福間教会 礼拝説教《1998年11月》                       福間教会ホームページへ


11月8日  「ノアー第二のアダム」     創世記 第6章11〜22節      片山 寛牧師

11月15日  「この世でどう生きたら良いか」 ローマ人への手紙13章1〜7節   野口直樹牧師

11月22日  「悪霊の高笑い」      マタイによる福音書 17章14〜21節   内田章二牧師

11月29日  「愛が世界を覆うまで」(世界祈祷週間礼拝)  ローマ人への手紙 13章8〜14節   野口直樹牧師


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    「ノアー第二のアダム」  11月8日  片山 寛牧師
                       創世記 第6章11〜22節

 主にある兄弟姉妹の皆さん、私たちのすべてが経験するわけではないのですが、この私たちの世界には、今までに何度か言わば人類存亡の危機というべき瞬間があったと思うのです。核戦争とか、大虐殺とか、あるいはもっと精神的な意味でも、ひとつ間違うと人間がもはや人間でなくなってしまうような、そういう時が何度もあったと思うのです。しかしそのような時に、いわば人類を代表して、神様の前に証を立てた人々がおります。その人々のおかげで、私たちは今でも人間でありつづけている、そのような人がいます。アブラハムやヤコブはそういう人でした。モーセやダビデ王もそうでしょう。今世紀でも、ディートリッヒ・ボンヘッファーやキング牧師はそういう人であったかもしれません。イエス・キリストもそのような不思議な人々の一人だと言ってよいのです。
 創世記の第6章から9章までは、ノアという不思議な人物について物語っております。ノアはどんな顔をしていたのか、それはわかりません。どんな声をしていたのか、そしてどんな信仰を持っていたのか、それは一切わからないのです。けれども、このノアは、世界で最初に人類を救った人であります。ノアのおかげで、私たちは今この地上にいるのだと言ってよいのであります。ノアは言わば、第二のアダムと言ってもよい人でありました。
 ノアの方舟の物語は、非常に有名ですので、皆さんおそらくご存じのことだと思いますが、ここでちょっと、この玩具を使ってご紹介いたしましょう。わが家の三人の子どもたちは、このお話を聞きながら育ったのでありますが、皆様も、しばらく教会学校に戻ったおつもりでご覧ください。
 @昔々、ノアという人がいました。ある日神様がノアに言われました。「あなたは糸杉の木で方舟を作りなさい」。ノアは子どもたちと一緒に方舟を作りました。A方舟ができると、ノアは動物たちを呼びました。さあみんなおいで、私と一緒に方舟に乗りましょう。動物たちは世界じゅうからやってきて、方舟に乗りました。Bみんなが方舟に乗ると、雨が降り始めました。大洪水になって、地上は何もかも水の底に沈んでしまいました。方舟は木の葉のように揺れました。C外は雨でしたが、方舟の中ではみんな仲良く暮らしていました。干し草も食べ物もたっぷりありました。D雨が止んだので、ノアは鳩を方舟の窓から飛ばしてみました。夕方になって、鳩は一本のオリーブの枝をくわえて帰ってきました。ああ、どこかにもう陸地があるんだ。E方舟はアララテの山の頂上に着きました。水は乾いて、豊かな大地が現れました。空には美しい虹がかかりました。
 ノアという人を見て、私たちはつくづく不思議な人だなあ、と思うのです。そもそもノアという名前は、「慰め」あるいは「安らぎ」という言葉から来ているようなのです(五・二九)。そしてその安らぎのイメージは、嵐の去った後に空に浮かぶ虹のイメージと重なっております。
 ノアという人の不思議さは、なかなか言葉にすることができません。なぜこういう人が人類の中にいたのか、こんな人がどうしてありえたのか。しかしこの不思議な人のおかげで、私たちは救われたのであります。ノアの不思議さというのを、私はここで三つ挙げたいと思います。
 先ず第一に、私たちはなぜ彼が神様に選ばれたのか、わからないのです。もちろん、彼は「その時代の人々の中で正しく、かつ全き人であった」と聖書に書かれておりますので、正しい信仰を持った人だったことはわかります。けれども、神様がなぜノアを選ばれたのかは、聖書には何も書いてありません。後々の経緯を見ますと、ノアだけが格別立派な人だったというわけではないような感じもいたします。彼は、お酒を飲んで酔っぱらって、裸で寝てしまうというような、ちょっとだらしないところもあった人でした。ノアは農夫だった、とも書かれております(九・二十)。ノアはお百姓でした。学問があったとか、人々から尊敬されたとか、そういうわけでもないでしょう。
 今日読まれました六章十一節は、「時に世は神の前に乱れて、暴虐が地に満ちた」と語っております。「神が地を見られると、それは乱れていた。すべての人が地の上でその道を乱していた。すべての人が地の上でその道を乱したからである」と書いてあります。「すべての人が道を乱した」というのです。ここには、ノアは例外であったとか、ノア以外の人だけが道を乱した、などとは言われておりません。
 ひとつの時代が本当に乱れるとき、そこには何か例外のようなものはないのかもしれません。もちろん中にはがんばって、その時代の風潮に染まらないように生きる人々もいたでしょう。けれども、そういう人でも、その時代の罪は免れないように思われるのです。むしろ、その人こそがその時代の罪を自分の身に引き受けて、本当に苦しむものだと思うのです。自分だけは例外で、自分は時代を飛び越えて清い生活をしている、ノアがもしそんなふうに考える人であったなら、神様はノアを選ばれなかったかもしれません。
 マルチン・ニーメラーという牧師がいます。この人は最初軍人で、第一次世界大戦の折りには潜水艦の艦長として活躍した人なのですが、後に牧師になりまして、ベルリンのダーレム教会で牧師をしておりました。非常に勇敢な人で、ヒトラーのナチスが1932年にドイツを支配してからは、教会の講壇から公然とヒトラーを批判していました。1934年に牧師たちを代表してヒトラーに謁見した時には、ヒトラーの面前であなたは間違っていると語ってヒトラーを激怒させています。1937年に秘密警察ゲシュタポに逮捕されて、1938年に強制収容所に送られ、終戦の1945年まで、ミュンヘンの少し北の、ダハウの収容所に入っていました。
 このニーメラー牧師が九死に一生を得て、収容所から帰って来るのです。そして彼は戦後、ヒトラーに勇敢に抵抗しつづけた英雄的な牧師として、人々から尊敬を集め、戦後のドイツの教会を指導しました。戦後十年ほどたった時、彼は奥さんと一緒に自分が入れられていたダハウの強制収容所に行くのです。収容所の跡は、私も行ったことがございますが、戦争を記念する博物館になっています。そしてニーメラー牧師は、その博物館に入ったところにあった最初のパネルを見て、大きな衝撃を受けます。そこにはこう書かれていました。「この収容所は一九三三年に建設され、一九四五年まで一二年間に二万七千人余りの人々がここで死んだ」と。ニーメラーが衝撃を受けたのは、二万七千人という死者の数ではありませんでした。そういうことは彼は実際に体験したので知っていました。そうではなく、彼が衝撃を受けたのは、一九三三年という年号であったのです。
 ニーメラーは次のようなことを語っています。自分はあの時代に多くの仲間たちと共に収容所の苦しみを経験したと考えていました。そのことに少しばかり誇りを感じてもいました。しかし自分が経験したのは一九三八年から後でした。一九三三年から三八年までの五年間、私の知らないところで苦しんだ人々がいたのです。その事実が私を打ちのめしました。あなたはその時どこにいたのか。そのパネルは私にそう語りかけていました。
 ノアという人は、何かそのように、時代を自分の身に背負った人かもしれないと私は思います。特別品行方正とか、そういうわけで神様から選ばれたのではない。ただ彼はその時代を背負った。そこに神様の選びがあったのではないか、私にはそのように思えるのであります。
 私たちもまた、ある意味で神様から選ばれて、クリスチャンとなり、教会に集う者になったのでありますが、例えば私自身、自分自身のことを振り返ってみて、まあ何か特別立派な人間であるとか、神様に選んでいただくような理由があったとも思えません。神様の選びが先立っている。ノアの場合もそうでした。神様がノアを選ばれた。そうとしか言えない部分が、この物語にはあります。それが第一の不思議さであります。
 二つ目の不思議さは、ノアはどうしてあんなにも素直に神様に従うことができたのか、ということです。ある日、神様から声があるのです。「私はすべての人を絶やそうと決心した。彼らは地を暴虐で満たしたから、私は彼らを地と共に滅ぼそう」。一体ノアはこの神様の声をどう考えたのか、聖書には何も書いてありません。地上をすべて滅ぼそう、人間を皆殺しにしよう。そんなことを言う神様があるでしょうか。もしそんな神がおられるなら、それは神というよりも悪魔だと考える方が正しいのではないでしょうか。
 けれどもノアは一言も語らず神様の命令に従います。ノアの作った方舟は、長さ300キュピト、幅50キュピト、高さ30キュピトと書いてあります。今日のメートル法に直すと、それはおよそ135m、23m、14mにあたります。それはもちろん福岡ドームほどではありませんけれども、古代という時代を考えるならば、それに匹敵するような、あるいはそれよりももっと偉大な大建造物だったはずです。そんな無茶な、神様そりゃあ私には無理です、申し訳ございません。そう言って断って当然ではないでしょうか。けれどもノアは一言も語らず、神様に従うのです。「ノアはすべて神の命じられたようにした」。聖書の語っているのは、ただそれだけです。ノアはなぜそんなに従順に神様に従うことができたのでしょうか。それはわかりません。私たちはさきほどと同じく、結局は、ノアは不思議な人だったというしかない。けれども私は、こういうことを考えるのです。
 ノアの方舟と似たようなものは、今日の世界には沢山作られているのではないでしょうか。核戦争がいつ起こるかわからないというので、大きいものから小さいものまで、数多くの核シェルターが作られました。ワシントンのホワイトハウスの地下深くにもそのようなシェルターがあると聞きます。最近、北朝鮮のノドン・ミサイルですか、これが日本を飛び越して太平洋に落下したというので、日本でも核シェルターが必要になったという人もおられます。
 核シェルターだけではありません。将来にやって来るかもしれない危機を予想して、それに対する対抗策を考えよう、生き延びる道を用意しておこうというのは多くの人々が考えることであります。今の内に郊外に一戸建てを立てておこう。銀行にお金を預けておこう。生命保険にも入っておこう。神戸の震災後は地震保険も必要かもしれない。そういう意味では、銀行や保険会社の巨大な建物は、ある意味で現代の方舟のようなものであります。いやいや、最近では銀行も頼りにならないというので、自宅に丈夫な金庫を作って、ダイヤモンドとか金ののべ棒を入れておこうとか、そんな人々もいます。将来への不安があるときには、私たちは方舟のようなものを作ろうとするのであります。
 けれども、そのように方舟づくりに熱中する現代人の誰もノアのいることには気づかないのです。ノアという人がいて、この人は私たちとは全く違う仕方で方舟を作ったのだということ。そもそもノアは、自分が生き延びるために方舟を作ったのでしょうか。自分だけが災害から逃れるために方舟を作ったのでしょうか。どうもそうではない。この人は、自分が助かるためではなく、それが神様のご命令であるがゆえに、その声に従ったのです。方舟はある意味でその結果にすぎませんでした。彼は自分が助かるためではなく、いわば人類のために、人類を代表して神様の救いの道具であろうとしたのです。それが、このノアという人の不思議さであります。
 第三に、そして最後に私が不思議に思うのは、ノアはほとんど何も、それこそ一言も語っていないということです。ノアの方舟の物語は、創世記六章のはじめから九章の一七節まで続く、聖書の中ではかなり長い物語のひとつなのですが、その間、語っておられるのは神様だけで、ノアは本当に全く一言も語っていないのです。それはどういうことなのでしょうか。
 まあ、ひとつにはそれは、ノアは一人の農夫であって私たちのような牧師ではなかったということなのかもしれません。おしゃべりは牧師の職業病で、ですから牧師たちは年に一回ぐらいは、無言の行といいますか、一日か二日、穏やかに微笑みながら一言も語らずに人の話しを聞く修行をした方がいいという話もあります。職業による三大おしゃべりというのがありまして、それは坊主と医者と法律家だというのですが、私もその坊主の一人として、耳の痛い話なのですが。
 しかしそれにしてもノアの沈黙は不思議です。それについて、私はもはや語る時間がありません。ただ一つ、私が思い出すのは、十字架の上のイエス様のことなのです。イエス様もまた、十字架の上ではほとんど言葉を語っておられない。ただ言葉の断片のようなものだけです。この沈黙はすでに、イエス様が逮捕されて、いわゆる「受難」の時が始まった時から始まっておりまして、総督ピラトが非常に不思議に思ったほど、「イエスは何を言われても、ひと言もお答えにならなかった」(マタイ二七・一四)と書いてあります。
 ノアもまた、自分の気持ちを語ったり、感想を述べたりはしませんでした。彼はただ、神様のご命令に淡々と従ったのです。ですから、本当に大事な出来事のとき、私たちには言葉はないものかもしれません。ノアのように沈黙して、ただ神様に従う、そのような従順が大事なのかもしれません。
 今日は、ノアの三つの不思議さについて、お話をしました。ノアの選びと、彼の従順と沈黙。私たちを選んでくださった神様が、そのような従順を与えてくださるように、祈りましょう。
 主よ、私たちのおりますこの場所で、御子イエス・キリストを主と信じ、救い主と告白する人々の間に、豊かな交わりを与えてください。私たちがこの共に生きる生命を見つめるようにさせてください。この世の制約や人目を気にして、罪を犯すことがありませんように。あなたの御言葉の中に、私たちが本当の規準と信仰の結び目を見出しますように。真理のあるところに愛がともない、愛のあるところに真理がともないますように。

 

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           「この世でどう生きたら良いか」  11月15日 野口直樹牧師
                                                      ローマ人への手紙 13章1〜7節

 聖書は信仰と信仰生活の絶対の基準であります。わたしたちの教会の信仰告白の1、には聖書について、「聖書は、神の霊感を受けて書かれた神の言葉であり、神のみ旨に従い、イエス・キリストによるすべての人間の救いを示し、また、私達の信仰生活の唯一の規範であると信ずる。」と告白しています。また、教会員手帳には、1、聖書の権威「・・我らの信仰と実践の唯一無比、完全にして真実なる標準たることを信ずる。」と書いています。キリスト者にとって、聖書は、その生活においても絶対の基準なのです。気に入っても気に入らなくても、現実に合おうが合うまいが聖書の教えは絶対の教えなのです。今日の聖書はその教えのテスト教材と言えます。
 聖書は、「すべての人は、上に立つ権威に従うべきである」(1節)と教えています。天皇や首相を批判してはいけないのです。あざ笑うような言動をしてはならないのです。「あなたがたは、彼らすべてに対して、義務を果しなさい。税を納むべき者には税を納めなさい。」(7節)とあります。この世の定めにはまじめに、従順に従わなければならないのです。
 キリスト者はこの世の権威を超えた権威者に従う者であります。ところが政府が、「銃を担いで戦争に行き、人殺しをして来い。」という命令を出した場合はどうでしょう。キリスト者は、「それは出来ない。」と言うでしょう。なぜですか。聖書が「殺すなかれ。」と教えているからです。聖書はキリスト者にとって絶対のものですから、たとえそれがこの世の最高権威者の命令であっても国民大多数の声であっても従うことはできないのです。
 使徒行伝4章19節には「ペテロとヨハネとは、これに対して言った、『神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従う方が、神の前に正しいかどうか、判断してもらいたい。』とあり、5章29節には、「使徒たちは言った、『人間に従うよりは、神に従うべきである。』と書かれています。しかしながら、これで解決したわけではありません。右記1、と2、とは大きな緊張関係にあるのです。私たちは、「この世の権威に従え。」という教えと、「神さまを絶対として生きよ。」という教えの中で絶えざる課題を背負って生きて行くのです。神さまを絶対として、この世の秩序や権威を無視するような生き方は一見信仰的に見えますが、そうではないのです。
 ある宗教の集まりに出たことがあります。わたしの素性がわかっていなかったらしく、盛んに選挙の話しをしていました。「外米何俵、内地米何俵」という言葉が何度も出ていました。「信者以外の票が何票、信者の票が何票」という意味です。そして幹部の人は、「この世の法に触れても、我が教団の教えの法に触れなければ良いのだ。」と選挙違反を犯してでも、候補者を当選させるようにと公言していたのです。このような態度は聖書の教えるところではありません。
 この世は一面において、悪に満ちた世界ですが、反面神さまのご支配の下にあるものなのです。それは全ての人間は限りなく罪人ですが、神さまはそのような者をも哀れんで生かしてくださっているのとどうようです。だから私たちは、この世の秩序、そこにおかれた権威者を尊ぶのです。また、そうすることによって平穏な生活が送れるからとも教えています。いたずらに声高に主張を叫んで、騒ぎをおこすことが信仰ではないと教えているのです。
 キリスト者はこの世にあって、何の権威も持たず、しかも何ものにも犯されない権威を持つ者であります。キリスト者は、この世にあってこの緊張関係の中で生きようとする時、「どこに立っているか」ということが大切です。聖書の権威者に従えという教えはその立場の者を有利にするために言われていることではありません。パウロはこの世の権威とは最も遠いところに立っていました。すなわち彼はこの世の権威者の代弁者でもなければ、迎合者でもなかったのです。だから彼は大胆に語ることができたのです。この手紙の読者もまた、この世の権威とは遠い人たちであったでしょう。否むしろ明日にでもこの世の権威者によって命を奪われるかわからないという、全くの無力者であったのです。福祉の時代と言われていますが、行動を起こすことも発言することもできない人がいることを忘れないようにしようということでしょう。この世に生きるキリスト者は正にそのところに生きている者の視線であり、発言であり、祈りであるということです。
 イエス・キリストはこの世の(すべての人の)ために死なれました。それはこの世(すべての人)がそのままで生きることを許されていることを意味します。そしてイエス・キリストは、今もこの世の(すべての人の)ために祈っておられます。私たちは祈られている者として存在し、祈る者として生きるのであります。

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    「悪霊の高笑い」  11月22日 内田章二牧師
                   マタイによる福音書 17章14〜21節

 みなさんは、悪霊の高笑いをお聞きになったことがおありでしょうか。私はときおり「悪霊はどんな顔をしているんだろうか」とか「どんな声で笑うんだろうか」とか、つまらないことに想像をたくましくすることがあります。しかし、これは単なる興味本位の疑問ではなく、聖書を読んで行くときに否応無しにぶつかる疑問ではないかと思うのです。ある人たちは、聖書の時代は今の時代とは違って医学が発達していなかったので、人々は精神的な病に苦しむ人々を見て「きっとあの人には悪霊がとりついているに違いない」と考えたのだろうと言って、悪霊の存在を観念的、かつ合理的に解釈しようとします。しかし、聖書は私たちにそのような読み方を許しているでしょうか。答えは「否」です。なぜかと言うと、聖書が私たちに伝える「悪霊」の姿は、実際にいるかいないか分からないような漠然としたものではなく、非常に具体的であるからです。
 マタイによる福音書の10章1節にはイエスが12人の弟子を任命されたときのことが記されています。そこには「そこで、イエスは十二弟子を呼び寄せて、汚れた霊を追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやす権威をお授けになった」とあります。またさらに10章8節にはイエスの言葉として「病人をいやし、死人をよみがえらせ、らい病人をきよめ、悪霊を追い出せ。ただで受けたのだから、ただで与えるがよい」とあります。このように、イエスはしっかりと悪霊の存在を見ておられたし、また弟子たちにも大切な働きとして「悪霊を追い出す権威」をお与えになったことが分かります。
 この朝、イエス様が十二使徒に対して語られた事柄は、今教会に集い、主イエスのあとに従って生きる私たちに対しても同じように語られているのだということをもう一度確認しながらテキストを振り返ってみましょう。そうしたなら、私たちはイエス様の時代に帰って悪霊の姿をこの目で見、その笑い声まで聞くことが出来るかもしれません。
 さて、お読みした聖書の箇所は、一人の人が「てんかん」を患って苦しんでいるわが子をイエスのもとに連れて来るところから始まります。最初、父親は息子をイエスの弟子たちのもとに連れて来るのですが、弟子たちはその子の病を癒すことが出来ませんでした。そこで父親は思い余ってイエスのもとに連れて来たということです。父親はイエスのところに来たときに、イエスに対して「あなたのお弟子たちは私の息子を癒すことが出来ませんでした」と文句を言っています。子の父親の態度は、第三者的に見れば甚だ身勝手な態度のようにも見えます。けれども、この親子がこれまで経験してきた肉体的、精神的な苦しみというものに私たちの思いを向けるべきです。これは余談になりますが、新改訳聖書には「てんかんを患う」の語源は「月に打たれる」であると説明されています。つまり古い時代には、月をじっと眺めていると精神的に異状を来たすと考えられていたというのです。これはいわゆる「迷信」ですが、迷信のあるところには必ずと言って良いほど差別と偏見があるものです。この親子も、そのような差別と偏見をいやと言うほど受けながら生きてきたことは容易に想像できます。そんな中で疲れを覚えながらも、ただひたすらわが子の癒しを願ってイエスのもとにたどり着いたのです。「先祖のたたりだろうか?」、「いやあ、仏壇を大事にしないからあんな不幸が起きるんだ…」。私は、自分自身と私の家族がイエス様のもとにたどり着くまでに聞いてきた人々のことばや経験した事柄と重なり合う部分があって、とても他人事とは思えない切実さをこの出来事の中に見るのです。
 ところで、この父親の訴えを聞かれたイエスは17節で「ああ、なんという不信仰な、曲った時代であろう。いつまで、わたしはあなたがたと一緒におられようか。いつまであなたがたに我慢ができようか」と弟子たちの不信仰を嘆いておられます。先ほども言いましたように、イエスの弟子たちは召されたときに悪霊を追い出す権威を与えられていました。ところが実際に悪霊を追い出すことは出来なかった…。イエスは弟子たちが「なぜ私たちは悪霊を追い出すことが出来なかったのですか」という質問に「あなたがたの信仰が足りないからである」と答えておられます。
 「信仰が足りないからだ」という言葉は、ひとつ間違うとキリスト教信仰がたちまちカルト宗教に姿を変えてしまうような大変な言葉です。私は救われた単立の教会で父の死を経験したのですが、父が息を引き取ったときに牧師から「あなた方の祈りと信仰が足りませんでしたね」と言われて愕然としたことがあります。祈りに明け暮れる生活や、社会生活をおろそかにしてまで教会に奉仕する生活をイエスは求めておられるのでしょうか。そうではなく、イエスが嘆かれたのは弟子たちが悪霊を追い出す権威を与えられながらそれを行使できなかった…。言いかえれば、「悪霊の働きを許さない『神の国』をあなた方の手も借りて造り上げようとしているのに、あなた方がしっかりと神様のほうを向いて歩んでいないから、迷信や差別や偏見に満ちているこの世に勝つことが出来ないのだ。ほら、悪霊が高笑いしているよ!」とイエスは言っておられるのです。このように、神様が働けないところではどこでも悪霊の高笑いが聞こえるのです。私たちはいつも神様のほうに向かって顔を上げて生きて行くときに、私たちが共に力を合わせて築き上げている社会(人の集まり)に、本来何が大切にされるべきか、第二第三にすべき事柄を第一のように考えて誤った道を進んでいないか、ということを考えることが出来ます。またそこから、本来神様が願っておられる方向に導いてくださるように祈ることが出来るのです。私たちは神様に顔を向けて歩むときに、悪霊の高笑いを聞き分ける耳が与えられます。 ところで、私たちは今まで私たちの外にあって私たちの社会生活を破壊しようとする力として悪霊を見てきましたが、私たちは得てして悪霊は社会の中に、あるいは「誰か」の中にいると考えてしまいがちです。これは大きな誤りであって、悪霊は自分自身の中に住んでいて、私たちを常に攻撃しているのです。パウロはローマ人への手紙7章19節で「すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている」と告白して、自らが神のほうを向いて歩もうとしても、なかなかそのように行きつづけることの出来ない自分を見つめています。さらに21節には「そこで、善をしようと欲しているわたしに、悪がはいり込んでいるという法則があるのを見る」と結論付けています。パウロの言葉を聞くまでもなく、私たちは悪霊の攻撃に負けてこの一週間どれほど神様を悲しませてきたことでしょうか。「信仰が足りないのだ」といわれるイエスの言葉は厳しく聞こえますが、私たちはまず「そのような者」であることを素直に認めなくてはなりません。
イエスの弟子たちは何度となくイエスを落胆させますが、そういう弟子たちをイエスは見捨てることをなさいませんでした。彼らはイエスが十字架に死なれたときに、はっきり言って狼狽しておりました。しかし、イエスはそのような弟子たちの中に復活のからだをあらわされ「安かれ」と言ってくださったのです。
 私たちにも同じ希望が与えられています。外に、内に、悪霊の攻撃を受けて悩んだり、また落ち込んだりしますが「安かれ」と言ってくださる復活の主に期待して歩みつづけましょう。この朝私たちは今一度「悪霊の高笑い」を聞き取る感性があるのか否か、ということをイエス様から問われていると思います。

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    「愛が世界を覆うまで」(世界祈祷週間礼拝) 11月29日 野口直樹牧師
                       ローマ人への手紙 13章8〜14節

 聖書は借金を戒めています。「何人にも借りがあってはならない(8節)」、「何の借りもあってはいけません。」(新改訳)。今は不景気の世の中で借金で苦しんでいる人々が多くなっています。聖書は現代への戒めとなっています。しかしながら、現代の生活において、借金は当たり前のことです。クレジットの買い物、家のローン等々、すべて借金の生活ではありませんか。一切借金をしないというクリスチャンがいまして、先日来日されたボートライト先生の話しですが、農機具の修理に出して、受け取りに行ったところ、主人は留守で、修理はまだ出来ていなかったのです。先生は前金を払って、翌日行ってみると、主人がとても嘆いていた、怒っていたというのです。「わたしは一切借金をしないという信仰の立場を貫いて来た。それなのにあなたが代金を先払いしたので、わたしは昨晩から今日まであなたに借金をしていたことになる。」と言ったのだそうです。
 聖書に忠実なようで、何か釈然としないものがあります。この人は決して貸し借りをしなかったでしょうか。理屈を言うようですが、修理が出来ていたとします。修理した農機具を渡し、代金を受け取るまでの何秒かの間、貸し借りの関係が生じたことにはならないでしょうか。こう考えると聖書は文字面でなく、その意味を考えなければほんとうに読んだことにはならないことがわかります。現にパウロ自身が借金を申し込んでいる聖書の個所がピレモン書にあります。奴隷であったオネシモの不始末について、「もし、彼があなたに何か負債があれば、それをわたしの借りにしておいてほしい。わたしがそれを返済する。」(ピレモン書1章18節)と言っています。パウロの時代にも貸し借りはあったのです。
 では、パウロは何を言おうとしたのでしょうか。それは「愛の重要さ」についてなのです。愛と信頼関係がお互いの間に成り立たなければ、世の中は破綻してしまうと戒めているのです。ただ機械的なお金の貸し借り、無機質な法律の運用だけでは世の中は必ず行き詰まってしまうと言っているのです。「互に愛し合うことの外は、何人にも借りがあってはならない。」「だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことについては別です。」(新改訳)「人を愛する者は、律法を全うするのである。『姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな』など、そのほかに、どんな戒めがあっても、結局『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』というこの言葉に帰する。愛は隣り人に害を加えることはない。だから、愛は律法を完成するものである。」(ローマ書13章9〜10節)と教えています。何という心あたたまる世界を描いていることでしょうか。「世の中はそんな甘いものではない。」と人は言います。しかし、世の中がこのままで良いと思っている人は少ないのです。聖書は誰もが望むんでいることを言っているのです。
 翻ってわたしにはそのような愛があるでしょうか。「無いようで有るのが罪、有るようで無いのが信仰」と言った人がいますが、実に、「有るようで無いのが愛」です。しかし、このような罪深いわたしのために神さまは愛を示してくださいました。イエス・キリストという人となり、十字架にかかって、限りない愛をこの世に示してくださったのです。「子よ、あなたの罪はゆるされた」(マルコ2章5節)と言ってくださったのです。
 聖書は、今は目覚める時、今は実践する時とわたしたちを励ましています。「 あなたがたは時を知っているのだから、特に、この事を励まねばならない。すなわち、あなたがたの眠りからさめるべき時が、すでにきている。夜はふけ、日が近づいている。それだから、わたしたちは、やみのわざを捨てて、光の武具を着けようではないか。あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい。」(ローマ書13章11、12、14節)経済のメカニズムではなく、法律の条文ではなく、愛が世界を動かす世の中を夢見て船出せよ、と言っているのです。
 今朝は「世界祈祷週間礼拝」です。世界伝道のために祈り、献金します。それはこのビジョンのためです。世界伝道は、武力を背景になされたかに見える時代があります。文化の優位性を背景に、また、経済力を背景になされたかに見える時代もあります。今、わたしたちははっきりと自覚しなければなりません。伝道とは愛の分かち合いであること、神さまの愛を知った者がそれを携えてあらゆる方面で実践し、その源となってい神さまを紹介すること伝道であることを。「愛が世界を覆うまで」ーわたしたちは伝道の使命をお負っているのです。イエス・キリストの愛を受けましよう。イエス・キリストの愛を生きましょう。イエス・キリストの愛を献金と奉仕に托しましょう。


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