「大欠伸とあご」
1997年2月22日 朝 5時50分、電話のベルに飛び起きる。
「ご主人の様子がおかしいのでお知らせします!」
タクシーで駆けつける、6時10分。大きな口をあけ、苦しそうな夫の顔をみて 「アッ、あごがはずれてる」と、直感した。夜中と明け方の2度、痙攣を起して、その後この状態と……。私にはすぐ分かった。いつも痙攣が治まると、大きな生あくびを何回もする、きっとその時にはずれたのだと。
9時過ぎ、かかりつけの病院に連れて行って下さった。医師は、
「体の痙攣は治まったが、顎の骨の部分だけ、まだ残っている」
「顎がはずれているのでは?」
「いや、もうすぐ治まる」
「どの位で?」
「分からない、胃に何も入れないように、また、痙攣を起こすかも知れないから」 おかしいと思い乍ら帰園したが、痰がひどく、ただ吸引するだけ。幼児の握りこぶしが入りそうな程の、大きな口をあけたまま、苦しそう。
午後3時になっても状態は変わらない。 「また、痙攣を起こすといけないから、鼻から経管で薬を入れましょう」と、ナースがチューブを鼻から入れ始めたら、「カッ、カッ……」と咳をし、顎はストンとはまった。
私とナースは
「やっぱりね!おかしいと思った」と、顔を見合わせた。
この日は直方で早川一光先生の講演会があり、出席の予定だったので、欠席する旨、森恵美子さんに電話すると、出かける時間も迫っているのに、私の朝食を作って駆けつけて下さった。
それから一週間後の早朝、また大あくびで顎がはずれたが、日曜日だったので月曜日の朝まで30時間もそのままの状態だった。それからは、習慣性になって欠伸の度にはずれるようになった。続いて誤嚥がおこり、食事をとる事を拒否し始めた。
「鼻経管食と胃瘻と」
3月17日、退院して3週間目に、前回と同じ誤嚥による肺炎を起こして、40度の発熱、入院生活が1ヶ月続くことになる。
病院食を食べようとしない。
「好きな物を持って来てあげて下さい」と云われ、大好物のお刺身を持参したが、一口も食べなかった。
この儘では治る肺炎も治らないと、鼻経管食に切り換える。チューブを入れる時、本人の協力がないので入りにくいらしく、室外で待つこと数十分。
「岩切さん、ゴックンして! ゴックンしないと入らないよ!」
どんなに叫ばれても本人は理解できないのに……。辛かった。
1回目の入院でアッと云う間に歩けなくなってしまった。もし歩けなくなったら在宅介護をと考えていたが、家に帰ってこんな事がおこったら、私にはとても出来ないと不安になった。そんな時に、知人の婦長さんが胃瘻という方法があると、教えて下さったので、鼻注栄養1ヶ月後に、胃瘻の手術をしていただき、現在に至っている。
同じ頃チューブをはずし、口から摂取する方法を模索する施設・病院が増えてきたという新聞記事を読んだ。私は時代に逆行する方法を選択してしまい、取り返しのつかない事をしてしまったのではないかと、数夜眠れなかった。
しかし、落ち着いて考えた時、チューブはずしは私一人の努力ではどうする事も出来ない現実で、在宅看護を実行するには、この方法しかなかったと思い至った。
元気だった頃、お互いに「延命治療はしない」と、確認し合っていたが、これは、延命のためではなく、まだ消化吸収する力をもっている夫にとって、栄養補給は必要である、と自分に言い聞かせた。
後に、がん手術をして鼻にチューブを入れる経験をした方の手記に「チューブ挿入の不快感と苦痛は、術後の痛みなど比べものにならない程のもの。チューブを抜いた時の爽快感も、経験した人でなければ分からない」とあった。
本人は何も云わなかったが、そうであったのか、胃瘻にしてよかったのだ、と思わず自分を慰めてしまった。
「在宅看護を決心して」
入院していた病院に訪問医療がある事が分かり、在宅看護を決意するのに数日とかからなかった。直ちに保健所のホットケアラインに電話した。
帰宅して必要なベット、車椅子、訪問看護ステーション(医師会立)、入浴サービス、ヘルパー等々、全て手配して下さり、私は身体障害者手帳一級の手続きをするだけだった。
在宅看護を選んだのは、以前家族の会の例会の時に、福岡県支部事務局の労を担って下さっている大先輩の尾羽根さんの云われた言葉が、忘れられなかったからだ。
「十数年前の事、今のようには医療も福祉もない時代だったが、母を在宅で7年間看とることが出来たのです。大丈夫、家でも看られますよ」と。
寝たきりになったから、というだけではなく、痙攣が頻繁に起こり、その後の生あくびが多く、その都度はずれた顎をはめ、痰をすぐ吸引しなければ誤嚥し、又肺炎を起こす。このパターンを繰り返す。後日あくびの多さに回数をチエックすると、1日平均
60回前後だった。
痰の吸引と、顎をはめる事をマスターしなければ退院は出来ない。
「明日教えます」と云われた日は、不安と怖さで眠れなかった。
ベットにエアーマット。吸引器と吸入器――このふたつは、娘が退院祝いにプレゼントしてくれる。準備万端整う。
「いよいよ24時間看護始まる!」
1997年7月8日退院。
医師会看護ステーションから月水金に健康チエック、清拭、車椅子、移乗室内散歩、語りかけ、などをしてもらい、私は医療に関して解らない事を色々お尋ねして教えて頂いた。
入院していた病院からは火木に看護婦さんが訪問して状態チエック。
木曜は歯科訪問治療。金曜がリハビリ。
土曜はヘルパーさんが清拭とベット廻り清掃に2時間。月に3回入浴サービス。
このような種々のサービスを受けて在宅看護は順調にスタートした。
本人の表情はとてもよく、訪ねて下さる方々が一様に驚かれる程だった。
食事は、エンシュアー(流動食缶詰)を
1日3回で合計2,000cc、1,500カロリー。
白湯900cc。朝はエンシュアーを500cc。
白湯300ccを胃に入れるには、4〜5時間かかる。朝の訪問看護に合わせる為には夜中の3時頃から入れねばならない。後に時間を短縮するために濃縮に切り替え、一缶減らした。然し、本人の胃に負担だったらしく、嘔吐を繰り返しはじめた。
医師の指示で更に減らし、一日1,125カロリーにしたが、これも一ヶ月続けると又嘔吐するようになる。
始めは気付かなかったが、嘔吐しそうな気配が分かるようになった。上半身に脂汗が出て、生唾をキュイキュイと飲み込み始める。口一杯になっても吐こうとせず飲み込もうとするので、吸引し乍ら顔を横に向け、口をあけて吐き出させるのを、ひとりでやらなければない。何とかおさまると私の足はガクガクふるえ、胃がキュッキュッと痛むのだった。
在宅看護をスタートして、私なりに要領を覚えるのに緊張の1ヶ月だった。
痙攣発作もあるため、投薬時間は正確に守らねばならない。食後は1時間以上、嘔吐予防のために体位交換は出来ず。その合間をぬうようにして吸入をかけ、痰が出ると吸引し、体交、排泄始末と目まぐるしく一日は過ぎてゆく。
看護と家事の最低限、掃除、洗濯、食事準備。万歩計をみると、狭い家の中を歩き回って
5,000歩越していた。
「支えられて」
「
4度目の入院」今、夫のベットサイドで四ヶ月の在宅看護を思い出しながら記しました。新年を迎えたら、きっと帰る日が来ることを信じて……。(1997年12月末日) |
《追記》
@ 1998年1月12日、急転直下退院が決まった。中心静脈栄養をつけての帰宅だったので、今まで病院で処置して頂いていた事全て自分でしなければならなくなり、入院前より看護が繁雑となり、なかなか原稿用紙に清書することが出来なかった。
2ヶ月を過ごした時また急変、極度の貧血で5度目の入院となってしまった。
現在は朝から夜まで吸引、顎はめ、etc……の毎日ですが、ベットサイドで前回の入院時に書いていた原稿を、やっと書き上げることが出来ました。
A 貧血は思ったより早く回復し、16日で帰宅する事が出来ました。データ的には、それなりに落着いています。中心静脈栄養にした時、医師から「体の機能が少しづつ落ちていく事は覚悟して下さい」と云われました。その言葉を実感する事が度々あります。今までにない動きや表情とか、呼吸で苦痛を訴えているように見受けられますが、どこがどうあるのか判らず、私も辛いところです。熟睡している時が、最も穏やかな顔と呼吸で私が一番ほっとする時です。