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福間教会 礼拝説教《1999年4月》

    4月4日    「キリスト教は復活信仰である」  コリント人への第一の手紙2章1〜5節  野口 直樹牧師

    4月11日  「伝えずにはおられない」  テサロニケ人への第一の手紙3章1〜13節  内田 章二牧師

    4月18日   「本物が残る」       コリント人への第一の手紙3章10〜15節   野口 直樹牧師

    4月25日   「成長させて下さる神」   コリント人への第一の手紙3章1〜9節   野口 直樹牧師


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  4月4日 「キリスト教は復活信仰である」  コリント人への第一の手紙2章1〜5節  野口 直樹牧師

 イ−スターおめでとうございます。イースターとはイエス・キリストの復活日のことを言います。イースト(東)とも関連があって、「あけぼのの女神」の名から来ているのではないかと言われているそうです。ギリシャではパスカと言っているそうです。過越祭のことです。死を打ち破り、永遠の命を私たちに与えてくださった、その喜びを東の空から朝日が昇って来るさまにたとえているのでしょう。また、昔イスラエルの民がエジプトの奴隷の束縛から脱出を始めた時、神さまはあわれみをもって命を保証してくださった、あの過越しの恵みを思って、主の命に生かされている喜びと希望を表明しているのでしょう。
 クリスマスでは「メリー・クリスマス」と言い、イースターは「ハッピー・イースター」ですね。どんなふうに違うのでしょうか。「メリー」には「陽気な、浮かれた」感じが強いようです。「ハッピー」は「嬉しい、幸福な」という意味を伴って、より内容が深いように感じます。「おめでとう」は「愛ず(メズ)」から来た言葉だそうで、イースターに、「おめでとう」を言い合う時、神さまの救いのみわざに感謝して、互いに心から愛し合い、お祝いする気持ちを表わそうとしていると思います。いずれにしても、主のご復活の記念のこの良き日に心から、「イースターおめでとうございます。」と喜びを分かち合いたいものです。
 「わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと」(3〜4節)と聖書は言っています。 キリスト教は復活信仰です。先週私はキリスト教は十字架教であると申しました。この二つは表裏一体をなすものです。十字架のない復活信仰はどうなるでしょうか。「おめでとうございます。イエスさまはよみがえられて、あなたに永遠の命を与えてくださいました。喜びましょう。」と言われたとします。私は、「ちょっと待ってください。このままで永遠に生きなければならないのですか。」と言いたくなります。私は罪深い自分に日々苦しんでいます。これが永遠に続くとすれば、おめでとうどころではありません。私は日々人々に迷惑をかけ続けています。人々は私が永遠に生きてずっと迷惑をかけられ続けることになったと聞いて、ため息をつくのではないでしょうか。
 神の子イエス・キリストの死は私のためです、全世界のためでもあります。私は死んでよみがえったのです。全く新しい命に生れ変わったのです。全世界も死ぬのです。そして新天新地として生れ変わるのです。これが復活日です。イースターです。
 「さて、キリストは死人の中からよみがえったのだと宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死人の復活などはないと言っているのは、どうしたことか。もし死人の復活がないならばキリストもよみがえらなかったであろう。」(12〜13節) 死人がよみがえるなどということが本当に起こったのであろうか、という疑問を持つ人もいます。私は、「よみがえりを人間の思いの枠に閉じ込めてはならない。それは命を死に封じ込めることである。」と示されました。よみがえりの主は墓の中に留まることができなかったのです。復活の事実は人間の思想という小さな棺おけには閉じ込められないのです。
 復活の事実は多くの証人によって証しされています。「ケパに現れ、次に、十二人に現れたことである。そののち、五百人以上の兄弟たちに、同時に現れた。その中にはすでに眠った者たちもいるが大多数はいまなお生存している。そののち、ヤコブに現れ、次に、すべての使徒たちに現れ、そして最後に、いわば、月足らずに生れたようなわたしにも、現れたのである。」(5〜8節) これだけの証人がそろえばキリストの復活は最早打ち消しがたい事実です。しかしここで注目したいことは、復活の主はいろいろな現れ方をされたということです。おじ恐れている弟子たちには、「平安の主」として現れなさいました。疑うトマスには、「信ぜよ」と言われ、裏切ったペテロには、「私を愛するか」と問われるお方として、現われなさいました。
 パウロに現れたのは昇天後のイエスさまです。そして、反抗者サウロからしもべパウロに生れ変わったのです。復活の主のその不思議な力は弟子達に現われなさった復活の主と少しも変わりませんでした。パウロに現れなさった主はまた、私たちにも臨まれるのです。私にとっての復活の主はどんなお方かと考えました。それは、「繰り返し訪れてくださる来訪者イエス」と告白します。主は私に失敗の度に、傲慢になる度に訪れてくださいます。
 「趣味は説教、ストレス解消は訪問。私には休みはいらない。」などとうそぶいておりましたが、先ごろ、「しんどいな。」と思う時がありました。そんな私によみがえりの主が訪れてくださいました。いつの間にか元気になりました。
 「信仰があれば風邪を引かない。」と言っていた私に風邪をもって訪れられました。風邪は直ぐなおりました。それで、「信仰があれば、風邪を引いてもなおりが早い。」といいました。先日、内田副牧師が電子メールで、「信仰がないので風邪を引きました。」と言って来たので、「いやいや、誰でも引くときには引きます。しかし、私は週の初めに引きます。週末には直っているのです。これがプロというものです。」と返事を出しました。ところが私は一昨日から風邪を引いてしまいました。イースターの大切な時、私の体調は万全ではありません。
 こんな愚か者、傲慢な者をイエスさまはお見捨てにならず、繰り返し繰り返し訪れてくださったのです。そして私のそばに立ってくださるのです。ある時は慰め主として、ある時は諭し主として。だから今日まで歩んで来ることができたのです。あなたに訪れてくださる復活の主はどのようなお方ですか。一人一人に訪れてくださる復活の主はあなたと等身大の主です。いつもあなたに寄り添ってくださるお方です。
「兄弟たちよ。 ここで、あなたがたに奥義を告げよう。わたしたちは終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。その時、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになる。その時、聖書に書いてある言葉が成就するのである。『死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか』。だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである。」(50〜58節) 私たちはこの希望に生きています。生きて行きましょう。

 

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    4月11日 「伝えずにはおられない」  テサロニケ人への第一の手紙3章1〜13節   内田 章二牧師

 今朝はテサロニケ人への手紙3章を紐解きながら、再び聖書のメッセージに耳を傾けたいと思います。ところでお読みいただいた聖書の箇所は、章で区切られた最初の部分から読んだにもかかわらず話の流れとしては中途半端な感じを受けます。もし私たちが前後の話の筋道を考えて読むならば、2章17節から読み始める必要があります。それはともかくとして、パウロはテサロニケ教会の信徒たちのことが非常に気にかかっていたのです。それは、パウロがまだまだ信仰的に若い群れであったテサロニケ教会に十分な指導をする間もなく、激しい迫害に遭ってテサロニケを去らなければならなかったからなのです。パウロは自分が去ったあと、教会は迫害の嵐に巻き込まれているのではないかと心配したのですが、彼の予想は良いほうに裏切られて、信徒たちが立派に信仰生活を守っているという報告をテモテから受けました。そしてパウロはこの吉報にたいそう喜んだということが6節のパウロの言葉からはっきりと読み取ることが出来ます。
 テサロニケ教会の人たちはパウロが去ったあとも信仰を守り続けていました。パウロが心配したとおり、教会には迫害の嵐が吹き荒れていたかもしれません。けれども、教会の人たちは苦闘しながら信仰の歩みを続けていたのです。少し聖書の箇所が前後しますが、3節のパウロの言葉に注目しましょう。「このような患難の中にあって、動揺する者がひとりもないように励ますためであった。あなたがたの知っているとおり、わたしたちは患難に会うように定められているのである」。このパウロの言葉は大胆です。私たちの人生には必ずと言って良いほど苦難のときがあるものです。それは多くの人が実際に経験し、心のどこかで「仕方がない」と諦めていることかもしれません。ところがパウロは教会に集っている信徒の人たちに対して「わたしたちは患難に会うように定められている」と言うのです。
 おおよそ宗教と名のつくものは、拝む対象となる神様を信仰することによって苦難から救い出され、順風満帆の人生が約束されるのだ、と多くの人は信じています。けれども、聖書は「信じれば苦難に遭わない」と私たちに約束していません。詩篇119篇72節で詩人は「苦しみに遭ったことは私に良いことです。それによってあなたのおきてを学ぶことが出来ました」と告白しています。また、ヨハネによる福音書16章33節のイエス様のことばは、キリスト教信仰についてひとことで言い表しています、「これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。
 パウロは、患難、苦難という言葉をよく使います。彼が書いた手紙の中で何と27回もこの言葉を使っているのです。まるで苦難という言葉はパウロのトレードマークのように用いられると言っても過言ではありません。パウロに限らず、苦難とか患難というものは私たちの人生に必ずあるものだ、ということは冷厳な事実として受け止めなければならないようです。それなら、なぜ私たちはキリスト教を信じ、宣べ伝えているのでしょうか。
 パウロの手紙を読んでいつも気付かされることは、彼が苦難の意味について深く考えた人だったということです。私たちは苦難の中にあってもなおこの苦難を自分の力で切り抜けようとするものです。しかし、パウロは違っています。彼は人間の力の限界を知ったときに初めて神様の働きを見ることが出来るということを知っていましたし、常にそのことを思い起こすように人々にも勧めていました。故・榎本保郎師はその著書「新約聖書一日一章」の中で「自分の世界が完全に終わったところから神様の世界が始まる」と書いています。私たちは先日イースターを祝いましたが、復活という出来事も、イエス様が十字架上で「私の霊を御手に委ねます」と言って息をい引き取られたときからスタートしたことを今一度確認したいと思います。苦難の意味を問い続けることは、パウロにとって生涯の課題でした。苦難の中で確かに共にいて下さる方に委ねることを知ったときに、私たちはその方に期待することが出来るのです。苦難が過ぎ去ったら、もうどこに行ったかわからないような神様ではなくて、私たちが御国に凱旋するときまで伴ってくださるという確信があるから、私たちはこの福音を伝えたい、否、伝えずにはおられないのです。
 もう一つのこととして、今朝のテキストの終わりに述べられているパウロの言葉に注目しましょう。「そして、どうか、わたしたちの主イエスが、そのすべての聖なる者と共にこられる時、神のみまえに、あなたがたの心を強め、清く、責められるところのない者にして下さるように」。パウロとテサロニケ教会の人たちは「再臨を待望すること」において一つに結ばれていました。
 パウロは若い頃、自分が亡くなるまでには再臨があると考えていたと思われます。それは、パウロの古い手紙により多く再臨についての言及が見られるからです。第二ペテロ3章9節では再臨が遅れていることに対する説明がなされています。「ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである」。今や、私たちはパウロの若い頃のような再臨信仰を持ち得ない現実の中に生かされているかもしれません。しかし、私たちは私たちの聖書の読み方で再臨を待つべきである。救いに預かっている私たちにとって、再臨の日は喜びの日。落ち着いた気持ちでこの日を待つ信仰が求められているのです。「再臨が近い」と叫ぶ人がいます。けれども、そう叫ぶ人の心には「まだそういう日が来ては困る」という焦りがあるのではないでしょうか。そうではなく、喜びの日である再臨を迎える私たちの態度は「いつでもいらっしゃい」であるべきですし、それは私たち一人一人に約束されたすばらしい時です。そして、この約束があるから、私たちは「伝えずにはおられない」のです。
 私は、たまに車椅子でスーパーに出かけることがあります。先日、たまたまバーゲンセールに出くわしました。私は車椅子ですから、さすがに少し気が引けてそのバーゲンセールの客の一人となることはできませんでした。ただ、遠巻きにその光景を見ていただけなのですが、掘り出し物を目指して行く人々のパワーを見たときに、私は一つのことに気づかされました。人々はどんなものがあるかわからないけれども、確かにある掘り出し物を目指して駆け集まっているのです。私たちも、言葉で言い表すことはできないけれども確かにある希望に向かって歩を進めているのです。
 この朝、私たちはテサロニケ教会の人たちとパウロの暖かい関係の中で綴られた手紙から、メッセージを聞きました。この箇所から、私は結論として「伝道はその人の生き様を伝える」ことであり、決して「伝えなければならない」のではなく、「伝えずにはおられない」ものなのだ、ということをお知らせしたかったのです。みなさんがどんな状況の中にあっても、このことだけは伝えずにはおられないと少しでも感じていただけたら幸いです。

 

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    4月18日  「本物が残る」    コリント人への第一の手紙3章10〜15節    野口 直樹牧師

 本物は価値あるものです。最後に残るものは本物です。「だれかが金、銀、宝石、木、草、またはわらを用いて建てるならば、それぞれの仕事は、はっきりとわかってくる(「真価をためす」《新改訳》)。すなわち、かの日は火の中に現れて、それを明らかにし、またその火は、それぞれの仕事がどんなものであるかを、ためすであろう。もしある人の建てた仕事がそのまま残れば、その人は報酬を受ける(報いを受けます<新改訳」>)が、その仕事が焼けてしまえば、損失を被るであろう。」(3章12〜15節)
 神さまは私たちに本物を求めておられるということです。そして、神さまは本物です。信仰生活は神さまに問われる歩みです。だからごまかしの生活はやがて焼け落ちてしまうのです。
 私たちは既に本物に出会っています。「神から賜わった恵みによって、わたしは熟練した(新改訳「賢い」)建築師のように、土台をすえた。そして他の人がその上に家を建てるのである。しかし、どういうふうに建てるか、それぞれ気をつけるがよい。なぜなら、すでにすえられている土台以外のものをすえることは、だれにもできない。そして、この土台はイエス・キリストである。」(10〜11節)
 私がキリスト教に入った大きな理由の一つは、今まで教えられてきた神さまに疑問を持ったからです。戦争中は、「日本の神さまは必ず日本に勝利を与えてくれる。最後には神風が吹いて敵を全滅してくれる。文永、弘安の役の2度にわたって、神風が吹き、元軍は壊滅した。」と教えられていた。しかし、神風は吹かず、爆弾の雨が降り、原子爆弾を落されて、日本は息の根を止められたのです。そもそも、そういう勝手な信心の神さまが本物であるはずがありません。本当の神さまならば、そのような勝手な考えを戒められるはずです。そして、そのようになりました。日本が滅びたのは本当の神さまが働いたからです。このことを教訓として平和のために目を覚まして、行動しなければなりません。聖書に、「イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない。」(ヘブル書13章8節)とあります。私たちは人生の土台にこのお方を持っているのです。土台の大切さは今さら言うまでもありません。
 佐賀教会はお屋敷跡を買ったものだそうです。家の跡に大きな土台石が据えてあったそうで、さすが、立派な建築は土台がしっかりしていると皆さんが感心したそうです。ところが亡くなられた郡牧師が、ある人の家が傾いて建てかえることになり、行って見ると、とてもお粗末な土台だったそうです。「どだい、なってないよ。」と言って笑わせておられました。
 子どもを育てることも同じことが言えます。保護者、教師の役目は、土台を据えることであると言ってよいでしょう。からだの土台、知識の土台は生涯ついて廻るようです。では、人生そのものの土台はもっともっと真剣に考えるべき事柄ではないでしょうか。先を急ぐ必要はありません。子どもにはしっかりした体力と、柔軟に物事を考える力を養ってあげたいものです。私たちとても同じことです。そしてすべての土台はイエス・キリストです。あとはすべてがついて来るのです。
 イエス・キリストは、テ命の支えです。死ぬべき命を清め、生かしてくださった。イエスさまは十字架の死によって罪のこの身を贖い、永遠の命を与え生かしてくださっているのです。 ト人生の目当てをはっきりと示してくださいました。神さまを見上げて歩む、神さまの栄光を表すことを願って努力する、これが私たちの生きる意義なのです。 ナ生き方を教えてくださいました。 どんな立場に置かれようと、何をするにしても、「神さまの愛を明かにすること」を念頭において努めれば間違いはないのです。
 人生は本物探しの歩みです。「だれかが金、銀、宝石、木、草、または、わらを用いて建てるならば、それぞれの仕事は、はっきりとわかってくる」。(12〜13節) 本物に代わるものが沢山出て来ています。代用品とか、偽物とか言って拒否すべきものではないでしょう。現に、私たちは多くの新製品のお世話になっているのですから。
 通信や印刷の手段を考えても随分と変わった来ましたし、変わって行くでしょう。昔は手紙でやり取りしていました。それが電話に代わりました。それにファックス、パソコン通信などが入って来ています。コンピューターというと拒否反応を示す人は少なくありません。「あれは本物ではない。」と批判されています。けれども電話でことを済ませている今の人を昔の人が見て、「顔も見えない、形も残らない、声だけで事を済まそうなんて。」と批判するに違いありません。みんな新しい物のお蔭をこうむっているのです。更に新しい物が出て来ると、拒否反応を起こして、「あれは本物ではない。」と言うのです。確かに本物は古い物の中にあります。しかし古い物にしがみついていることが必ずしも本物を守っているということにはなりません。本物探しは後ろ向きではなく、本物はいつも前にあるのです。通信の手段は変わって来ています。しかし、コンンピューターも電話も手紙さえも本物ではないのです。本当にわかってもらおうと思えば、本人に会い、じかに話すことが一番です。いや、会わなくても、手紙を出さなくても、電話で声を聞かなくても、電子メールが来なくても、心は通じ合っているというのが通信の本質でしょう。だから「祈り」こそが本物の通信だと言えます。このようにして私たちは本物探しの旅を続けているのだということができます。
 本物は前に進んでこそ見出すことが出来るのです。教会を考えてもそうです。代用できるものは、どんどん代用品で済ませてしまうのです。どうしても代用できないものが本物です。教会にしか無いものを確かめながら、明かにして行くところに教会の存在意義があるのです。
 最後に残るものは、命そのものです。「かの日は火の中に現れて、それを明らかにし、またその火は、それぞれの仕事がどんなものであるかを、ためすであろう。もしある人の建てた仕事がそのまま残れば、その人は報酬を受ける(「報いを受けます」<新改訳>)が、その仕事が焼けてしまえば、損失を被るであろう。しかし彼自身は、火の中をくぐってきた者のようにではあるが、救われるであろう」。(13〜15節) 金や銀でさえ最後には焼け落ちてしまいます。人間のわざは皆、消え去るべきものです。しかし私たちは、「火の中をくぐってきた者のようにではあるが、救われるであろう」との約束を持っているのです。
 本物は残ります。この世には本物は一つもありません。人間の行うもので永遠に残るものは一つもありません。すべてのものはやがては焼け落ちてしまうものです。神さまは永遠です。神さまが与えてくださる命が残るのです。この信仰の望みが本物なのです。本物探しの旅は続きます。しかし、私たちは空しい旅を続けているのではありません。既にイエス・キリストという本物に出会っているからです。この本物の命をどのようにしてら具体的に表すことができるだろうかという工夫の旅が人生であると言う事ができます。
 本物の本物であるイエス・キリストを私たちの人生の土台として迎えましょう。本物が少しでも明かになるように、工夫努力の毎日を送りましょう。

 

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    4月25日  「成長させて下さる神」  コリント人への第一の手紙3章1〜9節   野口 直樹牧師

 今日の礼拝は、故宮山 信姉召天を覚えて捧げる召天記念礼拝です。宮山 信姉はこの教会のチャーターメンバーです。発足の時から熱心に奉仕された、功労者です。編物、お料理が上手で、いつもにこやかにしておられ、クリスマスには必ずポインセチアを供えてくださっていたそうです。
 今日は第15回教会総会(宣教開始15年)の日でもあります。私はその3分の1の歴史しか知らないのですが、いつも心に留めていることは、多くの先輩によって今日があるというのとを忘れないようということです。そのことを心に留めて今日の聖書の個所を学んで参りましょう。
 第一は、すべては神さまのお力であるというのとです。「わたしは植え、アポロは水をそそいだ。しかし成長させて下さるのは、神である。だから、植える者も水をそそぐ者も、ともに取るに足りない。大事なのは、成長させて下さる神のみである。」(3章6〜7節)とあります。まことに神さまの力は偉大です。
 家でめだかを飼っていますがあの小さな体にすべてのものが備わっていて、上手に泳いでいるのを見て今更ながらに感心していました。すると、蟻がやって来ました。めだかにも劣らぬ小さなからだで上手に歩いているではありませんか。本当に驚くべき事です。花の美しい季節になりましたが、誰がこんなにバライティにとんだ作品を生み出すことができるでしょうか。
 私たちは多くの偉大な先輩たちのお働きを通して神さまをほめたたえるのです。「それぞれ、主から与えられた分に応じて仕えているのである。」(5節)とありますが、パウロはここで、人のどんな偉大な働きでも神さまの働きの一部分を担わせていただいているに過ぎないのだと言っているのです。私たちは先輩に感謝する心が起これば起こるほど、神さまをほめたたえずにはおられなくなるのです。宮山家では、信さんのことを思い起こせば起こすほど、彼女が愛して止まなかったイエスさまに近づいて行かれるようにとお勧めいたします。
 大切なことは問題が無いということではなく、問題にどう取り組むかということだと教えられています。コリントの教会では、人間崇拝があったというのです。教会に関わったリーダーを慕うあまりに、派閥ができてしまったのです。教会ともあろう所が分派争いをするなんて、と言う人があるかも知れません。けれども、私たちはここからいろいろな教訓を得るのです。
 テ聖書は決してきれい事ばかりを書いていないということです。物事を直視して、逃げないということを学びます。ト皆、同じ弱さを持っているということを自覚しなければなりません。この教会も例外ではないのです。この教会には今、派閥争いがあるでしょうか。いやそんなものはありません。しかし、その危険性は持っています。人につく派閥、思想や行動につく派閥、好みでわける派閥等々多くの傾向は誰でも持っているのです。ナではどうすれば良いのでしょうか。ここを良く読んでみると、分派行動はけしからん、そのようなことがあってはならないと建前を言っているのではないことがわかります。もっと根本のことを言っているのです。一言で言うと、「成長しなさい」ということです。
 今日の聖句から示されることは、「兄弟たちよ。わたしはあなたがたには、霊の人に対するように話すことができず、むしろ、肉に属する者、キリストにある幼な子に話すように話した。あなたがたに乳を飲ませて、堅い食物は与えなかった。食べる力が、まだあなたがたになかったからである。今になってもその力がない。あなたがたはまだ、肉の人だからである。あなたがたの間に、ねたみや争いがあるのは、あなたがたが肉の人であって、普通の人間のように歩いているためではないか。」
(1〜3節)と言っています。「肉に属する者」、「普通の人間」、「乳しか飲めない幼な子」とありますがこれらは「キリストにある」とある通り、クリスチャンを指しています。クリスチャンも、教会も普通の人であり、人間の集まりです。しかし、教会の目指すことは、「霊の人」、「霊の集まり」です。そのポイントは何かと言えば、「成長」です。
 成長する教会とはどんなところでしょうか。問題と率直に向き合うことです。そこに成長の機会が訪れるのです。問題があることが問題ではありません。問題とどう取り組むかということが問題なのです。ある人々がパウロを慕うのは当たり前のことです。また、ある人々はアポロに引かれるのも当然のことです。
 私の信仰を導いてくださったのは尾崎主一先生です。私がはじめて牧師になった下関教会の前任者は尾崎先生です。みんな尾崎先生を慕っていました。何かあると、「尾崎先生に聞いて来よう。」と言って福岡まで出向く人が多くいました。それは問題だ、と言う人もいましたが、私には何の抵抗もありませんでした。私自身が尾崎先生を尊敬していたからです。尾崎先生の対応が良かったこともあって、分派問題などは決しておこりませんでした。
 この福間教会は極めてオープンです。これから、もっとそうなりたいと思います。「今度はどこそこの教会に出てきます。だれそれ先生の話しを聞いてきます。」という会話が自由に話されていると思います。何の問題もありません。問題の種を播く危険性があるからと言って、生涯に一度の出会いかも知れない大切な機会を失ってしまう事があればもったいないことです。一生続くべき麗わしい交わりを、立ち切ってしまうことは神さまが喜ばれる道とは思えません。問題はそこにはないのです。問題はそこからどのように成長するかです。人を尊敬するあまり、絶対視してしまうとか、他を排除してしまうとかいうことになれば、それが問題ということになります。そのことを足場として、神さまを見上げ、神さまを賛美する霊の道に成長させていただくことが大切です。
「アポロは、いったい、何者か。また、パウロは何者か。あなたがたを信仰に導いた人にすぎない。しかもそれぞれ、主から与えられた分に応じて仕えているのである。わたしは植え、アポロは水をそそいだ。しかし成長させて下さるのは、神である。だから、植える者も水をそそぐ者も、ともに取るに足りない。」(5〜7節)このようなダイナミックな人間関係の中で神さまを崇めて行く、それが教会です。このことを目指して歩んで行きましょう。
 今まで、教会の問題として考えて来たことは、すべて個人の日常生活にも当てはまることです。
テ課題を避けてはなりません。それと取り組む時、真の成長があるということを忘れないようにしましょう。ト自分だけは違うと思ってはいけません。皆おなじ弱さ、愚かさを持っているのです。この罪深い私をイエス・キリストは十字架と復活とによって、霊の成長の原点に立たせて下さいました。そのことを認め、先ず、イエスさまを心に迎えましょう。ナ教会も個人も、霊的な成長を願いましょう。霊的な成長とは考えに広がりが出て来るということです。
 今日から始まる一週間、一ヶ月、一年、神さまは私たちにどんな広がりを与えてくださるか、期待しつつ進んで行きましょう。

 


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