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MATの言いたい放題(98/4月〜7月分)

(98/06/29) 新聞も双方向メデイアを (98/07/11) サッカーってスポーツ? (98/07/20) 借金体勢からの脱却を
(98/04/30) 聞き飽きた「ナイジュカクダイ」   (98/05/21) 10年前に戻ろう   (98/06/23) 最低の常識くらいは持とう
(98/04/5) 高校野球は誰のものか? (98/04/14) 所沢高校事件に思う (98/04/19) 格付け会社は信頼できるのか


(98/07/20) 借金体勢からの脱却を

参議院議員選挙で自民党の後退、非自民の進出で世の中がさわがしくなってから早くも一週間が経った。その原因は、橋龍政権の経済政策の失敗とともに、投票率が予想以上に高かったからといわれている。投票率が高いから敗れる自民党も脆い政党である。まるで義理で来てくれる固定客を掴んでいる飲み屋が「イチゲンさんいらっしゃーい」と扉を開けたところ、そんな客は皆ほかの店に行ったようなもの。

 さて、昨日の日曜日、朝のテレビ番組 「サンデープロジェクト」 を見た。この番組にはしばしば大物といわれている政治家などが出演しているので気が向いたときはチャンネルを合わすが、如何せんここの司会者がお粗末でどうしようもない。私はこの司会者は最低の司会者だと思っている。せっかく出演者が問題の核心を話しかけようとしているときに突っ込みを入れて話の腰を折る。相手から大事な話を引き出すのが司会者だ。それを自分の主観を相手に押しつけたりして自分の役目を忘れている。見ていて、こちらがストレスがたまる。数年前に某シンクタンクの所長がとうとうキレて 「黙れッ」 と一喝していたのを見て拍手したものだ。

 まあ、こんな司会者のことなど、どうでもいいことで、昨日この番組を見たのは、今度の自民党後継総裁を争う三人の候補者が出ていたからだ。新聞紙上によると、このお三人はそれぞれ政権構想なるものを披露しているが、どうもいまいち信用していいのかな? という気がする。それぞれ皆さん心の底からその構想を自分の信念として掲げているのだろうか。どうも他の候補者と何か違うカラーを出さなければというだけで空念仏を唱えてはいないか。

 と、言うのは、政党や政治家の構想なるものほどいい加減なものはない。この度の選挙でも、或る政党は 「消費税を元の3%に戻そう」 てなことを堂々と掲げていたが、その党はかつて自民党が消費税法案を出したとき、絶対反対を唱え、また同法が成立すると、その後の選挙ごとに 「消費税撤廃」 を声高に叫んでいた。ところが、今度の選挙ではいつの間にか3%なら是認ということを言っている。これなどはほんの一例で、とにかく節操のないこと甚だしい。政権構想なんて国民を欺くその場凌ぎのスローガン程度に受け取ったほうがいいみたい。     

 節操がないと言えば、3人の候補者はいずれも経済建て直しのために巨額の財政出動と財政構造改革法の凍結・棚上げ・廃止などを主張しているが、彼らのうち二人はついこの間までは財政構造改革法堅持の立場にいたではないか。さらに残りの1人も今でこそ積極的な財政出動を主張しているが、昨年、閣僚を出るまでは同じ考えを述べていたのだ。ところが親分コケたらその後釜に座るべく向こうウケすることばかり言い出す。要するに国民をバカにしているのだ。

 確かに一般国民はそのようなことは非常に心地よく聞こえる。しかし、その巨額の財政出動の原資はどうするのか。 「赤字国債だ」 とシャアシャア言う。では、その償還の原資は?となると 「今の若い人や次の世代の人が払えばいい」 とくる。こんな無責任な話ってありますう? 今だって国と地方で530兆円(国民一人当たり422万円!)もの借金があるのですぞ。 なんですって? 今は苦しいからそんなこと言っておれない? 冗談じゃない、それは言い訳で、かつての栄華を忘れられないだけではないか。それならその辺のぐうたら亭主が遊興費欲しさにサラ金に転げ込むようなものだ。

 このところ、外国から、特に米国と中国からははさかんに 「指導力のあるリーダーが首相に就任し、景気の回復に思い切った政策をとることを望む」 なんてことを言ってきているようだが、放っといてくれと言いたい。そりゃあ彼らにすれば日本の後世の人が苦しもうがどうしようが、とりあえず今、日本の景気を少しでもよくして日本から物を買ってほしいだろうが、借金の返済をするのは他ならぬ我々とこれからの若い人たちなのだ。

 また、そのような外国の言い分を、どこの国のマスコミかと思いたくなるくらい、連日紙面いっぱいにアメリカなどの代弁を繰り返している我が国の報道機関は如何なものか。なにせ日本ほど外国の論評を気にする国はない。私はフランスという国はあまり好きではないが、自分の国の誇りと独自性をしっかり持っているという点では我が国の政治家もマスコミも、そして国民も見習うべきだろう。それがナショナリズムというものではないか。米国も中国も 「日本はアジアに責任を果たすべきだ」 と言ってるが所詮は自国の国益でものを言っているのだ。そのような中で日本だけが博愛精神を発揮しなければならない謂われはない。

 とにかく、他国から何と言われようとも、景気回復という大義名分があろうとも、これ以上の財政悪化は絶対に避けるべきだ。今まで我々の世代は十分に生活を楽しんできたではないか。失業率が高くなったとはいえ、好況を謳歌しているアメリカと同じ水準であり、ヨーロッパの先進諸国に比べれば遙かに低い。我々一人ひとりも少しはこれからの人たちのことを考えようではないか。今だけのことを考えて安易な解決策を採ると国家百年の計を誤る。 昨日の出演者のうち、1人でもそのような論調を展開して欲しかった。


(98/07/11) サッカーってスポーツ?

 W杯サッカーたけなわである。今月13日未明にはいよいよ決勝。小生のみならず日本全体が寝不足だろう。大体フランスなどでやるのがいかん。時差があるのがいかん。地球の丸いのがいかん。 それにしても、この騒ぎようはチト異常じゃないか。NHKのBS放送に鼻面を引き回されているようなものだ。

 サッカーというとどうしてこんなに世界中が熱くなるのだろう? どうもわからん。巷では、「サッカーは完全に国と国との戦い。戦争と同じだ」という声もあり、その反面、東欧の紛争地域からは 「それは戦争を知らない人間の言うことだ」 との声もある。小生にはよくわからんが、どうも民族と民族の精神的ぶつかりゲームのように見える。

 日本チームは初出場で勇躍挑んでいったが、経験不足、体力不足、スピード不足などがものを言って見事全敗して帰ってきた。しかし、これは充分予想していたことで当然といえば当然のこと。ヨーロッパや南米などは数十年も昔からサッカーがプロ化しており、片や我が国では5年前にやっとJリーグが出来たヒヨコのようなもの。いわばプロサッカー元年時代であろう。それを同じ土俵でやろうってんだから、横綱、大関と幕下がやるようなもの。レベルの低いアジアでたまたま勝ったために出場したまでのもので、負けたのは監督や選手の責任ではない。今までその下地をつくってこなかった我が国サッカー界の諸先輩の責任というもの。

 しかし、サッカーというのはダーテイなスポーツだね。こんな汚いものはない。相手のシャツをひっ掴むわ、足払いをするわ、後ろから羽交い締めにするわ、もう何でもあり。そうそう、頭突きってのもあったな。その度にファウルや退場でプレーが中断したりして興味がそがれることおびただしい。こんなの他のスポーツでは考えられないこと。 「それがサッカーだ」 と言うなら、「ではプロレスと同じレベルか」 と言いたい。と、するとこれはもうスポーツではない。ショウである。

 プレーもダーテイならファン(サポーターって言うの?)もあまりフェアではない。武運つたなく敗れて帰ってきた選手に空港で飲料水か何かをぶっかけたバカが居た。こんなの他のスポーツでは考えられない。オリンピックなんかごく一部の選手が入賞したりはするが、多くの選手は国際水準の壁を乗り越えられずに破れて帰ってくる。しかし、こんなことが起こったことがない。実際の戦争でも、先の大戦で敗れて帰国した復員兵には、当時は国民こぞって暖かく迎えたものだ。それをたかがサッカーごときに負けたからと言って水をぶっかけるのは自分のウサ晴らしに過ぎん。そんな奴は他のサポーターで袋叩きにすればいい。  と、言いつつ13日の未明には4時起きか。


(98/06/29) 新聞も双方向メデイアを 

世の中には色々な新聞がある。スポーツ・娯楽新聞など、ゴシップを売り物にしている新聞は売らんかな姿勢が見え見えで内容は甚だ眉唾物が多いし、また読者もあまりマジで読んでおらず、丸々信じていない。まあ、それは別として、一般紙ではもう少し責任ある記事を書けないものだろうか。例えば、皆さん方の極めて近いところで災害や交通事故その他何らかの事件が起こって、それを目撃したとする。翌日の新聞を見る。「なんやこれ、事実と違うやないか」 ということが往々にしてありませんか? 

 或る報道によると、韓国最大の発行部数を有する新聞が今年4月から、殆どの記事に筆者のEメールアドレスを掲載し、読者が記者本人に直接、質問や感想、意見などを伝えることができるようにして、新聞を双方向性のメデイアに変えようとしており、同国の他の新聞も次々に追随しているという。片や我が国の新聞ではそのような記事は未だお目にかかったことはなく、署名記事ですらたまにチラと見られるぐらいなものである。韓国の新聞は以前から大部分の記事が署名入りだそうである。彼の国の新聞の方が余程責任を自覚しているのではないだろうか。責任のないところに正確で質の良い情報を提供できないことをしっかりと認識しているのだろう。

 同新聞社で、Eメールアドレスを掲載することを提案したのは、まだ28歳の若い記者で、開始に当たって社内でも様々な異論があったが、社長の「やってみよう。そのほうが読者もパソコンを使いたくなる」 という鶴の一声で決まったという。なんと視野の広い経営者ではないか。国民全体の情報化推進にまで目を配っているのである。翻って日本の各新聞社にこのような革新的な発想を実行に移すところがあるだろうか。

 また、その提案をした若い記者はもともと「パソコンやインターネットが苦手な記者が多すぎる。新聞が情報化時代に生き残るためには、Eメール程度は出来ないと・・・」 ということが原点であったという。日本の記者さん達も耳の痛い向きが多いのではないだろうか。そう言えば、ホームページを開いている私の知人が「インターネットを体験したことがない記者が俺のホームページの取材に来た」 とこぼしていたなあ。

 我が国でも各新聞社ともホームページを設けており、一応読者の意見などを聞く体制にはなっているようだが、読者と記者との直接のコミュニケーションに比べてどうにもまどろっこしい。しかし、新聞社では言うでしょうな。「そんなことをすれば記者が仕事にならない」 と。 でも、韓国の新聞が出来てどうして我が国の新聞が出来ないのだろう? それに、大事なことは、そうすることによって新聞にとっても更に掘り下げた新しくて深みのある情報がもたらされることが期待できるというもの。

 新聞もこれからは双方向の電子情報の世界に大きく踏み込み、テレビなどとの徹底的な差別化を図らなければ活字メデイアとして生き残れないだろう。現実にインターネットをしている1人住まいの若者達は新聞を取っていない人が多いのは、既にその警告を発しているようなものだ。


(98/06/23) 最低の常識くらいは持とう 

最近では駅やオフィスなどでは禁煙が常識となり、喫煙者にとっては世間が狭く感じるようになったようで、いささか気の毒ではある。小生MATも今はタバコを吸わないが、10年ほど前までは相当なヘビースモーカーであったので、近頃の禁煙運動は喫煙者にとっては、かなりつらいものがあるのではないかと同情の念を禁じ得ない。

 さて、先日の新聞報道によると、60歳代の人が、長期間タバコを吸っていて、肺などの呼吸器がガンに犯されたため、国とJT(日本たばこ産業)を相手取って 「喫煙の有害性について正しい情報を提供しなかった」 という理由で損害賠償請求の訴訟を起こしたという。

 これに関して新聞の読者欄に16歳の高校生から 「そんなことは自分の責任ではないか」 という批判があり、それに対して、たばこ病訴訟弁護団が後日に同じ紙上で 「大蔵省とJTが喫煙についての正しい情報を隠して、たばこ拡販政策をとってきたことが問題の核心だ。正しい情報が与えられていないところに正しい選択の自由(自己決定)はない」 と、反論している。

 しかし、これはどう考えても原告側に無理があるのではないだろうか。たばこが健康の害になるということは何も今に始まったことではない。 「酒は百薬の長」 と言って酒は飲み方によっては健康面でプラスになる一面を持っているが、たばこは 「百害あって一利なし」 と言うくらいマイナス面ばかりである。このことは幼稚園中退の小生ですら若い頃より教えられていた。 と言うことは小生と同じ年代と思われる原告も若いときからそのようなことは知っていた筈である。

 酒だって毎日多量に飲み続けると肝硬変になるおそれが多分にあることも常識になっている。しかし、それを無視して飲み続け、肝硬変になったからと言って国と酒のメーカーにそのような訴えが出来るだろうか。

 健康には全く無害と言われている水だって飲み過ぎれば溺れ死ぬ。その場合、遺族は水道局に 「大量に飲むと溺れる」 という情報を提供しなかったという訴えが出来るのだろうか。

 車だって無茶な運転をすると事故につながり、大怪我をしたり、天国に直行したりする。そんなとき、通産省や車のメーカーに 「スピードを出しすぎると大事故になる」 という正確な情報を提供しなかったという理由で告訴するのだろうか。

 どう考えても自分の責任を回避した言い分にしか思えない。いまどきヤクザでもこんな筋の通らない言いがかりはつけない。これらはいずれも人間が 「ごく普通の常識」 で判断すべきことだろう。たばこ病訴訟弁護団が言う 「正しい情報が与えられていないところに正しい選択の自由はない」 という言い分には何としても納得できない。サルやパンダじゃあるまいし、少なくとも人間の成人であれば、いちいち細かい注意を与えられなくても、それくらいの常識は自分でわきまえて判断するのが社会生活における最低条件ではないか。よくある薬害事件などとは根本的に違うのだ。

 純朴な高校生の疑問に対し、立派な大人達がこのような主張をするのは、あたかも 「自分の責任は他に転嫁してもいい」 と吹き込んでいるようなもの。最近の子供達が自己責任を理解しない風潮は、このようなことにも原因があるのではないか。忌まわしい病に冒されたことは気の毒に思うが、原告はあくまでタバコが健康に悪いということを知りながら自分の欲望に負けて吸い続けた結果、健康を害したことを受け入れ、現代の最良の治療を受けて希望を持って生きるべきではないだろうか。


(98/05/21) 10年前に戻ろう

 90年代初頭から始まったこの不況も、かつてない長期にわたり、我が国の経済もこのところ「忍」の一字である。それだけに、景気の浮揚策が叫ばれて久しい。勿論、国内だけでなく、タイ、インドネシア、韓国などのアジア諸国の経済苦境も日本の比ではなく、インドネシアに至っては極めて不幸な事態に陥っている。欧米諸国からは、それらを立て直すために日本はもっと内需型の景気上昇を図れと、いやまあ外野席のうるさいこと。

 しかし、そんな声に惑わされていると、とんでもないことになりそうだ。いま、この不況を克服して我々の生活を良くしようということは悪いことではない。しかし、そのことだけを考えていると、とんでもないことになる。 この世の中が今世紀中にでも終わるというのなら話は別だが、まだ当分は続きそうだ。問題はこの景気浮揚のことだけを考えて野放図に財政資金を使っていると、我々日本人は次の世代にとんでもないものを引き継いでしまうことになる。

 今や我が国の財政はまさに沈没寸前だ。病人で言えば重体の状態である。これは勿論、何年にもわたり大きな赤字が続いた結果だ。しかも、この病状は回復するどころか日に日に悪化の一途をたどっている。国の一般会計歳入は、租税などで約60兆円である。しかるに一般会計の歳出額は77兆円。差し引き17兆円の赤字になる。これがそのまんま国債発行すなわち借金となる。なんと年間必要経費の22%もの額を借金に依存している。典型的ビンボー家庭のMAT家も顔負けである。

 このようなことを毎年繰り返しているものだから、我が国の借金はどんどん増えて、もうニッチモサッチモもいかなくなってきている。昨日の新聞報道によると、4月に打ち出した総合経済対策の財源として10年度補正予算案で計上した赤字・建設国債16兆円などを含めると、国の長期債務残高が10年度末になんと400兆円に達するという。これは年間歳入の7年分近くになり、勿論、大和朝廷発足以来最大の数字である。

 さらに地方も含めた一般政府債務残高は544兆円にもなり、政府見通しのGDP(国内総生産)520兆円を4.6%も上回り、先進国中最悪の財政事情となっている。これは老いも若きも国民一人当たり436万円にもなる。考えただけでも貧血を起こしそうな金額ではないか。さらに今のままではなお年々増え続けるのだ。これはどうみても若い人たちから 「親父や爺さんらは何という無責任なことをしてくれたものよ」 と、言われても言い訳は出来ないと思う。

 現在の不況の原因は勿論、バブル崩壊にあることは明白であるが、そもそもそのバブルなるものは我々人間の「欲」から派生したものではないか。 これはバブルにとどまらず、明治維新この方、国力も国民の生活水準も諸外国に追いつき、追い越そうとして常に前年比○%アップをかけ声に必死に拡大生産を続けてきた結果、穏やかな経済のウエーブに歪みを生じ、とうとう大津波を引き起こしてしまい、その山のような津波が崩れてきて正常な経済を叩きつぶしてしまったものだ。

 今、我々はこのことから景気の建て直しに必死になっているが、それだけでいいのだろうか? 立て直そうとすればするほど国は財政資金を使う。それはそのままそっくり国の借金として残る。そして我々の子や孫に引き継がれる。いま生きている人はそれでもいいかも知れない。しかし、後に残る人たちはたまったものではない。我々はそのことをもっと真剣に考えるべきではないだろうか? いや、わかってはいるが、敢えて見て見ぬふりをして 「なんとかこの場は・・・」 と考えているような気がしてならない。これ即ち我々のエゴで、現代の我々はとんでもない罪を犯しているのではないか。「あとさき考えず」と言うが、まさにそれが言える。

 財政改善には行政改革並びに根本的かつ強力な財政構造改革が必要なことは明らかであるが、もうそれだけでは追いつかないところまできている。ここで、我々国民の意識も大きく変えなければならないのではないだろうか? それは、この不況を不況と思わず、これがこれからの在り方だと思えばどうだろう。今の経済指標は平均的にはバブル直前の10年前とほぼ同じだという。それでもいいではないか。10年前でも我々は十分に生活をエンジョイしていた。

 人間の欲望ほど限りのないものはない。しかし、我々が生活水準の上昇を無限に追求して拡大生産を続けていけば、財政的にも資源的にもどうなるか。とてもじゃないがこのMATの残り少ない脳細胞では想像もつかない。しかし、何かそこには暗い闇のような恐ろしいものが待ち受けているような気がする。

 国が借金をしていても、自分たちには関係ないと思っている人も多いだろうが、それは必ず近い将来一人一人の頭の上に重く被さってくる。いや、もうすでに充分被さっているのだ。国の一般会計歳出77兆円のうち、国債費すなわち借金の返済と利払いが17兆円もある。(うち72%が利払い)しかるに歳入は60兆円しかない。従ってその差額の17兆円はまた借金である。いうなれば国家的チャリンコ操業である。もし、この国債費がせめて半分であれば、残りで阪神・淡路大震災の全壊家屋はすべて公費で新築しても折れて曲がってお釣りが来る。さらに国の安全のためにもっと投資することが出来る。でなければ災害面からも安全保障面からも国民を守ることすら出来ない。

 とにかく、もうこれ以上贅沢を望むのはやめようではないか。そして、今までの罪滅ぼしに、生活水準を少々ダウンさせてでも、2〜3年おきに1%ずつ消費税を引き上げて10年ほどかけて今の5%を10%程度にまでもって行けば10年くらい後には、現在に比べて年間で10兆円ほどの財源増加につながる。そして予算の伸び率を2%程度に押さえれば、かなり借金を減らせていけると思う。せめてこれくらいは我々としては次世代のために負担する責務があると思うが如何?


(98/04/30) 聞き飽きた「ナイジュカクダイ」

 つい先日、アメリカのフォーリー駐日大使は、「アジア諸国が経済不況に伴う通貨危機に瀕している今、日本が出来る最も大きな支援は日本の経済を回復させることだ」 などと指摘した。また、同大使は「日本の経済回復は内需中心に行うべきで、輸出による需要を一時的に使うべきではない」 と明言し、さらに 「最も重要なことは日米間の貿易収支が悪化していることだ」 と段々と悲鳴に近い本音を漏らしている。

 今月初旬には米国の有力紙W.ポストが 「みんなで日本をバッシングしよう」 と公然と働きかけている。さらに 「将来の健全財政に重きを置いているために景気回復策をとらず、それが東南アジアに害をもたらし米国の対日赤字を増やしている。それに日本はアジアに対して責任を果たしていない」 と批判した。最近ではイギリスやフランスまでもが米国の口車に乗って 「アジア諸国の不況は日本の責任」 と、のたまう。

 いずれも余計なお世話だと言いたい。そもそも全米でも影響力のある有力紙が 「日本を叩け」 とはなんたる軽挙妄動であろうか。尤もこれは米政府のいらだちを代弁しているにすぎないが。それにしてもいつの間に政府お抱えのご用新聞に成り下がったのだろうか。このようにアメリカは国益のためにはマスコミを含めて官民が一体になり、かつてのソ連政府とイズベスチェア、中国政府と新華社のように、一過性とはいえ社会主義の一面を持つときがある。こういうのを勝手主義という。

 言われるまでもなく、今の日本国内の不景気はバブル以前の経済政策の失敗によるところが大きく、また、その後の日本政府の景気対策には、小生MATも、その方策といい、タイミングといい、全面的に賛意を表するものではないが、これが外部から説教がましいことを言われるとなれば、いささかカチンとくる。中学生じゃあるまいし、いい歳をした熟年がキレても絵にならないがひとこと言いたい。
 
 日本は曲がりなりも、これまでに400億ドル(5兆4千億円)にのぼる景気刺激策をとった上、今回さらに1,200億ドル(16兆円)もの追加をしている。今の世の中、景気面では一人勝ちの米国を除いて世界中どこの国でも大なり小なり不景気であるが、結果はともかく、これだけの大規模な景気対策をとっている国がほかにあるだろうか? それも最優先政策の財政再建を一時留保してまで行っている。それもこれも国内だけでなく、アジア諸国を支援するためということを視野に入れてのことである。それでも思うように景気が回復しないのだから、どうしようもない。馬鹿のひとつおぼえのように 「景気を回復しろ」 と叫ぶなら、魔法のようなその方策を具体的に示して貰いたいものだ。無い物ねだりをするのは幼児かサルでも出来る。

 しかも、その景気回復策にしても、「内需中心にしてアメリカへの輸出は抑えろ」 と言うのだから勝手もいいところ。国際商品というものは水が高いところから低いところへ流れるがごとく、品質の高いところから低いところは流れるものだ。これが自然である。この流れを押さえたら、一体どういうことになるか。日本の景気はまさに壊滅的になってしまうだけでなく、米国自身も大変なことになる。というのは、いま日本の輸出は7割が資本財である。資本財というのは製品を作るために使われる部品や材料、それに工作機械のようなモノづくりに使われる資材である。だから資本財の輸出を止めると米国自身が酸欠状態になる。このことを知った上で言っているのだろうか。

 米国は何かと言えば 「アメリカ製品を買え」 と言う。しかし、考えていただきたい。皆さんのご家庭にアメリカ製品が一体いくつあるでしょうか。我が家には見渡したところなにひとつ無い。あ、そうだ、たったひとつあった。パソコンの中のインテルのCPUだ。しかし、これとて東南アジア製だ。欲しいモノがないのに買え買えというのを押し売りという。米国は何かというとアンフェアという言葉を使うが、彼らにとって都合の良いことだけをフェアというクセがあるから気を付けたほうがいい。

 ひとり勝ちしている上に他国にあれこれ指図するのは傲慢もいいところだ。太平洋戦争が起こった原因に思いを馳せるべきだ。余談であるが、小生は今でも思っている。太平洋戦争が起こった原因はアジア諸国で市場を失うのをおそれた米国の白人優位主義による日本バッシングと封じ込め政策にあったと。あれほどまでの 「いじめ」 を受ければ日本としても立ち上がらざるを得なかった。また、米国もそのようにし向けた。日本の若干の行き過ぎはあったとしても、当時の日本の中国での動きが云々というのは、封じ込め政策の動機が欲しいためのこじつけであったと考えている。

 それに、「日本はアジアに責任を果たしていない」 とは何事かと言いたい。こんな事を言うと政府の御用発言かといわれるかも知れないが、一人の日本人として言いたい。それに日本人が日本を弁護しなくて一体誰が護るというのだろう。日本はタイや韓国、インドネシアの経済危機を助けるため、IMF(国際通貨基金)の支援努力に対し、第二次融資枠で総額190億ドル(約2兆5千億円)もの融資を提供した。それに対し米国は80億ドル、欧州連合(EU)は8カ国が束になって62億ドル、全部足しても日本の融資額にも及ばない。日本の貢献度は突出しているではないか。

 今月の21日、スイスの国際経営開発研究所は世界の主要46カ国・地域について「1998年世界競争力報告」を発表したが、その中で、1位は米国であるが、2位にシンガポール、3位に香港(地域)、台湾16位、と上位を占めている。ちなみに日本はこのところの国内経済活動、資本力、経営管理の分野で大きく後退したため、総合順位を下げ、18位に甘んじている。(チト情けない) このほかに現在は経済不振で順位を下げたが、昨年まではマレーシアなども上位に入っていた。

 これらの国々が第二次大戦後、大きく経済基盤を引き上げたのは日本の技術・資本によるところが大きいのは世界の誰もが認めるところである。過去半世紀にわたって日本からこれら諸国に官民による援助を含む投資した額は天文学的な規模になるであろう。その結果、東南アジア・東アジアでは、一人当たりGNP(国民総生産)が1万ドルを超えている国はシンガポール、台湾など、日本を除いて3カ国もある。いうなれば日本の経済圏に入っている国々は世界の他の地域では見られない経済発展を成し遂げているのである。

 それに引き替え、米国の経済圏である中南米、ヨーロッパ諸国のそれのアフリカではどうであろうか。中南米では、メキシコ、ブラジル、アルゼンチン、ベネズエラの4カ国だけでもその対外債務合計額は4,500億ドルもの巨額に達している。対外債務を持つ発展途上国は80カ国あるが、メキシコ、ブラジルはその中でも1位、2位を占めており、東南アジアの国々の比ではない。アフリカの諸国ではGNPが一万ドルを超えている国は1カ国もないどころか一人当たりGNPが 500ドル(約67、000円)にも満たない国が30カ国もあり、世界の最貧国を一手に引き受けている。 
 
 これは一体どういうことなのか。米国は中南米に非常に強い影響力を持っているにもかかわらず、それらの国々の経済発展が進んでいない要因に米国の責任はないのか。メキシコをはじめとする巨大債務国に対し、米国はどんな手を打っているというのか。中南米諸国では、冷戦時代ですら米国に対する国民の人気はソ連以下であったことを思うとおよそ察しがつく。

 また、アフリカに至っては全部と言っていいほどヨーロッパ諸国の植民地であった。彼らはそのアフリカで何をしたのだろうか。ひたすら黒人を奴隷として働かせ、その土地の資源や財産を略奪・搾取して本国に持ち帰り、アフリカ全土を痩せ衰えさせた挙げ句に第二次大戦後、彼らが独立のノウハウを持たないまま放り出して手を引いてしまった。後に残ったのは「貧困」と「政情不安」だけで現在に至っている。

 これで欧米諸国は自らの経済圏で責任を果たしていると言えるのだろうか。日本に対して説教じみたことを言える筋合いではないだろう。米国はなぜもっと中南米諸国から物を買ってやらないのか。イギリス、フランス、スペインなどは、かつての宗主国として、なぜ旧植民地の経済発展と政治の安定にもっと力を貸してやらないのか。納得のいく説明をしてもらいたいものだ。

 欧米諸国は日本に対して、「財政再建を棚上げして景気浮揚に邁進せよ」 と叫ぶ。そんなことは言われなくても分かっている。しかし、それにも限界がある。国や地方の財政が破綻すればどうなる。国家財政が破綻すれば我々国民一人ひとりが世界に対して信用がなくなると言うことだ。そのいい例が近い将来米国で起こるかも知れないのだ。

 米国はいま、空前の株高でNYダウは一時1万ドルを超そうかという勢いだった。しかし、これはどう見てもバブルである。彼らは 「米国は世界の経済優等生」 と浮かれているが、それも今のうちだろう。経済規模が世界一の米国のバブルがはじければ、日本のバブル・パンクとは比較にならないくらい世界的な影響が大きいというのにFRB(連邦準備銀行)はなんら手を打っていない。どうして彼らは日本のバブルを見習わないのだろう。犬でも学習能力はあるというのに。これこそ無責任というもの。

 5兆ドル(約670兆円)をはるかに超える累積赤字を抱える米国は、将来ドルが大暴落をするのを予知している。現在の不均衡から計量経済学者がコンピューターで計算した適正レートは1ドル=40〜50円ともいわれている。現在は日本の外国銀行でドル預金にすると邦銀よりも遙かに高い利息が付くが、小生なら仮に年利 100%でもドル預金は絶対にしない。

 過去15年間、通貨の国際協調の名の下に米国の赤字国債を買わされ続けた日本は、実に3,300億ドル(約44兆円)もの米国国債を保有してしまっている。すなわち日本国民一人当たり約35万円もの額を米国に貸していることになる。もし、ドルが暴落すればどうなる? 文字通り木の葉同様だ。このことを考えると、別の意味で米国に輸出するのは控えていった方がいいのかも知れない。そうなると先にも話したように米国が酸欠を起こす。米国の死命を制するのは案外日本かも?


(98/04/19) 格付け会社は信頼できるのか 

財団法人の調査研究機関、国際金融情報センター(大場智満理事長・・・元大蔵相財務官)は、企業の信用度をランク付けしている格付け会社を「逆格付け」する評価を行い、会員企業に提供する方針で検討に入ったことを明らかにした。

 格付け会社が、企業から依頼がなくても勝手に財務内容などを評価することが多くなっているのに加え、「結果的に誤っている場合がある」 ことから、信頼性に疑問の声も上がっており、格付け会社の実力度を知りたいとの要望が高まっているため、今秋までに内外の格付け会社に対して世界でも初の逆格付けを行う方針。

 本来は、格付け会社は、通常、企業から依頼され、経営者へのインタビューなども実施して財務内容や社債などの評価を行っている。ところが、最近はその企業の公開情報だけで評価を下す「勝手格付け」 が急増し、不当に低い格付けを受けた企業や金融機関の株式が一気に売り込まれ、経営不安をあおるケースが目立っている。

 また、今月3日には、ある格付け会社が日本の国債の格付けについて 「見直す可能性がある」 と発表したことから、円・株・債券のトリプル安が進むなど影響が大きい反面、その格付け自体の信頼性に疑問の声が上がってきている。しかし、同センターでは 「格付け機関が入手する情報が常に適正とは限らず、必ずしも客観的で公正だという保証はない」 と指摘している。

 同センターでは、格付け会社自身に分析手法や経営内容の情報公開を促す一方、投資家が格付け会社を選別するための「逆格付け」 が必要と判断、夏までに格付け会社各社に逆格付けの意向を伝えて意見を聞き、秋までに個々の分析手法の特徴や長所、短所等を評価したリポートを発表する予定とのこと。対象は、米国のムーデイーズ・インベスターズ・サービス社 と スタンダード・アンド・プアーズ社、日本格付け研究所など8社。


 さて、このような動きについては、やや遅きに失したという感がなきにしもあらずだが、大いにやってほしいところだ。今までどうしてそのような動きがなかったのか不思議なくらい。

 最近、小生が読んだ或る経済誌の記事によれば、日本の大手企業数社の格付けが、特に影響力のある上記ムーデイーズ社とスタンダード社とでは全く異なった評価になっていた。それを見た読者なら誰しも 「いい加減だなあ」 という印象を受ける筈。ということは両者による企業格付けはまったく信頼できないことになるのではないか?

 いくら世界的な権威のある格付け会社とはいえ、厳格な企業格付けなんて出来るのだろうか? それが出来るなら山一証券の簿外債務だって見抜けた筈。それを見破ってこそ、権威ある格付け機関というもの。どのように精査して評価したのか知らないが、決算書や有価証券報告書のような上っ面だけ眺めただけで、AAAとかBBBとか評価するのなら小生MATでも出来まっせ。企業がその気になれば大蔵省のコワイ検査でもごまかせるんだから。

 上記の2社の勝手な格付けのために、市場の評価を大きく落として不安視されたために、抹殺された企業は日本国内のみならず、世界中至るところにあるのではないか。

 こんなのに市場を振り回される方も振り回される方だが、この2社のために企業だけでなく、一国の経済や信用までが左右されるのは、どうも納得がいかない。とにかく亡霊のような陰に怯えて影響が大きすぎる。うがった考えをすれば、アメリカが自国の競争力を相対的に高めるために、格付け会社を抱き込んで相手国を混乱におとしめるという戦略も見えないこともない。事実、この2社の 「勝手格付け」 が今の日本の不況に大きな影響を与えたと見るが如何なものか。言うなれば日本叩きのための不公正取引であり、非貿易障壁であろう。

 同センターの素性から言って、「逆格付け」 をするについては、大蔵省の意向が大きく働いているだろうが、ことこれに関しては大賛成である。公正な通貨と証券の取引のためには、もし、必要であれば公的資金を投入してでも、このような亡霊を退治する必要があると思う。要するに国を挙げてでも、こんな不公正なことを許しておくべきでない。

 また、日本の企業も格付け会社に勝手な評価をさせないためにも、もっと自社の情報開示を進めるべきであろう。まして、上場企業であれば尚更のこと。隠そう隠そうとガードを固めるから、不透明な膜の外側から見られて当てずっぽうなことを書かれるのだ。それに、不公正な評価を公表された場合は、ブツブツとぼやいておらず、声を大にして抗議すべきだ。その上で正確なデータを提示して、場合によっては不当な損害を被ったことで告訴も辞さない態度が必要ではないか。そこまでやらない限り、結局は「勝手格付け」を認めたと、世間は見るだろう。

 ちなみに小生の我が家における亭主的格付けはCCCである。反論無用とのこと。


(98/04/14) 所沢高校事件に思う

 今月9日、埼玉県の県立所沢高校で奇妙な入学式が行われた。新入生398人のうち6割強が出席したが、残り4割近い新入生が入学式をボイコットして欠席したのである。これだけではない。これに先立つ3月9日の同校の卒業式には全校生徒1,236人のうち、わずか31人しか出席しなかったという。これはいったいどういうことなのであろう。小生のような頭の古い人間には???の連続である。

 同校ではここ数年学習指導要領に沿った正規の入学・卒業式が行われていないという「慣例」があったという。なぜそのような慣例ができてしまったのか。それは指導要領では、入学・卒業式には国旗掲揚・国歌斉唱が行われることになっているが、それに対して生徒会がかねてから反対していたことにある。

 これが生徒たち自身から出ている考えであれば「またまたあ」という程度になるのだが、実のところ話は簡単ではない。そこには、或る特定政治団体に影響された教職員組合、PTA、弁護士たちの陰が大きく被さっているようだ。

 もともと所沢高校は、生徒の自由や自主性を重んじる校風だったようだ。「自由を尊重する校風」。なんと心地よい語感ではないか。しかし、当たり前のことながら、その自由は決して無制限なものではないことは子供でも理解できること。生徒会長もPTA会長も「生徒の意思が尊重されないのが問題」と言っているが、それにも自ずから限度がある。生徒たちもそのことはよく分かっている筈だ。

 しかし、ひと昔前さながらに自分たちのイデオロギーに反するものの対象として 「国旗・国歌」 を右翼とか軍国主義の象徴だと声高に叫んでいるグループが、責任能力を十分に備えていない高校生たちを誤った方向に導いているだけでなく、扇動しているとしか思えない。

 国旗は今でこそ祝日でも、個人の家ではあまり掲げることは少なくなったが、官公庁では雨天の日以外は毎日掲げられている。また、甲子園球場でもプロ野球の公式戦のときにはバックスクリーンに日の丸が翩翻と翻っており、震災による被災者の仮設住宅街でも掲げられている所がある。では、県庁や市役所、警察署、甲子園球場のファンを右翼であり、軍国主義者の集まりだといえるだろうか? 

 国旗というのは愛国心、すなわちナショナリズムの象徴ではないか。このコーナーの2月17日付け 「国旗について」 でも述べたが、ナショナリズムというのは、民族が持っているごく自然な感情のことだ。過去の歴史から学ぶまでもなく、ナショナリズムのない民族は、如何に文明や経済の能力に秀でたものを持っていても、他民族から軽侮されバカにされる。祖国への健全な愛国心があってこそ、諸外国の国民に対しても彼らのナショナリズムを理解し、敬意を表することが出来るのである。それが本当の国際化ではないだろうか。

 そもそも教師たちもPTAも生徒の将来のことをどのように考えているのだろうか。子供たちは進学するにしても、就職するにしても、いずれは社会人になる。そのときに組織や社会の秩序を守れない人間を、また、自分の祖国を愛する人間を世に送り出そうとしているのか。そのとき最も不幸を味わうのは子供たちなのだ。こんなことが許されていいのだろうか。大人たちがどのようなイデオロギーを持とうと勝手だが、生徒たちを利用するのは卑劣というものだろう。

 ここで、おかしいことが2点ある。ひとつは入学式の前日に至るまで、文部大臣が 「校長が決めればいいこと」 と言っていたことである。学習指導要領は法的拘束力を持つのだから、なぜ、もっと強い調子で校長をバックアップしなかったのか。我々の見るところ、校長の孤軍奮闘の姿しか見えなかった。特定政党に遠慮したのか? 文部大臣たる者、正しい教育にもっと全力を尽くしてほしい。

 もうひとつは、このたびの事件はNHKと一部新聞では大きく取り上げていたが、他の各紙は全く取り上げていない。まるで意識的に無視しているようだが、いったいどういう積もりなのか。察するに、日頃から文化的機関を標榜している大多数のマスコミは、国旗→ファシズム→検閲 という警戒図式を座右に置いているが、さすがに今回のことは社会的に受け入れられないという矛盾を感じて黙視しているのではないだろうか。


(98/04/05) 高校野球は誰のものか?

 今や甲子園球場では春のセンバツがたけなわである。今年は第70回の記念大会でもあり、人気が盛り上がって入場者数は記録を塗り替えかねない勢いで、世間様の不景気もどこ吹く風。主催者も阪神電鉄もホクホクであろう。

 最近のように金融・証券の不正問題で社会全体がおかしくなって人々が信じるものが少なくなっているときに、昔に変わらぬ高校球児たちの純真なプレーが、たまらなく魅力のあるものに写るのが人気の秘密だと言われている。

 ところが、先日、外野バックスクリーン横のところから双眼鏡で相手チームの捕手のサインを盗み、次に投げる球種を自軍チームに知らせていた3人の人物が居たという。一時は高野連でも騒ぎになったようだが、結局確たる証拠がなく、うやむやになったらしい。

 翌日の新聞は各紙とも 「純真な高校野球を冒涜するもの」 という論調を展開していた。しかし、そうだろうか? テレビの実況中継を見ていてもよくわかるが、ランナーが二塁にいるときに、そのランナーが相手捕手が出すサインを見て、球種をバッターに知らせているのは誰もがはっきりと見ている。これなどはどうなるのだろうか? スタンドでサインを盗むのは悪で、選手がグラウンド上で盗むのはいいのだろうか? 純真なる選手であればなおさらサインを盗むようなことはせずに正々堂々と真っ向から勝負すべきだということにならないか。 と、言っても小生はサインを盗む選手を非難しているわけではない。選手たちにそのようなことをさせているのは誰かということだ。

 なにも今回のバックスクリーン事件に限らず、高校野球の競争の激しさといったらプロ顔負けだ。こんな例がある。春のセンバツの出場チームは前年秋の地区大会の成績をもとにして決められる。例えば近畿地区であれば、近畿二府四県(兵庫、大阪、京都、和歌山、奈良、滋賀)がそれぞれ県(府)大会をして、それぞれのベスト3校ずつが出場して近畿大会なるものを行う。そこで試合の組み合わせの抽選が行われる。その抽選が行われてから実際の試合までの数日間の情報合戦たるやすさまじいもの。

 遠路はるばる相手校のグラウンドに練習を偵察に行くなんて可愛いもの、また相手もサルものひっかくもの、練習日の朝になって急に練習場を秘密裡に変更する。すると今度は県大会でそのチームに敗れたチームの学校に出向き、なんとか相手の弱点をつかもうとする。こんなのは茶飯事。

 だいたい、高校野球が純真だなんてマスコミの営業政策がでっち上げた幻想だ。確かに選手たちは純真で、真面目にやっている。一番遊びたい年頃にもかかわらず、毎日暗くなるまで練習に励んでおり、監督の言うことを 「ハイ、ハイ」 と言ってひたすら従順にプレーに打ち込んでいる。見ていると涙ぐましいくらいだ。 しかし、選手たちは試合中でもグラウンド上では何ひとつ自分たちの意思でプレーできない。すべて監督の意思のままに動かされる。二塁のランナーが相手捕手のサインを盗むのも監督の指示によるもの。

 皆さんも記憶にあるでしょうが、今はときめくジャイアンツの松井選手が高校時代、甲子園で4連続四球で敬遠されたが、あれも相手チームの監督の勝利至上主義による指示によるもの。小生はあの場面を見ていて、あの投手がたまらなく可哀想だった。選手たち、特に投手は同じ高校生として堂々と勝負したかったに違いない。松井選手もそれがわかっていただけに、怒りは投手よりも相手監督に向けられたことだろう。高校野球が高校教育の一環だと言うのであれば、高野連は指導者に厳重に 「教育的指導」 をすべきであった。そこには、勝つためには手段を選ばずという大人の野望が大きく働いている。

 私が言いたいのは、高校野球の選手たちは純真だが、高校野球そのものは決して感動するほどきれいな世界ではないということ。マスコミの商業主義と大人たちの過剰な競争意識のために踊らされているのは選手たちとファンではないだろうか。あまり期待しない方がいい。