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光が生まれたときジーパパは元気でした。
病気にはなっていたけどまだまだ元気で、光が生まれるのをまだかまだかと待っていました。ちょうど、大分の教会へ移るまでの間一緒に住んでいたので、生まれてから毎日昼と夜の面会時間には必ず2回とも顔を見に来ました。私がそんなに来なくていいよと言うほどやって来て、「おじいちゃんに似ている」「真君に似ている」「この泣き声がかわいい」などなど。泣いても、笑っても、おしっこしても、ウンチしても、あくびしても大騒ぎ、それはもうジジバカまるだし。(バーバはもっとバババカ!?)
大きな声では言えないけれど……光はハンサムじゃないけど品がある…
それが自慢でした。
大分に行ってからも、朝から晩まで光の話しばかり。少し時間がとれると高速飛ばしてやってきました。ひまさえあれば、光のビデオを見ているのでたまたまた訪ねてきたお客さんは、一緒にビデオ鑑賞をさせられるハメになったとか……。
いつも光のことを思っていてくれました。
友が生まれたとき、ジーパパは病気が進んだので教会を辞め、和白に引っ越して来るときでした。それでもまだ元気で、私が仕事に行っている間友のお世話をしてくれました。バーバがオムツを替えてくれる時、おしり拭きのティッシュが冷たくてかわいそうと、ジーパパが自分の手の平で温めてくれたのです。母であるわたしは、いいのいいのと冷たいままでちょいちょいと拭いていたのにね。
友が少し大きくなった頃、ジーパパが光に絵本を読んでやっていると、友がハイハイしてジーパパのひざにちょこんと座ってじっと聞いていたそうです。それからは友の本読み係はジーパパになりました。
病気がだんだん進んでいたので、同じところを何度も読んだり、とび抜かしたりしても友は平気。友が同じ本を何度も持ってきても、何冊持ってきてもジーパパは平気。友がいつのまにか字を覚えたり、本が好きになったのはジーパパのおかげです。
直が生まれたとき、ジーパパの病気はだいぶ進んで、直のこともあまり解からなくなっていました。でも、直の声がしたら振り向いたり、じっと見たり、自分からあやしたり触ったり、ほかの人には見せない顔を直には見せてくれました。ジーパパがデイケアに行く時、直もよく付いていきましたね。創生園に入ってもバーバと一緒に面会に行きました。そのときも、良い顔を見せるのは直にだけ。娘である私が声を掛けても知らん顔、直が声を掛けると振り返る、そんなジーパパでした。
直はジーパパと一緒に遊んだ思い出はないでしょうね。でもジーパパは直の声がきこえたり、直の走り回る姿を見ると、なんだかわからないけど幸せな気持ちがしていたと思います。
啓が生まれたとき、ジーパパは創生園にいました。ときどき和白の家に帰ってきましたがお世話が大変になっていました。病気もどんどん進んでいて啓を抱っこするのも出来なくなっていました。それでも時々、啓の声に顔を向けたり、じっと見たりしました。バーバは啓のお世話とジーパパの面会、お世話と大変だったと思います。でもいつも啓を連れてジーパパのところへ行ってくれました。啓はジーパパのご飯をときどきもらっていたんですよ。大根やおいも、お漬け物などなど。離乳食の頃だったから、柔らかく炊いたジーパパたちのご飯がちょうどよかったんですね。
ジーパパが時々病院に入院すると啓は、ご飯のお祈りのときかならず「ジーパパが入院したけど、早くなおるように」とお祈りしました。退院してもいつまでもお祈りしていました。だっこしてもらったり、一緒に遊んだり、お話したことはなかったけど、啓の心の中にはいつもジーパパがいましたね。
そして、私が生まれたとき、ジーパパは聖書の中から「惠」という名前をつけてくれました。生まれて
10日位のときベートーベンのレコードを買ってきたそうです。音楽が大好きでオルガンが大好きで、わたしにもヴィオリンを習わせてくれました。練習のとき何度も同じところを間違うと、弓でバシッと手やおしりを叩かれよく泣きました。それでも私が音楽が好きになったのは、音楽が好きだったジーパパのおかげです。光・友・直・啓、ジーパパとの思い出は、それぞれ違うと思いますが、いつまでも心の片隅に大事にとっておいてください。そして、バーバがどんなにジーパパのことを大切に思い、お世話してきたか、二人のことを覚えていてください。
ははより
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