踊る麻酔科最前線

読者からのメールなど

 


98年6月3日

エホバの証人の輸血について読ませて頂きました。たまたま見かけたので読んでみたら随分長く書かれていたので、読むのにも大変でしたが、よく調べてあってかなり読みやすかったです。でも気になる点があるのですが、最後にエホバの証人はマインドコントロールされた狂信的な宗教みたいな事が書かれていたのですが、本当にそうなのでしょうか?

私はドイツにいた時に、彼らの第二次世界大戦の頃の出来事を一般の人から聞きました。ドイツ人がヒトラーに傾倒して仰いでいた時に彼らは、国家にもまた圧力にも負けずにユダヤ人を殺害したり、戦争に荷担する事はしなかったようです。むしろ戦争のさなかで、自分がいつ殺されるかわからない状態でも、進んで神の言葉を第一に人種に差別なく生きていたようです。

それなので、戦争後になって彼らにお世話になった人達が沢山彼らに対して敬意を表したようです。ホロコーストの博物館には戦争参加を拒否して亡くなったエホバの証人達の記録が残されていました。これは私個人としてはマインドコントロールだけで出来るものではないと思うのです。

理性を働かせた信仰が彼らをここまで勇気ずけていたのだと思いました。とても個人的な意見ですが、ちょっと気になりましたので、ドイツ留学時代の事を思い出して書いてみました。それではまた素晴らしいホームページを続けて下さい。

××より

>私からの反論
 カルト宗教の大きな特徴に、「外部組織からの批判や忠告を無視する」というものがあります。戦争反対や平和主義、良心的徴兵拒否などの教義の正しさと、「カルト宗教」としての「閉鎖性や排他性」は必ずしも矛盾するものではありません。
 ヨーロッパでいうセクト(日本や米国でいうカルト)の定義には「教義の正当性・妥当性」は含まれません。私個人は、良心的徴兵拒否などの懲役をも覚悟しなければならない態度は「個人の信念」に基づいて実行されるからこそ尊いのであると考えます。


同じく98年6月3日

初めまして、××@××病院麻酔科といいます。先生のホームページでエホバについて読ませていただきました。私自身、数例エホバの人の麻酔をかけたことがあります。幸い、いずれも、輸血する可能性が殆どない症例でした。

その時勤務していた筑波大学(1995年)ではエホバの人達と勉強会を開催しました。出席したのは麻酔科と産婦人科と形成外科と整形外科でした。胸部外科、消化器外科の先生達は出席しませんでした(多分、患者を抱えている科だけが参加したのでは・・・)。彼らと医者側の主張は平行線でやはり、なかなか納得してはくれませんでした。まあ、医者側にも対応にズレがあって、ある産婦人科医などは”やっぱり、Hbは10以上ないとさびしいよね”と主張し、麻酔科医側から顰蹙をかっていましたが・・・。

その後、例の免責証書とやらにサインを求められました。しかし、無輸血でいく努力はするが、輸血する可能性はゼロではないことを説明したところ、彼らはそれでは困ると言いました(絶対に輸血してくれるな)。しょうがないので出血量の予測とほとんど輸血する可能性はないことも説明したうえでわたしはサインをせずに(だって、絶対的無輸血には同意できないもの)手術となりました。

結局私は形成外科が数例と単純子宮全摘術の麻酔を担当しました。あまり出血しなくて良かったと思いました。前置きが長くなりました(というより前置きばかりですね)。

先生のホームページのなかで裁判所の判断では’他者の権利を侵害しない’ことがポイントの一つになっていますね。私はこれは間違っていると思います。なぜなら、(1)絶対的無輸血により見殺しにしてしまった後の担当医の心的外傷の問題、(2)無輸血でいくためにかけるよけいな医療費(例、セルセーバーを組む代金、希釈式自己血輸血に必要な余計なライン類や血液バッグ、低血圧麻酔に必要な薬品やライン、低体温から復温するまでの手間と人件費、薬品、ライン)これら全て、他の善良な保険料納付者から賄われる問題、など考えられるからです。

以上、取り留めもなく書きました。先生のページはとてもおもしろかったのでこれからも、アクセスしますので、よろしくおねがいします。

ところで、いつから「エホバの証人」はセルセーバーの使用を認めだしたのでしょう?以前の勉強会では、ともかく体外に出たものは全てダメ、と主張しておりましたもので。


1998年6月9日朝日新聞夕刊「こころ」の「読者が考える輸血拒否」より

「自然治癒力が基本」
 古代ギリシャの医聖ヒポクラテスは「自然は医なり。医は自然の僕なり」といった。同感だ。自然治癒力こそ医の原点であり、すべての医療行為はそれを発揮させるための補助に過ぎない。私は「エホバの証人」ではないが、自然かベストという発想からしても、感染症の危険などからしても、輸血はできるだけ避けるべきだと考える。
 話し合いの余裕のない場合でも、患者が明確に望むなら、絶対に輸血すべきでない。意思を決定できない子どもの場合も、親の考えを尊重すべきだ。輸血すなわち救命、などと安易に考えるべきではない。(針きゅう接骨師・47歳)

>医師からの反論
 キチンとした医学教育を受けていない人が犯しやすい勘違いである。「輸血はできるだけ避けるべきだ」「輸血すなわち救命、などと安易に考えるべきではない」などということはまともな医療従事者なら全て了解済みである。医療行為には臓器移植や体外受精などの評価が確立していない先端医療と、肺結核には抗生物質の投与、脱水には輸液などと言った、普遍的な医療行為がある。
 「どんな場合でも(死んでも良いから)絶対に輸血しないで欲しい」という絶対的輸血拒否の方針は「外科手術を麻酔なしでやって欲しい」とか「骨折の確認をレントゲン写真なしで行って欲しい」という無理難題と同じ主張である。本人が「その欠点を熟知して、判断」したのなら、その希望を尊重することに否やはない。しかし、それを「宗教的理由で」と言って他人や子どもに強制するのは如何なものか?ある宗教団体が「信仰上の理由で、鍼灸は禁止されている」といって押し掛けてきたら、それを認めるのか?「信仰上の理由で麻酔は禁止されている」と言われたら、子どもの手術を麻酔なしで行うのか?
 「エホバの証人」の主張する「絶対的輸血拒否」の方針が、医学的にも、倫理的にも、宗教的にも根拠のない「妄言」であるというのは、ものみの搭聖書冊子協会の教義や主張を少しでも調べれば、すぐに分かることである。「絶対的輸血拒否」が正しいかどうかという質問には、医療界ではとっくに解答が出てしまっている。今は「どうやって彼らを救うか」を考える時期なのである。

 

「私たちも命を大切にしています」
 私たち「エホバの証人」は輸血を受け入れません。しかし、生命を大切にし、極めて尊重すべきものと見なしています。だから、たばこも吸わず、麻薬を用いず、堕胎も求めません。
 たしかに、子どもの場合は感情の面で微妙になります。しかし、神を恐れる親としで自分の子どもを深く愛しており、子どもの世話をし、その永続的福祉のために必要な判断を下すという、神から与えられた責任を自覚しています。徳性を備えた人としで成長するように助けることで、自分の子どもに対し、また神に対して大きな愛を示したい、と思います。聖書が血に関して述べる事柄を理解するようになったとき、子どもは親の決定を自ら支持するでしょう。
 私の場合は問題ありませんが、妻が「証人」で夫がそうでない場合は難しい問題に直面します。しかし、大切な二人の子どもです。夫婦でよく話し合い、決定するでしょう。その決定について、他人は裁く立場にはいません。(主婦・49歳)

>医師からの反論
 典型的なカルト宗教の屁理屈です。子どもは親や教団の所有物ではありません。親が子どもの不利益になることを勝手に判断し、実行すれば、当然他人(司法機関)に裁かれます。現実の世界では、人を裁くことが出来るのは、(神ではなく)人だけです。それが自由民主主義国家における現実です。

 

 

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