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芦屋の歴史・伝説(2頁目)

芦屋神社
朝日ヶ丘遺跡
打出天神社
大楠公戦跡
 


芦屋神社

 阪急芦屋川駅の北、開森橋を東へわたり、しばらく行きますと、大きな石灯籠があります。その右の坂道を10分ほど歩きますと芦屋神社に着きます。しかし、この坂はかなり急ですので、初詣に行ったとき、私、MATとカミさんはいささかフウフウ言いました。途中の高台からは芦屋市、神戸市、西宮市、大阪湾などの風景が一望の下に眺められます。

 境内は赤松や黒松、樫などの木でおおわれ、珍しい木や石でつくった塔などがあります。毎年4月第1日曜日には花祭りが、10月16日には秋祭りがあります。石段を上がって、左の方に行きますと、「水神社」と刻まれた碑があります。そこは小山のようになっていて、南側にトンネルのような入り口があって、石組みになり、奥の石の部屋に石ほこらが祀られています。これは今から1400年ほど昔の古墳です。芦屋の山麓には、このような古墳が沢山あったことがわかっております。

 「水神社」というのは、芦屋川のずっと上流に、弁天岩と呼ばれる大きな岩があって、水の神様が祀られていました。その後、芦屋神社に移され、「水神社」として祀られております。

 この神社は土地の人々から“天神さん"と親しみをこめて呼ばれているようですが、古くはこの神社が「芦屋天神社」と称していたからです。この天神社が「芦屋神社」と改称したのは昭和21年(1946年)のことでした。

 ご祭神は天穂日命(アメノホヒノミコト)ほか天照大神(アマテラスオオミカミ)・須佐之男命(スサノオノミコト)など17柱の神々です。天穂日命は、天照大神の第2皇子です。また出雲神社の神主でした。

 言い伝えによりますと、天照大神は出雲国を治めるために、天穂日命を遣わしました。当時出雲国を統治していたのは大国主命(オオクニヌシノミコト)でしたが、国土を奉還(返還すること)する代わりに、お宮を建てて私をそこの祭神として祀ってほしいと申し出ました。そこで天穂日命は宮殿を建てて、自らはそこの神主となったということです。

 この天穂日命の子孫が、この神社の辺りの村々に住んで、それぞれに祖神である命を奏祭していましたが、明治41年2月頃にそれらを集めて「芦屋天神社」が総鎮守社として成立します。境内末社・出雲大社のご祭神のお一人菅原道真公は、天穂日命の遠い子孫に当たります。

 芦屋神社の御神徳は、縁結びと受験合格で知られています。天穂日命が血を流さずに国土奉還を成功させた外交手腕、そして境内末社出雲大社のご祭神の一人、学問の神で菅原道真公の事績などへの篤い崇敬からの信仰です。


朝日ヶ丘遺跡

朝日ヶ丘遺跡 芦屋市山手方面の阪急バス芦屋病院西口バス停から南の方に少し下りますと、「朝日ヶ丘集会所・朝日ヶ丘遺跡」という標識があり、そこを東に歩きますとすぐに朝日ヶ丘遺跡があります。そこにはタテ20メートル、ヨコ10メートルくらいの、コンクリートで造られた立体模型があり、その上にあがって歩けば芦屋市内の遺跡の場所がわかるように工夫してあります。

 朝日ヶ丘遺跡は、今から34年前の昭和39年(1964年)2月に芦屋病院の南の方で道路工事があったときに県立芦屋高校の生徒が、掘り返された粘土の中から、これまでに見たこともない赤黒い土器のかけらを見つけました。考古学の先生に見てもらったところ、遙か8000年も大昔の縄文時代のものだということがわかりました。

 このことがきっかけとなり、市内の歴史研究グループも加わって発掘が行われました。長い年月、土の中にあったので、壺や鉢などの土器は、ひどく壊れて出てきますが、丁寧に作られた200本もの石の矢じりや石の斧、砥石などの道具のほかに、住まいの柱穴も見つかりました。

 朝日ヶ丘の縄文時代の人々は、自然の中で鹿やイノシシを追ったり、木の実などの植物や魚貝を採ったりして暮らしていたのでしょう。ですから同じ場所に長くとどまる暮らしは難しかったと思われます。

打出天神社

打出神社 阪神打出駅の少し北に打出天神社があります。天神とは各地の地名を冠した○○天神のことですが、それが一般にいわれている天満天神に統一されたのは、平安時代に京の北野に神社が造営されて、菅原道真の霊が祀られたことによります。

 今から1100年ほど前、右大臣・菅原道真は、醍醐天皇を廃しようとする企みをしていると、政敵の藤原時平などに讒言され、九州・太宰府に左遷されます。その2年後、道真は恨みをのんで59歳で太宰府で没しました。

 道真の死後、都では天災が続き、政敵一門に死者が続出します。これらのことは道真の怨霊の為せる業と人々はおそれました。

 朝廷では道真の霊を鎮めるために、北野に神社を造営して、道真を天満大自在天神・太政威徳天としてお祀りしました。現在全国の神社8万1千社のうち天神を祀る神社は1万社に及ぶと言われております。

 道真は、6歳のとき「梅の花べにの花にも似たるかな 吾子が顔にもつくべかりけり」と歌に詠み11歳で漢詩「月夜に梅花を見る」をつくり、18歳で文章試験を突破、23歳で従五位下、26歳で方略試という上級試験に合格、宇多天皇の信任を得て55歳で右大臣・右大将にまで累進します。こうした輝かしい経歴から、受験の神様とされたわけです。


大楠公戦跡

大楠公碑 延元元年(1336年)1月末、足利尊氏が京の都で戦いに敗れ、丹波路を迂回して兵庫に敗走しました。2月10日、後醍醐天皇の忠臣楠木正成がこの打出の地に陣を張っていたところ、体勢を立て直した尊氏の軍勢が楠木軍に迫り、激戦となりました。

 その戦いは夜に入っても続いておりましたが、楠木軍は一計を案じ、夜半に大阪街道を伝わって逃げると見せかけて一旦は軍を引き上げました。一方、尊氏の軍は翌日の11日に京街道に進出し、新田、北畠の軍と交戦しているうちにまたも夜に入りました。

 それを見た楠木軍は機に乗じ、尊氏軍の背後を奇襲したところ、これが見事に功を奏して戦況が有利となり、尊氏軍は敗走して兵庫に逃れ、海路を九州に逃れました。時に楠木正成43歳のときでありました。

 しかし、その約100日後に九州から反撃に出てきた尊氏軍と神戸の湊川にて合戦となり、敗れ、戦死しました。写真の「大楠公戦跡碑」は昭和に入ってから村人によってたてられたもので、現在の国道2号線の北側の楠町にあります。楠町という町名もこの歴史的な出来事から名付けられたといわれております。

 ただ、この楠木正成は名前が知られている割には、その素性は今なおはっきりしていません。あるいは南河内の水源を支配した豪族といい、あるいはまた河内の国玉櫛荘の住人ともいう説もあり、別の史料によれば幕府のご家人であったという説もあります。

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