踊る麻酔科最前線

脳死と臓器移植

 

脳死と臓器移植は別々に論議するべきだ、という意見があります。
正論ではありますが、現実に脳死臓器移植を待ち望んでいる人々もおります。
脳死と臓器移植について少し考えて見ませんか?


生体臓器移植

臓器移植は何でも反対という人もいらっしゃるとは思いますが、医学的には輸血だってれっきとした臓器移植です。臓器提供者(献血者)に害がない生体臓器移植であれば、反対者は殆ど存在しないという好例です。提供者にリスクがないという観点から同様に考えれば、私は臍帯血からの骨髄バンクなども大いに推薦したいと思います。臍帯血バンクは現在のところ善意のボランティアによる運営ですが、これは是非とも公的なバックアップ(資金や人員など)をお願いしたいと思います。具体的には日赤などが取り組んでくれることを期待します。
骨髄移植や生体肝移植では、臓器提供者のリスクや入院という問題があるものの、倫理的には輸血と同様に扱うことが可能です。

腎移植になると話は少し変わってきます。提供者は2つしかない腎臓のうちから1つを提供することになります。一度提供した腎臓は、拒絶反応のため受給者(被提供者)から摘出することになっても、自分に戻すことはできません。
後から生まれてくる子供や孫が、腎移植を必要とすることになったら.....そう考えると、私は生体腎移植は年長者から年少者への贈り物であるべきだと思います。人工透析という手段があるのもそう主張できる大きな理由です。


死体臓器移植

死体臓器移植が可能な臓器は、角膜や腎など比較的虚血に強い臓器に限定されてしまいます。肝臓や心臓移植は殆ど期待できません。肺移植は心肺同時移植が必要なことも多く、肺単独移植は手術も困難なため、これも期待できません。
さらに日本人独特の死生観を無視することはできないようです。死体やお骨に対する執着が強いと言われておりますが.....
私は自分の死体が人の命を救うのに役立つのなら、使って貰って構わないと思っておりますが、万一(そんなこと想像もしたくありませんが)自分の子供が亡くなった時、遺体から臓器を摘出することに同意できる自信は全くありません。


脳死判定について

私は、尊厳死や脳死臓器提供の意思を持っていた方の脳死判定には積極的に賛成します。無理な延命処置が遺族に与える経済的・体力的負担をよく知っているからです。
そうでない場合、今の脳死判定にはあまりに多くの問題が残されていると思いますので、積極的には賛成しかねます。もちろん、遺族からの申し出であるなら反対はいたしません。
脳死判定の問題点
1)技術的に完全無欠なのか?
2)アプネア・テストは必要か?
 アプネア・テストは二酸化炭素蓄積に対する呼吸中枢の反応性を確認するための試験であるが、その実施基準は非常に大雑把である。パルスオキシメーターやカプノグラムの装着義務すらないのだから、時代遅れの感は否めない。そもそも、二酸化炭素の負荷試験で代用できるはずだし、その方がはるかに安全である。
3)脳幹死にこだわる根拠が薄弱である。
 植物状態=大脳皮質死と脳死=脳幹死の差に、そこまでこだわる必然性が理解できない。私個人の感覚では、自己の意思発言ができなくなった時点で、無理な延命処置はして欲しくない。家族に余計な経済的・体力的負担をかけたくないということもあるが、自分の子供に無惨な状態(臭気、るいそう、褥瘡、気管切開など)を見せたくはないのが本音である。

脳死の判定などについて医学的なことが知りたい方は以下のホームページをご参照下さい。

ようこそ森本康裕のホームページへ


脳死と臓器移植

今の日本における脳死患者からの臓器移植にはとても期待はできないと思います。その理由ですが.....

  1. 今の法律では、実現性が非常に低い。文書による生前の意思表示、家族全員の同意、検死との絡みから考えて、まず不可能であろうと思います。
  2. 日本人は遺体を非常に大事にします。脳死患者からの心臓や腎臓移植に同意していながら、皮膚や腱・筋肉、骨髄などの摘出には反対する.....気持ちは理解できなくもありませんが。理性的に考えれば変な話です(理屈ではないのでしょうが)。後で後悔するくらいなら、始めから止めておいた方がすっきりするでしょう。
  3. もともと心臓移植は、人工心臓が開発されるまでの「一時しのぎ」だったはずです。それがいつの間にか一人歩きを始め.....今では逆に人工心臓が心臓移植までの一時しのぎに利用されている始末です。
    長い目で見たら、人工臓器の開発と移植医療のどちらに力を注ぐべきか。もちろん、人工臓器の開発が非常に困難だということは分かってはおりますが.....宇宙ステーションが夢ではない時代なのですから。

 


脳死判定基準覚書

日本医師会雑誌 第118巻・第6号/平成9(1997)年9月15日のP.855-865に、竹内一夫、武下浩、お二方(敬称略)による特別寄稿が寄せられた。
厚生省「脳死に関する研究班」による、脳死判定基準(いわゆる竹内基準)覚書−神経所見と無呼吸テスト−という題名の投稿である。竹内先生は言わずと知れた竹内基準の提言者であり、武下先生は麻酔学会会長を務められたこともある著明な麻酔科教授(元)である。
この論文で注目すべき点は、脳死判定の前提条件と除外例が強調されている点と、無呼吸テストの大幅な見直しが含まれている点である。この基準なら納得できる。6年前にこの基準が発表されていたら、と悔やまれてならない。以下は本論文からの抜粋である。神経所見に関しては専門外なので割愛する。

1.前提条件.
脳死判定に至るまでには,次の2条件を満たしていなければならない.
1)器質的脳障害により深昏睡および無呼吸を来している症例。
2)脳死になりうる原疾患が確実に診断されており,それに対し現在行いうるすべての適切な治療手段をもってしても,回復の可能性が全くないと判断される症例
以上のどの文言もゆるがせにできない.治療の可能性が残っている限り脳死判定の対象例とはならない

2.除外例
小児(6歳末満)、急性薬物中毒(特にベンゾジアゼピン),抵体温(32度以下),代謝・内分泌疾患(肝性脳症、腎不全、糖尿病性昏睡その他)などを除外する.低体温,尿崩症,高・低ナトリウム血症などが重症脳障告の結果として起きている場合は除外する必要はない.また,原疾患発症以前から重症閉塞性呼吸器疾患を有する症例や,原疾患に伴って起きている重症呼吸不全の症例の取り扱いにも慎重を要する.

無呼吸テストの手順

以下の手順は典型的方法の1つである.テスト前・中の酸素投与,人工呼吸中止の仕方にはいろいろな方法がある.各施設の診療態勢(人工呼吸器の種類,血液ガス分析の結果が出るまでの時間など)に合わせて安全,確実な方法をとればよい.しかし,基本的事項については施殻で必ず統一しておく.

<無呼吸テスト前の望ましい条件>
中枢体温:35度C以上
収縮期血圧:90mmHg以上
PaCO2:正常範囲35−45mmHg
PaO2:200mmHg以上
必須モニター:血圧,心電図,パルスオキシメータによる酸素飽和度

<手順>
1)10分間100%酸素で人工呼吸.
テスト前の100%酸素による換気とテスト中の酸素投与は,いずれも人工呼吸中止により換気がない状態になったとき,身体の酸素需要に見台う酸素の供給を十分に保証するために行うもので,テスト中の抵酸素を防ぐために重要な操作である.
2)人工呼吸器を外す.
人工呼吸器を外して気管内チューブを介して酸素を投与するのが最も簡単で,間違いがない.しかし,人工呼吸器をつけたまま人工呼吸を中止できる.
3)この間,6L/minの100%酸素を気管内チューブに通したカテーテル(気管分岐部の直上まで挿入)を介して流す.流量は6〜10L/minが適切である.人工呼吸器を用い100%酸素を定常流で投与することも可能である.この場合,最近の人工呼吸器はいろいろな換気モードを装備しているので,便いこなすには専門的知識と技術が必要である.
4)この間、血液ガス分析を適時に行い,PaCO2が60mmHg以上であることを確認する。低血圧,不整脈,低酸素で人工呼吸中止に耐えられないと判断したときは,人工呼吸器をつなぐ寸前に採血して血液ガス分析を行い,(4)に準じてPaCO2の値を確認する。

<参考>
病態,体温,テスト前のPaCO2,3mmHg/minのPaCO2の上昇を念頭に入れて,3,5,8分後など適切な時期に血液ガス分析を行う.PaCO2を60mmHgとする代わりに,テスト開始前と比較して20−25mmHgの上昇でもよい.PaCO2の上昇は80mmHgにとどめるのがよい.

<結果の判定>
人工呼吸器を外している間,自発呼吸がなければテストは陽性と判定する.呼吸運動が微弱・不規則で換気に有効でなくても,「自発呼吸あり」とし結果は陰性と判定する.換気の有無については,換気量測定,capnographによる呼気炭酸ガス分圧の連続記録を行うと参考になる.

<厚生省脳死判定基準の補遺との達い>
初出時と補遺には10分間人工呼吸を中止すると書いてあるが,後者ではPaCO2の値が時間よりも重要であると記載してあった.しかし,いまだに時間のみが問題にされる向きもあるので,本覚書では“10分”の記述を取り除く

覚書に述べた理論を理解し,注意事項を守って行えば,無呼吸テストは安全,確実に行える.総合的に判断して危険と思われるときはテストをしない.

 


脳外科医の独り言(投稿より)

脳死法案可決に際しに思ったこと
広く脳死に関する議論がなされることは意味深いことと思う。しかし、いまの脳死議論にはあまりに問題が多いと思う。思い付くままにあげると

1. 医学的問題

a. 脳死判定の安全性: 脳死判定時には必ず無呼吸検査として呼吸器をはずさなければならないが、この時心臓死に至らない保証はない。----と思っていたが、このたび発表された脳死判定基準覚書(日医雑誌1197;118:855-865)ではかなり改善されておりひとまずは安心したが、新基準の周知徹底が今後の課題だろう。

b. 治療機会の喪失の可能性:重傷脳損傷の患者において移植の為の臓器保全に主眼がおかれ本来助かるべき患者の治療が疎かにならないか? 実際脳死状態での臓器摘出が行われている欧米でこの種の裁判が起こっていると聞いた。

c. 新治療法開発の遅延:最近脚光を浴びている低体温療法は脳死移植が認められていない日本だからこそ開発されたともいわれている。死に至る過程のどこで不可逆的変化として線を引くかはその時の医療水準にて大きく左右される。現時点での水準で脳死判定を繰り返していたら進歩は止まってしまうのでは?

これらの問題は本来脳損傷患者の治療にあたる臨床担当医が真摯な態度で診療に望み、決して功名目当ての移植医の圧力に屈しなければ起こり得ないと思うが実際には-----?

2. 脳死が固体死とされたときの社会的・経済的問題

a. 脳死後の治療の可否およびその治療費は:まだ一般には脳死=固体死という認識は浸透していない。脳死を死と受け入れられずに家族が延命措置の継続を望む場合、死体に対して治療を続けることが許されるのか?、またその際の治療費は誰が負担するのか?(社会保険からは決して支給されないだろう)

b. 死亡時刻が任意に決められる!?:脳死の場合脳死判定時刻が死亡時刻となるため、何時脳死判定をするかで死亡時刻をある程度任意に設定できる。ドラマや小説ででもないと有り得ないかもしれないが、死亡時刻により遺産配分・保険金受取額などが大きく変わりうる場合、このことは非常に重大な意味を持つであろう。
また、計画分娩と同様死亡統計において日曜日・夜間の死亡が極端に減少することも起こり得る(実生活にはあまり支障はないが)。

3. 先日可決された脳死法案の実務上の問題

a. 検死との兼ね合い:移植に使えるような臓器を持つ患者は比較的若い人である。したがって脳死になるとすれば外傷の場合が多いだろう。そうなれば当然検死との兼ね合いが問題になる。司法解剖が必要な場合を除けば脳死=固体死であるなら脳死状態で検死をしてもかまわないはずだが、頭の固い検死官が心臓の動いている遺体の検死をしてくれるだろうか?

b. 本人の同意をどうとるのか:脳死になってからでは当然同意することなど不可能である。運転免許・健康保険証等取得時に脳死・臓器移植の同意・非同意に関する誓約書の提出を義務づけるなどしなければこの問題は解決できない。

c. 同意を求める家族の範囲は?:病理解剖を求めるときによく経験したが、献身的に看病してくれた配偶者が同意してくれたにもかかわらず、生前一度も見舞いにすら来なかった“親族の代表者”と称する人が突然現れ医療スタッフの熱意を踏みにじることが多々あった。同じことが起こらない保証はない。また、独り者・行き倒れなどの場合は誰に同意を求めるのか?

4. なぜ臓器提供者のみ脳死が認められるのか?

a. この問題が一番気がかりな点なのだが、本来“死”の概念は臓器移植とは無関係なはずなのに、昨今の脳死議論は必ずといっていいほど臓器移植と関連してなされている。結局何らかの利害が絡まなければ政治家は動かないという事だろうか? 臓器移植しか助かる見込みの無い患者を救うため、せっかくの臓器提供者の善意を無駄にしないため、脳死状態での臓器摘出の道を開いた意味で脳死法案の可決は喜ばしいことかも知れない。しかし、法案の内容は大義名分に抗しきれなくなった政治家が色々な問題等に目をつむり、実施に際し幾重にもハードルを設けそれを越えられないのは医者の怠慢だと責任転嫁されたような気がする。
脳死の問題は、もっと個人の尊厳に基づいた立場での議論がなされるべきだと思う。医療現場ではインフォームド・コンセント(説明と同意)という概念が導入され、治療法の決定に際しても患者個人の意見が尊重される時代である、死の概念も多様化して不思議ではない。臓器提供はしたくないが脳死は自分の死だと認めてほしい人も多いと思う。種々の問題があるにせよそうゆう人の意見も尊重される時代になってほしい。

以上、自分が脳死になったらそれ以上の延命措置はしてほしくないと思いつつ、自分の患者には脳死を宣告する勇気の無い脳外科医の独り言。

 

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