踊る麻酔科最前線

差別について考える

すべての患者を平等に扱うことを倫理的に要求される医師にとって、差別問題は避けては通れない「心のとげ」である。
この問題を論じるにあたって文中にはいわゆる差別語が登場する。あえて使用したのであって、それらの人を貶めるためのものではないことをご理解頂きたい。

 


すべての人は、生まれながらにして平等である、などときれい事を言うつもりはない。環境や努力、能力、教育、教養、知識、宗教、職業、趣味、人格その他、いろんなもので人は区別されている。収入も違えば、態度や言葉使いや人の見る目、人を見る目も違うであろう。すべての人を平等に扱うことは不可能だし、それは個性を否定したいわゆる悪平等でしかない。
肌の色や人種、出生、性別、国籍などにともなう差別は別の問題である。自分に何の責任もないことで、子供の頃から「白い目」で見られたら、自分ならどうなるか。逆境に耐えて大きく成長することも稀にはあろうが、多くの場合は小さくなってしまうであろう。

人は無意識のうちにも、人と自分を比較して優劣をつけたがる生き物である。特に自分に自信がない人は、肌の色とか人種、出生など反論できないものに頼って自分と人を比較する。そのような根拠も理由もない、だがそれ故に反論することも難しいものに頼って自分の優越性を確認して安心しようとする。それが差別の本質だろう。強い奴は弱い奴をバカにする。弱い奴は勉強のできない奴をバカにする。勉強のできない奴は貧乏人をバカにする。貧乏人は障害者や部落出身者や在日韓国人を差別する。そして巡り巡って最後が医者である。なんせ、建て前として医者は人を差別してはいけない職業だから。社会の底辺は医者である。
結局、差別する心というのは、弱い人間という動物の持つ性である。すべての人にそういう原罪は存在する。

それを克服するために、人は努力してきた。いわゆる蔑称の廃止などである。しかし、例え「めくら」という言葉を、目の不自由な人とか視覚障害者とか言い換えても、こころが変わらなければどうしようもない。もちろん、公務員や公共性の高い教師や政治家といった職業人やマスコミが、公的な場で蔑称を本来の使い方で使うのは許されることではない。

もう、30年以上昔のことだ。地方都市の戸籍係に金を渡すと、婚約者が部落出身であるか教えてくれるという噂が立った。ある医師が、「もしそのような名簿が存在するなら破棄せよ」と抗議すると、役所は「そのような名簿は存在しない」と返答した。その数年後、同和政策ということで部落出身者に低利貸付金優遇制度が提案された。部落出身者であることがバレルのを恐れて誰もその制度を利用しないという事態が続いたらしい。苦々しく思った例の医師が貸付金を申し込むと、役所から「あなたは申し込みの資格がない」という返事が届いたという。「奴等、やっぱり名簿持ってやがった」とカンカンになった医師が抗議に行くと、「住んでる場所などから判断した」と苦しい言い訳をして無視されたという.....。こういう医者になりたいもんである。

 


「職業に貴賎はない」.....「ある職業に就いたからといって、それでその人の人格などが貶められたり、尊ばれたりする(保証される)ものではない」という意味だと思います。
これを「どんな仕事でも要求される能力や資質は同一(均一)であり、報酬も同一であるべきだ」と誤解すると妙なことになります。医師には医師の、パイロットにはパイロットの、軍人には軍人の、アメリカ大統領にはアメリカ大統領の「職務」と「責任」があります。
麻酔科医に最も必要な資質は「危機管理能力」と「優先順位の判断力」だと考えています。
例えば、ある人に「あなたは麻酔科医に向いていない」と言った場合、「危機管理能力」あるいは「優先順位の判断力」に欠けると指摘しているだけであって、優しさとか、正義感とか、人格すべてを否定している訳ではありません。それを誤解してカーッとなってしまう人が時におりますが.....
逆に言えば、「麻酔科医にあまり優しさや正義感などを要求しないでね」.....?(^^;
(「エアーフォース・ワン」を読みながら)


ある学者の意見によると、差別のひどさは「通婚」の可能性と反比例するそうです。「ゴーマニズム宣言」の著者である小林よしのり氏(かなり好き嫌いが分かれるとは思いますが)も、この点は気付かれていたようです。彼は「部落出身者の差別に反対する以上、自分の子供が部落出身者と結婚したいと言い出したとき、親戚と縁を切る覚悟で説得して廻る」と宣言しています。私も心から見習いたいと思います。
インドのカースト制度が絶対的差別である(あった?)という論拠の一つは、異なるカースト間での結婚が禁止されていたことにあります。この点から言って、英国の王室に入る(王族と結婚する)ためにはイギリス正教への改宗が要求されるのは「宗教差別」以外の何者でもありません。
逆に言えば、結婚できる可能性がある限り、いつかはその差別を乗り越えられる希望があるということです。何とか明るい希望が見えてきました。日本では、アイヌや在日韓国人、障害者や部落出身者と、いわゆる「日本人」との結婚が法律で禁止されているわけではありません。これは誇るべき事実であり、その概念を守り、育み、子孫に伝えて行くべきものと考えております。

 

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