踊る麻酔科最前線

“ごめんなさい”と言える医師

日本麻酔学会の準機関誌「麻酔」に掲載された徳島大学大下修造教授の論説(抜粋)を紹介する。「」内が原文よりの引用。>以下は私の意見である。

 


“ごめんなさい”と言える医師

「とくに私が共感を覚えたのは,患者の立場から医療訴訟に携わっている某弁護士の講義“医療事故と患者の人権”であった。その内容を一言でいえば,理不尽な医療訴訟に対しては医師として断固戦うべきであるが,自分に責任があると感じた場合には素直にその非を認めてほしいというものであった。すなわち,“ごめんなさい”と言える医師になってほしいというわけである。この点に関し,私は以前からひとつの疑問を抱いていた。医学部を卒業し,臨床医としての第一歩を踏み出して間もないころ,先輩から,医療事故を起こしても決して患者やその家族に謝ってはいけないと教わったのである。謝って自分の非を認めてしまうと,訴訟になった場合,不利になるというわけである。非常にアメリカ的な発想と思われるが,日本では違うのではないか。医療事故を起こして,しかもその責任が明らかに自分にある場合には,素直に謝るべきではないか。その結果,訴訟を起こされたとしても,それは仕方のないことではないかと自分なりに考えていたのである。」

>強調部の現実は今も変わっていない。少なくとも10数年前の私自身そう教育された記憶がある。謝るべき時にも謝らない方がよいと教育することで、現代医療の多くの矛盾が生まれている。手術が成功しても失敗しても、成功したと言い張る医師を信用する人はいない筈である。失敗しても謝らない医師。医療不信の根っ子が、ここにあるのではないか?

「今から5〜6年前,私も麻酔事故を起こしてしまった。症例は10歳の女子。全身の筋肉が結合組織化してしまう疾患で,側彎症と亀背が激しく,放置すれば生命が危険にさらされるため,後方固定術が予定された。体重10kg,%肺活量は25%であった。頸部の筋肉も結合組織化していたため,喉頭展開不能,バッグとマスクによる換気も非常に困難であり,低酸素症から著明な徐脈と低血圧を来した。なんとか気管内挿管したものの,胸郭変形のため十分な胸骨圧迫心マッサージを行えず,脈拍と血圧の回復にエピネフリン5mgを要した。そのためか,蘇生後にひどい肺水腫を来し,低酸素脳症の状態に陥ってしまった。それから死亡するまでの約1カ月間,麻酔科医4名でチームを組み,24時間体制で看護したが,このとき,自分が以前から抱いていた疑問点を試してみようと考えたのである。すなわち,訴訟になるのは覚悟のうえで,真実を両親に説明し“申し訳ありません”と謝った。そうすると,私の説明と両親が日ごろ気づいていたことと一致する点が多くあり(例えば,“頸部の筋肉が硬くなっていた”という説明に対し,“そういえば水泳で犬掻きができなかった”というように),しだいに両親,とくに母親がわれわれを信頼してくれるようになった。また,周囲の反対を押し切って墓参りに行ったあとは,父親もわれわれを許してくれた。」

>現役医師として、麻酔科教授として、この告白には大変な勇気が必要であったことと推察される。両親に謝罪するだけでも相当勇気がいることなのに、それを学会誌に発表することは、下手をすれば教授生命や医師生命にかかわりかねない大問題である。上司からも同僚や部下からも、大きな反発があったに違いない。こういう教授のもとで働けるなら、もう一度大学に戻ってみるのも悪くないかも知れない、と思わせるほどの迫力がある。

「最近,インフォームドコンセントの重要性が指摘されている。麻酔では,手術前に麻酔の危険性について説明するとともに,説明の内容を患者や家族に十分理解してもらうことが必要である。麻酔の危険性を事前に十分理解してもらってはいても,いざ麻酔事故を起こしてしまうと,(本人や)家族は納得しないことがほとんどであろう。そのような場合,麻酔科医として事故後の患者管理に最善を尽くすべきであることは当然として,上記のような経験に基づき,私自身は,麻酔事故に関して可能な限り真実を説明し(微に入り細をうがつ説明の必要はないと思う),明らかに自分に非があると思われた場合には素直に“ごめんなさい”と謝るべきではないかと確信するようになった。そして,前述した某弁護士の講義を拝聴しながら,また改ざんされたカルテをスライドで見せられて,このような考えをさらに強くしたのである。(徳島大学教授大下修造)麻酔46:1037,1997」

>全く同感である。一医師として(それ以前に一人間として)深く感銘を受けたので引用させていただいた。

さて、私は今までに出版された、患者サイドから書かれた医療訴訟に関する書物を何冊か拝見した。医療ミスに遭遇したと主張する方々のホームページも少なからず拝見してきた。これらの方々の主張には次のような共通点がある。「金(慰謝料)が欲しいのではない。相手(の医師)に謝罪して欲しいだけなのだ。葬式で線香の一本もあげて貰いたい、一回でもよいから墓参りに来て欲しい、と願うだけなのである。しかし、民事訴訟を起こす場合は損害賠償という形で金銭を請求するしか方法がない。金銭を請求するというのは、死者の命を計算することなので本当はしたくないのだ。」
今の日本に「金が欲しくない」という人がどれくらいおられるか想像してみれば分かるように、この主張を100%無条件に信じることは難しいとは思うけれども、私個人としてはやはりそこに真実が含まれていると感じるのである。

アメリカは事情が違うようである。かの国では、例えば障害を持った子供が生まれてきた場合、仮に産科医にミスがなかったとしても、障害児の養育費用は(無実の医師の加入する)保険でカバーして貰うのが現実的だと考える人が少なくないと聞く。私の意見では、この考え方はフェアーではない。障害児の養育などの福祉は、国民全体で分担すべきものである。さらにもし、このような考え方が司法関係者にも広く認められているならば、その事実は医師が専門科を選択する時点以前に(さらには医学を志す時点以前に)教えられていなければいけないと考える。当然、産科医の保険料は莫大なものとなり(事実、年間数万ドルになるという)、産科医を志す医師は激減するであろう(事実、そうなりつつある)が、それはそれで仕方がないと思う。
かの国では訴訟を起こされた医師名が公開されている。ある産科医は年に3回訴えられたという。ではこの医師はとんでもないヤブ医者なのか?この医師は自分には絶対にミスはなかったと信じていたので、和解に応じずに訴訟になったのだという。さすがに3回目には相手の母親(若い未婚の母)を訪れ、自分の診療の正当性を真摯に訴えたという。英語の読み書きにも不安が残る貧しい移民の母親は、「先生の診療にミスがなかったことは分かっているし、感謝している。しかし、先生(の加入している保険)から金を貰わなければ、私たち親子は明日にも路頭に迷うことになる。」と答えたそうである。
このような事情があるアメリカの医師、さらにアメリカに留学して教育を受けてきた日本の医師が、「絶対に患者には謝るな。」と主張する気持ちは分からなくもないのであるが.....

「人命は地球より重い」という有名な言葉がある。「地球より重い人命を自分のミスで亡くしてしまったら、謝っても遺族は許してくれないのでは?」という恐怖が医師を縛っている。
しかし人によっては自分の命よりさらに重いものも存在するのである。それは、家族(の安全)や財産など目に見えるものであったり、名誉や理想、自由、宗教、祖国など抽象的なものであるかも知れない。真実を知りたいという欲求が命より重い場合もあり得るのではなかろうか。
「正直なヤブ医者より、嘘をつく名医の方がよい」という患者さんもいれば、当然その逆のこともあるのではないか?「正直な名医」になりたいと思うことが許される日がくると信じたい。

 

 

 

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