踊る麻酔科最前線

安全な麻酔

研修医向けに作ってみました。
内容に医学的な誤りがある場合、その他ご意見・ご提言頂ける方はメールにてお知らせ下さい。


前投薬は必要か?

麻酔に先立って投与(主に筋注)される副交感神経遮断薬(アトロピン、スコポラミン)や鎮静薬(ベンゾジアゼピン、ハイドロキシジンなど)、H2ブロッカーなどを前投薬(プレメディケーション、略してプレメディ)という。
かなり以前発生した麻酔事故の判決で、前投薬のなされていなかったことが問題とされて以来、多くの施設で盲目的に施行されている習慣(忘れてた−さあ大変と−アトロピン)である。

副交感神経遮断薬は気道分泌物の抑制と副交感神経反射の予防のために行われるが、これによる口渇は全身麻酔以外の局所麻酔では患者にとって不快なものとなる(アトロピン−のどが渇くが−禁水だ)。発汗の抑制は時に(特に小児では)うつ熱の原因となる。さらに通常使用量では副交感神経反射の予防には不十分であることが指摘されている。スコポラミンは時に(特に老人では)不隠の原因となることも知られており、ナチスが自白剤として利用していたことは有名?である。
私自身は、多くの施設で慣用的に使用されている鎮静薬で十分な鎮静が得られていると感じたことは殆どない。鎮静薬の筋注はかなり痛いのでかえって逆効果であることも少なくない。特にジアゼパム(セルシン、ホリゾン)は筋注投与では効果が一定せず、経口投与の方がよいとする報告もある。また、多くの麻酔科学教科書に「術前の説明に勝る鎮静薬はない」と書かれている。
H2ブロッカーによる胃液酸度の低下(pHの上昇)は消化器感染の予防という観点からは好ましくない、と言われている(ガスターを−打ったら恐い−M腸炎)。

以上の理論的背景および筋注に対する嫌悪感(筋注で−そんなに欲しい?−示談金)から、私自身は過去4年間どうしても必要と思われるケース(重症な虚血性心疾患など)以外で前投薬を指示したことはない。必要な場合でも可能な限り経口あるいは静注(点滴)投与としている。
その結果、術中徐脈からアトロピンの静注を必要とする症例は確かに増加した(経験的に4〜5例に1例くらい)が、それ以外に特に大きな問題は発生していない(アトロピン−打たなきゃ増える−徐脈かな)。

 


NPOとは?

NPOとは、絶飲食のことである。麻酔、特に全身麻酔では誤嚥(性肺炎)の予防のため、通常でも6〜8時間以上の絶飲食(老人や妊婦、肥満者ではより長時間)が必要とされている。しかしながら、長時間の絶飲食による脱水や低血糖、さらには胃液酸度の上昇(pHの低下)などの危険は殆ど無視されている。

今でもよく憶えているのは、あるおすもうさんに全身麻酔をかけたときのことである。前日の術前回診時とは別人のように不機嫌で、麻酔導入時には不隠となって暴れ出した。術中は妙に血圧が安定しないのでルーチン検査(血液ガス、電解質、血算、血糖のいわゆる「いつもの4つ」)を施行すると、なんと血糖値がLowであった。そこで始めてすべての徴候が低血糖によるものであったことに思い至った次第である(すもうとり−9時間食べなきゃ−低血糖)。

クリアーウオーター(乳成分や炭酸を含まず、透明な飲み物)は摂取後、30分〜2時間で胃内から消失するという報告もある。現在、私は術前点滴を施行されないケース(当日入院の小児など)では、麻酔導入2時間前までポカリスエット(大塚製薬さん、ご褒美下さい)などを好きなだけ飲ませるようにしている。それで誤嚥性肺炎などを起こしたケースは1例も経験していない。

 


ASAのPS(麻酔リスク)

ASAのPS(フィジカルステータス)とは、アメリカ麻酔学会(ASA)が定めた術前麻酔リスクの判断基準である。詳しいことは成書を読んでいただきたいが、この基準を厳密に解釈すると、年齢、肥満、栄養状態、妊娠、多発外傷(骨折)などは麻酔リスクに関与しないということになる(全身の−併発症で−ないからな)。
バカ言っちゃいかん。本当にやばそうな患者というのは見ただけで分かることも少なくない。いかにも心臓(冠動脈)に脂が乗っていそうな中枢性肥満の急患や寝たきりで今にも呼吸が止まりそうなガリガリの老人が、リスク2Eだの2だのと記載するときのやるせなさといったら.....
いい加減、「アメリカ人のいうことはすべて正しいんだ」という考え方は改めて欲しいものである。

この部分に対し、以下のご意見を頂いた。
「安全な麻酔」では納得できることが多く述べられていますが、ASAのPS(Physical Status)はちょっと勘違いなされているのではないでしょうか。小生はアメリカで仕事をしているので日本でASA・PSがどのように訳され解釈されているのかよくわかりませんが、もしあなたがおっしゃるように「術前麻酔リスクの判断基準」としてであれば、それは間違いです(できればエピネフリンでもうちながら英語の成書を読んでいただきたい)。
ご存じでしょうが、このPSは1940年に手術・麻酔をうける患者の状態を標準的に表すと言う目的でつくられました。1961年に6クラスから5クラスに修正されてからほとんど変わっていません。ASA・PSと周術期死亡率との間では若干関係があることはありますが、麻酔のリスク/結果などを予測するためのmultifactorial index(英語で失礼...多要素的指数とでもいうのでしょうか?)な様なものではありません。
PSは単に麻酔科医、またはほかの医師の間で患者の状態をつたえ、把握してもらうための簡潔な要約にすぎないのです。リスクの判断基準として毎日きちんとチャートに書いていたらやるせないのもむりないでしょう。これからは正しくASAクラス2Eとかけば少しは楽なのではないでしょうか。それよりもっと疑問に思うのはなぜわざわざ日本でこの米国の基準をつかっているのでしょうか。べつに無理して書かなくてもいいんじゃないでしょうか。
アメリカ人のいうことは勿論すべて正しくありませんが、そう判断する前になにを言っているかをちゃんと理解してからにしたほうがよろしいかとおもいます。まあ、「インターネットで読むことはすべて正しいんだ」とゆうのも要注意でしょうね。

以下は、私のお返事である。
まずASAのPSですが、完全に貴殿のおっしゃる通りです。ところが、日本の麻酔科指導医(の一部)は、それに気付いていないのです。それに対する苛立ちがあのような拙文になってしまいました。例えば、慢性関節リウマチにTHRを行うとき、彼(彼女)らはPS1だと主張します。私がいくら、あれは慢性関節リウマチによる変形性股関節症に対する手術だから、PSは上がると言っても、真面目に聞いてくれませんでした。私が自分の信じるPSを記入すると、カンファランスで吊し上げられました。私の知る限り、日本の麻酔チャートでASAのPSを記載する欄がないものはありません。麻酔チャートは準公文書(カルテの一種)ですから、無視することは出来ません。
(追伸です。)
「英語の成書を読んでいただきたい」
>昔はさんざん読まされました。結論として、私(や後輩)の語学力では、英語の文献1つ読む時間があれば、日本語の雑誌なら丸々1冊読める。という哀しい事実でした。
「アメリカ人のいうことは勿論すべて正しくありませんが、そう判断する前になにを言っているかをちゃんと理解してからにしたほうがよろしいかとおもいます。」
>私が責めているのは「アメリカ人のいうこと」ではなく、「アメリカ人の言うことを盲信する」(一部の)日本人の態度です。でもアメリカの麻酔にも問題点(唯我独尊的)はありますよ。

 


過剰輸液

外科医の中には麻酔中の過剰輸液を異常に嫌がる医師がいる。術後の呼吸管理が大変になる?という理由らしいが、そういう医師に限って術中尿量が1ml/kg/hrを切ると大慌てで「昇圧剤を使え」と騒ぐから困ったもんである。自分は手術中一度もトイレに行かないだろうに.....「イノバンを−点滴しましょ?−大センセ」。イレウスや腹膜炎でどれほど脱水が起きているか、開胸・開腹術でどれほど不感蒸泄があるかなんてことは全く頭にないらしい。もちろん麻酔科医にだって正確な脱水量は分からない。

だが、次のことは理解しているつもりだ。過剰輸液による合併症で多いのは、肺水腫や心不全、稀に脳浮腫などであり、これは集中治療によりかなり安全に治療が可能である。過少輸液による脱水では腎不全や血液粘稠度の増加による血栓症(肺梗塞や脳梗塞、心筋梗塞など)が起こり易くなる。こうなると大変で、死亡率(正確には致命率)は高いし、治療に成功しても後遺症が残ることは覚悟しなければならない。

私は脱水量の想定が困難な症例では、どちらかというと過少輸液(ドライサイド)より過剰輸液(ウエットサイド)の方が安全だと考えている(わからなきゃ−ちょっと多めに−輸液する)。もちろん尿量やCVP(これがまた全身麻酔中はあてにならないんだが)、心拍数などを参考にしながらである。もっとも、硬膜外麻酔併用全麻(入れてから−後悔するぞ−マーカイン)や自律神経失調(何となく−頻脈になる−胃穿孔)では、何が何やらぐちゃぐちゃになってしまうことが多い未熟者であるが。

 


凝固能

やはり一部の外科医ではあるが、出血量を異常に気にする医師がいる。こういう先生の前でヘスパンダーやデキストラン、アスピリンなどを使用すると「血液凝固能が落ちる」といって叱られる。血は固まりゃいいってもんでもないと思うんだが.....この手の外科医に限って、手術時間は長い(.....こともある.....)。

丁寧に手術して下さるのはいいんだが、全身麻酔というのは短いに越したことはない。
「小手術というのは存在するが、小麻酔というものは存在しない」という有名な格言がある。麻酔というのは「どんなに簡単に見えても、短時間でも、油断するな」という戒めなのであるが、逆に言えば長時間の全身麻酔下手術というのは、やはりそれだけでリスキーなのである。
低体温や循環不全による臓器障害、人工呼吸によるバロトラウマや肺の微少障害などは言うに及ばず、麻酔科医を含む手術スタッフの疲労などに起因する医療事故の頻度だって増加するからだ(なが手術−満足するは−術者だけ)。

 


S−Gカテーテル

CVPと同じで、あんなものが麻酔中に有用だったなんて経験は、心臓外科ですら一度もない。CVラインは輸液輸血路としてなら有用であるが。
内頚静脈穿刺に熟達すれば3例もやればS−G(スワンガンツ)カテはいつでも入れられるようになる。一時ペーシングや混合静脈血酸素飽和度の測定(この2つだって本当に必要なことは極めて稀である)以外の目的でS−Gカテを入れるのは患者のためにならない愚行である。あせって練習することはない(SGを−入れて損する−研修医)。

 


硬膜外麻酔

硬膜外麻酔を日本に紹介したのは元日本医科大学麻酔科教授の西邑信男先生(お元気かなあ)ということになっている。それくらい高名な名医になると硬膜外麻酔だけで胃切除術も可能だというのだが。私には自信がない。高名な麻酔科教授には不思議とある種のオーラが存在する(ことが多い?)。有名な先生にわざわざ麻酔を担当して頂いてるという遠慮から、少々のことは我慢しているなんてことはないと信じるが(なんでかな?−ヤクザみたいな−教授たち.....クスクス)。
吸入麻酔下の人工呼吸とたっぷりの(致死量を越える>人工呼吸しなければ)筋弛緩薬という、快適な環境での手術に馴れた外科医を納得させる自信は私には全くない(国のため−我慢をしろと−針麻酔.....あぶねー!また口が滑った!!)。大体、自分が硬膜外麻酔だけで胃切除術受けてみればいいんだよ.....

開心術にも硬膜外麻酔とこだわることに医学的に反論するつもりはない。ヘパリンは既に凝固した血液を溶かす力がないことは知っているし、心配なら前日に硬膜外カテを挿入するという方法もある。
ただ人工心肺や大動脈遮断による脳塞栓や脊髄虚血が発生したとき、硬膜外(エピ)のせいにしたがる心臓外科医(もちろん、ごく一部だが)とキチンと渡り合える自信がなければ止めておいた方が無難である(エピドュラル−なくても麻酔−かけられる)。

 


安全な麻酔

結局のところ、安全な麻酔というのは麻酔専門医がかける一番慣れた(自信がある)麻酔ということになるだろう。肝機能障害(正確には肝逸脱酵素の上昇に過ぎないことも多い)があるからNLAとか、脳動脈瘤のクリッピングだから低血圧麻酔だとか、慣れないことは専門医に任せた方がよい。

逆に、麻酔科研修医のみなさんは、指導医がいるうちにいろんな麻酔を経験しておくことをお勧めする。吸入麻酔プラス筋弛緩薬プラス麻薬系鎮痛薬(あるいは硬膜外)の組み合わせという現在トレンドのバランス麻酔がいかに安全で快適なものであるか。他の麻酔法を経験して始めて気が付くであろう。

 


同業者からの監視

麻酔科医の業務の多くは同業者(外科医)に監視されている。これはある意味では、麻酔科医の安全管理意識に大きな好影響を及ぼしている。私は昔、嫌いな外科医に文句を言わせないために必死で勉強し、腕を磨いた記憶がある(必ずしも成功したかどうかは不明>大体は成功したかな?)。

 


「安全な麻酔のためのモニター指針」の改訂

日本麻酔学会の勧告する「安全な麻酔のためのモニター指針」が改訂されました。
すでにご存知の方も多いと思いますが、全文を掲載します。学会勧告という性質上、著作権問題は発生しないと信じております。
学会からの勧告であり、法的拘束力を持つものではありませんが、万一の麻酔事故などの際、この勧告に従っていたかどうかは非常に重要視される筈です。

 

「安全な麻酔のためのモニター指針」の改訂

1993年4月21日に制定されました「安全な麻酔のためのモニター指針」が,本年(1997)5月30日に改訂されましたので,お知らせします.改訂されたところは下記のアンダーラインの部分で,「カプノメータを装着することが望ましい」が「全身麻酔ではカプノメータを装着すること」になりました.なお,診療報酬上では,全身麻酔中にカプノメータを用いて患者の終末呼気炭酸ガス濃度を監視した場合には150点加算できることになっています.

〔前文〕
麻酔中の患者の安全を維持確保するために,日本麻酔学会は下記の指針が採用されることを勧告する。この指針は全身麻酔,硬膜外麻酔及び脊椎麻酔を行う時に適用される.

〔麻酔中モニター指針]
1)現場に麻酔を担当する医師が居て,絶え間なく看視すること.
2)酸素化のチェックについて
 皮膚,粘膜,血液の色などを看視すること.
 パルスオキシメータを装着すること.
3)換気のチェックについて
 胸郭や呼吸バッグの動き及び呼吸音を監視すること.
 全身麻酔ではカプノメータを装着すること。
 換気量モニターを適宜使用することが望ましい。
4)循環のチェックについて
 心音,動脈の触診,動脈波形または脈波の何れか一つを監視すること.
 心電図モニターを用いること.
 血圧測定を行うこと.原則として5分間隔で測定し,必要ならば頻回に測定すること.観血式血圧測定は必要に応じて行う.
5)体温のチェックについて
 体温測定を行うこと.
6)筋弛緩のチェックについて
 筋弛緩モニターは必要に応じて行う.

【注意】全身麻酔器使用時は日本麻酔学会作成の始業点検指針に従って始業点検を実施すること.

 

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