福間教会 礼拝説教《1997年11月》 福間教会ホームページへ
「知恵の悲しみ」 11月2日 片山 寛協力牧師
創世記 3章1〜19節
先週は、月曜日にニューヨークで株の大暴落がありまして、火曜日には日本にも飛び火して、一日で何兆円というお金が煙のように消えたという話でありました。1兆円というと、私には見当もつかないような大金なのですが、私たちのこの教会の年間予算を1千万円として、その10万倍ですか・・日本には約3200余りの市町村がありますので、日本のすべての市町村に31個ずつ、教会が運営できるということになります。それだけのお金が煙のように消えてしまった。もったいない、と思うのですが。また、お金とは何だろう、という思いを湧いてきます。その後、株価は多少持ち直したり、また下がったりが続いておりまして、私などは、一株も持っておりませんので、まるでひとごとで、気楽に眺めておりますが、株式取引の関係者はもう、真っ青な一週間でありました。そういう有り様を見ておりますと、人間とは何と物凄いものか、凄い力を持つものか、と感心いたしますと同時に、人間とは何と愚かなものかと、ため息が出るように思われるのです。
江戸時代の小説家で、多くのすぐれた浮世草子を書いた井原西鶴の言葉でありますが、「人間は、欲に、手足の付たる、物そかし」という言葉があります。人間は欲望の固まりで、ただそれに、おたまじゃくしのように小さな手足がついている、ただそれだけだ、というのでありましょう。人間は、あんまり賢くないのだ、欲に操られて、馬鹿なことばっかりやっている、それが人間なのだ、と井原西鶴は、多少の自嘲をこめて(自分自身を馬鹿だなあと考えながら)語っているように思われます。 あの巨大な株式市場、また世界経済というものを動かしている原動力というものも、まあ言ってみれば人間の欲であると言えるかもしれません。もちろん私たちは、欲というものを否定する必要はありませんし、それは全く人間的なことだと思います。さきほどの井原西鶴の言葉、「人間は、欲に、手足の付たる、物そかし」というのも、西鶴の経歴を考えますと、彼は根っからの上方商人の出身でありましたから、こうした人間の欲望をただ単に否定したのではなくて、それをたくましく肯定したのだ、と受け取ることもできます。人間は、欲があって当然で、欲がなくなったら、何もなくなってしまうかもしれない。おおいに逞しく、大阪弁で言うと、「欲どしく」生きようではないか。
ですから私は、欲を否定するつもりはありませんが、しかしもし、人間が最後まで欲だけであるなら、それはやっぱりあまりにもわびしいと言わざるをえない。人間にはやっぱり欲得ぬきのところがあってこそ、人間の素晴らしさがあると思われるのであります。イエス様の語られた言葉、「人はパンのみによって生くるにあらず、神の口から出た御言葉によって生くるなり」というのは、そのことを意味しております。パンは大事だ、しかしパンだけではない。神様が、そこにおられる。
今朝、私たちが読みました聖書の御言葉、創世記の第3章というのは、そのような私たち人間の愚かな姿を、鋭く描いていると思います。人間がまだ、神様に逆らわなかった頃、そしてエデンの園と呼ばれる楽園に暮らしていた時代のことを、この物語は語っております。楽園にいたというと、人間はその頃は、楽ちんに、ただなまけて一日じゅう遊び暮らしていたという、何となくそういうイメージがありますが、そういうわけではありません。
私はこの頃、温泉が大好きになりまして、たまたま出張があって、旅行先で、近くに温泉があったりすると、ちょっとそこに寄って、町営の温泉につかったりすることがあるのですが、平日の午後、田舎のひなびた温泉に行きましたら、曇りガラスの窓から光が差し込んで、湯気が真っ白に見える。その中で熱いお湯につかっていると、本当に幸せだなあ、ここは楽園だなあと思う。しかしそういうのと、聖書の語るエデンの園というのは、また少し違っているようであります。
つまり、創世記2章の15節を読みますと、こう書いてあります。「主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせられた」。つまり、人間はエデンの園で、神様のために働いていたというのです。私たちの常識的イメージとはちがって、最初の人間アダムは、呑気に遊んでばかりいたわけではありませんでした。エデンの園を耕してこれを管理していた。つまり、人間は、このエデンの園の園丁であり、管理人であったのです。いつも遊び暮らしていたわけではない。いくら楽な生活でも、ただ遊んでばかりの生活では、人間はやっぱり幸福ではないのです。幸福になるためには、何か意味のある充実した仕事を持っているということも、大事なのだと思います。
最近、うちの家内は、庭に小さな畑を作りまして、幅50センチ、長さ2メートルぐらいの、ホントに小さな畑なんですが、そこにチンゲンサイとか、高菜とか、春菊とかを植えておりまして、毎朝、それにホースで水をやっております。それを実に楽しそうにしているんです。農業という仕事には、何か本質的に楽しいところがあるのかもしれません。まして、エデンの園では人間は、尊敬する神様のために農業をしていたのでありますから、それはいちばん意味のある、充実した、楽しい仕事であったはずです。いい仕事があって、真面目に働いたり、また奥さんのエバと一緒に食事をしたり、ときどきは温泉につかったり、エデンの園に温泉があったかどうか知りませんが、あったらいいなあと個人的には思いますが、そういう幸福な生活でした。
ところがそこに、大きな事件が起こってまいります。エデンの園にへびがいたというのです。そしてへびは、動物たちの中で、いちばん賢かったと書いてあります。このへびは中世の教会では伝統的に、悪魔の化身だと解釈されまして、ある意味では実際にそうかもしれないのですが、旧約聖書が語っておりますのは、ただへびだというだけです。へびは頭がいい、ずるがしこい動物だった、と書いてあります。で、このへびが女をだまして、園の中央にある、善悪を知る木の実を食べさせてしまった。そして、女から受け取って、アダムもこれを食べてしまった。そこで、人間は善悪を知るものとなった。そういう物語であります。
そこで私が今朝注目したいのは、このへびがエバをだまして木の実を食べさせたときの言葉なのです。3章の2節と3節なのですが、「へびは女に言った、『あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知るものとなることを、神は知っておられるのです」。私の好きな文語訳の聖書では、こう書いてあります。「蛇 婦(をんな)に言ひけるは 汝等必ず死ぬる事あらじ 神 汝等が之を食らう日には汝等の目開け 汝等神の如くなりて 善悪を知るに至るを知りたまふなりと」。要するに、神様のようになりますよ、というのがへびの語った誘惑の言葉でした。神様のようになって物事の善悪を知ることができますよ、そういってへびは人間を誘惑したわけです。それで、アダムとエバは、その誘惑に乗ってしまった。彼らは正直、神様のようになりたかったからです。
そして私がここで感じるのは、後々の経過を考えますと、へびはここで別に嘘をついたのではなかったということです。人間は確かにこの後、ある意味では神様のように賢くなりました。人間には知恵がついたのであります。知恵が身につくのは、確かに良いことにちがいない。だとすると、一体なぜ、この知恵の実を食べたことは人間にとって悪いことだったでしょうか。そして神様はなぜ、人間が木の実を食べてはいけないと禁じられたのでしょうか。それは、こういうことではないかと思われるのです。人間は確かに知恵がついた。その知恵のおかげで、人間は後々、物凄い力を持つようになりました。あの世界経済、ニューヨークや東京の株式の証券取引所のような大きな仕組みを作って、それを運営してゆく。それは確かに、すごいことです。しかし人間はまだ、そのせっかくの知恵を自分できちんと管理できるほど、大人になっていなかったのではないでしょうか。つまり、人間が知恵の木の実を食べたのは、まだ早すぎたのです。
私は時々、世界と日本の歴史を振り返ってみて、何か小さな子供があまりにも大きな力を持ってしまったという印象を受けます。人間は明らかに自分の力に振り回されています。52年前の第2次世界大戦、いわゆる太平洋戦争で、日本人は約300万人以上の犠牲者を出しました。兵隊として戦死された方が250万人、本土空襲で、あるいは広島や長崎の原爆で、あるいは沖縄戦で亡くなった一般の人々が約60万人。それは物凄いと言わざるをえない数でありますが、しかしあの15年続いた戦争で日本人が殺害した人々、日本の軍隊の侵略の犠牲になった人々ははるかに多いのです。正確な統計は存在しませんが、朝鮮半島、中国大陸、そして東南アジアで、日本人に殺された人々は、1500万人にのぼると推計されております。
世界の歴史は、人間がどんどん大きな力をつけてきた歴史であります。佐賀県の吉野ケ里遺跡に住んでいた人々が今のこの日本を見たら、びっくりして目を回すのではないでしょうか。自動車とか、飛行機とか、大きなビルディングだとか。人間はこの2千年で、物凄い力を身につけました。しかしその大きな力を、私たち人間は正しく管理しているとは言えません。環境破壊、アジアやアフリカの貧しい国々のこと、未だにやまない戦争、なぜ私たちが自分の知恵を正しく使えないかというと、それは、私たちが自分の欲望を抑えることができないからだと思うのです。欲望を抑えるといっても、自分の欲を否定するのではなく、欲を包み込むような大きくて豊かな心がないと、知恵を正しく用いることはできないように思われるのです。
自分の知恵をいかに使うかという点では、あの森に住んでいるお猿たちと比べても、私たちは、それほど豊かな心を持っていないかもしれません。ニューヨークで株が暴落した同じ月曜日の夕刊に、こんな小さな記事が載っていましたので、ご紹介します。アフリカ中部カメルーンでこのほど、生け捕りにされた子どものゴリラを救おうと、約60頭のゴリラが村を襲い、奪い返すという出来事があった。地元紙が22日報じたところによると、赤道ギニアとの国境沿いのオラムゼ村で先週、猟師が幼いゴリラ1頭を捕まえてきたところ、その夜にゴリラの群れが子ゴリラを捜しに村にやって来た。村人が銃で威嚇すると、ゴリラはいったん引き揚げたが、翌日の夜に再び大挙して村に押し寄せ、今度はあちこちの家のドアや窓をたたきはじめた。見かねた村長が猟師に命じて子ゴリラを群れに返すと、ゴリラたちは暴れるのをやめ、意気揚々と森へ帰っていったという(毎日・97年10月27日夕刊)。
いい話だなあと私は思いましたね。ここでは、人間の側にも、その村長さんですか、大きな心の人がいるらしくて、ほっとさせられるのでありますが、まあ、人間とゴリラのどっちが本当に良い意味で人間らしいのか、どっきりさせられるような新聞記事でありました。
もうひとつ、これは鈴木晃(あきら)さんという、京都大学でチンパンジーやオランウータンを研究しておられる方の書かれた本の一節なのですが「私は、タンザニア西部のサバンナ・ウッドランド地域で野性チンパンジーを追っていた時、次のような光景を観察して感動したことがある。それは、一頭の若いおとなのオスのチンパンジーが、川辺林の中のひときわ高い樹の梢近くまで登り、西側に連なるムココチ山の彼方に沈んでいく夕陽をいつまでも、長い間見つめていた光景である。」 その夕陽を見つめていたチンパンジーというのは、もしかしたら私たち人間よりも少し上等の豊かな心というのを持っていたかもしれない。夕陽をいつまでもじっと見つめたり、あるいは一週間に一度こうして教会にきて、神様のことを心に思うような人々は、人間の中にも多いとは言えません。何かと忙しくしては、自分の心のことは後回しにしている、それが私たちの普通の姿であります。チンパンジーに負けそう、そんな気になってくる話です。こういうのを読むと、神様が私たち人間を選んでくださったのは、本当に正しかったのか、思わず考え込んでしまうのであります。
創世記の物語に戻りますが、あのへびが、「神様のようになれますよ」と言ったときに、人間はその誘惑に抵抗できませんでした。自分の中の欲望を、抑えることができなかったのです。神様にあこがれ、神様のようになりたいという気持ち、これは不思議なことではありません。しかし、アダムとエバは、神様のような知恵を持つために、先ずなすべき心の修養をしないで、手っとり早く木の実を食べてしまいました。神様にそのことを聞いてみることもしませんでした。神様がお帰りになるのを待って、へびがこんなふうに言うのですが、と神様に相談してみたらどうなったのか、私は興味があるのですが、もう10年待ちなさい、そうすれば心の準備ができる、神様はそうおっしゃったかもしれないと思うのです。まだそれだけの心の準備がないのに、目の前の欲望に引きずられて知恵の木の実を食べてしまった、その順序の間違いは、現代にいたるまで、私たち人間の大きな不幸の原因になっているように思われます。原子力発電の技術もそうですし、地雷をはじめとする様々な軍事技術もそうです。石炭や石油など、地下資源の使い方も、そうかもしれません。それをきちんと管理して、遠い将来にわたって有効に利用しつづけるような準備がまだできていなのに、目の前の欲望にひっぱられて、大規模に実用化してしまう。このせっかちで軽率な性質は、何とかならないものでありましょうか。
まあ私は、20代で家内に出会ったのですが、あのときに、自分をもっと修養して、お互いに自分を高めてから結婚したらよかったのですが、ついつい目の前の欲望にひっぱられて、27歳で結婚してしいました。そのため、結婚してから後で苦労したような気がいたします。しかしまあ、本当に心の修行ができるのを待っていたら、いつまでも結婚できなかったかもしれませんので、これはこれでよかったのかもしれません。最後は結局、何が何だかよくわからないような結論になったのですが、すべてを神様におゆだねして、お祈りをいたします。
永遠の父なる神様、私たちを見守ってください。私たちは今朝、私たちの先祖が、そして私たち自身が、あなたのお命じにそむいて、あまりにも早く木の実を食べてしまったという、創世記の物語を読みました。私たちはその結果、今もあの頃のままの小さな貧しい心に、大きすぎる力を持っています。この偉大な地球の環境を左右するほどの力を、私たちは持っているのです。また世界じゅうの人間を何度も全滅させることのできるほどの原子爆弾を、今でも抱えています。それは、人間の賢さというよりも、愚かさであります。
神様、どうか私たちが、心を大きく豊かにしてゆくことができますように。私たちに、あなたを学ばせてください。そしていつか、私たちの心が、私たちの足に追いつくことができますように。
「志があれば道は開く」 11月9日 野口直樹牧師
使徒行伝 23章11〜15節
今朝は幼児祝福礼拝です。イエスさまは、「よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない」(マルコ福音書10章15節)と言われました。私たちも幼子のような信仰を持つ者でありたいと思います。
今日の聖書からは、パウロが反対者たちに命をねらわれていたことが記されています。13節には、「四十人あまりの者が、パウロを殺すまでは何も食べないと、堅く誓い合った」とあります。しかしパウロは命をながらえました。では、パウロの命を奪うと誓った彼らの命はどうなったのでありましょうか。それはさておき、パウロは命をながらえ、ローマまで行って福音を証しするという使命を全うすることが出来ました。志があれば道は開かれるのであります。
今日の聖書の個所までの経過をたどってみますと、パウロは、カイザリヤで多くの教会員にエルサレムには行かないようにと忠告を受けましたが、その忠告には従わず、エルサレムに行くことは主のみこころと信じて出かけて行きました。信徒たちは最後には、「主のみこころが行われますように」と言って、パウロの決断にゆだねたのでした。しかし、エルサレムでは信徒たちの心配していた通りのことが起こりました。エルサレムに着くや、反対者たちの陰謀によって、彼は命も危ない状態となり、また捕われの身となってしまったのです。パウロは、弁明の機会を求め許されましたが、彼が話せば話すほど反対の火の手は大きくなって行くばかりでした。そこで、パウロはローマの市民権を持っていることを盾に正式な裁判を要求しました。パウロは、議会で証言して、「今日まで、神の前に、ひたすら良心に従って行動してきた」と言ったのです。また大祭司に向って、「見掛け倒しの権威者よ。あなたは律法にそむいて、わたしを打つことを命じるのか」と言ったのです。しかしそばの者が、「神の大祭司に対して無礼ではないか」たしなめたので、パウロは、「悪かったと」謝っています。またパウロは、一計を案じて、議会を二分する作戦に出ました。案の定、議会は死人の復活を信じるパリサイ派と信じないサドカイ派に分かれて論争となりました。こうして第1回の裁判は結論の出ないままパウロは引き続き留置されることとなったのです。
使徒行伝の終わりまでを知っている私たちは、パウロが簡単には死なないこと、彼は志通りにローマまで行き、福音を証しすることを知っています。しかし、もし私がこの事件の渦の中に置かれたとすればどうであったでしょうか。事態は複雑さを増し、解決の糸口さえ見出せない状態であったと言えるでしょう。すっかり滅入ってしまったとしてもおかしくありません。この時、パウロはどうであったでしょうか。私は、パウロも同じ心境であったと見たいと思います。その時彼は、「しっかりせよ」という神さまの声を聞いたといいます。彼は元気を失いかけていたからこそ、神さまはこのように言われたのではないでしょうか。大切なことは、失敗しないこと、失望するような事態に陥らないことではありません。そのような時に、神さまの声を聞く信仰を持つこと、祈りを忘れないことこそが大切です。
神さまは続けて言われました、「あなたはここエルサレムでわたしのことをあかしした。ローマでもあかしをしなくてはならない」(11節)。神さまの手の内にはいつも希望があります。神さまは人間の愚かさをも用いて善と変え、道を開いてくださるのです。人間の目にはすべての道が閉ざされたと見える時でも、神さまのご計画には常に開かれた道があります。
今日の説教の題「志があれば道は開く」という題は良い題ではなかったように思えます。そこで、少し整理したいと思います。志を得るには先ず、神のみこころをうかがうことから始まらなければなりません。「自分の思い」ではいけないのです。また、「扉がひとりでに開く」のでも、「志が扉をこじ開ける」のでもありません。「神さまが扉を開けてくださる」のです。聖書には、「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神である」(ピリピ書2章13節)とあり、また「人の心には多くの計画がある、しかし、ただ主のみ旨だけが堅く立つ。」(箴言19章節)と示されているからです。すなわち信仰とは、先立ちたもう主を信じ、受入れることです。いくらキリスト教的になっても、それだけではキリスト者とは言えないのです。神さまは、キリスト教的文化人、キリスト教的人格者、キリスト教的高学歴者、キリスト教的頑張り家、キリスト教的お人好し、キリスト教的単純家などを求めてはおられないのです。ただ神さまは、キリスト者を求めておられます。文化人・人格者の・高学歴などの形容詞がつかなくとも、またキリスト教的と言われる人間でなくとも、ただキリスト者であることが大切であります。クリスチャンとは、「キリストに附ける者」という意味であります。「キリストを附けた者」であったり、十字架の飾りをいくらぶら下げてもクリスチャンとは言えないのです。クリスチャンとは、ただ十字架にすがる者であります。
また、パウロはわざにこだわった人でもあります。見方によっては、クリスチャンになってからも人間パウロとしては変わらなかったと言えます。パウロの書簡の中では「わたしは彼らの中のだれよりも多く働いてきた」(Tコリント15章10節)と言い、「わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。後ろのものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、目標を目ざして走り、神の賞与を得ようと努めているのである。」(ピリピ書3章13節)と言っています。では努力家、わざのパウロがクリスチャンとなった前後の違いとはなんでしょうか。彼が主に出会った時、「主よわたしは何をしたら良いでしょうか」(使徒行伝22章10節)と尋ねています。クリスチャンパウロの出発は、自分の志を神さまにゆだねたところから始まりました。かつてのパウロは、「我が思い」を神に押し付けていました。しかしクリスチャンとなってからは、「神のみむね」を我が思いに迎え入れたのでありました。
この後もパウロは、相変わらずいろいろな「わざ」を行っています。今日の聖書の個所でも、彼は主張し、妥協し、(バイリンガルの)才を用い、脅しをかけ、社会的特権を利用しています。結果はどうであったかと言うと、事態をますます悪化させるだけでした。まことに人間のわざというものは所詮そのようなものであります。才に溺れるということもありますし、努力家は折れ易い、もろいところがあります。しかし神さまは、その人間の愚かな努力を用いてくださるのであります。だから私たちは安心して、愚かなわざと思われることでも、今を精一杯生かそうと致します。大切なことは、パウロにならって、私のすべてをイエス・キリストの十字架のもとに投げ出すこと、一切をみ手にゆだねることであります。
今日の御言葉から、「キリストを(自分に)附ける者」ではなく、「(自分を)キリストに附ける者」となりましょう。そして大胆に今生かされている私のすべてを開花させましょう。
「いやし主イエス」 11月16日 自由ヶ丘伝道所 内田章二牧師
ヨハネによる福音書5章1〜9節
イエスの宣教のご生涯を記した四つの福音書は、どの一つをとってもイエスの十字架への道のりのことが中心的なテーマとして描かれています。福音書はそこで、イエスが十字架につかねばならなくなった最大の原因が人の罪にあることを明らかにし、さらにその罪を背負って死なれたイエスが死人の中から復活することによって、すべての人に定まっていた「死」という問題を解決して下さったことを宣言しています。この十字架と復活の出来事を「私のためにイエスが死なれ、甦られた」と信じるのがキリスト教信仰であり、キリスト者の生活です。
ところが、福音書を読む度毎に引っかかるのが、イエスによってなされた数々の「癒しの奇跡」と呼ばれる記事なのではないでしょうか。今朝の聖書の箇所を考えてみましても、多くの方はおそらく次のような素朴な疑問を持たれるのではないか、と思うのです。それは、「この聖書の箇所に出てくる38年間ベテスダの池のほとりに横たえられていた病気の人は実際にイエス様に癒されたのだから、それはそれで結構なことだけれども、現代に生きる私たちは、こうした体験をおいそれとすることが出来ない。だとすれば、この箇所に書かれているお話や、他の聖書の箇所にも出てくる、いわゆる「癒し」の物語は、私たちにとって本当に慰めなんだろうか」という問いなのではないでしょうか。しかし私は、みなさんがそういう疑問を持たれたなら、それは素晴らしいことだと思います。こういう物語を読んで、何かスカッとした結論を得ようとすると、聖書は私たちから遠い書物になって行くような気がします。ある人は「これは聖書の時代の出来事」と割り切って考えようとするかもしれません。けれどもそれは、今も生きて働かれるイエスの力を私たちのほうから「いらないよ」と言ってしまうことです。奇跡というと、私たちはとかく神秘的なものを連想しがちです。けれども、私たちの生きている世界、日々の歩みそのものが実は奇跡であり、私たちは奇跡に囲まれて生きていると言っても過言ではありません。「癒し」ということについて言えば、医学の進歩によって昔は治らなかった病気が癒されている。これも決して人のわざではなく、神が人の手を介して癒しのわざを見せて下さっていると思います。そういう意味で、私たちは「癒し」を聖書の時代に限定することは出来ないのです。またこれとは逆に、聖書の時代をそっくり現代に持ち込むことも危険です。そこには、癒されて喜ぶ人の陰で、癒され得ない病の中で「癒されなければ不信仰」とレッテルを貼られて寂しい思いをする人々の顔は見えてこないからです。癒しを信じ、それを祈り求めることはキリスト者として自然な行為です。けれども、癒しは神のなさることであって、人が神様の領域に入り込んで「癒されなければ・・・」と言うことは許されないのです。私たちは、聖書の物語に胸のすくような結論を期待します。しかし、聖書は私たちにもっと豊かで、もっと慰めに満ちたメッセージを聞くように、と勧めているのです。
前置きが長くなりましたが、今朝の聖書を振り返って、イエス様による癒しの出来事が起こったベテスダの池のほとりを私たちも歩いて見ようではありませんか。今日お読みいただいた箇所の前半には、この池のほとりには、病や障害で悩む大勢の人々がいたと記されています。そして、この人たちは皆、この池にまつわる伝説、つまり天使が時々降りてきて、池の水をかき混ぜるのですが、その時最初に水の中に入った者が癒されるという言い伝えを信じていたということです。
イエス様はこのような人々のただ中に入って行かれて、一人の病人に目を留められたのです。池のほとりには病んでいる人や障害に苦しむ人が大勢いたということですが、この光景は口で言い表すことの出来ない悲しさがあります。それは、この人々が体や精神的に病を負って自分自身が苦しんでいるだけではなくて、社会から邪魔な存在として扱われてきた「悲しさ」があるのです。ここに一つの逸話があります。ベテスダの池とそれこそ目と鼻の先に、有名なヘロデ王が46年かかってなお建て上がらなかったといわれる豪壮な神殿があって、宗教指導者たちは神殿での礼拝を守るためにベテスダの池を横目に見ながら神殿に出入りしていたのです。少し注意してみれば病んでいる人、障害を負っている人たちの悲しい現実が見えてくるはずなのですが、そのような現実には目を留めず、ひたすら宗教行事に明け暮れていた宗教家たちの姿がそこにあったのです。どんなに立派な建物があっても、またそこでどんなに厳格に礼拝が捧げられていても、悩み、苦しみの中にあるとなり人に手が差し伸べられなかった当時の状況を垣間見るのです。イエスはまさに、人々の悲しみのただ中に立って下さったのです。私たちの教会も、重荷を負っている人たちのただ中にイエスの福音が届けられる教会でありたいものです。マタイ9章12節で「丈夫な人に医者はいらない。いるのは病人である」とイエスは言われましたが、病の中にある人や、さまざまな人生の問題を抱えている人に直接関わって下さったイエスの姿を見上げて行く必要があります。
ところで、お読みいただいた聖書の箇所でイエスは病人に対して一つの不可解な問いかけをしています。それは「治りたいのか」という問いかけでありました。これは、一見非常にこの病人に対しては失礼な質問であります。なぜなら、この病気の人も、治りたいからこそありがたい御利益があるというこの池のほとりにいたのであります。イエス様もこの病人がこれまでどのようなつらい人生を歩んできたかを知っておられたはずです。そういう病人の事情を知りながらこういう問いかけをするイエス様の心の中には、何があったのでしょうか。
私は、このイエス様の「治りたいのか」という問いかけの中に、私たちの心の中を深く洞察しておられる姿というものを見るのです。そして、実は私たちもそのようなイエス様の問いかけに対して、この物語の主人公のように「水が動くときに、私を入れてくれる人がいません」とつぶやく自分に出会うのではないでしょうか。
「どうせ治りはしないよ」、「どうせ私の悩みなんか、誰も分かってくれないんだから」とつぶやく自分の心の中には、自分だけがなぜこんな目に遭わなければならないのだろうか、という具合に、生きていることさえうらめしく思っている自分がいることに気付かされるのです。ところが、そのように思っている自分というものは、ある面で非常に離れがたい「愛着」と言っても決して言い過ぎではない、そういう思いがあるものです。
私が昨年大きな病気をして、手術の結果ある程度の回復が与えられたことは、あちらこちらでお証しさせていただきました。ひとことで言うなら「九死に一生を得た」というのがぴったり当てはまる出来事でした。また再びみなさんとみことばを分かち合うことなど出来ないかもしれないと思っていただけに、私にとって生かされている一日一日は宝石のように輝く大切な日々です。ところが大切な日々を大切に生きているか、と問われれば必ずしも胸を張れないのが悲しい現実です。私は現在、少しずつ回復が与えられて、もう少し力が付けば以前のように立って説教が出来るまでになりました。けれども、元気だった頃に比べると、体が十倍ほど重くなった感じで動きも悪くなっていますから、何をするにも「やるぞーッ」と自分に言い聞かせてからでないと始めることが出来ません。いきおい出来にくいことはやってもらうということが多くなりました。そんな中で、ときどき「体を動かさずにジッとして暮らせたら・・・」などと、とんでもないことを考えたりもします。もちろんそんな生活をしていたら遅かれ早かれからだが動かなくなることは分かっているのです。けれども私たちはそういう弱さを持っているのです。そのような私の生活を支えてくれる妻は、献身的に私を支えていてくれますが、疲れているときや虫の居所の悪いときなど、「してもらう」ことに慣れっこになりそうな私に思わぬ鉄槌を下すことがあります。「それぐらいのことは自分で出来るでしょ・・・」。この言葉を聞いたとき、私は一瞬背中から冷水を浴びせられたような思いになり、同時にムッとするのです。しかし、私はこの言葉によって我にかえり、新たにされるのです。この声を聞かないと、私はおそらくどこまでも頼ってしまうだろうと思うのです。
私たちは「癒し」と聞くととかく一回限りの体験のように思いがちですが、実は癒された状態を維持し、日々新しい体験として「癒され続ける」ことも大切です。イエスは、決して疲れていたわけでもなく、虫の居所が悪かったわけでもないのですが、ベテスダの池のほとりに横たわっていた人も、イエスから「治りたいのか」と問われたときに、私が妻の厳しい言葉を聞いたときと同じような思いを抱いたのではないでしょうか。この人にとって、癒しは肉体的なものに留まらず、救い主イエスとの出会いでした。この出会いによってこの人は人生を180度方向転換することが出来たのです。「治りたいのか」という問いかけは、私たちが考えているよりも深いところで「神様との関係を回復して、新しい人生を歩み出したいと思いますか」という招きの問いかけでもあったのです。パウロは第一コリント15章31節で「兄弟たちよ、私たちの主キリスト・イエスにあって、私があなたがたにつき持っている誇りにかけて言うが、私は日々死んでいるのである」と言っています。信仰生活というものは、日々新しくイエスに出会う生活であり、「治りたいのか」と問いかけられるイエスの声を聞いて、共に歩いていただく人生なのです。「私はもう、イエス様との出会いは体験済なので大丈夫」といった私たちの油断やごう慢な気持ちも皆、十字架につけられて、そこから新しくイエス様との出会いを体験する、そのような生活を送るために、日曜日の朝毎に守られる礼拝があるのです。
今週の土曜日と次の日曜日にはこの教会で特別な集会が行われますが、先に教会に招かれて信仰生活を送っておられる皆様も、求道しておられる方々も、この機会に共にイエス様との新たな出会いを体験して頂きたいと思います。
「礼儀正しく、そして堂々と」 11月16日 野口直樹牧師
使徒行伝 24章10〜21節
使徒行伝24章10節以下は、パウロがローマ総督の前で裁判を受ける場面ですが、そのパウロの姿は一言で言うと、「礼儀正しく、そして堂々と」しています。私たちもパウロのような清々しい生き方を目指す者でありたいと思います。しかし聖書は単に表面的な振る舞いを教えているわけではなく、信仰によって自ずと備えられた姿を語っているのです。例えばTコリント13章は、愛の讃歌と呼ばれていますが、一切の言葉や行いについて愛がなければ無に等しいと述べています。今日の聖句から、信仰によってパウロがどのような態度をとり、どのように語ったかを学びましょう。
先ず、パウロは現状を受け入れる素直な心を持っていました。24章1節には、「そこで、総督が合図をして発言を促したので、パウロは答弁して言った。『閣下が、多年にわたり、この国民の裁判をつかさどっておられることを、よく承知していますので、わたしは喜んで、自分のことを弁明いたします。』」と書かれていますが、彼は反抗的でもなく、へつらいの態度でもなく、落ち着いた態度で弁明を始めています。これを反対者の言葉と比べて見ますと、「テルトロは論告を始めた。『ペリクス閣下、わたしたちが、閣下のお陰でじゅうぶんに平和を楽しみ、またこの国が、ご配慮によって、あらゆる方面に、またいたるところで改善されていることは、わたしたちの感謝してやまないところであります。しかし、ご迷惑をかけないように、くどくどと述べずに、手短かに申し上げますから、どうぞ、忍んでお聞き取りのほど、お願いいたします。』」(24章2〜4節)と書かれています。反対者たちの言葉には、人の顔色をうかがいながら話す、おべっか、卑屈な態度が目に見えるようであります。
またパウロはローマ書13章1節で、「すべての人は、上に立つ権威に従うべきである。なぜなら、神によらない権威はなく、おおよそ存在している権威は、すべて神によって立てられたものだからである。」と言っています。これは世の秩序に無条件で従えと言っているのではありません。信仰生活とは、現状から「出発」するものであることを言っているのです。私たちは、自分の現状を受け入れることができなくて苦しむことが多いのではありませんか。しかし、救いにあずかった時、神さまはこのままの私を受け入れてくださったことを知ります。すなわち、今ここにいるこの私を受け入れることから信仰が始まることを知るのであります。
さらに、パウロは事実を冷静に語っていること見ることが出来ます。彼は11〜13節で、「お調べになればわかるはずですが、わたしが礼拝をしにエルサレムに上ってから、まだ十二日そこそこにしかなりません。そして、宮の内でも、会堂内でも、あるいは市内でも、わたしがだれかと争論したり、群衆を煽動したりするのを見たものはありませんし、今わたしを訴え出ていることについて、閣下の前に、その証拠をあげうるものはありません。」と述べています。エルサレムに来てから12日間しかたっていませんので、この間の行動は逐一挙げることができたでしょう。また、目撃者の重要性や証拠を示す客観性を主張しています。これに対して反対者のテルトロは、「さて、この男は、疫病のような人間で、世界中のすべてのユダヤ人の中に騒ぎを起している者であり、また、ナザレ人らの異端のかしらであります。この者が宮までも汚そうとしていたので、わたしたちは彼を捕縛したのです」(5〜6節)と言っていますが、テルトロは弁護士という専門職でありながら何とお粗末な発言でしょうか。これは、主観を語っているに過ぎず、またおおげさで、事実に基づいていません。パウロのこのようなすっきりした語り方は、彼の学問修練の結果というよりも、信仰によって開かれた態度から来ていると思われます。私たちも信仰によって事実を冷静に受け止める思考力、事実を的確に語る論理性とを持つ者でありたいものです。
次に、パウロは語るべきメッセージを持っていたことがわかります。パウロが単に自己弁護するだけならば、これだけの陳述で十分でしたが、以下のように自らの信仰について証ししています。「先祖の神に仕え、律法の教えに従い、聖書を信じて来た。よみがえりの希望をもって、神を仰いでいだいている者である。神に対し、人に対して、良心を責められることのないように、常に努めている。同胞への施しをし、神への供え物をした。」(14〜17節)
パウロはこの度の旅行に際して、「福音を証しさせてください」と祈りましたが、その願いはあらゆる機会にかなえられています。伝道とか、証しとかは、私たちの日常生活の場で自然に出てくるものであります。大切なことは自分の内にはっきりしたメッセージを持っているかどうかです。そのためには、日々に聖書を読み、祈る生活が大切です。単純なことではありますが、これが信仰生活の基本であり、確かな人生の保証であります。
パウロは、福音の宣教を生涯の使命としていました。ピリピ書1章20節では、「そこで、わたしが切実な思いで待ち望むことは、わたしが、どんなことがあっても恥じることなく、大胆に語ることによって、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストがあがめられることである。」と言い切っています。これはパウロが特別な人であったからではなく、キリスト者はすべて伝道者であり、牧師であることを物語っています。パウロの姿は、「願わくはみ名をあがめさせたまえ」と祈っている者の当たり前の姿なのです。
今日の御言葉から、私たちの人生を筋の通ったものとし、一途にイエス・キリストに従って行きましょう。そして、信仰の訓練を受けましょう。それこそが、人からお膳立てをしてもらいあてがわれるものではなく、自ら工夫して自分のものとする生き方なのです。
「すべての造られたものに」 11月23日 内田章二副牧師
マルコによる福音書 16章14〜18節
来週の日曜日から再来週の日曜日までの八日間は「世界バプテスト祈祷週間」です。この期間、私たちは特に「世界宣教」を覚えて祈って行こうとしています。この時期にちなんで、とは言っても一週間ほど早いのですが、甦られたイエスが弟子たちに残して行かれたいわゆる「大宣教命令」と呼ばれているみことばを中心に神様からメッセージを頂きましょう。
さて、マルコ福音書16章を最初から最後まで通して読んでみると、そこにはイエスが甦られた朝の出来事から始まって、11人の弟子たちに語るべき最後の言葉を残して天に帰られるまでのいきさつが記されています。最初にイエスのご復活を知ったのは、イエスの墓に出かけたマグダラのマリヤとヤコブの母マリヤ、それにサロメという3人の女性でした。彼女たちは墓にいた若者から、イエスが甦られてすでに墓にはいないことを告げられたのです。そして同時にペテロたちのところに行って、イエスがガリラヤにおられることを告げるようにと指示を受けますが、彼女たちは恐ろしさのあまり墓から逃げ出してしまったと聖書は報告しています。これが16章8節までに記されている出来事です。このあとイエスが天に昇られるまでのいきさつが9節以降に括弧付きで記されています。ここに括弧をつけた理由は、この部分が欠けた聖書の写本が多いということ。すなわち、この部分はあとから書き加えられた可能性が高いことを意味しています。とはいえ、括弧でくくられた部分はやはり8節までの文脈を受けてイエスが弟子たちに、そして私たちに残して行かれた言葉として受け取るに十分なものです。
さて、甦られたイエスは9節によればまずマグダラのマリヤにご自分の姿をお示しになります。8節までの記事では恐ろしさのあまり墓から逃げ出したマリヤでしたが、復活のイエスにお会いしたあと、彼女はイエスの死を嘆き悲しんでいた人たちに復活の事実を伝えます。ところが彼らは彼女の証言を信じませんでした。少し飛んで14節でイエスは11名の弟子たちに現れなさるのですが、そこでイエスは「・・彼らの不信仰と、心のかたくななことをお責めになった。彼らは、甦られたイエスを見た人々のいうことを信じなかったからである」と言われたのです。甦りのイエスに実際に会ったら信じるけれども、会ったという人の言葉は信じない。これに似た出来事をヨハネ福音書20章に見ることが出来ます。弟子のトマスは甦りのイエスがおいでになった時にちょうどそこにいませんでした。他の弟子たちはトマスに「私たちは復活の主にお会いした」と話しますが、彼は「私はその手に釘あとを見、私の指をその釘あとに差し入れ、また、私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じない(25節より)」と言い張っていたのです。しかし、そういうトマスも実際に復活の主にお会いしたときに、「わが主よ、わが神よ」と言って悔い改め、信仰を告白するのです。このトマスに対してイエスは「あなたは私を見たので信じたのか。見ないで信じる者は幸いである(29節より)」という言葉を残しておられます。この言葉は今日のテキストにある「全世界に出ていって、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」というイエスの言葉と考え合わせてみると、福音とは何かということが理解できるのです。つまり、イエスの姿を私たちは見ることは出来ない。けれども、甦られたイエスは確かに今も生きておられて私たちと共にいて下います。そのうれしいニュースを全世界に告げ知らせよと言われているのです。
ところで、うれしい知らせを聞いた時に、私たちは命令されなくても唇のあたりがムズムズして、誰かにこのよい知らせを教えてあげたいと思うものです。だから、私たちはイエスのご命令がなくても福音は「宣べ伝えずにはおられない」ものだと思っています。にもかかわらず、イエスは「宣べ伝えよ」と言われます。なぜでしょうか。
私は以前、ある方から「アメリカの宣教師には頭が下がるよ。なにしろ、高速道路の料金所で料金と一緒にトラクトを渡してるんだから」という話を聞いたことがあります。正直言って「私には出来ないなあ」とその時思ったのですが、そう思う私の心の中には何があるのだろうか、と考えたときに見えてくるのは「弱さ」です。あの人にもこの人にも伝えたい。けれども後込みしてしまう弱さを私たちは持っています。甦られたイエスに会ったという証言を信じることの出来なかったトマスや多くの弟子たちが持っていた弱さを私たちも持っています。けれども、甦られたイエスが今も生きて私たちと共にいて下さるという福音宣教の働きを、イエスは今しがたその不信仰をお責めになった弟子たちに託して行かれたのです。私たちは、この国にあってキリストを証しする難しさを肌身に感じて生活しています。そして、ある場合にキリスト者であるということで社会生活に支障を来すこともあります。しかしそれ以上に私たちの心の中には「なるべく波風立てずに人々と交わっていたい」とか、「変わり者扱いされたくない」という思いがあるものです。そのような中で、私たちはともすれば信仰は教会の中だけのことにしておこう、と考えたりします。そのような私たちに対してイエスは「私はあなたの困難を知っているし、弱さも知っている。けれども、そのあなたがたの弱さや困難をも担って共に歩んで行くために甦った私のことを伝えて欲しい」と言われるのです。この「全世界に出ていって・・・」というご命令は、疑いや迷いの中に陥りやすい私たちに対する慰めと励ましのメッセージでもあることを、この朝あらためて受け止めましょう。
ところで、イエスはこの福音をすべての造られたものに宣べ伝えよと命じておられます。ここで、「造られたもの」と言われている言葉は人間を意味しているのではなくて、神様がお造りになったすべてのもの、すなわち動物も植物も山も川も海も空も、月も星も太陽もみな含んでいることを意味しています。
甦られたイエスが今も生きておられ、私たちの弱さや重荷を共に担って下さるという福音は、人間が一人で聞くべきものではない、とイエスは言われています。人間は神様から頂いた知恵を用いて豊かさや便利さを追究してきました。自然の脅威から身を守る工夫をしたり、生活をより能率的にするために必要な道具を次々に作り出してきました。私などは人々の知恵によって生かされている部分が非常に多いことを認めざるを得ません。誰かがクルマという便利なものを作らなかったら私の行動範囲は非常に狭くなります。また、パソコンが出来たおかげで私は説教原稿を書いたり、神学校の事務を執ったり、また最近は手紙のやりとりまで出来るようになりました。そういう意味で、現代文明の恩恵に浴して生活している私です。しかし私が、そしてあなたが豊かになって行く中で誰かが、否、何かが乏しくなってはいないだろうか、ということに目を向けよと聖書は促しています。
地球の温暖化が世界的な問題になっています。「地球は暖かくなっている」とは、いつ頃から言われ始めたことでしょうか。その大きな原因は人間が文化的な生活をしようとするときにあらゆるところから放出される「熱」だと言われています。それが確かなことか否かは分かりません。けれども幼い頃を振り返ってみると、暖房が不備だったせいもあるでしょうが、廊下に干してある洗濯物がパリパリに凍っているありさまをひと冬の間に何度も見た記憶があります。このことについて研究している人たちは、やがて南極や北極の氷が溶けだして陸地だったところが水没したり、生態系が崩れて多くの動植物が死ぬだろうと警告しています。旧約聖書の創世記第1章には神様が天地を創造されたというあまりにも有名な物語が記されています。ある人はこれを「おとぎ話」と思っています。またある人たちは神様が7日間ですべてを完成されたという点を捉えて「そんなはずはない」とか「いや、神に不可能はない」などと議論しています。しかし、神様がご自分のかたちに似せて人を創造されたときに言われた言葉に耳を傾けると、新しいメッセージが聞こえてきます。「生めよ、ふえよ、地に満ちよ。地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ(1章28節より)」。神様は人間に人間以外の被造物を管理することをお許しになりましたが、それらを造られたのは神様だ、というのが創造物語から聞こえてくる一つのメッセージです。すべてのものは神がお造りになったのだから、人間が好き勝手に踏み込んではいけない部分があることを教えています。
甦られたイエスが私たちの弱さや重荷を担って共に歩んで下さる・・・。この福音をすべての造られたものに宣べ伝えるというのは、神様がひとり子を十字架にかけてまで愛し抜かれた私たち一人一人のために備えて下さったものを守って行くように、という勧めと考えることが出来ます。
私たちはもはや「晴耕雨読」の言葉のようなのんびりした生活には戻れない一人一人です。けれども「すべての造られたものに福音を」と今日も私たちに語りかけられるイエスの言葉の前で立ち止まり、振り返る者でありたいと思います。
「単純な心が幸いを呼ぶ」 11月30日 野口直樹牧師
使徒行伝 26章24〜29節
今日は世界祈祷週間の礼拝ですが、そのことを心に覚えて礼拝したいと思います。今日の聖書の箇所から「幸いな人生とは目的をはっきり持って、単純に信仰の道を歩くことである。」ということを学びたいと思います。
人生における真の幸いとは、「神の栄光のために生きる」ことであります。その意味から、パウロは幸いな人であったと言えます。彼は囚われの身でありましたが、居並ぶ権力者の前でも臆することなく、所信を語ることができました。パウロの証しの生涯から、私たちもどのような状況にあっても、動揺することのない落ち着きを持つことを学ぶことが出来ます。それは信仰のもたらす落ち着きであり、大胆さであると言えます。パウロのこのような信仰は、どこから来たものでありましょうか。パウロは、復活の主イエスに圧倒され、命を主イエス・キリストに預けました。これが、彼の強さの根本となったのであります。
使徒行伝を読んでいくと、パウロにとって願いの通りに事が運びました。ただ、相変わらずの捕われの身ですが、これがなんで幸せと言えるだろうと人は問うかも知れません。パウロの切なる願いは、ただ「主イエス・キリストの惠みを人々に証しすること」でありました。捕われの身であっても、その願い通りに事が運んでいるのですが、こんな幸いはありません。彼の願い・幸いに対して、私たちは何をもって幸いと考えているのでありましょうか。小さな自己目的に固執するなら、真の幸いを得ることはできないと言うことが出来ませんか。自己目的は、たとえその目的が達成されても、結果としては空しさだけが残るに過ぎません。人生には大きな目的を持つことが大切であります。すべての人の大目的は、ただ「み名をあがめさえたまえ」であるべきです。この目的に沿って生きるとき、すべてが幸いの連続となると証ししたいと思います。
また単純な信仰こそ人生の真の幸いを約束するものです。パウロの原点は、よみがえりの主との出あいでありました。彼は、主の愛に圧倒されていたのです。そして、その愛に答えるためには自分の生涯を捧げるほかにはないと悟っていたのです。讃美歌332番に、”主は命を与えませり、主は血しおを流しませり、その死によりてぞ我は生きぬ、われ何をなして主に報いし”と歌われていますが私たちは、それぞれの大切なものを主に捧げて惠みの神に報いることを願いとしたいと思います。
総督フェストは、「パウロよ、おまえは気が狂っている。博学が、おまえを狂わせている」と叫びました。それはパウロの語ることが余りに単純だったからであります。私たちが知っているように、パウロは、深い学びをした人であり、数々の体験を積んだ人です。人生は決して単純ではありませんが、真に学問を積み、経験を重ねるということは単純な結論を得るということであります。アグリッパ王は、「おまえは少し説いただけで、わたしをクリスチャンにしようとしている」と言いました。パウロは答えて、「説くことが少しであろうと、多くであろうと、わたしが神に祈るのは、わたしの言葉を聞いた人はみな、わたしのようになって下さることです。」と答えています。ここにも彼の単純なそして確かな信仰が証しされています。さらに、「このような鎖は別ですが」とユーモアも交えて語っています。
私たちも自分の信仰を考えるとき、単純さを恥じてはならないと思います。人は往々にして、複雑になればなるほど、神さまの前で愚かさをさらけ出すこととなります。福音を語るとき、言葉足らずを恐れてはなりません。むしろ、言葉数が多くなるほど福音の真理は遠ざかることが多いのではありませんか。私たちは、イエス・キリストの十字架の贖いによって生かされている者であることを確信しましょう。神の惠みに自分の最良のものを捧げて仕えること喜びとし、願いとしましょう。