阪神・淡路大震災後1ヶ月経過時の知人宛手紙

 平成7年(1995年)1月17日午前5時46分に突如起こった阪神・淡路大震災から早くも1ケ月以上が経ちましたが、ライフラインの方も水がまだ不通ではありますが、これも2月末には回復する予定で、徐々にではありますが日常生活に戻りつつあります。

 私の住むこのマンションは24階建てで、私の住戸はその8階。すぐ北側には29階の建物があり、そことは渡り廊下で繋がっています。

 あの日、突然、異様な振動に泰平の夢を破られ、目を覚ましたときはそれほどの揺れではなかったのですが、やがてその揺れの振幅が大海のうねりのように大きくなり、また始末の悪いことに揺れのスピードが猛烈に早くなってきました。 

 建物全体が「ゴオーッ」というものすごい重低音(この不気味な恐怖の音は生涯忘れ得ません)を発し、今にも倒壊しそうで、そのときにはわが家の家具という家具はすべて音を立てて倒れ、真っ暗な中、何かが胸の上に落ちてきたりしました。

 私もこの歳になるまで何度か地震を体験しましたが、家具が倒れるような地震は初めてでしたので、「これは大変なことになる」と思う間もなく「バリバリッ」という音がして間仕切りのボードが天井から床まで裂けました。そして今にもこの建物全体が倒壊しそうで「もうこれまでか」と観念しました。

 揺れは随分長く感じました。実際には十数秒だったようですが。やっと揺れがやんだとき、「助かった」と思い、「まだ生きている」と思いました。しかし、咄嗟に別の部屋に寝ている家内と母親は無事だろうかと、倒れた家具を乗り越え乗り越え、それぞれの部屋に行きますと、二人とも危うく整理箪笥や洋服箪笥の下敷きになるところをわずか数センチのところでかわし、助かっており、私を含めて3人とも怪我もなくホッとしました。

 まだ外は明けきらずに暗かったのですが、目をこらしてよく見ますと、この団地で52棟ある高層マンション群は倒壊した棟もなさそうで、ただ、すべての棟の警報サイレンが鳴り渡り、そのやかましいこと、余計に不安感を増幅しました。

 後でわかったことですが、これは火災が起こって感知器が作動したのではなく、激しい震動で感知器の配線がショートしたために作動したとのことでした。しかし、この団地からは1件の火災も起こさなかったのは本当に幸いでした。 

 日の出を迎えて明るくなってきますと、外の景色の変わりように驚きました。いたるところに大きな地割れ。その幅が1メートル近いものもあります。また、1メートル近い落差の断層のような割れ目さえあります。目の前の川は普段は川幅が15メートルくらいですが、それが3メートルくらい狭まっております。そこにかかっている橋は波をうっており、街灯は大きく傾いています。これも後でわかったことですが、ここは完成してからまだ20年足らずの埋め立て地ですから,地震により、地盤沈下や側方流動を起こしたところが多いようです。ふと、西の方の神戸の街を見ますと、そこはもういたるところ火事が発生し、真っ黒な煙が7、8本も立ちこめています。この時の火事で長田区の義兄の自宅と店舗は消失し、また、東灘区の義妹の家は激しい震動で倒壊しました。しかし、幸い皆大した怪我もなく無事だったのは不幸中の幸いでした。 

 この近くの駐車場とか野球場は、液状化現象で一面の泥の海。旧市街では、8階建ての鉄筋コンクリート造りのマンションが大きく傾いているのが見えます。

 外の階段が何かざわつくのでドアを開けると上の方からゾロゾロと住人が布団を被って下りてきます。地震発生と同時にすべてのライフラインが機能を停止したので、エレベーターも動かず、最上階の人も1階まで階段を下りてきます。

「どこへ行くの?」
「近くの小学校へ避難しに行く」
そこへまた余震が。
「キャーッ」

余り動かない方がいいみたいです。階段室のコンクリート片が雨あられと降ってくるのですから。

 しばらくして余震が収まった頃を見計らって階段を下りて行きますと、数人の住人が真っ青になって走ってきます。「大変だっ 西側の棟の鉄骨が切れているっ」「えーっ」慌ててその現場へ走っていきますと太い鉄柱が人の目の高さのところでスパッと切ったように破断されているではありませんか。

 しかもその傷口が2、3センチの巾で口を開けたような状態でとどまっているのです。さらにほかにも2カ所同じような損傷が発見され、また私達の棟にも1カ所が発見されました。もう住人は半ばパニックです。結局、この高層団地では52棟のうち25棟で57箇所の破断が確認されました。

 このマンションの住民の大半が近くの小学校と中学校に避難しました。私は母親が病身で動けなかったことと、不運?にも管理組合の理事という役目上,逃げ出すわけにもいかず,ええいままよ覚悟を決めたというよりも半分フテくされて家の中で片づけものをしておりました。しかし、その家の中も大変です。まるでテロリストに爆弾を投げ込まれたような状態。なんとか家の中を普通に歩けるようになったときはもう夕方になっていました。

 地震直後からテレビでご覧になられたと思いますが、阪神高速道路の高架が500メートルくらいにわたって横倒しになりました。この倒壊箇所は私のマンションから1キロくらい離れたところですが、東京にいる二人のせがれどもは、あの頑丈そうな高速道路が倒れて、おやじのマンションが無事でいるわけがないと驚き、慌てて電話をかけてきたそうですが、なかなかつながらずに相当にあせったようです。この高速道路の倒壊でその下を走っていた、私が勤務する会社の系列会社の社員送迎用バスが、押しつぶされ、運転手が亡くなりました。

 しかし、その運転手はあの大地震の直後には健在だったのです。と言いますのは、地震が起きた時、彼は現場の手前700メートルくらいのところで信号待ちをしていたのです。その時、そのバスの後ろには、やはり当社のトラックが止まっていたのですが、そこへあの地震が襲ってきました。重いトラックのタイヤが大きく宙に浮くような激しい揺れでしたが、やっと揺れがやんだとき、あまりの恐ろしさにトラックの運転手は会社に戻ったのですが、バスの運転手は真面目な性格の人で、社員を迎えにいく時間が迫っていたので、そのまま駅に向かい、倒壊の現場にさしかかりました。そのときに余震が起こり、本震で壊れかけていた高速道路が一気に倒れ、バスの上にかぶさっていったのです。

 会社に戻ったトラックの運転手は運命の苛酷さにふるえあがったそうです。ところが、なぜか高速道路が余震で倒れたということはあまり報道されておりません。混乱時の情報精度の問題として考えさせられます。

 地震から2日目には東京の長男と次男が小型乗用車によくこんなに積めたなと思うくらい援助物資を積み込んで応援に帰ってきました。1週間ほど居て、飲み水の確保や家の中の片づけなど力仕事をやってくれましたが、「男の子をつくってよかった」と思ったのは後にも先にもコレッキリ。

 私の住むマンションは幸い倒壊はしませんでしたが、主柱や梁、外壁には少なからずの損傷を受けました。殊に主柱の鉄骨が一部破断したのには少なからずショックでした。このことは東京の新聞にも書かれたそうで、またその後NHKでも大きく報じられましたが耐震設計面で問題を提起しているようです。しかし、長男(某ゼネコンに勤務)は「おやじ、心配してもしやあない。多分大丈夫やで」と言って大きないびきをかいて眠っておりますので、まあひと安心しております。

 現在、この建物の設計施工者の手で補修工事に入っております。しかし、芦屋市だけでも400人を超す犠牲者が出ているにもかかわらず、この高層団地では犠牲者は1人も出なかったのは、この建物の設計陣に敬意を表さなければならないと思っております。なにしろあの未曾有の地震と闘い、傷つきながらも中の住人の命を守ったのですから。建物としてはそれで充分に使命を果たしたと思っています。

 因みにこの市の津知町というところでは家屋の倒壊率85パーセント。十数秒のうちに、一つの町が無くなり、多くの人々が亡くなられました。その殆どは旧来の日本家屋の崩壊による圧死でした。

 神戸では三宮周辺が特にひどい状態です。もう見る影もありません。三宮駅のまわりで、まともなビルは皆無です。不夜城のような賑わいを見せた飲屋街も、夜ともなれば真っ暗で不気味以外なにものもありません。

 私が生まれ育った神戸の兵庫区や長田区は一面の焼け野原。50年前の昭和20年3月17日の大空襲を思い出しました。

 申し訳ありません。暗い話ばかりで。でもいい話もあります。

 地震以来、人の心の中にも少し変化が起こりました。今まで顔を合わしても挨拶もしなかった同じマンションの人達も、あれ以来、誰にでも挨拶を交わすようになりました。会社でも仲たがいしていた人でも、地震直後はお互いに無事を喜び合い、それ以来それまでの経緯を忘れ、仲良くなったりしているようです。隣近所でもお互い足りない水や食料を分け合い、助け合うようになりました。なんだか戦争中の「隣組」を思い出します。

 近くの公園には、それまでたくさんいた鳥たちは、あれ以来1羽もいなくなっておりましたが、ここにきて徐々に戻ってきておりますので、それを見るだけでも気持ちが落ち着きます。このマンションの住人が飼っている犬や猫も1週間ほど食欲が無く、物音に極端に神経過敏になっていたようですが、これもかなり落ち着いてきたそうです。人間だけでなく動物達にも大きなショックを与えたのでしょう。

 先ほども戦争中を思い出したと言いましたが、その当時と決定的に違いますのは、全国から救援の手がさしのべられていることです。隣の大阪府や岡山県は勿論、遠くは東京や東北、北海道、九州からも続々と自治体の応援が寄せられており、ライフラインや道路の復旧に大いに尽力して下さっております。兵庫県も阪神間の各都市もこれからの復興には災害に強い街づくりを目指しておりますので、7、8年もすれば地震に強い自治体になるかも知れません。しかし、人間の知恵は自然現象を超越できないのですから、如何にして犠牲者を少なくするかということになるのではないでしょうか。

 今度の震災で得た教訓として、ごく身近な家庭内の常日頃の備えとしては次のようなことではないかと思われますので、ご参考にしていただければ幸いです。

1.懐中電灯は出来れば各部屋に1個ずつ置いておく。
2.トランジスタラジオは各家庭に予備を含めて2台くらいは準備する。
3.そのための電池は常にリフレッシュしておく。
4.家族の3日分くらいの保存食と飲料水を常備しておく。但し、それ以上保有する必要は ありません。  3日目くらいには必ず救援隊が入ってきて、有り余るくらいそれらを供給してくれます。
5.風呂の湯は捨てずにおく。これだけでも断水したときに、2、3日分のトイレ用の役にたちます。

 思いつくまま書いてきましたが、毎日少しずつでも震災前の日常生活に戻りつつありますので、ご安心下さい。一時減っていた体重も戻りました。食事も美味しく食べられるようになりました。 頑張ります。