ガメラ3・邪心<イリス>覚醒 99/05/08 作成、99/05/09 更新

99年、日本
99/04/14、渋東シネタワー3



「ガメラ3」のストーリーはそのままで、例えば両親を殺された少女の復讐劇、世界中のギャオス軍団対ガメラ、新名所の京都駅ビルを破壊しつくすといった、前2作のようなスペクタクル満載の映画にすることはできたはずである。しかし。本作てはそういう活劇的な盛り上がりは明らかに抑えられ、全体的にいろいろな解釈ができるような、非常に観念的で抽象的な映画となっている。作者達は判り易いストレートな活劇ではなく、敢えてそのような映画にすることを選んだのであろう。

ガメラシリーズでは、ギャオスは地球環境が悪くなると現われ、またガメラは地球の守護神であるというふうに、彼らの存在は人類が抱える問題に直接結びつくものであるという扱いが既にあった。今回は、手塚とおる演じるプログラマーがその手の新しい仮説を語ることで、ガメラ、ギャオス、イリスといった怪獣は人類の問題に関する何かを象徴したものであり、「ガメラ3」はそういう問題を描いた映画であるという色合いを濃くしている。

彼の口から語られる説は、「ギャオスは増え過ぎた人間の人口調整役」「地球エネルギーである”マナ”の最大消費地である日本に、ギャオスは当然のように集まる」「絶滅よりも悲惨な人類の将来がある」というふうに、厭世的というよりはむしろ絶滅願望といった方がぴったりくるようなことばかりである。しかし、そのような考え方に完全に否定しきれないところがあるのは確かである。それは、特に”日本”という点に注目すれば、遠い国の戦争や近い国の問題などとは全く無関係に、まるで人類がかつで手にしたことのないような、ユートピアさながらの平和を享受している日本で、確固としたものを持てずに日々の生活を送り、閉そく的な未来像しか持てないという感じが漂っているからである。しかし、この映画では中山忍演じる主人公を通して、そのような考え方に異を唱えている。「人類が滅びればいいなどという考えは、種の保存を望む自然の摂理に反する。ギャオスが人口調整のために作られたのなら、そのような高慢な考え方に対抗する目的でガメラは作られた。」と。

このように、人類の真の敵であるギャオスは人類の将来を脅かす真の問題である何かを象徴しているのだが、前田愛演じる少女、自衛隊、一般人たちは、それに対抗するもの、つまり人類の味方であるものの象徴であるガメラを、渋谷を破壊したりする直接の加害者として敵であるとみなす。



注意 これから下の文章では映画の結末にふれていますので、知りたくない場合は読まないで下さい















しかし、人類の本当の敵はガメラではなくギャオスであることに気づき、ガメラと共にやっつけようと立ち上がるところでこの映画は終わっている。完結しないラストともとれるが、人類の将来を脅かす本当の敵に対して、人類全体が立ち向かっていかなければならないというメッセージがこめられている。そして現実の敵が何かは、我々が見極めなければいけないということも。それがこの映画が抽象的であるゆえんであろう。

難点を言えば、前田愛の少女の役が、イリスの融合相手として山咲千里よりも現代的な分ふさわしいということ以外、これといって特筆することがなく、反ガメラの人たちの一員程度のままで終わってしまうことと、中山忍をはじめとした人たちがせっかくけなげな演技を見せているのに、脇の人たちにクサい役作りをさせていること。それに、やはりディテールがわかりにくいのが残念である。



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