福間教会ホームページへ


福間キリスト教会
宣教15周年記念誌
ついに完成! 15年間の年表もつきました。

年表はこちらです。

*** 目 次 ***

左のをクリックすると、そのページにジャンプします。

*

はじめに 〜感謝と決意〜

野口 直樹 牧師

* 願いを起こさせられる神 川野 直人 牧師
* 証 し 自由ケ丘伝道所 吉永 篤司
* 宣教15周年の記念に当たって C.L.ホエリー
* 原点としての福間教会 鹿児島バプテスト教会牧師 播磨 聡
* 福間開拓伝道の打ち明け話 筑紫野二日市教会協力牧師 斎藤 剛毅
* 福間開拓の思い出 川野 直人
* 広がる恵みの証し 前福岡教会牧師 栗本 高幸
* イーハトーブからのお祝い 盛岡バプテスト教会牧師 鈴木 繁実
* タイから 宣教師 日高 龍子(旧姓:小田)
* 宣教15周年によせて 藤永 寅彦
* 発足の頃 兼行 一弘
* エクレーシア創成のころ 安徳 軍一
* 宮山姉の想い出 藤永 ウラ子
* 教会と真愛保育園の子ども達 安徳 洋子
* 15周年おめでとうございます 宮山朗、樋口久
* 15周年を迎えて 堀 矢寿子
* ホエリー牧師御夫妻の想い出 片山 冨美恵
* 播磨牧師のお導きを感謝して 今村 洋子
* 斎藤剛毅先生のお働き 自由ケ丘伝道所 楠元 建昌・美喜子
* 教会のおかげです <小さい子編> 野口 真
* 教会のおかげです <大きい子編> 野口 惠
* 福間教会への導き 永田 千加代
* 福間教会の七不思議 野口 直樹
* 育て給う神 野口 和子
* 祝 福間教会宣教15周年 野口 徳子
* 新しい出会いの中で 副牧師 内田 章二
* 主イエスの足跡に従って 内田理加子
* 豊かな恵みの中で 内田 敏子
* 野口先生御夫妻に感謝 藤永 ウラ子
* わたしは罪びと 永田 穂
* 主に従って 宮崎 智子
* 15年間の主のお導き 宮崎 信義
* 教会と腐れ縁 永田 雅士
* 主の恵みを感謝して 三村 まつ子
* み栄えをあらわす教会として 三村 保子
* 福間教会の十五年 協力牧師 片山 寛
* 求めれば、道は開かれる 島本 和明
* 恵みの中で生かされて 島本 靖子
* 主の教会につらなって 関 洋美
* 「主の思い」測りしれず 自由ヶ丘伝道所伝道師 家近 宗男
* 主に祈り求めて 有馬 平ニ郎
* 福間キリスト教会15周年に際して 自由ヶ丘伝道所 甲木 栄
* 交わりの中から 福永 聡子
* 福間教会で信仰生活を送るにあたって 高松 広司
* 東京の空より 三鷹バプテスト教会 堀 孝秀
* 信仰の原点としての福間キリスト教会 三鷹バプテスト教会 堀 友里恵
* 信仰によってのみ 河野 俊夫

 


目次へ

    はじめに 〜感謝と決意〜     牧師 野口 直樹

 去る2月7日、私たちは川野直人先生を説教者にお迎えして、宣教15周年記念礼拝を持ちました。5月30日には斉藤剛毅先生をお迎えして、第2回目の記念礼拝、続いて「教会の将来を考える」という主題で学習会を開くことになっています。
 合わせて、記念誌を発行することを決めましたが、ようやく出来あがり、お届けすることができますことを心から感謝いたしております。
 印刷から製本まで、すべて手作りで、粗末なものではありますが、教会学校のこどもたちのイラストなどをちりばめて、親しみのあるものになっております。 この機会に、15年のいろいろな時期に関わってくださった皆さまに心から感謝を申し上げます。歴代の牧師、宣教師を始め、信徒のお一人お一人のお働きの積み重ねが福間教会の現在であることを強く感じおります。記録に残っているものはほんの一部に過ぎません。どれだけ多くの人々の献げものや、奉仕の継承によって現在があることでしょうか。すべてをご存じのお方は主のみです。お一人お一人に主の御祝福が豊かにありますようにとお祈りいたしております。
 私たちはこの15年の恵みをを受け継ぎ、皆さまの労に報いる道は、教会が更に前向きの姿勢を持って前進することであると示されております。申すまでもなく、教会の使命は「福音の宣教」にあります。これはただ、教会員の数の増大、大きな会堂を持つというような数量的なものではなく、それは結果として与えられるものであって、最も基本的なものはその内容において「教会が教会となって行く」歩みにあると思っています。現代における救いとは、子どもの健全な成長とは、愛の実践、福祉とは等々を、他ならぬこの福間教会の現実の中で、みんなで確かめ合い、納得し合いながら歩んで行くことであると考えております。
 すべての人、すべてのことをこのように生かし用いてくださった主、将来も共に歩んでくださることを信じ、より頼んでいる生ける主に感謝し、み名を賛美いたします。

「天国は、一粒のからし種のようなものである。ある人がそれをとって畑にまくと、それはどんな種よりも小さいが、
  成長すると、野菜の中でいちばん大きくなり、空の鳥がきて、その枝に宿るほどの木になる」。(マタイ13:31)

 

目次へ

 福間教会15周年記念礼拝(1999.2.7)
   願いを起こさせられる神    川野 直人 牧師    ピリピ人への手紙2章13節

  序(開拓の経緯
福間教会15周年記念礼拝にお招き頂いて光栄、15年の軌跡記録をお送り頂いて読み返しながら15年前の開拓当初の日々を振り返り、感慨無量であった。そもそもの発端は田隈教会安徳執事の祈りから始まった。弟さんの軍一兄が若木台に居られて小倉教会会員で在られたが住居が遠隔地になり教会から遠のいておられた。その祈りと共に北九州と福岡の中間にバプテスト教会が必要だとの祈りが重なって、長住教会、斎藤牧師の福間開拓の祈りがあった。兼行兄弟、福岡教会、栗本牧師が田隈の開拓計画を干隈の神学校の入学式か何かのときに話題にされ、それらの機縁で三母教会開拓という連盟始めての複数母教会方式の開拓伝道が開始されたのであった。会場には当初安徳兄弟の保育園をと言う計画であったが、諸般の事情から、たまたま安徳執事が取得された若木台住宅を開放され、田隈教会から吉持神学生一家が転居して、集会を始めた。地方連合の協力の中で近隣住宅の開拓伝道チラシ配りから始まった。ウイークデーは婦人層の参加で一軒々々訪問した。当時約10箇所の北九州、福岡地区の教会に所属の会員の方々が次々に参加されたりして,群れが形成され伝道所が発足した。

T、願いを起こさせ

a、「あなたがたのうちに働きかけて,その願いを起こさせ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところである。」(ピリピ2;13)
 神は私たちの心に働きかけられると言う。15年前の福間教会開拓の願いは、誰でもない神の働きかけに他ならなかった。いろんな人を動かし,導き、働きかけながら、キリストの体なる教会を福間のこの地に建てられたのである。開拓15周年にあたり,ご一緒にまず御名を心から賛美したいと思う。
b、久山療育園の始まりについても考えてみたい。42年前なおみが生まれた。重症心身障害児であった。42年前は重症心身障害児の医療も施設も福祉の制度も皆無であった。途方にくれながら臼杵開拓に赴任した。2年間の間に5回転居しながら開拓に当たり会堂、牧師館を建てた。病気は地元の医院では対応できにくかった。しかし、その開業医の方が円城寺先生の遠縁の方で紹介状をもらい、九大病院まで月一回通院していた。後に初代の園長に迎える事になるとは夢思いもしなかった。そんな中で神学生時代奉仕した田隈教会に招かれた。重症児が与えられなかったら転任することもなかった。その後久山療育園を設立する働きにどっぷり関わり今日に至っている。先の聖句を見るとき神の働きかけを否定できない。 もし重症心身障害児が与えられなかったら、バプテストの働きとして久山療育園を設立する運動を起こす事はなかったと思う。「貴方がたの内に願いを起こさせ、それを実現に至らせられる、それは神の良しとされる事」この聖句は私に大きな感銘を与える。
c、神は必要な時に、必要な人に願いを起こさせ、必要な人を動かし事を始められる。伝道の書3章は「全ての業には時がある。神のなされることは皆その時にかなって美しい」と記している。福間教会の始まりもまた、一人の信仰に願いを起こさせ実現に至らしめてくださったのです。まことに神の御名は賛美すべきかなです。全てにおいて神は主導権を握りたもうことを確認したい。開拓の働きが開始されて以来、その経過の歴史を辿ってみる時、多くの牧師、宣教師、神学生、又兄弟姉妹がこの働きに参加され今日に至っています。主の御名のみが賛美すべきかなであります。

U、私に繋がっていなさい

a、ヨハネ福音書15章1〜5を読んでみたい。「私はまことのぶどうの木、貴方がたはその枝である。私の父は農夫である」と主イエスは語られています。私に繋がっていなさい。私につながっていなければ貴方がたは何一つ出来ないと言うのです。
 15周年礼拝に当たりこの主イエスの言葉から、ご一緒に聞きたいと思います。主は私がこの教会の頭であると言われます。私に繋がっていることは、この教会に繋がっていることなのだ、と語られるのです。私達がこの教会にくる事が、神の子主イエスに繋がることなのです。この特権に注目したいし、共に喜びたいものです。
b、エペソ1章には、教会はキリストの体であると記されています。これはヨハネ14章の主イエスのぶどうの木の譬えに通じるものです。私達はこの世の全ての事柄において、計画をたて努力します。しかし、聖書は、すべて私達の生きる全領域において、主イエスキリストが先立て居られると明示しています。「貴方がたの内に願いを起こさせ、それを実現に至らせるのは神であって、神の良しとされるところである」と言うのです。その私達の人生の全領域において、「イエスは主である」と告白する時、私の願いの責任の重さから開放され、主に感謝する平安な信仰が始まるのです。

V、豊かに実を結ぶ

a、「私に繋がっているなら豊かに実を結ぶことが出来る」と主は言われる。ぶどうの木の譬えは、当時のパレスチナ地方の主な産業であったので、人々にとっては身近な譬えであった。マタイ20章の有名なぶどう畑の労働者の譬えも思い出して欲しい。12時間労働の中で、5種類の人々が登場する。朝6時からの人、9時、12時、15時、16時から来た人、これは私達の人生の長さを譬えるものと、私達の働き,その能力を譬えるものと解釈が多様である。私は久山療育園に関わるものとして個人の能力にたいする神の対応と解釈したい。最後の16時から一時間しか働かなかった人にも神は朝早くから働いた人と同じ賃金,処遇をされている。この世の判断はそれはおかしいと文句を言う世界です。しかし、神の御支配の世界は違うのです。
b、教会の使命は伝道である。マルコ16章15節には復活のイエスの命令がある。「全世界に出ていって、全ての造られたものに福音を宣べ伝えよ。信じてバプテスマを受けるものは救われる。」2000年の間世々の教会は,このイエスのご命令を受けて歩き続けてきた。海外に宣教師として言葉も生活習慣も違う国にその生涯を捧げてイエスのご命令に従ってきたのです。その延長線上に今日の教会もある。多くの自己自我を捧げた方々の祈りと汗の貴い働きが今日の教会を在らしめているのです。福間教会の今後の歩みの中で、更なる成長飛躍を主が働きかけ給うことを祈ります。

 

目次へ

  福間教会15周年記念礼拝(1999.2.7)
    証 し       自由ケ丘伝道所 吉永 篤司

 まず、私のような者がこの記念すべき礼拝で、証しするような者ではないのではないか他にもっとこの場で証しするのに相応しい方がいらっしゃるのではないかと思いました。しかし、いろいろ考えてお断りするのも申し訳ないと思い、証しをすることにしました。 1974年2月に福間教会が開所されてから今年の2月で15周年となったことを、自由ケ丘伝道所の19名の会員の皆様を代表して「おめでとうございます。」と心からの喜びを申し上げたい、そして、神様の御名を崇めたいと思います。 私自身は1975年4月から若木台の家の教会の礼拝に出席させて頂きました。 この15年間を一言で言うと、神様が常にともにいて下さったということです。神さまが時に適った人を遣わして下さり、その時の状況に応じた方法でこの福間教会を支えて下さいました。
 最初は、安徳兄のお兄さんの家を貸して頂き、ホエリー先生ご夫妻,藤永夫妻,兼行夫妻,安徳夫妻,吉持神学生夫妻等の目覚ましい働き、福岡教会,田隈教会,長住教会の3母教会の栗本牧師,川野牧師,斎藤牧師はじめ多くの方々の祈りに支えられて、福間の地に宣教活動が始まりました。ホエリー先生ご夫妻は、西南学院の院長という忙しい任務を遂行しながら毎日曜日の礼拝を守り、ご夫妻共々、謙虚な態度で我々を指導して下さいました。ホエリー先生ご夫妻の深い信仰に根付いた祈りと牧会のお陰で、いろいろな教会から集まった教会員がまとまったと思っています。また、吉持神学生ご夫妻が実によく働かれたこと、藤永夫妻,兼行夫妻,安徳夫妻などが心を一つにして奉仕されたことも懐かしく思い出されます。そして、伝道所開設後の数年間、吉持神学生を始め、今給黎神学生,鈴木神学生,小田神学生,播磨神学生の5人の神学生の奉仕にも大いに助けられました。
 会堂建築のために連盟,宣教団,3母教会から多額の献金を頂き、1986年11月に会堂が出来上がり、11月末から新会堂で礼拝が行われました。 1988年3月、ホエリー夫妻がアメリカに帰国された後、4月から神学校を卒業されたばかりの播磨牧師を迎え、教会組織に向けて学習会を7回に渡り実施しましたが、教会組織を延期することを決議し、播磨牧師辞任という悲しい経験をしました。しばらく、執事が交替で礼拝の奨励をしましたが、アメリカから帰国された斎藤先生ご夫妻を迎え、5月から斎藤先生が礼拝説教と晩餐式を担当してくださいました。牧師招聘委員会で次期の牧師の選定を進めながら、1991年11月に建築のことに詳しい酒見兄の良き働きで、牧師館・教育館の建築を始め、1992年5月に約70名の出席を得て献堂式が行われました。それから、約1年後の1993年4月に野口先生を牧師として招聘致しました。その間、ここにおられる藤永ご夫妻が夜間もこの会堂周辺を見回って下さっていましたが、牧師館に灯りがついた時、誰よりも藤永ご夫妻がほっとされたことだろうと思いました。
 さらに内田神学生に奉仕をお願いし、1994年には斎藤先生に代わって片山先生を協力牧師として迎え、1994年5月末に教会組織が行われました。野口牧師就任以後、他教会からの転入会される方々も増えて、会員数・礼拝出席数が倍増し、さらに増え続けたことはご存知の通りです。教会のビジョンとして宮崎兄を中心に福祉問題が話し合われましたが、主に久山療育園への奉仕活動が行われ、さらに他のビジョンが語られる中で、自由ケ丘伝道所が1997年4月から開設され、もうすぐ2年が経とうとしています。そして、家近兄が九州バプテスト神学校を卒業され、昨年4月から伝道所の伝道師として説教を受け持っていただいております。楠元夫妻の献身的な働きも感謝せずにはおれません。
 ホエリー先生のメッセージが小冊子になっているものがありますが、その中に西南学院の創立記念式典の式辞の中に、1985年5月に「記念が危険になるとき」と題するメッセージが目をひきましたので、簡単に紹介します。先生は詩篇の77篇を引用して「記念というものが人や場所ではなく全能の神の業に向けられているのです。創造の物語を思い出しながら、詩人は未来の中に存続しつつある神が再び恵みを施される可能性を見やっているのです。記念の対象となるのは、学院を今日まで導き守ってくれた全能の神であり、主であると言わねばなりません。歴史の時々における神の業を感謝し、このときを祝うものであるのです。」と述べておられます。
 出エジプト記の13章21〜22節に「主は彼等の前を行かれ、昼は雲の柱をもって彼等を導き、夜は火の柱をもって彼らを照し、昼も夜も彼らを進み行かせられた。昼は雲の柱、夜は火の柱が、民の前から離れなかった。」また、40章34〜37節には「そのとき、雲は会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。モーセは会見の幕屋に、はいることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。雲が幕屋の上からのぼる時、イスラエルの人々は道に進んだ。彼らはその旅路において常にそうした。しかし、雲がのぼらない時は、そののぼる日まで道に進まなかった。」 神は、私達すべてのクリスチャンのために、今も雲の柱となって導き、火の柱となって守っていて下さることを心から感謝します。さらに、我々の教会がまばゆいばかりの主の栄光に包まれる経験をするために、ネヘミヤ記の8章にあるように、み言葉への徹底した聴従と悔い改めが求められているような気がしています。
 少し長いですが、旧約聖書の675頁の5節から12節を読みたいと思います。この聖書の個所はご存知のように、礼拝の場である神殿を完成し、さらに城壁の修復も終わった後、イスラエルの民を神殿に集めてあけぼのから正午まで6時間に及ぶ集会が持たれました。ここでは、ネヘミヤに代わって学者エズラが登場します。 「エズラはすべての民の前にその書を開いた。彼はすべての民よりも高い所にいたからである。彼が書を開くと、すべての民が起立した。エズラは大いなる神、主をほめ、民はその手をあげて『アァメン、アァメン』と言って答え、こうべをたれ、地にひれ伏して主を拝した。エシュア、バニ、セレピヤ、ヤミン、アックブ、シャベタイ、ホデヤ、マアセヤ、ケリタ、アザリヤ、ヨザバデ、ハナン、ペラヤおよびレビびとたちは民に律法を悟らせた。民はその所に立っていた。彼らはその書、すなわち神の律法をめいりょうに読み、その意味を解き明かしてその読むところを悟らせた。 総督であるネヘミヤと祭司であり、学者であるエズラと、民を教えるレビびとたちはすべての民に向かって『この日はあなたがたの神、主の聖なる日です。嘆いたり、泣いたりしてはならない。』と言った。すべての民が律法の言葉を聞いて泣いたからである。そして彼らに言った、『あなたがたは去って、肥えたものを食べ、甘いものを飲みなさい。その備えのないものには分けてやりなさい。この日はわれわれの主の聖なる日です。憂えてはならない。主を喜ぶことはあなたがたの力です』。レビびともまた全ての民を静めて、『泣くことをやめなさい。この日は聖なる日です。憂えてはならない』と言った。すべての民は去って食い飲みし、また分け与えて、大いに喜んだ。これは彼らが読み聞かされた言葉を悟ったからである。」
 「神のみこころに添うた悲しみは、悔いのない救いを得させる悔改めに導き、この世の悲しみは死をきたらせる。見よ、神のみこころに添うた悲しみが、どんなにか熱情をあなたがたに起こさせたことか。」とコリント人への第二の手紙にある御言葉のように、イスラエルの人々の徹底した信仰態度に深い感動を覚えます。 福間教会の今後の歩みが、主に祝福されるものとなることを祈念して、私の証しを終わります。

目次へ

   宣教15周年の記念に当たって     C.L.ホエリー

 宣教15周年の記念に当たり福間教会の皆さんに心から、お祝い申し上げます。
 僅か15年の間、若木台団地の小さな集会(伝道所)が成長して現在の自立した立派な教会になったということは、まことに不思議な奇跡だと信じて神に感謝しています。
 私にとって、その最初の1年間はもっとも思い出深いときでした。教会らしいものは何もなく、人数も少数であるにも拘らず、主ご自身がともにおられると強く感じて、皆が一つとなり礼拝を守り、周囲の社会に対して証をすることが出来ました。
 また三母教会がどのように協力して必要な霊的、または財政的なものを援助してくださったことかということも印象的でした。一つの伝道所に一つの母教会があるのは普通となっていましたが、福間伝道所には一つではなく三つの立派な母教会が与えられました。しかもそれぞれの会衆の中から株分けとして、どんどんと会員が伝道所に送られ、伝道集会の際は、母教会の3人の牧師が講師となって助けてくださいました。そして会堂建築がいよいよ実現されると、三母教会から335万円ずつ援助としていただきました。実に素晴らしい開拓の時代でした。
 しかしその開拓伝道の精神が今も生きていて、福間教会が現在もなお成長を続けているということはもっと素晴らしいことだと思い、重ねて感謝しています。
 今後ともどうか「主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。」という預言者の言葉を思い出しつつ、ますます進んで行くことができるように祈っています。会衆ご一同の上に大いなる主の恵みがありますように。

 

   宣教15周年記念礼拝を祝して

                   鹿児島バプテスト教会牧師 播磨 聡

頌主
 日本バプテスト連盟福間キリスト教会の歩みが、宣教15周年を迎えられることになられましたことを心より主に感謝し、お慶び申し上げます。
 私も貴教会の初期の歩みに連ならせていただいた者として、感慨を深くさせていただいております。貴教会の兄弟姉妹とは、多くの喜びと苦難を共にさせていただき、足りない器を愛と寛容をもって支えていただき、今でも思い起こすことが多くあります。ちょうど私が赴任をしていました時は、私個人のことも含めて、試練と苦難の日々でありました。今、その時を冷静に振り返るという時が与えられ、主の御手を感じております。どうぞ、貴教会が拡大成長するための節目としてではなく、イエスの福音に生きる節目として、罪人の中に歩まれ、嘲られながらも、希望を指し示して行かれた主に従う群れとして歩み出されることを遠地よりお祈り申し上げます。
 記念礼拝が豊かな主の慰めと祝福、幻と夢が与えられる時として、主の臨在が豊かにありますようにお祈り申し上げます。 (1999年2月 記念礼拝へのメッセージから)

目次へ

   原点としての福間教会   鹿児島バプテスト教会牧師 播磨 聡

 福間キリスト教会の宣教開始15周年を心よりお慶び申し上げます。
 私は、御教会の1988年から2年間の歩みに牧師として連ならせていただきました。今、その時を振り返り、感慨を深くし、喜びを抱いております。
 御教会は、私の牧師初任地であり、結婚式も挙げ、深く思い出に残っているところです。その頃は、三母教会のもと、教会組織に向かって準備をしていた時でした。その作業は名実共に「キリストが建てられる」ための産みの苦しみを伴う「教会組織」の取り組みでありました。また、月に一度の久山療育園でのボランティアや教会学校での許斐山ピクニックなど楽しい思いでもたくさんあります。今、その時を振り返ることが許され、牧師と教会員相互の状況がうまく噛み合わなくなった時に、お互いの良さが出せなくなるという現実を思います。「私でない牧師ならば、もっと教会の方々の良いものが生かされていくのではないか」、そんな思いが、御教会を離れる時の一つの心境でもありました。その後、私はトラックの運転手をしながら食べつなぎ、現在の教会に招へいを受けましたが、御教会の方々も野口牧師が赴任するまで、様々な苦しみがあられたことと思います。そして、非常に人間的なことではありますが、牧師の持っている歯車と教会の方々が持っている歯車が噛み合うことの有り難さを、喜びとして実感されておられるのは、私も御教会の皆様も同じことだと思います。「もう一度、やりなおせるのだ」「立ち上がれるのだ」という福音が、働いていることを信じています。
 今、福間で生まれた娘が小学4年生になろうとしています。その「時の流れ」を覚えつつ、牧師としての原点を御教会とすることができることを感謝し、御教会の働きを遠地から祈りに覚えさせていただいています。
 主の平和と正義が地の上に満ちますように。

 

  福間開拓伝道の打ち明け話  筑紫野二日市教会協力牧師 斎藤 剛毅

 宣教開始15周年にあたり、主の恵みと教会の皆様の熱い信仰と奉仕とを思い、教会の着実な成長を心からお慶び申し上げます。 私は今回の記念誌に福間伝道所発足時の秘話を一つ紹介したいと思います。1983年に主は福岡市と北九州市の間にベッドタウンとして大きく拓け始めた福間地域に伝道所を開設する幻を長住教会に与えてくださいました。当時伝道部主事として連盟事務所に移られた安藤栄ニ牧師と一緒に車で現地視察を行ったことを思い起こします。会員の兼行夫妻が福間町若木台団地に引っ越すことになり、福間地域に住んでいてバプテスト教会に出席したいと願う信者さんたちの存在も予想され、伝道所開設のための会場捜しが始まったのです。東福間駅周辺に適当な会場が仲々見当たらず、困っておりました。
 そんな時、弟思いの安徳典光兄が若木台に居を構えて北九州大学で教えておられる軍一兄が何とか礼拝に出席して欲しいと願い、若木台に一軒の家を入手して、その家を集会所として提供するから伝道所を開設して欲しいと当時の田隈教会の川野牧師に要望されました。
 その年の地方連合会長、福岡教会の栗本牧師がニ教会からの情報をキャッチし、伝道委員会で、「長住教会が若木台の安徳典光兄の家で開拓伝道を始める計画を立てている」と誤りの情報を語ってしまったのです。びっくりしたのは川野牧師です。「長住教会は田隈教会に相談もなしにそのような計画を立てているのか」という問い合わせがあり、私は寝耳に水の質問に驚き、その結果、三牧師会談と相成りました。誤解が説けて、幸いにも田隈・長住、ニ教会による開拓伝道を安徳兄の家を会場として行う可能性を探る話し合いへと進み、ニ教会の総会総会決議を経て、第1回の主日礼拝が行われたのが84年2月5日でした。
 5月には福岡教会も母教会に加わって下さり、三母教会による協力伝道が実現したのです。ウッカリミスも最善の結果に導いて下さった神様のお働きが伝道所誕生の背後にあったのです。

目次へ

   福間開拓の思い出         川野 直人

 伝道開始十五周年おめでとうございます。若木台の住宅で開拓伝道が始まって、もう十五年も経ったのかと、始まりに関係した者の一人として感慨無量です。当時、田隈教会執事の西南学院大学安徳教授が,弟さんの居住される福間地区に,北九州と福岡市の間にバプテスト教会が一つ必要ではないかと祈り始められたのがそもそもの始まりでした。ピリピ二章十三節に「あなたがたの内に働きかけて、その願いを起こさせ、かつ実現に至られるのは神であって、それは神の良しとされるところだからである」とありますが、福間教会の開拓の起こりはそのような神の豊かな導きがあったことを覚えたいと思います。長住教会と福岡教会がこの開拓伝道に参加して、連盟始めての複数母教会による開拓伝道が開始されたのでした。三つの母教会から牧師と伝道執事が開拓伝道の委員となり、毎月委員会を開いては開拓の為に祈りと 協議を進めたののも今は楽しい思い出です。
 西南学院院長のホエリー先生が伝道所の牧師として協力してくださるまでは、三つの母教会から牧師と伝道執事が、担当神学生と共に宣教に協力して開拓を進めたものです。
やがて現在地に、土地が与えられ会堂が献堂され、伝道所が教会として形を整えて来ました。嵐の夜でしたか、停電した暗い中で伝道所の藤永執事と二人で祈祷会を守った事など、今は懐かしい思い出の一つです。
 教会十五年の経過の中にもあるように、代代の奉仕神学生、初代の若さにあふれた播磨牧師の就任によって、伝道は新しい転機を迎えます。北九州市と福岡市の中間に位置する福間町は、両方の地区から住宅を求めて移住されたクリスチャンの方々が、近くに教会が出来たという喜びから、次々に転会が見られます。その様な中で野口先生が仙台から二代目牧師に着任され、伝道は益々実を結び、伝道所から教会組織を迎えたのでした。

 

   広がる恵みの証し      前福岡教会牧師 栗本 高幸

 宣教15周年記念を心からお祝い申し上げます。
 私は福岡教会牧師として、御教会の開拓時から関わらせていただきました。と申しましても、始めは長住教会と田隈教会が母教会となっていたのですが、3ケ月後に福岡教会もその光栄ある責任を担わせていただくことになったのです。
 その後は土地や会堂の登記などの主管教会としてお役に立たせていただきました。担当の執事として故吉富靖隆兄が良く取り組んでくださいました。そして、大変良い経験をさせていただきまして、それが和白伝道所の開拓時にも生かされました。御教会は福岡教会が設立、又は開拓に関わった教会、伝道所として、11番目にあたります。
 私は御教会の教会組織の時に、「どうぞ、新しい伝道所を生み出してください。」とお勧めしました。御教会はその通り実行され、3年後には自由ヶ丘伝道所を生み出されたのです。
 このようにして次々と福音の証しが広がって行くことは、「主は今も働いておられる」ことを実感させられ、感謝でいっぱいです。
 御教会は内田章二先生を副牧師として迎えておられます。今は車椅子の生活となっておられますが、福音宣教の使命感は益々高まっておられます。
 内田師は私が連合の教育委員長をしておりました時、香住ヶ丘教会員として教師研修会に参加され、最後の集会で献身の決意を表明されたのです。私はそれ以来、内田師の決意が生かされますように、全うされますよにと祈っておりました。今、内田師のお働きが御教会で十分に生かされていること思って心から感謝している次第です。
 これも又、福音の証しの広がりです。御教会の証しは全日本の教会に伝えられ、注目されています。
 今後とも主が御教会のあらゆる働きに共にいて、恵みの証しの広がりを担い続けて行かれますように、心からお祈りいたしております。

栗本高幸、祥子:〒432-8002静岡県浜松市富塚町1222-145あけぼのマンション6 電話・053-475-1812

目次へ

  イーハトーブからのお祝い  盛岡バプテスト教会牧師 鈴木 繁実

 軒先に1メートルの氷柱が下がる盛岡より、福間キリスト教会宣教開始15周年のお祝いを申し上げます。後少しで会堂横のミカンの花の香る季節でしょうか。神学生の1年間(1986年度)会堂建築と移転の時期を過ごさせていただき有り難うございました。福間のお一人お一人とその思い出は今でも生き生きと私の心の中に残っています。「15周年。もうそんなに経ったのかな」という思いです。神学寮から福間まで、雨のときも雪のときも通った、あの時既に高齢のオートバイは何度かの引越しを経て、年相応にチビて来たり、傷付いたところも有りますが、今も私の傍らにいて現役です。教会学校の一緒に遊んだヤンチャであったりシャイな子供達も、私の心の中ではあの時の背の高さのままです。そしてさまざまの奉仕を担って下さった教会の方々もあの時の姿のままです。先に天に召されて行った方もあの時の微笑みのままで私の心の中に生き続けています。
 我が家は6才の長女を頭に、乳飲み子までのほとんど年子の子ども5人の大所帯になってしまいました。自分が「大事に大切に」と思っているものは見事に壊され破られ、家族(+犬2匹)が乗る自動車の中は、さながら「ノアの箱舟」の中。賑やかな食事と、布団が隙間なく並ぶ家は、毎日が夏季学校。両脇と足元に子らは眠り、ウンチ、オシッコ、ゲボにまみれ、叫び声と心ないキックやパンチが浴びせられ、両手両足の自由を奪われ磔状態の夜は十字架の主を想う。そんな小さな命(キリストも大人ではなく手のかかる幼な子として来られた)の育みの中で、イライラがつのり怒鳴り散らした後に、自分の中には愛も信仰も無いことに気付かされ、お手上げ(聖書の中の人達もだから手をあげて祈ったのかもしれない)です。こんな生活の中から盛岡教会の人達に励まされつつ、聖書を読み、主に向い合い、盛岡の地に在る「キリストの体」を育むことの中で、自分が「人になる」ようにと育てられているように思えます。
 誰からも知れない中に多くの奉仕や涙の祈りが有ったろうと想います。ただただ主がほめたたえられ、足らざるところを主が贖ってくださいますように。これからも福間の地に在る「キリストの体」を育んで下さい。15周年、本当におめでとうございます。

《家族構成》:鈴木繁実(1955.6.25生まれ) [1991年5.12結婚] 房枝(ふさえ 1960.8.11)
       *長女 クミ(1992.5.5) *長男 喜愛(よしあ 1993.11.4)
       *次男 仰旨(こうじ 1995.1.28) *三男 基生(もとい1996.4.20)
       *四男 共耶(ともや 1997.9.18) 
       *ベル(雌犬 7才) *ブー(雄犬 6才) [合計]7人+犬2匹
           〒020-0881 盛岡市天神町10−14 電話・FAX 019-622-0617

 

    タイから         宣教師 日高 龍子(旧姓:小田)

 主の御名を賛美します。今度は宣教15周年を迎えられ、心よりお喜び申し上げます。
 12年前、すでに婚約が決まり、12月まで一年足らず、伝道師として働き場を与えて下さった福間教会の方々に今でも感謝しています。
 台所で、事務所で、礼拝堂で、集会の前後、信仰のこと教会のことをたくさん語り会いました。
 お米のとぎ方、お茶の入れ方等、アドバイスを受けたこと、本当にうれしい交わりをいただきました。
 初めてのバザーの時なども色々と必要なものを買うように推められ、その一部はこのタイの地にも持って来ています。
 貴教会の御働きのため、お祈りしています。

*日高先生ご一家は日本バプテスト連盟が送り出している宣教師です。
*ご住所は:Yoshihiko & Ryuko Hidaka Thailand Baptist Theological Seminary
      433 Soi Prasart Court, Suan Plu,Sathorn Tai Rd., Yannawa,Bangkok 10120, THAILAND

   <日高先生の今年の年賀状から>

  祝 御降誕  謹賀新年   ”(タイ語でなにやら)”

@98年は初めて説教、証し、講義をタイ語でしました。何とか通じて喜んでいます−嘉彦

A語学学校を卒業して、神学校に行く機会が増え、学生、スタッフ、教授方と親しくできて喜んでいます−龍子

B日が傾いてから、ドッチボールタイム。引っ越ししてお友達と遊ぶ機会が増えて喜んでいます−紫音

C時間があればポケモンの絵を描いています。好きこそものの上手なれ、タイの風景画が入選して喜んでいます−嘉信

D来年はいよいよ一年生、お姉ちゃん、お兄ちゃんと一緒に通学できると喜んでいます−真輝子

目次へ

   宣教15周年によせて     藤永 寅彦

 名古屋より、福間で生活することになり、希望と不安と教会が気になりながら夢中で過ごしておりました。そんな或る日、新聞折込みで福間伝道所の集会を知りました。同じバプテストであり、妻と喜んだことを思い出します。名古屋の熱田伝道所から会堂建築までいたったことを思い出しつつ、1984年2月5日、初めての礼拝に出席しました。
 10数名の方と久しぶりの礼拝に出席してほっとした気持ちと、出発点に立った緊張感がありました。何回か出席するうちに、多くの方が集会を待っていたことを知りました。だんだんと会場が狭くなり、この家の2階を礼拝堂としては等の話が出るようになり、会堂建築が具体化していった。資金は宣教団補助金2000万円、三母教会(1教会335万円)1005万円、連盟臨時費1100万円、伝道所自己負担金150万円、連盟より借入金400万円、合計4655万円。土地は駅に近く、教会にふさわしい場所となれば限られるけれども、全員で若木台、津丸、久末を中心に懸命に捜したが、なかなか見つからない。思った以上に困難で、キリスト教に対する偏見ではないだろうかと半ば諦めていた頃、思いがけないことから現在の場所を与えられた。母教会の方も喜んでいただき、早速どんな会堂、間取りについて何回となく教会員と話し合い、台所は広く、母子室は二重窓に、シャワーだけより風呂にすべき等、いろんな意見が出された。近い将来、2階に牧師館と教育館を作る予定だから基礎工事はそのようにして欲しい。山田設計士にも何回となく無理を聞いていただいた。教会設立にかかる開発許可申請理由書をはじめ、数々の書類を県庁に何回となく通ってやっと許可になり、建築施工者は山本木材株式会社に決まり、いよいよ基礎工事が始まり、三母教会の祈りがここに根はり枝を伸ばしてゆく思いで毎回見に行き、祈った。だんだんと鉄骨が組立てられ、塔に十字架がなんともいえない輝きが、数々のイエスの歴史を物語っている思いでした。又この地に十字架の言葉を伝えんとキリストの歴史の始まりを感じた。毎回行って、「ここに排水溝を作って下さい」、「ここに水道の蛇口を作ってください」とお願いしても、図面にないからと断られたりしながら、尊い献げもので最善を尽くすべく懸命であった。だんだんと完成に近くなり、1987年1月15日、献堂式を迎えることが出来た。三母教会の方始め、多くの方の出席のもとに開かれた。筆舌に尽くせない感激でした。
 「わが杯はあふるるなり」 伝道する教会、産み出す教会を願って、まず子供達にキリストをモットーに小学校の門の前でチラシを配り、家庭をこまめに訪問して42名の子供達が与えられ、クリスマスの劇や、わかたけ広場で思いきり遊んだ子供達がキリストに出会うよう、願っています。遠路より、寒い早朝オートバイで来た鈴木繁美神学生の手はカジカンで、台所に走りこんで暖める姿を思い出します。神学生と共に充実した教会学校でした。
 早くより願っていた牧師館、教育館も与えられ、産み出す教会を願って祈っておりました。楠元宅で家庭集会を始めることは、伝道所を開くステップになることを願っていた赤間、自由ヶ丘よりだんだんと教会員が多くなり、伝道所を開くときが来たことを感じておりましたら、自由ヶ丘に最適の場所を与えていただき、教会総会で賛成していただき、1997年6月15日、開所式を行うことが出来、感謝にたえない。祈りをもって事をなす時に、主の山に備えあり。主は必ず道を開いて下さる。自由ヶ丘伝道所の会堂、教会組織を祈りつつ、15周年の歩みを終わります。

 

    発足の頃      兼行 一弘

 私達家族が現在の住居、若木台団地へ引越して来たのは今から約16年前の夏、当時長女4才、次女は未だ1才でした。それまで私達は福岡市南区の公団アパートに住んでおりましたが、所属教会である長住教会の牧師、斎藤剛毅先生へ転居について相談したところ、長住教会でも近い将来宗像地区に新しい伝道所を開設予定とのお話しを聞き、意を強くし思いきって当地へ転居することとしました。
 転居後しばらくの間、伝道所開設の具体的な動きがありませんでしたので、近隣の古賀教会や津屋崎教会の礼拝に参加しておりました。転居して約半年後、いよいよ新しい伝道所開設の動きが具体化し、母教会は長住教会だけでなく、同じビジョンを持つ田隈教会(後に福岡教会も加わり三母教会となる)と共同で組織された開拓伝道協議会が中心となり開設の準備が進められて行きました。そして新伝道所の場所は田隈教会安徳典光兄所有の若木台4丁目の住宅を借り上げ、初代牧師にホエリー先生(当時西南神学部教授、4月より西南学院長)、奉仕神学生として吉持篤信神学生をお迎えし、'84年2月に第1回の主日礼拝を守りました。3月には連合諸教会より百名余りの参列者を得、開所式が盛大に行われました。又、6月には三母教会の牧師を講師にお迎えし、第1回の特別伝道集会が開かれました。
 振り返ってみますと福間伝道所は三母教会方式という新しい試みの中で誕生しましたが、その三母教会の一致協力をしての力強い支援とホエリー先生(宣教団)、奉仕神学生の働きが本当に大きかったと思います。又、伝道所の開設や運営に当った伝道協議会の働きは本当に楽しく充実した良い経験の場でありました。
 福間教会は昨年自由ヶ丘伝道所を開設し、母教会となりました。今度は私達が伝道所を支援する番です。

目次へ

   エクレーシア創成のころ     (迷羊)安徳 軍一

 吾々は福間(<福音の間>という意味が秘められていたのか。)の地にエクレーシア創成の理念が結実するまでには幾多の困難を体験したことを、胸中から湧き起こる熱い想いとともに想い起こす。しかし苦難の泪は真珠のような嘉びの泪へと変えられてしまう序曲のようであった。あの頃の出来事に、ニ十世紀末に極東のはずれで起った歴史的な奇しき出来事に、想い到すとき、やはり<西方の人>を渇望してやまない求道する東方の人たちが確実に実存したという証しであった。
 今拙稿を認めている書斎の窓外には霏々として白雪がふりつもっている。広大な天からのメッセージがひとひら、またひとひらと舞い降りてくる。相変らず永遠の現在を静寂が満たしている。かかる聖なる瞬間にこそ、かの芥川の絶唱となった遺稿「続西方の人」の中のさいごの一節が、筆者の想像力の共鳴函に余韻嫋嫋とひびいてくる。−−<我々はエマヲの旅人たちのやうに我々の心を燃え上がらせるクリストを求めずにはゐられないのであらう>(勿論、この言説の典拠は、<ルカ伝24:32>の記事をふまえたエコーである。ここで言われる”心”は、'kardia'で表わされており、魂の同伴者イエスの"心('nous')とまるでテレパシーのごとく、そのカリズマ('kaharis'=graceに由来する)と共振し、その愛('agape')の磁力にみたされ、またそこへと求心的に牽かれていく精神的な磁場とでも言ってよかろう。)
 1984年2月5日の福間伝道所における主日礼拝より、1986年の会堂建立(献堂式は翌年1月15日。あの時はオレゴン州からのジャーニ・ウィメン二人も参集した。)までの経緯を縷々記述する余白もない。ただ熱誠な祈りに応えて、主なる神がイマヌエルとしてこの地上における故郷喪失者たる人間の魂をこよなく憐れんで、有効な救済装置をしつらえて下さったという事実は、歴史的真実として証し得るであろう。そのプロヴィデンスの実現の為には、すべての世俗的な人知をもさかしらな技術をこれを悉く善用され給うたことも。--Surusum corda.(1999.2.3)

 

   宮山姉の想い出    藤永 ウラ子

 私が宮山姉と出会ったのは、4丁目にあった家の教会でした。同じ佐賀県出身という事で親しくして頂き、何でも話せる仲になって、小さい時にお父様を亡くされ、お母様(樋口姉)が三人姉妹を育てながら佐賀教会に行っていらっしゃったので自分も一緒に礼拝に出て、高校生のとき佐賀教会で加来国生先生からバプテスマを受けたことなど、話して下さいました。
 家の教会へ行っている頃から三人の子供さんを教会学校へ導きたい、そして将来はクリスチャンホームを作りたいと願っていると言って、特別伝道集会、クリスマス礼拝にはご主人も誘って一緒に出席していらっしゃいました。教会堂が建築されて教会学校の子供達も多くなってきたので、教会学校のお手伝いもして下さいました。いつもニコニコしていて、優しさと笑顔を絶やさなかった方でした。どんなに忙しくても教会の仕事を手伝って下さいました。又、お料理や編物等もお上手でした。愛餐会でちらしずしを作ると、錦糸玉子を細く綺麗に作って来て下さったり、クリスマス祝会の持ち寄りにはシュークリーム等色々な御馳走を作って来て下さったことを思い出します。そして、クリスマス頃になると、必ずポインセチアを献品して下さいました。
 5月3日に告別式があった1週間前の日曜日は教会の総会があり、愛餐会の後かたづけをしていて布巾を洗いながら「左の腕が痛くて絞れないのよネー」と言われ、「じゃあ、私が絞ろうか」、「いや、なんとか絞れる」、「そう・・・」といった会話が私には最後の会話でした。
 宮山姉が召天なさってから御主人様とお母様はよく礼拝に出席して求道中だし、長男の方も教会で結婚式を挙げられましたし、信仰深いお母様が同居していて下さいますので、宮山姉の祈りと願いであった御家族への思いも神様はかなえて下さると信じております。

目次へ

   教会と真愛保育園の子ども達      安徳 洋子

 主の御名を賛美いたします。
 福間キリスト教会が15周年を迎えられまして、おめでとうございます。
 此度は、記念誌が発行されるにあたり、多くの方がいろいろな歩み、想い出を綴られる事でしょう。私は、教会と真愛保育園の子ども達のかかわりを書かせていただきます。
 毎年11月の七五三の時期になりますと、3歳〜5、6歳の子ども達(約50数名)をつれて、教会の方にまいります。
 七五三の祭りは、日本文化の伝統的行事なので、本来ならお宮参りなのですが、我園では、福間キリスト教会にまいります。
 野口牧師御夫妻が、毎年快く子ども達を迎え入れてくださいますので、大変喜んでおります。(ここの教会の納骨堂には、我園の職員でいらした宮山先生がねむっていらっしゃるという事も、大変意義深く感じています)
 野口先生や和子先生がお話しをして下さり、そして一人ひとりを祝福してくださいます。3歳〜5,6歳児約50数名の子ども達が、野口先生、和子先生のお話しをしっかり、そして、真剣に聴いている姿が印象的で、毎年感動させられています。
 大切な事を大変解かりやすくお話ししてくださる事に対しても感謝の気持ちで一杯になります。
 ほとんどの子ども達は教会に縁がないだけに、なにか神聖な場所を訪問した気分になっている様です。帰る道すがら、子ども達が「神様のすんでいる家に行ったね」とか、「頭は、いい事、悪い事を考える為にあるもんね」とか「神様がいつも僕たちを達を守っててくれるもんね」等々言っている姿に接すると、大変嬉しくなります。子ども達を迎え入れていただけます事を心より感謝申し上げます。
 今後とも、福間キリスト教会が世の光となられますようにとお祈り致します。

 

   15周年おめでとうございます      宮山朗、樋口久

 主の御名を讃美いたします。
 福間教会宣教15周年をお迎えになり、おめでとうございます。
 田隈、長住、福岡3教会を母教会に、お祈りによって主が支えて下さり、又この地にあり信仰の渇きを覚えつつ望みを抱いた信徒の皆様により築かされた尊い祭壇でございます。その後自由ヶ丘伝道所をも与えて頂くという確固たる礎を神様より頂かれました。
 福間教会が祈りと感謝に充ち、益々主のご栄光が拝せられますよう心よりお祈り致します。
 宮山信は、夫の転勤に従い長らく教会礼拝が守れませんでした。ようやくこの地に落ち着くにあたって導かれた始動期の福間教会は余計に神の御臨在と皆様との協力を覚え、苦しみも喜びに変わる心の支えとなった事でしょう。「歌いつつ歩まん」をいつも愛唱しておりました。我が家にとっても神のお計らいがありました。信の突然の死、驚き悲しむ家人を神様は素早く御手を差しのべて、平安と祈りに変えてくださいました。長男の結婚に際しましても神様のメッセージは愛のお訓しでした。お蔭様で孫も与えられ、平和と感謝の中に居ります。福間教会歴代の牧師先生方、皆様方の暖かいお援けによって今日あります事を感謝致します。
 未信者、他教会員である私共は、不思議な神様のお招きを受け、教会にお世話になって久しくなりますが、優しく労わって下さり、勇気を保たせて下さり、有難いことでございます。
 これからも御言葉に従いつつ、この地に宣教の大道が拓かれますよう、教会の御発展を望み信じお祈りしております。
 御恵み豊かに頂けますように。

目次へ

   15周年を迎えて       堀 矢寿子

 私が福間教会へと導かれたのは、今から12、3年前だったと思いますが、夫の病気療養の為、東京より引揚げて教会を捜していた時に岩切夫人が福間教会のチラシを送って下さり、その時からの御縁でした。福間教会は家の教会から会堂建設のときで、周囲は新興住宅街でもあり、方々からの寄り合い世帯でしたので、教会員も今まで通っていた自分の教会のカラーを良くも悪くも主張し、トラブルが多かったことを記憶しております。未だに消すことの出来ない痛みとして残っていることは、播磨先生が辞任されたことでした。ことの発端が婦人会からのことだっただけに、悔まれます。その時以来、教会に来られなくなった婦人に、特伝のお誘いの折に色々お話しすることが出来ました。今も痛みの中におられ、様々な原因がそれぞれにありましたが、人の業や、力や、考えに頼った時に思わぬ方向に事が進んで行ったことを感じましたし、「1988年度の福間教会の歩みを振り返って」の文中での播磨先生の問い、「教会とは何なのか。教会における交わり、救いにあずかった者の群れとしての歩みとは」に、私たちは聖書が繰り返し示しているように、悔い改めの必要と、神を愛し、隣人を愛し、成長させて下さる神にすべてを委ね、祈り求めて行動しなくてはならないことを再び示されました。
 私も教会生活は長く、成長のない足りない者ですが、15周年のこの節目に「目に見えないものを大切にしておられるキリストにあって、神を、愛を、優しさを、信仰を、永遠の命を、この世の人々に指し示すという、宣教に励む教会になることを祈りましょう」。播磨先生の想いに重ね合わせて、自我を捨て、謙虚に生きて行きたいと思います。

 

    ホエリー牧師御夫妻の想い出    片山 冨美恵

 1984年から今日迄の月日の流れの速さに驚きながら福間教会創立15周年を迎えて居ります。当時私は若木台に住んで居りましたので、各戸に配られたホエリー先生の顔写真入りのチラシを見て、早速初日に参加しました。そこは、くるみ公民館近くの民家で、6畳間に説教台とオルガンが置かれ、その続き間の8畳に椅子が並べられ、狭くなれば台所とのあいだのふすまを外して対応すると云うアットホームな伝道所でした。
 先生は自己紹介で、「私の名は鯨で、ジョージア州のアトランタの出身です」とウイットに富んでいてお人柄の偲ばれるやさしいまなざしで云われました。その日本語は、うつむいて聞いていると、日本人かと思われるほどでした。昭和26年戦後間もない日本の宣教を志して来日されました。九州に赴任して来られる途中広島に立ち寄られ原爆の悲惨さを見て人間の罪の深さや、おろかさを詩に書かれ、30年たっていても涙を浮かべて読んでくださったやさしいロイス・ホエリー先生と共に定年迄の4年間を、福間の伝道に精力を尽くして下さいました。
 キング牧師夫人を招かれての講演会に参加させて頂いた事や、藤崎の学院長宅へ婦人会の方達とお訪ねして、地方連合入会の集いを持たせて頂いた事や、御帰国前のガレージセ−ルで先生の宝物を譲って下さった事等が走馬燈のようにかけ巡ります。
 チャールズ先生は、532番、ロイス先生は243番を愛唱歌の一つにしていると云われ、121番は日本人作だが、すばらしいのでロイス先生が英訳をしてアメリカに紹介しましたとの事でした。私はその讃美歌を口づさみ乍ら、天国に召されたロイス先生を偲んで居ります。数々教えて頂いた聖書のお話しによって洗礼に導いて下さいました事を深く感謝して居ります。

 

   播磨牧師のお導きを感謝して      今村 洋子

 立春も過ぎ、すごそこ迄来ている春の訪れ、自然の美しい、いざないは、時の流れの速さに、おののく日々、2月7日宣教15周年礼拝が執り行われましたこと、皆様と共にお慶び申上げます。
 思えば1988年4月1日播磨牧師着任後、聖書の学びが始りました。神学校ご卒業後、まだ20代前半のお若さで就任され聖書の学びの群の中での、未だ時熟していない私にとって、信じたいと強く強く心に働きかける何かを感じました。牧師のお働きが学びを通して、その真実、誠実さを私の感性に響くものを覚え、丁度羊飼(牧童)が私達、小羊の学びの群れを養われ成長させて下さったとの思で一杯でした。
 この若き将来を嘱望された牧師共々、いろいろな体験を通してお互いに成長し合えることが出来ることを信じ、神に祈りつづけました。その年のクリスマスに播磨牧師によって木村 剛兄と共に神を信じ、僕となるべくバプテスマを受けました。
 今思えば、ピリピ人への手紙2章13節、「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起こさせかつ実現に至らせるのは、神であって、あなたがたがしたのではない。それは神のよしとされるところだからである。」と知ることが出来、共々にいて下さる神さまを実感し、これからを神の同労者として、神さまの御栄光をあらわすために微力を捧げ度く思います。
 播磨牧師ご一家の上に、健康とそのお働きが成就されます様、祈り上げます。

目次へ

   斎藤剛毅先生のお働き  自由ケ丘伝道所 楠元 建昌・美喜子

「神は、神を愛するものたち、すなわちご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。」(ロ−マ人への手紙八章二八節)「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起こさせ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。」(ピリピ人への手紙二章十三節)

 八四年二月、ホエリ−宣教師が若木台団地内の集会所で宣教を開始してから、十五年の歩みをふりかえり、その記録の年表を見るときに、主は問題を教会に投げかけながらも、その一年一年、豊な恵みをもって働きかけてくださり、神の教会として今日まで歩ませてくださった主のご恩寵を実感し、感謝にたえない。 さて、私たちが初めて斎藤先生ご夫妻にお会いしたのは、九十年四月二二日(日)の主日礼拝の時であった。この意味で、「斎藤先生のお働き」を回顧する者としては、当時、新参者で経験の浅い私達よりも、伝道所開設当初からご指導下さった先生と、共に教会形成に力を尽くされた、諸先輩の方々のほうが適任ではないかと思われてならない。
 したがって、先生がいかに福間キリスト教会にゆかり深く、教会成長・発展の礎を築かれたか、その具体的なお働きの全てを綴るのは、少ない体験しかない私たちには到底困難であり、私たちがお会いしてから教会史に残る出来事を回想させて頂くことにする。
 私たち家族三人が八幡バプテスト教会から、福間バプテスト伝道所に転入会したのは八八年の五月のことであった。当時は、伝道所初代の牧師として、播磨聡牧師(現在、鹿児島教会牧師)が四月に就任して間もない頃で、教会員一人ひとりの顔が希望と喜びに輝いていた様子を印象深く思い起こすのである。
 しかし、この年の半ば頃から、伝道所内部に深刻な問題がくすぶりはじめ、翌年の三月には牧師辞任という事態まで、発展してしまった悲しい出来事を忘れることはできない。いま振り返って見ると、この出来事は福間キリスト教会の十五年の歴史の中で、主が教会に与え給うた一つの大きな試練であったと思う。しかし、主は試練と同時に、傷と痛みを受け無牧師に直面し、悲嘆にくれた伝道所に立ち上がる大いなる恵みをお与えになったのである。
 ちょうどこの頃、斎藤先生は約一年七ケ月間の米国ジョウ−ジタウン大学の客員教授としての任務を、様々な艱難に遭遇されながらも無事終えられて帰国し、四月から開設予定の福岡女学院大学の教師として、就任準備に多忙な日々を送られていた頃であった思う。帰国後の四月二二日(日)、先生ご夫妻は初めて、福間伝道所に主の恵みを携えて主日礼拝に出席され、証と説教のご奉仕をされたのである。先生にとっては母教会である長住教会での牧師時代に、伝道所の特別伝道集会の講師として説教のご奉仕をされた以来、およそ四年振りのご奉仕であった。
 そして、先生ご夫妻が所属する教会を福間伝道所に決められ、転入会されたのは四月二九日(日)で、この日は福間伝道所が無牧師となって、最初の第六回定期総会の記念すべき日であった。転入会後、早速、五月六日の礼拝説教と晩餐式のご奉仕をして頂いた。
 今、私はその時の説教の録音テ−プを懐かしく聴きながら、先生の回想文をワ−プロで打っているのであが、説教題は、次週の「母の日」をひかえて、「母の愛に見る神の愛」という題である。説教の要旨はヨハネの第一の手紙四章十節のみ言葉から、「私たちが日常の生活の中に、どのようなかたちで神さまの愛を見ることができるか」という問いかけ始まり、穏やかな口調で、しかも、真剣に神の愛を語られる先生の真摯な信仰姿勢から、神の愛を忘れ自分中心に生きる人間の罪の深さを知らされ、不信仰な眠りから目を覚まされる思いである。
 この日の説教をスタ−トに、しばらくお休みしていた教会学校の新来者・求道者クラスの働きを担われ、教会学校の充実がなされていった。無牧師になった直後の伝道所は、信仰の空洞化が懸念されたが、斎藤先生ご夫妻の存在は、どことなく悲嘆にくれていた教会員の活力剤となり、教会全体が希望をもって前進をしはじたのはこの頃からであった。
 その後、次第に牧師招聘の気運が高まり、斎藤先生を中心に七月二日に牧師招聘委員会が発足したのであるが、伝道所の核となる牧者の必要を覚え、そこで、しばらく途絶えていた母教会との伝道協議会で、斎藤先生に協力牧師としての就任をお願したところ「私でよろしければ」とお引受け頂いた。そして、秋の特別伝道集会には、先生ご自身講師としてご奉仕され、この伝道集会を通して大きな励ましと、主の前に悔い改めを新たにしたことを思い起こす。
 その後も、度々「牧師招聘委員会」が開かれ、教会員の期待する牧師像が真剣に語られた。とりわけ、『伝道所の財政規模に見合った牧師が九二年の三月末までに、与えられるように毎日真剣に祈りましょう』との、先生の牧師招聘への熱い決意に励まされ私たちの祈りに主は、必ず応えて下さると確信したものである。更に「牧師招聘」の重要課題と併せて、「牧師館建設が急務」との先生の提唱により、牧師館の建築が役員会で協議され、翌年二月の臨時総会で牧師館・教育館の建築が決議された。こように重要課題がビジョンとして、急速に教会員の中に固まっていったのである。
 「牧師招聘」に際しては、先生は過去に西南学院大学神学部の講師や、連盟の理事職等のご経験から豊富な人脈をお持ちであった。その人脈をつてに、大学の授業でお疲れのところを深夜におよんでまでも、長距離電話で伝道所に相応しい牧師候補者の情報入手に時間をさかれ、そして、委員会で、入手した情報を詳細に報告されたのであった。まことに先生の「牧師招聘」に対する熱意に対して、委員全員は感動し、頭の下がる思いであった。
 「牧師招聘委員会」は前年度に引き続き牧師像を明らかにしながら、伝道所の財政規模に見合った牧師を招聘するために、先生から紹介された候補者の中から具体的に招聘可能と思われる牧師を絞り込み、実際に伝道所にお呼びして「お見合い説教」をして頂いた。けれども、九一年度は先生の努力も実を結ばず、牧師招聘は残念ながら実現しなかった。しかし、主は私たちの願を必ず実現に至らせてくださるとの確信をみ言葉から与えられていたので、失望はしなかった。
 このように、九一年度は、先生の熱心なご指導のもとに、「牧師招聘」と「牧師館建築」に教会員全員の祈りと情熱が注がれた年であった。
九二年度を迎えて早々、昨年に引き続き今年度からは先生には協力牧師という名称ではなく、臨時牧師(先生の申し出により名称変更)という名称で、更に一年間ご奉仕を承諾していただき、希望に満ちた新たなスタートを切ることができた。
 この年の定期総会における「牧師招聘」に対する先生の決意は、『主はいつでも全てを最善に導かれる方でありますから、主の良しとされる時に、必ず牧師が与えられることを信じて、忍耐強く招聘の努力をしてゆきたいと思います』という確信に満ち力強いお言葉であった。
 九二年の七月、遂に主は私たちの祈りに応えてくださったのである。先生は連盟からの情報を得て、牧師招聘委員会で仙台北バプテスト教会の牧師、現在の野口直樹牧師を紹介されたのである。その時、野口牧師のお名前を知っていた私は、あのベテランの先生なら・・・と、胸の温もりと、野口牧師への親近感を抱いたことを懐かしく想い起こす。と言うのは、私が八幡教会の青年会時代、当時活発であった「BYF」の活動を通して、当時、下関バプテスト教会の野口牧師のご活躍をよく知っていたからである。野口牧師のお人柄、家族状況、これまでの活躍、仙台北教会辞任後の生活設計等に関して、斉藤先生から詳細な紹介を受け、只一人、野口真兄は招聘牧師が実父ということもあって一時躊躇されたが、他の委員全員は野口牧師招聘にこぞって賛同し、早速、野口牧師との折衝を先生に全面的にお委ねしたのである。
 翌月、八月二日の臨時総会で野口牧師を伝道所の牧師として招聘を決議し、翌九三年四月野口牧師就任説教、続いて、教会員待望の野口牧師就任式が、六月六日斉藤先生の司式によって盛大に執り行われ、福間伝道所に待望の野口牧師が誕生したのである。なお、この一年間、斉藤先生には野口先生をサポ−トする意味で、協力牧師として伝道所に止まって頂いた。
 野口牧師招聘の実現のかげには、週日、大学での多忙なお仕事に従事されながれも、ご夫人の運転で毎週往復三時間もかけて小郡から福間に通われ、体力の消耗をいとわず「宣教」と「牧師招聘・会堂建築」に情熱を注ぎ、伝道所を愛しぬいた先生の労苦があったことを忘れることはできない。のちに、大学での授業中に急性の心筋梗塞で倒れられ、死との闘いをご経験された先生を想う時に、あの時のご苦労が引き金で倒れられたのでは・・・と、悔恨と感謝の思いが胸を熱くし感涙にむせぶのである。
 ここに、九三年の福間伝道所の総会資料の巻頭言に記載された先生の年度所感の一部を紹介する。「主は福間伝道所に、恵みとしか言いようのない、素晴らしいべテランの牧者、野口先生をお与え下さいました。福間の群れは本当に幸せだと思います。これからは、野口先生と一緒に地域伝道に励みましょう。私は小郡からの通いの臨時牧師でしたから、牧会や祈祷会で奨励は出来ませんでした。しかし、これからは良き牧者を得て、必ず伝道所は祝福された成長を遂げてゆくと信じます。」。冒頭の聖句は、先生の伝道者としての二七年間の労苦と悩みの中から、多くの恵みの体験をを綴った喜びの証集である、『神の国をめざす旅人−伝道者の苦悩と喜びの回想』の中に出てくる先生の愛称聖句を引用したものであるが、先生のこのお言葉を通して、冒頭の聖句が如実に、実感として私の内に響いてくるのを覚える。ちなみに、この聖句は、かって、私が「私の献身」という題で「証」をした際に、私の愛称聖句として引用した箇所と偶然にも同じであることに、少なからず感動を覚える。
 先生のお働きもさることながら、先生をかげで支え、病を克服され「証し人」として、いつも明るく笑顔で伝道所の兄弟姉妹達を愛し尽くされた啓子夫人の存在は、極めて大きかったことを忘れることはできない。悲しみに打ち沈んでいた私たち、とりわけ婦人会の姉妹達にとって、どんなにか大きな励ましとなったことであろうか。啓子夫人は時には、斉藤先生の代役で説教のご奉仕をされたこともあり、積極的に聖歌隊や婦人会のご指導を頂いたのである。
 このように、福間伝道所の上に聖霊が、斉藤先生ご夫妻を通して鮮やかに働かれ、祈りの中から新しい道が開れ、今日まで神の教会として、祝福された成長を遂げてきたのである。もしも、敬愛する先生が主から福間伝道所に遣わされていなければ、と思うと、私たちの計画や想いをはるかに越えた神さまの不思議な摂理と、主の恵みの豊かさを思わずにはおられない。主よ感謝します!

目次へ

   教会のおかげです <小さい子編>    野口 真

 いや、何と言っても福間教会といえば裏のお山でしょう。 まるで教会の持ち山のようですが、そうではありません。いわゆる「借景」ですね。でも、すべて自然は神様からの借り物ですからね。ありがたくお借りしています。 4人中3人の子どもは、この教会で赤ん坊の時から育ちました。考えてみれば、15周年のうちの通算10年、わたしは子どもを抱っこし、あやしながら礼拝をしてきたのですね。すごいものです。
 でも、そうしているといいんですよ、窓に広がる緑の斜面。風にそよぐ木々。なにせ、春にはウグイスも鳴くんですから。子どもを抱いて、ゆれる緑を見ながら、ウグイスの声を聞く礼拝。そりゃもう至福の時でした。いえ、まあ、もちろん「説教」もよかったわけですが……。
 全く、うちの子がここまで育ったのは、何はさて置き教会のおかげです。では、そのお礼をこめてお届けしましょう。うちの子と教会<小さい子編>です。

「きょうかいでいちばんたのしかったのは、イースターのときに、きょ大なたまごをつくったのが、たのしかったです。そのきょ大なたまごを、きょうそうでとって、キンキラのをもってかえって、うちで中のおかしをたべたから、おいしかったから、うれしかったです。」直(7才)
「えっとねぇ、きょうかいでねぇ、よっちゃんとゆうたくんとあそぶと。でね、ははも。それからね、かたやまさんのしおりちゃんと、みのりちゃんも。それでねぇ、えっとねぇ、あそぶと。」啓(4才)談

 

   教会のおかげです <大きい子編>    野口 惠

 こうーーーぅ!福間教会の思い出は?
 「んー。マッキー(牧人くん)が来たこと。」
 他には?
「ジージ(牧師)が来たこと。教会に二階ができたこと。小さい子がいっぱい生まれた。
 直以外の男の子が全員バプテスマを受けた。」
 そんな教会の出来事じゃなくて、光にとっての思い出は?
 「バスケのゴールができたこと」
 ガクッ(ハハこける)
 とうとう私が期待した、バプテスマを受けたことや、教会学校でお楽しみ会をしたとか、キャンプに行ったとか、一言も出てきませんでした。それだけ、教会が特別なところではなく、自分の育った当たり前の場所となっているということでしょうか。と無理やり納得しているハハです。
 それでは今度こそ。

  とも−−−ぉ!福間教会の思い出は?
 「……無言……」
 さまざまな誘導尋問の結果、
 「夏期学校は楽しいですよ。芦屋に行ったのも去年の魚釣りも楽しかったし。」
 「他に、クリスマスもいいけど、やっぱ何と言っても楽しみはイースターの卵さがし。あれは楽しい。」
 将来的に、教会で何したい?
 「……無言……」
 「礼拝のオルガン弾くとか?教会の役に立つからね。」
 とボソッと言うのが精一杯。
 あー、やっぱり小羊会やバプテスマの事は出て来なかった。私が福間教会に来た日数の数倍も教会で過ごし、教会で育てていただいたといっても過言ではない子どもたち。まるで、我が家にいるのと同じ感覚で教会生活を送っているのでしょうか。あまりにも恵みの中にありすぎて、感謝を忘れないように、教会を支える一人として、用いられることを願っています。
 私はと言えば、なかなか教会に出席ができませんが、子どもも少し大きくなり、そろそろ私も何かお役に立てることがあるかなーと、密かに心躍らせ、楽しい教会生活を夢見ています。

 

   福間教会への導き      永田 千加代

 “イエス様、今日も福間教会へと向かう私達をどうぞ守ってください。"と車中祈りながら、遠い道のりを私達家族は礼拝へと導かれる。どこか近くの教会をと思い、数カ所行ってもみたが、“やっぱり福間教会が良い。"と結果落ち着いてしまう、何故だろうか。 私はイエス様をカナダに滞在している時に受け入れた。そして、日本に帰るときに、牧師に福間教会(当時伝道所)に行くようにと、住所と電話番号のメモを手渡され帰ってきた。帰ってきて何度も電話するが、電話がつながらない、(当時は無牧だった為)不安になりながらも、福間教会での初めての礼拝へと導かれた。
 とってもあたたかかった。そう、そのあたたかさが初めての時から、今日まで、いろいろな形で私をあたためてくれる。今は福間教会以外には、考えられない。

目次へ

   福間教会の七不思議       野口 直樹

 15年誌編集委員会から与えられた私の担当は「教会組織の頃」である。ところが、教会の今日までの歩みを見ていて、「この教会にはなんと不思議が満ちていることか。」という思いが募って来て、担当範囲を逸脱し、紙数を超えて書いてしまった。おゆるしいただきたい。

  1、教会誕生の不思議

 生みの親が3人! 人は一人の母親から生れる。教会の誕生も普通、母教会は一つである。
 しかし、この教会は三つの母教会から生れた。田隈、長住、福岡の三教会の一致した協力と多大な援助によって福間教会は誕生し、成長を続けた。

 2、土地選びの不思議

 福間教会は自然に恵まれ、しかも、小学校が向い、住宅地が隣りという絶好の地に建てられている。
 土地探しは大変だったらしい。安徳軍一兄、藤永寅彦兄、吉持神学生他の方々の並々ならぬご苦労の末に購入した土地である。
 先日、この土地の地主であった、古賀勝海様のご葬儀があった。弔辞の中で、「故人は『津丸の殿様』と呼ばれていた。」と述べられていた。土地の有力者であったこの人がキリスト教に理解を示してくださらなかったら、教会の今はなかったのである。

  3、牧師招聘の不思議 

 私は1982年に仙台北教会に牧師辞任の申し出をしていた。行く先は決まっていなかった。
 多少のやり取りはあったものの、ほぼ突然に、福間教会からの招聘状を受け取った。会員には旧知の人もおられたが、未知の方々も多かった。未だ、会ってもいない、話しもしていない、病気の家内、年寄りの母、それに私も若くはない。こんな見も知らぬ家族の招聘に賛成されたのである。私はそのことに感動して、み心と信じて受諾の返事を出した。
 赴任前年の11月に、初めて福間教会を訪れ、説教の機会を得た。「これからでも構いません。招聘状を撤回してくださって結構です。私の気持ちは変わりませんが。」。これが説教の第一声であった。
 以来、今日まで会員の忍耐によって私は牧師をさせていただいている。

  4、教会組織の不思議

 教会組織は私が赴任した翌年の1994年である。相当な不安があった。教会組織ということについて皆、理解しているのであろうか。覚悟は出来ているのだろうか。
 やがて解かったことは、このために充分な準備期間が取られていて、実が熟するようにして1995年を迎えていたのだということ。
 1989年には播磨聡牧師のもとで7回に亘って勉強会が開かれたと記録されている。すべての経験が生かされ、益とされた教会組織であった。

  5、働き人の不思議 

 教会の働きの一部は選挙や当番制で行われている。が、会堂掃除も礼拝奉仕も割り当てはない。申し出制である。しかし、司会も奏楽もここ数年、穴があいたことはない。会堂も手洗いもキッチンもいつもきれいである。
 この自発の精神は教会組織の際の信仰告白に反映されている。「ねばならない。してはならない。」とかいう表現は一切使われていない。「・・・を喜ぶ。・・・へと招かれている。」などの表現が目立つ。
 牧師はちょっと調子にのって、「遅れて来て良し、早く帰って良し。立って歌って良し。座って歌って良しの教会。」と言っている。さしたる弊害は起こっていない。ある宣教師とこんなやり取りをしたこともある。「どうして、みなさん時間前に来られるのですか? 何か特別な訓練をされましたか?」、「別に」、「では前任者がよく教えられたのでしょう。」、「そうかも知れせん」。
 信仰生活は外からの規制ではなく、内に働いていてくださる神さまの力による緊張である。

  6、伝道所開設の不思議

 自由ヶ丘伝道所は1997年に始った。内田副牧師一家が土地を買われた。伝道を始めた場合、車椅子なども来やすいようにと、大通りに面した土地を選ばれたのである。隣に閉鎖になった学習塾の建物が目に入った。安河内不動産に調べてもらい、借りることになった。
 神さまは既に備えをして下さっていた。楠元兄は以前、この自由ヶ丘にあった教会の会員であった。その教会は閉鎖されてしまった。いつの日にかこの地に教会をとの祈りを続けておられたであろう。家庭を開放して家庭集会も開いておられた。伝道所開設は全信徒の祈りでもあった。神さまは自由ヶ丘及び近辺に在住する数多くの信徒をも備えていてくださった。
 始めは福間教会という同じ屋根の下で家庭集会的なものをと考えていた。行き来自由、執事も兼職でと踏んでいた。ところが伝道所は宣教意欲に燃え、独立の熱意は強かった。翌年には家近宗男兄を伝道師に迎え、着々と歩を進め、今日に至っている。
 一方、教会は1997年3月30日に派遣式を行って、16名の有力会員を伝道所に送り出し、現職執事6名のうち3名が抜けることになった。ちょっと若年出産だったかなとも思った。会計執事はどうしても予算がたたないと言われる。で、赤字予算が計上された。1997年度は49万円、今年度も21万円余の赤字予算であった。ところが、年度を終わってみると、97年度は76万円余の繰越、今年度も、繰越が出る予定との報告が先日の信徒会であった。
 主は伝道所、母教会共々に祝してくださっているのである。

  7、未知の不思議

 聖書では「不思議」と言えば奇跡のことを意味している。「 神は、しるしと不思議とさまざまな力あるわざとにより、あかしをしておられるのである。」(ヘブル2:4他)
 奇跡は主のみ手のわざである。15年の福間教会の歩みは、不思議に満ちている。すなわち主のみ手のわざなる奇跡の連続である。
 七番目の不思議は何であろう。これを将来にとっておきたいと思う。
 主はどのような奇跡をこの教会に起こそうとしておられるのであろうか。一人一人の顔が違うように一つ一つの教会も違っている。この教会でしか起こり得ない不思議を見て行きたい。それにあずかる者でありたい。

目次へ

    育て給う神            野口 和子

 「神のなされることは、皆その時にかなって美しい」(伝道の書3:11)。 福間の地に福音の種が播かれ、15年の年月、神の育ての業。それにかかわり互いに励まし労し、宣教の業を担って下さった多くの信徒お一人一人のお働きで今、教会は美しく花開くことが出来ているのだと心いっぱい感謝しています。 その三分の一を私も共に歩ませていただいたことは何よりの喜びです。6年前、福間に招聘された時、庭のか細い桜の木が、たった一輪の花をつけていたのがとても印象的でした。しかしその木も今では、大木となり春ごとに沢山の美しい花を咲かせ、私共の心をなごませ、楽しませてくれています。
 主の業も進められ、一人又一人、働き人が加えられ、伝道所は教会となり、新たに伝道所を生み出す教会、地域の福祉にかかわる教会と、大きな幻を与えられ歩んで来ました。主はその祈りを短い間にかなえて下さり、生きて働き給う神を皆で賛美したことでした。
 教会の副牧師として内田夫妻を加えてくださり、お体がご不自由にもかかわらず、よき働きを続けておられます。
 又、久山療育園園長として宮崎兄を立てて下さり、教会員をそのボランティアとして用いて下さっています。
 又、近くの自由ヶ丘に伝道所開設、私共の祈りをはるかに越えた主のみ業が進められ、その働き、成長が楽しみです。
 教会は今、子供の歓声いっぱい、若夫人達は、神に聞きながら、互いに知恵を出し合いながら子育て奮闘中です。
 30年も前、日本伝道を終えて帰米される夫人宣教師が、「日本の婦人達は、教会の後継者を育てることに力ををつくして下さい。」と語られた言葉を忘れることが出来ません。
 私も主に救われて50年、主はひと時もまどろみ給うことなく運び続けて下さった恵みの日々、応えて行きたい、語り伝えて行きたい思いでいっぱいです。

 

   祝 福間教会宣教15周年       野口 徳子

 私たちの愛するこの福間教会がこの度宣教開始15周年を迎えました事を先ず神様に感謝申し上げます。そして皆様おめでとうございます。
 この教会は福岡教会、田隈教会、長住教会の三教会のお祈りと御協力によりこの地が選ばれ伝道が始められたと承っております、この様な神の御導きのありました事を先ず恵みの主に感謝をささげます。そして初代以来今日迄の多くの教役者と教会員皆様方の信仰と祈りによって今日を迎え得ました事を思い感謝の念を更に厚く致します。
 昔、男子は15才で元服と云って成人の衣服を着ける儀式が行われたと云う事ですが、現代に当てはめてみれば、高校生位の年の頃でありましょうか。将来の希望に燃えて体を鍛え、勉学に励む年の頃でありましょう。私たちの福間教会は先年、伝道所を生み出しました。現在の私達の教会は正に力強い年頃とも言えるのではないでしょうか。世の荒波に右往左往する事なく信仰に燃え、祈りを熱くして益々御業の為に励む決意の時でありたいと願い、祈りを新たに熱く致します。
 私は5年前に牧師家族として共にこの福間教会に迎えて頂き、教会員のお仲間に加えて頂きました。教会2階の牧師館は誠に感謝です。先ず山又山の美しい四季の眺めがあり、山からの日の出の美しさに励まされます。そして皆様が温かく尋ねて下さいます。階段を心配して頂きますけれども、私には手足の訓練の場でもありまして毎日何回となく22段を数えながら上がり下りして元気に過ごさせて頂いて居り感謝して居ります。

 

   新しい出会いの中で      副牧師 内田 章二

 宣教15周年を心からお祝い申し上げます。 私は1993年4月に奉仕神学生として福間教会の働きに加えていただき、翌年10月の副牧師招聘を挟んで、福間でのご奉仕も今年で満6年になります。これまでの歩みを振り返ってみるとき、いつも先だって導かれる主の恵みを思い、感謝に堪えません。またそれと同時に、多くの人がイメージに描く牧師・伝道者としての働きは出来ない私を伝道者として立たせて下さっている教会員お一人お一人の祈りと支えに対して、いつも恐れとおののきをもって仕えることが出来れば、と祈りつつ過ごす毎日です。
 「より高く、より早く、より美しく」といったことが尊重される現代社会の中で、聖書は私たちに、本当に大切なものは何か?と常に問いかけています。私自身、この問いかけをいつも聴きながら歩んでいたつもりでした。ところが、現実にはこの神様からの問いかけと必ずしも向き合ってはいませんでした。そのことに気づかされたのは、いまから3年前の夏に急に歩行が困難になり、手術をして車椅子生活となったときです。からだ全体の自由が失われ、行動の自由が奪われて行く中で、私は神様に「なぜ」と問わずにはおられませんでした。しかし、神様はそのような私のつぶやきに対して「あなたは自分の努力で自分を高め、健常な牧師と肩を並べることを目指してはいなかったか」と私の傲慢を打ち砕かれたのです。私はそのとき初めて本当の意味で自分を恥じました。「尊いのは頑張っている自分ではなく、私を造り、私を愛し、御子を十字架につけてまで愛し抜かれた神様の愛であり、それに応えて私らしく生きることこそ尊いのだ。」私はそのとき、いつも出会っていた筈の神様と新しく出会う体験をしました。
 「しかし、わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇とするものは、断じてあってはならない。この十字架につけられて、この世はわたしに対して死に、わたしもこの世に対して死んでしまったのである。割礼のあるなしは問題ではなく、ただ、新しく造られることこそ、重要なのである」。〜〜ガラテヤ人への手紙6章14、15節〜〜
 福間教会に集うすべての人がイエス・キリストとの新しい出会いを日々体験し、自分らしさを取り戻すことの出来る教会であり続けて欲しい。宣教15周年にあたって、そう祈らずにはおられません。

目次へ

   主イエスの足跡に従って        内田理加子 

 宣教15周年、おめでとうございます。 15年といえば、私たちでいえば義務教育を卒業し新たな出発、節目の年となります。このように教会も今まで学んだ経験を踏まえ、生かし、また反省し、さらには神の前に悔い改め、信仰の再出発の年になろうかとも思います。つい最近、訪れた病院の窓越しに数本の竹が植わっているのに気づきました。そしてその竹の先のほうにだけ、天に近いところにだけ葉があるのに改めて気づかされたのです。葉は、下にはないのです。天を仰ぎ、私たちの手には届かない葉の豊かなのを見て、教会もこのような姿ではないかと思わされたのです。すべての木に年輪があり、節があり、そして葉は希望そのものなのだと感じました。
 私は主人と結婚したのが縁で福間教会に転籍し、今年で5年になります。当教会での人々との出会いはまさに神の業であり、奇跡だと思っています。教会員の方々のひたむきな信仰、隣人への配慮には敬服させられます。特に、野口先生ご夫妻ご一家の神の僕として仕えておられる姿は私たち家族のお手本です。と同時に、私たちは教会の歴史を振り返り、本当に神の前に忠実であり、神のみ言葉を実践してきたものか振り返る厳しい目を持つことも同時に課せられていると思います。なぜなら、神の祝福は神のみ心を行う者に注がれることを私たちは信仰によって確信しているからです。神の国の価値観は、この世の価値観とはまったく異質のものであり、永遠に不滅であることを教会は語り伝えていく必要があると思うのです。
 現在教会は、どの教会も神から信仰を問われているときだと思います。「もの」を重視してきた現代社会は、いつのまにか「いのち」を置き去りにしてきました。不景気といわれる時代の中で、私たちはバプテスマのヨハネのように節制し、今こそ教会は「いのち」の尊さを語り伝える群れとして、イエスの足跡に厳かに従っていかなければならないと思います。

 

   豊かな恵みの中で         内田 敏子

 福間の地へ宣教の場が与えられて15周年を迎えることを、心から御祝詞を申し上げます。 想えば、私共「息子章二」と共に当時伝道所であった福間教会に息子は奉仕神学生として暖かく迎えて下さった時の喜びは、今でも忘れることは出来ません。発足当時のご苦労を聞くにつけ、母教会をはじめ、牧師、神学生、そして教会員の兄弟姉妹たちの並々ならぬ努力が伺えます。私は、伝道所として歩み始めた9年目に福間の教会が与えられました。教会の産みの苦しみを知らぬまま、ぬくぬくと信仰生活を送らせていただいております。神が建てられ、そしてこの教会の一粒の種とさせて下さったいと小さき僕ですが、この御恩に報いるべく私なりの精一杯の御奉仕をさせていただくよう、願い祈っております。
 福間教会が宣教の場として益々豊かに恵まれますように、心からお祈り申し上げます。

 

   野口先生御夫妻に感謝       藤永 ウラ子

 6年前、野口先生御一家をお迎えして福間教会の婦人会が変わりました。御夫妻が外に向って活躍する会として下さいました。
 まず、久山療育園のボランティア活動です。これは教会で呼び掛けて、求道者の方も多く参加してくださっています。
 私達は前からずっと思いはありましたが、交通の便が悪く秋の開園祭の時だけ行っておりました。「久山療育園に一番近い教会ですから、出掛けて行きましょう。」と牧師夫人の呼び掛けで、最初は野口真家のワゴン車を借りて、月1回、しばらくして教会でワゴン車を購入して貰って、第3、第5金曜日と運び続けて下さっています。
 時には牧師先生自らもおむつをたたんだり、庭の草取り、通園者の介助をしたり、奉仕して下さいます。求道者が行かれる時は日の里まで迎えに行き、帰りはそれぞれの家まで送って下さいます。
 又、福岡地方連合の婦人会の修養会、研修会、総会、拡大会長会等、先生が心よく送り、迎えをして下さいますので、助かります。母教会のある姉妹から、「貴女達はいいね。又野口先生に送ってもらったの。会社の重役並ね。」とひやかされ、大勢で出席出来るので、「福間教会は素晴らしいね。」と羨ましがられます。
 又、牧師夫人も地方連合の教会で色々の集会がある時は必ず皆を誘って下さいます。「福間教会だけでなく、他の教会の御馳走も食べに行かなきゃ。」とおっしゃるので、式の終わった後の茶話会の御馳走のことかと思っていたら、各集会で語られるみ言葉を聞き、それを心の糧としましょうという意味でした。 
 車の中は牧師夫人の証しの場となります。「神様のなさる事は何一つ無駄はない。神のなされることは皆その時にかなって美しい<伝道3:11>」。そして、「み言葉を貯えなさい<詩119:11>。」と、いつも教えられています。けれども、この年ではなかなか覚えられず、「若き日にあなたの造り主を覚えよ<伝道12:1>。」とありますことを今、実感しております。
 入院中の方、遠くて教会へ出席出来ない方々をよく訪問していらっしゃいますが、これからも出前礼拝をしたいと希望していらっしゃいます。
 いつまでもお元気で出前礼拝がかなえられます様にお祈り致します。

目次へ

   わたしは罪びと          永田 穂

 私は今年83歳になる。心臓を病み体も頭も弱って土に還える日も遠くない。こうなって、神が土のちりで人を造られたことがよく分った。神はその人に命の息をその鼻に吹き入れられた。そこで人は生きたものになった。(創2:7)。そのように生きた者になった私である。私は神の園を守り耕す筈であった。
 それを、知らないうちに軍国主義という蛇に誘われ、食べてはいけない実を食べていた。その実を食べる者は死に定められていた。(創3:3)。私は園を追われ、戦場を駆け回った。殺人、放火を繰り返していた。しかし死ぬことはなかった。神が地上最初の殺人者カインを殺すのを許されなかったように。私にも死は与えられなかった。この世の司は私の働きを功績だと勲八等と顕彰のメタルをくれた。私もそのように信じた。
 戦争は終わった。私はパンを得るため、炭坑の地下を這い回り、地の上でもカネと時間に追い回された。創世記2、3章にあるとおりである。
機会あって私は、キリスト教の説教を聞くことになった。ロマ書3章9節から18節引用の、戦時における教会の反省と戦争の告発であった。私が功績だと信じていたものは、許されることのない罪だと言うのである。私は腹が立った。帰りに紙の粗末な聖書をくれた。あまりに腹立たしいので、説教のか所を読み返した。 「彼らの足は血を流すに速く、彼らの道には悲惨と破壊とがある。そして、彼らは平和の道を知らない」。
 戦争はまさにそのようなものだと納得するしかなかった。
 1958年私は下関教会、野口牧師の求道者クラスにいた。その年の12月、バプテスマを受けた。1993年、福間教会に受け入れられた。
 サタンの世に在る教会が、光り続けるイエス・キリストの教会であり続けるように祈るばかりである。
 主の御名により、アァメン。

 

   主に従って            宮崎 智子

 一年の季節のうちで、私は5月が一番好きです。筍やグリーンピースが大好物で、花も色とりどりに咲き心満たされる時です。6年前の大好きな5月に、内田敏子姉と平尾幸子姉に案内を頂いて福間教会の特伝に出席しました。みかん山や雑木林に隣接したのどかな風景も印象的でしたが、一番驚いたのは時折耳にした福間教会が我が家から車で数分の所にあったことを知らなかったことでした。当時は、車で40分くらいの香住ヶ丘教会へ夫が連れていってくれましたが、夫の職業上患者さんがあぶない時は礼拝出席を断念することもしばしばでした。前年の十月に脳外科で大きな手術を受けたことでもあり、何とかして一人で出席できる教会を求めていた時でもあり、神様が用意してくださったことを知り感謝致しました。半年余りの求道生活の後、磯部姉妹と共にバプテスマに与りました。このようにして新しい生命の一歩を踏み出し、喜びのうちに教会の交わりに加えて頂き、何のタラントもない者ですが、婦人会の働きに励んだ毎日でした。
 それから5年が経ちましたが、振り返ってみますと私の人生の中で大きな出来事が凝縮した時でもありました。母の一年の闘病、そして召天、父の事故と入院介護、息つき間もなく私の十ヶ月にわたる入院、手術、化学療法と悲しく苦しい時でもありました。もし私がイエス様に出会わずに、信仰がない以前のままだったらと考えると心が凍る思いが致します。多分、私は苦難に耐えられず朽ち果てていたのではないでしょうか。このような苦難の時でしたが、主が罪人のため病人のため来たのであると言われたように、私の病のうちに共にいて下さったと確信しています。そして、コリント人への第一の手紙10章13節の「あなたがたの会った試練で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試練に会わせることはないばかりか、試練と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。」の御言葉にも支えられました。術後の体が動かない時も祈りは出来るという喜びも下さいました。神様の与えられることには一つの無駄もないということも悲しみや痛みの中にあって、子供たちや両親が信仰へと導かれたという出来事を通して教えられました。そして神の家族である兄弟姉妹の祈りの力の大きさにも励まされた日々でありました。主の恵みにすがるだけの弱い人間ではありますが、福間教会に連なって主のご用のために用いられますようにと祈っています。

 

   15年間の主のお導き         宮崎 信義

 福間教会の歴史を拝見し、この福間の地に神様のご計画があり、時に応じて働き人が召し集められて15年が経過したことを改めて気付かされました。ことに私や私の家族にも多くの恵みが与えられ、ただただ神様の導きと主イエス・キリストの御支えを感謝致します。それまでは、福音が語られても受け入れるに至りませんでしたが、人間の思いをはるかに越えた神様のお取り扱いがあったことを確信しています。
 我が家では長い間順風が吹き続けていましたが、病気や障害を通して人の有限性や何者であるかを示されたようです。家内も一度ならず大病をしましたが、主の御霊に支えられ、再び生かされています。また多くの人の祈りの支えを覚える毎日でもあります。妻は肉体には病を得ましたが、神様と出会い感謝の内に1993年のクリスマス礼拝でバプテスマに導かれました。まことに罪深い私のためにも主イエスキリストは、十字架にかかって下さり、20年以上に及ぶ私の願いを聞き届けられ、妻を救いに導かれ、そして希望を与えて下さいました。まことに申し訳ないことですが、今は毎日「御心ならば癒してください。家族共々に用いてください。」と祈っています。
 私は、1940年4月のイースターに導かれてキリスト者の群れに加えて頂きましたが、まことに足らざる者でありました。職場や住まいが変りましたが、主はいつも神の教会を備えておられ、1994年1月に皆様の承認を得て福間教会に転会を許されました。
 また25年間の呼吸器科医として導かれた後、思いがけず重症心身障害児施設「久山療育園」で働くことに召されました。これまでの25年間も、呼吸器病を専門とする一介の医療技術者として、ただ患者さん第一とし、患者さんの必要に応えていくことが自分の役割だと思い働いてまいりました。移行期間の2年間も福岡東病院いずみ病棟で実際に重症児に関わり、この私でも重症児と共に生かされているとの確信に導かれました。思えば、福岡東病院の患者さんを初め、多くの方々がこれからの私を押し出して下さるような思いが致しました。久山療育園は主がお建てになり、この足りない僕を働き人の一人として召して下さったのですから、気負わずひたむきに過ごしています。
 また1997年の10月から「聴講生」として九州バプテスト神学校に入学させて頂きました。神様は、生きるも死ぬも最も適した時を備えて下さる。それは、人知が及ばない領域で、ただ私は御言を信じ祈って聴くしかないと示されました。
 コリント人への第二の手紙4章7節以下に「しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものではないことが、あらわれるためである。わたしたちは、四方から艱難を受けても窮しない。途方に暮れても行き詰まらない。迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。いつもイエスの死をこの身に負うている。」とあります。まことに足らざる者ではありますが、この土の器に主イエス・キリストの導きをしっかりと受けとめて、御仕え致したいと存じます。私の罪は常に私の前にありますが、このようなとるに足らない者をもかえりみられ、私の罪を唯一許して下さる御方に信頼して生きたいと思います。そして今後の計画は、一切を神様に委ねたいと思っています。気負うことなく、「一日一生」を精一杯に生き、まことに乏しい者ですが神様に捧げる人生でありたいと願っています。願わくば、福間教会の神の家族が今後も良き祈りの兄弟姉妹であり続けることが出来ますように祈ります。

目次へ

   教会と腐れ縁            永田 雅士

 私は、物心ついたころから教会にいます。母親がクリスチャンだった為に母親についてきていました。でもその当時はお話が聞け、1年間休まずに教会学校に行っていると皆勤賞がもらえるということだけで教会に行っていました。
 その時代からの教会との付き合いですが、ずっと教会につながっていたわけではありません。大学1年のときは教会にほとんど行っていませんでした。すると、2年になるときにその当時長住教会の牧師をしておられた斎藤剛毅先生の息子の信一郎君が同じ大学に入学し、誘われて長崎教会に行くようになりました。しかし1年ぐらい経つと、クラブに2つ入っていた私はまた教会をサボることが多くなってきました。すると今度は、同じクラブにいた親しい友達がアメリカ留学を終えて帰って来たときに、なんとアメリカでバプテスマを受けてきたとのこと、日本に帰ってきても長崎教会の英語礼拝に出るので行こうと誘われ、また教会に行くことになりました。
 社会人になり、地元に戻り、居心地の良い長住教会に出席していましたが、仕事が忙しかったり、会社の同僚と遊びに行くことが多くなり、また教会を欠席することが多くなりだした頃に、クリスチャンになりたての妻と結婚、また教会に行くようになりました。そして、引越しをして教会から遠くなり、教会を休みがちになると、今度は教会執事になることになり、よほど仕事で行けないときや、体調的に長距離の移動がきついとき以外は出席するようになりました。神様はいろいろな手で私を導き、教会から離れても離れても導き続けてくださいます。
 15周年の節目のときに福間教会の交わりに参加出来たこと、今までこの教会を支えてくださった多くの方々、そして神様に感謝いたします
 これからも、この福間教会で皆さんと共に信仰を深め、神様のために働き続けていきたいと思います。

 

   主の恵みを感謝して         三村 まつ子

 福間キリスト教会宣教十五周年を迎え、おめでとうございます。現在のこの立派な教会が、主の豊かなお祝福のうちに、初期の方々のあつい祈りと、力強いお働きによって、今日ありますことを感謝いたします。
 野口先生より富野バプテスト教会で、信仰生活にお導きいただいた私は、先生ご一家が仙台より九州に帰ってきて下さったという喜びで、すぐに長女と共に転会させていただきました。
 福間教会の皆様が、私達を本当にやさしく迎えて下さいましたことを、忘れることはできません。そして教会組織の時には、この教会の一員として出席できました喜びも、深く心に刻まれております。
 月日の過ぎ行くのは早いもので、年齢と共に聖日の礼拝に欠席することも多くなってきました。何のお役にたつこともない私を、皆様はいつも変わらず温かく、交わりの中に加えていて下さいます。私はその度に、主のお導きを確信し、幸せで胸があつくなります。
 十五周年の記念の年に、心を新しくし、感謝をもって、祈りの日々を送ってまいりたいと思います。
 福間キリスト教会と、自由ヶ丘伝道所の上に、主のお恵みが豊かにございますようにと心から祈りつつ。

 

   み栄えをあらわす教会として     三村 保子

 福間教会が伝道を開始して十五周年になるこの記念の年に、会員として在籍させていただいていることに感謝している。
 中学生の時に信仰を告白して以来、細々とした信仰の歩みをつづけるプロセスで、いろいろな方々にお導きいただいた。とりわけ、野口先生ご一家は、私の家族皆をまるごと支えて下さり、いつも変わらぬ温かさをもって信仰の確かさを示しつづけて下さった。この四半世紀の間、私の家族の悲しみの時、苦しみの時、そして喜びの時、野口先生と和子先生に見守っていただいたと実感している。
 母と私が福間教会に転会を希望し、受け入れていただいた日、「常に喜べ、絶えず祈れ、凡てのことに感謝せよ」と美しい書で記された色紙を教会よりプレゼントされた。これまでの私の人生をふりかえる時、実に多くの喜びと共に困難も与えられ、そしてその度に、神様を信じて望みを抱く以外に道はないと示されてきたことに思いがいたる。「祈って感謝する」日々のありようを大切にしていきたいと、心から願う。
 信仰貧しく、日常の仕事に追われ、聖日礼拝に出席することの少ない私のためにも、教会の皆様が熱い祈りのうちに覚えていて下さることは、ほんとうにうれしく感謝でいいっぱいです。
 信仰と希望と愛にあふれたこの福間教会が、今後も一層、神様のみ心にかなった歩みをつづけ、み栄えをあらわす教会として発展していくようにと切に願っております。

目次へ

   福間教会の十五年      協力牧師 片山 寛

 一九九四年の四月に、私は福間教会に転会しました。ですから、福間教会の十五年の歴史の中で、私が経験したのは五年間、最後の三分の一にすぎません。私の家族の中では、家内の方がずっと早く、一九八九年からこの教会に来ております。つまり家内は十年の歴史を知っていることになります。私の母はもっと早くて、ホエリー先生の時代からこの教会でお世話になっているわけです。 教会の成長の歴史は、ある意味で、小さな子どもがお母さんのおなかの中で形づくられていくのと似ています。教会は、キリスト教の二千年の歴史を、縮めた仕方で追体験するのです。福間教会の場合もそうでした。ホエリー先生によって基礎を築かれ、種蒔かれた教会は、播磨先生、斎藤先生の時代を経て、野口先生によって開花しました。今はたぶん、歴史上で言うと、四世紀の国教化の時代ぐらいのところにいるのかもしれません。
 福間教会はこれからも成長してゆくでしょう。私個人がどこまでこの教会と歩みを共にできるのかわかりませんが、ひとつひとつの出来事を喜びつつ、教会生活を送りたいと思います。

 

   求めれば、道は開かれる       島本 和明

 「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。」気が弱く憶病な私は、この聖句によって何度勇気づけられ、力が与えられてきた事か………。 二十年前、まだクリスチャンでなかった私は、どういうわけか聖書を持っており、この聖句は覚えておりました。貧乏学生だった私が大分県別府を旅していた時、「門をたたけ……」とつぶやきながら、勇気をもってある小さなホーリネス教会の門を叩いたのでした。それは信仰を求める為ではなく、手持ちの旅費が心ぼそかった為、「教会ならきっとタダで泊めてもらえるだろう。」という真に単純で、自分勝手な考えのみによるものでした。願いがかない「タダ」で泊めてもらったうえに、温かい御飯と味噌汁までご馳走になりました。
 この時教会は、ちょうどイースターの日にあたり、教会学校そして礼拝と、一宿一飯の恩義に促され、ついずるずると参加したのでありました。しかも帰りには、ゆで卵のおみやげまで頂き、「キリスト教会はなんと温かな所なんだろう」と、本当に感動しました。恐らく二度と会うことの無い通りすがりの、得体の知れない私を暖かく心よく迎え入れてくださった牧師夫妻、そしてその人柄……。真っ白な百合の花、真っ白なドレスを着た愛らしい女の子、その子が弾く讃美歌に合わせて「うるわしの白百合……」と歌う子供たちの声……。二十年経った今でもはっきりと覚えております。結局その時の経験がきっかけとなって、キリスト教に興味をもち、二年後に洗礼を受けました。
 故あって野口牧師と出会い、福間教会へ通うようになり、会員として数年経ったわけですが、これからも「求めよ……」の聖句を胸にいだき、信仰生活にチャレンジしていきたいと思います。

 

   恵みの中で生かされて        島本 靖子

 福間教会に通う様になって、四年目になりました。教会にも慣れ、本当に福間教会へ来て良かったと思います。子供(祐太)と一緒に教会へ行く事を、いつも楽しみにしています。 私が洗礼を受けたのは13歳の時で、高校は親元を離れ岩手県盛岡市内の高校へ進学し、そこで寮生活を送りました。ミッションスクールでしたので、礼拝もありました。三年間ここで学んだ事は、「人への優しさ」です。ボランティア活動が盛んな学校でしたので、障害者の方と接する機会も多く、本当に多くの「優しさ」を教えていただきました。
 その後、京都バプテスト老人ホームや、亀山栄光病院で働く事となりましたが高校時代に学んだ多くの教えが力となり、私を支えてくれました。四年前に、斎藤剛毅牧師の仲人で、主人と出会ったわけですが、福間教会での婚約式、長住教会での結婚式、そして長男の誕生と、神様の恩恵の中で生かされて感謝で一杯です。

目次へ

   主の教会につらなって        関 洋美

 主イエス・キリストにつながって福間キリスト教会の一員に加えていただいて、丸四年が過ぎました。
 野口先生をはじめ、内田先生、片山先生の導きと、教会の兄弟姉妹の献身的な働きによるあたかい交わりの中で、恵まれた教会生活を送ってまいりました。
 今年、私達の教会は宣教開始十五周年を迎え、2月7日に記念礼拝が行われました。司会の藤永兄の祈り、吉永兄の証し、そして川野師の説教を通して、発足当時から今日に至る迄のあゆみと、さまざまな思い出を伺うことができ、この福間の地に福音伝道の拠点を据えるべく力を尽くされた先輩信徒の方々の熱意と行動力に感動致しました。まことに川野師が説かれたピリピ人への手紙2章13節、「あなたがたのうちに働きかけてその願いを起こさせ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。」のみ言葉の通り、教会が建てられ、熱心な宣教のわざは自由ヶ丘に伝道所を開くまでに広がりました。心からの感謝を捧げたいと思います。
 今、改めて教会とそのわざについて考える時、教会の組織づくりがきちんとなされ整えられた時期にその一員となり、愛と導きの中にありながら、私に主が望んでいられる務めを果たして行って来たのだろうかと、反省しきりです。「教会のかしらは主イエス・キリストであり私たちは主のからだ」であると言われます。教会生活の中で主に養われ、信仰を深め成長していくものと信じ願う一方で、己れの働きの貧しさを痛感致します。
 この頃は、家族を看取りながらの日々で、教会の活動に加えわれないことが多いのですが、それ故にこそしっかりと主イエス・キリストにつながり、教会につながっていたいと願っています。主は常に共におられることを信じ、祈りを持って、できる限りの奉仕と務めを行いたいと念じております。

 

  「主の思い」測りしれず   自由ヶ丘伝道所伝道師 家近 宗男

 たしか'94年の4月下旬のこと、夜も大分遅い時間に電話がなり、「野口ですが、あなたのことを聞いて、びっくりしています。うちに来ませんか、月に1度でもいいから来ませんか。」と、すぐには野口直樹先生とは気付きませんでした。それは仙台へ行かれて以来、長いこと、お声を聞いてなかったからです。大変失礼したことを思い出します。
 当時、私は教会籍がなく礼拝は、ギデオン協会のメッセージ委員という立場から、北九州市内から中津までの諸教会を訪問し、ギデオン・アッピールをさせて頂き「主日」を守っており、灰色の時代でした。
 そのような時に、野口先生から頂いた電話に答える私の背後で、妻の「アーメン、アーメン」という声が聞えてきました。
 5月の初め、妻には、「福間教会に行ってくるわ。」と言って教会を訪ねました。八幡教会時代、親しくして頂いた、楠元建昌兄が「若木台」の交差点まで出迎えて下さり、緑に囲まれた教会堂に案内されました。
 教会の皆さんの暖かい目なざしの中に、安堵感をおぼえたことが、入会の切っ掛けとなりました。
 その後、九州バプテスト神学校の入学推薦を頂き高令ながら何んとか卒業もでき、'97年4月からは新しい伝道所へ移り、’98年4月に伝道師として就任し、今日に至っています。
 福間教会の生活は短いものでしたが、八幡東区の三村まつ子姉をお迎えに行き、自動車に同乗願って教会までの一時間余、さまざまなことを話し合い、お教え頂いたこと。さらには、恩師の故荒川直三先生のご一家と再会でき、教会生活を共にするようになったこと。
 伝道所に移ってからは、若き日、同じ釜の飯を食った、川野直人先生がメッセージに来て下さることなどなど、夢のようであり驚くことばかりです。
 私にとりましては、奇蹟としか言いようがありません。主よ感謝します。

 

   主に祈り求めて          有馬 平ニ郎

 福間教会には平成7年(1995年)3月に定年退職して、宗像市の日の里の自宅に戻って来てからお世話になっています。自転車でも行ける距離にあり、喜んで礼拝や朝の祈りに出かけていました。
 1年後の1996年から2年間は、執事に選ばれ、財務執事として会計の仕事をさせていただきました。受洗して24年目の初めての執事で戸惑いましたが、前任者の楠元兄はじめ財務委員の姉妹方に助けてもらい、また教会員の皆様の祈りと寛容さに支えられて、どうにか任務を果たすことができたことを主に感謝します。
 昨年6月末には思いがけず、自由ヶ丘に転居しました。退職して3年が過ぎた時期での住み替えであり、気が重い面と同時にまた新しい出発になる気がしての引っ越しでした。転居ストレスが今だに残っていますが、本年4月からは自由ヶ丘の伝道所で礼拝を守らせていただきたいと願っています。
 これからどういう人生が展開するのか、不安と同時に楽しみにしています。主が祈りに応え、主が共に居てくださるという信仰をどういう状況になっても私が持ち続けることができるように皆様のお祈りをお願いいたします。
 福間教会での最後の1年を壮年会の会長をさせていただき、皆様のおかげで2月11日の修養会が恵みのうちに実施できたことを心からありがたく感謝しています。
 本年は65歳を迎えます。老年の部に入ります。あれこれ欲張り過ぎて、疲れるようになりました。自分の頑張りだけではどうしようもできないことを体験しつつあります。
 「人の心には多くの計画がある。しかしただ主の、み旨だけが堅く立つ。」(箴言第19章21節)。
 これからも日々の生活の中で主の働きを祈り求めて、主の先立ちを信じ、主の導きに従って生きることができますように。

目次へ

 福間キリスト教会15周年に際して  自由ヶ丘伝道所 甲木 栄

 自由ヶ丘伝道所開所に伴い、福間キリスト教会から自由ヶ丘に派遣されて3年目を迎えようとしています。去る2月21日、自由ヶ丘伝道所では奇しくも100回を記念する主日礼拝が家近宗男伝道師によって無事、執り行なわれました。この喜びも母教会である福間キリスト教会の温かいまなざしと大きな支え、いつくしみによって成就したものと確信しております。
 個人的には12年程前に久山町から宗像市自由ヶ丘に転居して来ましたが、全くの不信仰で、それから約8年間は教会生活もせず聖書へも親しまず、無節操な暮らしに明け暮れておりました。ちょうど3年前の夏に一大決心をして、福間キリスト教会の門をくぐりました。それから妻も自由ヶ丘伝道所にできるだけ一緒に出席するようにしております。妻は戸畑基督教会の会員ですが、速やかに自由ヶ丘伝道所に転会する予定です。
 福間キリスト教会の喜びにあふれた人々の輝きのまなざしと祈りを自由ヶ丘でも継承し、小さな群れであるにもかかわらず、神様に祝福された礼拝、委員会活動を実践しようと熱い思いで会員同志、語り合っています。
 さらに私自身が重症児施設、久山療育園に勤務しボランティアの窓口にも関わっているので福間キリスト教会の野口牧師、会員の皆様それに自由ヶ丘伝道所の会員の方々の献身的なボランティア奉仕活動には頭が下がります。本当に感謝です。自らの職場と教会、伝道所の深い繋がりは、私に何か不思議な出会いを神様が計画されたように感じています。単に偶然の関わりとは思えないのです。これからも母教会である福間キリスト教会に学びながら自由ヶ丘のエリアで、礎のしっかりした伝道所になればと願っています。設立15周年、おめでとうございます。

 

   交わりの中から            福永 聡子

 結婚後、福間に移り住み、この教会の群れに加えていただいて2年半が過ぎようとしています。教会が、15周年を迎える喜びに共にあずかることができたこと、心から主に感謝致します。
 福間教会で守る礼拝をはじめ、祈祷会、婦人会、てくのんクラブ、その他諸集会のどれもが魂の栄養となり、信仰生活を送る土台となっています。一週間の歩みの後、礼拝に出席すると、日常の疲れや重荷から解放され、牧師先生の語られる御言葉がじわじわと染みこんできます。仕事の疲れ(小児科で心理業務をさせてもらっています)や、ストレスが”主のふところ”で癒され、再び、新たな一週間へと押し出されていきます。日々、尊い生命と向き合い、分に応じて患者さんに仕えることができるのは、神様が私にかわって働いて下さり、必要な時に力を与えて下さるからです。私は、神様から赦しと愛をいただいて、絶えず赦されながら、一人の患者さんと共に時を過ごすことができるのだと思っています。
 神様は、私達一人一人を丁寧に確実にとりはからって下さる……。福間教会での交わりの中から、私はいつもこのことを感じさせられます。一人一人のときに、神様はみこころを示し、最善の事柄を成して下さると信じます。私に起こる事柄が、私にとってあまり良いものとは思えない時、「私は、それを受け入れられません。まだ、その時ではありません」と、祈ってしまいます。しかし主は、そんな私に愛をもって忍耐し、私に分かる方法で優しく導いてくださいます。この「私に分かる方法」というのが、福間教会の兄弟姉妹方によるところが大きいと感じています。牧師先生方をはじめ、全ての教会の方々を通して、神様は私に分かるように導いてくださっているのです。
 母親としても未熟な私ですが、いつも励まし祈って下さる教会の方々に、心より感謝申し上げます。1歳半の息子は教会が大好きなようで、たくさんのお兄さん、お姉さんに囲まれて楽しく教会生活を送っています。私達夫婦にとって、これが何よりの感謝であり、喜びであります。教会の子供たちの立ち振舞、表情、言葉は、本当に純粋で暖かく、私達大人に優って愛にあふれています。小さな息子が、その中で育つことができる恵み(私達も含めて)に感謝します。
夫は、仕事の都合上、礼拝を守ることが難しいのですが、それも神様の守りの中で、イエス様が中心にいて下さることを信じて祈っていこうと思っています。
 兄弟姉妹の方との交わりの中で、ますます訓練され、神様のみこころにかなう家族となっていきますように!
 インマヌエル

 

   福間教会で信仰生活を送るにあたって   高松 広司

 私は、1987年に初めて教会の門(若松バプテスト教会)を叩いて、求道者として教会生活を送って来ましたが、1989年の12月24日にバプテスマを受けて、クリスチャンとしての第1歩を踏み出しました。教会に行き始めた理由ですが、86年から計1年間闘病生活を送り、職場復帰後に人間関係等で精神的に悩んでいたため、何か心の拠り所を求めて来た事がその理由です。
 バプテスマを受けた後、“かなり大胆な事をしたなー”なんて思いましたが、今から思い起こしてみると、やはり神様に導かれていたのでしょうか、その後に起こる数々のトラブル等にどれだけ聖書の御言葉や教会の兄弟姉妹に助けられたか数知れません。
 それから、90年の6月に結婚、そして2人の子供を持つ事が出来ましたが、96年の8月に妻の親と同居のため福間町にやって来ました。まだ、教会籍は若松教会に置いていたのと若松教会に愛着を感じていたためでしょうか、日曜日は福間から若松まで礼拝に通っていました。
 また、その時は仕事の方も忙しく、帰るのが夜の11時か12時という時(時には土日)だったので、子供とコミュニケーションが取れなく、そういう日々を過ごしているうちに、或る出来事が起こりました。現在小学校1年の長男が幼稚園の時に家族の絵を書いてきたのですが私は描かれておらず、後から聞いてみると描くのを忘れた事が分かりました。これにわたしは大変ショックを受けて、仕事が落ち着きを取り戻した後に、若松教会の原口牧師に事情を話し、礼拝の出席を暫く休ませてもらう事にして、日曜日は家族と過ごす事に決めました。
 こうして過ごしているうちに、数々のストレス等で精神状態が良く無かった私は暫くキリスト教放送局のFEBCを聞いていましたが、放送を聞き続けているうちに“教会に行きたい!”という心が次第に湧き上がってきて、10月に福間教会の礼拝に出席した訳であります。
 創世記21章17節に『神はあそこにいるわらべの声を聞かれた』と書かれてますが、これは私の心に刻まれている御言葉の一つです。丁度13年前に求道中に入院を余儀無くされた時に、『何で俺だけがこんなに苦しまなければならないのか』と自暴自棄になっていましたが、当時若松教会の田口昭典牧師が御見舞いに持って来て頂いた榎本保郎先生のテープを聞いた時、この御言葉に出会い、『ああ。俺は自分で生きているのではなく、神様に生かされているのか・・・』と思いながら、心が平静感に満たされていったのを覚えています。福間教会の礼拝に幾度も出席するうちに、この創世記の御言葉がまた私の心に沸き上がってきて、一つの思いで教会に集まっている兄弟姉妹との交わりに嬉しさを覚えると同時に、神様に導かれた福間の地で信仰生活を送っていこうと決心しました。
 聖書の御言葉は、ダイヤモンドの様にキラリと光り、磨けば磨くほど心に刻まれていくものと思います。しかし、本物のダイヤモンドを採取するのに何十トンもの土を掘り返して何十グラムのダイヤモンドしか取れない様に、本当に御言葉が心に刻まれていくのは幾度の試行錯誤を繰り返して初めてそうなるものだと、改めて福間の地で思い知らされました。道のりは長かったけれど、神様とイエス様に見守られ続けている事を実感しています。
 現在、家族は私一人で教会に行っていますが、妻と子供達と一緒に信仰生活が送れるように、少しづつではありますが、伝道の種蒔きを行っていきたいと思います。また同時に、微力ではありますが、福間教会の発展にも寄与していきたいと思います。

目次へ

   東京の空より       三鷹バプテスト教会 堀 孝秀

 早いものですね、もう15年ですか。 私は1986年にC.L.ホエリー先生からバプテスマを受け、晴れて福間キリスト教会員となった訳ですが、思うに、福間に在籍中の10年間、堀家の放蕩息子はほとんど教会に足を運びませんでした。部活動やら大学のサークル活動やらを理由に、礼拝そっちのけであちらこちら飛び回っていたと思います。教会学校における僅かばかりの奉仕と、月に1度の拙い奏楽の奉仕をさせていただいたことが、せめてもの心の救いと言えるでしょう。何ともお恥ずかしい限り・・・。このような不良クリスチャンであったにもかかわらず、たまに教会へ顔を見せるたびに、牧師先生をはじめ教会員の皆様に温かく迎えられ、その度毎にルカ15章11−31節を思い出したものです。
 とは言うものの、福間教会の歴史におけるほとんどの場面に居合わせ、たどたどしくも福間教会と共に歩みをさせていただいたことに感謝です。私は、福間に会堂が授けられる前のことも知っています。ホエリー先生、播磨先生、斎藤先生、そして野口先生と出会い、主の教えの尊さを学びました。一番印象に残っているのが、ホエリー先生と播磨先生のことでしょうか。私は、同じく福間教会員であった妻、友里恵と共に、2年前に三鷹バプテスト教会に転会しましたが、いずれまた、自分の出身母体であるこの福間に帰ってくる日が来ることでしょう。ところで、この福間教会に支えられたことがベースとなり、私は今ではほとんど毎週教会へ通っております。当時の不出来な主の息子からすれば、驚くべきことですよね。感謝です。来年度は、聖書リーダー、つまり青年向けの聖書の学びのリーダーという役割を仰せつかりました。主に用いられつつ、自ら学び、そしていつかは福間教会で、以前できなかった(というか、やらなかった)ご奉仕をさせて頂くことができるよう、日々精進しようと思っております。あ、ひょっとして、「精進」って仏教用語でしたっけ?
 15年の歴史は決して長いとは言えないけれども、私たちにとっては様々な意味で価値ある15年だったと思いますし、私たちが神様を賛美し、主の教えを学ぶために絶対必要であった15年でもあったと思います。イエス様が弟子の一人をしてペテロ(岩)と名づけられたように、この福間キリスト教会も現代のペテロとなって、永遠に続く主の宮となるよう、お祈りして止みません。皆様と同じく、主の豊かな恵みにあずかる者の一人として、遠い東京の空より福間を想い、その繁栄を心よりお祈り申し上げます。

 

   信仰の原点としての福間キリスト教会  三鷹バプテスト教会 堀 友里恵

  20歳の頃、西南学院大学にチャペルの講話に来られた斎藤剛毅先生と宗教部の方のご紹介で出会ったのが、私が福間教会に行くようになったきっかけでした。
 その頃大学生は一人もいませんでしたが、福間教会の皆さんはとてもやさしく、いつも「よく来ましたね」と声をかけてくださるので、全く寂しくはありませんでした。斎藤先生ご夫妻はとても素敵なご夫婦で、私は親のように慕いひそかに憧れていました。ですから斎藤先生がお辞めになった時は本当にショックで、これからも教会に行き続けることができるだろうかと不安になりました。その頃の私はまだ信仰が弱く、神様よりも牧師先生を頼りにしていたのです。
 でも、その後に来てくださった野口先生ご夫妻も素晴らしい先生方だったので、信仰の弱い私もなんとか教会に行き続けることができました。牧師館に灯がともるようになっただけでなく、野口先生ご夫妻が大変気さくな方なのでとても嬉しかったです。
 牧師館で度々いただいた和子先生のお料理やおもてなしは、とても美味しくあたたかかったし、野口先生はノリがよく、お琴を習っていた私の勧めるままに、尺八を習ったりして下さいました。
 福間教会にいた頃の私は、若いのをいいいことにずいぶん甘えていたなあと思います。でも言い訳をするようですが、子どもの頃からありのままの自分を偽っていい子ぶってきた私にとって、福間教会での数年間は神様からの贈り物だったように思うのです。愛や恵みという贈り物の素晴らしさは、もらったことがある人にしかわかりません。福間教会は、本当にあふれるように豊かな愛に満ちていました。こんなによくしてもらっていいのだろうかと不安になるくらい、私はいつも教会に行く度に、感動と感激で胸がいっぱいになりました。私が学生だったから、特別にお世話を受けることが多かったのかもしれません。
 しかし、私にとって教会の理想的イメージは今でも、みかんのなる丘の福間教会なのです。東京で満足する教会に巡り会うことができず、教会とは何かと夫婦でいつも考えています。そして最近示されたことは、教会とは「主の恵みと愛を受け主を讃美する場」だいうことです。そして、そのような神様からの贈り物は、信頼と忍耐でもって、あふれるまで与え続けられる性質のものであるということです。
 人を裁きそうになったとき、私は、福間教会での日々を思い出すことにしています。私を信頼し忍耐し続けてくれた人々がいたことを思うとき、私もまた人を信じ待ち続ける者でありたいと思わされるからです。
 この度は、15周年おめでとうございます。福間教会が、これからも主への讃美と祈りに満ちた教会であり続けますように、福間教会を通してたくさんの人々が主の愛を知ることができますように、祈り続けていきたいと思います。 私達夫婦は、今年の夏よりボストンへ行くことになりましたが、どこにいても主を通して皆さんとつながっているという安心と喜びが与えられていることは本当に幸せです。いつもお祈り下さりありがとうございます。
 福間教会の皆さんの上に主の豊かな祝福がありますように。

  短歌五首   <福間キリスト教会に寄せて>

 青空に白き十字架見上げつつ丘の教会に通いしかの日々
 讃美歌の清き調べにうぐいすの聲も混じりて喜びに満つ
 早天の祈りの窓に朝日差し眩しき主の愛我を包みぬ
 夕闇に浮かび上がりて十字架と牧師館の灯なおあたたかき
 主の恵みをいっぱいに受け輝けるみかんの見える丘の教会

 

  信仰によってのみ          河野 俊夫

 私と聖書との出会いは今から5年程前に遡ります。当時すでにクリスチャンであった妻から聖書を手渡された時からです。それから聖書の御言葉の一つひとつを少しずつ学んでいきました。しかし、それでもどうしてもキリストに出会うことができないでいました。当時の私は、聖書を理性的に理解しようとしていたのでした。信じるためには、聖書にあるすべてのことが理解ができなければならないのだと思っていたのです。
 ある時、マーリン・キャロザースの「賛美の力」という本に出会いました。著者は信仰とは何かということをとても分かりやすく教えてくれました。信ずる信仰によってのみ、聖書の謎のような奥義が開かれるということを。それからは、聖書に対して心開き、信仰によって読むことを心がけました。次第に聖書の御言葉の意味が少しずつですが、紐解かれるような感じがしました。
 福間教会に出席させていただいているうち、仕事の関係で私は渡米の機会を得ました。滞米中の私の心を著しく圧迫するいろいろな出来事を通じて私は本当に疲弊した時期がありました。その中で、主の御言葉が突然、私の心に迫ってきたのです。それは「すべて疲れたものは私のところに来なさい。私が休ませてあげよう。」というキリストの言葉でした。キリストに出会うことができたのです。そして、私は現地でバプテスマを受けました。アメリカ滞在中にも福間教会のみなさんがEメールや手紙、FAXなどを下さりそれが本当に心の支え、励ましとなりました。また祈っていて下さったことに感謝いたします。
 今、イエス・キリストと共に歩み、主の恵みに預かる喜びの日々を送ることができる幸せを感じています。困難の中にこそ、主の力強い御手が差し伸べられるのだと確信することができました。どうぞこれからも主にある交わりを通して私の内にある御霊の働きを強めてください。

目次へ

 福間教会ホームページへ