サッカーのコラム


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第十話 ファンタジスタの輝石 〜中村俊輔の飛躍 その1:桐光学園からマリノスへ〜

 

 2000年シドニーオリンピックがまもなく開幕します。U23日本代表チームにおいて中盤で君臨する俊輔は、小野伸二(浦和レッズ)、中田英寿(ASローマ)といったタイプの違うパッサー達と息を合わせて昨年まで同じ代表チームで戦ってきました。左サイドや起用方法などにおいて、いろいろな葛藤がある中で、中盤のファンタジスタとして五輪代表、フル代表と注目を集めています。
 そんな俊輔にも横浜Fマリノスで確固たるレギュラーを取るまでには、さまざまな試練が待ち受けていました。それを乗り越えてここまでやってきました。彼の今までの闘いを綴るとともにこれからの俊輔を見守っていきたいと思います。今までの俊輔の変遷を振り返って見ようと思います。

○ 桐光学園 ○

 彼を知ったのは、1995年、桐光学園高校所属の高校2年生の冬でした。冬の全国高校サッカー選手権大会が各地で行われていて、地元神奈川県の代表になった桐光学園は、1回戦でこの大会注目の”東福岡高校”と対戦しました。後に五輪代表でもチームメイトとなる、本山雅志(現アントラーズ)はこの時1年生でした。
 
東福岡高校は、この大会の2年前に選手権ベスト4の原動力となった1年生カルテットとして名を馳せた西、生津、小島宏美(現ガンバ)、山下芳輝(現アビスパ)が最上級生の3年生となり、2年生に古賀正紘(現グランパス)がいて優勝候補と目されていました。

 私は東福岡高校を見たくてテレビで見ているうちに、背番号8を背負った華奢な水色のユニフォームの俊輔に引きつけられていきました。それが俊輔との出会いでした。俊輔の柔らかいパスが両サイドや前線に配給されて、試合は桐光学園ペースで進んで行きます。そして桐光学園が先に点を入れて先制します。試合のペースも握っていてこのまま優勝候補を破るかと思われましたが、得点を奪った4分後の66分に失点し、1対1の同点となり、そして同点のまま規定の80分(高校サッカーは40分ハーフの80分)を過ぎていきます。このままPK戦になるかな〜と予感が漂いましたが、ロスタイムに東福岡高校に1点を奪われて、俊輔2年生の高校サッカー選手権は初戦で幕を閉じました。
 しかし、持っている技術の高さをテレビの画面からも強く感じさせてくれました。 

○ U19日本代表 ○

 その次に俊輔の名を聞いたのは、1996年の秋の初め、高校生ながら翌年の97年に行われるワールドユース選手権を目指すU19日本代表に選出されたニュースでした。この時にマリノスジュニアユース出身だった事を聞きました。あの技術は小さい頃からクラブチームで育てられたものだったんだ、と少しだけ納得しました。
 この夏に山梨で行われたインターハイで、俊輔のいる桐光学園は、準決勝まで勝ち進み帝京高校と対戦します。流れるようなパスワークで桐光学園を操る俊輔は、冬より確実にパワーアップしていました。この試合は、
安東泰樹の先制点で先制しますが、帝京の金杉伸二(現日体大)に2ゴールを決められて、チームは敗退してしまいます。この大会で優勝したのは、2年生の小野伸二(現レッズ)が率いる清水商でした。
 この大会を見に来ていた、当時のU19日本代表代表、
山本昌邦監督(現日本代表チームコーチ)が俊輔をアジアユース最終予選の最終キャンプに呼んだのは必然だったかもしれません。

 当時のU19日本代表は、俊輔より1年先輩の年代を中心として構成されていました。年齢が1つ上でJリーグを経験している選手を相手に俊輔がどこまでアピールできるのか疑問でしたが、当時のメンバーでは中盤のパッサーがはっきりとは決まっていないという現実もありました。この最終キャンプに呼ばれたのは20名でした。

 GK 小林弘記・小針清充・山口哲治
 DF 宮本恒靖・西政治・大石玲・城定信次・古賀正紘・戸田和幸
 MF 広山望・御厨景・藤本主税・明神智和・長田道泰・山口智・
中村俊輔
 FW 吉田孝行・柳沢敦・福田健二・山下芳輝

 当時のユース代表は、3−5−2のフォーメーションを取っていました、中盤は3つの枠があり、1ボランチだと攻撃的MFが2人。2ボランチだと攻撃にかかるのが1名というフォーメーションでした。ボランチとして、明神智和(現レイソル)、山口智(現ジェフ)がいる中で、攻撃的MFとして長田道泰(現ヴィッセル)、藤本主税(現サンフレッチェ)と争う形でキャンプに入って行きました。キャンプ中は、年上の選手がいる中で、桐光学園でも採用されている「アルファ波誘導装置」や「気孔」などでメンタル・トレーニングを行いながら、山本監督から見ても、初代表というのにまったく気後れすることなく練習に入っていきました。

○ アジアユース選手権大会 ○

 宿敵”韓国”国内で10/11から行われたアジアユースでは、5ヶ国づつ2つのグループリーグで2位以内を確保すればワールドユースへの切符を手にする事が出来ました(アジアからは4ヶ国)。
 俊輔は、本人も予想していなかった攻撃的MFの位置に一人で入る事になり、冴え渡るアイデアを駆使して攻撃を組みたてて行きます。グループリーグでは、前回アジアユース優勝国のシリア相手に3対1、中国相手に押し込みながら1対2で敗れますが、カタール相手に4対0と圧勝し、最終戦のインドは堅い守りをこじ開けて2対0とし、グループ2位で準決勝へ駒を進めるとともに、
ワールドユースへの出場権を得ます。
 俊輔は、4戦とも先発で3戦目のカタール戦では間接FKからのこぼれ球を蹴りこみ、日本代表としての”初ゴール”を記録しています。俊輔は中盤の位置からスルーパスにドリブルに、セットプレーにと大活躍しました。日本代表に今後続いて行く新しい”10番”がこの大会に誕生しました。

 そしてワールドユース出場権を獲得したU19日本代表が準決勝で対戦したのは宿敵”韓国”でした。これまでの対戦でも何度も苦い思いを飲まされている韓国相手にぜひとも勝ちたかったんですが、ホームの韓国としては敗れる訳にはいけません。一進一退の攻防の中、激しいアウェーを感じながら日本代表チームは戦いましたが、終了直前の79分に失点してしまい、敗れてしまいます。残念ながら俊輔は激しいプレスの中で50分に負傷で交代してしまいました。
 2日後にUAEと3位決定戦を戦ったU19日本代表ですが、俊輔や柳沢を負傷で先発から外す中で、チャンスがありながらなかなか得点を奪う事が出来ずに、失点してしまいます。なんとか同点に追いつきますが、更に失点して1対2とされてしまいます。荒れたフィールドでパスがうまく繋げない日本代表は、50分に俊輔を交代で出場させ、少しづつですが盛り返して試合のペースを握っていきます。
吉田孝行(現マリノス)のゴールで同点に追いつき更に俊輔のパスワークから攻めこみますが90分戦って2対2にままで、規定によりPK戦に入ります。

 PK戦では、城定信次(現レッズ)、宮本恒靖(現ガンバ)、戸田和幸(現エスパルス)の3人が続けて成功させますが、4人目の俊輔の蹴ったPKはGKに弾かれてしまいます。5人目の山下芳輝(現アビスパ)も止められて、4人全員がPKを成功させたUAEが勝ち、日本はアジア4位でワールドユースに望む事になりました。俊輔は日本の攻撃を組みたてる”10番”として新たな一歩を踏み出した大会になりました。

○ 横浜マリノス入団 ○

 アジアユースが行われる少し前の、U19日本代表の最終キャンプ前に俊輔が出した答えが、”横浜マリノス入団”でした。マリノスジュニアユースに所属しながらも、マリノスユースに進めなかったから、マリノスには来ないのでは?という周囲の声もありましたが、4つのJリーグのチームから誘われて出した答えでした。
 横浜マリノスは当時、中盤の核になる選手が人材不足でした。
木村和司、水沼貴史の後に続く人材がいなくて(いなかったわけではなかったんですが、期待のこたえられなくて…)、95年のリーグ優勝に貢献したアルゼンチントリオのビスコンティ、サパタもチームを抜ける事は確実な情勢でした。
 そんなチーム状況を見て取った俊輔が同じタイプの選手がいないからという理由で横浜マリノス入団を決めたのは、今になって思うと正解だったような気がします。(いろんな試練は有りましたが…)

○ 全国高校サッカー選手権大会 ○

 アジアユースから戻った俊輔に待ち受けていたのは、桐光学園のチームメイトとの呼吸の差(ずれ)でした。アジアユースで同年代のトップレベルの選手とのプレイを体験した俊輔は、チームに戻るとどうしてもパスの呼吸や判断が合わずに、ストレスを感じてしまっていました。U19日本代表出は感じて動いてくれる選手はいるのに、桐光学園のチームメイトではどうしても動きが遅く見えてしまいます。そんな葛藤を話し合いの中と練習で解決して行き、高校生活最後の大会となる冬の全国サッカー選手権大会に臨みました。

 桐光学園初戦の2回戦は和歌山の初芝橋本高校が相手でした。三つ沢球技場で行われた試合に私も足を運びましたが、俊輔のボールタッチの柔らかさと視野の広さは高校生の中で郡を抜いていました。その俊輔のFKのボ‐ルから前半4分に桐光学園が先制します。31分に同点に追いつかれますが、後半20分に再び突き放して、2対1で初戦を突破しました。この時、対戦した初芝橋本高校には、今はチームメートの岡山一成大野貴史(現コンサドーレ)がいました。俊輔の活躍で、あれよあれよと準決勝まで勝ち進みますが、俊輔は決して体調が良くありませんでした。大会に入ってから風邪をこじらせて、一時は39度の熱が有る中で、薬を飲みながらのプレイでした。そんな中で勝ちあがってきました。
 国立の土を踏んだ準決勝の相手は静岡学園でした。前年度に鹿児島実業と両校優勝を果たした静岡学園には、
南雄太(現レイソル)、坂本、倉貫という選手がいました。この試合を1対1からPK戦に持ちこみ、辛くも逃げ切り決勝に駒を進めました。

 決勝では、この大会で高校通算ゴールを更新していった、北島秀朗(現レイソル)擁する市立船橋と国立で激突しました。俊輔には知将・布圭一郎監督の指示でぴったりとマンマークを付けて来ます。ユニフォームが同じ水色を基調としているチームのため、抽選が行われ、破れた桐光学園が、白いセカンドユニフォームを着る事になったのは、敗戦への予感だったんでしょうか?市船に2点(北島、斑目)を先制され、なんとか黒河が1点を返しますが、守備の堅い市船を攻めきれずに、俊輔の高校サッカーは準優勝で幕を閉じました。メダルを首からかけてもらいながら、自然と涙がこぼれ落ちてきます。風邪で体調を崩していなかったらもっといいプレイが出来たのに、(…そうすれば負ける事も無かったのに…)と言っているようでした。

 選手権が終わって、大会の優秀選手に選ばれた俊輔ですが、風邪のためニューイヤーユースは帯同しましたが、ほとんど試合に出ることなく、体調を取り戻すことに努めました。2月になって、すぐにマリノスのキャンプが始まるからです。 

○ 背番号”25” ○

 1997年1月の終わりに横浜マリノスの入団選手発表がありました。衝撃的な移籍で賑わした城彰二(現バヤドリッド=ESP)がジェフから移籍。スペインからは、W杯出場経験の有る、フリオ・サリナスが入団してくる中、右隅に俊輔の姿が有りました。
 この年から、Jリーグは固定番号制になり、俊輔に与えられた番号は、マリノス強化部の田中利一が自身のラッキーナンバーで有る「2,5,8」のうち、二つを組み合わせた
”25”になりました。
 後に木村和司が日産自動車入団時に初めて付けた番号が”25”だと解ったのは偶然の一致か運命のいたずらか?その”25番”を背負い、俊輔のJリーグでの新たな戦いが始まりました。

〜 to be continue  〜