらも、エレオノーラは、静かに首を横へと振った。
「え?」
 まさか断られるとは思っていなかったのだろう、夫婦が顔を見合わせる。
 それに対するエレオノーラの言葉は、すまなそうで、けれども断固としたものだった。
「大将は、私を追放したわけじゃありません。このままじゃ、私自身にもつらいのだと、気づいてくださったのだと…思うのです。実際、傲慢の塔でああなるまで、私も結構無理をして、疲れていましたから」
 誰にも打ち明けられなかった弱みを、ようやく吐き出すと、エレオノーラは困ったような、でもどこか吹っ切れたような、微妙な笑顔をうかべた。
「聞きようによっては、確かに厳格にすぎるお言葉かも。でも、今の私にとっては、もう少し羽を休めて英気を養えという激励にも感じました。ただ…その間、皆さんのお役に立てないのは申し訳ないし、そんなわが身がふがいないとも、思いますが」
 ごめんなさい。
 そう頭を下げるエレオノーラに、ふたりはかける言葉を失った。
 しばしの沈黙。
 その間に三者は、それぞれの顔を見、自らの心に問い、どうするべきかを考えた。
「だが…」
 懸念ゆえに、なおも食い下がろうとするJecyを、Belldanndyがそっとなだめる。
「エレさんが出した結論に、私達が口を出すべきじゃないわ」
 でも、困ったことがあったら、すぐに何でも言って頂戴ね?
 エレオノーラの手を握り、瞳をまっすぐ覗き込み、Belldanndyはそう念を押すと、Jecyを促し、その場を引き取った。
 感涙に潤んだ瞳を見られたくなくて、かすかに目を伏せながら、エレオノーラは必ず、と頷き、出て行く二人を精一杯の笑顔で見送った…。

 帰ろうとして、廊下にウティの姿を見出したJecyは、苦笑しながら彼に声をかけた。
「なんだ、おまえもか。でもエレオはひとりでやってけるってさ」
 何を思ったか、にやにやしながらJecyが揶揄するように、剣士のほそい肩を叩く。
 ほんの刹那、身を滑らせただけで、それをかわすと、ウティは呆れたように言い捨てた。
「誤解するな。俺は獅子王の言葉が正しいと、伝えに来たんだ。まあその必要もなかったようだがな」
(エレのやつ…いつのまにか、強くなったもんだ)
 初めて彼女を垣間見たときの、あのひたむきな瞳。
 あれこそがエレオノーラの真の姿だと、彼はどこかで感じていた。
 けれども普段の彼女は、自分の至らなさを嘆き、改善点を指摘すれば泣いて反抗するばかりで、正直ウティも手を焼いていた。
 今回の獅子王の命を聞くなり、ウティは彼女が傷ついて出奔してしまうのではないかと考え、とりあえず足を運んだ…というよりも、勝手に動いてしまったわけだが…。
 少なくとも、この血盟ですごした短い時間で、エレオノーラの精神面は、いくぶんか鍛えられていたようだ。

 あとは…
 エレオノーラが単騎狩りをするとなると、ひとつ、大きな問題があった。
 彼女は魔法使いであるくせに、魔物の召喚・従属をひどく嫌っている。

 先輩魔術師に当たるグラート、亜凛は共に、彼女の特性がサモナー(召喚師)向きであることを指摘していた。
 人も獣も、魔物をさえも惹きつける彼女の天性の魅力は、ともすれば魔物に襲われやすい危険な弱点だけれど、それを把握し、鍛え上げ、自分の能力のひとつとすれば、並みの魔法使いより多くの魔物を従えることができる。
 そうすればもっと効率よく、そして早く成長できるはずだ、とすすめたウティに、エレオノーラはふい、と顔を逸らして、抗った。
『私、魔物を連れ歩くのは、きらい』
 生死を張った戦いのなかで、好き嫌いなど拘っていられるはずがない。
 自分の実力不足を自覚してるなら、なおさら、せめて生まれ持った特質を活かす戦い方をしなければならない…そのぐらいは、わかっているはずなのだが。
 かたくななエレオノーラの態度に、ウティの舌鋒もつい鋭くなる。
『亜凛やTrufillの真似をして、怪物どもとタイマンでもするつもりか? 言っとくが、あいつらは武術の心得もあるし、なにより体力がある。人間、できることとできないことがあるんだ。妥協しろ!』
『でも…どうしても…できないことだって、あるわ…』
 怒鳴り返してくるかと思えば、涙の浮かんだ目をこすりながら、エレオノーラはちいさくつぶやいた。
 泣いているところを見られたくないらしく、顔をそむけ、必死に目頭をおさえているが、よほどつらい思い出でもあるらしく、指先にまで伝って落ちる雫が、彼女の虚しい努力を台無しにしていた。
 さすがのウティも、女を泣かせてさらに、怒声を放つわけにもいかず、少々ためらってから、彼女の頬をとらえて振り向かせ、布で涙をぬぐってやる。
 童女のようにおとなしく、されるがままになっているエレオノーラに、大きく溜息をひとつもらすと、ウティは降参だとばかりに、両手を軽くあげた。 
『あぁ、焦れったいやつだな。だったら犬でもいい! とにかく、自分に向かないやり方でどれだけ頑張ったところで、無理が重なるだけだ。使えるものは何でも使え。そして強くなれ』
 ―いまは無理でも、いつか共に背を預けあい、戦えるように。



4.禁断の魔法書

『触れてはいけない』
禁じられた遊びは
なぜかそれ自体
人を妖しく惹きつけてやまない…


 エレオノーラが倒れたのは早春だった。
 けれども狩りを再開できるほど傷が癒えたころには、季節は既に夏…彼女の最も苦手な時期がやってきていた。
 幼いころから日差しに弱いエレオノーラの身体は、成人したいまなお、炎天下に晒されればたちまち熱を出してしまう。
 狩場は自然と、日の射さぬ迷宮の奥深くや、冷涼な森の中、雪山などに限られる。
 しかも不運なことに、最近は海棲の魔物がなぜか、地上にまで現われるようになっていて、これが猟犬を容赦なく攻撃する。
 犬だけを頼りに腕を磨こうと決意を新たにしていたエレオノーラにとって、困難すぎる状況が重なってしまったわけだ…。

 どうしたものかと悩み、宿から悄然と外を見渡すエレオノーラの目に、雪原にあってさえ鮮やかな白さを放つ塔…彼女にとっては第二の故郷ともいえる場所が、はっきりと映る。
 ―タラス様ならば、この事態について、詳しい情報をご存知かもしれない…。
 自然、エレオノーラの足は、塔へと向かった。

 もともと若者と話し、積極的に情報や時代の流れを自分のなかに取り込むことを重んじるタラスだから、門前払いをされることは、まず、ない。
 けれど…
 エレオノーラには、ひとつの大きな躊躇があった。
 タラスの予言によれば、彼女とワシズミが結ばれてアデンの王座に就くことこそが、地上に楽土を取り戻す唯一の道であった。
 それを自ら断ち切り、タラスたちの悲願を奪ってしまったかたちになるエレオノーラが、どのような顔をして、恩義のはかりしれない師匠に会えるというのだろう…?

 懐かしい塔の門前で、どうしたものかと逡巡していると、塔の中からひょろりと、一体のペーパーマンが現われた。
「長がぜひ…お会いになりたいと…ご案内します…」
 弟子の来訪に気づいたタラスがよこした使者だったようだ。
 さすがは千里眼のタラス。その魔力は健在ということか。
 エレオノーラは頷き、吹けば飛ぶほどにはかないペーパーマンを見失わないよう、注視しながらも歩き出す。

 ―こんな裏道があったなんて。
 かつてこの塔を住居としていたエレオノーラでも、知らない道だった。
 面積こそ広くはないけれど、迷宮のように多くの回廊と小部屋で仕切られたこの塔には、隠された通路や部屋がたくさんある。
 それを探検する生徒たちもいれば―もちろん、教師たちの課した禁に触れない範囲で―、建物の構造そのものに魅せられ、卒業後も塔のすべてを解析することを研究のテーマにしている魔法使いもいる。
 身体の芯まで冷える建物にもかかわらず、暖房は最低限しか使っていなかったから、寒さに不平をこぼす若者も多かったが、エレオノーラは頭をすっきりさせ、思索の助けになる冷涼な空気が気に入っていた。
 町や村の喧騒とは程遠い、しんと静まり返った空気、ところどころに魔法の意匠が凝らされた壁や柱…すべてが、なつかしい。
 けれど、タラスは果たして、彼の期待を裏切ってしまった自分を歓迎してくれるのだろうか?
 むしろ叱責されることを覚悟して、エレオノーラはタラスの瞑想室に足を踏み入れた。

「そなたが現われるのは常に、事態の逼迫した折だけじゃのぉ。たまには老人と世間話でもしに来てくれてもよかろうに…薄情な弟子じゃ」
 意外にもタラスの顔は、暖かい笑みにほころび、愚痴を言いながらもその声は、心からの歓迎を隠すこともなく示していた。
「もうしわけございません…ご多忙な師を煩わせたくはないと思ってしまって」
 エレオノーラが戸惑いがちに詫びると、タラスは限りなくやさしく、そして寂しげな、慈愛に満ちた表情と気配とを、共にエレオノーラに向ける。
 普段は完全に微光を隠すタラス老だが、弟子であり、なかば養い子にも近い女魔法使いを安心させるため、そうしてあえて、彼女の心をくつろがせる気配りをしていたのだった。
「おぬしは遠慮が過ぎていかんの。この老いぼれで頼りなくば、誰でもよい。周りにもっと甘え、相談することを忘れるでないぞ。ひとり悩み、苦しんで、最悪の道を選ぶことこそ、おぬしを案ずる全ての者を嘆かせる」
 最悪の道…ワシズミのもとを離れ、こうしていることが、そうだというのだろうか?
 後悔はないつもりだった。
 でもそれは、あくまで自分ひとりの運命であれば、の話。
 エレオノーラの選択によって、凶事が起こってしまうとしたら…
 そんな彼女の懸念を読み取って、タラスはすこし寂しげに言った。
「戻れぬ道を嘆いても仕方あるまい。そなたも、アインハザードの星も、共に苦しんだ。そしてよかれと思い…ゆえに今の結果がある」
 うなずいたエレオノーラの瞳から、涙がひとつぶ、頬を伝う。
 苦しかった。できることなら、すべてを白紙に戻して、歌う島からやり直したかった。
 いえ、もし時間が戻るなら…自分が産まれる前にまで。
 それほどに思いつめて、けれど誰にも打ち明けられず、ただひとり、胸のうちにすべてを押し込めていた。
「よいよい。人払いもしてある。思いのままにお泣き」
 老人にやさしく抱擁され、エレオノーラは幼子のように、声を上げて泣いた…。

「こたびの件、実はこの塔の魔術師であった者たちが関与しておる」
 身内の恥をさらすことになるが…と、前置きしてから、タラスは重い口を開いた。
「書庫から禁断の魔法書がいくつか盗まれ、同時に、塔から魔術師たちの姿が消えた。次元の探求者(ディメンジョナー)タシテ、水使い(ウォーター・マギ)ウルビナ、生命の呼び手(リザレクショナー)スレイ、そして造り手(コンストラクター)アルバの4名じゃの」
 禁断の魔法書…エレオノーラもかつて、それを目にしたことがあった。
 時空を超え、望むものを見渡す遠見の術を使うため、禁を破って、その書物を盗み見た…が、内容はあまりにも広範かつ難解で、当時のエレオノーラでは、必要な箇所を拾い読みするのが限界だった。
 それを読みこなす高位の術者が、4人…
 いったい何を求めて? そして、どうやって?
 泣き腫らした顔を、タラスの与えてくれた湿布で冷やしながら、エレオノーラは考える。
「…外部から手を貸した者がいるのですね?」
 それは問いかけではなく、確認だった。
 塔で学ぶ魔術師たちは皆、最初に塔への忠誠を誓い、塔に対する不利益を行わないよう約する。それは強制ではなく、いかなる呪縛の力もないけれど、自ら立てた誓約を放棄すれば、マナの加護は失われる。
 おそらくは術者自身が、誓いを破る、つまり自分自身を裏切ったことで、マナとのつながりをも断ち切ってしまうためなのだろうと、エレオノーラは考えていた。
 …にもかかわらず、4人が魔力を失った様子はない。
 それどころか、アデン全土に脅威を与えるほどに、忌まわしい力を得ている、と、なれば。
 タラスは悲しげに眉をひそめ、ゆっくりと頷いた。
「彼らの背後にいるのは…」
「言うでない、エレオノーラ。名を口にすれば、呼び寄せてしまう。まして」
 それが実の娘の声ならば。
 破壊神グランカインの気まぐれが、またしてもこの地上を狂わせてしまうのだろうか。
 いったい神々の望みとは、なんなのだろう。
 彼らの気分しだいで一喜一憂する人間を眺め、無聊を慰めること?
 それとも創造が失敗して失楽園となったこの世界を、壊して作り直すこと?

 神ならぬ身に、わかるはずも、ないけれど。

「禁断の魔法書の力で狂わされた魔物の多くは、もともと体内に闇の力を抱え込んでおったのであろう。それが彼らの呪文により活性化された…」
 さすがのタラスも緊張しているのか、薬草茶で喉を潤すと、話を続けた。
「塔でも対策を練るため、会合を開いた。その場でな、こんな提案があったのじゃよ。
『変貌した魔物たちの持つ魔力のかけらを集めれば、禁忌の魔法に対抗し、封印することができる』」
 罠だ。
 瞬時にエレオノーラは悟った。
 闇の結晶体であろう魔力のかけらを、象牙の塔の魔法使いたちが利用できるはずがない。そんな真似をしてしまえば、最悪、彼らのマナ自体が闇に染まってしまう。
 けれど…
 愛弟子の表情を読み取り、タラスはかすかに苦笑した。
「さよう、我らに扱える力ではない。しかし闇の魔を使いこなすものがそれらを集めてしまえば…恐ろしいことになる。使うためでなく、封じるためにこそ、我らが先に、それらを手にいれ、闇の手の者どもから隠してしまわねばならぬ」
 さすがはタラス老、敵の術中にはまったよう見せかけて、実は彼なりの対処法を講じていたようだ。
「じゃがの、混沌の力を得た者どもは強い。おぬしのように、狩りに難儀する冒険者も増えていると聞く…事態を収拾するには、一刻も早く、頭を抑えねばならぬの」
 頭…4人の魔導師か、あるいはさらにその裏の…
「禁断の魔法書を見事取り戻した者には、塔の希少な宝を贈呈するよう、触れを出してある。しかしまだ、この手に魔法書はひとつも戻っておらぬ」
 与えられる宝の内容を聞き、エレオノーラは瞠目したが、熟練の冒険者にとってさえ、魔術師たちの討伐は、いささか荷が勝ちすぎるようだ。
「いくら腕に覚えのある者でも、ひとりふたりで成し遂げられることではない。力を合わせ挑んでくれる勇者がおれば、よいのじゃが…」
 塔を守らねばならないタラスは、自ら動くことができない。
 象牙の塔の魔術師たちも、彼らなりの任を負っている。
 こんなときこそ…冒険者たちの出番となるのに。
 もしかしたら宝の存在が、逆に彼らの欲を刺激してしまったのかも。
 エレオノーラは、ふと、その皮肉を思い、悲しくなった。
 相手はカスパ4導師やネクロマンサーのように容易な相手ではない。
 ばらばらに戦って…下手をすれば冒険者どうしで手柄の奪い合いをしている限り、決して、勝てないだろう。
 タラスに気取られないよう、小さく吐息をつくと、エレオノーラは立ち上がった。
「およばずながら、私も微力の限りを尽くします。いまの血盟の方々は実力者ぞろいですし、知人もいないわけではありません。力を合わせて戦うよう、彼らに頼んでみます」
 その答えを期待しつつも、タラスの表情は曇る。
 以前の血盟の絆を失ったとはいえ、それでもなおエレオノーラの知己は多く、彼らが心を一にして敵に当たれば、魔法書の奪還はかなうかもしれない。
 だが…それはとても、危険なこと。
 ましてエレオノーラは、魂の奥深くに、敵の側に回りかねない爆弾を抱えている。
 できれば…今回の件には、この愛弟子をこそ、近づけたくはなかったのだが。
 こうしてエレオノーラが来訪したことそのものが、運命のはからいなのだろう。
 もはや、後戻りはできまい。タラスも、エレオノーラも。



間章.空と大地

 裏切らないためには
 もう愛さなければいい
 そう頑なに
 誓ったはずだった…のに。


「どうか、力を貸してください」
 塔から戻り、宿に居合わせた数人の血盟員たちに向かって、エレオノーラは深々と頭を下げた。
「いきなりそう言われても…まずは詳しい事情を教えて?」
 奈菜貴に優しく促され、エレオノーラは微かに赤面した。
 確かにあまりにも性急だった。
 エレオノーラは立ち上がり、すぅと深呼吸をすると、皆の注視を感じつつ、禁断の魔法書のこと、それを盗んだ魔術師たちのことを説明した。
 各地に派遣された象牙の塔の使者たちの話より、また街の噂より詳細な事実を、そうして知った血盟員たちは、それぞれに複雑な反応をする。
「ふてえ爺さんだな。まだ裏がありそうだ…が、やってみる価値はあるかもしれない」
 Jecyは凄みのある笑いを浮かべ、立ち上がろうとする。
 しかしそれを、隣に座っていたBelldanndyが押し留めた。
「まって。いくら急ぐといっても、まだ情報はそれで全部じゃないと思うの…裏があるなら、それも確かめないと」
 慎重なBelldanndyと、勇猛なJecy。ふたりは一緒にいることで、それぞれの長所を活かしあい、短所を補っている…決して長くはないつきあいではあるけれど、よく面倒を見てもらったことで、エレオノーラはこの夫婦の性質を熟知していた。
 ふたりが一緒にいてくれれば、心強い。
「うむ。同じ魔法使いといっても、力の差もあれば、得意分野も違う。どこから手をつけていいか、まずは決めていかないと」
 グラートが頷く。
 エルフのJecy・Belldanndy夫妻、ナイトの奈菜貴に魔法使いのグラート、そしてエレオノーラ。
 戦力の均衡は取れている…が、欲をいえば、前衛がもう一人は欲しいところだ。
 あとは…
 その場に居合わせた全員を、なんとはなしに眺める。
 エレオノーラの呼びかけには何も答えないものの、食事をしつつ、おそらく耳を傾けているのは、ウティと永井、亜凛の3人。
 狩りから戻ったばかりのようだが…もともと組んで動くことの多いナイトとエルフの組み合わせに、魔法使いの亜凛が同行しているのは、やはり普段より魔物の数も、強さも厳しくなっているからなのだろう。
 彼らも協力してくれれば。
「あの…」
 呼びかけようとするエレオノーラを、ウティが片手で制した。
「飯を食いながら話せるような、軽い用件じゃないだろ」
 うなずきながら、永井も言葉を加える。
「そうだな、考え事しながら食うのは消化にも悪い。エレ、あとでちゃんと聞くよ」
「あ…ごめんなさい」
 確かに非常識だった。
 焦っても、いますぐ出発できるわけではないのだから、他の血盟員たちも交えて、改めて話をするべきだろう。
 そう思い、その場を引き取ろうとするエレオノーラを、亜凛が呼び止める。
「何よりも、エレ、そんな無理をして大丈夫なのですか?」
 その静かな言葉に、喧騒がぴたりとやんだ。
 エレオノーラは病み上がりの身体…そんな危険な戦いに連れて行って、いいのだろうか?
 誰もが困惑する。
 禁断の魔法書から魔物を呼び出し、操っている魔法使いたちが、傲慢の塔の怪物どもよりたちが悪いのは目に見えているというのに。
 しかしエレオノーラは、きっぱりと彼らに言った。
「言い出したのは私です。ご迷惑かもしれませんが…どうかお連れください。この目で見届けなければ…」
 決して、信用していないわけではない。
 ただ…これは、使命感。
 発端が塔にある以上、塔の魔術師であるエレオノーラは、すべてに終止符を打たねばならない。それがタラスの、願いでもある。
 長老その人から直々に依頼を受けたエレオノーラなしでは済まないのだ。

「……」

 誰もが言葉に詰まり、場の空気は重い沈黙に包まれる。
 それを破ったのは、奥の卓で読書に耽っていた魔法使い、京江だった。
「もともと魔物の存在じたいが、この世界に含まれている因果律でしょう。極端な話、放っておいても世界が滅びるというわけではない。結論を焦らず、王子のいるときにでも、また話してみてはどうですか?」
 普段は話し合いの席にあっても、促されない限り意見を述べることなく、けれどもあらゆる情報を漏らさず見聞きし、心にとどめている。京江はそんな、寡黙な青年だった。
 アデンよりさらに北方の血を引くという、氷のように淡くつめたく澄み切った水色の瞳が、一同をゆっくりと見回し、頭を冷やすよう無言のままに訴える。
 彼の出した正論に、誰もが半ば胸を下ろしつつ、その場は解散となった。

 エレオノーラも、久々の外出に疲れた身体を休めるため、自室へと向かい、着替えも忘れて、寝台にどさりと横たわる…。

 過ぎた疲労と心労とは、人の眠りを浅くする。
 ちいさなノックの音は、夢もみないほどに疲れていたはずのエレオノーラを、まどろみから現実へと呼び戻した。
 寝乱れた衣服を整えると、ちいさく扉を開け、相手を確認する。
「…ウティ」
 こんな、夜中に。
 なにごとかと尋ねようとするエレオノーラを制し、彼は扉を素早くすり抜けると、後ろ手に閉ざした。
「もしかして、力を貸してくれるの?」
 問いかけると、ウティの鋭い瞳に険しい光が宿る。
「ばか、逆だ。止めに来たんだよ。おまえ、どうして獅子王が憎まれ役を買って出てまで、傲慢に行かせまいとしたのか、わかってるのか?」
「…」
 エレオノーラは言葉に詰まり、目を逸らした。
 完全な正論であるだけに、あらがいようがない。
 でも…でも。
「私じゃないと、だめなのよ。タラス老が私を選んだ以上、それには必然性がある。運命を動かす要素が欠けてしまえば、歯車が狂ってしまうわ…」
 既にそれをしてしまった自分。
 運命の子と共に楽土を築き上げねばならなかったのに、世界を、タラスの夢を…そしてもしかしたら、両親さえも裏切ってしまった。
 そう容易くつぐなえるとは、思っていない。
 けれども、少しでも、役に立つことがあるならば。
「…ごめんなさい、疲れてるの。休ませてもらっていいかしら」
 それ以上何も聞く気はない、そう示すように、エレオノーラはウティに背を向ける。
 ところがウティはその腕をぐっと掴んで、無理やり振り向かせ、抱き寄せた。
「なに…するの!?」
 言葉はない。
 けれどもウティの強い強いまなざしは、彼の思いを雄弁に語っていた。
 死ぬんじゃない。
 かつては手の届かない存在だった。
 どうあがこうと、彼女はスクネ血盟のもの、その君主のもの。
 彼が救うことも、触れることもかなわなかった。

 しかし運命の皮肉が、彼女を旧い鎖から解き放ち、彼の属する血盟へと放り込んだ。
 日々口実をつけては共に狩りに出かけ、ちいさな諍いを繰り返しながらも、決して目を離すことなく、彼女を守り続けてきた。
 初めて出会った頃のような、死の危険を繰り返させないために。

 いつしか、ウティは気づいていた。
 エレオノーラへと向かう、自分の心に。
 そして…

 抱擁を拒む彼女に、ウティは静かな声で問いかける。
「なぜいつも、自分自身を痛めつける?」
 初めて出会った頃のような、優しい口調。
 それはエレオノーラを少なからず動揺させた。
「痛めつけて、など…いないわ」
 痛くなど、ない。
 エレオノーラは逃げ出そうとするむなしい努力をやめ、独り言のようにつぶやいた。
「私は運命の織り目のひとつとして、作られただけの存在。自分自身のものなど何一つ、ないの。身体も心もなにもかも、自由になどなりはしない」
 いまこうして、捕まっているように。
 過去も現在も、そして未来も。
 どこか投げやりなエレオノーラの態度が、ウティの癇に障った。
「おまえはその努力をしていないだろう。足掻きもせず、自由は手に入らないぞ…いいかエレ、運命だの神だのは逃げ口上だ。神なぞこの世にいない。祈るのは気休めだ」
 突然、エレオノーラは弾かれたように笑い出す。
 どこか金切り声めいた、それは聞くものを不快にさせる悲しい笑いだった。
「神がいない? いいえ、あなた間違ってるわ。だったら私もこの世に存在しないことになるもの!」
 哄笑しながら、エレオノーラは続ける。
「噂を聞いたことはない? 破壊神の血を引く者がこのアデンにいると…わが父の名はグランカイン。父が人間との間につくりあげた、破壊のための道具。それが、この私…」
 ウティの脳裏に、雪山の光景がまざまざと蘇る。
 真紅の世界。
 虐殺に酔い痴れる、魔物よりも魔に近い、逢魔ヶ刻の幻影。
 あれは…たしかに、エレオノーラだったのだ。
「そう、私はひとであって、ひとでないもの。神々のたぐる糸に踊る操り人形」
 舞うように軽やかな動作で、エレオノーラはウティの腕をすり抜けた。
 そして歌うように、呪文を詠唱するかのように、口はことばをつむぎ、ほそい腕は絡み合う糸を手繰るように、ゆらゆらと揺れる。
「創造と破壊の狭間にある、このちいさな世界。神々の御心の間に揺れる天秤。人間のささやかな営みなど、錘のひとつにすらならないわ…」
 あまりにも美しく、不吉な彼女の独演が終わると、ウティは冷笑を浮かべ、言った。
「そうかな?」
 眉をひそめ、なにか反論しようとするエレオノーラを制し、彼はさらに続ける。
「…神がいないと言ったのは、存在するかどうかじゃない。いないと思え、頼るな、という意味だ。自分の感情が何もないわけじゃないだろう。怒りもすれば笑いもする、涙も流す…俺の前で、あなたは素直だったぞ、良くも悪しくも」
 それは事実だった。
 狩りの仕方で反発しあい、それでも成果があがれば喜び、仲間が傷つけば悲しんだ。
 彼の前で、エレオノーラは確かにひとりの人間だった。
「そして人の心は、ままならぬものだ。確かに自分の意思とは違った方向に向かうこともある…自覚がないとは、言わせない。あなたは俺を愛しているはずだ」
 瞬間、エレオノーラの動きのすべてが、止まった。
 四肢も、瞼も、呼吸も…もしかしたら、鼓動さえ。
 それはエレオノーラという名の、命なき彫像のようにも見えた。
 触れればもろくも崩れ去る、砂でできた美しい仮のかたち。

 再び彼女の時が動き始めるまで、おそらくは、ほんの数秒。
 けれどもふたりの間には、永遠とも思える隔たりが、あった。

「たいした、自信ね。どんな根拠をもって、そんなことを言うのかしら?」
 愛される理由。
 そんなものを、自分から主張できる人間は、すくないだろう。
 ところがウティは、何の躊躇もなく、即答した。
「俺はあなたを愛している」
 歩を詰めると、彼はエレオノーラの頬を両手で包み、彼女の瞳を覗き込む。
「こうしてあなたを見ると、俺の心があなたの目に映る。そして同じものを、あなた自身も映し返している。それを感じるから、俺は自分の心に問う…得る答えは、ひとつだ」
「ちがうわ」
 逃げるように目を閉じ、エレオノーラは言う。
「私は鏡。この瞳は幾重にも心を映して迷わせる万華鏡。きらめく想いの破片は時に歪んで、覗き込む者の望む幻影となる…」
 だからもう、私を見ないで。
 この目があなたを惑わせているというならば、私はそれをあなたに閉ざそう。

 エレオノーラが身を引き、ウティから逃げ出そうとすると…
 ふいに、唇に熱い感触があった。
「んっ…!」
 はなして!
 もがこうとしても、脆弱な彼女の腕では、鍛え抜かれた戦士の身体をおしのけることなどできない。
 くちづけが、抵抗する力そのものを奪い取ったように、エレオノーラはぐったりとウティに身をもたせかけた。
「…ひどいわ」
 ちいさな抗議に、ウティはあっさりと、言い放つ。
「男の前で、無防備に目を閉じたりするからだ」
 つめたい言葉とは裏腹に、腕の中の華奢な身体を抱きとめる手は、壊れ物を扱うようにやさしく、エレオノーラの長い黒髪をそっと撫でていた。
 その快さに酔ってしまいそうになる自分を抑えつけ、エレオノーラは硬い声で応じる。
「…私、誓ったの。最初の恋に破れたときに。もう誰も愛さない、誰も…私のせいで傷つけたりしない、と」
「…」
 かたくなに目をそらしたままのエレオノーラから身を離すと、ウティは軽く吐息をついた。
「それは正しいが、間違ってもいるな。あなたはもろい…傷つけることより怖いのは、自分が傷つくことだろう」
 指摘され、エレオノーラは唇をきつく噛み、なにかをこらえるように身を震わせたが…抑えきれずに、叫んだ。
「それがいけないの!?」
 顔をあげ、ウティの目をまともに覗き込んだエレオノーラの瞳には、幾重もの傷、幾多の喪失の悲しみが宿っていた。
 ふと心を緩めれば、ふさがりきらない心の傷口からは、涙という血の雫が溢れ出す。
 決して忘れることなどできない。
 けれどもそれに浸り、かなしみに心を委ねる弱さを認めることは許されず、彼女は常に自分を厳しく制して生きてきた。
 時として、このまま感情など消えてしまうのではないかと思うほど。
 でもそれが、強くなるための代償ならば、払わねばならない…。
 だからこそ、時々たがの緩む自分が許せなかった。
 人の温情に触れるたび、傷口を晒す自分がやるせなかった。
「私はもう戻れない道へと踏み出してしまった。だから強くあらねばならないわ。もっともっと…誰にも弱みなど、さらけ出さずにいられるように」
 愛など要らない。心を許す相手など、居てはならない。
 どのような運命に翻弄されるとしても、それに巻き込まれる相手はもう、いないほうがいい。
 悲壮ともいえる、決意だった。
 ところがそれを、ウティは一笑に付す。
「傷口を隠してれば、強くは見えるさ。だがそれは本当の強さじゃない…傷を乗り越えて生きるには、それから目を背けるのではなく、受け止めることが必要だ。違うか?」
 痛すぎる指摘だった。
 止めようとしていた涙が、堰を切ったようにとめどなく流れては落ち、エレオノーラとウティ、ふたりの服を濡らしていく。
「そばにいる。必要なら、この命、あなたにやろう。だから逃げるな。強くなれ、エレオノーラ」
「…ほんとう、に?」
 怯える獣のように、声までも震わせて、エレオノーラが問う。
「ほんとうだ…結婚しよう」
「…!」
 感極まり、泣きながら胸にすがりついてくるエレオノーラをきつく抱きしめ、ウティはもう一度、彼女にくちづける…。

 深更のしずかな空気が、熱を帯びた肌にやさしい。
 外の森では、鳥の声。カッコウか、それともナイチンゲールか。
 湖のように穏やかな、いつになく満たされた気分を不思議に思いながら、エレオノーラは傍らに眠る彼を、そっと見つめる。
 偶然の出会いだった。
 最初のそれを、彼女自身は覚えてすらいない。
 なのに…彼は、ほんのひとめ、垣間見ただけの彼女を、心に焼き付け、ついにはこうして手に入れてしまった。
 なんて、ひと。
 くすりと笑うと、エレオノーラは床に落ちた毛布を拾い上げ、彼の身体を優しく包み込む。
 いつもいつも、鋭く気を張り続けているウティの、わずかな安らぎのとき。
 その傍らに、自分が在ることができるのが、妙に気恥ずかしく、また誇らしくもあった。
 神に、運命に、抗えとも従えとも、彼は言わなかった。
 ただ…自分自身であれ、と。
 思えば、そう言ってくれた人々は、何人もいたはずだった。
 人のエレオノーラ、魔のエレオノーラ…いずれも彼女であることに変わりはないと。
 けれどもそれを、彼女はかたくなに拒んでいたのだ。

 やっと…こころがそれを、ほんの少し、認めることができたような、気がする。
 実現できるかどうか…他のなんでもない、自分はただのエレオノーラだと言い切ることができるか。
 まだ、自信はないけれど。

『俺は鳥だ。目指すのは魂の高み。それを追って、どこまでもどこまでも翔けていく…』
『ならば私は、大地に根ざす樹になるわ。あなたが疲れて宿りを求めたときのため、枝を精一杯伸ばして、いつでも受け入れられるよう』

 眠りに落ちるまえ、ふたりはそう言い交わした。

 天へと向かう者、地に待つ者。
 ひとつに融けあうことは、決してないだろう。
 それでも、互いを求め合うことは、できる。
 鳥が羽を休めるとき。樹木が風に揺れるとき。
 それぞれのときが重なれば、ほんのわずかなあいだでも、互いを確かめ合うことができる。
 いま、こうして、共にいるように…
 

5.はやすぎる別れ

そばにいてくれさえすれば
他になにもいらなかったのに。

それとも、わたしは
自分自身のこころに
嘘をついていたのだろうか?


 翌朝、他の者に見咎められないよう、ウティはたいそう早起きをして、エレオノーラの部屋の扉を…あけようと、した。
 ところが、その足が、ぴたりと止まる。
「例の、魔法使い討伐の件だが」
 振り向くと、心持ち声を潜め、ウティが言った。
 夢見心地に寝台から見送るエレオノーラが、悲しげに微笑む。
「いいの、気にしないで。あれは…どちらかというと、私のワガママだから。いまの私があるのは、タラスさまのおかげなのに、私は何も、恩師に報いていないから…少しでも、役に立ちたいって、思ったの」
 大事な仲間を…獅子王の臣であるひとたちを、巻き込んでいいことでは、ない。
 エレオノーラが言葉を切ってうつむくと、ウティはカツカツと寝台に歩み寄り、そっと…ほんとうにそっと、彼女の頬を叩いた。
「ばか。それならそうと、素直に言え」
 狐につままれたように、呆然とウティを見上げるエレオノーラ…その顔つきは幼子のようにあどけなく、無防備だった。
 そんな彼女の、新しい顔を発見し、ウティはかるく笑いながら、エレオノーラを諭した。
「いいか、命令だの、塔への義務だので動くんだったら、俺たちにとってはいい迷惑だ。だがな、この血盟で、一度誓いを立てた者は、家族も同然」
 エレオノーラは、かぞく、と、口のなかでその言葉を反芻する。
 表情を引き締め、ウティが頷いた。
「おまえが親孝行したいっていうんなら、血盟員の誰にとっても、それは大事な孝行だ。ちゃんとそう話せば、重い腰をあげるやつは、いくらでもいるだろう…俺のように、な」
「…いいの?」
 瞳をうるませ、自分を見つめる未来の妻に、ウティはくちづけで応える。
「そばにいる、そう言っただろう。いまさら一人で飛び出したりするなよ。地獄まででも追いかけてやるぞ…おい、泣くなよ」
 わっと泣きながらウティの胸にすがりついたエレオノーラは、しゃくりあげながらも、なんとか声をつむぎだす。
「うれ、しい…一緒に、いてね。いまも、これからも、ずっとよ?」
「…ああ」
 彼女を抱き寄せ、改めて誓うと、ウティは気配をひそめて部屋から出て行った。
 その背中を、いまだに止まらぬ涙で頬を濡らしながら、エレオノーラが見送る…。

 翌日、寝不足と疲労で、エレオノーラは狩りを休み、午睡をとっていた。
 いつになく満ち足りた気分で床についたはずだったが、夢は容赦なく彼女の心を蝕む。

 押し寄せてくる闇のなか、エレオノーラはただひとり。
 ここはどこなのか…
 つめたい壁、明かりのない洞窟。
 エレオノーラは記憶をたどった。
 ―ギランケイブ。
 単騎の狩場に困っていた彼女が、ウティに連れられていった場所だった。
 上層部に現われるグールやオークゾンビは動きが遅いので、犬を使えば、体力のないエレオノーラでも狩りがしやすい。
 それで何度も足を運んだが…
 いま彼女がいるのは、なじみの薄い最深部。
 上層とはまったく違い、炎を吐くケルベロス、弓と魔法で遠くからでも攻撃してくるダークエルフ、そして魔法使いの天敵ガーストがうろつくそこへ、エレオノーラが踏み込んだのは、たった一度。
 まだスクネに籍を置いていたころ…好奇心旺盛な仲間たちに連れられて…
 そして、悲劇が起きた。

 忌まわしい記憶を断ち切るように、エレオノーラは頭を振ると、出口を求めて歩き出す。

 遠くから、音が聞こえた。
 死者の呪いに満ちた唸り声。
 それを避けようとする意志に反し、エレオノーラの足は、勝手にそちらへと動く。

 ―いや、行きたくない!

 でも、行かなければならない。
 そこで…誰かが、彼女を呼んでいる。
 エレオノーラは、声にもならないその悲痛な訴えを、どうしても見捨てることができなかった。
 震える身体を、怯む心を、なんとか意志の力でおさえつけ、さらに奥へと進んでいく。

 ふいに、視界が開けた。
 広い場所に出た、というよりは、誰かの…あるいは、なにかの持つ照明のあかるさが、そう感じさせたのだろう。
 亡者の群れに囲まれた少女がひとり。
 そして少し離れたところに、対峙する魔術師と騎士。

 騎士は主君であるらしき少女のもとへ駆けつけようとするが、魔術師は巧妙に回り込み、それを阻む。
 少女はけなげにも、輝く槍を使いこなして戦っているが、多勢に無勢。
 四方を亡者に囲まれている彼女が斃れるのは、もはや時間の問題だった。
「姫…お逃げください!」
 騎士の苦鳴も、少女の耳には届かない。

 ―助けなければ。

 エレオノーラは駆け寄り、治癒の魔法を唱えようとしたが…間に合わなかった。
 死の大鎌が一斉に、彼女へと振り下ろされ…
 断末魔すらなく、少女はその場に倒れ臥した。
 かりそめの命で動いていた、紙人形のように。

「ばかな…こんな」
 ちいさく呻いた騎士の手から力が抜け、何かが落ちる。
 金色の、ちいさな箱。
 それを見た魔術師は哄笑し…杖から魔力の矢を放ち…
 箱を、砕いた。

 ―だめ! それは…それは…

「!」
 エレオノーラは寝台から転げ落ちそうになり、慌てて姿勢を整えた。
 まっくらな部屋に、少し戸惑いながら、手探りで明かりを探す。
 ほんの少し…疲れを取るだけのまどろみのはずだった。
 ところが外は深淵の闇。
 宿の階下からいつも聞こえてくる、晩餐の喧騒ももはやない。

 ―行かないと。

 ただの夢かもしれない。
 けれど…あれがもし、予知のたぐいであったなら。
 ほんのわずかな躊躇が、すべてを手遅れにしてしまうかもしれないのだ。
 それに…
 なぜかはわからないけれど、あの少女を死なせたくはなかった。
 守ってやりたい。たとえ自分自身を犠牲にしてでも。

 ―だって、あのこは…

 その先は、自分自身でさえ、わからなかった。
 ただ焦燥が命じるまま、急いで旅支度を整え、部屋の扉を後ろ手に閉め…そして、思い出す。
 一人で行くなと、彼は言った。
 でもこんな無理を、はたして聞いてくれるのだろうか?

 それでもエレオノーラの足は、かのひとの寝室へと向かった。

「わかった。少しだけ待て。準備する」
 事情も問わず、ウティはそう答え、エレオノーラを自室へと招き入れた。
「…いいの?」
 おそるおそる問いかけると、彼は振り向き、苦笑いを浮かべる。
「止めても無駄って顔して、いいも駄目もないだろう」
 まあ、と、ウティは荷袋をかつぎあげながら、付け加える。
「危険に晒したくないとかなんとか言って、ひとりで抜け出さなかっただけでも、よしとしてやるさ」
 剣を握る手にしては驚くぐらいにほそく、長い指が、エレオノーラの髪を優しく撫でる。
「…離れたく…なかったの…」
 聞こえるかどうかも危ういほど、ちいさな声で答えると、エレオノーラはウティの後に従って歩き始めた。

 夏の夜も明けきらぬ黎明どき…まだ4時を回ったところだろうか。
 階下には誰もいないと思ったエレオノーラは、そこにひとりの青年を見出し、驚きに目を瞠った。
「京江さん…?」
 向こうも少なからず動揺しているはずだが、応じる声はまったく冷静な、いつもの彼のものだった。
「おや珍しい。この時間は人気がないので、勉強にも狩りにも向いているのですよ。気づかれたなら、感心…といいたいところですが…」
 どうも、違うようですね。
 深刻な様子のふたりを一通り観察してから、京江はただ、ふたりの目を見つめる。
 ごまかすことも、できたろう。
 そして彼は、その偽りにもただ頷き、ふたりを見送るだろう…
 でも、そうしたくはなかった。
 無言でウティに問うと、好きにしろ、という肯きが返ってくる。
 エレオノーラはすぅと息を吸い込むと、思い切って、言った。
「ギランケイブに…魔術師タシテを、討ちに参ります」
 しばしの沈黙の後、京江は薄明かりのなか、読んでいた本を閉じた。
「…なるほど? 昨日、いえもう一昨日になりますか…そう言っていましたね。それにしても、随分と性急な」
 他の仲間を放り出して、あなたは、行くのか。
 無言の凝視が、そう訴えている。
 エレオノーラはいくぶんかためらいながらも、正直に打ち明けた。ここに及んで隠し事をしても、何の利益もないだろうから。
「…夢を…見ました。あれはたぶん、警告だと思うのです…時間がない。夜が明けるのを待って、みなを説得し、普通の経路で向かっていては、間に合いません」
 だから最小の人数で、迅速に。
 ところが京江は、エレオノーラをまっすぐ見つめたまま、問いかける。
 まったく感情のこもらない冷静な眼差しは、どこか彼女を怯ませるものがあった。
「…それで? ひとりやふたりの力では、魔術師たちにかなわない…そう仰ったのは、あなたの口ではありませんでしたか。急いては事を仕損じますよ」
「…」
 しばらくの間、睨みあうように、ふたりは対峙していた。
 ウティは何も言わず、ただ静かにそれを見守っている…。

「昔の故事をご存知か」
 唐突に京江が口火を切った。
「三人寄らば文殊の知恵、と申します。及ばずながら、私の如き弱輩でも、お供すれば三人。なにか奇跡が起こるかもしれませんな」
 やれやれ、とばかりに立ち上がると、京江はエレオノーラたちに、すこし待つよう言い渡してから、宿の階段を上がっていった。

 旅装を整え、戻ってきた京江を前に、エレオノーラはまだためらっていた。
 多分、かなり無理をさせてしまうことになるだろう。
 それになにより…エレオノーラは京江と共に狩りをしたことがない。つまり、彼の腕は未知数。
「よいのですか、京江さん…私は与えられた運命に逆らおうとしています。それがどれほど危険なことか」
 警告なら、まだ、いい。
 しかしあれが、確定した未来…あるいは、すでに起こってしまった現実であるならば。
 エレオノーラは予知の能力に優れているほうではない。
 いままでも、夢でみたのはほとんど、まさにそのときのできごと。
 夢というよりは、眠る身体を放り出して、彼女の魂がはるか遠くへと彷徨い出て目にした光景に過ぎなかった。
 しかし京江の声は、あくまで冷静な…冷徹にさえ、聞こえる独特の響きをまったく失ってはいなかった。
「その夢に、私は出ていましたか」
 意外な問いに、エレオノーラは夢を反芻し、ただ首を横に振る。
「ならば、不測の要素が加わったほうがよろしいかと。未来とはうつろうもの。小さな石つぶてひとつでも、湖に大きな波紋を生じます。私はそのつぶてとなりましょう」
 まさしく湖水のように静かな表情を、ほんの一瞬やわらげると、彼はウティへともの問いたげな視線を向けた。
「あなたなら、邪魔にはなるまい。助かる」
 ウティがかるく目礼したので、エレオノーラはまたも目を丸くした。
 彼は礼節を重んじるたちではあるけれども、自分より実力に劣るもの、あるいは心根の歪んだものに対し、決して頭を下げはしない。
 京江はそれに値する…すなわち、ウティが敬意を払うほどの相手ということだ。
 天の配剤、なのだろうか。
 それは今まで、エレオノーラに辛く当たってきたけれども。

 ギランケイブに強力な魔物が出現し、倒したものに報酬が約束されているのは、大抵の冒険者が知っていること。
 道を急ぐのは、エレオノーラたちだけではなかった。

 そして運命の糸車は、過去と現在、未来をも取り込んで、不可思議な糸をつむいでいく。

 真夏の日差しがエレオノーラを著しく消耗させるため、3人は昼近くなると、木陰で休息をとることにした。
 誰も何も言わず、ただ熱い風が吹きすぎ、さやさやと音をたて、草木を揺らしていく。
 他に人や獣の気配はなく、あまりにも静かな…嵐の前の静けさのようなひとときだった。
 ところが。
 どさり!
 突然、重い物音がした。
 なにごとかと、3人はそれぞれ立ち上がり、身構える。
「…あっちだ」
 いちばん気配に敏いウティが、物音の方向を示すと、真っ先に駆けて行く。
 エレオノーラが白い外套を羽織り、その背後を守るように京江がついていくと…

 森の妖精…エルフが、ふたり。
 まだ幼い容姿の…つまりは冒険者としても、経験が浅かろう少女が傷ついて倒れ、そのそばで、同行者らしき青年が魔物と戦っている。
 青年の弓の腕は見事なもので、おそらく助勢は不要と思われた。
 けれども少女の怪我を放置するのは、エレオノーラの性にあわず、近づいていくと、癒しの呪文を唱え、やさしく少女に触れる。
 幸い、傷は浅かったらしく、呪文で意識を取り戻した少女は、エレオノーラを見ると戸惑いながらも、にっこりと微笑んだ。
 ほどなく敵をすべて倒したエルフの青年が、少女の容態を確かめに来る。
「かたじけない。なんとお礼を申したらよいか…あなたは」
 名を問われていることに気づき、エレオノーラは答えた。
「エレオノーラ、と申します」
「ふむ…そのお名前は…聞き覚えがある」
 青年は瞑想するかのように、しばし目を閉じると、ああ、と一声漏らして笑った。
「ネミダをご存知でしょう。戦仲間でしてね、あなたのことも聞き及んでおります。さすがは麗しき癒し手」
 なつかしい、けれど痛みをともなう、かつての称号を口にされ、エレオノーラは複雑な表情で応じる。
「それは過去の手柄に過ぎません。いまは血盟も移り、未熟ゆえに主君よりお叱りをいただく日々です…」
 悲しげに目を伏せる彼女の肩にそっと触れ、エルフの青年は、いやいやとんでもない、と穏やかな声をかけた。
 エレオノーラは一瞬、不躾ともとれる青年の所作に身を震わせたが、彼女以上に剣呑な風情のウティと京江を見ると、ふたりを制するようにかるく手をあげた。
(いいの、だいじょうぶ)
 声にならない意志が通じたのか、ふたりはそれぞれ、得物にかけた手を下ろす。
 それでも緊張したまま、青年の一挙手一投足を油断なく見守っていた。
 そうとも知らず、青年はいかにも嬉しそうに、三人に対し一礼する。
「ああ、名乗りもせず失礼しました。私は伯符、この娘は妹分のようなもので、雪葉と申します。お見知りおきいただければ」
 エレオノーラから離れた伯符は、彼女の背後に控える剣士と魔法使いに、自分の左手を…弓の持ち方からして、どうやら利き手を差し出し、握手を求めた。
「京江と申します」
 少々ためらいつつも伯符の手を取った京江とは対照的に、ウティはそれを辞去した。
「…ウティです。大事にならず、幸いでした」
 言葉こそ慇懃なものの、エレオノーラに対する馴れ馴れしくも見える動作が彼の勘気に触れたのか、表情も声音もどこか堅くるしく、伯符に対する警戒心をはっきりと示している。
(落ち着きなさいウティ。気持ちはわからないでもないが…我々には、彼らの力が必要だ)
 京江は血盟員どうしの簡単なそぶりで、ウティに素早く、彼の考えを伝えた。
(剣士と魔法使い…それにエルフが加われば、勝率は格段に上がる。彼らを利用することを考えなさい。個人的な感情は、あとで解決すればよいでしょう)
 一理あると考えたのか、ウティはしばし京江を見遣ると、ひとつ、ちいさく肯いた。
(………了解した。この場は、任せる)

「ところで」
 緊迫した空気に気づいているのかいないのか、伯符はおもむろに口を開いた。
「旅の途中とお見受けしますが、目的は…もしや我々と?」
 疑問というより、確認のための問いかけだった。
 彼らが今いる場所は、ギランの町からギランケイブへと続く街道。
 さらに先へ進めばハイネの街だが、旅人は危険な、あるいは時間のかかる街道を進むより、手間のないテレポータを利用する。
 仲間ふたりを見比べつつ、エレオノーラが肯くと、伯符はこれぞ天の助け、と破顔する。
「噂の魔術師と手合わせしてみたく思い、ここまでやってきたまではよかった。ですが我らふたりきりでは、あまりにも心許ない…よろしければ、随伴させてはいただけまいか?」
 得たりとばかりに、表情は変えないまま、京江が答える。
「旅は道連れと申します。ご覧のとおり、こちらには弓の使い手がおりません。むしろこちらのほうから、お願いしたく思っていたところです」
 伯符は思いがけないところで得た同行者たちに、深々と頭を下げた。
「これは有難い! では改めて…『知の礎』伯符と『ひとひらの華』雪葉です。つたない弓の腕なれど、お役に立てば幸いです」
 雪葉と呼ばれた少女は、知らぬ間に話が進んでいることに困惑を隠せないまま、かたわらで容態を確かめるエレオノーラに、遠慮がちな笑みを向けた。
「がんばります…どうか、よろしく…」
 野を駆ける小鹿のような少女の愛らしさに、こちらこそ、と優しく笑顔を返しながらも、エレオノーラは、妙な不安を感じてもいた。
 あまりにも、うまく話が運びすぎている。
 どこかに落とし穴はあるまいか?
 魔力のかけらを集めよという、象牙の塔へ与えられた秘策自体、おそらくは罠。
 ならば、それを仕掛けた存在が、彼女に夢を見せ、役者を揃え…
 ―まさか。
 考えすぎに、ちがいない。エレオノーラは深く嘆息した。
 疑心暗鬼になっているのだ。
 いろいろなことが…ありすぎて。

 以後の道中は、さらに楽に、そして速やかに進んだ。
 ギランケイブの周りには、蜘蛛やダークエルフが、時として多数現われることもあり、これが陸路を厄介にしているのだが、にわかづくりのパーティはそれらを難なく倒していった。
 ことばを交わさずとも、それぞれが自分の役割を既に心得ている。
 魔法が厄介なダークエルフは、エルフたちが弓で仕留め、ウティは蜘蛛に切りかかる。
 雷の魔法がこめられた魔力の杖で、蜘蛛の注意を魔法使いから逸らす手際も見事だった。
 冒険者としての経験を積む、ということは、どんな構成のパーティに混じっても、自分がそこでどう立ち回るか…それを身に着けていくことでもあるのだと、彼らは身をもって示している。
 敵を倒し、装備を整え、高位の呪文を覚えていても、それだけでは何の役にも立たない。
 もとより体力のない魔法使いが、単独でできることなど、たかがしれているのだから。
 それをエレオノーラは目に焼きつけ、体感し、実践する。
 血盟の絆に頼らない狩りは新鮮でもあり、またいつになく緊張するものでもあった。

 ケイブの中に入れば、戦う敵が変わり、するべきこともまた異なる。
 狭い通路で弓を使うのは難しいため、時にはエルフたちも炎の魔法を放ったり、回復の補佐に回ることもあった。
 敵の数が多いときには、生ける屍であるオークゾンビやグールを、エレオノーラや京江が魔法で天に還す。
 下層ではガーストの毒が、魔法使いにとって致命傷であるために、ウティが絶え間なく剣を振るうことになった。
 
 ―そういえば、あのとき…揉め事になった原因も、ガーストだったような。

 過去、エレオノーラが一度だけこの下層にやってきたとき、単独で狩りをしている魔法使いに、変身を強要された。
 仲間に守られていた彼女は、その必要性を感じなかったけれども、ひとりで戦っていれば、誰もガーストの毒から自分を守ってくれるものはない。
 変身し、ガーストの注意を自分から逸らす。
 それだけが唯一の自衛手段だった。
 ところが他の冒険者たちが周りにいると、怪物は暴走し、近くにいる相手を敵と誤認して襲い掛かってくる…
 あの争いは、互いの不理解と、こちらの勉強不足が原因だったのだ、と、改めて思い知らされた。

 ひとのこころを変えることは至難。
 けれども知識を磨き、いらぬ衝突を防ぐことは、できる。
 闇の力に頼らずとも、生きていけるよう、もっと研鑽を積まなければ。

 エレオノーラが胸に堅く誓った、そのとき。
 四方から黒い影が音もなく現われ、彼女を取り巻いていく。
「デス…いや違う、レブナントだ! ターンは通じない!」
 京江の度を失った叫びを、エレオノーラは初めて耳にした。
 それほどに事態が切迫していることを悟り、すぐさまウティは魔法の杖を振るい、エルフたちは弓を引き絞る。
 エルフふたりの光陰の矢と、ウティの放った雷鳴が、それぞれレブナントの動きを止めた。
 しかし…残る一体は大鎌を振り上げ、容赦なくエレオノーラのかぼそい身体を引き裂く。
「エレオノーラ!」
 間髪入れぬ京江の呪文で一命は取り留めたものの、致命傷ともなりえたその一撃は、エレオノーラの心身に少なからぬ衝撃を与えた。
 ふらつく身体を京江に支えられながら、エレオノーラの頭は割れ鐘のように痛む。
 これまでの経験で、それが警報であることを、彼女は知っていた。
 まだ…くる。もっともっと、強い敵が。
 彼女の五感を、いや第六感さえ超えたどこかを刺激した敵の気配に衝き動かされ、エレオノーラは叫ぶ。
「ウティ、右!」
 同時に、ウティの剣が虚空を薙ぐ。腕には確かな手ごたえ。
 布と肉とが裂ける忌まわしい感触は、幾度味わっても慣れることがない。
「…さすがと、申し上げましょうか」
 かすかにくぐもった、笑い声が、聞こえた。
 空間であったはずのそこには、一人の男が立っている。
「冒険者どもの大半は、わがしもべに惑わされ、私に気づきもせず息絶えていったものを…さすがは姫君、と申し上げるべきか」
 フードに隠された魔術師の目は、射抜くようにエレオノーラを見据える。
 同時に仲間たちの視線も、彼女へと集中した。
 それがどこか痛くて、エレオノーラは一歩後退り、震えながら目を伏せる。
 おねがい…出てこないで。
 意識の奥底で、もうひとりの自分が微かに蠢くのがわかる。
 エレオノーラは眼前の魔術師だけでなく、仲間の不審と、そして自分自身とも戦わねばならなくなった。
 そんなエレオノーラから目を移し、他の4人を一瞥すると、魔術師は宣言した。
「…しかしそれがゆえに、あなたがたは、苦しみに満ちた死を迎えねばならない」
 どこか喜悦に震えるような声は、もしかしたら、より強い敵を求めていたのかもしれない。
 人の手が羽虫を握り潰すように、容易な殺戮に飽きて。
 修羅の道を選んだものの、それは悲しい宿命だった。

 せめぎあうふたつの意識の狭間で、エレオノーラは幻覚をみる。
 重なり合う夢と現実。
 亡者に囲まれた少女はエレオノーラ自身に。
 魔術師と対峙する騎士は、4人の仲間たちに。
 ―これで…未来を変えられたのだろうか。
 それともいま、こうしていることこそが、巧妙に仕組まれたシナリオだったのか。
 わからない…けれど、そんなことに思いを馳せている余裕は、ない。
 戦わなければ。仲間たちと共に。

「雑魚は任せた」
 ひとこと言うなり、閃光の如く、ウティが動いた。
 一気に歩を詰め、魔術師に斬りかかる。
 ところが負傷しているとはとても思えない機敏さで、魔術師…タシテはそれをかわした。
 くるりと身を返すと、手にした杖でウティを殴打する。
 たかが杖の一撃…ところが受け止めた鋼鉄の鎧は、その威力にたわみ、ウティの顔が苦痛に歪む。
「フォーススタッフ…!」
 京江がつぶやく。
 使用者の魔力を吸い上げ、物理的な力へと変えてしまう、魔性の杖…希少な宝重ではあるものの、その諸刃の剣にも似た扱いの難しさゆえに、使いこなせる者は、アデン全土にもわずかだという。
 タシテの得た絶大な魔力を餌としたその杖の一撃は、おそらく生半可な騎士の剣をはるかに凌駕する…。
 仲間たちが驚嘆に目を瞠るなか、エレオノーラはすばやく治療呪文の詠唱を終えていた。
 ところが癒したと思えば即座に、魔術師の痛打がくる。
 息つく暇もなく、エレオノーラはただひたすら、呪文を唱え続ける。
 それはさながら、祈りの歌のようだった。
「…」
 どれだけ手傷を与えたところで、それを癒されてしまえば、きりがない。
 この場における、最大の障害を悟ったタシテは、ほんの一瞬手を止め、命令を待って立ち尽くす亡者どもに、やれ、と命じた。
 一斉に鎌を振り上げ、レブナントが再び、エレオノーラへと集中する。
「いかん!」
 伯符が弓をつがえ、雪葉もそれに倣う。
 京江は刹那、躊躇した。
 相手は4体、放たれる矢は2本。このままでは、エレオノーラがレブナント2体に襲われてしまう。
 本来なら、エレオノーラがウティの治療に集中しきっている以上、彼は他の仲間を…そしてエレオノーラを癒すため、魔力を温存するべきだ。
 しかし魔法使いのなかでも特に脆弱なエレオノーラが、レブナント2体の猛攻に耐えられるはずもない。
 ―危険な綱渡りだが…やむをえまい。
 彼は短く魔法の言葉を述べると、意識を一点に集中する。
 そこから白銀の霧が溢れ出し、レブナントたちが一斉に、苦悶の唸りをあげた。
 たとえ主命といえども、自分の身にふりかかる脅威を無視してまで、女魔術師を襲い続けることはできない。
 レブナントたちの注意は、エルフふたりと京江とに逸れた。
「京江さん…」
 無茶を、とエレオノーラの目が訴える。
「詠唱を絶やすな! 治療に専念なさい、それがあなたの務めだ」
 京江の意外にも鋭い檄に、すこしだけ怯んで身を震わせながらも、エレオノーラは覚悟を決めて、アインハザードへの賛歌を再開する。
 ―それでいい。
 京江は素早く頷いてみせると、自分を襲うレブナントから身をかわしつつ、時には足を止めてエルフたちに、そして消耗するエレオノーラに治療を施した。
 彼らの絶妙なチームワークは、タシテに強敵とまみえる喜悦と、手こずらされる焦燥感とを共にもたらした。
 亡者であるレブナントに、癒しの呪文は効かない。ゆえにタシテは攻撃に専念し、眼前の剣士と戦いつつ、隙をみて冒険者たち全員へと火球を放つ。
 フォーススタッフの影響か、火球の威力は決して大きくはなかったが、受けた傷に足が止まると、レブナントが追いすがってくる。
 その繰り返しがどれだけ続いたろう…両者の戦力はあまりにも拮抗していた。
 しかし人であることを捨てたタシテと、命なきレブナントが疲れを知らずに攻め続けてくるのに対し、冒険者たちは少しずつ、けれど確実に疲労していく。
 やがてエレオノーラが消耗しつくし、呪文を途切れさせ、昏倒した。
 もともと彼女は光より闇にちかしい存在、アインハザードの加護を乞うのは本来以上の魔力と精神力を消耗する。
 それでもなお、限界すら超えて、癒しを続けたのは…ひとえに愛する人を守りたい、その一念あってこそ。
「エレ!」
 ウティの注意が、逸れる。
 タシテはその隙を逃さなかった。
 突然杖を放り出し、手刀を、ウティの利き手に、叩きつける。
 ごとりと、音がした。
 床に転がるのは、ウティのレイピア。
 そしてそれを握っていた…腕。

 ウティは、がくがくと震えだす。
 右腕が熱い。
 全身が冷たい。
 身体中の血が右腕から噴き出していくような、気がした。
 さすがの鉄の意志もくじけ、膝を屈し、崩れ落ちる。

 既に床に臥していたエレオノーラの視界が、真紅に染まる。
 ウティの血のいろ。
 剣士が利き腕を失う…それはすなわち…

 現実から目を逸らすため、薄れていく意識。
 それをエレオノーラは、無理に引き戻した。
 いま倒れてしまったら…全滅する。
 かわりに彼女は絶叫した。
 魂そのものを振り絞るように。

「いやあああ! ウティっ!!!!」

 誰も動かない。
 彼女の慟哭は、敵味方のすべて…空間さえも凍りつかせた。
 ただひとり、エレオノーラだけが、鉛より重い身体を鞭打って、鮮血に服がまみれていくのも構わずに、ウティの腕へと近寄り、拾い上げる。
「いま…なおしてあげる…」
 まだ…間に合うはず。
 ほんのわずか残された魔力のすべてを、彼の癒しへと注ぎ込もうとした、そのとき。

 「生者の魂を狩れ…希望を絶望に…」
 タシテの手から、忌まわしい冷気の霧が放たれる。
 それは見る間に、ウティの斬りおとされた腕を包み込み、凍らせて…崩壊させて、しまった。

「あ…」
 たとえ治癒魔法の達人といえど、失われたものを再生させることは出来ない。
 魂の離れた亡骸を、蘇らせることができないように。
 ―とくん、とく、とくっ…
 もはや身になじんだ、あの鼓動が、エレオノーラをやさしい絶望の闇へ押し流し、呑み込んでいく。
 もはやそれに抗う気力は、なかった。

 さらに追い討ちをかけるように、タシテは彼女の前に膝をつき、慇懃に述べた。
「尊いお方、あえて御身に楯突いたるは、御身が使命を忘れ、人間などに加担した報いですぞ…お戻りなさい、人の心など捨てて」
 ことばだけは礼を保っているものの、エレオノーラに対する敬意のかけらもない態度…けれどもそれにさえ、もはや彼女は関心をもたない。
 虚ろな目で、ただ自分を見上げるエレオノーラを冷たく一瞥すると、タシテは立ち上がり、低いひくい声で、呪いのことばを唱え始めた。
 地獄の底から響くような音の繰り返しは、失血で意識を失いかけたウティの心を、いいようのない不安で満たしていく。
「京…江…! 止めろ…エレが…」
 自分に応急手当を施す京江に、かすれた声を振り絞り、ウティは請願する。
 みなまで言わせず、すばやく京江は立ち上がった。
 詠唱を止めるとしたら…手段は、ふたつ。
 呪文が完成する前に相手を殺すか、沈黙の魔法で黙らせるか。
 前者は不可能に近い…そう判断し、京江はタシテに向かって駆け出した。
 サイレンスの呪文は、術者の笛のような囁きが、相手の耳に入る距離でなければ効果がない。
 かかればその威力は絶大だが、術者の身を危険に晒す、難しい魔法だった。
 そして相手も、象牙の塔で修行を積んだ熟練の魔術師。
 タシテは京江の行動をたやすく読み取ると、レブナントに顎をしゃくる。
 ようやく我に返り、援護する伯符と雪葉の努力もむなしく、京江は行く手を阻まれ…
 タシテの声はゆっくりと、洞窟全体を満たしていく。

 ところが不意に、すべての音が、消えた。

 居合わせた者全員が、奇妙な感覚を覚える。
 真昼の空の下から突然、星明りひとつない闇夜に放り出されたような…見えながらにして視力を失ったような無力感。
 すべてが『黒』に塗り替えられていく。
 それは人間の魔術師にすぎないタシテの力を大きく凌駕し、呑み込み、瞬く間に掻き消してしまった。

 誰もが見るともなく、一点へと注意を引き寄せられる。
 そこには…闇が在った。
 エレオノーラという名の、巨大な闇が。

「おぉ…!」
 タシテは彼女を目の当たりにするやいなや、恐怖と畏敬に身を震わせ、がっくりと膝を落とし、両手を床についた。
 もろくもやさしき魔法使いの仮面が崩れ、闇の女王となったエレオノーラは、ゆっくりと立ち上がり、血糊のついた黒髪をわずらわしげに振り払う。
 誰もが、彼女をただ、見ていた。
 意識のすべてが吸い寄せられ、逃れること、かなわない。
 この場ではただひとり、ウティだけが、エレオノーラのその顔を知っていた…雪山にいた魔女。鮮血と劫火と夕陽の、限りなく赤い世界で、ただ一点の黒でありながら、世界そのものを呑み込むほどに、世界を染め上げてしまうほどに際立った、闇。
 血が凝るように停滞した時のなか、エレオノーラの唇が、おもむろに言葉を吐き出す。
「…そなた」
 呼ばれ、タシテは恐縮し、額さえも地に擦り付ける。
「わたくしに…この鬼神エレオノーラに、何の権あって命ずる? わたくしがこうして人の世に在るは、父上さまの思惑あってのこと。そなた風情に指図される謂れは、ない」
 地の下の、奥深い迷宮の中…
 なのに、その場に居合わせた全ての者は、己が身を貫く、烈しい稲妻を感じた。
 身体には、何の外傷もない。けれども全身の神経そのものを痛めつけ、狂わせる…それは、そんな衝撃だった。

 鬼神の冷たい怒りに打ち据えられ、誰もがその場で硬直するのを、エレオノーラは何の感情もこもらない眼差しで眺めていた。
 ほんのわずか、圧する力を強めれば、すべてを消し去ることも、できる。
 今の彼女にはそれが可能だった。
 内面で悲鳴をあげる、もうひとりのエレオノーラの声に耳を貸しさえ、しなければ。
 ―そうしてやろうか。
 タシテがこの世に存在し続けることを、ゆるすつもりはない。
 巻き添えになる命がほんのいくつか加わったところで、構うことはないだろう…

 ところが。

 ―たすけて!

 エレオノーラの心の闇を、ひとつの悲鳴が切り裂いた。
 かすかな苛立ちをおぼえ、彼女はそちらに意識を向ける。
 いつのまに隠れていたのか、少女がひとり。そして…
 ―あれは…父上さまの。
 人間が死霊の箱と名づけたグランカインの玩具…名とは裏腹に死と切り離され、救済なき永劫の苦悶に閉じ込められた無数の魂が、解放のときを待ち続けている。
 しかし、いかなるからくりによってか、魂のうちのひとつが、箱からそとへと現われ、女騎士のかたちをとって、少女の傍らに控えていた。
 平素の…父グランカインへの忠誠を何より優先する彼女なら、『それ』をどうするか、どうすれば父が最も喜ぶかを、真っ先に考えたことだろう。
 けれども…箱よりもなお、エレオノーラの心をとらえたのは、少女のほうだった。
 その面差し、放つ微光、そして少女の心の声。
 不思議なことに、すべてが彼女との濃すぎるほどに濃いつながりを示していた。
 いかなる者の悪戯か、まだ存在するはずのないその少女は、いま確かに、ここにいる。

(ああ、私は…あの子を守るために…ここへ)

 衝撃に耐えかね、自ら心の檻へと逃げ込んだはずの『エレオノーラ』が、身体の支配を再び取り戻そうと、動き出す。
 ―だめ。あれはいま、わたくしが干渉すべきものではない…いかなるものの手が背後にあろうとも。
 今は、忘れなければ。へたに関われば、あの少女をかえって危険にさらしかねない。
 もうひとりの自分が不承不承、納得したのを確認すると、エレオノーラは、ふたつの存在を心から締め出し…掌握した意識のうちのひとつに、思念を集中した。

 まばたきひとつできない…思考さえ支配されているような苦しみのなか、居合わせた人々は、それを確かに見た。
 タシテであったはずのものが、悲鳴すらあげる間もなく、砂と化して崩れ去るのを。
 禁断の魔法に手を伸ばし、人知を超えた魔力を得たはずの男。
 しかし彼ですら、鬼神の前には、まさしく塵芥にすぎない…
 仲間であったはずの、エレオノーラの変貌は、残された4人に消えることのない感情を刻み付けた。
 その名を…恐怖、という。

 そして召喚者を喪ったレブナントたちもまた、かれらの在るべき場所へ…おそらくは闇の奥津城へと、消えていった。

 すべてはあまりにもあっけなく、終わった。
 延々と続いた死闘を、意味のないものにして。

「鬼神、エレオノーラ…それが、あなたの真の姿か」
 唐突に、ウティが沈黙を破った。
 エレオノーラはうっすらと笑む。
 だから言ったはず、神は確かに在り、自分とはその操り人形にすぎないのだと。
 皮肉な微笑の奥で、彼を愛したエレオノーラは、慟哭していた。
 知られなくなかった。見られたくなかった。
 せっかく想いを通わせあったばかりだというのに。
 いつかは、と思っては、いた。
 けれどもそれは、あまりにも早すぎて…彼女にはまだ、覚悟ができていなかった。
 狂わんばかりに泣き叫ぶ自分を感じながら、鬼神エレオノーラは、静かに言う。
「いずれは二世をと約したそなたでも、わたくしを恐れるか。それも…やむなきこと」
 仲間の目は、彼女のやみいろの心にさえ、鈍い痛みをもたらした。
 わかっては、いたのだ。
 生かしておけば、彼らは間違いなくエレオノーラを恐れ、厭うようになる。
 だからこそ…消してしまおうかと、思った。
 しかしウティは、そんな彼女をまっすぐに見、訥々と答える。
「恐怖、か…遠からず、だが、当たらずだな」
 くだらぬ嘘を。
 痛みを怒りに変え、エレオノーラはウティを睨む。
 しかしそれに怯えた風もなく、どこかシニカルな笑みをつくると、ウティは続けた。
「たぶん、俺は見るべきではないものまで、見てしまったんだろうな」
 あくまで冷静な口調の裏で、ウティは自分自身の鋭さを半ば呪い、半ば嗤っていた。
 ただただ、鬼神である彼女に恐怖しているだけならば、まだ続けられたものを。
 鬼神とは別の存在として、人間である、あまりにもかよわく、どこか幼いエレオノーラを愛し続けていられたものを。
 しかし彼は、もう知ってしまったのだ。
 鬼神エレオノーラと人間エレオノーラが、まぎれもなく同一の魂、ひとつの存在であることを。
「あなたの中には底知れない、人間そのものへの愛情と憎しみがある…それを俺一人で、受け止めきれる自信は、あいにくない」
 それを認めるのは、正直、悔しかった。
 ほんの数日前に立てた誓い。受け止める、そばにいてやると約したその言葉が、これほどもろく崩れ去るとは。
 彼女はまたも、深く深く傷つくだろう。
 だが、わかりきった結果を先延ばしにしても…無意味。
「その大きすぎ、広すぎる情をすべて叩きつけられたら、俺など吹き飛んじまう」
―俺は…あなたに憎まれたくないんだよ。そこまで強くは、なれないのさ。
 自分の中にひそんだ脆さ。エレオノーラを愛するが故に、彼女は自分にとって致命的な弱点となってしまった。
 彼の鋭敏な知覚はそれを見過ごしてはくれず、だからこそウティはあえて、この場で決意した。
 手当てを受けた傷の痛みよりなお強く、利き腕をなくした喪失感よりなお深い、言いようのない苦しみを抱えながら。

「さよならだ、エレオノーラ。俺なぞ忘れて…今度こそ、いい男を見つけろよ」
 ―おまえは男運が悪いから、少しばかり心配だが…
 そのままウティは恋人であった女性に背を向け、歩き出す。
「何処へ」
 エレオノーラは、自分に背を向け歩き出すウティに、短く問うた。
 答えはない。


間章.いま かえりこむ

立ち別れ 因幡の山の 峰に生ふる
待つとし聞かば 今帰り来む

―いかな遠き空に在ろうとも、望まれるなら、直ちに戻りましょう…それが、誓いだから。



 それからエレオノーラは、自分がどうしたのか、まったく覚えていない。
 気がつくと宿の寝台のなかだった。

 すべては、夢だったのか。

 ―いいえ…
 だったら、どれほどよかったことか。
 エレオノーラはそれから、ただただ寝台のうえで、砕けた記憶の断片を引き出しては、繋ぎ合わせ続けた。
 時間の感覚など、とうにない。
 眠ることも、食べることも、なにもかもがどうでもよかった。
 時折人の気配を感じたけれど、すべてはただ、忌まわしいだけ。

 怯える瞳があった。
 ふたりの妖精は、エレオノーラの変貌を目の当たりにして、ひたすらに彼女を恐れた。
 別れの挨拶もそらぞらしく、彼らはすぐさま、その場を立ち去っていった。

 それから…どうしたろう。
 彷徨い歩いたような気がする。
 喪った愛を捜し求めて。
 あのひとはきっと、どこかで疲れを癒しているだけ。
 私が見つけ出すのを、待っているはず。

 まっくらな迷宮のなかを、いつまでも、いつまでも、歩き続けた。
 足がもつれるのも構わずに。
 しまいには疲れ果てて、倒れ…

 そんなエレオノーラの身体を、誰かが抱きとめた。
 あれは誰だったろうか。
 正気をなくした彼女をずっと、離れずつかず、追い続けていたのは。

「エレさん…エレオノーラ」

 名を呼ばれている。それだけは、わかる。
 けれども、応えることもわずらわしい。
 何かが口のなかに運ばれ、それを飲み下す。
 数回それが繰り返され、口元を拭かれる感触があった。
 誰が、なにを、なぜ。
 脳裏をかすかによぎった疑問は、すぐ心の闇のなかへと消えていく。

 そしてまた、エレオノーラの意識は記憶の迷い路へと没入する…

『いつまで、こんな状態で放っておくの? エレさん、このままじゃ死んでしまうわ』
 聞き覚えのある声が、ぼんやりと響く。
『いつまででも。彼女が自ら、心を開くまで』
『…』
 重い沈黙。無力感に打ちひしがれる気配。
『しかし、ウティのやつはどこに消えちまったんだ。あいつさえ戻れば、エレもきっと』

 それはありえない。
 ウティはもう、戻っては来ない。
 わかっては…いる。
 なのに。


 Constellation血盟の人々は、困惑を禁じえずにいた。
 京江に抱えられ、戻ってきたエレオノーラは、外界からかたくなに心を閉ざしきっていた。
昏々と眠り続け、いかなる刺激にも反応しない。
 それでも自衛の本能だけは、過剰なほどに強くはたらいているらしく、彼女の眠る部屋の扉は、魔力によって堅く閉ざされ、そこへ人が立ち入ることを許さなかった。
 ただひとり、京江だけを除いて。 
 その京江ですら、誰か同行者がいると、扉を開けることはできない。
 必然的に『眠り姫』の世話は、彼の担当となった。

 京江は血盟員たちに、ひととおりのあらましを説明した。
 ただし、エレオノーラのもうひとつの姿を除いて…そこは、彼女のなかに秘められた、非常に大きな魔力が暴走した、というだけにとどめた。
 無闇と人に知られていい事柄ではあるまいと、判断しての隠し事だった。
「おそらくウティを失ったことだけではなく、生死を共にした相手から恐れられてしまったことも、彼女が心を閉ざした原因でしょう」
 だからこそ、京江だけが、彼女に近づき、触れることが出来る。
 すべてを見届けながら、エレオノーラから離れていかなかった、唯一の存在だから。
 それを聞き、みなが嘆息した。
 ―自分もそばにいれば、見捨てたりしなかったものを。
 ―いや…そう言い切れるだろうか。京江の見たものを、自分は、知らないというのに。

 それぞれの思いは複雑に交錯し…けれどエレオノーラは、戻らない。

「やっと、傷が治りかけたばっかなのにな」
 Renyaが煙草の煙を吐き出しながら、溜息をつく。
 彼にしては珍しく、深刻な風情だが、誰も驚きもからかいもしない。
 そんな余裕も、なかった。
「どうして? どうして…こんなことになってしまったの」
 Belldanndyが堪えきれず、顔を覆う。
 立て続けに傷つき、倒れ臥したエレオノーラ。
 前は、みなの見舞いを喜び、時には自分自身の疲れも厭わず、狩りから帰った者を労い、出かける者には励ましの言葉をかけていた。
 血盟に加わってから、それほど経たないというのに、気がつくとエレオノーラは、みなを出迎え、見送る『家』になっていた。
 事故の結果とはいえ…おそらく誰もが、そうした存在を求めていたのだろう。
 そしてエレオノーラの気質はそれに向いていた。

 ところが今回は…京江のほか誰ひとり、病室に立ち入ることすらできない。
 見舞いどころか何もできない…その無力感が、みなをどうしようもなく苛立たせる。
「わたしたち…どうしたらいいのかしら」
 奈菜貴が悲しげに、京江へと訴える。
 彼の責任でもなんでもない…むしろ京江がいたからこそ、エレオノーラを連れ帰ることも、その後の看病もできたわけだが、ほかの誰に、何を問えばいいのかもわからず、みなが京江へと質問、詰問を浴びせかけた。
 それらにまったく動じることなく、京江は常に同じ答えを繰り返す。
「心の傷は、目に見えないぶん、非常にやっかいで奥の深いものです。エレさん自身が生きようと思い、遊離している魂を自分の体内に引き戻すまで、我々にできることはただひとつ…彼女の生命維持。それだけです」
 理解はできても、どうにも歯がゆい…
「いっそのこと、荒療治するか? 意識が抜け出してるといっても、さすがに自分の命が危なくなったら、戻ってくるだろう」
 獅子王の言に、男性陣は一理ある、と首をかしげ、女性陣は顔色を失う。
 しかしそれを、京江は即座に否定した。
「不可能ですね。彼女はいまや、自分の命に対する関心などなくしています。むしろそのまま死なせてくれと、なんの抵抗もしないでしょう」
 ―それだけなら、まだ、いい。
 冷静な態度を崩さず、けれども内心、京江は主君の無謀な提案に…万一実行されたとき起こりうる結果のひとつに、確かに怯えていた。
 『エレオノーラ』は、彼の言葉どおりの行動をとるだろう。何もせず、死を受け入れるという、行動を。
 だが…あの黒い女王は。
 自分に向けられた刃を、彼女は嬉々として振り払うだろう…人間への憎悪をさらに深めて。
 そして『エレオノーラ』の抑制から解き放たれた彼女が、どれほどの破壊と殺戮を繰り広げるか…京江にも想像は、つかない。
「なら、どうしろというんだ!」
 珍しく声を荒げる獅子王をなだめるように、さらに全員を諭すように、京江はもう一度、繰り返す。
「待つことです。…今は自分の悲しみに溺れていても、いつかはエレさんも気づくでしょう。これだけの人が、自分の帰りを待ち続けていることを」

 待つ、というのは、何もしない、ということではない。
 エレオノーラの眠る部屋の前を通るたび、みな足を止め、しばし祈るように目を閉じ、そして去っていく。
 そんなささやかな努力でも、せずにはいられない、というように。
 獅子王でさえ、夜明け時に狩りへでかけるたび、エレオノーラの部屋の前にひとり、ひそかに立っているのを、京江だけは知っていた。

 ところが日が経つに連れ、京江の甲斐甲斐しい世話があってなお、エレオノーラの身体は衰弱し始めた。
「非常によろしくない経過ですね。これでは緩慢な自殺だ。食事を拒否しないのが唯一の救いですが…それもだんだん、受け付けなくなってきている」
 さすがの京江も表情を曇らせ、それが皆に、どれほど眠り姫の容態が深刻であるかを思い知らせる。
「エレさんは、身体より心を守ろうと、自衛本能のすべてを、外界の拒絶に向けています。せめて逆転してくれれば…身体を維持しなければ、心も喪われてしまうのだと、彼女が気づいてくれれば」
 いったい彼女の魂は、今頃どこを彷徨っているのだろう。
 誰もが知りたい答えだった。
 心に直接訴えることが、できたなら…
「…実は」
 おもむろに、亜凛が口を開いた。
「エレオノーラの魂の所在を探ってみたのです。ところが結果は」
『この世のどこにも、彼女はいない』
 それが亜凛の得た回答だった。
「まずいんじゃないのか? もし、他の次元との間にでも迷い込んでたら、自力では帰ってこれないぞ…」
 高位の魔法使いは、得意分野の偏りこそあるものの、他の職種ではまるで及ばない広範な知識を持っている。
 主に攻撃を得意とし、しばしばパートナーである奈菜貴より先に突っ込んでしまうグラートであっても、こと知識に関しては、京江や亜凛、エレオノーラに劣るところはなかった。
 グラートの渋面に、京江が深く頷く。
 扉の前で腕を組んだまま、みなの話を聞いていた獅子王は、大きく頭を振って注視を集める。
「本人に生きる気がないのなら、もうどうしようもあるまい…京江、そろそろ」
 諦めて、復帰しろ。
 言いかけて、獅子王は口を閉ざす。
 京江のいつにない熱く鋭い眼差しが、そのことばを出すことを許さなかった。
「戦力として私が欠けていることが、血盟にとっても損害であることは、わかっています。ですが…もう少しだけ、続けさせてください。そう…せめて次の月が欠けるまで」
 人体の大半は水分で出来ている。そのせいか、月の引力が人の心身に多大な影響を与える、ともいわれている。
 満月がもしかしたら、エレオノーラの心をも引き寄せてくれはしないだろうか。
 そう考えたすえ、京江は期限を切ったのだった。

 満月まで、時間はほんの数日。
 誰もが焦り、自分に出来ることを模索しだした。

 奈菜貴は京江に毎日、病室へ飾るよう、花束を手渡した。
 以前エレオノーラが喜んでくれた白い花。
 本来、春の花であるそれを集めるのは難儀だったけれど、夫グラートが文句ひとつ言わず、彼女を手伝った。
 エルクローにリオノス、フラットレイは、さまざまな土地へ狩りにでかけ、水薬や貴重な食物をかきあつめては亜凛に手渡し、強力な治療薬の精製をできないかと頼み込んでいた。

 翠朱雀、翠王のふたりは、日夜火山で、不死鳥(フェニックス)の出現を待ち続けた。
 古い伝承に、フェニックスの尾羽は死者をも呼び覚ます魔力を帯びているという。
 ならばエレオノーラを覚醒に導くこともできるかもしれない…ふたりは、それに賭けようとしていたのだった。

 ある朝、京江はエレオノーラの病室の前に、一枚の札が貼ってあるのを見つけた。

『まつとしきかば いまかへりこむ』

 迷子になった猫が帰ってくるという、民間のまじないだ。
 誰が貼ったものか…京江はすぐ、その筆跡に気づいた。
 自分の血盟員を猫扱いとは…失笑しつつ、それだけ王子ですら必死なのだと思うと、どこか切なくなった。

―エレさん、あなたを、これほどに皆が待っている。


6.隠棲

いとしいあなたと、どこまでも
ねむるときには、かたわらに
めざめたときは、ほほえんで

そのささやかな願いのためなら
私は…全てを棄てよう。


 なにか、きっかけさえあれば…ほんのわずかでも、彼女の心を現実に向けるものが見つかれば、治癒はまだ間に合うはずなのだ。
 エレオノーラは、つらい現実から逃げ出してはいても、自害まではしていない。
 たとえそうする気力がないだけだとしても、生きている限り、まだチャンスはあるはずだった。
 しかし京江は、エレオノーラのことを、あまりにも知らない。
 彼女を魔法使いとして育てた塔の長タラスならば、いろいろと情報を握っている可能性は、あるのだが。
 ―いってみようか。
 そう思いつつ、躊躇しているうちに、時は容赦なく流れ去っていく。

 月が満ち、極北のオーレンを除く全域が猛暑にあえぐころ…『期限』まで半月を切った、ある日。
 京江はエレオノーラの部屋に、ひとつの箱を持ち込んだ。
「エレさん、すいませんが、少々間借りさせていただきますよ」
 いつものように、返事はない。
 着替えのために身体を起こしてやると、焦点の合わない瞳が開く。けれどもそこには何も映らず、意識…どころか魂そのものが欠けていることが、悲しいほどにはっきりとわかってしまう。
 それでも構わず、京江は語りかけ続けた。
「母親をなくした子猫たちを、拾ってしまいましてね。この土地は寒い。放っておけば長くは生きられないでしょう。せめて自力で生きられるまで、ここに置かせてもらいます」
 他の冒険者たちは、必要なとき宿に部屋を取るだけ。
 猫を動かすことなく、保護しておけるのは、この部屋しかなかった。
 京江はエレオノーラと子猫の世話を済ませると、ふと思い立ち、エレオノーラの膝に子猫のうち一匹を置いてみる。
 何を思ったのか、猫はごろごろと甘えた声を立て、そのまま身を丸めて眠りに就いた。
「あ、こら」
 エレオノーラを横たえるには、猫を動かさなくてはならない。
 京江が猫を抱き上げようとすると、ほんのわずか…けれど確実に、エレオノーラの手が動いた。
 ―いいの、このままで。
「エレさん!?」
 驚いた京江が彼女を見つめても、それ以上の反応はなにもなかった。
 しかし生きた人形同然だったエレオノーラの、初めての意思表示は、京江の心に希望の灯をもたらした。
「気に入りましたか…では、そのままにしておきましょうね」

 京江は知らなかった。
 幼い日、孤独なエレオノーラの心を癒したのが、一匹の子猫であったことを。
 それでも運命は、皮肉な確実さをもって、人を、時を、すべてを動かしていく。

 子猫たちはエレオノーラを母親と思い込んだのか、それからずっと、彼女から離れなくなった。
 無理に引き離そうとすると、ちいさな牙で噛み付き、やわらかい爪を立てて暴れだす。
 エレオノーラの懐で身を寄せ合って眠り、起きればじゃれついて遊び、疲れると京江の用意した餌をおなかいっぱい食べて、またエレオノーラのかたわらで眠る。
 そうしているうちに、エレオノーラの様子が、ほんのすこしずつ、変わっていった。
 手にじゃれついた猫を、そっと撫でる。猫が甘えてすりよれば、かすかに微笑む。
 京江が語るともなく語りかけたとき、また食事を終えて彼女を横たえたとき、ちらりと向けられる瞳に、やさしい光が灯ることもあった。

―盲点だったな。

 エレオノーラは人間を限りなく愛し、憎んでいる。
 ならば…人間以外なら。
 子猫たちの母を、庇護をもとめる本能と、エレオノーラの母性本能とが重なりあい、彼女は、ほんのわずかとはいえ、正気を取り戻しつつある。


 望みなき岸辺で佇んでいたエレオノーラの意識にも、波紋が生じつつあった。
 幼い日、従兄弟たちと共に過ごした思い出が、彼女の心を揺さぶりだす。
『エレ、遊んで』
『おなかすいちゃったよ。おやつ、ちょうだい』
『一緒に寝よ。ね、はやく』
 今生の別れを済ませてしまった三人が、いままた彼女のそばに戻ってきたような、そんな不思議な安らぎに包まれる気分だった。

―かえってきて。

 いくつもの呼び声が、エレオノーラのもとに、届いては、いた。
 けれどもそれを、彼女は聴こうとしなかった。
 これ以上何を失うために、戻らなければならないのだろう。
 どれほど傷つかなければならないのだろう。
 運命がこれほど、自分につらくあたるなら、逃げ出してしまえばいい。
 みずから命をすてることはできなくても、心をかたく閉ざして、人形になってしまうことは…できる。
 だってもう、誰もそばには、いてくれないのだもの。
 もう信じない。もう愛さない。
 それは遅かれ早かれ、彼女を引き裂く荊となって、心臓を縛り上げていくだけだから。

 荊…刑をもたらしめる草。
 なんと言いえて妙なことか。
 つまりは愛こそが、彼女という存在すること自体が罪であるものを罰する道具なのかもしれない。
  そう、思っていたのに…心の奥底に輝くやさしい時間が、エレオノーラの心を揺さぶる。

『本当に、それだけでしょうか』
 誰かが不意に、問いかけてきた。
『あなたにとって、愛が戒めであるならば、愛を交わした相手はどうなります? その相手もみな、罰を受けるべき存在でしたか?』
 違う。
 巻き添えになってしまっただけ。
 私のそばに居合わせてしまったから、私の分まで、苦しんで。
 私さえ、いなければ…!
『なるほど、それを証明する手立てはありません。けどね、エレオノーラ。そう決め付けてしまった瞬間、彼らがあなたにくれた愛は全て偽り、彼らの献身はすべて無駄、ということになってしまう…それはあまりに、失礼なのでは?』
 答える言葉がなかった。
 なおも声は続ける。
『すべてが万事、悪いほうへ動いているわけではありませんよ? 少なくとも、あなたは間接的に、三つの命を救っています』
 間接的に…なんのこと?
 疑問を口にするまでもなく、答えがもたらされた。
『私はあなたの看護を引き受け、長くオーレンに留まっています。だからこそ、周囲を散策しようなどという気まぐれを起こして、子猫たちを拾いました』
 虚空にぼんやりと、映像が浮かぶ。
 横たわるエレオノーラにぴったりと身を寄せ合う、ちいさないきものたち。
 愛らしい寝顔には、不安も恐れもまったく感じられない。
 ―でもこの仔たちだって、いつか『私』から逃げていくわ。
『それはどうでしょうね』
 失笑を禁じえないような、微妙な響きが、声に混じる。
『動物は人間よりずっと、本能や直感がすぐれています。ことさら猫は、それが強い。たとえあなたが隠しているつもりでも、あなたの本質を、この猫たちは案外、察しているかもしれませんよ』
 それでもなお、エレオノーラを、母とみなした。
 何があっても、自分たちを害することはないと、猫たちは信じきっている。
『成長し、親離れすることは、あるかもしれません。しかしそれは、あなたを忌み嫌って去っていくのとは違うでしょう?』
 すいと手が伸び、子猫のうち一匹を抱えあげようとする。
 ところが猫は、それをいやがり、散々暴れたあげくに、その手を逃れ、またエレオノーラのそばで身を丸め、眠り始めた。
『ほら、これほどに、あなたは慕われ、頼られている。悲しみに目を閉ざさず、見つめてごらんなさい。真実を…必要ならば、私もその手助けをしましょう』
―あなたは怖くないの、私が? あなたも見たのに。
『怖くないか、と問われて否といえば、嘘になります。でもねエレオノーラ、私はそれでも、いま、ここにいます…それが答えにはなりませんか?』

 エレオノーラは、幽世(かくりよ)への旅路から、帰還した。
 目を開ける。
 窓辺では白い花が、そよ風に揺れていた。
 花瓶のそばには、何種類もの薬瓶。
 それらにこもった、人々の思いが…彼らが自分のためにしてくれたことの様々が、はっきりとエレオノーラの意識に流れ込んでくる。
 すべてが泣きたいほどに、いとおしかった。
 そして、なにより…

「京江、さん?」
 エレオノーラの喉が、久々に音をつむぎだす。
「はい」
 素っ気なく聞こえるその返事も、なぜかエレオノーラの耳にはやさしい。
―どうしよう。
 心のなかから浮かび上がったことばを、口にのぼらせるのに、エレオノーラはひどくためらった。
 さらなる罪を…さらなる苦しみを、重ねるだけではないだろうか。
 もう終わらせるべきなのに。
 あんなにも早く終わってしまったばかりの、熱く激しい恋のあと…これは、逃げではないだろうか。
「どうしました」
 かすかな囁きさえ聞き逃すまいとしているように、京江はエレオノーラに近づき…それでも礼儀ある距離を保ったまま、訝しげに問いかけてきた。
「どこか苦しいですか? ひどくつらそうだ…長く横になったままでしたから、身体の自由がきかないでしょう。無理をせず、眠ったほうが」
「いえ」
 反射的に言ってしまってから、エレオノーラは自分のなかの衝動が思いのほか強いことに、気づいた。
―だめ。いましか、いえない。
「京江さん…」
 それでもまた口ごもるエレオノーラに、京江は辛抱強く、頷きかける。
「はい。なんでしょう」
 目を伏せ、唇を噛み…何かを断ち切るように、かるく頭を振ると、エレオノーラは京江をまっすぐに見つめた。
「ずっと、そばにいてくださって、ありがとう…ご迷惑でなければ、これからも…私と共にいてくださいますか?」
 さすがの京江も、その言葉の意味するところに気づき、驚きに目を見開いた。
「エレさん…」
 いまは身体同様、心が弱っているのだから、もっと時間が経ってから、落ち着いて考えて…
 そう言うべきだと、理性は訴えた。
 けれども…エレオノーラの、言いようのない悲しみを湛えた瞳が、震える唇が、緊張にこわばって血の気をなくした指が、まさしく全身全霊で、彼女の想いを訴えてくる。
 それを口に出すのに、どれだけの勇気を振り絞ったか。
 どんな言い訳をしようと、いま彼女を拒めば、エレオノーラは二度と京江に心を許すことはないだろう。すくなくとも、これまでのようには。
―それでいい。彼女も大人なのだから、仲間としては普通に接してくれるだろう。一時の迷いで、容易に決めていい問題では…
 京江は自分自身を、そしてエレオノーラを説き伏せようとした。が…
「私でいいのですか?」
 口をついて出たのは、肯定の返事だった。
 たちまち、エレオノーラの頬に涙の筋がつたう。
「あなただから…『わたし』を見て、それでも変わらない、あなただから」
 そう、京江は確かに変わらなかった。
 内面にどれほどの力を秘めていても、どれほどの愛憎が渦巻いていても、エレオノーラはエレオノーラでしか、ありえない。
 そとがわからの干渉をどれだけ受けて、それが彼女をどれほどに傷つけてきたかは、とうてい想像の及ばないところだが、なお歪みきらず、ひとへの愛情を持ち続けているエレオノーラという存在に、京江は確かに惹かれるものを感じていた。
「私こそ、聞きたい、です…ほんとうに、私でいいの? こんなばけもので…」
「エレさん、自分を貶めてはいけません」
 京江は、なおも自虐的な言葉を続けようとするエレオノーラの口にかるく手をあて、静かに首を振った。
「…私はこれまで、何かを探していました。自分の生涯をかけて、探求し、研究し、解明することのできるなにかを。失礼を覚悟で言いますが、私は『あなた』という存在の研究を、生涯のテーマにしたいのかもしれません…そんな私で、いいのですね?」
 まるでモノのような言い方だ。
 自分の言葉の拙さが情けなく…でもそれこそが自分なのだと、なかば開き直って、京江は改めてエレオノーラを見た。
 その瞳の奥に、京江に対する嫌悪や不信感が芽生えることを、覚悟しつつ。
 ところが…
 エレオノーラは微笑んだ。
「魔法使いの生涯のテーマにされるなんて…それがどれほど、その人にとって重要なものかは、同じ魔法使いである私ですもの、知っています…面映いですけれど…うれしい」
 白いほそい手が、さしのべられる。
 京江はそれを握り締め…
「あいにく指輪の用意がありませんが…あなたが元気になるまでには、調達しておきましょう。聖堂の入り口から祭壇までは、自分の足で歩いてもらわないと。私の細腕では、あなたがいくら小鳥のように軽くても、抱き上げていくのは少々困難ですからね」
 たよりない夫で申し訳ない、と、苦笑すると、エレオノーラは頬の涙を指でぬぐいながら、声を立てて笑った。
 そんなあなたが…好き。
 やつれてなお美しい、輝くような笑顔には、疑念の曇りは一点もない。
 京江もつられて破顔する。

 意識が戻ってから、エレオノーラの身体は、ゆるゆると回復していった。
 けれども身体と心が立て続けに受けた傷は深く、おそらく、冒険者としての復帰は難しいだろう…というのが、京江の見立てだった。
 実際、リハビリ代わりに軽い狩りにでかけたエレオノーラは、魔力の制御がうまくいかず、随伴していた京江のフォローがなければ命も危ういほどに消耗した。
 犬に目標を指示するため、放っただけの凍てつく霧(フローズン・クラウド)は、まだ夏の気配濃い大地を冷たくこわばらせ、青々と茂る夏草を霜に包み…怪物たちはその一撃で、絶命し、砕け散った。
 そしてエレオノーラのなかから、膨大な魔力(マナ)が流出し続け…
 京江が軽い当身で彼女の意識を奪わなければ、その場もオーレンのような凍土と化してしまったかもしれない。

 冒険者として、もはや役に立たないとわかった彼女は、獅子王に脱退の申し出をしたが、大多数の血盟員の反対で、それは却下された。
「完全に引退し、血盟の誓いが自分自身の負担になるまでは、籍を残して置くがいい。狩りに出るだけが全てじゃない。知識、経験…今までに培ったすべてがお前の力であり宝だ。ひよっこどもの悩みでも聞いてやってくれ」
 獅子王の言葉に頷いたエレオノーラの瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれて、落ちた。

 各地で稲穂が黄金の実りに揺れる初秋…
 コンステレーション血盟に宛てて、ひとつの便箋が届いた。
 差出人の名は…ウティ。

『長いこと連絡もせずにいた非礼をお詫び致します。
 野垂れ死にしかけたところを、ある人物に拾われ、ようやく筆をとることが出来る程度には回復しました。
 我ながら、よほど悪運が強いようです。

 わけあって、所在を明かすわけにはいきませんが、私は損なった力を取り戻すため、一から修行をやりなおしています。
 まだ皆様の前に姿を現すまでには、かなりの時間がかかるかとは思いますが、さしあたり、心配は無用とだけ、お伝えしたく、こうして手紙を書いた次第です』

 彼らしく礼儀正しい、それでいて簡潔な内容だった。

 さらにエレオノーラ個人に、もう一通。

『エレオノーラ、今度あなたの前に現われたとき、俺は以前とはまったく違ったものになっているだろう。
 風の噂に、京江と婚約したと聞いた。
 心から、祝福しようと思う…そして、すまなかった。
 あまりにも短い時ではあったが、俺は後悔していない。幸せだったよ…ありがとう。
 幸せになってくれ。遠い地の下で、あなたの幸福を祈っている

 追伸;京江、エレを頼んだ。泣かせたら…奪いにいくぞ』

 エレオノーラからその手紙を受け取った京江は、言葉もなく、ただひとつ、深く頷く。
 その胸に身を預け、彼女は一晩、泣き続けた。
 まだ心にくすぶっていた熱い想いを溶かし流して。

 翌朝、ふたりはアデンへと旅立った。
 あえてテレポータは使わず、徒歩で聖堂へと向かう。
 それは、ふたりが結ばれることの是非を天に問う、ひとつの賭けだった。
 エレオノーラの提案に、はじめ京江は難色を示したが、彼女の思いつめた表情に、心を決めた。
 妻ひとり守りきれないなら、確かに結婚する資格はないのかもしれない。
―いや、絶対にふたりでアデンへ着こう。それが彼女の不安を拭い去る、ただひとつの手段のようだから…。
 神や魔といった、人を超えたものに頼ろうとしたことのなかった京江だったが、このときばかりは天に祈った。
 どうか傷つき疲れきったエレオノーラに、安らぎの時をもたらせるよう。
 そのためにも…どうか道中の無事を。

 祈りが通じたのか、それともただの偶然がいくつも折り重なったのか、1週間ほどの行程を経て、ふたりは無事、アデンの城門を潜り抜けた。
 エルモアの亡者たちが群れを成していたときには、他の冒険者達が居合わせ、退治を手伝ってくれた。
 イエティやサーベルタイガーがうろつく荒地では、彼らの姿が見えないかのように、襲われることはただの一度としてなかった。
 アデンの森では、リザードマンが襲ってきたが、京江の魔力をもってすれば容易に追い払える相手にすぎない。
 最も恐れていた、森をうろつく巨人族の来襲がなかったのが、何よりの僥倖だったといえよう…

 近衛兵に旅の労をねぎらわれ、宿への道を教えてもらうと、さすがに病み上がりのエレオノーラは顔色悪く、足取りもふらついていた。
 彼女を休めるためにも、京江はまず宿の手配をしてから、ひとり外出し、聖堂の予約と…小さな買い物を済ませた。

 ところが式の前夜、エレオノーラは大事な話があるからと、京江を呼んだ。
「この期に及んで、結婚したくないというんじゃ」
 ほんの少し狼狽した様子の京江に、まさか、と苦笑し、エレオノーラは首を振った。
「そうでは、なくて。考えていたの…私、今まで、自分から誰かを愛したことなんて…」
 胸をよぎる、かすかな痛み。
 一度だけ…そう、一度だけ、苦い思い出はある。
 けれどもあれは、愛というより、遅れてきた淡い恋の夢。
 思春期を迎えた娘たちなら誰もが抱くあまやかな想い…その年頃にエレオノーラは既に…城主の所有物だった。
 厳しすぎる現実の前に現われた、白馬の王子…そうした幻想をかさねていたのがわかったからこそ、ソムヌスは彼女を憎からず思いながらも、受け入れはしなかったのかもしれない。
 いつも求められて、それに応じてきた。
 いとしくなかったわけではない。
 城主の狂おしいほどに激しい情熱。
 ワシズミの若々しくひたむきな瞳。
 ウティの不器用な、それでいて誰より繊細な優しさ。
 どの愛も本物だったと思う。
 エレオノーラも、そのとき自分にあたう全力をもって、彼らに応えてきたつもりだった。
 でも…
 愛してくれたからこそ、愛し返した。
 彼らの真実、自分の真実を、自分はほんとうに見つめていたのだろうか?
 もしかしたら…彼らにとても、失礼なことをしていたのかもしれない。
 いくつもの悔いが、今になってエレオノーラのこころを絞めつけていた。
 だからこそ。
 今度は…決して。

 すべて隠さず、長い告白を終えると、エレオノーラは不安げに京江を見た。
「つまり私は、初めてあなたのほうから求愛された男というわけですか。光栄の至りですね」
 しばしの沈黙のあと、京江はいつにも増して真剣な顔つきで、答えた。
「…しかし、本当にそうでしょうか? 先に惹かれたのがあなただと、断言できる証拠は、残念ながらありませんよ」
 それを理由に、自分を選んだなら、あなたは考え直さなくてはならない。
 京江は言葉を切ると、じっとエレオノーラの目を見つめた。
 感情を押し隠すことになれた、一見つめたい京江の瞳に、エレオノーラは困惑する。
「でもね、それは意味のない問いなんですよ。過去がどうあろうと、私達はいま、こうしてふたりでここにいます」
「いいの? ほんとうにいいの?」
 くどいとわかってはいても、繰り返さずにいられない。
 そんなエレオノーラに、京江はくすりと笑う。
「まるで幼い子のようですね。あなたが私を選んでくれたように、私もあなたを選びました。それでは不足ですか?」
 いえ、と首を振りながらも、エレオノーラはひどく悲しげにうつむいた。
「いままで…婚約したことは、初めてじゃない。でも…でも、本当に結婚できたことがないから…正直、こわいの。今回もまた、何かで台無しになってしまうのでは、と」
「ふむ…」
 腕を組み、すこし思案してから、京江は突然、言葉を切り出した。
「ならば今すぐ、聖堂にいきましょうか」
「え!?」
 突然の提案に、エレオノーラは戸惑うばかり。
「誰の参列もない、たったふたりの婚礼になってしまいますが、それでもよろしければ」
 もちろん、否やのあるはずもない。
 エレオノーラは微かに頬を染め、京江の手を取り、導かれるままに歩き始めた…



間章.やみのなかで

そこはどこでもない場所
どこでもありうるところ

人のこころに国境は…ない、から。


 ぬばたまの闇。
 互いの顔も見ることができないまま、ふたりの人物が対峙していた。
『あなたか。どうしました』
 闇の中、柔らかなアルトの声が静かに響く。
 問われた相手から、戸惑うような気配が流れてくる。
 視界の閉ざされたここでは、心の動きが直截に伝わる。嘘はつけない。
『息災と知り、安堵したつもりだった。けれど…』
 いてもたっても、いられなかった。
 身体はその場にとどまっていても、心が、魂が、彼のもとへ翔けた。
 恋破れても、どこかでふたりは、繋がったままだった。
 この闇を支配するのは彼女であるはずなのに、どこか不安げなさまを見かねたか、青年はおもむろに呟く。
『京江と結婚すると、聞いた』
『…昨夜…ふたりだけで、式をすませた』
 みじかく応えると、彼女はふたたび、口を閉ざす。
『ひとつ、聞きたい』
 震える気配。
 それには敢えてかまわず、彼は言葉を続ける。
『あなたはワシズミを試し、俺を試した。しかし京江を試した様子はない…なぜだ?』
『…運命が』
 たったひとこと。
 けれどもそれで、青年は彼女の意図を悟った。
『あの少女…か。遺伝の法則もへったくれもないぐらい、そっくりな目をしていたな』
 練絹より艶やかな黒髪、そして氷より透き通った瞳。
 彼の…ウティの鋭い眼力には、その両親の姿が浮かび上がるようだった。
 首肯する気配。
『けれどね』
 その京江でさえ、まったく試されなかったわけではない。
 彼女はそう続ける。
『わたくしを…未だなお顕れてはいない、わたくしの真の姿を目の当たりにしてなお、変わらない…それがわたくしに必要な存在。彼はそれを成し遂げるだろう…』
『俺では…無理だったのか?』
 時は還らない。覆された水盤から、水を汲み上げることはかなわない。
 わかっていても、確かめたかった。
『そなたはわたくしを見た。闇の化身、鬼神エレオノーラを…けれどそれすらも、真実ではないとしたら?』
『…』
 言葉はない。
 ただ、嘆息ひとつ。
 そしてふたりは…ふたりの夢は終わった。
 重なり合う、ひとつの祈りを残して。

―しあわせに。道は違えど、それぞれの星を見出すことを…
 

終章.

かくて闇の娘は
望むものを手に入れた
人としての平和
まばたきひとつの穏やかなときを


 京江とエレオノーラは揃って現役を退き、オーレンの村のはずれに仮の住まいを得た。
 事の次第を耳にしたタラスは、象牙の塔へふたりを招いたが、それを受ければ血盟から去ることになるため、ふたりは長老に感謝しつつも、その申し出を辞退した。
 
 ウティの手紙を受け取ったあと、血盟員たち…主にJecyとBelldanndyは彼の消息を求め、あちこちの町を探し回ったが、芳しい知らせを得ることはなかった。
 エレオノーラは彼のメッセージから、ひとつ大きな手がかりを得ていたが、それを伝えることはせず、やんわりと捜索を打ち切るよう勧めた。
『遠い地の下』と、彼は書いていた。空の下、ではなく。
 無意味にそんな書き損じをする人ではないから…彼の居場所は、地上のどこでもないだろう。
 けれどそれを指摘して、まだ心身の傷癒え切らないであろう彼を突き止めても、おそらくよい結果にはなるまい。
 そう…判断したのだった。

 必要なときがくれば、きっと彼は帰ってくる。
 生きている。正気でいてくれている。
 それさえわかれば…いまは、十分。

 決して遠くない未来、アデンを…もしかすれば世界そのものを揺るがす嵐がくるだろう。
 それまでの、せめて、ほんのわずか。
 ささやかな、そして静かな時間を。
 血盟員のそれぞれに、そして結ばれたばかりの夫妻に。

 世界のはざまで、エレオノーラは夢を見る。
 やさしく、かなしく、しあわせな夢を…