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証詞(あかし) 1996・9・19 西南女学院高校 チャペルにて [主よ、この杯を私から取りのけて下さい〕 岩切 裕子 聖 書:マルコ14章36節 讃美歌:536番「むくいをのぞまで」 <献身の恵みと夢> 夫は、10年程前まで牧師をしておりました。大げさなようですが分刻みのような生活のなかで、オルガンやピアノを弾いたり、車の運転をしている時が、唯一楽しい息抜きの時でした。働き続けて30年「あと10年頑張って年金が貰えるようになったら第一線を退き、一信徒として礼拝の奏楽の奉仕をしたい」とか「中古のキャンピングカーを買って、時間を気にせず、のんびり旅を楽しみたい」と、ときどき二人で老後の夢を話す事がありました。 わが家の姉妹は、みな家庭の主婦でしたから、私は自分が一番苦労していると思っていました。そして、この世の宝は何も持たないけれど老後はきっと平安に暮らせると、何の保障もないのに、少しの不安も感じていませんでした。 ある時「何が一番苦手ですか」と質問され、夫はすかさず「人の前で話すことです」と云いました。「どうしてそんな人が、聖書の話し家になったの」と笑いながら私は、出エジプト記4章を思い出していました。エジプトからイスラエルの民を救い出すように、と云われた神様とモーセの対話です。 このことから、神さまの召命に応えて献身するという事は、自分はこんな事が得意とか、これが出来るとかいう次元のものではないと教えられました。 私自身も、牧師の仕事を手伝える何か特技をもっていたら、どんなにか夫を助けられるのにと、ずっと悩み続けておりました。が、そのような私を牧師夫人という大切な働きの場で用いて下さる事に、神さまへの感謝の心は一杯でした。 夫は20年余、十二指腸潰瘍の痛みと闘っていました。医師は「職業病ですね、牧師さんを辞めたらすぐ治りますよ。けれど、もう手術しなければ、命の責任を持ちませんよ」と。しかし、薬を飲み続けながら仕事をしていました。 後日、この薬の中に入っているアルミが、アルツハイマーを引きおこすという学説がある、と九大の先生に聞いた時は、愕然としました。 <頭痛> しきりに頭痛を訴え始めたのは、12年前でした。当時、神奈川県川崎にいたので、聖マリアンナ病院の長谷川先生に診て頂きました。頭痛さえ治ればくらいの気持でしたから、病名を訊こうともしませんでした。しかし一向に治りません。 鍼灸で難病を治す名医を紹介されたり、どこの病院でも治せない病気を指圧で治す先生が福島におられるからと、友人に勧められ行きました。どちらも保険が使えないので治療費も高額ですが、少々の貯えがなくなっても、夫が元気にさえなればと通いましたが、全く効果はありませんでした。 当時は牧師と園長を兼任していましたが、夫の体調では無理だと考え始めた頃、大分の教会から招聘を受けました。半年の休養後に赴任させて頂く事にし、初めて時間を気にしないで、行き当たりばったりの車の旅を楽しみつつ、福岡にいる娘の処へ着きました。 生後間もない初孫と遊ぶのを最高の休養として、大分の教会に赴任致しました。 長谷川先生に紹介して頂いた、大分医大での治療もたいした変化はなく、私は初めて何の病気なのか、医師に訊ねました。 「若年性老人性痴呆症です。これが80,90代なら普通ですが、少し脳の萎縮が早過ぎますね」と云われました。その時の私は、若年性、老人性の性の字が、そのものズバリではなく、人より少し物忘れが多い位に理解してしまったのです。 <病気のきざし> ある日、昼食の用意をしようと思い「今何時?」と聞いたら「6時前5分」と答えました。私は「今からお昼にしようと思っているのに」と笑いとばし、その時の夫の表情を見る事もしませんでした。それから数日後、お茶にしようと思って「何時?」と聞くと、2時半を「6時10分」と答えたのです。私はハッとしました。この頃から、おかしいなと思う事が、起こり始めました。 毎週の礼拝の時も自分で色々メモしているのに、そのメモを見る事を忘れる、私が一番後から合図しても、首をかしげて解ってくれない、そんな夫にイライラしてきました。自分でピアノを弾きながら讃美指導するのですが、パート練習になると、どこを弾いているのか分からなくなる。そんなとき、慌てるふうもなく「僕はこの頃頭がバカになって、自分が何をしているのか分からないのですよ」と云います。皆さん冗談と思ってワアーッと笑われますが、夫はいつもと違う自分に気付き、不安を通り越して、必死で恐怖に耐えていたのかも知れません。 <夫の苦しみを分かち合えずに> 最近心の平静を取り戻し当時の事を色々思い返す時、そのような夫を思いやるどころか、イライラしていた自分の愚かしさが、悔やまれてなりません。 岩阪先生があとで唱って下さる歌は、もしかしたらこの時期、余りの苦しさ、怖さに、自分の気持ちを書きなぐっていたのではないだろうか、と思うのです。 こんな事もありました。「今から僕は大声を出すけど驚かないで――」と云って2階に上り、間もなくお腹の底からしぼり出すような大声でウオーッ、ウオーッと四、五回叫びました。どうしてよいか分からず少し間をおいて上がってみると、夫は壁にもたれて泣いていました。私はひと言も云えず、一緒に声を出して泣きました。今思えば夫の涙と私の涙は、全く質の異なった涙でした。 夫は自分の苦しい気持を、私にも友人にも一度も話した事はありません。ただ、この一枚の五線紙に自分の心の叫びを書いたのでしょうか。数年後に、私はこの言葉を見出したのです……。 赴任して間もなく教会の中で一つの問題がおこり、それを引き金のようにして急激に体調も悪くなり、心配された執事会の方々が「ゆっくり休養すれば、また元気になられるから、暫く大分を離れて休養を」と配慮して下さいました。 <一縷の望み> その頃、京大病院の中村先生が老人痴呆症の研究にネズミを使ってよい成果をあげた、というテレビ番組を見ました。実験台でもよいから、と入院させて頂き、2ヶ月間厚生省で認めている試薬を全部試して頂きました。しかし、効果はありませんでした。 退院の時、先生は「現在この病気の研究は力を入れているので、間もなく良い薬が出来ます。それまで頑張って下さい」と云われました。その日を一日千秋の思いで待ち続けてきました。 <宣告> <苦悩する夫> 夫も初めの2〜3年は孫に歌をうたい本を読み聞かせて、私を助けてくれる普通の生活が出来ていました。4年目位から段々無口になり、一日中椅子に座っているばかり、夫の世界はまるでその椅子だけになったかのようでした。次は食事、お茶の時以外は一日中家の中を歩き続ける日々が4年ぐらい続きました。段々と日本語が通じなくなったかのように私のいう事をきいてくれず、一つ一つの事件にぶっつかる度に私のイライラも嵩じてきました。テーブルの上においてある本や郵便物、ペン等がどこかに持ち去られる。以前、夫が使っていた小引出しを今は私が使っているのですが、いつの間にか中の物を持ち出す……。多分夫にとっては、仕事の延長線だったと思うのですが、私はいつも探し物をしなければならないのです。病気のせいだ、と思いながらも本当に悲しく、道を歩いていても、前からくる車が居眠り運転をして、二人一緒に死ねたらいいなとか、何とか、不自然でなく死ねないかなと、死ぬことをいつも考えていました。 一方では、少しでも良い介護をしたくて、本を読んだり、講演を聞いたりしていました。頭では理解していても、現実にはうまくいきません。 とにかく「怒るまい、怒るまい、笑顔で笑顔で……」と、心の中で言い続けるのですが、言葉は優しくても、顔から笑顔は消えている、そうした自分自身にも傷つきながらの日々でした。 <音楽に救われたひととき> 色々な事が出来なくなっていく中で、音楽を鑑賞する能力(ちから)は可成り確かなもので、最も以前の夫らしさをみせる時でした。現役時代は忙しくて音楽会にも殆ど行けませんでした。経済的には厳しくなったのに、夫の感動する心を持続させたくて、2ヶ月に一度ぐらい音楽会に行きました。 まるで昔に戻ったように感動し、喜びを表現するので、この感覚は失わせたくないと思いましたが、演奏中にメロデイを口ずさむようになり、やがて音楽会にも行けなくなりました。 <多くの人に助けられて> そのうち徘徊も始まり近所の方が手分けして探して下さいましたが、これから、その度に皆さんを巻きこんではご迷惑をかけるし、入院を決意する時が来たのではと思い、デイサービースの所長さんに相談しました。 「まだそんな事考えなくてもよい、もっと頑張りなさい」と励まされ、色々な介護情報を下さいました。 保健婦さんも「よかったら近所の方に病気の事や対応の仕方など、話してあげましょうか」と云って下さったので、早速親しくしている方々に集まって頂きました。 それからは以前にもまして積極的に、夫に声をかけて下さいました。 「私たちに出来る事があったら、何でもするから遠慮なく云ってね」その思いやりのある優しい言葉に、張りつめていた私は、肩の力が抜ける思いでした。 徘徊に続いて、痙攣の発作をおこすようになり、初めて救急車もよびました。ピーポーピーポーの音が聞こえてきた時は、飛び出していって夢中で手を振っていました。あの音をこんなにも心強く感じるとは、考えた事もありませんでした。 レーガン元大統領が手書きの手記を発表された事は記憶に新しい事と思います。「公表する事によって、アルツハイマー病に悩む人々と、その家族への理解が、高められるように。この病気は、進行するにつれて家族に大きな負担がかかる、ナンシーに、つらい体験をさせない方法があればと願っている……」と。 痴呆の症状の中でも特に人格の荒廃が早く、心の死から体の死へと進んでいく病いは、人生の最後に立ち向かうにしては大変辛い病気です。この病気を公表するのは、ものすごい勇気のいる事だったと思います。 この事があって、日本の社会、特に、行政の支援、マスコミの取り上げ方は、大きく変わってきたように感じました。 <悲しい決断> 癒える希望のない病いに苦しんでおられる方は、他にも沢山いらっしゃいます。でも、この病気は、とても残酷だと思います。一番大切な人格が、まるで変ってしまい、心も通じ合えず、30有余年築きあげた夫婦の絆もガラガラと音をたてて崩れ去るような、今は私が妻であることも忘れられてしまい、残り少ない機能をこれでもか、これでもかと、もぎ取られていくのです。 日を追って状態が悪くなり、一人で看る介護は厳しさを増し、私が食事もとれなくなりました。薬を飲んでも眠れないのです。 医師から「あなたは病気ではありません。今必要なのは長期休養することのみです。こんな状態のあなたが看るより、プロの介護を受けるほうがご主人にとってもよいのですよ」と云われ、自分の限界を認めざるを得ませんでした。 現在は専門の施設に入所して2年半余り経ちました。入所できてホッとするかと思っていましたが、これでよかったのか、もっと在宅で看られなかったのか、最後まで看ようと決心していたのに、途中で夫を見放したのではないのかと、自分を責めたり、後悔したりで、むしろ気分は沈むばかりでした。 今は会いに行っても、殆ど無表情ですが「お散歩に行こう」とエレベーターに乗るとニコッと笑います。レストランで、アイスクリームや果物を美味しそうに食べる夫に色々と話しかけます。視線が合って昔のように、素敵な笑顔を見せてくれた日、私の心は大満足です。 別れの時にも、淋しそうな顔もしない夫に「また明日ね……」と云いながら、これでよいのだ、夫より先に私が倒れてはいけないのだ、と自分に云い聞かせて家路につくのです。 <信仰のたたかい> 夫の介護と同時に、私には、信仰の悩みが重くのしかかってきました。始めに云いましたように、悩み苦しみながらも、神さまのご用の一端を担わせて頂いているという、怖れおののくような光栄と感謝の中で、30有余年を過ごしました。 「あと10年、これからは全身全霊を注いで、最後のしめくくりのご用をさせて頂こうね」と、話し合った矢先の病気です。 「神さま、何故なのですか、伝道者が足りない、もっと献身者がおこされるようにと、多くの祈りのある中で、全力投球で頑張ろうと決意した私たちが、何故、こんな目に合うのですか」と問いながら、祈り続けました。 尊敬していたある先生が、祈りについての本を2〜3冊貸して下さいました。それには、医師に見放された重病人が、祈りによって奇跡がおき、元気になったというものばかりでした。それまでは殆ど、執りなしの祈りばかりだった様な気がしますが、初めて自分たちのために、必死で祈りました。 「もし、夫に残されている寿命が20年なら半分、いえ5年……、1年でよいです。あと1年、このまま仕事をさせて下さい。夫を送ってしまったら、私の命もいりません。神さま、あなたが一言『癒してあげよう』とおっしゃれば、治るのです。夫はまだ働きたいのです」とひれ伏し床を叩いて必死に祈り続けましたが、奇蹟はおこりませんでした。すると、私の祈りが足りないからだと自分を責めました。 病いは進行するばかり「神さま、私の祈りは間違っているのでしょうか……? では、夫の介護に耐えられる体力を私に下さい」と祈りましたが、私の病院通いは増えるばかりです。段々、神さまに文句をいうようになり、そのうち祈れなくなりました。でも気がつくと、いつもいつも心の中で「神さま、神さま! 私たちを見捨てないで下さい」と祈っているのです。 はじめに読んで頂いたマルコ14章36節、また15章34節、十字架上で「わが神わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と、叫ばれるほどの苦しみをご自身の身に負って、私たちの罪の完全な贖いを、成し遂げて下さったイエス様。 その苦しみとは比べものにならないと思いつつも、聖書を素直に読む事も祈る事も出来なくなった私でした。けれども、この箇所は否定する事も反撥する事も出来ません。いいえ、このみ言葉に、しがみついて生きてきたのです。 <人々の優しさに心潤されて> こんな私のためにも、イエス様は執りなしの祈りをして下さっている事を信じ、夫が、命がけで語り続けた御言葉を、私もまた、語れる日が早く来る事を待ち望んでいます。 最近はこの苦しみがあってこそ学んだ事、得た事の大きさを痛感しています。私が望んだような形ではありませんでしたが、最後まで、私を成長させてくれる夫に、心から「ありがとう」と云える、気持ちのゆとりを持つことが出来るようになりました。 夫の病気が、人目にも分かるようになった頃、見知らぬ人から通りすがりに「がんばってください」と声をかけられたり、さり気なく手を貸して下さったりした時は、ほのぼのと心が暖かくなりました。 障害をもった人やその家族が、少しでも平和な心で毎日を過ごせますように。周囲の人々の暖かい思いやり、手助けがあれば、みんなと同じ社会の中で生きていく勇気が与えられます。こうした出会いによって私たちが本当の優しさとか、思いやりなど、人間として大切な事を学ばせて貰えるのです。 この事を若い皆さんが、心の中に留めて、身近な自分の周囲に心配って、行動をおこしてくださったら、そこから誰もが安心して住める社会が生まれてくると、心から願っています。 24時間、夫をお世話して下さる施設の方々、また、私たちを支え励まし続けて下さる沢山の方々のお蔭で、今日の私があることを深く感謝します。
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