福間教会ホームページへ


 

 野口 直樹牧師 退任記念誌

「十字架の証人」

退任礼拝スナップのページへ

目 次

 

 

聖 句                 福間キリスト教会 堀 矢寿子

写 真                            

はじめに                福間キリスト教会 内田 章二_ 4

ご挨拶                         野口 直樹_ 7

 

恵みの歩み                 野口 直樹・和子・徳子_ 9

1929年 出生

1945年 戦争、そして敗戦

1948年 救いへの導き、バプテスマ

1948年 12 1日、直樹、バプテスマ

1952年 直樹 西南学院大学神学科入学

19571964年 下関バプテスト教会牧師

19641970年 西南聖書学院教師

19701980年 富野バプテスト教会牧師

19801993年 仙台北バプテスト教会開拓伝道

1993〜現在  福間キリスト教会牧師

福間教会伝道開始15周年記念誌より

終わりに

 

各時代を振り返って  _ 24

【下関バプテスト教会】1948〜1952

敬愛します野口直樹・和子先生へ    東福岡教会  福本 幾男   24

【西南学院大学文学部神学科】1952〜1957

神学生の頃       福岡西部バプテスト伝道所  藤田 英彦   24

【下関バプテスト教会】1957〜1964

野口直樹牧師 −強烈に心に残っている事− シオン山教会  大石 力生   24

【西南学院・西南聖書学院】1964〜1970

野口先生と聖書学院の思い出  水戸パブテスト教会  諏訪 泰子   24

【田島バプテスト伝道所】1964〜1970

野口先生の導きを感謝     バイブルチャーチ福岡  大場 和代   24

【富野バプテスト教会】1970〜1980

野口先生の思い出       富野バプテスト教会  中村 正子   50

【仙台北バプテスト教会】1980〜1993

野口牧師ご一家との出会い  仙台北バプテスト教会  古川 明   24

【福間キリスト教会】1993〜2000

家族で伝道された野口先生    福間キリスト教会  兼行 一弘   24

【自由ヶ丘伝道所】1997〜2000

野口先生の想い出         自由ケ丘伝道所  楠元 建昌   24

【北九州シロアム会】1972〜2000

野口直樹先生と北九州シロアム会 北九州キリスト教会  綾塚 厚   24

 

寄せ書き              福間キリスト教会、自由ヶ丘伝道所

思い出アルバム

あとがき

 


 

はじめに

《 目次へ 》

福間キリスト教会 内田 章二

 

「イエスは自分を信じたユダヤ人たちに言われた、『もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである。また真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう。』」  〜ヨハネによる福音書8章31、32節〜

 

 

 野口直樹先生の牧師退任にあたって、私たちの精一杯の感謝を込めて記念誌を発行できますことを、心からお慶び申し上げます。先生は1957年4月に下関バプテスト教会に牧師として招聘され、以来2000年3月まで43年間にわたって伝道者として歩んでこられました。想えば、この43年の歩みの中で、どれほど多くの人が野口先生ご一家との出会いを経験されたことでしょうか。私はそのお一人お一人に会って先生ご一家との思い出をお聞きすることは出来ません。けれども私は、誰もが先生ご一家との出会いの中で、キリストを信じて歩む人生がこんなにも自由で明るく、喜びにあふれたものかと驚きを感じられたであろうことを確信いたします。それは、先生ご一家が「神の国を伝える伝道者」としてのみご奉仕されたのではなく、「神の国を生きる伝道者」として私たち一人一人に係わって下さったからにほかなりません。言葉を換えて言うならば、私たちは野口先生ご一家のお働きと生き方を通して、伝えずにはおられない福音をからだ全体で聴くことが出来たのです。

 野口先生ご一家はこの春、長かった伝道牧会の生活にひとつの区切りをつけられます。しかし、福音宣教への情熱は今までと少しも変わることなく、一人の信徒として共に教会の働きに参加して下さいます。この記念誌が、先生ご一家の新たな歩みをも記念した「祈りの文集」として完成したことを皆様と共に喜びたいと思います。

 

 

ご挨拶

《 目次へ 》

野口 直樹

 この度、牧師退任にあたり、福間教会が記念誌を出してくださるとのことであります。完成までのご労苦、費用の負担などを思って、誠にもったいなく、感謝するばかりであります。

 私ども一家は記録に残すほどのものは何も持たない平凡な人間たちですし、歩んでまいりました過去を振り返りますと、皆さまにおかけしたご迷惑ばかりが思い浮かび、お詫びのしようもない気持ちに駆られます。

 皆さま、すみませんでした。

 

 けれどもこのような欠けだらけの、罪多き者が死を命に変えられた、主イエス・キリストの父なる神のお力によって、生かされ、用いられたということは、一つの証しであります。

 その証しの一端として、私どもの歩みを振り返って、少し書かせていただきました。

 説教につきましては、福間教会の礼拝説教は説教集に纏められて、昨年末で30集を数えるに至っております。これは、宮崎信義兄が今日までこつこつとご奉仕してくださった結果です。また、この説教は野口 真兄が管理して下さっているホームページにも掲載されています。上記のどちらかをお読みいただければ幸いです。

 心からの願いはこれによって主のみ名こそがあがめられますように、読んでくださる方々に少しでも信仰のお役にたちますようにということであります。

 私は使徒パウロの言葉を借りて、このように告白せずにはおられません。

 「キリストは月足らずで生まれた者と同様な私にも、現われてくださいました。私は牧師の中では最も小さい者であって、牧師と呼ばれる価値のない者です。ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、今日まで牧師として働いてきました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。」(1コリント15:8-10)

 皆さま、ありがとうございました。

 

 

 

恵みの歩み

《 目次へ 》

野口 直樹、和子、徳子

 

1929年 出生            [1930世界大恐慌、1932五・一五事件]  /////////////////////

            [1936二・二六事件、1937日華事変  ]

 

 直樹: 野口重夫、徳子の長男として北海道で生まれました。5才上に姉、まき子、5才下に弟、秀樹の3人きょうだいです。幼時に本籍地の山形県米沢市に移り、そこで育ちました。

 和子: 塚本徳市、ちえの、の長女として下関で生まれました。下に多喜子、義人、美津子、忠之の妹2人、弟2人の5人きょうだいです。下関で育ちました。

 

《二人の対話》

 直樹 「北と南で何のつながりもないと思えた二人が結ばれるなんて、まったく考えもつかなかった。」

 和子 「その通りね。キリスト教にも無関係だったし。」

 直樹 「ぼくもそう。冬はスキー、夏は川で水泳、と遊びほうけていた子供の時から神さまは見ていてくださったのだろか。」

 和子 「そう。私は海水浴ね。それに父と母の郷里の島根県益田に毎年夏休みに帰って、川で遊んだこと。勉強などそっちのけだった。」

 直樹 「牧師、幼稚園教師となるわれわれのために、神さまが基礎体力をつけてくださっていたというわけか。」 

 和子 「とにかく、『 人の心には多くの計画がある、しかしただ主の、み旨だけが堅く立つ。』(箴言19:21)ですよね。」

 

 

1945年 戦争、そして敗戦   [1941太平洋戦争開戦、1945終戦] ///////////

 

 直樹: 海軍航空隊に志願しました。15才でした。飛行機乗り、次いで陸上で戦車攻撃の猛訓練の日々を送りました。最後は魚雷艇の格納庫掘り。完成して操縦訓練を受ける直前に日本の無条件降伏によって戦争が終わりました。いずれの訓練も生還などは考えない特攻訓練ですから、もう少し戦争が長引けば生きてはいなかったはずです。

 和子: 学生たちは学徒動員といって、兵器工場、病院、郵便局等社会のあらゆるところで働いて戦争を支えていました。

 

《 目次へ 》

 

 1948年 救いへの導き、バプテスマ    [1945終戦、1950朝鮮戦争] ///////////

 

 直樹: 家族は当時日本が支配していた北朝鮮に住んでいました。敗戦によって日本人は全てを失いました。朝鮮半島を植民地として支配し、現地の人たちを酷使して、それによって良い生活をしていた日本人の罪を思うと、それは当然のことです。それだけでは済まされないことでもあったのです。
 しかし、一人一人の日本人にとっては死と隣り合わせの苦難の日々が始まったのでした。みんな、着の身着のままで日本帰国を目指しましたが、多くの人は途中で死にました。
 私の家族は叔父が途中で死にましたが、あとは叔母と姉、母と弟と二人ずつ、ばらばらになりましたが命長らえて帰国することができました。最後に父が博多港にたどり着きましたが、骨と皮の姿で大野の元陸軍病院に収容されました。知らせを受けて、私は東洋高圧という会社に就職して下関におりましたので、米沢から駆けつけた母と姉と落ち合って博多に向かいました。父は明け方、息を引き取りました。
 私たちは遺骨を抱いて郷里に向かいました。福岡から東京まで行き、そこから東北線に乗り換えて、郷里に向かうために上野駅で列車を待っていました。その時、駅前のガード下でキリスト教の路傍伝道に出会いました。そこで聖書を買いました。福音との最初の出会いです。

 和子: 下関は空襲で焼け野が原となりましたが、家族はそれぞれ九死に一生を得て、全員無事でした。
 しかし、私は生きる目標を失い、人生の意味を求め求めてさまよい歩くような日々を過ごしておりました。紆余曲折の末、遂にキリスト教に救いを見出したのです。イエス・キリストの十字架に示された神の愛を深く感じました。
 教会の門を叩くのには、このようなエピソードがあります。
 私は戦後の文化を吸収しようと、文化学院で学んでいました。授業の一つに社交ダンスがあって、クリスマスイーブは盛り上がってオールナイトで踊り続けました。くたくたになってソファーに寄りかかっていますと、外から讃美歌が聞こえて来ました。教会の青年がキャロリングにまわっていたのです。
 はっと我に返り、「わたしは何をしているのだろう。無意味に青春を終わるべきではない。」と目を覚まされたのです。そしてわたしが通っている武涛洋裁学院は確か教会の会堂を使っていたということに気づかされました。毎日目に入っていた教会なのに、今までそれを意識したことがなかったのです。それが突然、意識に浮かんで来たのです。本当に不思議です。私は早速、教会の門をくぐったのです。後で聞けば親しい友がそのキャロリングに加わっていたそうです。彼女は私のことを案じて、日夜祈っていたそうです。

 直樹: 全く同じ心境でした。戦争が終わってすべてが一変してしまい、今までの学びは何だったのか、若き情熱はまぼろしであったのか、多くの先輩は国のために死んで行ったけれども、自分はおめおめと生き続けていいのだろうか、と毎日悶々の時を過ごしていました。見た目には会社で良く働き、友だちと陽気に遊んでいましたが、心は虚無そのものだったのです。
 上野のガード下で手に入れた聖書は片時も離さず持っていました。そして聖書を読むと不思議に心が落ち着き、希望が湧いて来るのを感じました。イエス・キリストが十字架で祈られた言葉、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです。」(ルカ23:34)が印象的でした。そして遂に教会に導かれたのです。
 これにもエピソードがあります。
 田上君という同僚が、「なまの英語をただで教えるところがあるから行かないか。」と誘いに来ました。そして行ったところが下関バプテスト教会でした。ミス・ワトキンス宣教師がバイブルクラスを開いておられたのです。当時、私は聖書をよく読んでいましたが、進んで教会に行こうという思いはありませんでした。クリスチャンの青木誠三郎さんという人が私になんとか福音を伝えようと祈って、英語でさそったというわけです。

 

《 目次へ 》

 

1948年 12 1日、直樹、バプテスマ  ////////////////////////////////////

1949年 12月28日、和子、バプテスマ

1951年 12月16日、徳子、バプテスマ

 

 直樹: ミス・ワトキンスは大変熱心な方で、バイブルクラスの終わりには必ず信仰決心の招きをされるのです。「イエスさまを救い主として受け入れる方は手を上げてください。どなたでも」。私は半年位続けて出席していましたが、周りの人は次々と決心して行き、遂に私が一人になってしまいました。ミス・ワトキンスは相変わらず、「どなたでも」と言われるのですが、その「どなたでも」は私一人のことなのです。
 遂に私は決心の手を上げました。当時は執事会で試問があって、それから信仰告白をする段取りになっておりました。私は今までのことをかいつまんでお話しし、「聖書に、『見ずして信ずる者は幸福なり』とありますので、何もわかりませんが私は飛び込みます。」と威勢良く申しました。威勢は良かったのですが、信仰の内容は何もなかったのです。それでも温情で、「よかろう」ということになりました。
 信仰告白の日、前に出て聖書を開いたところ、はさんでおいたはずの原稿がありません。すっかりあわてた私の信仰告白は支離滅裂なものとなってしまいました。一緒に7名位受けましたが、私は確実に一番頼りなく見えたはずです。「この人は続くだろうか」と思った人もあったでしょう。

 

和子 《証し》

 私の信仰生活は50年になります。
 イエスさまにお会いしてからの自分の歩みを振り返るとき、いつも私は神さまに問いかけます。「私が何者なのであなたは私をかえりみ、私が何をしたからみ心にとめて祝してくださるのですか。」神さまの愛が私にだけ特別に注がれているような錯覚に陥るのです。しかし、そうではありません。多くの信仰の友も私と同じようなことを言っています。神さまの愛は一人にしぼられるようなそんなちっぽけなものではなく、無限大、無制限であることの見本として私があるのだということを知らされました。
 私は下関生まれ、下関育ちです。終戦当時、私は17歳の花の女学生でした。しかし戦いは日に日に悪化していました。日本の軍需産業の中心地北九州、海運の要衝関門海峡に臨む下関は敵の目に集中していたようです。長崎に投下された原爆は実は、小倉に落とす計画だったそうですが、その日の小倉は上空が曇りだったので予定を変更して長崎となったのだそうです。長崎の人々が私たちに代わって犠牲となられたのです、小倉に投下されていれば私は今生きていなかったかも知れないのです。
 私たちは学びを中断し、生活を捨てて学徒動員に出ていました。そしてひたすら勝利を信じて、昼も夜も働き続けました。その結果が敗戦です。体も心もボロボロになっていました。今まで信じていたものが音を立てて崩れ去ってしまい、立ち上がる力も残されていませんでした。
 人々は生きるために食い、食うために働く毎日を精一杯送っているだけです。食料と物資は底を尽き、人々はそれを奪い合い、まさに弱肉強食のあさましい光景が日本中をおおっていました。私はもうこんな世の中には生きていても何の意味もないと死を考えるようになりました。そこで、わたしは死んだらどうなるのだろうと考えました。死んだ後は一握りの灰になり、その価値はわずかな肥料代にしかならない私。しかし、私を造るとしたら全世界の英知と技術を集めても決して造ることのできない私。私は自分の命を軽く見過ぎていたのではないだろうか、私は自分はだめだと言っているけれどもこの命は私の思いを超えた何か大きな力によって生かされている尊い贈りものなのではないだろうか、という思いにかられました。そして何も死に急ぐことはない、人生の真の意味を訊ねてみようという気になりました。
 始めの2年間はあちこちの宗教へ首を突っ込みました。しかし満足の行く回答は得られませんでした。3年目にキリスト教へと導かれました。そして、2年間通い続けて十字架の愛に触れました。そしてキリストに従う決心をしました。
 思いおこすと私は不思議でなりません。戦争中、空襲を避けて山で夜を明かした日のこと、明け方に敵機が頭上に現れて私たち目がけて機銃掃射を始めたのです。私はもう生きたここちも失い、気が付くと必死に祈っていました。「神さま、助けてください。助けてくださったら、後の人生はあなたに捧げます。」
 今、あの時知らずに呼び求めた神さまにお会いしているのです。神さまはあの時の私の祈りを聞き入れてくださり、ここまで導いてくださったのです。私にはもう迷いはありませんでした。生涯を神さまにお捧げして過ごすことが私の生きる意味だということがはっきりと判ったからです。
 しかし、父母は決して許さず、「おまえはヤソの気ちがいになり、ありがたがっているが、われわれは大迷惑している。家族の幸福を奪う権利はないぞ。」と迫りました。私は、「敗戦によって全く生きる希望を失い、暗黒の世界にさまよっていた私がやっと、キリストの愛を知り、光の世界に移され、喜びと希望を持って生き始めたのです。私にキリスト教を捨てろと言うことは私に元の絶望の世界に帰れ、いやおまえは死ね、言われるのと同じです。私はやっと生き始めたのです。元の絶望の世界に戻ることはできません。」と答えて、家出をしました。この世で一番大切な両親と家族を信仰のゆえに捨てることは辛いことでしたが、そうするより仕方がなかったのです。これから先どうして生きて行けばよいか、当ては全くありませんでした。当時、私は洋裁学校に通っていました。財産はミシン一台だけです。これを持って戦災孤児のお世話をさせていただき、洗濯物の繕いをしながら施設で働こうと考えました。それで保母の試験を受けました。
 幸いに宣教師がメイドハウスに住まわせくださいましたので、教会への出席と奉仕を続けることができました。そうこうするうちに尾崎主一牧師が下関教会に赴任され、幼稚園を設立されました。そして保母の資格を持っている私をその働きの中に組み入れてくださいました。翌年、連盟婦人部奨学生として西南学院短大児童教育科に学ぶことを許されました。
 その後、父母の上に奇跡がおこりました。世界中の誰が救われても、うちの父母だけはクリスチャンになることはなかろうと匙を投げていたその父母が救われたのです。あれほどまでに毛嫌いしていたキリスト教ですが、一旦イエスさまの愛に触れると、二人とも熱心純朴な信仰を貫き、死に至るまで神さまを愛し、従いつつ天に凱旋しました。
 「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。 だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。」(マタイ6:33)とのみ言葉を実感しています。
 それから50年、神さまが備えてくださった地、下関、福岡、小倉、仙台で幼児保育者として立たせていただきました。イエスさまが一番愛し、祝された幼児との生活は最高に楽しい世界です。私が55年前、廃墟の中で探し求めた私の生きる意味はここにあったのです。幼児と共に神さまの恵みを生きる。これこそ私の天職であり最高の人生だったと思います。
 私は約10年前、異常な疲れをおぼえ、健康診断の結果、C型肝炎であることがわかりました。それで、主人の判断で仙台北教会のご用を退くことになりました。C型肝炎になった原因は40年も前、長男を出産のとき大量の輸血をしたことによるようです。私はこのことを感謝しました。私のことを心配して、恐る恐る告知してくださったお医者さんに私は心からお礼を申しました。なぜなら、もし私が30才代でその事を知ったら、思い切った働きもできず、灰色の人生を送らなければならかったでしょう。元気で体を動かすだけが取り得の私に神さまが今日までこの病気を知らせずに、体がきついこともありましたが、みんなそうなのだろうと思って乗り切って来られたのですから感謝です。こう申しますと、お医者さんは驚かれ、信仰の大切さを今更ながら知ったと、反対にお礼を言われました。
 病状は今日までゆるやかに進行しているという状態ですが、71才となった今は年令に不足はありません。神さまは、「お前はじゅうぶん働いた。これからはボツボツ生きなさい。」と言っておられるような気がします。「神のなされることは皆その時にかなって美しい。」(伝道3:11)
 この福間教会に招聘されて8年になりましたが、私は来させていただいた当初からもう昔からの会員のようにのびのびとご奉仕やお交わりをさせていただきました。皆さまが何事も温かく包み込んでくださったおかげです。心から感謝いたしております。
 教会の入り口の塔には十字架が掲げられていますが、これは、「ここに本当の愛がありますよ。」というしるしです。キリスト教の教えている神さまは私たち一人一人を愛して止まないお方です。私のような人生に絶望した者をもお見捨てなく、今日まで運んで下さったお方です。イエスさまは私の罪の身代わりとなって十字架におかかりになりました。多くの罪、過ち、欠点を抱えた私が臆することなくご用に当たれるのはこの御恩寵のおかげです。私だけが神さまに愛されているのでも、例外でもありません。神さまはすべての人に惜しみなく愛を注がれ生かし、支えてくださっています。
 どなたもどうぞ、この教会のお仲間にお入りください。
 教会の皆さま、これからも神さまの愛をいっぱいお受けになって祝福に満ちた道を歩まれますように。

 

《 目次へ 》

 

1952年 直樹 西南学院大学神学科入学      //////////////////////////

1954年 和子 西南学院短期大学児童教育科入学

1957年 結婚        [1954ビキニ水爆実験、第五福竜丸被害]

 

 直樹: 私はバプテスマを受けた年に腰椎カリエスになって郷里で10ヶ月療養生活を送りました。郷里でも時折、教会に出ておりましが、それほど熱心ではありませんでした。
 1949年11月に下関に戻ってから真剣に教会生活を始めました。会社の寮は教会から8kmほど離れた所にあります。ですから日曜日は夕礼拝まで寮には帰らず、一日教会にいました。ストーブの薪割りなどをしていました。定時制高校夜間部にも通っていました。教会学校教師、青年会会長もしていました。だから、みんなからはまじめで熱心な青年と見えたかも知れません。実はそうではないのです。ヨナの心境だったのです。
 教会については無知に等しい私はとんでもない誤解をたくさんしていました。たとえば、教会に行くようになった最初の頃、あまり続けて行ってはあつかましいと思われるのではないかと気にして、三度に一度位は休んでいたのです。信仰の友の橋本君が来て、「教会というところは続けて行っていい所なのだ。神さまにも、人にも喜ばれることなのだ。」と説明してくれました。それからは喜々として続けて行くようになったのです。
 もう一つの誤解は説教についてです。尾崎主一牧師の説教はすばらしいものでした。朝、夕、祈祷会と、いつも魂が躍動するような力に満ちた説教でした。私は始め、あの説教の原稿はどこかから送られて来るものだと思っていたのです。じょうずにお話しされるものだな、と感心していたわけです。武涛執事にそれを聞くと、「説教は牧師が全部つくるのです。」との説明でした。私は飛び上がらんばかりに驚きました。とても人間わざとは思われませんでした。「他の何をやれと言われても、牧師だけはやれない。」と思いました。「神さま、牧師にだけはさせないでください。他は何でもしますから。」と心に叫びながら奉仕していたわけです。
 ところが習いたての自転車は前の電柱を避けようと意識すればするほど、そちらに向かってしまう。そんな感じで、とうとう牧師の道に入らされてしまったのです。今、振り返ると神さまは、私に最もふさわしい道を開いてくださったことがわかります。今は、引退後には説教の機会が少なくなるがどうしようか、と気にしている私なのです。話し始めると終わるのに苦労している饒舌な今の私を見ている人は無口だった子供時代の私のことを説明しても信じられないという顔をされます。神さまは人の思いを超越して働かれる力のお方です。ハレルヤ!

 直樹: 結婚は神さまが定めてくださいました。
 教会が段々わかって来て、気になったことは教会の青年男女は誰と結婚するのだろうか、ということでした。それで私は、「結婚するならこの中からもらってやらねばなるまい。」という使命感のようなものを感じていました。
 和子はどうであったかというと、私を見て、「いつも作業服を着て、見栄えがしなくて、気の毒。」と思っていたそうです。
 そんなわけで、「使命感」と「気の毒」がうまく結びついたということになりますが、二人にとって最も大切なことは献身の決意でした。この一致は本当に感謝なことでした。互いに安心して全力で教会のわざに打ち込むことができたからです。神学校に行く前に二人で約束して、5年後、神学校卒業の年に式をあげていただきました。

 

《 目次へ 》

 

 19571964年 下関バプテスト教会牧師     //////////////////////////////

 

徳子 《証し》


(これは1959年に、「世の光」に書きました証しでございます。始めに出てまいります孫とは野口 真のことでございます。今はその真の子ども、私にとりましてはひ孫が良い遊び相手になってくれております。夢のような気がいたします。そして、この幸いのすべてが、苦難のどん底におりました私たち家族を憐れみをもって救ってくださった神さまの愛のお陰であることを思って感謝にあふれるのでございます。)


 「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。
 だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。」(マタイ6:33、34)
 くるくると丸く厚みのある胸をそらせ、堅く肥った手足をふんばったりちぢめたり、パチャパチャとしぶきを上げてはお口をあけて喜ぶ坊や、まる6ヶ月になった孫をお風呂に入れる日課は最近の私の何よりの喜びでございます。たらいの中で、片手にささえて入れたのはついこの間のようなのにほんとうに大きくなったものでございます。思わず感謝と、更に願いとの祈りが湧いてまいります。そしてふと坊やのお父さんである、私の長男をだいている30年も前の昔に返ったような錯覚を起こしたりもするのでございます。すべては神さまの御手の中に、そして愛の神さまが、すべてをこのようにしてくださいました。すべてのことが御恵みでないものはありません。まったく私の証しはこの一語につきるのでございます。
 「あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。」(1コリント10:13)
 すべてを神さまにゆだね、御恵みの中に生かされております今、はや10余年の彼方に去ったあの苦難の道を御恵みとして考えさせていただくことは幸いでございます。
 終戦の翌年の秋、私どもは略奪と恐怖の北朝鮮を、小船で逃れて38度線を突破し、九死に一生を得て祖国日本に帰り着いたのでございます。しかし家族は別れ別れで、最後に帰りました主人は博多上陸と同時に筑紫病院に運ばれ、そこでなくなりました。郷里から駈けつけました私は三人の子供たちと共に奈落の底に突き落とされた思いでございました。傷心の身に遺骨を抱いて帰る途中のことでございます。上野駅で乗り換えの汽車を待ちつつ長男は、10円を持って焼きいもを買うために出てゆきましたが、すぐ戻って来て、「そこのガードの下で、英語の聖書を10円で売っているので、買いたいが。」と遠慮がちに申します、その顔を見て私は胸もつまる思いでございました。昨日は見も知らぬ町を歩きながら、「お母さん、世の中は広いよ。どこでだって暮らせるからね。」と母を力づけてくれる息子です。この子供たちのために強く生きなければならないと、この時、私は覚悟が出来たのでございます。息子は16才でした。
 「こうして、人々が熱心に追い求めて捜しさえすれば、神を見いだせるようにして下さった。事実、神はわれわれひとりびとりから遠く離れておいでになるのではない。
 われわれは神のうちに生き、動き、存在しているからである。」(使徒17:27、28 )
 この時買った聖書、それは日本語と英語の2冊でしたが、英語の勉強になる本が安く手に入るという魅力に引かれただけの聖書でございましたのに、これが息子の献身への最初の御導きの御手でありましたとは、又後に私が行くようになりました教会の牧師先生がこの時上野のガード下で聖書のおすすめをされておられたと承り、まったく奇しき神さまの御業に心打たれるのでございます。その後長男は下関で働きつつ勉学を、私は二人の子供と郷里の山形県の米沢で生計を立てましたが、私の心はいつも不幸な子供たちを思って涙にとざされるばかりでございました。
 「あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。
 そんな小さな事さえできないのに、どうしてほかのことを思いわずらうのか。」(マタイ12:25、26)
 まことにみことばのとおりでありました。しかしある時、すでに御救いにあずかっておりました長男が帰省いたしまして、「僕がこんなに神さまの祝福を受けて幸せなのに、どうしてお母さんは 僕のために泣くことがあるのか。」と申しました時、私はまったく魂の底から揺り動かされたように思いました。これ程の不幸の中に置かれている私の子供が幸福とはどういうことであろうか、私はこのことを知るために教会の門をくぐらずにはおられず、こうして私はキリストにお会いできるように導かれたのでございます。
 「兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。」(ローマ12:1)
 信仰生活5年目、長男は献身を決意して神学校にはいりました。前年の秋、コーセン博士の伝道説教を通して神さまよりの召命を受け、やむにやまれぬ思いで、正月の帰省の折に私にその決心を申したのでございます。まだ信仰の浅い私は息子の前途に対する不安と、有望と思われる職場を捨てることなどを思わぬわけにはいきませんでした。けれども、「イエスがシモンに言われた、『恐れることはない。今からあなたは人間をとる漁師になるのだ』そこで彼らは舟を陸に引き上げ、いっさいを捨ててイエスに従った。」(ルカ5:10、11)のみことばに立ち、職も捨て、又万一の時は親も兄弟も捨てる決意の息子の信仰の前に、私は言葉もなかったのでございます。これからの5年間の、今にも増して容易ならぬことは思いましたけれども、息子を信じる私の気持ちに変わりはなく、一層働く決心を強く与えられまして、祈ったのでございます。
 「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。」(ローマ8:28)
 祈りは次々にかなえられまして、私どもは尾崎主一牧師の御力ぞえをいただき、下関に移り長男と一緒に住むことができました。そして私は教会の幼稚園の教師として生きる張り合いを与えられました。神共にいまして、ひしひしと御憐れみの身に迫るのを覚えて感謝しつつ過ごすことのできた5年間でございました。息子の神学校での5年間も、経済的には何程の苦しさでありましたことか、私には痛みのように感じられました。けれども、「 わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。」(2コリント4:18)まことに目に見えるものを乗り越えて祝福の中に我が子も置かれていることを信じて祈る毎日だったのでございます。
 「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。」(エペソ2:8)
 私は小さい頃姉と一緒に、東京の神田の家の近くにあった教会の日曜学校に行ったことを覚えております。そこでおぼろげながらも造り主なる神さまを知りました。姉は結婚後キリスト者になりましたが、女学校の頃そのことを願って父の怒りを受けました。その時父は仏壇の前に姉を座らせ、先祖より伝わる刀を前に置いたので、姉は全身ふるえながら許しを願ったということがございました。涙もろい半面、そのような父、仏教に忠実な母、そのような周囲の中で私の信仰の芽も消えてしまいましたが、主は姉妹二人ともを見捨て給わなかったのでございます。このことは私に、「 二羽のすずめは一アサリオンで売られているではないか。しかもあなたがたの父の許しがなければ、その一羽も地に落ちることはない。」(マタイ10:29)のみことばを思い浮かばせられるのでございます。
 私の母は昨年の夏まで元気でおりましたので、息子はその祖母に対して度々手紙で伝道をしておりました。母は信じるまでには到りませんでしたが、理解はしてくれまして、仏教の信仰厚い家柄からキリスト教の牧師が出るということは不名誉に思いますか、との息子の問いに対し、お祖父様は肉体の医者でしたが、魂の医者になるのも大変立派なことと思うから、しっかりやるようにと申したのでございました。次男は父を失いました時、11才でしたがその後段々年令的にも母の手には余る頃となり心を痛めましたが、兄には絶対に信頼を抱いておりましたので、間もなくバプテスマを受けるようになりました。一人の娘はたってのすすめを受けて結婚させたのでありましたが、思わぬ不幸に私どもは涙と共に祈り、神さまの御心でなかったことを教えられまして引き取ったのでございます。この姉に対しても息子の祈りは続けられ、遂に信仰が与えられたのでございます。「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます。」(使徒16:31)
  まことに、熱き祈りが神さまに祝され、神さまは御恵みによって、私どもをクリスチャンホームとなし給うたのでございます。
 「わたしたちは、真理に逆らっては何をする力もなく、真理にしたがえば力がある。」(2コリント13:8)
 長い5年間も過ぎてみれば夢の間でございました。神学校卒業の春も近づきました頃、伝道の心に燃えて、息子は開拓伝道を志願し、もし郷里東北に伝道ができるならとのまぼろしを抱いていたようでございました。私もどこへなりとも御心のままにと祈る心でおりましたが、しかし思いがけずも母教会より招聘のことを承ったのでございます。その器でないことを思い、はじめはひたすらご辞退する息子でございました。私は輝く御恵みの御手を感じる感謝と、むらがる困難の雲を思う不安とが入りまじる思いでただ御心を知るべく祈るばかりでございました。最後に特別の執事会が開かれ、お招きによって息子が出席致しました晩がございましたが、私ども一家は婚約中の嫁もまじえて、息子がおそく帰宅するまで皆、身動きも出来ない思いで、祈って待ったことが今も思い出されるのでございます。
 「あなたがたが召されたその召しにふさわしく歩き、できる限り謙虚で、かつ柔和であり、寛容を示し、愛をもって互に忍びあい、平和のきずなで結ばれて、聖霊による一致を守り続けるように努めなさい。」(エペソ4:1-3)
 あの時よりはや2年、「 わたしたちはまた、神と共に働く者として、あなたがたに勧める。神の恵みをいたずらに受けてはならない。」(2コリント6:1) 私は残る生涯をどうか御恵みの万分の一にも添い奉りたいと念願しているのでございます。現在責任重き立場に立って、主の御導きの中に、そして全教会員の熱き祈りと御協力にささえられて、日夜御栄光のために、ひたすらに励む息子、それは献身者としてのかぎりない喜びにあふれた姿でございます。魚が水を得た如き息子の喜び、それは私共家族にとっても、この上なき安心と張り合いでございます。
 かつては世の常の親として長男息子に対するこの世的な希望もございました。又学校の成績もよく性質もよくと、親馬鹿の思いで我が子の将来にこの世的な夢も抱きました。けれども今、神さまより召されて真の自分の道を見出し、一すじに精進する息子自身の幸福を思う時、私もまた最も光栄ある業に我が子が召されたことをこの上なき親の喜びとして心から感謝をおささげするのでございます。家族揃って新生賛美歌14番、「主にすがるわれになやみはなし」を歌いつつ心からのアーメンを唱えずにはおられないのでございます。

 

《 目次へ 》

 

 19641970年 西南聖書学院教師 [1964東京オリンピック、1970学園紛争] ////////

 

  直樹: 西南聖書学院というのは、西南学院の中に神学部とは別に、実践的な学科を中心に学んで牧師になってもらうコースです。牧会経験のある教師をということで、私に打診がありました。私は就任する決心をしました。和子は反対でした。下関教会の牧会が何一つ整理できていない状態でしたし、私の考えがはっきりしていないのを知っていたからでしょう。私は常日頃、勉強が足りないことを痛感していましたので、神学校に行けば勉強が出来ると、自分の都合に相当なウエートを置いた考えでいたのでした。学生の皆さんには本当に申し訳ないことでした。
 学生の皆さんは社会経験の豊富な人も多く、信仰生活も長い人たちも多く、それはそれは熱心で、私の方が教えられることばかりでした。友だち、同労者という感じで支えられていました。卒業生は今各地で堅実な伝道牧会に励んでおられるのです。
 そのようなわけで授業の準備には痩せる思いで苦労していましたが、故ギャロット宣教師から引き継いだ田島伝道所の伝道には熱が入りました。神学生も大勢で応援してくれてました。伝道がどんどん進み連盟の応援を得て土地を購入し、プレハブながら会堂も完成しました。そして浜中恒雄先生を牧師にお迎えすることができました。浜中先生は教会形成をほとんど根本からをやり直されて、今日の立派な教会へと導かれたのですが、先日、招かれてご用に当たらせていただいた時、「この先生が先代の牧師です。この先生のおかげで今の教会があるのです。」と身に余る光栄な言葉で私を紹介をされました。「先代がぼんくらでも次が立派だと先代も立派に見えるからありがたい。」と笑ったことでした。
 とても教壇に立つような器でないことを知った私は悩みました。では牧師ならできるのかと言えば、これまたむずかしい仕事です。今までは夢中でやって来たので牧師という仕事の重さ、むずかしさに目をやる余裕さえなかったのでした。ある時は人の命に関わることでもあり、その人の一生に関わることであり、それ以上にその人の永遠の救いか否かに関わる仕事であることを考えて、足がすくむ思いになりました。それでも私にはこの道以外に無いと示され、牧師に戻る決心をしました。
 聖書学院時代は、少しは勉強もさせていただきましたし、先輩の先生や学生の皆さんからは言葉では表せない多くの教えやお世話を受けましたし、もう一度、牧師の使命を考えることができましたから、神さまが与えてくださった良き備えの時であったと感謝しています。

 

 直樹:  尾崎主一先生のこと
  私たちは家族全員、尾崎主一牧師に導かれて信仰生活を送りました。どれほどお世話になり、どれほど影響をうけたか計り知れないものがあります。
 先生を偲びつつ、神さまに感謝しつつ、告別式の説教を再録させていただきます。

 

 

故尾崎主一先生告別式説教   1990年8月12日 於・西南学院教会

仙台北バプテスト教会

                                                 牧師    野口  直樹

聖書:  ロ−マ  1:16,17

題 : 「信仰による義人」

 

  勝子夫人、そしてご遺族の皆さまに心から主のお慰めがありますようにお祈りいたします。

  先生とお交わりのあった関係者皆さまも深い悲しみを覚えておられることでありましょう。

  しかしながら、わたしたちはその悲しみを越えて、先生の信仰による凱旋を心にとめたいと思います。

  パウロは弟子テモテに、「わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。」(テモテ第2、4:7,8)と告白していますが、そのまま、先生の言葉として聞えて来るような気がします。

 

  序.私のような者が告別説教者に指名されまして、恐縮いたしております。しかしながら、これには神さまのご意志が働いているものと理解して、あえてお引き受けしました。

  1)故尾崎主一先生はなによりも、「牧師」であられました。

  先生のお働きは非常に多方面にわたっております。

  神学者、教育者、日本バプテスト連盟の代表者、学校の責任者等々、各分野で偉大な働きをされました。

  しかしながら、先生は常に「私は牧師、伝道者である」と言い続けておられました。これは 先生の原点でした。

  それで、先生のすべてのお働きを代表して、一地方教会牧師の私が立たされたのだと理解しております。

  2)もう一つの理由は、先生のお世話になった者の代表が私です。

  事実、私の家族ほど先生のお世話を受け、また、先生に面倒をおかけした家族はありません。

  私の母は、いつも、「わたしはイエスさまの次に、尾崎先生を尊敬しています。尾崎先生には足を向けて寝られない気持ちです。」と言っています。

  しばらく、先生を偲びつつ、わたしたちのための、信仰の指針を得たいと思います。

 

  1.先生は「聖書の人」でした。

  私はこの度、聖書の個所を選ぶのに苦労しませんでした。聖書のどこを開いても、先生を思いおこすことができたからです。

  1)先生は聖書と「取っ組み合いをした人」でした。

  聖書はわかり切った書ではありません。

  神は啓示の書であり、その適用をわたしたちに求める書であります。

  「聖書の人」とは祈り、考え、人生に苦闘する人であると、先生は無言のうちに教えて下さいました。

  2)先生は「聖書にとらえられた人」でした。

  パウロは「キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び別たれ、召されて使徒となったパウロ」と言っていますが、

  先生ご自身、福音のとりこ、神の僕であられました。

  3)先生は聖書の「真髄に触れた人」でした。

  私は家内に、「尾崎先生をどう思うか」と問うたところ、「先生は恵みの水脈に達した人だったと思う」と申しました。確かにそうでした。

  説教の度ごとに、先生を通してでなければ聞けない福音の真理を聞かせていただきました。

 

  2.先生は「信仰による救い」を得た人でした。

  ガラテヤ  2章16節に、「人の義とされるのは律法の行ないによるのではなく、ただキリスト・イエスを信じる信仰による。」とありますが、

  わたしたちは先生の口から何度となく、その言葉を聞いています。

  それは単なる教理ではなく、ルッタ−の受け売りでもなく、先生の信仰告白でした。

  1)先生は「神の前に罪人である」ことを告白しておられました。

  私のようなノン・クリスチャン家庭の育ちで、社会に出てから教会に来た者としましては、罪の中に育ち、罪の中に生きて来たという実感を持つのは当然で、先生のように牧師の家庭で育たれ、若くして信仰に入られ、牧師となられた立派な方がどうして、そんなにご自分をせめられるのか、と思いました。

  先生は神の前に立つ自分として、自分にはあくまでも厳しく生きられたかたです。

  2)先生は「信仰のみによって救われた者」であることを告白されました。  「イエス・キリストの十字架のあがないの事実。この事実をただ信じて受け入れるだけ。この信仰のみによって人は神の前に義とされる。」という明確な信仰を持っておられました。(私は題を口語訳聖書に従って、「信仰による義人」としましたが、内容を考えて、「義とされた信仰者」とすべきであったかもしれません)。

  これが信仰の第一ボタンです。

  福音はキリスト教的文化でも、思想でも、倫理でもありません。

  この第一ボタンをかけ違うならば、途中どのように辻つまを合せようとも、遂には破綻してしまうと教えられました。

  3)先生は「神の偉大な力」を証しされました。

  先生は小さな人なのに、とても大きく見える不思議な人だなと思ったことがあります。

  そう言えば、大胆なようで繊細であり、楽天家のようで深い考えの人であり、喜びの人であり悲しみを知っている人でした。どれがほんとうの先生だろうと思ったものでした。

  これらすべてが先生の真の姿であり、神さまのみわざだったのです。

  神さまはわたしたちにあるものを用い、無いものを与えて、生かしたもう偉大な力のおかたです。

 

  3.先生は「信仰に生きた人」でした。

  1)先生は「宣教」にすべてをささげられました。

  日本国中、ほとんどくまなく、特別伝道に回られました。

  説教には特に力をつくされました。

  家内の父親が私に、こう言ったことがあります、「尾崎先生の説教はすばらしかった。熱がこもってきて、こちらも思わず手をにぎりしめて、あごを出して聞くことになる。あんたも、あれくらいの説教をすれば、おれも献金をもっとはずむんじゃがなあ」

  これは先生の説教が雄弁であったということだけではなく、使命に燃え、真実を語っておられたことを意味します。

  2)先生は「十字架の愛」を実践されました。

  先生は数々の悲しみを知っておられました。

  それは人を生かすために、神のみわざがその人にあらわされるために、自ら背負われた十字架だったのです。

  このために家族の方々も、どんなにか犠牲になられたことでしょうか、申し訳ない気持ちです。

  先生の忍耐に満ちた愛によって、どれほど多くの人が生かされたかは神さまだけがご存じです。

  だから、先生が、「誰でも『あーあ』と  ため息をつきたくなる時があります。その時はあとに、『めん』とつけ加えるのです。『ア−メン』と言って天を見上げるのです。」と教えられる時、忘れ得ない感動を聞く者に与えたのです。

  3)先生は「神の国の希望」に生き抜かれました。

  私が現在、牧師をさせていただいております、仙台北バプテスト教会に、今から5年前の1985年10月17日に先生が来て下さいました。

  わたしたちにとっては最後のご説教となってしまいましたが、テキストは  マルコ10:17−31「富める青年」の話しでした。

  先生は「永遠の生命を受けるために、何をしたらよいでしょうか。」との青年の質問から説き起こされ、神の国に受け入れられる恵みについて、すばらしい、希望に満ちた説教をして下さいました。

  まことに先生は「神の国の希望」に生き抜かれたお方です。

 

  結び.敬愛して止まない尾崎主一先生の告別式にあたって、次の三つのことを皆さんとともに決意して終りたいと思います。

  1)尾崎先生に教えられた、イエス・キリストの十字架による罪のゆるし。信じる信仰のみによって与えられる絶対恩寵の福音。をいただいて、ひたすら主を見上げて行きたいと思います。

  先生の書には「無適」と署名されています。

  これは論語に「敬者  主一無適  之謂也」とあるそうで、「主一」というお名前はここに由来するものでしょう。

  「物事に対するのに、心をその事だけに向けて、他の事に散らさないこと」と説明されています。

  先生の生涯はお名前の通り 「心をそのことだけ」に向けた歩みでした。

 2)それぞれの場で先生のお働きを受け継いで行く者でありたいと思います。

 先生の生前のお働きは多方面にわたり、とても一人ではカバ−できるものではありません。

  わたしたちはそれぞれの分野で先生のお働きを分担して、発展させて行きたいと思います。

  それによって、多くの尾崎先生が生き続けることになるのです。

  3)ご遺族、殊に勝子夫人にご不自由のないように、祈りお支えして行きたいと思います。

 

 

《 目次へ 》

 

19701980年 富野バプテスト教会牧師 [1975ベトナム戦争終結] /////////////////

 

 直樹: 牧師に戻ることを決意して導きを祈っていました時、富野教会から招聘を受けました。私が下関教会の牧師をしている頃から、富野教会は連盟内でも屈指の模範的教会として有名でした。菅野救爾先生が西南女学院教師をしながら、ホエリー宣教師ご夫妻と協力して開拓伝道をされた教会です。
 私が招かれた時、「教会内に亀裂があり、幼稚園も纏めが必要」という説明を受けました。しかし、私の見るところ、富野教会は力に満ちて20年近く歩んで来て、その力が余ってちょっと躓いただけでした。菅野先生には協力牧師になっていただき、いろいろお力添えをいただきながらご用に当たりましたが、教会も幼稚園もすぐ、もとの力を発揮するようになりました。

 和子: 私は始め、幼稚園はやらないという約束で赴任したのでしたが、どうしても、ということで引き出されました。当時は幼児も多かった時代でもありますが、みくに幼稚園は評判が良く、入園願書受付の日は長蛇の列で、新聞社の取材を受けるほどでした。
 そんな中で在日韓国籍のお子さんや障害のあるお子さんが割に多く入って来られました。面接の時、「この幼稚園なら差別されないと思って。」とお母さんが言われたので、「そうです。何処の誰様のお子さんであろうと一切、区別しません。イエスさまが後ろに立って、『この子をよろしく頼む』と言っておられると思ってお受け入れするのです。すべてのお子さんは神さまからの預かりものです。」と申しました。事実、教師はもちろん、裏方の目良さんご夫妻に至るまで、園児一人一人を大切にする、明るく温かい幼稚園だったのです。
 あれから20年以上も経った今も、その当時のお母さんから食事にお呼ばれしたり、立派に成長して見間違うほどの美人さん、男前さんになっている園児に声をかけられたり、結婚式に招待されたりいたします。ほんとうにありがたいことです。

 直樹: 私は教会の皆さん、幼稚園の父母たち、地域からも大きな支えをいただきました。中学校のPTA会長とか小倉北私立幼稚園連盟会長とかに祭り上げられました。力量があったからではなく、使い易かったからです。何でも骨身を惜しまずやらせていただきましたから、少しはお役に立ったかなとは思いますが、むしろ私が受けた恵みのほうが遥かに大きいのです。
 当時の中学校の校長は三原政司先生でしたが、今は西南女学院短大で講師をしておられます。私がチャペルでのお話しに行った時、掲示板に私の名を見たと言ってわざわざ部屋まで訪ねてくださいました。長男の真は小学校の教師になっていますが、三原先生の影響が大きかったようです。
 幼稚園連盟は私を除いて殆どの役員が仏教のお坊さんでした。ここで私は彼らからいろいろと教えられました。若手のお坊さんですが、彼らは、さすが何代も続いたお寺の住職だな、一代ではこのような人物は育たないなと感心するような桁外れなキャラクターの持ち主です。
 桁外れに遊びが上手なのです。教師研修会の夜のリクレーションの時に、「歴代の会長がやることになっているのだから。」と言い含められて、お坊さんから借りた褌をつけて、裸で先生方の輪の中を走らされました。あれから私はこの伝統的な下着の愛好家になって今日に至っています。
 それでいて良く勉強もしておられます。キリスト教の神学者のバルトのことなどを質問されて、私は碌に読んでおりませんから困ってしまったこともあります。
 私はできるだけPTAからも、仏教からも学ぶように心がけました。お寺さんの説教も聞きに行きました。幼稚園の講演会に僧職の先生をお招きしたりもしました。もちろん私はイエス・キリストの救いを信じ、キリスト教が私にとって絶対であることにいささかの動揺もありません。仏教の方々も同じだと思います。彼らも自分の信仰に確信を持ち、愛着を持っておられるのです。
 彼らは桁外れに広い心を持っておられました。それは正に目から鱗が落ちる思いでした。後に仙台に開拓伝道に行くことに決まった時、「それは大変だ。子供を集めるのが早道だろう。」と言って、「子ども会の開き方」とかいう題の本を下さったお坊さんもあります。13年仙台にいてこちらに戻って来た時、挨拶に伺いましたら、歓迎の一席を設けてくださいました。もう幼稚園にも関係がなくなっている私を何でここまで、と思うほど親切に親しく接してくださったのです。
 キリスト教では、「わざではなく、ただ信じる信仰によって」とか、「解放された、自由な者である」とか、「謙虚であれ、寛容であれ」などと教えますが、まだまだ建前だけで身についていない、深く掘り下げられていない面があることを反省させられました。

 

   胡 美芳さんのこと
 「もしもし、胡 美芳です。北九州に参りますので、良かったら讃美のご奉仕をさせていただきます。」 突然の電話があったのは1975年であったと思います。その前の年、榎本保郎先生による福岡アシュラムに参加された胡 美芳さんと私が祈りのグループでご一緒だったというだけで、良く覚えていて下さったと感謝しました。
 胡 美芳(コ ビホー)さんは中国の出身で、「夜来香(イエライシャン)」などで知られた日本コロムビア専属歌手です。不思議な神さまのお導きで彼女はクリスチャンになったのです。
 午前中に開かれた婦人会の特別集会は大変恵まれました。終わった胡 美芳さんは、「では夜のお仕事がありますのでこれで失礼いたします。」と言われました。聞けば「新世紀」というマンモス・キャバレーで歌われるのだそうです。「へえ、ぼくも行ってみたいな。」「いらっしゃいよ。」「でもいくら持って行けばいいのかもわからないしね。」「胡 美芳と言って、裏口から入れてもらいなさい。」
 こうして私はキャバレーに三晩通いつめました。そして、胡 美芳さんの夜の歌姫としての活躍ぶりを見させていただきました。榎本先生がそれを聞かれて、「野口くんはいいことしたな。ぼくも一度連れてってよ。」と胡 美芳さんに言われたそうですが、とうとうその機会もなく天に召されてしまわれました。
 まばゆい照明。迫力いっぱいの生バンド。私もテーブルを一つもらいまして、ホステスが三人ついて、名前はヤス子、ミネ子、カズ子(実はうちの幼稚園の先生、家内の友人、そして家内)。胡 美芳さんの出番を今や遅しと待ちました。進行役のかわゆいおねえちゃんが、なぜか英語で、「レディース アンドジェントルメン。ウイプレゼント ユー ア スペッシャル プログラム。 コ ビホー ショー」とかなんとか派手な紹介があって、バンドがひときわ高く鳴りひびくと、スポットライトをあびて、チャイナドレスに大きな扇子を持った胡 美芳さんが100万ドルの笑顔で現れるのです。その姿はお客さんをうっとりさせてしまうに十分な魅力溢れるものでした。「さすがプロだなあ」と感心してしまいました。
 実は、これが胡 美芳さんのキャバレーでのお仕事の最後だったのです。このような華やかなそして収入も大きい芸能界と訣別して、その恵まれた賜物をひたすら神さまのご栄光のために捧げて、胡 美芳さんは福音歌手としてのいばらの道を歩み始められたのです。
 その後、北九州、福岡の教会関係で10回以上、仙台開拓伝道では毎年、応援に来てくださいました。母と伯母とは胡 美芳さんをリーダーとする聖地旅行にも参加しました。和子は胡 美芳さんの留守中に、目黒のマンションに泊めてもらうほど親しくさせていただいたのです。出会いというものは不思議なものだと思いました。そして、神さまがこのように出会わしてくださる人々とはそのお交わりを大切に続けなければならないと示されました。

 

《 目次へ 》

 

19801993年 仙台北バプテスト教会開拓伝道    //////////////////////////

             [1980韓国・光州事件、1986チェルノブイリ原発事故、経済好況続く]

             [1989平成元年、ベルリンの壁崩壊、1991湾岸戦争]

 

 直樹: 連盟では、拠点開拓伝道といって、連盟の支援で新たに教会を生み出そうというプロジェクトを持っていました。1980年は神戸と仙台にということは決まっていました。神戸は踊 俊雄牧師が決まっていました。仙台がなかなか決まりませんでした。前の年の夏に天城山荘で集まっていた時、理事長の北原末雄先生が、「野口先生、開拓伝道に出る召命を感じられませんか。」と真剣な面持ちで話しかけられました。私は祈りに祈られた結果だろうと思って、「3ヶ月余裕をください。祈って、お答えします。」と申しました。そして、帰宅して和子にも話し、共に祈り、受諾の返事を出しました。後での打ち明け話しで、人選がなかなか決まらず、休憩の時、藤田英彦副理事長が畳に寝転びながら、「野口君は東北の出身だがどうかな。」とつぶやいたところが、隣に寝転んでいた北原理事長が、「それはいい。今から話に行って来る。」と言って私の所に来られたのだそうです。私は、「天を向いて祈るということもあるから。」と自分に言い聞かせました。経過はどうあれ、これは神からのご命令であったと確信しています。
 富野教会では幅広い経験を積ませていただいて、教会も幼稚園も順調でしたが、私の内部では霊性が枯渇し、日々の生活は荒廃していたのです。私は悔い改めて、もう一度牧師としての出直しを許されるならばと願っていました。
 そして、はっと気づかされたことは、23年前、神学校卒業の時、東北の開拓伝道の意思を訊ねられたことがあるのです。その時、「私には婚約者がおりまして、『東北だけはいやです。子どもがズーズー弁になったら困ります。』と言っていますので。」とお断りしたことがあるのです。何という我まま、献身者にあるまじき態度です。それを苦笑しながら許してくださった神学校の先生は偉い方々でした。あの時、切り捨てられていたら、今の私はなかったのです。和子としては真剣だったようです。東北から来た同級生の言葉が全然通じない程だったので、生まれて来る子どもに気の毒だと思ったらしいのです。自分では、「下関の言葉は標準語に近いんじゃけん。」などと平気で言っているのですからいい気なものです。
 で、「神さまのご計画には時効ということは無いのだな。」と悟らされたわけです。

     以下は宣教15周年誌に寄せたものの抜粋です。

 

 

直樹 「吹雪の中の出迎え」


 1980年4月1日わたしたち一家はフェリーを乗りついいで仙台港につきました。外は吹雪でした。九州ではお花見も終わって来たのに、やはり東北だなと身を引き締めて船を降りたところ、外には仙台教会、南光台教会の牧師ご一家、宣教師ご夫妻そして40人にものぼる兄弟姉妹がたが吹雪の中でフェリーの入港を待ち続けて下さっていたのです。寒さと緊張に硬くなっていたわたしたちはその熱烈な歓迎に熱く燃やされたのでした。
 日本バプテスト連盟総会で仙台地区にもう一つの教会をと開拓伝道を決議した時以来、母教会となる仙台教会、そして当時はまだ伝道所であった南光台教会は祈りと準備を重ねておられたのです。
 ボートライト宣教師夫妻を開拓伝道担当宣教師に任命し、長命ケ丘を伝道の地に選定し、集会所兼牧師住宅となる借家探し、説教卓や椅子の搬入そして集会案内のチラシを周囲の団地一軒一軒に配布する奉仕等皆さんの奉仕で進められていたのです。
 神さまの万全の備えを誉めたたえずにはおられません。神さまが一つのわざを始められるとき、時、所、人すべてを最善に備えてくださることを体験しました。この確信はその後の仙台北のあゆみの歩みの基本的な信仰になって行ったと思います。
 次の年に行われた土地取得、会堂、牧師舘建築はもちろん連盟諸教会からの尊い献金、母教会の援助があったからこそ実現したことですが、後ろの土地93坪と教育舘は仙台北の自力で購入、建築したものです。そして伝道開始満3年の1983年には自給を開始することもできたのです。これらはすべて人間の計算では不可能なことで、ただ、主の備えを信ずる信仰によって実現したことでした。
 仙台北の伝道に関わった人々は一人びとり神に覚えられているのですから、お名前は省略させていただきますが、小林孝男、啓子ご夫妻、古川明、栄子ご夫妻のことは明記しなければなりません。というのはボートライト宣教師とこの4人の信徒が最初に母教会から任命された開拓伝道の働き人だったからです。連盟から任命されて来る野口牧師なる者がどんなものかもわからずに、ただ開拓伝道の使命感のみで待ち受けていてくださったのです。
 わたしたちは足なみそろえて伝道に励みました。小林啓子姉は生まれて何ケ月にもならないお嬢ちゃんをおぶって(ひっからげて、という感じで)教会学校の先生をされました。古川栄子姉はベティ先生の車に乗って訪問に廻られました。少し後のことになりますが、わたしと家内とは卵売りをして廻りました。池田義昭兄がやっておられた鶏の孵化場から安くわけていただいて団地を回るのです。「よほどお困りだったのですね。」と同情してくださる方がありましたが、そうではなくて卵を持参すると訪問しやすかったからです。とにかく日々、楽しく生き生きと伝道しておりました。

 

 

 

 

徳子 「はじめてのクリスマス」


 それは1980年4月、私たち3人が仙台に来てから初めて迎えたクリスマスの思い出です。
 長命ケ丘3-11-13の借家で4月に始まった開拓伝道は7月頃には礼拝出席25名、教会学校26名程になっていました。6、7名の教会員ほとんどが教師でした。
 12月21日の聖日にはクリスマス礼拝、愛餐会、午後2時から教会学校の祝会と家中に溢れる程の出席者で賑やかな感謝の一日でありました。そして又忘れ得ない思い出の一つとなったのは24日のイブの日の事です。
 前日からの雪はこの朝30センチとなり、なお降り止まず水分を含んだ重い積雪の為に各地の送電線の鉄塔が折れ、仙台全市が停電となりました。交通も危険という事で集会は中止となりました。その夜はイブ礼拝、家族クリスマスのゲーム、キャロリング等々、楽しい計画でしたのに。
 さて、停電のために文明の利器はすべてストップです。夕食は冷たくなったご飯をお茶漬けで済ませました。そして寒さの中でただ一つ頼りの石油ストーブとローソクの灯を囲んで3人のイブ礼拝を守り、心を込めて祈りを献げたのでした。まことのキャンドルサービスでありました。夜中おそく電灯がついた時にはほっとして、今更にありがたさを感じた事でしたけれども停電が3日間も続いた町もあったとの事でした。
 私は聖地旅行の時に、キリスト御降誕の場所やゴルゴタの丘で祈りと讃美をし、二千年の昔のイスラエルの厳しさを偲び、涙した事を思い出しました。
 「ああ主は誰がため世にくだりて、かくまで悩みを受け給える。我がため十字架に悩み給う、こよなきみ恵みはかりがたし。涙も恵みにむくいがたし、この身を献ぐるほかはあらじ。」(讃美歌 138)
 あの時から早や15年にもなるのでしょうか。今は南の福間教会に移り住み仙台でのあの初めてのクリスマスを思い浮かべると共に、あのなつかしい仙台北教会と、皆さまの上に御祝福豊かにと切に祈る毎日でございます。

 

 

 

和子 「最初のバザー」

 
 婦人連合の働きで最も輝かしい成果をあげているものとして、祈祷週間における世界伝道のための祈りと献げものがあります。仙台北も開拓のはじめよりこの働きに参加して来ました。初めは会員数も少なく、バザーを独自で開くことができず、婦人たちが作りためていた手芸品を南光台、仙台教会のバザーで販売させていただき、祈祷日献金に加えておりました。
 その間、長命ケ丘での伝道が進み、1981年には待望の教会堂が与えられ、翌年の秋、「献堂一周年記念感謝バザー」を開くことができました。
 会堂が与えられた喜び、全国拠点開拓地として多くの祈りが積まれ、また祈祷日献金の中より多額の支援金をいただき、長命での主の業が進められていることを知っておりましたので、一同感謝をもって祈祷日献金のためのバザーを計画しました。会員は喜んで献品をし、売り場は大にぎわい、会堂を開くための諸準備、それぞれのタラントを生かし、たくさんのメニューがそろい、大好評でした。中でもお客さまの目を引いたのは、可愛いメルヘン人形の数々でした。今は体を悪くして礼拝に出席出来ない、佐々木誠子姉が看護婦として忙しい生活の中から、また、重症のリューマチで不自由な手をして、懸命にお仕事会を指導して下さいました。
 人形の顔づくりは特にむつかしく、投げ出したくなるような時、当時幼稚園児だった大庭謝良子ちゃんが、「だいじょうぶ、がんばればできるよ。」と言って、いつも励ましてくれたかわいい声を今も忘れることができません。
 バザーの時の合言葉、1.準備する者も、参加する者も楽しく、来年に続く、「皆に待たれる」バザーでありたい。2.目的は世界伝道のため、「主の用なり」として、献品の一品は自分の宝を差し出そう、でした。
 当日、心配していた雨も晴れ、開場前から行列ができる程の大盛況。準備した物品は完売に近く、喜びと感謝の中に沢山の献金を生み出し、会員一同、いい汗を流した恵みの一日でした。それ以来、合言葉の通りにこの愛の業が十年近くも続き、世界伝道のために沢山の献げ物ができ、また、教会で地域で楽しみに待たれるバザーとして、今日まであることは感謝です。
 これからの益々の発展を祈っています。

 

  直樹: 開拓伝道はその教会が新たに伝道所を生み出した時点で一応の完結と見てよいであろうと私は考えていました。
 教会から20qほど北に行ったところに、吉岡伝道所がありました。阿部利吉というお医者さんが1958年、開業と同時に待合室を使って始められたのです。その後、土地会堂を得て、幼稚園も娘さんの美代姉が責任者となって開いておられました。いなかのことですから経営は大変で、随分私費をつぎ込んでおられたのです。
 いろいろな経過をたどって、ボートライト宣教師が相談にのっておられ、私もそれに個人的に関わるという形で数年を過ごしていました。阿部老先生がお元気なうちに安心していただこうと、教会が伝道所として引き受けることを提案しましたが、実現には至りませんでした。そして阿部先生は天に召されました。
 その後、急激に伝道所として引き受けようという声が上がって年来の祈りが叶えられました。老朽化した建物の改築が急務でしたが、奇跡の実現で、礼拝堂と園舎のかわいらしい建物が完成しました。私たちは阿部先生を覚えて、「阿部利吉記念館」としました。
 伝道所へは古川 泉夫妻、高山 仁夫妻らが使命をおびて立ち上がられ、派遣されました。幼稚園には池田義昭兄が財務を、和子が教務をお手伝いすることになりました。
 しかし、私はひそかに考えておりました。誰かが住み着いてじっくりと生活の中から伝道して行かなければあのような古い地域では福音は根づかないだろう、と。仙台北を終わったら私たちがあの地に住んでと、二人で話し合っていました。二部屋でいいから、設計に入れて欲しいと希望したのですが、予算の制約もあって実現しませんでした。そうこうする中に吉岡の地が変わり始めました。土地が売られ住宅が建ち始めたのです。ああ、これならば都会型伝道でもやって行けるな、必ずしも私たちでなくても、と思うようになり、以前ほどの重荷を感じなくなっていました。
 そのうち、毎日、幼稚園にお手伝いに通っていた和子が異常な疲労を訴えるようになりました。診察の結果、C型肝炎ということがわかりました。教会の方々が病院を紹介してくださったり、注射や薬を続けてくださったり、随分心配をおかけしました。だんだんと教会、伝道所におかけする迷惑が大きくなることが目に見えて来ましたので、辞任を決意しました。落ち着き先は気候が和子の身に染みついている、山口県かその近辺が良いだろうと考えました。
  借家でぼつぼつ伝道を始めよう。畑を借りて野菜を作り、おかずに毎朝魚を3匹釣りに行こう、現金収入のために新聞配達をしよう、全国にいる知人に伝道費の支援を訴えればそうとう集まるのではないかなどと、私がその一つでも実行、継続できるとは誰も考えないようなことを夢見ていました。
 そこへ、福間教会から招聘状が届いたのです。

 

《 目次へ 》

 

 1993〜現在  福間キリスト教会牧師 [1995阪神大震災、オウム教事件] ///////////

 

 直樹: 岩切健兄のこと
 去る2月1日に岩切 健兄が68才の生涯を終え、神さまのみもとに帰られました。 娘の恵さんがうちの長男の真と結婚しましたから、近い親戚になっていますが、健さん、裕子さん、和子、私はそのずっと以前からの友人でした。ですから、「引退したら、あなたは賛美をリードしてくれ、ぼくは説教をするから。」などと夢を語り合っていたのですが、じわじわと病気に蝕まれて行く、わたしより2才若い彼の姿を見るのは辛いことでした。奥さんの裕子さんの苦悩苦労は言葉にできないものでしたでしょう。
 彼が書き残したものの最後と言って良いものだそうですが、「愛のハーモニーが欲しい」という詩があります。告別式の記念品にカセットをいただきましたが、その中には、コーロ・アンジェリカの合唱と岩阪憲和先生の作曲が収録されています。それを聞きながらわたしは1995年に福間教会で開いた、ヒロ&リエさんのチャリティーコンサートを思い起こしていました。ヒロ&リエさんは殆ど初見でこの歌を賛美してくださいました。続けて、「いつくしみ深き友なるイエスは」と歌われました。それはあたかも一つの賛美歌のように溶け合って、希望の歌となって私たちの心に響いてきました。終わって、岩切 健兄が紹介されました。彼は手を副えられてやっと歩けるくらいの病状でしたが、喜びの表情でした。

 

 

愛のハーモニーがほしい

               詩・岩切  健

いろんなメロディーが ごっちゃになって 気が狂いそうだ

苦しい 頭が痛い

僕にはメロディーがない 和音がない 響鳴がない

頭の中にいろんな音が 秩序を失って 騒音をたてる

メロディーがほしい 愛のハーモニーがほしい

その音に響鳴するものは もう僕から去ってしまったのか

力がなくなってしまった僕は もう再び立ち上がれないのか

帰って来てくれ 僕の心よ 全ての思ひの源よ

再び帰って来てくれ

あの美しい心の高鳴りは

もう 永遠に与えられないのだろうか

 

   ヒロ&リエさんのこと
  このヒロ&リエさんのことですが、海の中道で開かれる小阪 忠さんの野外ゴスペルコンサートに出演するために来られて、福間教会のご奉仕をしてくださったのです。
 一晩泊まられて、荷物をもっていとまを言いに来られた時、「今晩からどこにお泊りですか?」とお尋ねすると、「まだ、決まっていません。」というお答えです。聞けば全くのご奉仕の旅とのこと。和子は生憎、旅行中でしたが、母が頑張ってくれて、それから数日続けてお泊まりになったのです。
 これがヒロ&リエさんとのお交わりの始まりでした。胡 美芳さんとの出会いの時に教えられていたことでしたが、出会いというのは神さまがそうさせてくださるもので、それを大切にすると、次から次へと恵みが加えられるのです。行きずりの出会いで終わらせてしまえば、その後の数々の恵みの出来事は無かったことを思って感謝しています。
 結婚して慣れない東京での生活を始められた、堀 友里恵さんをヒロ、リエ夫妻は良く世話をしてくださいました。日本にいる間はなかなか決心に至らなかった河野俊夫兄はアメリカで、ヒロ&リエさんのコンサートに行って救われました。鳥飼由香里姉も求道中、ヒロ&リエさんのお宅に招かれ、明確な救いの体験をされました。福岡連合の少年少女会の何人かが海の中道の帰りに、偶然ヒロ&リエさんと乗り合わせ、祈っていただいたそうです。それ以来、いつかはコンサートを開きたいとの祈りを持ち続けていたのだそうです。それが1998年に遂に実現して、すばらしい集会となったのでした。
 福岡に「支える会」が発足して、今日まで福岡教会、福間教会の有志が祈りと献金を続けておられます。すばらしいことです。
 私はお二人が家に泊まられた時の思いを詩にして送りました。それにヒロ&リエさんがかわいい曲をつけてくださいました。光栄です。

 

小鳥たちへ

*

ぼくの小枝に止まってくれた 小鳥たち ありがとう

小さなねぐらで ごめん ごちそうは山のそよ風 草のつゆ

でも きみたちは歌ってくれた 愛のうた 希望のうた

小枝のまわりで 子どもたちは聞いたよ 愛のうた 希望のうた

**

ぼくの小枝にさよならをした 小鳥たち 元気でね

心配はしないさ ほら 大空に翼ひろげて 風にのれ

さあ 伝えておくれ神さまの 愛のうた 希望のうた

世界のどこでも みんなが待っているよ 愛のうた 希望のうた

***

ぼくの小枝で歌ってくれた 小鳥たち だいじょうぶ

きみたちはできるさ あの イエスさまの贖いのわざ 示すこと

「みて わたしたちを」と言って歌う 愛のうた 希望のうた

空を見て 涙 かわかす人もいるよ 愛のうた 希望のうた

****

疲れたときは帰っておいで 小鳥たち 待っているよ

翼を休める そうさ あの小枝なのさ 安らぎは 神の胸

聞いて 天使たちの子守りうた 愛のうた 希望のうた

小枝のまわりで 子どもたちも歌うよ 愛のうた 希望のうた

 

 この小さな枝に
 牧師館にはいつも誰かが泊まっていることが多かったです。それが私の信条でも、力量があるとも思っていなかったのですが、不思議に、向こうから人がやって来てくれたのです。
 最初は林 秀和君でした。牧師館で辛抱したいというので結婚間もない私たちはいきなり中学生の里親になりました。親の気持ちなどわからないまま無茶苦茶な指導ですから、彼もさぞ面食らったでしょう。けれども立派に成長し、良い伴侶に恵まれて、今では小学校教師と幼稚園教師の二人の娘さんに囲まれて幸せそうです。先日もたずねて来てくれました。
 それから沖本義之君、その次が杉本(山口)みのりさんです。みのりさんは夜間高校に通いながら牧師館の手伝い、教会の奉仕を良くやってくれました。後に仙台でその息子さんも寄宿していました。
 その他にも多くの若者が出入りしてくれました。今考えると、もっと親身になって、細やかなお世話ができなかったものかと、申し訳なく思います。それでもみんな、時に電話をくれたり、年賀状は欠かさずくれて、忘れないでいてくれるのはほんとうにありがたいことです。
 教会、牧師館という小さな枝に羽を休めてくれた小鳥たちみんなが、イエスさまからいただいた救いの羽を大きく広げて羽ばたいて行くようにお祈りしています。

 

直樹、和子、徳子:福間教会のこと
 福間教会に招かれて今日までの7年間は43年の牧師生活のハイライトでした。
 「主よ、人は何ものなので、あなたはこれをかえりみ、人の子は何ものなので、これをみこころに、とめられるのですか。」(詩篇144:3)
 「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった』という言葉は、確実で、そのまま受けいれるに足るものである。わたしは、その罪人のかしらなのである。」(1テモ1:15)
 ただ、ただ感謝のみです。

 

《 目次へ 》

 

福間教会伝道開始15周年記念誌より

  以下、福間教会伝道開始15周年記念誌、「広がる恵みの証し」の原稿を再録させていただきます。

 

 

     「福間教会の七不思議」          野口直樹

 15年誌編集委員会から与えられた私の担当は「教会組織の頃」である。ところが、教会の今日までの歩みを見ていて、「この教会にはなんと不思議が満ちていることか。」という思いが募って来て、担当範囲を逸脱し、紙数を超えて書いてしまった。おゆるしいただきたい。

 1、教会誕生の不思議

 生みの親が3人! 人は一人の母親から生まれる。教会の誕生も普通、母教会は一つである。

 しかし、この教会は三つの母教会から生れた。田隈、長住、福岡の三教会の一致した協力と多大な援助によって福間教会は誕生し、成長を続けた。

 2、土地選びの不思議

 福間教会は自然に恵まれ、しかも、小学校が向い、住宅地が隣りという絶好の地に建てられている。

 土地探しは大変だったらしい。安徳軍一兄、藤永寅彦兄、吉持神学生他の方々の並々ならぬご苦労の末に購入した土地である。

 先日、この土地の地主であった、古賀勝海様のご葬儀があった。弔辞の中で、「故人は『津丸の殿様』と呼ばれていた。」と述べられていた。土地の有力者であったこの人がキリスト教に理解を示してくださらなかったら、教会の今はなかったのである。

 3、牧師招聘の不思議 

 私は1992年に仙台北教会に牧師辞任の申し出をしていた。行く先は決まっていなかった。

 多少のやり取りはあったものの、ほぼ突然に、福間教会からの招聘状を受け取った。会員には旧知の人もおられたが、未知の方々も多かった。未だ、会ってもいない、話しもしていない、病気の家内、年寄りの母、それに私も若くはない。こんな見も知らぬ家族の招聘に賛成されたのである。私はそのことに感動して、み心と信じて受諾の返事を出した。

 赴任前年の11月に、初めて福間教会を訪れ、説教の機会を得た。「これからでも構いません。招聘状を撤回してくださって結構です。私の気持ちは変わりませんが。」。これが説教の第一声であった。

 以来、今日まで会員の忍耐によって私は牧師をさせていただいている。

 4、教会組織の不思議

 教会組織は私が赴任した翌年の1994年である。相当な不安があった。教会組織ということについて皆、理解しているのであろうか。覚悟は出来ているのだろうか。

 やがて解かったことは、このために充分な準備期間が取られていて、実が熟するようにして1995年を迎えていたのだということ。

 1989年には播磨聡牧師のもとで7回に亘って勉強会が開かれたと記録されている。すべての経験が生かされ、益とされた教会組織であった。

 5、働き人の不思議 

 教会の働きの一部は選挙や当番制で行われている。が、会堂掃除も礼拝奉仕も割り当てはない。申し出制である。しかし、司会も奏楽もここ数年、穴があいたことはない。会堂も手洗いもキッチンもいつもきれいである。

 この自発の精神は教会組織の際の信仰告白に反映されている。「ねばならない。してはならない。」とかいう表現は一切使われていない。「・・・を喜ぶ。・・・へと招かれている。」などの表現が目立つ。

 牧師はちょっと調子にのって、「遅れて来て良し、早く帰って良し。立って歌って良し。座って歌って良しの教会。」と言っている。さしたる弊害は起こっていない。ある宣教師とこんなやり取りをしたこともある。「どうして、みなさん時間前に来られるのですか?何か特別な訓練をされましたか?」「別に」「では前任者がよく教えられたのでしょう。」「そうかも知れません。」

 信仰生活は外からの規制ではなく、内に働いていてくださる神さまの力による緊張である。

 6、伝道所開設の不思議

 自由ヶ丘伝道所は1997年に始まった。内田副牧師一家が土地を買われた。伝道を始めた場合、車椅子なども来やすいようにと、大通りに面した土地を選ばれたのである。隣に閉鎖になった学習塾の建物が目に入った。安河内不動産に調べてもらい、借りることになった。

 神さまは既に備えをして下さっていた。楠元兄は以前、この自由ヶ丘にあった教会の会員であった。その教会は閉鎖されてしまった。いつの日にかこの地に教会をとの祈りを続けておられたであろう。家庭を開放して家庭集会も開いておられた。伝道所開設は全信徒の祈りでもあった。神さまは自由ヶ丘及び近辺に在住する数多くの信徒をも備えていてくださった。

 始めは福間教会という同じ屋根の下で家庭集会的なものをと考えていた。行き来自由、執事も兼職でと踏んでいた。ところが伝道所は宣教意欲に燃え、独立の熱意は強かった。翌年には家近宗男兄を伝道師に迎え、着々と歩を進め、今日に至っている。

 一方、教会は1997年3月30日に派遣式を行って、16名の有力会員を伝道所に送り出し、現職執事6名のうち3名が抜けることになった。ちょっと若年出産だったかなとも思った。会計執事はどうしても予算がたたないと言われる。で、赤字予算が計上された。1997年度は49万円、今年度も21万円余の赤字予算であった。ところが、年度を終わってみると、97年度は76万円余の繰越、今年度も、繰越が出る予定との報告が先日の信徒会であった。

 主は伝道所、母教会共々に祝してくださっているのである。

 7、未知の不思議

 聖書では「不思議」と言えば奇跡のことを意味している。「 神は、しるしと不思議とさまざまな力あるわざとにより、あかしをしておられるのである。」(ヘブル2:4他)

 奇跡は主のみ手のわざである。15年の福間教会の歩みは、不思議に満ちている。すなわち主のみ手のわざなる奇跡の連続である。

 七番目の不思議は何であろう。これを将来にとっておきたいと思う。

 主はどのような奇跡をこの教会に起こそうとしておられるのであろうか。一人一人の顔が違うように一つ一つの教会も違っている。この教会でしか起こり得ない不思議を見て行きたい。それにあずかる者でありたい。

 

 

 

 

育て給う神                野口 和子

 「神のなされることは、皆その時にかなって美しい」(伝道の書3:11)

 福間の地に福音の種が播かれ、15年の年月、神の育ての業。それにかかわり互いに励まし労し、宣教の業を担って下さった多くの信徒お一人一人のお働きで今、教会は美しく花開くことが出来ているのだと心いっぱい感謝しています。

 その三分の一を私も共に歩ませていただいたことは何よりの喜びです。6年前、福間に招聘された時、庭のか細い桜の木が、たった一輪の花をつけていたのがとても印象的でした。しかしその木も今では、大木となり春ごとに沢山の美しい花を咲かせ、私共の心をなごませ、楽しませてくれています。

 主の業も進められ、一人又一人、働き人が加えられ、伝道所は教会となり、新たに伝道所を生み出す教会、地域の福祉にかかわる教会と、大きな幻を与えられ歩んで来ました。主はその祈りを短い間にかなえて下さり、生きて働き給う神を皆で賛美したことでした。

 教会の副牧師として内田夫妻を加えてくださり、お体がご不自由にもかかわらず、よき働きを続けておられます。

 又、久山療育園園長として宮崎兄を立てて下さり、教会員をそのボランティアとして用いて下さっています。

 又、近くの自由ヶ丘に伝道所開設、私共の祈りをはるかに越えた主のみ業が進められ、その働き、成長が楽しみです。

 教会は今、子供の歓声いっぱい、若夫人達は、神に聞きながら、互いに知恵を出し合いながら子育て奮闘中です。

 30年も前、日本伝道を終えて帰米される夫人宣教師が、「日本の婦人達は、教会の後継者を育てることに力をつくして下さい。」と語られた言葉を忘れることが出来ません。

 私も主に救われて50年、主はひと時もまどろみ給うことなく運び続けて下さった恵みの日々、応えて行きたい、語り伝えて行きたい思いでいっぱいです。

 

 

 

 

祝 福間教会宣教15周年        野口 徳子

私たちの愛するこの福間教会がこの度宣教開始15周年を迎えました事を先ず神様に感謝申し上げます。そして皆様おめでとうございます。

この教会は福岡教会、田隈教会、長住教会の三教会のお祈りと御協力によりこの地が選ばれ伝道が始められたと承っております、この様な神の御導きのありました事を先ず恵みの主に感謝をささげます。そして初代以来今日迄の多くの教役者と教会員皆様方の信仰と祈りによって今日を迎え得ました事を思い感謝の念を更に厚く致します。

昔、男子は15才で元服と云って成人の衣服を着ける儀式が行われたと云う事ですが、現代に当てはめてみれば、高校生位の年の頃でありましょうか。将来の希望に燃えて体を鍛え、勉学に励む年の頃でありましょう。私たちの福間教会は先年、伝道所を生み出しました。現在の私達の教会は正に力強い年頃とも言えるのではないでしょうか。世の荒波に右往左往する事なく信仰に燃え、祈りを熱くして益々御業の為に励む決意の時でありたいと願い、祈りを新たに熱く致します。

私は5年前に牧師家族として共にこの福間教会に迎えて頂き、教会員のお仲間に加えて頂きました。教会2階の牧師館は誠に感謝です。先ず山又山の美しい四季の眺めがあり、山からの日の出の美しさに励まされます。そして皆様が温かく尋ねて下さいます。階段を心配して頂きますけれども、私には手足の訓練の場でもありまして毎日何回となく22段を数えながら上がり下りして元気に過ごさせて頂いて居り感謝して居ります。

 

 

《 目次へ 》

 

終わりに

 福間教会は4月から新しい歩みを始めることになります。
 福間教会には福間教会にしかできない証しがあると思います。全国諸教会に対して、また社会に対して、手作りの恵みを発信して行く教会となることを願っています。
 それは、車椅子の内田章二先生を、「み言葉と祈りの働き人」として立てて、大いに恵まれた教会となることです。
 「みんなが教会の本質に立って、それぞれが分に応じた働きに参加すると、こんなに恵まれた教会、仲間ができるのですよ。」と、福間発の福音を送りつづけることができますようにと願ってやみません。
 私たち一家は舞の里に住まうことになりますので、引き続き福間教会に出席させていただき、今後は一信徒として、この愛する教会のわざに参加させていただき、何らかのお役に立ち得ればと願っております。
 皆さん、よろしくお願いいたします。

「あなたがたのうちに良いわざを始められたかたが、キリスト・イエスの日までにそれを完成して下さるにちがいないと、確信している。」(ピリピ1:6)

「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。」(ヘブル12:2)

 

 

《 目次へ 》

 

各時代を振り返って

 

【下関バプテスト教会】1948〜1952

敬愛します野口直樹・和子先生へ

                  バプテスト東福岡教会  福本 幾男

 私は17才〜25才(1949年〜1958年)下関教会で過ごしました。

 野口先生との出会いは、青年会活動の中でした。野外キャンプ(綾羅木海岸)角島(山陰特牛沖)キャンプ、その他教会の修養会をよくやりました。

 先生は青年会長として、又執事(伝道?)として活躍されました。先生は伝道熱心で、恩師である大石力生先生(当時、下関西高定時制 社会)が入院されていたときにお見舞いに行かれ、聖書を贈られたことによって大石先生は教会に導かれ、バプテスマを受けられました。感謝です。

 先生は貧しい、困っている人に対して心を開き、時と体と奉仕の業をもって援助されました。中年で視力障害者となる坂本敏子さん(教会員)の住居のことで教会に計られ、牧師館敷地内にお母さんと二人が住める位の住まいを教会員の祈りと献金と奉仕で建てられ、その生活を守られました。これで安心して信仰生活が出来るようになりました。とてもうれしく、感謝しました。

 又、林君という少年が同居することになり、野口先生によって保護していただき、子どものように育てて下さり、立派に成人しました。やさしい心の行き届いた先生です。

 私の弟の久勝(教会員)は、信仰生活の様々な出来事につき、よくご指導下さって守られたことを有難く感謝しています。

 当時、青年たちは会堂の他に一軒の家があり、そこを「永久(えいく)() 同志会(どうしょうかい)」と名前をつけて、信仰や生活のことを時を忘れて論じ、互いによき交わりの場として青年たちの溜まり場でありオアシスでした。

 毎週土曜日、青年会(壮年も何人かいました)の「ロマ書」研究をしていまして出席しました。敬称を略して、黒田、若月、安部、坂本、柏木(原典がよめる)、植木、藤田、野口、兵庫、橋本が出席していて、真剣なみことばに対する激論をまのあたりにして驚き、みことばの偉力に圧倒されました。その後のピンポンが楽しみでした。

 ちなみに和子先生は私と同じ日にバプテスマを受けられました。(1949年12月18日)

 おわりに、まだ元気一杯の野口先生が引退されるとは惜しい気持ちですが、主にある決断はうけねばなりません。43年間の牧会生活、本当にご苦労さまでした。主の祝福をお祈りいたします。先生の健康が守られ、よき働きがこれからも続けられますように。特に和子先生、そして徳子先生の上に、主の恵のみ手が豊にあり、健やかに過ごされますようお祈りいたします。

 

《 目次へ 》

 

【西南学院大学文学部神学科】1952〜1957

神学生の頃

               福岡西部バプテスト伝道所  藤田 英彦

 野口直樹牧師・和子夫人・徳子おばあさん!

 43年間のキリストに在る牧会の歩みご苦労様でした。

 何たる神のご配在か(御いたずらか)野口直樹君と私は、生年月日、出身教会、卒業神学校、卒業年次が同じである。そしてナントある日違いを見出そうとして計った足の裏のサイズさえも同じであった。嗚呼!!止んぬるかな!止んぬるかな!

 野口直樹兄弟と、塚本(当時)和子姉妹が、主の前に生涯献身者として主に仕える決心をされたのは1951年秋、プリーチングミッションの伝道会で米国南部バプテスト連盟外国伝道局東洋主事コーセン博士の特伝で、招きに応えてお二人が揃って講壇の前に進み出て献身を誓い、当時の下関教会尾崎主一牧師から薦められて、直樹兄は1952年、西南学院大学文学部神学科(当時)に、和子姉は翌年に西南学院短大児童教育科に入学されました。その時私は肺結核で入院し、銀行を休職していました。その間のお二人の微笑ましいかずかずのエピソードは他に譲ります。

 3年次から入った私は、また野口君と一緒になり、寮では隣の部屋で3年間を過ごしました。兎に角貧しくひもじい神学生時代でした。神学生をもじって「貧学生」「寝が癖」等と呼ばれていました。

 そのような中で、野口君は盲目ながら神学校に入学された藤井健児君のお世話を親身になって本当によくしておられました。神学校の中だけでなく、藤井君の家族とも親しくなり、彼の家庭で開拓伝道を始め、今日の香住ヶ丘教会の基礎を作られています。

 3年から入り、英語の不得意な私はアメリカの神学になじめず、徹底的に遊んで最遊蕩生(最劣等生)だったのに反し、バイブルクラス出身で英語が得意であり真面目で、よく勉強した野口神学生は掛け値なしの最優等生でした。それは、後に当時神学科長であった尾崎牧師の後を継いで母教会の牧師に就任し、西南聖書学院が出来たときその主任に抜擢されたことからも伺い知ることができると思います。これは野口君と私の歴然とした『違い』です。

 神の前に献身を誓った野口直樹・塚本和子のお二人は、直樹君が神学校に進む前に下関教会で尾崎牧師司式のもとに婚約式を挙げます。そして一年後に和子さんが追いかけるように児童教育科に進みますが、最初の一年のお二人は献身者のカップルらしくつつましく、清く正しい交際をしていたようです。それが翌年に至りメンバーが替わり、俄然賑やかになりました。在福岡組は増えて、商学部に進み西南キャンパスの中に住んで交わりの中心となった弟の秀樹君(後にグリークラブの指揮者)神学科に入った藤田、児童教育科の米谷(藤井)房子さん、林(藤田)信子たちが加わって一緒にたむろして駄弁ったり、うどん屋に入ったり、スケートに行ったりして「下関会」と称してよく遊びました。直樹君はそのグループの中で謹厳実直な先輩として振る舞っていました。「下関会」は植木牧師夫妻、福本牧師ら前後の方々が加わって、今日に至るまで機会あるごとに(機会を作って)集まって楽しんでいますが、グループの中でもっとも謹厳実直と言われていた野口直樹君がみんなをアッと驚かせた洒脱ぶりを見せたのは富野教会の牧師時代です。

 (残念ながら字数の制限が来ましたし、私に依頼された時期は神学校時代ですので自己規制して筆を置きます。特に興味のある方は、Tel.092-807-5456へどうぞ。)

 

 

《 目次へ 》

 

【下関バプテスト教会】1957〜1964

野口直樹牧師 −強烈に心に残っている事−

               日本バプテスト シオン山教会  大石 力生

 牧師引退と聞いて、血気盛んな青年時代を共に過ごした一人として、惜しむ気持もあるが、決断をされた野口牧師に、心から拍手を送りそのご苦労に感謝したい。

 下関は初任教会で、伝統があり、幼稚園もあり、うるさい信徒もいる中で、1957年からの7年間を全力を尽くして頑張られた。二人の子供達も下関産である。

 野口牧師は、一言で言えば率直で人が善く、人情味溢れる人柄だ。今でも強烈に心に残っていることを記したい。

 

 一つは、ある時執事会で、牧師と執事の意見が対立したまま時間切れになり、互いに気まずく帰宅した。その夜遅く突然野口牧師が来宅され、「今日は私の考えが足りなかったと思います。すみませんでした。一言祈らせて下さい」8人の執事の家を一軒づつ訪ねられた誠意で執事も反省して、その後の執事会は円満であった。

 二つ目は、目が悪かったS姉のことである。S姉は弱視の母親と二人暮らしであったが、家主の都合で立退きを求められて因っていた。その時、野口牧師の発案で、信徒も協力し、木材の提供もあって牧師館の庭に小さな住まい(台所付)が出来た。

 牧師一家で、買い物、入浴等、生活全般に亘り協力されたお陰で、Sさんは養老院に入居出来るまでの間安心して生活ができた。

 なお、当時から、徳子お母さん、和子夫人は協力牧師であった。

 

 

《 目次へ 》

 

【西南学院・西南聖書学院】1964〜1970

野口先生と聖書学院の思い出

                水戸パブテスト教会  諏訪 泰子

 随分昔の事になりますが、聖書学院時代の思い出を神様に感謝しつつ書かせて頂きます。が、その前に先生との出会い等もお話させてください。多分昭和35年だったと思いますが、私が高校生の時、天城山荘で夏に行われる全国少年少女修養会に参加した折り、大変若い野口先生が修養会牧師としてご活躍されておられました。とても霊的なお話をしてくださり、高校2年生の私は献身の決意をその修養会で致しました。その夜、かなりの数の献身者が庭で、野口先生の元に集まり、星空の下で手をつなぎ丸く輪になり空を仰ぎながら献身の決意の喜びと感謝の祈りを先生がしてくださいました。

 その時、共に祈った方々が牧師となられ、いろいろな場所で活躍されておられます。それから40年もたちましたが、その夜の感動を忘れることはありません。その後北九州の小倉から家が下関に引っ越しをして、思いがけず、若松教会から下関教会に家族で転会、野口先生が牧師でしたから、あの天城でのすばらしい体験を下さった先生が遠い存在でなく、とても身近な存在となりました。私の姉は下関教会で野口先生司式のもとに結婚式を挙げさせて頂きました。

 高校卒業後児童教育科に進みました。野口先生の奥様が児童教育科ご出身であられる事を知り、とても嬉しく、学校までがすてきな所であるように胸をときめかす思いで入学致しました。その後引っ越しなどの為、高校卒業後の3年間は御無沙汰となりました。私は児童教育科の後、昭和39年4月西南聖書学院に入学させていただきました。

 今から35年も昔のお話になりますが、入学しましたら、クラスの先生が野口先生で本当に驚きました.野口先生のご家族も干隈の神学校の近くにお引っ越しされておられ、とても驚きましたが嬉しかったのを思い出します。でも、率直な気持は試験等もされるお立場になってしまわれた先生にどことなく近寄りがたい思いもありました。しかし牧師時代と変わり無い、穏やかでお優しくて、謙虚で、笑顔の絶えない先生は生徒から皆、大変信頼されていました。授業はとても熱心に教えて下さり、大変判り易い言葉でお話下さいますから、ねむたくなる事はありませんでした。ブルースの「使徒行伝」やドットの「聖書」等をテキストに学んだ事を懐かしく思い出します。

 私たちのクラスは最初6人でした。ある学期末には先生のお宅に呼ばれて、「みずたき」のお料理をおごちそうになりました。そのおいしかった味は聖書の学びは忘れてしまいましたのに、いただいたお料理は今もって忘れないのはどうしてでしょう。

先生のお母様はまだまだ若くてお元気で可愛らしいお二人のお孫さんに囲まれて、いつも笑顔で迎えて下さいました。美しくて聡明な奥様は私にはまぶしいほどの憧れの方でした。ずーっと御無沙汰で、いつか何年か前に婦人大会でお会いしましたが、昔と一つもお変わり無く、やはりすてきな牧師婦人でした。先生のお働きをしっかりと支えられながら、牧師婦人としての歩みをなさいました奥様をこれからも主イエス様が共におられて祝して下さると信じます。

 干隈のお家では、わけ有り?のカラスを飼っておられ、カラスに言葉を教えたりもしておられ私たちも興味深く様子を聞きました。まこと君がまだ6才くらいの時のある夜、先生のお勉強に先生について神学校の研究室に来られた時、「大きくなったら牧師になりたい」とお父様の野口先生におっしゃったと、それは嬉しそうな笑顔で私達にお話下さいました事を懐かしく思い出します。

 毎年、神学生も教師も家族そろって春の遠足に出かけましたが、先生が幼いお子様の手をつないで、撮れている写真が私のアルバムにあり、懐かしい思い出となっています。

 私は卒業後、結婚して3人の息子達を育てながら、主イエス様が常に導いて下さり、幼児教育を自宅開放で始めました。夫は会社勤めで、毎晩夜遅くの帰宅でしたから、息子達が眠った夜にがり版を切り、プリントを準備したり保育の準備をしたり、時間を十分に使えましたので神に感謝しました。弱かったはずの身体も丈夫になり、報酬は金銭的には全く何もありませんでしたが、お金の代わりに健康が与えられました。それは何よりもの大きな恵みでありました。健康である事により息子達にも園児達にも愛情をそそげました。神様のみ言葉を子供にも親にも日々伝えていくことが出来ました。いつも祈って、陰で支えてくれた夫と息子達の協力があっての事ですが、現在は学校法人諏訪学園みぎわ幼稚園となり、経済的にも幼稚園として自立出来、クリスチャンの長男夫妻と多くの教師と子供達に囲まれて忙しい日々を過ごしております。ここまでの道程は険しく長かったと思えますが、数えきれない多くの方々に助けて頂き、溢れるほどの恵みをいただきました。それは全て神様のご計画の中で行われたとしか思えません。「人の歩みは主によって定められる。」(箴言 20:24)とありますが、私も主によって幼児伝道の歩みを定められました。

 この先も神様が野口先生のお働きを導かれ、祝福の中に新たな歩まれる道を備えておられると信じます。まだまだご活躍いただきたいと思います。又、これまでのお働きを主が特に祝福してくださいますでしょう。学生であった私どもはいつまでも恩師として深く感謝してやまないと思います。

 

 

《 目次へ 》

 

【田島バプテスト伝道所】1964〜1970

野口先生の導きを感謝

                  バイブルチャーチ福岡聖書キリスト教会 大場 和代

 田島伝道所へ私が求道者として出席していた時、野口先生が下関より神学校の先生となって福岡においでになり、ギャロット先生の後任で当伝道所の牧師先生として来られました。

 当時、私は長男の弘が小学校に上がったばかりで、しかも小児ガンの急性骨髄性白血病で最大の逆境の頃でした。野口先生は、言葉では言い尽くせない程、私共家族に愛を注いでくださいました。弘に新鮮血の輸血が必要になったので野口先生に相談に伺ったら、「血液型が同じB型だから、先ず私のをあげよう。」とおっしゃって、血管が細くて中々採血できないで、大変な痛みをなされて頂きました。弘は、みるみるうちに、顔に赤みがさしてきました。「これで弘君と血を分けた兄弟になったね。」と言って、やさしく励ましてくださいました。元気になった弘と共に、昭和40年のイースターに、バプテスマの恵みにあずかりました。

 それから2年の後、弘は目が見えなくなり、足が立たなくなったりして天に召されました。その告別式で、「私共が信仰におろそかになったら、天国の弘君が、僕が代って神様の御用をさせて頂くから、あなたの見える目を下さい、歩ける足を下さい、と言って悲しむでしょう。」とメッセージをいただき、私の心に深く今もきざみ込まれています。

 そして家族が次々と救いにあずかり、昨年は姉も野口先生によってバプテスマを授かることが出来ました。「主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます。」(使徒行伝16章31節)のお言葉通りになりました。また、私が逆境からの立ち直りについて、なぜ我が子がこんな病気になったのか、この子は私の生き方を変えてくれた、この病いには意味がある、と御言葉を通して導いていただきました。

 「神はどのような苦しみの時にも、私たちを慰めてくださいます。こうして私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。」(コリント人への第二の手紙1章4節)

野口先生は、神様との交わりには希望がありますと、話して下さったのです。それから、日々神様から新たな力をいただき、生きる喜びと感謝に満ちています。

 

 

《 目次へ 》

 

【富野バプテスト教会】1970〜1980

野口先生の思い出 

富野バプテスト教会 中村 正子

 富野教会で10年間、先生のもとで教会・幼稚園で仕事をさせていただきました。楽しかったことをいろいろと思い出されます。職員室は、いつも笑い声がしていました。和子先生の気合の入った掛け声で元気に働くことができました。ご夫妻とも積極的に子供たちや父母の方たちの中へ溶け込んでいかれ、運動会やクリスマス、バザーなど和気あいあいのうちに行われました。教会や幼稚園ばかりでなく、地域の方たちとも積極的に溶け込んでいかれ、今でも「野口先生元気?どうしてる?」とよく聞かれます。

 先生は、私たちを「やる気」にさせるのがとても上手だったと思います。自信のない人、消極的な人にもいろんなところでチャンスを与えられ、気負わずに楽しく奉仕をするようにしてくださいました。教会学校教師、聖歌隊、印刷、料理、オルガンなど、その人に一番ふさわしい場を与えてくださいました。

 先生は、いつも大きな夢を持っていらして、その夢をひとつずつ現実のものにしてこられました。これからの夢はどんな夢でしょうか。楽しみにしています。43年の間、牧会を勤められ、ありがとうございました。これからは、和子先生、徳子先生とともに、健康に気をつけて、ますますのご活躍を心よりお祈り致します。

 

 

《 目次へ 》

 

【仙台北バプテスト教会】1980〜1993

野口牧師ご一家との出会い

  仙台北バプテスト教会   古川 明

 2000年という節目の年の今年、私たち教会は、去る1月20日、宣教満20周年を迎えました。その記念礼拝の中で私の妻が当時を振り返って全国拠点開拓伝道の経緯、最初の礼拝の模様、ボートライト宣教師の働き、野口牧師ご一家との出会い、私たち家族のこと、信仰生活の事をまじえて、「証し」をしてくれました。思えば、当時4才だった息子も24才になって歳月の流れの早さに驚いています。

 私が野口牧師に初めてお目にかかったのは、1978年に全国拠点開拓伝道の地として神戸と仙台が選ばれ、決議された連盟年次総会に仙台教会の代議員の一人として出席したとき会議場で小柄な坊主頭の目立った代議員の方が印象強く、記憶に残っておりましたが、その時の代議員が野口牧師で、就任当時、山形県米沢市が故郷ということで東北の地で福音伝道の働きをしたいと祈っておられた時に、連盟から牧師就任の要請があったとお聞きしておりますが、神様の召命に応えて、開拓伝道所の初代牧師に赴任して来られるとは、夢にも思っていませんでした。開拓伝道の地として、長命ヶ丘団地が選ばれた事も神様の奇跡で、全て神様が備えられたご計画による実現ではないかと思います。

 1980年4月1日、九州からフェリーで仙台港に来られた野口牧師ご一家(ご夫妻と徳子おばあちゃん、ワンチャン)を仙台地区の教会員が出迎えましたが、私がご一家とお会いしたのは赴任した最初の礼拝の時でした。ボートライト宣教師ご夫妻、野口牧師ご夫妻との息の合った宣教の業が信徒へも伝わり、大きく成長させていただきました。三面六臂の大活躍で、特に初期の伝道所時代に徳子姉のオルガニストや教会学校教師の奉仕は、信徒の鏡でした。野口牧師の自由な発想の中で宣教の業が行われましたが、宣教の理念は信仰・希望・愛の教会として育まれ、明るい教会の雰囲気が今も継承されています。

 牧会12年間で伝道所から短期間で教会組織を行ない、12年目には宗教法人にまで育て上げていただき個人的には、私の父、長男(泉)家族が教会に導かれ、クリスチャンになることができ、その働き・導きに深く感謝いたしております。

 これまでの43年間の牧会生活を神様の栄光のために捧げました事に感謝いたします。退任されても体を労りつつ、自由な発想のもと神様の同労者として福音伝道のために働き続けていただきたいとお祈りいたしております。野口先生ご一家の上にさらなる神様の恵みが豊かにありますように家族一同、お祈り申し上げます。栄光在主

 

 

《 目次へ 》

 

【福間キリスト教会】1993〜2000

家族で伝道された野口先生

           福間キリスト教会 兼行 一弘

 福間教会は1984年に田隈、長住、福岡の三母教会の伝道所として開設されました。初代牧師にC.L.ホエリー先生(元西南学院院長)、二代目には播磨聡先生(現鹿児島教会牧師)、三代目には協力、臨時牧師として斎藤剛毅先生(元福岡女学院大学教授)をお迎えし、四代目牧師として野口直樹先生を1993年に招聘しました。福間教会は昨年、伝道開始15周年を迎え、記念誌発行等の記念行事を行いましたが、これまでの歩みを振り返って見ますと、山あり谷ありではありましたが、母教会を始め実に多くの方々のご支援、ご協力により今日の姿があるものと感謝しています。野口牧師をお迎えしてからは教勢も順調に伸び、伝道所も青年期から壮年期へと成長し、1994年には教会組織を行い、更に1997年には念願の伝道所を宗像市自由ケ丘に開設することが出来ました。

 野口先生の日頃の牧会、伝道の様子を一言で表せば、それは「家族的」という言葉が相応しいのではないでしょうか。野口先生ご自身も語っておられますが、先生は和子夫人、徳子おばあちゃんといつも三人いっしょに教会のあらゆる集会に参加され、教会を訪れる多くの人々を本当の家族のように暖かく迎えてこられました。三人がカを合わせ、家族ぐるみで伝道してこられたように思います。その暖かい家族的な雰囲気を慕って、遠方からも実に多くの方々が教会を訪ねてこられます。特に野口牧師の前任地の仙台北教会からは、遠方にもかかわらず毎年のようにいろいろな方々が教会を訪ねてくださり、今では野口先生を通じ姉妹教会のような思いがしています。

 又、野口牧師の長男であられる真夫妻ご家族も福間教会のメンバーとして参加しておられますが、野口先生の説教にもよくそのご家族のことが登場します。特にお孫さんのお話をされるときは、表情も緩み、実に和やかな雰囲気となるのです。

 野口牧師の引退の事は、先生ご自身まだまだお元気ですので、教会としてももっともっと現役を続けて頂きたいという気持ちが強いのですが、このことについては先生が大切にされているご家族と話し合われ、そして最終的には先生が主なる神に祈られ決断されたことですから、とても残念ではありますけれども、受け入れざるを得ないことと考えております。教会では執事会や信徒会での協議の結果、来年度は当面内田副牧師、片山協力牧師を中心に活動を行い、主任牧師については1年間かけてじっくり考えていく予定です。幸い野口先生ご家族は引退後も、福間教会に比較的近いところにお住まいになり、和子夫人と徳子姉は従来通り福間教会の会員として残って下さるとのことで、喜んでいます。又、野口先生にも時々はメッセージをお願いすることになりそうです。

 野口先生、50年に亘る主にあるお働き、本当に有り難うございました。そして、しばらくはリフレッシュされるとともに、福間教会をどうぞいつまでも見守ってください。

 

 

《 目次へ 》

 

【自由ヶ丘伝道所】1997〜2000

野口先生の想い出

自由ケ丘伝道所    楠元 建昌

 「主は福間伝道所には恵みとしか言い様のない、素晴らしいベテランの牧者、野口先生をお与え下さいました。福間の群れは、本当に幸せだと思います。これからは、野口先生と一緒に地域伝道に励みましょう。私は小郡からの通いの臨時牧師でしたから、牧会や祈祷会で奨励は出来ませんでした。しかし、これからは良き牧者を得て、必ず祝福され成長を遂げてゆくと信じます。」この言葉は、1993年4月25日の主日に開催された第九会総会資料の一ページに記載の巻頭言(1992年度の反省と感謝 斎藤剛毅協力牧師)の抜粋文です。

 先生は、93年4月に福間伝道所の牧師としてご就任以来、今日までの7年間、どんな時でも、主が生きて働きたもうことを確信して常に祈り、信徒やその家族に細かな配慮を持ちつづけ、苦悩しつつ教会の業を受け継ぎ、福音を伝え続けて来られました。特に青少年の育成に心血を注がれ、その先生の真摯な信仰姿勢に深く感銘をうけるとともに、教会組織・連盟定期総会議長・伝道所開設などなど、これまでのご苦労に対して感謝せずにはおられません。まことに、主は良き牧者をお与えになり、今日までの歩みを祝福し導いて下さいました。

 私が初めて先生を知ったのは、今からおよそ40年前の24、5歳の頃でした。当時、北九州連合の諸教会の青年達が活動の場としていた、BYF(バイブル・ヤング・フェロシップ)の交わりが年に数回、当時、牧師の岩切 健先生が牧会されていた若松教会で行われていました。その当時、BYFの顧問をされていたのが、神学校を卒業後、下関教会に就任され、和子夫人とご結婚間もない若き日の野口直樹先生でした。BYFの交わりを通して、明朗闊達な先生は相談役として信仰未熟な私たち青年を熱心にご指導下さいました。

 そして、二度目にお会いしたのが、それから32、3年後に福間教会でのいわゆる、お見合い説教をされた92年11月15日でした。説教の後、先生ご家族を囲んでの懇談会では、持ち前の明るさで教会員たちを和ませ、伝道所の牧者として本当に相応しい先生だと胸に温もりを感じたのは私だけではなかったと思います。

 次に特記すべきことは、先生が福間伝道所の牧師として就任された年の12月から、永らく休会していた家庭集会が、わが家で再開する恵みが与えられたことです。月に一度の家庭集会に毎回、十名前後の教会員・求道者が集まり、礼拝の説教ではなかなか悟ることのできない御言葉の奥義を解きあかしていただき、私たちの信仰を養い導いて下さいました。本当に温もりのある楽しかった家庭集会が懐かしく想い出されます。家庭集会を続けているうちに近くに伝道所をとのビジョンが与えられ、ここから、伝道所を生み出す祈りの輪が広がったのです。そして、野口先生の開拓伝道への熱意により、伝道所にて共に奉仕する決意に導かれた人たちと共に、1997年4月6日、自由ケ丘の地に伝道所がスタ−トしたのです。

 先生は、伝道者としての召しを受け献身されてから、下関教会を皮切りに43年の間、五つの教会とその伝道所を牧会され、本当に労の多い日々であったと思います。けれども、先生は忠実に伝道者としての使命を全うされてきました。人間の思いを越えて備え導いてくださった主に心からの感謝を捧げます。

「主の山に備えあり」“主よ感謝します”

 

 

《 目次へ 》

 

【北九州シロアム会】1972〜2000

野口直樹先生と北九州シロアム会

日本バプテスト北九州キリスト教会  綾塚 厚

北九州シロアム会は視力障害者への福音伝道を目的に、1968年の9月に、二組の盲人夫妻と数名の晴眼者によって始められました。それから31年の間、神様に導かれて歩みを続けています。

 さて、野口先生がシロアム会と交わって下さるようになったのは、1972年頃からだったと思います。先生は、若い時から視力障害者との交わりがおありで、点字を触読なさるほどでしたから、たちまちシロアム会には無くてならないお一人となりました。

 この間、先生は1980年から1993年まで仙台教会に赴任されましたが、その時も、かの地からお支え下さり、20周年の記念集会には胡美芳姉、25周年の集会では田原米子姉、また1996年の阪神大震災のチャリティーコンサートでは本田路津子姉、そして30周年の集会にはレーナ・マリア姉をそれぞれ紹介してくださいました。また、1994年からシロアム会の顧問として信仰を導いて下さっています。

 ところで、聖書のみ言葉に「あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい。」(ピリピ4:4)とありますが、シロアム会の人たちは、みな主にある喜びで満たされています。そして、野口先生も同じように主にある喜びでいっぱいですから、シロアム会がますます楽しくなりました。また、先生は教会のご用が終わると(時には、終わらなくても。教会の皆様ごめんなさい・・・)、例会が終わった後に到着されて、私たちを戸畑駅やそれぞれの自宅まで送ってくださいました。

 終わりに、これからも先生とシロアム会との交わりは続きますから、ますます楽しい会になるでしょう。皆様も、シロアム会にぜひご参加下さい。神様の御恵みをたくさんいただけること請け合いです。

 これからの先生の主にあるご活躍をお祈りしながら、つたない一文とさせて頂きます。

 

 

 

《 目次へ 》


あとがき

 

 

今年(2000年)の3月をもって、野口直樹先生は43年間の牧師生活から退任なさることになりました。私たち教会員一同残念でなりませんが、牧師が天職である野口先生は、どんなにかお寂しいことだろうかと思い、そう思うと、いてもたってもおられず、私は記念誌の発行に進んで参加いたしました。ところが先生を交えて、どのような記念誌をつくろうかと語り合うなかで、私のそのような思いは変えられていきました。先生は退任記念礼拝を最高に素晴らしい伝道の時と考えておられたのです。日頃忙しくて教会に来ることが出来ない親しい方々も、この日はなんとか都合をつけてきてくださる。その方々に、イエス様のことを、福音をお伝えしたいと言われるのです。生涯を伝道者として生きる、先生のそのような思いに動かされ、いくらかでも先生の伝道のお手伝い出来ればと願いながら、堀矢寿子姉、三宅里恵姉と私で編集にあたりました。

ご多忙のなかこの記念誌発行のため、原稿を送って下さった方々、パソコンを打って下さった方々、製本をして下さった方々、本当に多くの皆様の御協力を心から感謝申し上げます。

私たちは野口先生御一家から多くのことを学びました。福音のもとで一人一人自由なのだということを、教会生活で実体験できたことは特に大きな喜びでした。

ユーモアを交え心に染みるお話をして下さる牧師先生、真剣な祈りで私たちの襟を正して下さる和子先生、満面笑顔で迎えて下さる徳子先生、本当に有り難うございました。

 

                                     編集委員一同        

文責  片山 博美    

 


目次へ

   福間教会ホームページへ