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(99/1月〜4月)

(99/04/19) アメリカさんよ、チト勝手では?
(99/04/10) 「わが国」でいけないのだろうか
(99/04/01) 電話、インターネットに要注意!
(99/03/21) マスコミこそ情報開示を
(99/03/2) 血迷ったか大二郎
(99/02/13) オリンピックとプロ野球
(99/02/4) 第二の廃藩置県ならぬ・・・
(99/01/28) やむを得なかったのでは?
(99/01/4) しっかりしてよ文部大臣

                  

(99/04/19) アメリカさんよ、チト勝手では?
 最近の報道によれば、大東亜戦争中に細菌兵器開発のため人体実験を行った七三一部隊(関東軍防疫給水部)など、旧日本軍の非人道的行為を調べている米司法省は旧日本軍の行為を「ナチスドイツと同じ戦争犯罪」とみなし、戦争犯罪を対象とした米政府の入国禁止リストに既に50人から100人の旧軍関係者を登録したと明らかにしたという。

 旧日本陸軍の七三一部隊の中国における非人道的な行為については、様々な報告書や文献で示されているのでわが国でも広く知られていることであり、私自身もその非道な行為については、まさに「日本人の恥」とも思っている。従ってわが国としては他国から今に至るもどのように避難されても甘んじて反省せざるを得ないと考えている。

 しかし、しかしである。かつて戦後の極東国際軍事裁判(東京裁判)において、米国は細菌兵器情報をソ連に渡さずに米国が独占したいばかりに、七三一部隊に対しては同情報提供の見返りに免責を与えたものである。 勿論、当時の事情で免責されていたとしても、その犯罪的行為は事実である限り、決して人道的に許されることではないのは言うまでもないことである。 だが、それが今になってなぜ?

 伝えられるところによると、在米ユダヤ人団体や中国人団体、人権組織からの圧力と、戦争犯罪や人道に対する犯罪を厳しく罰しようとする冷戦後の国際的潮流に米政府が乗ったということのようだ。それにしてもおかしな話ではないか。中国人団体や人権組織からの圧力はともかくも、ユダヤ人団体からとやかく言われる筋合いはない筈だ。わが国はナチスドイツのようにユダヤ人を迫害した事実は全くない。寧ろ広く伝えられる如く、当時の杉原領事のように多くのユダヤ人をナチスの毒牙から救った事実すらあるのだ。

 さらに、上記の入国禁止リストには、七三一部隊関係者のみならず従軍慰安施設関係者や南京虐殺参加者も含めているといわれている。七三一部隊関係者は別としても、これらは風聞ではいろいろ流されているようだが、未だ何の確証もないまま今に至っている。南京虐殺などは中国が主張するような数字は当時の南京の人口よりも多い数であったり、また、そういう事実があったこと自体が未だ何の証拠もないのである。ただ、外交カードとして振り回している中国の言い分を通してこのような処分をするのなら日米関係というのは一体何なのだろう? 何のための同盟国なのか。アメリカにとって日本と中国のどちらが重要なのか。日本の10倍の人口、25倍の領土を持つ魅力的な中国の巨大な市場の前には同盟も信義もへったくれもないのか。

 それに、いくら当時の細菌兵器情報欲しさに免責したとはいえ、いったん決定したことをどのような事情や背景があるにせよ半世紀以上経たいまになって入国禁止のような処罰を課すとは、ご都合主義もいいところだ。 また、その入国禁止リストの正確な人数や名前は「他の心当たりのある人物に不安を与える効果を狙って」公表していないという。アメリカ人というのはこれほどまでに陰湿な人種なのか。悪寒が走る思いだ。

 それだけではない。米司法省は「リスト作成のための協力を4,5回以上、国務省を通じて日本政府に要請したが日本政府からまったく返答がない」と不満を洩らしている。これに対し、日本政府は「起訴されなかった人は完全な市民として扱われており、こうした人が不利益を受けると知っての協力は出来ない」(斉藤邦彦駐米大使)との立場を取っている。当然である。七三一部隊関係者は恥ずべき行為をしたが、いまになって処罰するというのなら話は全く別である。これは部隊関係者だけの問題ではなく、わが国の主権にかかわることだ。

 さらに言わせてもらおう。大東亜戦争当時の日本の非人道的行為を云々するのであれば、広島・長崎への原爆投下はどうなのか。それらの都市には数十万の非戦闘員の市民が生活しているのが分かっていながら核爆弾を投下したのは非人道的行為ではなかったのか。さらに東京大空襲は? 大阪、神戸、北九州への無差別絨毯爆撃は? ベトナムでの行動は? そこにはアメリカの手による無数の罪もない市民の死があったのだ。これらもまた非人道的な行為ではなかったのか? そう、所詮は戦争自体が非人道的なものであり、戦争の中に人道的なものとそうでないものの区別なんかありはしない。また、犠牲者が戦闘員であれ、非戦闘員であれ、非人道的なことには違いはない。それならアメリカも同罪ではないか。自分たちだけが処罰できる立場にあると考えるならば思い上がりも甚だしい。

 太平洋戦争は確かに日本が先に手を出した。しかし、戦争というものはやむにやまれず先に手を出すこともある。ところがアメリカは先に手を出されたからと言ってその報復手段として何をやっても世界に支持されると考えていたフシがある。その中でも特に広島・長崎への原爆投下と勝者の驕りで裁いた極東国際軍事裁判(東京裁判)は永遠に拭えぬアメリカの汚点であろう。

 ここに一つ情けないことがある。冒頭の報道をした新聞は「終戦直後の冷戦構造下で行われた裏取引は冷戦終結とともに暴かれ非難される運命にあった」と、まるで米司法省の機関紙のような決めつけ方をしている。いつもながら正義の味方ツラした偽善新聞の論調であるが、胸の悪くなる思いだ。

 日米ともに経済的にも安全保障上でもお互いの関係は最も重要であることは言うまでもないことである。しかし、非は非として日本側もあくまで正々堂々と反論し、場合によっては慎太郎さんではないが「ノー」と言わなければならないだろう。それがあってこそ誤解のない確固たる日米関係が築かれるというものではないだろうか。



(99/04/10) 「わが国」でいけないのだろうか
 先月行われた兵庫県公立高校の入学試験の社会において「わが国」という言葉が設問に2カ所使われていることに対し、「兵庫在日韓国朝鮮人教育を考える会」(以下、考える会という)が、「在日外国人への配慮に欠けている」として兵庫県教育委員会に抗議の申し入れをしたという。

 指摘されたのは、一つは日本経済をテーマにした設問で「表を見てわが国の産業構造の変化を説明しなさい」としたもので、もう一つは「わが国は、発展途上国への協力のあり方をめぐって問題が起こっている」とし、その内容や対応を考えさせる設問であった。

 上記の「考える会」は、「受験生には在日外国人がおり、『わが国』に疎外感を感じた子供が必ずいる。入試に使うのは不適切」と指摘している。

 一方、兵庫県教育委員会高校教育課では「『わが国』は中学校の学習指導要領や教科書に頻繁に使われており、受験生にとってわかりやすい表現で問題ない。一般的に日本を表すものとして理解されている」と話している。けだし当然である。

 そもそもわが国の公立高校入学試験で「わが国」という言葉を使ってどこが悪いのだろうか? 「わが国」はわが国であって、わが国以外の何ものでもない。すなわち日本である。自分の家を「我が家」と言うのと同じことである。 仮に受験生の中に在日外国人が居たとしても、日本の入学試験を受ける限り、それは日本社会に溶け込もうと努力している表れであり、敬意を表したい。 しかし、そうであれば「わが国」という表現に疎外感を感じる必要はないのではないか。

 また、「考える会」は兵庫県教育委員会に抗議するに当たり、それぞれの祖国ではどうなのか、さらに他の各国ではどうなのかを調査したのだろうか? 小生はそんなのことは調べたことはないが、どこの国でも自らの国を「わが国」という意味の言葉を使っているものと思われる。しかし、抗議する限りはその辺のところをしっかりと調査して資料を出すべきであろう。ただ一方的に抗議しているのであれば、それは過去の歴史認識をまたぞろ引っぱり出して、いつもながらの反省と謝罪姿勢の要求としか映らない。特に韓国とは新しい関係に入りつつあるときに、その流れに逆行するのではないだろうか? 新しい関係というのは、お互いの「国家」というものを尊重し合ってこそ成り立っていくものと考えるが如何。


(99/04/01) 電話、インターネットに要注意!

 今日はエイプリルフールですが、これは真面目な話。 皆さんは一昨日3月30日夜のNHK番組 「クローズアップ現代」 をご覧になられたでしょうか? 私はこの番組を見ていて、非常に恐ろしい気がしましたね。 世の中にはせっかくいい頭脳を持っているのに、とんでもない方法に悪用し、善良な市民から法外な電話代をむしり取っていく奴がいるものですなあ。 そこで、その番組をご覧になっていない方の参考までに、ちょっとその内容の概要をまとめてみました。 皆さんもどうかくれぐれもご注意のほどを。    
 
(1)電話

 新聞広告の求人欄に24時間受付の電話番号が書かれていて、そこに電話するとテープが回っていて、「この説明は最後まで聞いて下さい」と言い、延々と説明を始めるうち、途中で変な音声に変わる。しかし、実はこの電話は利用者の知らない間に遙か遠い外国にかかっているのだそうです。電話をかけた利用者はあとで高額の請求書が電話会社から送られて初めて「なんで???」となる次第。

 そのような広告の求人欄の電話番号は 「00XX(XXXX)XXXX」 という具合に最初はゼロが二つで始まっている。これはNTT以外の電話会社を利用するときに最初にダイヤルするときの番号。ちなみに、ご存じの通りNTTを利用するときは国内の市外電話番号は最初のゼロは必ず一つで、決して二つもつかない。しかし、そうとは気が付かない人は、求人欄の電話番号がまさか外国にかかる番号とは思わないから、ついダイヤルしてしまうことになる。

 なぜこんなことになるかというと、その電話番号にかけると、相手先にかかるまでに国内、国外で複数の電話会社を経由することになり、その過程でこの企みを仕掛けている悪質な「情報提供業者」なるものがあって、電話料金の一部がそこに還元されるという仕組みになっているそうである。勿論、この「情報提供業者」は必ずしも悪質なものばかりではないかもしれないが、上記の例の場合は言うなれば詐欺である。 なんともまあ「渡る世間は鬼ばかり」ではありませんか。 電話をかけるときは、その電話番号によく注意された方がいいようですぞ。

(2)インターネット
 これがまたコワイ。 インターネットを楽しんでおられる方は、例えば WINDOWS 98 の場合は「ダイヤルアップネットワーク」のところで右の画像のように設定しておられるはず。 ところが、どこか得体の知れないホームページからソフトや画像をダウンロードしたとき、そのホームページが前記の悪徳業者か或いはその息のかかったホームページの場合は、右の設定を勝手に書き換えてしまい、ユーザーが次に接続したときは知らない間に遠い遠い外国にかかってしまうということになるそうですな。 そう言われてみるとインターネットの世界なんて油断も隙もあったものじゃない。 従ってダウンロードをしておられる方は頻繁に右の画面をチェックなさったほうがいいと思いますよ。

 しかし、さすがに公共性の強いNHKだけあって、このような情報を知らせてくれるが、本来なら他のメデイアやプロバイダもこのような反社会的な出来事を広く国民に知らせて注意を喚起すべきだはないでしょうかねえ。


(99/03/21) マスコミこそ情報開示を
 去る2月28日に高知赤十字病院で行われた臓器移植法に基づく初の臓器移植について、同病院と、提供を斡旋した日本臓器移植ネットワーク、厚生省の三者は今月15日、大阪市内で記者会見し、脳死判定などに至る詳しい経緯を公表した。

 記者たちの執拗な質問が続いたため、4時間半にわたったこの会見で明らかになったことは、法に基づく最初の脳死判定で無呼吸テストを含む検査手順に一部手違いがあったことや、死亡時刻となる2回目の脳死判定終了時刻は家族の要望で明らかにしない、など想定外のことがあったが、何と言ってもマスコミの過熱報道が家族や医師の厳粛な判断に重大な支障を及ぼしかねないということが大きく浮き彫りされたことであろう。

 席上、主治医の西山救急部長は家族の意向を代弁し、報道のあり方に配慮と反省を求める見解を示した。また、他の関係者からも過熱した報道に対して厳しい批判が寄せられた。報道陣の土足で踏み込むような取材により、提供者とその家族が特定されかねない状況になり、気の毒なことに提供者の家族の方は住居を引っ越し、子供さんの転校も考えたといわれている。また、家族のあまりの動揺に医師もコーデイネーターも一時は臓器提供をとりやめるようすすめたが、家族の「本人の意思を生かしたい」という強い気持ちが移植につながったことも明らかにされた。

 これに対し、マスコミはこぞって「反省せざるを得ない」と、一応はそのゼスチュアを見せているが、そのあと必ず 「しかし、臓器移植には情報開示が必要。国民は知る権利がある」といういつもの反論パターン。もういい加減にしろといいたい。この私も国民の一人ではあるが、提供者や家族のプライバシーをブチ壊してまで一刻も早く知らせてほしいと思ったことは一度もない。

 マスコミは「プライバシー保護を盾にして必要な情報まで出なくなるようでは困る」と言うが、マスコミこそ「書きたい、放映したい」という欲望から国民の知る権利を盾にしているではないか。しかし、国民の知る権利といえども、野放図にどんなことをしても充足されるべきものではないし、余程非常識な人間でない限り、そこまでは期待していない。このようなことは、すべてが終わってからプライバシーに関わる部分を除いて公開してもらえれば十分である。

 しかし、彼らは「それでは必要かつ正しい手続きが踏まれているかどうか検証できない」と言い続けているが、検証をすべてマスコミがやろうなんてことは思い上がりも甚だしい。そのようなことは厚生大臣の諮問機関である公衆衛生審議会の臓器移植専門委員会という機関があるのだから、そこに任せればいいことだ。それが信用できないとあれば医療そのものを否定してしまうことになる。マスコミはそこまで言えるのだろうか?

 提供者が救急車で病院に搬入されたのが2月22日の23時09分。その翌朝の10時前、医師が家族に「もう2時間ぐらいしかもたないかも知れない」と説明したあと、家族から臓器提供意思表示カード(ドナーカード)の提示があったといわれている。或る新聞はこれを指して「その説明は家族に絶望感だけを持たせる説明ではなかったのか」と言う。とんでもない言いがかりではないか。第一、医師たちは家族からドナーカードの提示を受けるまで、患者がカード保持者であることを知らなかったのだ。

 私もかつて救急車で大学病院の救命救急センターに運び込まれ、一命を助けられた者だが、医師たちはどのような患者が運び込まれても懸命に治療に最善を尽くしてくれることは言うまでもない。そのような発言は医師や病院を冒涜するものだ。編集者の良識を大いに疑いたくなる。

 逆に、病院側が何も発表しない段階で、どこをどう嗅ぎつけたかハイエナのように群がって大挙して病院に押し寄せ、新聞もテレビも最大限に取り上げて大騒ぎした結果、マスコミも、マスコミにより誘導された世間も、あたかも「脳死→臓器移植」という図式を期待するようなムードを醸し出してしまったきらいはなかっただろうか?

 席上、病院側は記者たちから脳死判定医や当初の救命治療に当たった医師の氏名を聞かれて、「公表する意味がない」として明かさなかった。けだし良識であろう。それを世間に公表することにより、今後、同じようなケースが生じたとき、担当医に限りないプレッシャーをかける以外のなにものでもない。事実でさえあれば何でもかんでも報道するというのは三流週刊誌かゴシップ新聞のすることだ。

 本来、脳死判定とか、臓器移植のような厳粛かつ高度な知識と技術を要することは冷静に粛々となされるべきことであるにもかかわらず、今回の出来事は病院側も家族の方々もマスコミ対策に多大なエネルギーを使わざるを得なかったのは事実であろう。それだけでも大変な迷惑をかけていることになっていたのだ。何度も言うようだが我々はすべてが終わってから知らせてもらえばいいことだ。

 記者会見の時、脳死判定で無呼吸テストを含む検査手順に一部手違いがあったことを、「自分たちの質問がなければ分からないことだった」と、さも鬼の首をとったように叫んでいるが、その一方でマスコミ自身の都合の悪いことは横並び一線で覆い隠している。

 マスコミは、提供者やその家族を特定したりプライバシーを壊すようなことをしたことを一応認めている。では、一体どのようなことが行われたのか? 彼らの都合の悪いことは何も具体的に報じられていないため我々には一向にそこで何があったのか見えてこない。とは言え、彼らのやりそうなことだ、大体のことは想像がつくが、この際、「実はこのようなことしてしまい家族の方々に大変なご迷惑をおかけした。」と公表し、(勿論、その場合もプライバシーを守ることは当然のこと)家族には衷心より謝罪すべきであろう。病院側やネットワークに必要以上に情報開示を求める前に、自らの行いを公開し、反省すべきだ。もし、提供者の意思を生かしたいという家族の強い気持ちが、あのときぐらついていたら報道陣はその責任をどうとるつもりなのか。

 一方、臓器移植を受けた患者の方々は、現在のところは経過が順調なことは喜ばしく、提供者の好意ある意思が生かされ、救われる思いがする。 私は1年前から家族の同意を得た上で常にドナーカードを携帯している。しかし、我が家のせがれの一人は「このたびのようにワイド番組化したような騒ぎが今後も続くのであれば、万一の時、たとえ親父がドナーカードを持っていても自分は絶対に提供に同意しない」と、ゴネてしまった。マスコミ業界よどうしてくれる!


(99/03/02) 血迷ったか大二郎
 歴史上の人物坂本龍馬を生んだ土佐。その高知県の橋本大二郎知事は去る2月23日に開会された2月定例県議会に県港湾施設管理条例改正案(いわゆる非核港湾条例)を提案した。その改正案の第一条では「県は港湾管理にあたって国の基本政策である非核三原則を踏まえ、平和で県民に親しまれるよう努める」という宣言的な文言を盛り込むにとどめているが、同時に提示された運用要綱案によれば、「外国艦船が高知県下の港湾施設を使用するときは当該艦船が核兵器を積載していないことを証する文書を外務省に求める」としている。

 同知事は当初、艦船の所属する相手国の在日大使館に非核証明を求めるという「非核神戸方式」を考えたが、1年あまりにわたった外務省との議論の中で、国の外交権を侵すとの国の主張に屈しながらも、この問題を所管する外務省に非核証明を求める方式に変えたとしている。果たせるかな間髪を入れず野中官房長官、高村外務大臣、野呂田防衛庁長官たちから「国家の外交、防衛は国の専権事項であり、一地方自治体が関与することではない」と不快感を示される始末。いや、お粗末。

 外交、国防が一都道府県や一市町村で処理できないことぐらい、最近では中学生でも理解できることだ。まさか橋本知事は幕末の1863年に薩摩藩と英国艦隊とが戦ったときと同じ次元でものごとを考えているのではないだろうか。

 新たな「日米防衛協力のための指針」(ガイドライン)関連法案は、米軍の活動に対する支援項目として、民間の港湾の使用を挙げている。そこで、橋本知事は「非核三原則という国の方針を地方でも実現したいだけ」としているが、国がその方針を立てているのだから、港湾管理者とはいえ、何故に地方がわざわざ重複して原則を押っ立てなければならないのか? 

いずれにしても、高知県には原子力空母やミサイル巡洋艦が入港できるような施設はないのだから、このような要綱をつくったとしても実質的には大して意味はないのは大二郎知事もよく分かっているはず。察するところ彼のマフォーマンス以外なにものでもない。

 そもそも「非核神戸方式」なるものは神戸市議会が昭和50年(1975年)3月に全会一致で行った「核兵器積載艦艇の神戸港拒否に関する決議」に基づくもので、港を管理する神戸市が外国艦船に核兵器を搭載していないことを証明する文書の提出を求める内容になっている。その決議後、米軍艦船の神戸港への入港は1隻もない。

 しかし、この「非核神戸方式」は我が国の安全保障の観点から見た場合、どういうことになるのか? とんでもない愚策である。 「国の安全保障なんて自分たちには関係ない」と言わんばかりの田舎町丸出し的発想だ。とにかくこの神戸市議会というところ、この「非核神戸方式」といい、このたびの神戸空港建設決議といい、何を考えているのやらさっぱりわからん。全国の自治体はこんな議会を見習うべきでない。

 橋本大二郎知事に限らず、戦後の日教組教育を受けた人は、戦後半世紀にわたって我が国が直接戦火に見舞われることなく、経済発展街道を突っ走り、アメリカに次いで世界第二の経済大国になることが出来たのは、戦争放棄を謳った現行憲法によるところが大であると思っているようだが、とんでもない見当違いだ。

 その国の憲法で戦争放棄さえすれば平和が保てれるのなら世の中こんなうまい話はない。しかし、それは全くの幻想だ。日本が少なくとも国内的には平和を享受できたのは、冷戦下のアメリカの戦略に基づく日米安保条約により、アメリカの核の傘の下にあったからに他ならない。情けないようだがアメリカの核抑止力によって守られていたのだ。これが現実だ。国を守るのは「憲法」ではなく、「現実」なのだ。 

 このMATは高校時代、日教組かぶれした或る教師から「日本は平和憲法を守って軍備を持つべきでない。なぜなら、軍備を持たなければ外国から攻撃されることはない」と教えられた。しかし、それを聞いたときから今まで一度だってその教えが正しいと思ったことはなかった。 1939年、かつてのナチス・ドイツは突如としてポーランドに武力侵入した。また1950年6月、北朝鮮軍は北緯38度線を突破して韓国に怒濤のごとくなだれ込んだ。このとき、ポーランドも韓国も日本のような平和憲法を持っておれば侵攻されなくて済んだのだろうか? 侵略する方にすれば、相手の国の憲法なんてどうでもいいことなのだ。むしろ平和憲法を後生大事にしてくれている方が都合がいいというものだ。それと同じで、ここには核兵器がないから、ミサイルは飛んでこないだろうと考えるのは愚の骨頂というもの。

 今や、北朝鮮のミサイルが日本列島の頭越しに飛んでくる時代だ。地方自治体のエゴで自分たちだけいい子になるときではない。そんなヒマがあれば、冷戦構造の枠組みが大きく変化した今、アメリカはかつてのように命を張ってまで日本を守る気はない現実を見据えて、日本は如何にして自分の国を守るかということを考えるべきだ。勿論、そこには憲法改正も視野に入れなければならないだろうし、日米安保条約を如何に有利に利用して国の安全保障を図るかを考えなければならないだろう。尤もこれも国の専管事項であり、国民全体で考えることだが、いずれにしても大二郎知事は土佐のはりまや橋でノンビリと平和ボケしている場合ではないだろう。


(99/02/13) オリンピックとプロ野球 
 今月9日、プロ野球セ・リーグのオーナー懇談会が東京都内のホテルで開かれ、プロ、アマ合同でチームを編成する2000年のシドニーオリンピックと今年9月に行われるアジア地区予選には、ペナントレースの最中のため主力選手を出場させるのは無理がある、との声が大勢を占め、参加する場合にはベンチ入りする一軍選手28人にファームの主力7選手を加えた最低35人以外から派遣することで意見がまとまったようだ。

 また席上、巨人の渡辺オーナーは「ペナントレースを犠牲にしたくない。公式戦が中止という事態になったらどうなるのか」と話したという。MATは個人的にはこの渡辺オーナーにはあまり好感を持っていないが、この発言には賛成だ。

 アマチュア野球界には、昨年のバンコクにおけるアジアオリンピック大会で韓国に大敗したことでショックを受け、次のシドニー大会ではプロからの参加を望んでいたようだが、なぜショックを受けなければならないのか、それがわからない。

 確かにその大会では決勝で大敗したが、韓国側は5,6人もプロ球界の選手で構成され、日本側はアマのみ。所詮は前頭10枚目と20枚目が闘ったようなもので韓国側にすれば勝って当たり前、日本側は負けて当然。これだけの話ではないか。恥でも何でもない。ただ、日本側は古典的というか純粋なオリンピック精神からアマ選手のみでチーム構成をしたまでのこと。それはそれで潔いではないか。

 しかし、このオリンピックなるもの、もうムチャクチャですな。かつてのオリンピック精神なんて一片のかけらもない、全く異質のものになり下がってしまった。もう商業主義一辺倒でカネのないところオリンピックなしという感じ。大体、あのサマランチなる人物が会長になってからおかしくなり、ロサンゼルス大会が商業的成功を収めてからは「オリンピックは儲かる」とばかり更におかしくなった。

 サマランチがオリンピックにプロを導入するようになったのは、メデイアの要求と巨額の放映権料に屈したもので、野球もそのうちの一つ。そのようなカネにまつわる世界がきれいわけがない。昨今、招致に絡むIOC委員による汚れた姿勢が騒がれているが、このようなことをサマランチが知らなかった筈がない。知らないどころか自分自身も手を汚しているのでから何をかいわんやである。

 ソルトレイクシテイーの元招致委員が苦し紛れに「長野のやり方を真似ただけ」と言い訳しているが、あながち間違ってはいないだろう。何よりも長野の元招致委員が当時の会計帳簿を焼却したと言っていること自体が重大な疑惑であり、証拠隠滅と見られても仕方がない。


 小生の見るところ、その会計帳簿は焼却されたのではなく、まだどこかに隠匿されているのではないかと思う。巨額の招致費用の使途を招致に成功したからと言って極めて短期間に焼却するということは極めて不自然であり、また、そのような書類は後日のために永久保存しておくべきものだと言うことは招致委員自身もよく分かっている筈だ。しかし、ソルトレイクシテイーで大きな問題となってから長野にも火の粉が飛んでくるのを恐れて「焼却した」としているのではないか。もし、それを敢えて焼却したのであれば、見られては具合の悪いことがあったと考えるのが当然だろう。

 長野県もJOC(日本オリンピック委員会)も並行して元招致委員会幹部ら6人に聞き取り調査をしているが、JOCがまだ調査中でその結果が出ていない段階にもかかわらず、県知事は「過度な接待はなかった」と潔白を強調した。ところがJOCの専務理事は「過度の接待がなかったというのはおかしい。そのような活動があったという事実をつかんでいる」と態度を硬化させている。事実、2月12日にはJOCは、IOCの定めたガイドラインに抵触したIOC委員は9人と発表した。どうも県知事は元招致委員会幹部らを庇っているような気がしてならない。

 とにもかくにも今のオリンピック委員会そのものは会長も委員も全員辞任し、組織も運営も一旦バラバラに解体した後、全く新しい21世紀にふさわしい民主的なものに構築し直すか、それが出来なければオリンピックそのものを潰してしまえばよい。

 さて、野球の話しに戻るが、このような薄汚い世界にシーズン中にもかかわらず日本のプロ野球ファンを裏切ってまでトップクラスの一軍選手を派遣する必要は全くない。まして勝てば年金を貰えるようなエサをぶら下げられてプロ・アマ混成でシャカリキになってプレーしているどこかの国の選手に日本の一流プロ選手が相手になる必要は更にない。いまのままでいけば勝っても負けてもたかが汚れた老人達が運営するオリンピックではないか。

 更に言えば、大阪はどうしてオリンピックの招致活動に入ったのだろう? 「経済効果が期待できる」ということであれば、その活動はきれいごとでは済まないだろう。招致に成功すれば喜ぶ人もいるかも知れないが、一般の市民は殆どの人が大きな迷惑を蒙ることになる。大会期間中、ものすごい交通規制がしかれるのを知っているのだろうか? もし、大阪で行われたときは閉会式が終わるまで大阪の街に入らない方がいい。


(99/02/04) 第二の廃藩置県ならぬ・・・
 関西経済連合会(関経連)の行政制度委員会 (委員長・井上義國ダイキン工業特別顧問) は今月1日、関西の市町村長を対象に実施した地方分権に対するアンケート結果を発表した。 回答のうち半数以上が地方分権に 「賛成」 としたが、分権を推進する上で、「財源不足」 を不安要因にあげる声も目立った。 アンケートは福井、三重、徳島の三県を含む関西の二府七県の市町村長480人に質問状を送付し、寄せられた227(回答率47.3%)の回答を集計したもの。

 地方分権について賛否を問う項目では 「賛成」 (52.3%) が 「反対」 (3.7%) を大きく上回り、賛成理由としては、「特色ある町づくりが可能になる」、 「身近な自治体が行政サービスを行うべき」 といった意見が聞かれた。

  さらに、市町村の合併について 「必要」 とする意見は67.3%にのぼったが、同委員会では 「人口規模の小さい自治体にとっては合併イコール吸収との警戒感が強いのではないか」 と分析している。 

 さて、このような関経連による真面目なアンケートにもかかわらず、自治体の首長からの回答率が47.3%と半分以下というのは何を意味しているのだろうか? 市町村長たる者が地方分権や市町村の合併について関心がない、ということなのだろうか。 それとも市町村の合併については反対だが、それでは地方行政改革に後ろ向きと見られるから敢えて回答しなかったということだろうか。 どうも後者の方が色濃いような気がするが如何なものだろう。

 自治体の合併というのは、とりもなおさず市町村長と地方議員のイスが減ると言うことになる。また、そうでなければ意味がない。昨年から今年にかけて、この芦屋市や伊丹市の議会の動きを見ていると、議員の皆様のイスへの愛着というか執着の強いこと、市民の考えなどあっちへ行けの無視ムシ大作戦。 いやはや驚くばかり。 これら議員が合併に賛成なんてとてもじゃないが考えられない。  


 また、行政の職員も当然のことながら人員の合理化に結びつく (これまたそうでなければ意味がない) だけに諸手をあげて賛成するとは思えない。 特に小さい自治体が大きいそれと合併するときには更に抵抗が強いだろう。

 こう見てくると、自治体の合併というのは現実には極めて難しいような気がする。 上記のように回答者のうち 「必要」とする意見が67.3%もあったこと自体が驚くべき数字のように思うが、果たして本音で言っているのだろうか? 建て前なら誰でも言えることだが。

 連日、報道されているように、ほぼ10年に亘る長期不況のため、大手企業といえども提携どころか合併が当たり前のように行われている。 それをしないと生き残れないのだ。 お役所に言わせると 「自治体と企業とは違う」 と言うが、どこがどう違うのか。 効率化を図るということでは、実行しなければならないことは全く同じではないか。 違うといえば自治体は企業のように景気の良し悪しによって態勢を変えるのではなく、もっと長期的な観点に立って思い切った行政改革を行うことであって、 どこかの議会のように震災で仕事が増えたからと言って皮下脂肪を厚くしている場合ではない。

 大体、この狭い日本で市町村が約3,200もあることが多すぎると思うが如何なものだろうか。 昨年10月現在の我が国の国土面積は北方領土を含めても 377,854平方キロメートル.。 これは1市町村当たりわずか118平方キロメートルになる。 芦屋市などは更にその6分の1の18.57平方キロメートルである。 ここまで自治体の単位を細分化する必要があるのだろうか? 大体、今の市町村は江戸時代の藩の流れを汲んでおり、その後の時代の変化に対応していないところが多い。  

 こんなことを言うと、 「お前は郷土愛がないのか」 と言われるかも知れないが、自治体が小さいほど、より大きな市町に比べて教育も医療も福祉も見劣りしていることは厳然たる事実だ。 ここでも企業と同じでスケールメリットというのがものを言っている。 しかし、郷土を愛すればこそ、市民がそのような格差に置かれていることには耐え難いものがある。 

 そこに永く住む者にとっては郷土意識から、古くからのそこの地名と地域に愛着があるのは理解できる。 しかし、町名などは行政区域が変わっても、それらは守ろうと思えば守れるではないか。 それよりも、次の世代の子ども達のためにも、よりグレードの高い生活環境を目指した方がいいのではないか。


 兵庫県では、多紀郡の篠山町、西紀町、丹南町、今田町の4町が合併して、新・篠山市が今年の4月1日からスタートする。1958年(昭和33年)に合併機運が生じて以来、40年を要して辿り着いたものだが、関係者の英断と努力に敬意を表したい。 

 また阪神間の諸都市が合併して 「阪神市」 という構想もあるようだが、こちらの方はいつのことになるやら、果たして実現するのかどうか雲を掴むような話。 今後、自発的な自治体の統合が期待できないのであれば、自治省あたりが音頭をとって明治維新以来の第二の廃藩置県ならぬ廃藩置市をやってもらうしか解決方法はないのだろうか。


(99/01/28) やむを得なかったのでは?

 阪神・淡路大震災で断水した芦屋市内のマンションで、室内の給水管が外れているのを市が確認せずに通水したため、水漏れし、階下にあった自室が水浸しになったとして、芦屋市内の女性が芦屋市や家主を相手取り、約1,330万円の損害賠償などを求めた訴訟の判決がこのたび神戸地裁尼崎支部であったが、判決では 「市や家主には通水前に止水栓などを閉める注意義務があった」 などとして、被告側に440万円の支払いを命じた。

 判決によると、原告の女性は震災後に兵庫県外に避難しており、震災発生の約1ヶ月半後に帰宅すると、部屋が水浸しで、衣類や家具が使いものにならなくなっていた。 原因は階上のトイレの給水管が外れたまま、通水が再開されたことによるものだという。 判決で裁判官は 「被告の過失で漏水事故が起きたというべきだ」 と判断し、賠償の一部を認めた。 これを受けて芦屋市水道部は 「判決文を見てから対応を検討したい」 としている。

 さて、当時の状況を思い出してみると、地震発生と同時に全市域にわたって断水となり、その後1ヶ月以上、上下水が使えない不便な生活を余儀なくされた。 芦屋市内の水道の復旧は北部から順次実施されたが、私が住む海岸沿いのシーサイドタウンでは最も遅く、2月27日になってやっと通水され、その夜は久しぶりにゆっくりと入浴してホッとしたことは忘れられない。 電気は比較的早く回復したものの、水がないため、生活に不便を感じた多くの市民が被災地外に疎開した。 それほど水道の復旧は市民から心待ちにされていたものだ。

 ところで、上記の事故の場合、家主が管理責任を問われるのは理解できるが、果たして市の水道部にも責任があるのだろうか? 私の記憶では、「一刻も早く復旧を!」 という市民の願いのもと、応援自治体の協力を得ながら復旧工事を急いでいた当局は、復旧の進捗に合わせて事前に住民に通水予定日を通知していた筈。 従って、家主はそれに合わせて配管などをチェックする管理責任があるのは当然であり、また避難していた借家人といえども家主や市と連絡を取りながら、通水日には自宅に戻り、注意しておれば最小限の被害で済んだのではなかったろうか。 言うなれば家主・借家人ともに注意義務が当然のことながらあるべきと考えられる。 あの当時の時間的、人員的に余裕のなかった事態では、当局が一軒一軒の全ての水道管をチェックすることはとてもじゃないが不可能であったろうと思われる。 

 震災と同時に被災地では殆どのところで停電したが、復旧したところから順次通電していった。 しかし、それによって火災が発生したところがあったが、これだってその当時、電力会社が全ての供給先の状況をチェックすることは不可能であった。 あのような状況では全体の利益が優先されるのはやむを得なかったことは誰が考えても納得できることであろう。


 損害賠償請求額が1,330万円に対し、判決による支払い命令額が440万円というのは、裁判所がこの辺のところを参酌したのかも知れないが、それにしても市当局に責任ありとした判決は理解に苦しむ。 同じ被災者でありながら冷たいではないか、市当局の肩を持つのか、という声を恐れずに言うと、 最近は何でも他人の責任にしようという風潮があり、また司法も報道もとにかく 「弱者」 というイメージをつくれば世間に支持されると思ってか、真の公正さを失うような流れがあるように思うが如何なものだろうか? 


(99/01/04) しっかりしてよ文部大臣

 正月早々あまり文句を言いたくないが、どうにも腹に据えかねるのでチト言わせてほしい。 昨年11月、文部省の福地惇・主任教科書調査官が月刊誌の中で中国・韓国などアジア諸国への配慮を求めた 「近隣諸国条項」 を批判する発言を行ったことについて有馬文部大臣は同調査官を文書による厳重注意とした上で更迭し、初等中等教育局付とした。 文部省では、理由について 「検定で合格した図書を 『贖罪のパンフレット』 というなど、学習指導要領と教科書検定制度に対し、国民の信頼をゆるがしかねない発言があった」 としている。

 では、実際にその月刊誌で調査官はどのような発言をしたのだろうか。 月刊誌というのは 「月刊MOKU(黙)」 で、その昨年9月号の中において外交評論家の岡崎久彦氏(元駐タイ大使)との対談記事があり、問題とされる箇所は次のようなものであった。

      岡崎    結局、そういう見方というのは、、現代の歴史観で当時のことを解釈しているんですね。 僕はこれはやめるべきとだと思う。 われわれの子どもの頃は皇国史観で書かれた歴史を読まされた。豊臣秀吉は偉かったというために、秀吉は朝廷に献金して皇室の尊厳を回復したから、勤皇の志があって偉かったと教えられた。 秀吉が偉かったのはもっと別の理由でしょう。今度は、戦後になると、戦後の平和主義史観で、戦前の人は帝国主義だからみんなけしからんと言うわけですね。 ああいう歴史観というのは治らないですかね      
福地  ちょっと無理ですね。 私は今年の4月から文部省の教科書調査官になったんですが、平成十年度は小学校の社会科で6年生から日本史が入っていまして、それを読むと、近代史が幕末現代までの半分ぐらいあって、ほとんど戦争に対する贖罪のパンフレットなんです。 それで、侵略戦争を二度としないようにするためには、どうしたらいいかということが最後の結びになっている。 僕はちょっと気が滅入りました。
 あの戦争はよかったとは言えませんが、わけありでああいうことになったわけで、日本だけが悪いという感じで書かれると、子ども達が本当にどういう気持がするだろうかと思いますね。
岡崎  現代のモラルを過去の歴史に当てはめて考えるということをやめるということにならないのかな。 文部省の中でそれを正面から取り上げても駄目ですか。
福地  難しいですね。 というのは、政府がそう言う方針で、鈴木内閣の宮沢官房長官の教科書問題のとき以来、歴代首相がずっと謝っていますからね。 しかも、教科書検定のときに、近隣諸国条項というのがあって、日本は侵略戦争をして悪かったと書いていないとまずいんです。 そういうがんじがらめの体制になっていますから、教科書を書く人が、戦前から戦後の日本というものをあまり貶めて書きたくないと思っても、それができないわけです。
 いずれにしても、朝鮮や中国が可哀想だという風潮というのは戦後ずっとあって、特に近時に至って倍加されているわですが、1860年代に遡って考えれば、日本も朝鮮も中国も、欧米諸列強に支配されるかもしれないという意味では、同じような立場にあったわけですね。 勝海舟も日韓支三国連携論で、日本と朝鮮と中国は同じような立場にいるから協力してやっていこうと言っています。

 これは、福地調査官が誌面ではわざわざ断っていないものの、公の立場で発言しているものでなく、個人的な感触、考えを率直に述べたもので、何も文部大臣がことさら大袈裟に問題化して取り上げ、また、同調査官を更迭までするほどのものでもあるまい。

 大体、ここでいう 「近隣諸国条項」 なるものの存在がおかしい。 これは昭和57年秋、文部省の教科書検定基準に追加された 「近隣のアジア諸国との間の近現代歴史的事象の扱いに国際理解と国際協調の見地から必要な配慮がなされていること」 という何だか訳の分からない項目を指す。 発端はその年の夏、「華北への侵略」 が検定によって 「進出」 に書き換えられた、と日本のマスコミが一斉に報じ、中国や韓国から批判された問題であった。(これはMATも記憶がある) 当時、鈴木善幸首相が訪中を控えていたこともあって、当時の宮沢喜一官房長官(いまの蔵相)は 「政府の責任で教科書の記述を是正する」 とか、「近隣諸国との友好に配慮し、検定基準を改める」 とするお粗末な談話を発表、これに基づいて作成されたのが近隣諸国条項である。

 しかし、これはマスコミによる誤報だったのである。 が、ごく一部の新聞を除いて殆どのマスコミは訂正記事を出さず黙殺したために大部分の我が国の国民は、それを事実として認識したままになっている。 従って、この時点で一連の宮沢談話は見直されるべきであった。 それどころか、この近隣諸国条項が教科書に与えた影響はとてつもなく大きいものになった。 日清、日露戦争までさかのぼって 「侵略」 と記され、旧ソ連が日ソ中立条約を一方的にホゴにして旧満州になだれ込んで侵略した事実は 「進撃」 と書かれるようになった。 バカらしいったらありゃしない。

 さらに、南京事件の犠牲者数についても、東京裁判の不当な認定による 「20万」 とか、中国側発表の 「30万」 といった誇大妄想的数字に検定意見がつけられないまま、一人歩きしているのだ。 要するに中国や韓国におもねるあまり、我々日本人の先輩をことさらにおとしめる記述が増えているのである。 こんな教科書で教育される子ども達こそ迷惑な話であり、成長した暁には、いわゆる 「進歩派」 とか、「文化人」 とかと呼ばれていい気になっている国籍不明な人種を輩出(排出と言った方がいいか)する要因になっている。 第一、かつて明治以降、大東亜戦争終結に至るまで、列強各国による支配から日本を救うために命を捨てた諸先輩にあまりにも非礼であり、冷酷な仕打ちではないか。 このような近隣諸国条項こそ早急に見直しをするべきだ。 外交カードとして、これからも謝罪と反省を求め続けるであろう中国や韓国に、いつまでもペコペコすることは、この際はっきりと決別すべきであろう。 でなければ日本は彼らのキャッシュ・デイスペンサー(現金自動引き出し機)になり続けることになる。


 何事でもそうであるが、歴史においても光と陰がある。 何でもかんでも反省し、へりくだって謝罪すればいいというものではない。現代の価値観とか世界観で当時の歴史を評価すること自体が間違っている。 これを繰り返す限り、中国や韓国とは歴史認識の一致なんて未来永劫あり得ない。 太平洋戦争は確かに日本が先に手を出したものだ。 東京裁判ではこれを 「悪」 とした。 しかし、なぜそのような事態になったかという、その背後にあった経緯とか要因を徹底的に論ずることこそ重要だった筈ではなかったか。 交通事故の現場で「交通事故ハンターイ」と叫んだところで何の意味もないのと同じである。