私たちの街 芦屋の成り立
1.古代から中世まで・・・祖先は縄文時代から
2.中世から幕末まで・・・農村の形成
3.明治以後・・・農村から住宅地へ
4.昭和に入って・・・村から市へ

 

 私たちの住む芦屋市は、大阪と神戸という大都市の中間に位置する小都市ですが、交通の利便性により絶好の通勤圏にあり、かつ温暖で閑静な住宅都市であります。南に目を向けると、大小さまざまな船が行き交う大阪湾。一方北には、緑豊かな六甲の山々が連なり、すなわち海にも山にも接して四季の彩りがあふれる恵まれた住環境にあります。

2008年9月1日現在の市域面積    18.57平方キロメートル
2008年9月1日現在 推計世帯数   40,001
      〃 推計人口     93,196人
(男42、495、女50,701)

 

1.古代から中世まで・・・祖先は縄文時代から

 では、一体いつごろから、わたしたちの祖先は、この地に暮らし始めたのでしょう。数多く発見されている遺跡をみると,今からおよそ2,300年以上前、はるか縄文時代のことのようです。市内最古の遺跡・山芦屋遺跡(写真右下)からは、約8,000年前の阪神間最古の土器などが見つかっています。この頃は狩猟・植物採集を中心とした生活が行われていたことがわかっています。 紀元前300年ごろ、弥生時代になると、生活の形が農耕中心へと移り変わります。それにつれて集落も生まれました。中でも会下山の中腹で発見された集落跡は、「高地性集落」と呼ばれるもので、竪穴住居のほか高床式の倉庫や祭祀場の跡も残っています。 また、古代の諸氏の系譜書「新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)」には、芦屋漢人(あしやのあやひと)という名も見られ、3世紀末から6世紀半ばにかけての古墳時代には、すでに芦屋は渡来人による先進文化の地であったことがうかがえます。きっと古代の人にとっても、生活していくのに適した場所だったのでしょう。

 西暦645年の大化の改新で、夙川から生田川までの地方は、葦屋郷(あしやごう)・賀美郷(かみごう)がある兎原(うなひ)郡となりました。平安時代には、「延喜式」に「葦屋駅馬十二疋」とある葦屋駅もおかれ、京と西国を結ぶ交通の要所でした。なお、この頃、今の「芦屋」は「葦屋」と呼ばれていたようです。 また「伊勢物語」によると、在原業平だと思われる主人公は芦屋に住み、京の都からやってきた人々を「布引の滝」へ案内したとされています。このほかにも、「万葉集」をはじめ「和歌集」に、たびたび取りあげられるなど、この芦屋は歌の名所としても広く知られた地でした。
 

2.中世から幕末まで・・・農村の形成
しかし中世・戦国時代になると、この平和な郷にも戦禍がおよびます。なかでも楠木正成と足利尊氏の打出・西宮浜合戦は有名で、そのほかにも若松物語で知られる鷹尾山の悲劇などが起こり、芦屋は戦いの舞台となりました。 こうした戦乱の中で、人々は結束を固めていきます。そして戦国時代の末には、打出・芦屋・三条・津知という四つの村が生まれました。
 近世、封建時代の確立にともなって、尼崎藩の支配下となりました。戸田・青山・松平氏と藩主の交替はありましたが、新田も開拓されるなど、人々の暮らしは安定しました。1769年、芦屋・打出は天領(徳川幕府の直轄地)となり、三条・津知村は尼崎領として幕末にいたりました。


3.明治以後・・・農村から住宅地へ
旧精道村役場 明治維新後、しばしば行政区域を変えましたが、芦屋村・打出村に、続いて明治4年(1871年)の廃藩置県の布告によって三条村・津知付が兵庫県の管下に置かれることになりました。そして明治22年(1889年)の町村制施行によって、四つの村が合併して精道村となりました。また、交通機関の発達によって文明開化の波も訪れました。

明治38年(1905年) 阪神電車が開通。芦屋と打出に駅が設置。
明治41年(1908年) 電灯供給が開始。
大正元年(1912年) ガスの供給が開始。                    
大正2年(1913年) 国鉄(現JR)芦屋駅が開設。
大正9年(1920年) 阪急電車が開通
昭和2年(1927年) 阪神国道(現在の国道2号線)開通。

 このようにして精道村は交通機関の発達に伴って、住宅地として開発が進められ、早くも大正年間から生活環境の整備が進められて文化住宅都市芦屋の基盤が形成されていきました。

4.昭和に入って・・・村から市へ 
 昭和9年と13年には大風水害があり、甚大な被害を受けましたが、この被災もひとつの契機として充実を図り、市制施行を目指した調査と準備が進められました。 そして昭和15年(1940年)、精道村は全国で173番目の市として、市政が施行されました。村から一躍市へ移行したのは全国的にも極めて珍しく、それまでは山口県宇部市と長野県岡谷市をかぞえるのみでした。当時の人口は41,925人、戸数8,147戸でありました。

 しかし、その直後から第2次大戦の影響を受けるという波乱のスタートでした。芦屋市も他の都市に洩れず、空襲により甚大な被害を受け、およそ市の40%の家が焼けましたましたが、市民の手で力強く復興されてきました。昭和26年(1951年)には、国際文化住宅都市建設法による「芦屋国際文化住宅都市」に指定され、「国際性と文化性あふれる住宅都市の形成」という目標のもと、住宅都市づくりが進められました。

 昭和30年代になると、芦有道路と奥山の開発、下水道事業、区画整理事業、国道43号の開通など都市としての基盤整備がすすめられました。

 昭和36年(1961年)  アメリカ・モンテベロ市(カリフォルニア州の人口約5万人の住宅都市)と姉妹都市提携。

昭和37年(1962年)  安全都市宣言、市民憲章の制定。
昭和43年(1968年) 「交通災害共済制度」発足。
昭和48年(1973年) 「緑ゆたかな美しいまちづくり条例」制定。
昭和57年(1982年)「福祉のまちづくりのための都市施設整備要綱」制定。

など、本市にふさわしい制度も誕生しました。 

 近年は芦屋の新しい顔づくりとして、JR芦屋駅周辺の再開発事業に着手。アルパ芦屋、ラポルテ、ラリーブ、ラモールが完成し、地域の活性化を図っています。 

一方、文化面では、昭和31年(1956年)に第11回国民体育大会の開催地となりました。昭和42年(1967年)、市民文化賞制定。45年(1970年)、ルナ・ホールが開場。47年(1972年)、体育館・青少年センター完成。62年(1987年)からは、新図書館オープンをはじめとする伊勢町文化ゾーンの整備に着手。63年(1988年)には、芦屋ゆかりの作家・谷崎潤一郎の記念館が開館。平成2年には、美術博物館が完成し、文化ゾーンの完成をみました。

こうした環境が整備されるにしたがい、増加していく人口に対して、昭和50年(1975年)、芦屋浜の埋立地造成が完成。昭和54年(1979年)には、人口約2万人の町・芦屋浜シーサイドタウン(芦屋浜住宅団地)が完成。

 こうした歴史と伝統を生かしたまちづくりが、現在そして未来へと実現されようとしておりますが、平成7年(1995年)1月17日のあの忘れることのできない未曾有の阪神・淡路大震災のため、市内全域にわたり多数の尊い犠牲者と甚大なる財産の被害を蒙ったことは記憶に新しいことであり、目下、市民をあげてこれの復興に懸命な努力が払われているところであります。

平成10年(1998年)4月には南芦屋浜に震災復興公営住宅が完成し、直ちに入居が開始されました。