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芦屋の歴史・伝説 (1頁目)

打出の小槌    金津山の黄金
大震災のモニュメント 親王寺
公光(きんみつ) 阿保親王塚
在原業平(ありわらのなりひら) 鵺塚(ぬえづか)


打出の小槌

打出小槌町 昔、芦屋の沖に竜神が住んでいました。この竜神が人に化身して、朝廷に小槌を献上したそうです。この小槌を打ち振ると、何でも願い事が叶うという大切な宝物。この宝の小槌が、どうしたことからか打出の長者の手に伝わりました。どのようにして長者の手に入ったのか、わかりませんが、むかし都で仕えていたときに、手柄をたてたので褒美に貰ったといわれております。

 この小槌は、この上ない宝物でしたが、ただ一つ困ったことに、鐘の音が聞こえてくると、それまで打ち出した宝物のすべてを失ってしまったそうです。
 
 なお、「打出」の地名は打出の小槌の伝説から名付けられたという説もありますが、別の説もあります。打出は昔から交通の盛んなところで、京都から伊丹を通る旧西国街道は打出に来て初めて海辺に打ち出します。つまり、ここで海を目の当たりにするのです。海に打ち出たところで潮の香りや漁師の舟を見た人は強く印象づけられたものがあったのでしょう。こうして打出の地名は有名になっていったともいわれております。

 なお、阪神打出駅の南東側には「打出町」が、北西側には「打出小槌町」が、それぞれ地名として残っております。写真は現在の打出小槌町の町並みです。すぐ近くに国道2号線があるとは思えない閑静な住宅地です。

大震災のモニュメント

震災碑 鵺(ぬえ)塚橋から芦屋公園の中を100米ほど北に行きますと、「震災記念碑」があります。これは平成7年(1995年)1月17日午前5時46分に起こった阪神・淡路大震災で、この芦屋市でも多くの犠牲者の方々と甚大な財産の被害をもたらしましたが、これを永久に記録し、犠牲者の鎮魂を願い、またこれを生かし、防災に心を新たにするために建てられたものです。

 碑面にほ「震災に耐えし芦屋の松涼し」とあります。その下部には、大震災の起こった年月日が刻まれています。碑の周りの松林の中を吹き抜ける風は心なしか犠牲者の方々の魂を慰めるような一抹の寂しさがあります。やはり私たちにとっては痛恨以外の何ものでもなく、まさに歴史的な出来事でした。




公光(きんみつ)

公光の祠 昔、在原業平の時代のずっと後に芦屋の里に公光という若者が住んでいました。「伊勢物語」が大層好きで、業平のことに強い興味をもっていました。或る夜のこと、夢の中に美しく咲き乱れた花の中に、業平があらわれたので、「ここはどこですか」とたずねると、「ここは京の都の北山にあるむらさき野の雲林院」と教えられ、夢から覚めました。

 公光は、はるばる雲林院をたずねていきました。ちょうど花盛りであったので、ひと枝を折ったところで、歳をとった男の人が現れて、公光をとがめました。公光は「芦屋の里からたずねてきました公光という者です。業平様の夢を見てここまで来ました」と言いますと、男は「今夜この花かげで待っていると、伊勢物語にまつわる楽しいお話が聞けるでしょう」と言って、夕闇の中に姿を消しました。

 やがて夜になると、公光はまた夢を見ました。業平の魂が人の姿となって現れ、伊勢物語のことを話し、舞や音楽の遊びを続けているうちに明け方となって、公光の夢は覚めました。

 芦屋には、これらの伝説から、公光町(芦屋警察署のあるあたり)や公光橋(阪神芦屋駅北側)の名前があります。阪急芦屋川駅の南、月若公園の北側の道を少し西へ行くと、業平と公光の祠(ほこら)がまつられております。 この祠は1995年1月の阪神大震災で全壊しましたが、祠の管理をしておられる月若町の岸田氏により修復されました。(写真)

なお、雲林院というのは、京都の紫野大徳寺の南にあった寺で、平安時代には淳名天皇の離宮であったが、後に寺となり、南北朝時代に荒廃しました。

在原業平(ありわらのなりひら)

 今から1100年ほど前の芦屋にゆかりのある平安初期の歌人。阿保親王の第五皇子で、祖父は平城(へいぜい)天皇、母は桓武天皇の皇女伊都内親王で、どちらも皇族の人達でしたが、業平は後に皇族から臣下に下り、在原氏を名乗りました。六歌仙の一人に数えられた歌人で、容姿端麗、性行放縦であったといい、今で言うプレイボーイだったようです。業平歌碑

 我が国の古い歌物語でよく知られた本に「伊勢物語」(平安時代)があります。芦屋が業平と深いゆかりを持っていたことは「伊勢物語」にも著され、芦屋の里に別荘を所有していたとあります。そして、この芦屋で浜の美しい娘を愛し、歌日記ともいえる「伊勢物語」を残したのです。葦の茂った芦屋川の南流付近で、業平は、宮廷の人々を招待し、歌合わせなどを行ったり、神戸布引の滝で楽しんだりもしたようです。

 ここで、業平の歌をひとつ紹介しましょう。

「むかし、おとこ、津の国、むばらの郡(こおり)芦屋の里にしるよしして、いきて住みけり、むかしの歌に 芦の屋のなだの塩焼いとまなみ 黄楊の小櫛もささずに来にけり とよみけるぞ、この里をよみける。ここをなむ芦屋の灘とはいひける」(伊勢物語八十七段)

歌の意味は、「芦屋の浜で塩を焼いている私の仕事があまりに忙しいので、あなたが逢いに来たのに、いつも逢うときにさしている、つげの小櫛をさすひまもなく、あなたのもとにやって来てしまいました。」

この文章によって芦屋の里という名が、はじめて古典の中に出てきたもので、しかも業平が芦屋の里に「しるよしして」の「しる」とは、「所有している土地がある」という意味ですから、この歌は芦屋の歌の一つとして昔から大切にされてきています。伊勢物語には、そのほか、芦屋の様子を記した場面がいくつかあります。

 現在のルナ・ホールや市民センターのあるあたりが「業平町」、その近くの芦屋川にかかる「業平橋」と、その名をとどめております。また、市民センターの南側の国道2号線に面して在原業平の別荘跡があります。また、業平の歌碑(写真)が大正橋のある松ノ内緑地にあります。

 なお、10年ぶりの改訂で2008年1月に第6版が発売された岩波書店の国語辞典「広辞苑」に、「芦屋」を平安時代の歌人在原行平と愛人2人の伝説の舞台とする誤った記述があることが分かりました。伝説に基づく謡曲「松風」は須磨(神戸市須磨区)が舞台。行平を、芦屋に別宅があったとされ地名にもなっている弟業平(なりひら)と取り違えたようです。誤記は1955年発行の初版から半世紀以上続いていましたが、岩波書店の担当者らも全く気づかなかったという。広辞苑編集部は「増刷する際、修正する」としています。詳しくは下記の「あしや瓦版」に掲載しています。
     http://4.pro.tok2.com/~mat/kawaraban/m0801.html#21     

昭和30年(1955年)発行の広辞苑初版   右端は明らかに誤りの記述

金津山の黄金 (かなつやまのこがね)

金津山古墳 阪神電鉄打出駅の少し北の春日町に、民家に囲まれた小高い塚があります。これは「金津山古墳」と呼ばれ、大切に守られ、昔の打出の風景を伝えております。

 昔、芦屋地方を治めていた阿保親王は、打出の地に別荘を建てて村人達を愛し、親しみを持って接していました。村人達も親王さんと言って、大層敬っていました。親王は、村人達に「もし、自然の災害などで困ったときには、この塚を掘って役立てるように」と、塚に宝物を埋めたといわれており、次のような歌が伝えられております。

   朝日さす入り日(いりび)かがやくこの下に金(こがね)千枚瓦万枚

 この塚は金津山・黄金塚・金塚などと呼ばれていますが、190年ほど昔の絵図を見ますと、街道のすぐ北のたんぼの中に大きい塚があって、その周りに道がつくられ、大きな松がえがかれています。  「打出名所は、かずかずあれど、わけて名高い黄金塚」と、打出のみこしかき音頭にもうたわれ、街道をいく人々がお参りする名所になっておりました。  なお、この塚は現在は芦屋市教育委員会が管理しております。 


親王寺(阿保山親王寺)

親王寺 打出町の国道43号線の北側に、阿保山親王寺があリます。この寺のいい伝えでは、芦屋と関係の深い在原業平(ありわらのなりひら)の父である阿保親王がこの地に住んでいたことから、約1150年ほども昔の平安時代にこの親王寺は建てられ、阿保親王の菩提寺とされております。

 時代がくだって、この阿保親王の子孫であるということで、長州(山口県)の殿さまの毛利家は江戸との行き帰りに必らずこの寺を訪れ、しばしば進物を贈ったと言われております。

 阿保親王に関しては『続日本紀』の記事によって明らかにされていますが、打出の地でなくなられたことについては正史に記事がなく、親王の菩提寺として建てられたとされるこの阿保山親王寺に伝えられる文書によって確認する他はないようです。また、親王寺には江戸時代に書かれた「阿保山親王寺縁起」や、古鏡・銅鐸などの宝物があります。


阿保親王塚 (あぼしんのうづか)

阿保親王塚 JR芦屋駅の北東約1キロメートルの翠ケ丘町の西端に大きな木がうっそうとしている森があります。この中に、阿保親王塚といい伝えられている古墳(お墓)があります。

 この古墳は、形などから今から約1500年前のものと考えられています。江戸時代に古墳の改修工事をしたとき、その近くから鏡がでてきましたが、その主なものは現在、阿保親王の菩提寺とされる親王寺(打出町)に保管されています。

 この地は、古くから「親王さんの森」として親しまれ、変わりゆく芦屋の中で、緑につつまれ、静寂を今に保ちつづけています。平城天皇の皇子、阿保親王がまつられているとの伝承をもつこの古墳は、現在宮内庁によって管理されております。

 出土遺物から見て、古墳の築造時期は阿保親王の没年(西暦842年)よりも500年ほど古いと思われ、親王との関連はむしろかつて近くに存在した四ツの塚の方が深いといえるでしよう。なぜ、現在の親王塚が阿保親王と関連づけられたかは不明です。なお、写真にある両側の灯籠は山口の毛利家から寄進されたものと言われております。

鵺塚(ぬえづか)

鵺塚 阪神芦屋駅から芦屋川に沿って南へ10分ほど歩きますと、テニスコートの北側、芦屋公園の駐在所そばに今はもう目立たないかのようにひっそりと鵺(ぬえ)塚があります。

 むかし、12世紀の半ばに京都の御所を騒がす怪物が出没しておりました。その夜も丑の刻(午前二時ごろ)になると、三条の森あたりからあやしい黒雲がわいて、鵺(ぬえ)という烏の鳴声に似たもの悲しい鳴声がつたわると、天皇は大へん苦しみだされるのでした。

 そこで、源頼政(みなもとのよりまさ)という弓の名人が、弓矢を用意して静かに目を閉じ、神に析り、空を見上げると、雲の間にあやしい影が見えました。この時とぱかり、矢をはなつと手ごたえがあり、大きな音とともに怪物が落ちてきました。よく見ると、頭がサル、からだはタヌキ、手足はトラ、尾はヘビという妖怪でした。(想像しただけでも頭が混乱しそう)

  人びとは驚き、その死体を丸木舟に乗せて川に流したところ、淀川から大阪湾に流れ、はるか芦屋の浜に流れつきました。これを見た芦屋の村人たちは、たたりを恐れて、ていねいに塚をつくつてとむらい、この塚のことを「ぬえ塚」と呼ぷようになりました。  むかしの人はたたりが怖かったのかも知れませんが、心のやさしい人が多かったようですね。

  なお、写真の塚は大正時代につくられたものです。

                        
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