踊る麻酔科最前線

シンポジウムを終えて

 先日、都内で「エホバの証人無断輸血事件」に関するシンポジウムが開催されました。医師、弁護士、宗教関係者およびジャーナリストの方々から多数のご参加があり、色々と勉強になりました。まず、原告側弁護士から、原告が無断輸血の事実を知ったのは病院関係者の内部告発によるものであったことが明らかにされました。
 さらに医師やジャーナリストおよびキリスト教関係者の殆どが、この裁判は「エホバの証人」という非常に特殊な宗教団体が引き起こした極めて特殊な事例であるという観点を持っているのに対し、原告側弁護士や仏教系僧侶にはこれを信教の自由に対する国家権力の介入と捉える意見が目立ったことに驚きました。


原告側弁護士の主張

 これは、平成10年2月9日の東京高等裁判所の判決からも感じるのですが、どうも「エホバの証人」(正確には、ものみの搭聖書冊子協会)という宗教団体に関する勉強不足(というか知識不足、情報不足)があるようです。原告側弁護士の主張をまとめると以下になります。

1)輸血を拒否していたエホバの証人への無断輸血は、自己決定権の侵害に当たる。
2)医師と患者の間で、絶対的輸血拒否の同意は得られていた。
3)「死んでも良いから輸血しないで欲しい」という絶対的無輸血の特約は「公序良俗」に反するという1審判決は、公序良俗違反の乱用である。


私の反論

1)エホバの証人の主張する絶対的無輸血は、各々の信者が個人の信念や信仰に基づいて主張しているものではありません。協会の誤った情報に基づく狂信・盲信でしかありません。信教の自由を盾に、そのような狂信・盲信すら認めるのは人を馬鹿にした話ですし、多くの医療従事者が納得いかないと考えています。
 「自己決定」というのは、決定すべき事柄に複数の選択肢が存在する(許されている)場合に、意味があるのです。「輸血を受けたら、エホバの証人(神の忠実な僕)ではいられない」と洗脳(脅迫?説得?)されている人が、輸血拒否を選択したのは自己決定権に基づく判断であるというのは「自己決定権」の乱用に過ぎません。

2)医師は、多くの医療行為がある程度の侵襲性を持った「諸刃の刃」であることを知っています。そして、様々な検査や治療の選択肢を絶対的適応と相対的適応、絶対禁忌と相対禁忌に分けて判断する教育・訓練を受けています。『患者と医師の合意を「絶対的無輸血の合意」と「相対的無輸血の合意」とに分けるというテクニックを用いて、無輸血の合意の成立を否定したことは、医療現場の実情を無視するもの』という非難は、全くの的外れと言えるでしょう。

3)弁護士さんによれば「公序良俗違反というのは、伝家の宝刀のようなもので安易に使うべきでない」「今までの判例でも、殺人請負契約、愛人契約、談合など、著しく反道徳的な事例に適応されるものだ」ということでした。私の感覚では「殺人請負契約」は別として、「死んでも良いから輸血しないで欲しい」という契約より「愛人契約」の方がはるかに反道徳的だとは思えないのですが.....どうなのでしょうか?

4)結局、この事件には悪意のある犯人が存在しないのです。信仰に基づき輸血を拒否した原告。原告の生命を尊重して輸血を断行した麻酔担当医。原告の信仰心を尊重し、かつ治療を引き受けた主治医。信教の自由が侵害されたと判断して告発した関係者。いずれにも悪意があったとは思えません。それが何故、裁判にまでなってしまったのか?「絶対的輸血拒否」という教義と信者各個人の自己選択権を認めない協会の方針自体に、大きな問題があるからではないでしょうか?


原告側弁護士の論文

1998年5月l日発行No.122 センターニュース
判決速報 東京高等裁判所 平成9年(ネ)第1343号 平成10年2月9日判決
エホバの証人の輸血拒否を認めた判決
赤松岳弁護士(註:原告側弁護士)

1、はじめに
 平成10年2月9日、東京高等裁判所第12民事部で「エホバの証人無断輸血事件」に対する判決がありました。「同意なき輸血に賠償命令」「エホバの証人東京高等裁判所の逆転判決」「患者の自己決定権尊重」という翌日の新聞の見出しが示すように、昨年の東京地方裁判所の敗訴判決が逆転されました。

2、事実の概要
 X(67歳女性)は、30年前に洗礼を受けた、熱心なエホバの証人でした。エホバの信者は、聖書の中にある「血を避けるように」(使徒達の活動15章28他)との教えを忠実に守り、輸血を受け入れないことで知られています。Xは、平成3年3月頃から下痢や便秘が続くようになったので、同年6月15日立川市内のT病院に受診しました。検査の結果、悪性の肝臓血管腫と診断されて手術をすすめられましたが、T病院では無輸血での手術は困難であるということでしたので、他の病院を探しましたところ、Y病院のA医師らが手術を引受けてくれることになりました。Xやその家族は、A医師らにエホパの証人であること、輸血を受け入れられないことを操り返し説明し、輸血しないことによってどんな損傷が生じても医師・病院の責任を問わないという免責証書を差し入れました。手術は同年9月16日行われ、腫瘍の浸潤している周囲組織、臓器(肝臓の一部、右副腎、右腎臓他〉が摘出されました。手術時間は7時間10分、街中出血量は2345mlでした。手術操作が終了して閉腹したのち、術後管理の安全性の見地から濃厚赤血球600ml、新群凍結血漿600mlが輸血されました。輸血したことについては、術中、術後を通じて、X及びその家族には何んの説明もありませんでした。Y病院の内部リークから週刊誌の記者の知るところになり、週刊誌が発売される直前になってA医師がらXの家族に輸血を行ったことの説明がなされました。

3、訴訟提起
 Xは、平成5年6月、YとA医師らを被告として東京地方裁判所に慰謝料l200万円(弁護士費用含む)の賠償を求める裁判を提起しました。法的構成としては、AらがXとの無輸血の手術の合意に反して輸血したこと(契約責任)と、A医師らがXの意思に反して無断で輸血してXの信仰の自由・自己決定権を侵害した(不法行為責任)という二構成にしました。

4、第1審判決
 第1審判決は平成9年3月12日言い渡しがあり、原告敗訴でした。判決は、1)契約責任については、「医師が患者との聞でいかなる事態になっても輸血をしないとの特約を合意することは、イ 医療が患者の治療を目的とし救命することを第一の目標とすること ロ 人の生命は崇高であること ハ 医師は可能な限り救命措置をとる義務があること に反し、公序良俗に反するから無効であり、」2)不法行為責任については、「Aらは、Xの意思に従うかのように振る舞ってXが本件手術を拒否する機会を失わせ、Xが自己の信条に基づいて本件手術を受けるが否かを決定することを妨げた」としながら、「医師は手術の内容、危険性、予後等についての説明義務を負うが、いかなる事態でも輸血をしないかどうかの点についての説明義務は負わず、医師には他に救命方法がない事態では輸血義務があるので、輸血以外に救命方法がない事態になったら輸血すると説明しなかったことに違法性はない」としてXの請求を排斥しました。まじめに批判するにも値しない偏った判決を受けてしまい、関係者の長年のご苦労を無にしてしまったと慙愧の念に堪えませんでした。

5、控訴審判決
 控訴審には万全の準備をして臨んだのですが、裁判所は当初から「一審とは結論を異にします」として若干の書証の取り調ぺをしただけで終結となりました。控訴審の判決は、1)契約責任については、当事者の合意には、輸血以外に救命手段がない事態になっても輸血はしないとする絶対的無輸血の合意と、できる限り輸血をしないこととするが、輸血以外に救命手段がない事態になった場合には輸血するという相対的無輸血の合意の二つがあるとして、本件では口頭による絶対的無輸血を求める旨の意思表示は認められるものの、文章上はその意思が明確でない、として絶対的無輸血の合意の成立を否定しました。その上で、念のため絶対的無輸血の合意の効力についての見解を述ぺるとして、「当裁判所は、当事者双方が熟慮した上で右合意が成立している場合には、これを公序良俗に反して無効とする必要はないと考える。すなわち、人が信念に基づいて生命を緒けても守るべき価値を認め、その信念に従って行動することは、それが他者の権利や公共の利益ないし秩序を侵害しない限り、違法となるものではなく、他の者がこの行動を是認してこれに関与することも、同様の限定条件の下で、違法となるものではない。」と判旨しています。2)不法行為については、Aらが相対的無輸血の治療方針を採用していながらXにこの治療方針の説明をしなかった点について、「本件のような手術を行うについては、患者の同意が必要であり、医師がその同意を得るについては、患者がその判断をする上で必要な情報を開示して患者に説明すべきものである。」「この同意は、各個人が有する自己の人生のあり方(ライフスタイル)は自らが決定することができるという自己決定権に由来するものである。」「人はいずれは死すべきものであり、その死に至るまでの生きざまは自ら決定できるといわなければならない(例えばいわゆる尊厳死を選択する自由は認められるべきである。)」「医師は、エホパの証人患者に対して輸血が予測される手術をするに先立ち、同患者が判断の能力を有する成人であるときには、輸血拒否の意思の具体的内容を確認するとともに、医師の無輸血についての治療方針を説明することが必要である。」として、Aらの説明義務違反を否定して、YとAらに55万円(うち慰謝料50万円、弁護士費用5万円)の支払いを命じました。なお、Xは控訴審の裁判中に癌の再発・転移により死亡し、夫と子供達が訴訟を継承しました。

6、刺決の評価
 控訴審判決が、絶対に輸血をしないとの合意は公序良俗に違反しないとした点、医療の患者への説明義務は自己決定権を実効あらしめるためにあることを明言した点については高く評価できます。他方、患者と医師の合意を「絶対的無輸血の合意」と「相対的無輸血の合意」とに分けるというテクニックを用いて、無輸血の合意の成立を否定したことは、医療現場の実情を無視するものであり、また、損害額を55万円とした根拠に「Xが侵害されたものは純粋に精神的なものであること」を挙げていることも、自己決定権を命にも勝るライフスタイルの選択権として認めたことと矛盾し、人格権侵害に対する極めて低い評価という我が国の裁判のあり方に立脚しているという欠陥を有しています。なお、YとAらは控訴審判決を不精として上告しました。

 

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