福間教会 礼拝説教《2000年6月》  福間教会ホームページへ

6月4日   「終わりのときに私は」 マタイによる福音書25章31〜46節   内田章二牧師

6月11  「御霊よ下りて」    使徒言行録第 2章1〜13節        片山 寛牧師

6月18  「御霊のとりなし」   ローマ人への手紙 8章18〜30節      内田章二牧師

6月25日  「クリスチャン・スチュワードシップ」 コリント人への第一の手紙 6章19〜20節  兼行一弘兄


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      「終わりのときに私は」    6月4日 内田章二牧師
                           マタイによる福音書25章31〜46節
 
 西暦2000年がスタートして、早いもので5ヶ月が過ぎました。この年は、まさに世紀末(20世紀最後の年という意味で)の1年であり、巷では「ミレニアム」という呼び方でこの年に特別な意味を持たせたいと思っている人もありました。そのように、私たちは時の流れの中に流されてしまうことを恐れて、何かにつけて「区切り」を大切にするのかもしれません。人間にとって、時の流れに「区切り」を設けることは、そこでなにかしら古いものが過ぎ去って新しい歩みが始まる期待を秘めています。古い時代のイスラエルには「ヨベルの年」と呼ばれた大きな区切りが設けられていたことが、旧約聖書のレビ記を中心として記されています。この「ヨベルの年」は50年に一度巡ってきて、その年が来ると、すべての奴隷は解放されたということです。ちなみに、レビ記25章39〜41節には次のように記されています、「あなたの兄弟が落ちぶれて、あなたに身を売るときは、奴隷のように働かせてはならない。彼を雇人のように、また旅びとのようにしてあなたの所におらせ、ヨベルの年まであなたの所で勤めさせなさい。その時には、彼は子供たちと共にあなたの所から出て、その一族のもとに帰り、先祖の所有の地にもどるであろう」。この「ヨベルの年」が現実に守られていたかどうかは分からないのだそうですが、時代を超えて、やはり私たちは昨日と全く違う今日、さまざまな古いしがらみから解き放たれて新しい思いで日を送りたいと願うものなのでしょう。
 いずれにしても、2000年というひとつの区切りの年が過ぎれば21世紀が始まる…。年の瀬だと言っているうちにすぐ正月がやってくる…。多くの人は「区切り」を大切にはしますが、そのような私たちの当たり前の営みが終わるときが来るなどとは考えないのではないでしょうか。ところが、聖書は終わりのときが必ず来ると言っています。
 この朝、私は決して怖いお話をするのではありません。結論から言えば「大丈夫!」というお話になるのですが、やはり私たちは終わりのときに「備える」ことが大切だという意味で、よく知られた聖書の箇所からお話をしたいと思っています。
 さて、新約聖書には終わりのとき、つまり「終末」についての記事がいくつかありますが、それらはみな一様ではありません。たとえばルカによる福音書21章9節でイエス様は、弟子たちの「終わりのときにはどんな前兆がありますか」と問いに対して、「戦争と騒乱とのうわさを聞くときにも、おじ恐れるな。こうしたことはまず起らねばならないが、終りはすぐにはこない」と答えておられます。ところがパウロは、テサロニケ人への第一の手紙5章2,3節でこれとは逆のことを言っています、「あなたがた自身がよく知っているとおり、主の日は盗人が夜くるように来る。人々が平和だ無事だと言っているその矢先に、ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むように、突如として滅びが彼らをおそって来る。そして、それからのがれることは決してできない」。終わりのときは、誰にも明らかな前兆を伴ってやってくるのか、それとも突然やってくるのか、聖書の言葉を頼りに答えを出すことは出来ません。
 さらに、「終わりの日はいつなのか」という私たちの素朴な疑問にも明確には答えてくれません。たとえば、ヨハネの黙示録22章20節は「これらのことをあかしするかたが仰せになる、『しかり、わたしはすぐに来る』。アァメン、主イエスよ、きたりませ」とあるのに対して、使徒行伝1章7節では、よみがえりのイエス様を囲んだ弟子たちが、今まさに天にお帰りになろうとしているこのときが終わりのときですか、と尋ねている場面があります。これに対してイエス様はこう答えておられます、「彼らに言われた、『時期や場合は、父がご自分の権威によって定めておられるのであって、あなたがたの知る限りではない』」。
 昨今、世の終わりを思わせるような殺伐とした出来事が相次いで起こり、冷え切った人の心というものをいやというぐらい見せられていますし、また世界的な規模で起こっている異常気象や食糧不足、環境破壊によって私たちのからだが知らず知らずのうちに蝕まれている現実などなど、どれ一つをとっても、いつ世の終わりが来てもおかしくないような状況です。けれども、ある人たちが言うように、「世の終わりが近い」と予言めいたことを言って注意を喚起するのがキリスト教会の使命だろうかと考えたときに、私ははっきり「否」と言わなければならないと思っています。
 つい最近、NHKテレビで放送された「映像で見る100年」(確かな番組名ではありませんが)という番組を見ました。動く映像、つまり映画という記録法が開発されて100年の間に起こった世界の出来事が紹介された大変興味深い番組だったのですが、私が特に興味深く見たのは、やはり二つの大きな世界戦争についての記録でした。二つの大戦を通して、時代が新しくなればなるほど戦争のやり方もスマートになっていく様子が手に取るように分かりました。しかし、時代は変わっても少しも変わらないのは戦争の悲惨さです。どの時代の戦争を収めたフィルムにも必ず出てくるのは、戦争の犠牲となった人々の死体の山でした。そこで考えたことは、私たちが今見せられている「世の終わり」のようなありさまを、きっとその時代を生きた人々も見ただろうな、ということでした。あるいはそういう時代を生きた人々も、彼らが見た地獄の惨状に「これが聖書の言う『世の終わりの前兆』か」と思ったに違いありません。けれども、実際にはまだ世の終わりは来ていないのです。
 世の終わりはいつ来るか分かりません。こうしてお話ししている間にもイエス様が来られてみなさんは天に挙げられて、えらそうに講壇から語っている私だけが取り残されるかもしれません。でも、教会の使命は、あくまで「世の終わりが近い」と言って人々をいたずらに怖がらせたり、信徒のお尻をたたいて伝道の道具に用いることではなく、喜びのうちに終わりの時を迎えるための「備え」を聖書から聴き取ることだと思うのです。
 さて前置きが長くなりましたが、今日お読みした聖書の箇所はまさにその「備え」について私たちに教えています。何度となく読んだという方もおられると思いますが、改めて読んでみると面白いことに気付かされます。まず、よく言われるのは「隣り人に対しての無意識の行為(善行)」ですが、残念ですが、私たちは罪深く愚かしい者ですから、この箇所を読んで「隣り人に対して、意識せずに善い行いが出来るようにならなければ…」と意識すればするほど、その行為はわざとらしくなるものです。「私はなにもしていません」と口先では言うのですが、心の中では「これだけのことをしてやった」と帳面に記録することに素早い私たちなのではないでしょうか。けれども、ここで神様から喜んで迎えられている人たちの「いつ、私たちがあなたに食わせ、飲ませ、宿を貸し、着せ、見舞いましたか」という言葉は、私たちがよく使う口先の美辞麗句とは質が違うように思われてなりません。私は、穴があくほどこの言葉を繰り返し読んでいるうちに、こんなことが見えてきまし
た。つまり、困っている人に必要な援助を与えた人から見て、援助を受けた側の人も関係としては全く対等だったのではないか。食べるものに困っていようが、着るものに困っていようが、人の交わりということに関しては対等だった。だから、具体的な援助を与えた人も、それを受けた相手から今度は交わりの中で目に見えないものを受けていたのではないだろうか。そういう意味で、終わりのときに備えが出来ている人は、交わりにおいて対等な関係が持てる人というのが、一つの条件のように思われます。その対等な関係を支えるのは、言わずと知れたイエス・キリストです。彼が十字架で死んで、三日目によみがえって私たちに完全な愛と赦しを与えてくださったのです。この信仰に立ち続けるときに、終わりのときは私たちにとって「喜び」以外の何物をももたらさない完全な勝利のときとなるのです。そのときになって何も慌てる必要はありません。普段通り、みことばに聴き、祈り、十字架を見上げて歩みを続けることだけです。
 私が教会に行くようになったのは今から20年ほど前になります。初めて行った教会は単立の小さな教会でした。そこで私は一人の青年に出会って、程なく友情が芽生えて何でも話せる信仰の友となりました。彼は私と比べものにならないほど祈り深く、いつも私に「リバイバルは近い!」と拳を挙げて熱く語るような元気な人でした。ところが、私がある理由からその教会を離れてバプテスト教会に移ってからは、やはり疎遠になっていきました。でも、いつも私の心には彼が生き続けているように思えて、気になっていたのです。そんな彼に電話をしたのは何年ぶりだったでしょうか。電話を通して聞こえてきた声は、以前と少しも変わりませんでした。けれども、やがて私は彼から信じ難い言葉を耳にしたのです。「教会にはもう5年ばかり行っていません。実は、いま輪廻転生の教えに凝っているんですよ。今度遊びに行きますから、その教えについてお話ししましょう」。
 私は決して、クリスチャンであることが終わりの時にイエス様に差し出すパスポートであるとは思っていません。それは神様が決められることであって、教会を離れてしまった人も選ばれているかも知れません。しかし、十字架に死んでよみがえられたキリストの愛と赦しに応答して生きて行く私たちの歩みは、終わりのときに確かに評価されるのです。何も特別な備えをする必要はありません。ただ、みことばの前にいつも謙遜にされて日々を歩み続けることだけが、私たちに求められている「備え」なのです。
 昨年の秋頃から、我が家ではいつもは空っぽの冷凍庫に「チャーハン」、「お弁当フライ」、「コロッケ」といった食品や天然水のボトルなどが蓄えられるようになりました。ここまで言えば、みなさんもお気づきでしょう。例の「Y2K」に、私の妻は密かに備えていたのであります。何も起こらないかも知れないけれども、何か起こったときのために備えておこうということで、涙ぐましいような努力をしていた妻を、私は残酷にも冷ややかに見つめながら「何かあっても、一日や二日のことだろうから、布団をかぶって寝ていたらいいさ」と妻には聞こえないように独り言でつぶやいたりしていたものです。私は、あのとき何も起こらなかったから言うわけではないのですが、今考えても、あのときのことはどうも腑に落ちないところがあります。やはり「いたずらに」不安を募らせる情報が飛び交っていたように思いますし、そういう情報を賢く取捨選択できなかった私たちがそこにいたような気がしてなりません。私たちの心に「備え」がなかったのです。
 スポルジョンという有名な伝道者の逸話をご存じの方もおありかと思います。彼は「明日が世の終わりだとしたら、あなたはどうしますか」との問いに、「いつものように朝起きて、馬に乗って伝道に出かけますよ」と答えたというのです。
 今、この瞬間をみことばと祈りに生かされて歩み続けること、それが最善の「備え」であることを、この朝もう一度確認して、それぞれの場所に遣わされて行きましょう。

 

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       「御霊よ下りて」    6月11日 片山 寛牧師
                       使徒行伝 2章1〜13節


    「すると一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」

はじめに
 『風立ちぬ』というのは、堀辰雄の有名な小説の題名ですが、私は昔、ロマンチストだったものですから、この小説の世界に憧れていたことがあるんです。結核を病んでいる療養中の少女と恋愛をするけれども、少女は死んでしまうというような悲しい内容ですね。まあ、いくつかの言葉を並べると、大体この小説の雰囲気がわかります。
 軽井沢、高原のホテル、白樺の樹、サナトリウム、薄(ススキ)の生い茂った草原、肺病を病んだ色白の少女、微熱。何かもう絵に描いたようなロマンチックな雰囲気でしょう。軽井沢、白樺林、風立ちぬ、ああ。その小説の最初のところで、夏の終り頃でしょうか、白い帽子をかぶった少女がキャンバスに絵を描いていて、それを婚約者の青年が、白樺の木陰に座ってじっと見ている風景があります。そしたら風が吹いてくる。木の葉がざわざわいう。雲が流れていく。風立ちぬ、いざ生きめやも。もう、本当にきれいでしょう。それで私は、いつかきっと自分も、絵を描いていて、結核で死んでしまうような少女と結婚しようと思ったものでした。
 私がうちの家内と結婚したのは、もしかするとその時の印象が強かったのかもしれません。彼女は当時、絵を描いておりましたが、結核ではありませんで、色白の美少女でもなかったのですが、まあ今に何とかなると思って……今でもお元気でありますが。
風――聖霊
 何か話があらぬ方角に逸れてしまいそうなのですが、私はこの「風」についてお話をしようと思っていたのでした。風が吹く、その風に、聖書の世界の人々は神様の生命のようなものを感じていたのです。その意味では、やはり、風立ちぬ、いざ生きめやも。風が吹いた、さあ生きよう、なのです。「風」のことをヘブライ語でルーアハ(ruah)と申しますが、それは同時に、空気とか息の意味でもありまして、更には霊とか魂、神様の霊の意味にも同じこのルーアハという言葉が使われました。風が吹く、すると人々は生命が動くのを感じたのです。
 本日の礼拝を、ペンテコステ、五旬節とか五旬祭とか申しますが、過越しの祭り(つまり復活祭)から50日目ですので、50番目の日(ペンテコステ・ヘーメラ)というギリシア語からこの名前はきております。先ほど司会の宮崎先生がおっしゃいましたが、このペンテコステという日は教会では、今朝の聖書にございましたように、イエス様の弟子たちに神様の霊がやってきた日、つまりイエス・キリストの教会が始まった日として理解されております。
 復活祭から7週間、7・7、49日がたって50日目の日曜日、イエスの弟子たちが集まってお祈りしておりますと、「突然、激しい風のような音が天から響いてきた」と聖書は語っております。神様の霊、すなわち聖霊がやってくるとき、それは風の音をさせるというのです。そうしますと、一人一人の頭の上に、舌のようなものが現れた、と聖書は物語っております。何かちょっと気持ちが悪いような気がするのでありますが、その舌が現れると、弟子たちはそれぞれが聖霊に満たされて、異言を語りはじめた、というのであります。
 この異言、日本語では「異なる言葉」と書いて「異言」と呼ばせておりますが、もともとのギリシア語では、laleo glosse つまり、「舌で語る」というふうに書かれております。聖霊に満たされると、人々はしばしば、そのように不思議な言葉で語ったらしいのです。自分では、自分が何を言っているのかわからなくて、ただ頭の上に神様の霊が舌の形で現れて、その炎のような舌に突き動かされるようにして、奇妙な言葉を語るのです。
 現代でも時々、この異言を語るということをよくする教会がございます。私は自分の目で目撃したことはないのですが、そういう教会の様子を見てきた方によりますと、みんなで集まってお祈りしているうちに、みんな何か興奮してきて、レロレロ、とかトララだとか、口のなかでわけのわからない言葉を語り始めるそうなのです。声はだんだん大きくなって、しまいには全員が立ちあがって踊りながら、動物のように大声で叫び始めるので、ちょっとコワイ感じだったとも聞きました。
 そのような現代における異言というものと、この使徒行伝に出てくる異言が同じものなのかどうか、それはちょっとわかりません。私自身は、それは聖書の異言とはまた別のものではないかと思っております。キリスト教会以外でも、たとえばロックンロールのコンサートなどに行って、ファンの方などがこの異言に近い状態で、恍惚となって叫び始めることがありますので、そういうのは聖霊のわざではなくて、きわめて人間的な、心理学的にも結構説明のつく現象ではないかと思うのです。
 聖書の語っております異言というのは、それとは違って、単なるわけのわからない言葉ではなくて、ちゃんとした異国の言葉で語っていたようなのです。9節を見ますと、そこにはパルテヤ人、メジヤ人、エラム人、それから後、地名で、メソポタミヤ、ユダヤ、カパドキア、アジア、フルギア、パンフリア、エジプト、リビヤ、ローマなどの名前が並んでおります。これらはほぼ、当時のローマ帝国の全体に亙っている、と考えられます。その人々が、イエスの弟子たちが異言を語るのを聞いて驚いた。「あの人々が私たちの国語で、神の大きな働きを述べるのを聞くとは、どうしたことか」。弟子たちの語った異言は、当時のほぼ世界じゅうから来ていた人々のそれぞれの言葉であったのです。つまり、弟子たち本人は、わけがわからずに、ただ聖霊に突き動かされるままに声を上げているのですが、客観的には、それはちゃんと意味のある言葉であったということだと思います。
聖霊きたれり
 とはいえ、聖霊が時として私たちに働くということを、私たちは否定すべきでは決してありません。使徒行伝1章8節によりますと、イエス様は弟子たちと別れて昇天されたさいに、次のように言われたとされるのです。「聖霊があなたがたにくだる時、あなた方は力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」。
 ですから私たちは、弟子たちがそうしたように、共に祈りながら、自分たちに「聖霊が下るように」とお待ちするべきなのです。御霊の風よ、吹いてください、とお祈りすべきなのです。ただ大事なのは、私たちの側で、御霊を操ろうとしたりしてはならないということです。それからまた、聖霊によって異言を語る人を、何かそのことで立派なことをしている人だとか、また逆に馬鹿なことをしている人だとか考えるのでもありません。ただ、御霊が風のように私たちを通過していく。私たちはただその風が思いのままに吹くのを、お受けするということ、それを大事にするだけなのです。
田中遵聖師のこと
 わたしはここで、田中遵聖さんという牧師のことをお話したいのですが、ちょっと不思議な人物で、明治18年(1885年)に生まれて、本名は種助といいました。亡くなったのは今から40年ほど前の1958年ですから、73歳だったことになります。20代でアメリカに渡り、7年ほど(1908―1915年)、シアトル(ワシントン州)やパサデナ(カリフォルニア州)に滞在したようです。アメリカに滞在中に、組合派の教会で洗礼を受けて、クリスチャンになっています。
 アメリカでも2年間ほど神学校で勉強したようですが、30歳で帰国して、バプテストの東京学院(関東学院大学)神学部で学んで、牧師になっています。その後若松バプテスト教会、東京市民教会などを経て、小倉のシオン山教会の牧師になるのですが、シオン山教会で牧師をしていた頃、説教ができなくなって、というのは、説教中に涙がこみあげてきて泣き出してしまうので、どうしても説教ができなくなってしまうのです。言葉が、しゃべれない。身体の中から突き上げてくるものがあって、語ることができないのです。
 それでシオン山教会の牧師を辞任して、広島の呉バプテスト教会の牧師になりますが、ここも辞任して、結局、呉市内の小さな山の中腹に独自の教会を設立して、アサ会という小さな教派を作ります。
 このアサ会での礼拝が、異言といいますか、わけのわからない言葉でしゃべるものだったようです。田中遵聖牧師の息子は小実昌さんといって、後に小説家になったのですが、その田中小実昌さんの書いたものから、すこし読みます。

 「一木さんはポロポロだが、さんびのあいだじゅう、ハ、ハ、ハ……とわらっているひともいた。また、おなじハ、ハ、ハ……でも、わらってるのではなく、泣いてるようなひともいた。
 そんなふうに、みんなあつまって、ギャアギャアやってるわけだから、世間ではきちがいの集団だとおもったにちがいない。
 まだ町中の教会にいたころ、このポロポロ、ギャアギャアがはじまったときは、なにがおきたのか、とヤジ馬が教会の窓にいっぱいたかって、のぞきこもうとした」。

 私たちの教会では、こうしたポロポロといいますか、異言はやりませんが、もしやったならば、それはやはり異様なものですので、近所の人々が見に来られるかもしれません。しかし、この異言というのは、それができたからといってどういうことでもないのです。
 異言が、何か強い信仰のしるしや資格であるかのように言う人々も、ペンテコスト派の教会にはおられます。それは間違いだと思います。そういうのは、一種の自己満足にすぎません。しかし、田中遵聖牧師の教会では、そんなことはなかったようです。田中小実昌さんは、次のようにも書いています。
「ぼくにはポロポロはでない。そのころも、今でもおんなじだ。だいたい、ポロポロが言えるとか言えないとかいったものではあるまい。クリスチャンたちはおどろくだろうが、信仰というものにもカンケイないのではないか。信仰ももち得ない、と(悟るのではなく)ドカーンとぶちくだかれたとき、ポロポロははじまるのではないか」。
「うちの教会では、ポロポロを受ける、と言う。しかし、受けるだけで、持っちゃいけない。いけないというより、ポロポロは持てないのだ。
 持ったとたん、ポロポロは死に、ポロポロではなくなってしまう。あのとき、玄妙なありがたい御光をうけ、それを信仰のよりどころにし、一生だいじに……なんてことを、ふつう宗教では言う。
 だが、ポロポロは宗教経験でさえない。経験は身につき、残るが、ポロポロはのこらない。だから、たえず、ポロポロを受けてなくてはいけない。受けっぱなしでいるはずのものだ。見当ちがいのたとえかとも思うが、これは断崖から落ちて、落ちっぱなしでいるようなものかもしれない」。
 私も田中小実昌さんと同じく、異言はやりませんが、そしてこれからも私は異言を語ることはないと思いますが、しかし、こういう田中遵聖さんのような異言のあり方であったならば、それは悪くないもんだなあ、と思います。もし異言が聖霊のわざであるなら、それはこんなものなのかもしれないと思います。聖霊は風のように自由だからです。
 風が吹くときに、私たちは何も考えません。ただ私たちは風の中に立つのです。聖霊とは神様からの風です。私たちは風をつかんだり、それを自分のものにすることはできません。ただその風は私たちを貫いて、吹き過ぎるのです。その風は今でも私たちに吹いているかもしれない。おそらく吹いているでしょう。……

 

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       「御霊のとりなし」       6月18日 内田章二牧師
                           ローマ人への手紙 8章18〜30節

 先週、私たちはペンテコステの礼拝を共に守りました。弟子たちは、使徒行伝1章8節でイエスが「聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」と約束されたとおり、イエス・キリストの証人として、私たちの教会の一番最初の姿を築いたのでした。みなさんは先週、そのことについて片山先生からメッセージを聴かれました。
 実は、今週私がお話しすることも、どこかしら先週の片山先生のお話と関連があるのかも知れません。イエスの霊が一人一人に宿ったときに、弟子たちは自分たちが考えても見なかったような大きな力を頂いて福音を宣べ伝え、教会を建てあげたのですが、私はこの朝、そのように弟子たちを励まし、奮い立たせた「御霊」とはいったい何なのだろうか、ということについてお話ししたいのです。そのために与えられた聖書の箇所は、ローマ人への手紙8章18〜30節です。パウロはこの箇所のはじめの部分で「わたしは思う。今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない(18節)」と言っています。
 「苦しみ」ということを考えたときに、一人一人の人生にそれぞれの苦しみがあると言って間違いないと思います。ただ、苦しみと言いましてもその姿はさまざまであって、ひとまとめにして「人生は苦しみの連続だ」などと分かったようなことを言うのは間違いです。こういうことを考えてください。受験を控えて苦しい学びに明け暮れている人は、本当に誰もその重荷を取り除いてあげることは出来ませんが、その学びの結果がどうであったにせよ、桜の花が咲く頃にはその重荷(苦しみ)からは一応解き放たれることが出来ます。また重い病を負い、苦しい闘病生活を送っている人も、晴れて病が癒されて苦しみから解き放たれる日が、多くの場合やってくるのです。しかし私たちの人生には厳粛な事実として、そういった一過性のものではない苦しみもあるのではないでしょうか。つまり、宿命的とも言えるような「苦しみ」を負っている人のことを考えてみたいのです。身体や精神に障害を負っている人は、多くの場合、この世の生涯を閉じるときまでそういう自分と付き合って行かなければなりません。本人ばかりではなく、その家族の苦悩も「ウソのように取り去られる」ことはまずないでしょう。また、昨日まで健康であっても、不治の病だとの宣告を聞いたときに、地上にあってその苦しみから解き放たれる希望は皆無に等しいものになるのです。
 病とか障害のことを話し出すと、私自身のことも含めてということになるので、つい力が入ってしまいますが、宿命的と言えばなにも病や障害だけのことではありません。生まれとか血筋(こんなことで苦しみを負わなければならない社会は変えて行かねばなりませんが)の故に苦しむ場合も現実の問題としてはあるのです。これは私の母から聞いた話ですが、母が少女時代(といいますから、今から5,60年前のことでしょうか)、毎日魚を売りに来る行商のおばちゃんがいたのだそうです。夏の暑いときも、冬の寒さで手がかじかむような中でもそのおばちゃんは魚を売り歩いていたのだそうです。ある夏の暑い日、このおばちゃんは全身汗まみれになって私の母の家に来て玄関の土間に腰を下ろして「ここでお弁当を使わせて欲しい(お弁当を食べていきたい)」と申し出たのだそうです。そのときちょうど家に居合わせて応対した祖父(母の父)は、「まあ、そんなところに座らんで、上にあがっていかんですか」と勧めたそうですが、おばちゃんは「私たちはどこの家を訪れても、そんなことをしてもらったことはありませんから」と固辞して土間で食事をして帰ったのでした。少し年輩の方なら、こういう話はピンと来るのではないでしょうか。私たちが聞くとウソのような話ですが、このおばちゃんは被差別部落から魚の行商に来ていたのです。このおばちゃんは、自分自身の境遇をどう受け止めていたのでしょうか。拭い去ろうにも拭い去ることの出来ない苦しみとどう向き合って生涯を送ったのでしょうか。
 一過性の苦しみであれば、私たちは歯を食いしばって乗り越えることが出来ますし、その苦しみの原因となっている問題が通り過ぎるのを待つことも出来ます。けれども、宿命的な苦しみの中で、私たちはどのようにその苦しみと向き合っていけば良いのでしょうか。パウロは、私たちの深い苦しみに思いを向けることなく、軽い気持ちで「今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない」と言ったのでしょうか。そうだとしたら、パウロは大した人ではないということになってしまいますが、今朝の聖書を最後まで読んでみると、やはりパウロは私たちが思っているとおり、神様から用いられた人であることが分かります。18節のパウロの言葉をもう少し丁寧に振り返ってみると、そこに「やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると」という言葉が目に入ります。ここでパウロは何を言おうとしているのでしょうか。
 私たちが苦しみに遭うときに、どういう祈りや願いを持っているでしょうか。多くの場合、私たちは回復を願うのではないでしょうか。つまり、私たちは苦しみに遭う前の私たちの状態に戻されることを願っています。それは自然な私たちの祈りであり、願いです。実際に、神様は私たちに回復を与えてくださいますから、そういう祈りで良いのです。しかし、ペンテコステの出来事を今一度思い起こしてみると、イエスの弟子たちはイエスが天にお帰りになるその瞬間まで「イスラエルの回復」、つまりイスラエルがローマ帝国の圧政を跳ね返して国としての姿を回復することをどこかで願っていて、イエスがすぐにでも地上に戻ってこられてその仕事を完成してくださることを期待していました。ところが、ペンテコステの日に弟子たちは聖霊を受けました。言い換えるならば、イエスが一人一人の心に住まれるようになったのですが、そのときに聖霊(御霊)はどう働いたかというと、目に見えるかたちで国を復興するために弟子たちは働いたのではなく、神の国の雛形としての教会を建てあげる働きをしたのです。弟子たちはある意味で「回復」を祈ったのですが、与えられた恵みは弟子たちの願いをはるかに超えた「神の国」のビジョンであったのです。
 そのように、御霊は私たちに「回復」を超えた恵みの答えを下さるとパウロは言うのです。私たちはそれを目で見、からだで感じる幸いを得ているのです。病や障害を持って生きる苦悩、また、さまざまな差別の中を生きていく苦悩、どれも「取り去ってください」と祈るのですが、神様は私たちに回復を超えた恵みの回答をすでに用意しておられるかも知れないのです。
 以前にもお話ししたことがあるかも知れませんが、私は初対面の赤ん坊を泣かせる「特技?」があります。何も自慢になることではありませんが、きっと幼い子供には私の姿形は衝撃が大きいのでしょう。けれども確かに言えることは、そこで泣かせてしまった子は、私に出会っているのです。それは、特に具体的な実りをもたらすような出会いではないかも知れませんが、それでも、確かに出会っています。神様は、出来れば隠れていたいような容姿を持っている私に、多くの人と出会わなければならない伝道者としての働きを託されています。私が、確かに「いる」ことを証しせよと言われる神様の声を聞いて、この働きに就かせていただいているのです。その働きは十分なものではありませんが、この働きが与えられていることを感謝しています。26節でパウロは「御霊もまた同じように、弱いわたしを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである」と言っています。私たちは、人生の中で何度「どう祈ったらよいか分からない」という経験をしていることでしょうか。教団讃美歌に「わが主イェスよ、ひたすら」と歌い出す讃美歌があります。この讃美歌をしばらく歌うと次の歌詞に出会います、「来たれ来たれ、苦しみ…」。私はこういう信仰を告白できる詩人がうらやましく思える反面、やはり私たちは先ほどご一緒に祈った「主の祈り」にあったように「われらを試みに遭わせず、悪より救い出したまえ」と祈らざるを得ない弱さを背負って生きているのではないかと思うのです。否、そういう私であるからこそ「うめき」をもって主の助けを祈るのであり、御霊ご自身もうめきつつ私に答えを準備してくださるのだと思うのです。
 私たちが謙遜に主の前に立つときに、主は私たちと同じところに立って私たちのためにとりなしてくださるのです。この週も、私たちの心の中に住んでくださるイエスを覚えて、日々祈りつつ歩んでまいりましょう。

 

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       「クリスチャン・スチュワードシップ」  6月25日   兼行一弘兄
                                 コリント人への第一の手紙 6章19〜20節

 

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