踊る麻酔科最前線

救急蘇生のブラックボックス

日本麻酔学会の準機関誌「麻酔」に投稿された青野允教授の論文を拝見して....
前半が原文よりの引用。>以下は私の意見である。

 


提言:心肺蘇生法をどう教える

1.心肺蘇生法教育に関する社会的背景

ある地域の約2割以上の住民が心肺蘇生法を遅滞なく実施することができれば,その地域の来院時心肺機能停止患者の社会復帰率は向上するといわれている。わが国では,平成6年度から高等学校の体育課程で,また自動車免許取得教習所でも,心肺蘇生法教育が義務化された。この自動車免許取得教習所で心肺蘇生法教育を担当している講師の大部分は医学畑の出身者ではない。大部分は,この制度ができたときに,主として日本医師会会員の講義と日本赤十字社が認定した講師によって実技指導を受けた人たちである。医学部学生,医師は一般人に対して心肺蘇生法に関しては教育的立場にあることが当然期待されている。しかしはたして,われわれはこの世間の期待にこたえているだろうか。

2.救急医療対策委員会による心肺蘇生法教育実態調査報告

さて,平成6年に救急医療対策委員の一人から“大学ではいったい心肺蘇生法を教えているのか,救急現場ではまったく役に立たない”という意見が救急現場からあがっているという発言があり,これに同意するかたちで実態調査が行われることになった。その調査結果はすでに「麻酔45:774〜781,1996」に公表された。その内容をひと一言でいうと,全国麻酔学講座の90%に当たる72大学で,平均して2〜3時間の講義と3時間の実晋を行っているが,具体的目標を設定して評価しているのは11大学にすぎず,教えっぱなしといわれても仕方のないものである。さらには,とくに国立大学では救急部門の充実が不十分,大学全体として視点の欠如,各講座間の壁などが存在して,プライマリーケア実践の場が著しく限られている。

3.日本麻酔学会指導医認定委員として

平成7年度の麻酔指導医認定面接試験のさいに,40名の受験者にBLS(救急救命処置)について質問してみたが,正確に順序よく答えた受験生は皆無であった。平成8年度には面接試験の内容が統一され,受験生に同一の設問を与える,さらに受験生交互の情報交換ができないシステムとなったために,私の感想が決して大げさでなく,現実であることが残念ながら証明される結果となった。“もし自分がここで心肺停止となったら助からないであろうと”と感想をもらした認定委員がおられた。この認定試験の結果ははからずも先の心肺蘇生法教育の実態そのものであるとするのは考えすぎであろうか。もちろん講義や実習指導を依頼された場合には十分準備をしてから行っていると思われるが,一般市民でも知っているBLSについて正解できないのは,麻酔指導医を目指す者として実に恥ずかしいことではないか。ある救急救命士の幹部が“将来は心肺蘇生法はわれわれが第一人者になって,医師の教育を行ってやる”と豪語していたのを思い出す。はたして,これで良いのであろうか。

4.提言

以上は偶然にも両方の委員を同時に務めた者としての忌檸のない意見であり,麻酔科医としての反省である。さらには医療全体のなかでの麻酔科の位置づけ,そして麻酔科の将来の方向づけのために各人がそれぞれの立場で真剣に考える問題であると信ずる。これらを念頭に置き,われわれ麻酔科医は,まず学生,研修医に対して,集中治療部,救急部などとの相互協力のもとに心肺蘇生法をきちんと最後まで責任を持って教えることを提言するものである。(青野允 金沢医科大学麻酔科学教室 麻酔46:1259−1260,1997より一部省略)

 


>ショックであった。わが国の麻酔科医の実態はこんなに酷いのであろうか?情けなくて涙が出そうである。しかし、無理はないかも知れない。救急救命に関わる手技や知識は医師国家試験に出題されることは少ない(というより殆どないに等しい)。当然、医学部での教育もおざなりになり勝ちである。
女性差別のそしりを恐れず言わせて貰うが麻酔科は眼科、皮膚科とならび、女性医師の比率が高い。結婚すれば育児や家事の負担が重くなる女性医師にとって、当直や急患が少なく定時帰宅が容易な科(麻酔科医が大学医局を離れたがらない大きな理由がここにある)の人気が高くなるのは当たり前かも知れない。しかしながら、現在の我が国での医学教育の実態を考えると、救急外来当直を経験せずに一人前の医師になることは不可能に近い。麻酔科医が単なる麻酔技術者ではない「一人前の医師」になるためには、救急外来当直の経験が必須であると確信する。
患者さんを練習台と見なすようなことはしたくないが、救急外来に駆け込んでくる患者さんは、新米医師にとってかけがいのない教師であることは否定できない。子供を気遣う両親の、年老いた親を気遣うご家族の、真剣な眼差しに触れ、必死で医学書を読みふけった夜を思い出す。頼るべき指導者がいない状況で、「自分がしっかりしなければ人の命が失われるかも知れない」というプレッシャーの中で、そういう思いをして獲得した医学知識は、決して忘れることのない貴重な財産になっていると断言できる。

  救急蘇生のブラックボックス

救急蘇生のABCは末尾のリンク集を参照して頂きたい。ここでは、研修医や一般人が誤解しやすい部分を強調したい。
まず、救急蘇生にあたって「蘇生のABC」以前に注意しなければいけないことがある。それは、救急蘇生の相手(対象者)が、本当に蘇生処置を必要としているかを、迅速かつ適切に判断するということである。声かけや痛み刺激により意識消失を確認し、視診や触診により自発呼吸や自己心拍の有無を確認する必要がある。この処置に数十秒以上かけてはいけない。意識、呼吸、心拍の消失が確認されたら、直ちに蘇生を開始する必要がある。聴診による呼吸や心拍の確認は時間がかかることが多いので省略して構わない。

次に強調すべきなのは「緊急避難」による免責の概念である。人命に関わるような重大な問題が発生した場合、それを解決するために緊急的に行われた手段は、その手段が適正でなくとも責任を問われない、という考え(司法判断)である。蘇生術を必要としている人を救うために施行された処置は、その処置が未熟であっても、正確でなかったとしても、それに起因する障害に対する刑事責任や民事責任は一般人であれば(医師や救急隊員が業務として行っているのでなければ)免責されることを、もっと強調・啓蒙する必要がある。後で、遺族に恨まれるのでは?訴えられるのでは?という心配のために、蘇生処置をためらう人は非常に多いのではないかと想像している。

病院の外で蘇生が必要になったことは少なからず経験しているが、そこに現れるのが「脊損の可能性があるから、患者に触ってはいけない、動かしてはいけない」と主張する(ごく一部の)ギャラリーである。時には警官や救急隊員にもそう主張する人物がいるから困りもんである。呼吸や心拍が停止していれば、数分以内に脳死である。脊損を恐れるあまり、蘇生の成否を分ける貴重な4分が消費されることは許されない。「助かっても脊損や植物状態になるくらいなら、このまま死なせてあげよう」という親切心?からの発言であるならまだ理解できるのだが、とてもそうは思えないのである。「後で訴えられても知らないぞ」と言って、被害者が火に焼かれるのを放置しろ、後続車の危険や迷惑も考えずに車道に放置しろと主張する「知ったかぶり」にはうんざりさせられる。「救急車呼んだから」といってくれるのはありがたいのだが.....救急車が来るまでに死んでしまったら、元も子もないではないか。

  一般人の使命とは?

故武見太郎氏が日本医師会長だったころ、「医師の使命とは何だとお考えですか?」と質問された。彼が逆に「あなたはどう考えますか?」と質問すると、取材者は「国民の健康を守り、福祉を充実させることでしょうか。」と答えた。武見氏は不機嫌そうに「それは医師だけでなく、国民全体の使命と責任でしょう?」と答えたそうである。
医学部の閉鎖性、情報の片寄りなどを考慮すれば、健康問題などに関しては医師がリーダーシップを取らざるを得ないであろうから、武見氏の意見に全面的に賛成という訳にはいかないけれども、かなり考えさせられる発言である。救急医療にも同じことが言えるのではないか。ドクターカーの普及などが単なるデモンストレーションで終わってしまいそうな危機感を持つのは誤解なのであろうか。

 救急蘇生法の手技については以下のリンクをご参照いただきたい。 

 

 

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