元山航空基地より母へ最後の手紙    林 市造 遺稿


 お母さん、とうとう悲しい便りをださねばならないときがきました。
  親思う心にまさる親心
       今日のおとずれ何ときくらむ
 この歌がしみじみと思われます。
 ほんとに私は幸福だったのです。我ままばかりとおしましたね。
 けれどもあれも私の甘え心だと思って許して下さいね。
 晴れて特攻隊員と選ばれて出陣するのは嬉しいですが、お母さんのこと
 を思うと泣けてきます。
  母チャンが私をたのみと必死でそだててくれたことを思うと、何も喜
 ばせることが出来ずに、安心させることもできず死んでゆくのがつらい
 のです。
  私は至らぬものですが、私を母チャンに諦めてくれ、ということは、
 立派に死んだと喜んで下さいということはとてもできません。けど余り
 こんなことは云いますまい。母チャンは私の気持をよくしって居られる
 のですから。
  婚約その他の話、二回目にお手紙いただいたときはもうわかって居た
 のですがどうしてもことわることができませんでした。又私もまだ母チ
 ャンに甘えたかったのです。この頃の手紙ほどうれしかったものはなか
 ったです。一度会ってしみじみと話したかったのですが。やはりだかれ
 てねたかったのですが、門司が最後となりました。この手紙は出撃を明
 後日にひかえてかいています。ひょっとすると博多の上をとおるかもし
 れないのでたのしみにしています。かげながらお別れしようと思って。
  千代子姉さんにもお会い出来ず、お礼いいたかったのですが残念です。
 私が高校をうけるときの私の家のものの気づかいが宮崎町の家と共に思
 い出されて来ます。
  母チャン、母チャンが私にこうせよと云われた事に反対して、とうと
 うここまで来てしまいました。私として希望どおりで嬉しいと思いたい
 のですが、母ちゃんのいわれる様にした方がよかったかなあとも思いま
 す。
  でも私は技量抜群として選ばれるのですからよろこんで下さい。私達
 ぐらいの飛行時間で第一線に出るなんてほんとは出来ないのです。
  選ばれた者の中でも特に同じ学生を一人ひっぱってゆくようにされて
 光栄なのです。私が死んでも満喜雄さんが居ますしお母さんにとっては
 私の方が大事かも知れませんが一般的に見たら満喜雄さんも事をなし得
 る点に於い絶対にひけをとらない人です。
  千代子姉さん博子姉さんもおられます。たのもしい孫も居るではあり
 ませんか。私もいつも傍に居ますから、楽しく送って下さい。お母さん
 が楽しまれることは私がたのしむことです。お母さんが悲しまれると私
 も悲しくなります。みんなと一緒にたのしくくらして下さい。
  お母さん、私は男です。日本に生まれて男はみんな国を負うて死んでゆ
 く男です。有難いことに、お母さん、お母さんは私を立派な男に生んで
 育てて下さいました。情熱を人一倍にさずけて下さいました。お母さん
 のつくって下さいました私は、この秋には敵の中に飛びこんでゆくより
 外に手をしらないのです。
  立派に敵の空母をしずめてみせます。人に威張って下さい。
  大分気を張ってかきましたが、私がうけた学問も私が正しい時にかく
 感ずるのだと教えています。
  ともすればずるい考えに、お母さんの傍にかえりたいという考えにさ
 そわれるのですけど、これはいけない事なのです。洗礼をうけた時、私
 は「死ね」といわれましたね。アメリカの弾にあたって死ぬより前に汝
 を救うものの御手によりて殺すのだといわれましたが、これを私は思い
 出して居ります。すべてが神様の御手にあるのです。神様の下にある私
 達には、この世の生死は問題になりませんね。
  エス様もみこころのままになしたまえとお祈りになったのですね。私
 はこの頃毎日聖書をよんでいます。よんでいると、お母さんの近くに居
 ろ気持がするからです。私は聖書と賛美歌と飛行機につんでつっこみま
 す。
  それから校長先生からいただいたミッションの徽章と、お母さんから
 いただいたお守りです。
  結婚の話、なんだかあんな人々をからかったみたいですがこんな事情
 ですからよろしくお断りして下さい。意思もあったのですから。ほんと
 に時間があったら結婚してお母さんを喜ばしてあげようと思ったです。
  許して下さいと、これはお母さんにもいわねばなりませんが、お母さ
 んはなんでも私のしたことはゆるして下さいますから安心です。
  お母さんは偉い人ですね。私はいつもどうしてもお母さんに及ばない
 のを感じていました。お母さんは苦しいことも身にひきうけてなされま
 す。私のとてもまねのできない所です。お母さんの欠点は子供をあまり
 かわいがりすぎられる所ですが、これはいけないと云うのは無理ですね。
 私はこれがすきなのですから。
  お母さんだけは、又私の兄弟達はそして友達は私を知ってくれるので
 私は安心して征けます。
  私はお母さんに祈ってつっこみます。お母さんの祈りはいつも神様は
 みそなわして下さいますから。
  この手紙、梅野にことづけて渡してもらうのですが、絶対に他人にみ
 せないで下さいね。やっぱり恥ですからね。もうすぐ死ぬということが
 何だか人ごとの様に感じられます。いつでも又お母さんにあえる気がす
 るのです。あえないなんて考えるとほんとに悲しいですから。
  私のもちもの、日記類なんか、ほんとに汚いものですからやきすてて
 下さい。お願いします。お母さんがみられてもいやですね。お母さんだ
 けなら仕方がないですが、こればかりは他人には絶対にみせないで下さ
 い。私の浅ぱくさがばれるのですから。やはり見栄坊の私は人にあらを
 みせるのがいやなのです。必ずやきすてて人にみせないで下さい。その
 他の本とか何とかお母さんの気のままに処分して下さい。
  私は軍隊に入って変に自信をもちました。私達は少くとも綺麗な心を
 もつように育てられたということです。心の点では、たいがいのものに
 まけないという自信です。私の周囲がよかったのですね。家、そして友
 達、高校の友達なんかことに有難いです。
  出撃が明朝に極りあわただしくなり落着かないのですが、せめて最後
 の言葉を甘えたいと思って居ます。
  内のこと思い出すと有難くて涙が出るばかりですからもうこのことに
 ついてはかきますまい。私がその中に居たことが嬉しいのです。
  千代子姉さんは光兄さんのこと御心配でしょうが、大丈夫ですよ。私
 は妙な確信をもって居ます。
  潤子チャン陽子チャン達が私にかわってお母さんを喜ばしてくれるこ
 とをお願いします。
  今桜がさかりですね。校庭にもつくしが生えていましょう。春休みが
 なつかしいですね。萩尾先生や校長先生や妹尾先生 立石の小母さん、
 松田、井口の小母さん達によろしく。汽車の中は人が一杯でうごきもき
 れずたのしかったですね。結婚の話、みんなでみて品定してその結論を
 さしあげたのですがあれも私の最後をかざる思い出です。
  梅野にきてもらってチャートにコースを入れて居ます。博多上空をと
 おります。宗像の方もとおりますから。桜の西公園を遠目に遥か上空より
 お別れをします。
  お母さん、でも私の様なものが特攻隊員となれたことを喜んで下さい
 ね。死んでも立派な戦死だし、キリスト教によれる私達ですからね。
  でも、お母さん、やはり悲しいですね。悲しいときは泣いて下さい。
 私もかなしいから一緒に泣きましょう。そして思う存分ないたら喜びま
 しょう。
  私は賛美歌をうたいながら敵艦につっこみます。
  まだかきたいこともありますがもうやめましょう。
  お母さんは私を何もかにも知って居られるのですから私の気持は、お
 母さんがお思いになるとおりに考えて居ました。軍隊という所へ入って
 も私は絶対にもとの心を失いませんでしたから、甘える心だけは強くな
 りましたが。
  お母さん、くれぐれも身体を丈夫に長生して下さい。お願いします。
  千代子姉さん、博子姉さん、満喜雄さんと、潤子チャン陽子チャン宏
 明チャンの生長をたのしんでらくにくらして下さい。
  変な手紙になりましたが書きなおすのもめんどうだからこのまま出し
 ます。
  お母さん。くれぐれも身体に注意して下さい。お願い致します。

    出 撃 前 日

                       さよなら
                              市 造

 母上様
 姉上様








    林 市造 略歴

大正十一年二月六日   福岡県福岡市荒戸に生まれる。

  十三年六月十五日  父俊造、東京で病死。 三十二才。

昭和十四年三月     福岡県立中学修猷館卒業

  十五年四月     福岡高等学校文科甲類入学

  十七年十月     京都帝国大学経済学部入学
            ・十八年九月二十三日、全国の大学高専の学生
             徴兵猶予停止、帰郷して徴兵検査を受ける。
             十月二十一日、雨の明治神宮外苑競技場で
             学徒出陣壮行会。

  十八年十二月九日  佐世保海兵団に二等水兵として入団。

  十九年二月一日   土浦海軍航空隊へ配属。海軍第十四期飛行予備学生
            と命名され、基礎教育を受ける。

  十九年五月二十八日 朝鮮出水航空隊に配属。飛行訓練に入る。

     九月二十八日 元山航空隊に配属。特攻隊要員として速成訓練を受ける。
            ・十月二十一日、レイテ島にて神風特別攻撃隊開始。
             十二月二十五日、第十四期飛行予備学生海軍少尉に任官。

  二十年三月三十一日 特別攻撃隊命令を受け、母へ最後の手紙を書く。

     四月一日   出撃基地鹿屋に到着。
            ・この日、連合軍、沖縄に上陸。軍部はレイテ、硫黄島に
             ついで三たび特攻隊出動を命令。四月六日、第一次菊水作戦
             と命名され、特攻機650機出撃。四月八日、戦艦大和以下
             駆逐艦九隻撃沈され、「最後の日本艦隊」壊滅。
             四月十二日、菊水二号作戦発動。特攻機185機出撃。

昭和二十年四月十二日  林 市造、第二、七生隊として出撃。沖縄沖にて戦死。
            二十三才。

     五月下旬   すでに市造が戦死したらしいと母まつゑに伝わる。

     六月十日頃  特攻隊員の戦死公報が新聞全面に載る。市造の戦死を確認。
            ・同じく航空特攻隊として戦死した者4379名以上。

昭和五十六年九月十日  市造の母まつゑ八十六才で永眠。