休憩所/サッカーのコラム


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第七話 レフティボンバーの躍動〜古賀誠史の今〜

 

 11月23日、アジア大会壮行試合。後半29分国立のピッチに23番を背負って立った彼は、交代早々に実の兄である古賀正紘選手からサイドチェンジのパスを受けて左サイドを疾走。高原選手とのワンツー後、”バコッ”という音とともに左足からゴール前に放たれたセンタリングは微妙なコースを辿ってFWの選手の所へ、DFにクリアされたボールは、中盤から上がっていた石井俊也選手がミドルシュートを放ちましたが、惜しくも右サイドに外れました。

 このプレイで誠史の左足の可能性の一端を、国立に詰め掛けた4万5千人の観客は感じたと思います。

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 東福岡高校で、高校三冠を達成した97年度。左サイドハーフでポジションを取って、盟友本山雅志選手のパスを受けてから中距離でも叩き込む左足のシュートは高校レベルを遥かに超えていました。彼をはじめて見たのは、マリノス入団内定という噂を聞いていた、97年11月でした。あるテレビ局で、夏に行われたインターハイの模様をテレビは写していました。この大会で優勝したのが、冬の高校サッカー選手権でも断然の優勝候補に上げられていた東福岡高校でした。

 東京の帝京高校と対戦する試合の模様が、テレビでは放送されていました。この試合で決勝点を上げたのが古賀誠史選手でした。強烈な左足のゴールはテレビで見ても強いインパクトを受けました。今年(97年度)の選手権はどこの高校を見に行こうか迷っていた私は”誠史”を見に行こうと決心しました。

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 98年1月2日、高校サッカー選手権の2回戦が行われました。私は等々力競技場で東福岡対情報科学の試合を見に行きました。しかし、誠史は秋の大会で膝のお皿を割る大怪我で、スタメンはおろか、試合出場さえ難しい状況でした。志波監督は短い時間でも流れを変えられる選手として誠史をベンチ入りさせていましたが、1回戦は出場しなかったのをニュースで聞いていて、今日の試合も無理かな〜と思って試合を見ていました。試合は、ピッチをワイドに使って攻め込む東福岡の独壇場で、得点を重ねていきます。金古、手島、千代反田で組むスリーバックは能力が高く、ボランチの宮崎が中盤を止め、宮原、本山で中盤を作り、右からは古賀大三が攻め込む攻撃は変化に富んで高校サッカーのレベルを超えていました。東福岡楽勝ムードで迎えた後半残り時間も少なくなったところで、左足の膝に黒い衝撃を和らげるパットを付けた誠史がついに登場しました。あとで聞いたところによると、3回戦で対戦する国見戦を睨んでの試運転という事でした。残念ながら、誠史がボールに絡んだシーンはほとんどありませんでしたが、ボコッというセンタリングの音とボールの速さに驚愕しました。

 98年1月3日、試合会場を三つ沢球技場に代わって、東福岡対国見の3回戦を見に行きました。この日は同じ会場で地元神奈川の逗葉高校が試合をする事も有って、三つ沢スタジアムが満員になりました。マリノスの試合でもこのくらい入ってくれと感じたのを覚えています。誠史はスタメンで見れるのを期待しましたが、この日も途中出場でした、試合は0対0で均衡している場面で、流れを変えるという監督の指示を受けての登場でした。その思惑通りに、左サイドでボールを受けた誠史が左足一閃、左足から放たれたボールは唸りを上げてゴールへ向かっていきます。しかし、惜しくも枠を少し右に外れていきます。ラインを割るかと思われたそのボールに右WB、古賀大三選手が飛び込んで均衡が破れます。監督の狙いが的中しました。その後も、左サイドを突破してのプレイを何度も見せてくれました。誠史の活躍で次戦に駒を進めました。

 98年1月5日、準々決勝で逗葉との対戦でした。この試合はスタジアムで見る事が出来ませんでしたが、誠史はやってくれました。ゴール正面やや左からのフリーキックのチャンス。誠史の左足から放たれたボールは奇麗な放物線を描いて、ゴールの右サイドネット上に突き刺さり、今大会選手権初ゴールを上げました。ビデオで見ましたが素晴らしいテクニックのゴールでした。生で見たかったです。

 98年1月7日、準決勝、国立競技場で丸岡高との対戦です。東福岡高としては、3回目の国立での試合になりました。1度目の国立は、国見にずたずたにされた0対8の敗戦。2度目は、終了間際に追いつきながらも、PK戦で静岡学園に苦敗した敗戦。3度目の正直という事で国立のピッチに立ちます。この試合は第二試合でしたが、私は会社を午前で抜け出してスタジアムに行きました。たぶん決勝はみる事が出来ないので、準決勝は見なくてはいけない。の思いで国立に行きました。帝京対藤枝東の第一試合が終了して、第二試合。誠史の姿を探しましたが、またしてもスタメンではありませんでした。試合を見ます。東福岡は今大会初めて先制ゴールを相手に与えてしまいました。それも誠史が交代で出場してから、さすがに焦ると思いましたが、私が考えている以上に東福岡の選手達は冷静でした。またも誠史がボールを持つたびに攻撃が活性化されて、逆転で決勝進出を決めました。目立ったプレイはあまり有りませんでしたが、ボールが誠史に渡るたびに、何かをやってくれるという期待を抱かずにいられませんでした。

 98年1月8日、決勝、国立競技場。グランドは一面銀世界でした。関東は記録的な寒波に見舞われ交通状態もマヒ気味の中、白い雪がしんしんと降り続く中、黄色いボールを使って試合が行なわれました。この試合はインターハイ決勝の再現になりました。誠史は、前半途中からの出場でしたが、雪でボールが止まる中、両チームボールをうまく扱う事が出来ません。誠史もやったことがない雪の中でのサッカーで持ち味が封じ込まれてしまいました。試合は、東福岡が逆転で勝利を収めて高校3冠を達成しました。スタジアムで見る事が出来ませんでしたが、三冠を飾った東福岡の選手には拍手を送りたいです。

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 選手権から数ヶ月が経って、マリノス新入団発表に誠史の姿が有りました。背番号は先シーズンで移籍した山田隆裕選手の番号を受け付いだ22番。右サイドを長い髪をなびかせて疾走したヤマの勇姿を、誠史には左サイドでやってもらいたいと思います。この時、自分の持っているマリノスレプリカユニフォームの番号は、22番。何の因果か好きだった選手が移籍して、更に好きになった選手がその背番号を背負う巡り合わせ。運命というにはあまりにも小さい事ですが、応援する事を義務づけられたような気になります。

 マリノス入団してからも左足の怪我のリハビリが続き、なかなかマリノスでの出番が来ません。今シーズンマリノスは左サイドに神田、路木というプレイヤーを移籍で獲得して、1年で柱に成長した俊輔が左サイドにいる為に、ルーキーの誠史に出番は回ってきません。じっと毎試合出場しないか期待して待っていると、ついに3月28日。残り時間5分というところでしたが、誠史が登場しました。三つ沢のピッチでボールを数回しか触れませんでしたが、22番のユニフォーム姿を見せてくれました。うれしかったです。次の出場は4/25でした。4点のリードで迎えた柏戦の残り数分をプレイしましたが、あまりボールを触ることが出来ませんでした。監督にアピール出来ない短い出場時間で終わりました。

 もっと多くのプレイを見たいと思っていると、トリコロールのユニフォーム姿があまり見れない変わりに、青い炎のユニフォーム姿を見る機会が増えてきました。

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 98年6月、日本代表チームがフランスで戦っている期間に行われた、U19アジアユース選手権1次リーグ。多くの東福岡高卒業メンバーと一緒にメンバーに選ばれた誠史は、大宮球技場のピッチにいました。前日のフランスでのクロアチア戦の敗戦を癒してもらいたいと、大宮まで足を運びました。誠史はユースでは清雲監督の考えでスーパーサブとしての役割を担わされていました。前半から下位チーム相手に得点ラッシュを重ねていく日本U19代表。誠史の出番はないだろうな〜と思っていた後半途中。交代出場でピッチに出ました。交代した後、右サイドから中盤でボールを受けた誠史が左足一閃。ボールは弾丸ライナーとなってゴール隅に飛び込み得点を挙げました。ちょっとはにかんで喜びを表す誠史。同年代の持ち味を解っている周りの選手達に助けられてプレイが生き生きしているようでした。マリノスでは見る事が出来ません。試合終了間際に足にタックルを受けて退場している間に試合終了のホイッスルが鳴り容体が気になりましたが、残り2試合にも出場したところを見ると大きな怪我ではなくほっとしました。一次予選は全勝でアジア最終予選に駒を進めました。

 98年8月、U19代表が静岡のSBSカップに出場するという事で、浜松〜沼津まで誠史を見に静岡まで足を運びました。初戦は、ブラジルのクルゼイロユースとの対戦。誠史はスーパーサブでした。1点負けている展開でゴール前での絶好のフリーキックのチャンス。タッチラインに誠史が立ちます。交代の札を掲げて出場していく姿は、野球で言えば、まるで代打の切り札か、リリーフエースのようにも感じました。誠史の蹴ったFKは得点にならずこの試合は負けてしまいます。翌日の静岡県選抜の試合にも同じ様な場面での交代出場でしたが、得点に結びつくチャンスを生み出すことが出来ませんでした。スタジアムに行けなかった3戦目ドルトムントユース戦は、交代でゴールを決めました。それも尾を引くような強烈な左足のミドルシュートと、珍しいヘッドでの2ゴールでした。JのオールスターよりSBSを取れば良かったと少しだけ後悔しました。

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 代表での青いユニフォーム姿が慣れてきた頃に、スタジアムでトリコロールのユニを着た誠史を見る事が出来ました。背番号はトップチームでの22番ではなく、8番を付けていました、そうサテライトの試合です。夢の島で行われたサテライトのアントラーズ戦、高校時代、幾たびかの栄光を共に作り上げてきた本山選手は違うエンジのユニフォームを着て対戦します。初対決はこんな場面じゃなく、もっと大きな舞台でやって欲しかったと個人的に思いました。この試合で誠史は素晴らしいFKから1点を決めました。チーム戦術の理解があまり出来ていないなりに、止まったボールを蹴るのは、まったく問題なかったです。ユース代表の同胞GK曽ヶ端選手が伸ばした手をかすりもしない素晴らしいFKからのゴールでした。

 98年9月、アジアユース選手権最終予選がタイで行われました。誠史もいつものようにスーパーサブとして出番を待ちます。結果的に準優勝でワールドユース選手権出場の切符を手に入れました。誠史は、第二戦で左サイドから走りこんで素晴らしいシュートを見せてくれました。その試合で日本代表監督となったトルシエ監督が視察に訪れていたのが、今後の彼の人生に大きな影響を及ぼす事になります。

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 98年11月、U21アルゼンチン代表と対戦するメンバー20人が発表されました。メンバーの中には、小野伸二や稲本潤一などU19で一緒に戦っているメンバーも含まれていましたが、U21候補合宿にも呼ばれていなかった誠史には直接は関係のないことでした。しかし神の悪戯か、運命の糸か、怪我人、J一部残留決定戦、チャンピオンシップ等で合宿メンバーが減ることになり、誠史は何人かの選手とともに、U21合宿メンバーに選ばれました。21歳以下のメンバーとはいえ、各選手は各チームでレギュラーとして試合に出ている選手ばかりです。Jで実績が無く、気後れしそうな誠史の持つ武器は”左足”だけでした。

 福島のJヴィレッジでトルシエ監督にしごかれ、素直な性格から教えて貰ったことをどんどん吸収していき、11月23日U21アルゼンチン戦はFWとしてベンチ入り出来ることになりました。

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 センタリングは、この試合3本上げました。惜しくも得点には結びつきませんでしたが、得点の予感を感じさせる素晴らしいセンタリングばかりでした。課題は守備面ですが、徐々に改善できてると思います。AFCの規定のため、アジア大会には帯同できませんが、U21代表合宿で覚えたことをチームに戻ってから生かして、この次の戦いに臨んで貰いたいです。マリノスでも左サイドを疾走する躍動する勇姿を見たいです。

 代表での活躍も期待したいですが、マリノスでの活躍も期待しています。マリノスに、もう1人のレフティが躍動するとき、それが新しいマリノスの出発点だと思うから…

**古賀誠史選手は、柳沢選手のチャンピオンシップでの負傷の為、アジア大会メンバーに急遽招集されました。(98.11.30)

〜 fin 〜