4/22 厭な映画「雨の街」を観てくる。

 「雨の町」は、久々に観た厭な映画。これは、決して卑下しているのではなく、また気色が悪いのではなく、心を締め付ける後味の悪さという意味での厭な作品。

 著者独特の雰囲気が漂う原作からは、ジャック・フィニーの「盗まれた街」とジョン・ウィンダムの「呪われた村」の色はさほど感じられない。しかし映画になると、前記の小説を原作とした「ボディー・スナッチャー」と「光る眼」の恐さを、賑わいを忘れたうら寂しい農村の怖さに押し込めたようで、その相乗効果が厭なものとして目に映ったのだろう。面白いのは、「ボディー・スナッチャー」も「光る眼」も救われない作品なのだが、どちらも侵略者を応援してしまうという、人間社会への反発を感じてしまうのだが、「雨の街」では侵略者と人間社会のどちらにも、禍々しさが感じられてしまう。ここに人間社会への警鐘のひとつも鳴らしていれば、もう少し思考する余地があったのかもしれないが、メッセージが込められているとは思えないのだ。もちろん、これは本作の狙いのひとつであり、救いようのない作品として成功している部分でもある。

 この憂鬱なストーリーの前では、チュパカブラのような侵略者の容姿も、雪女のような髪の毛総立ちのCGも、何かの冗談やギャグかと失笑してしまうパーツにもかかわらず、一服の清涼剤としてほっと胸をなで下ろしてしまう。これがノンフィクションだの本当にあった何とやらですといわれれば、作品そのものをアホかの一言ですませられるのだが。麻袋をかぶった内蔵のない子供の死体に事件性がないとか、役場の人が訛っているのに実に上品な標準語で滑舌良く話す村人とか、「お兄ちゃん好き」はなんだ妹萌えかなどと無理がある部分も散見されるが、そんなつっこみどころも鑑賞中の厭な気分を払拭するには至らない。原作者のカメオ出演も、そんな無茶な演出のひとつ。今時和服に手提げを下げ、自ら編集部に原稿を届けに来る作家はいないが、ご本人を存じ上げているだけに、この時代錯誤の演出はお気に入りのシーンなのであった。やはり、小説は事実よりも奇なのである。

 もしも、生活売春の生々しさがもう少しぼかして描かれ、ワイドショーの再現ドラマのような特殊効果が切り捨てられていたら、どんな印象だっただろう。どのみち、R15指定は免れまいが。

 ただし、この映画には最大の失敗がひとつある。原作と比べることにあまり意味を感じない私だが、ファンタジーであった原作をこれほどまでに怖く厭な話に改編してしまったことだ。そしてその原因は、世界観を創り上げてしまったところにあると思う。世界観の確率を不思議に思うのなら、原作を読んでみるといいだろう。独特の世界を創り上げることに長けた著者の描き出した、世界観のなさというファンタジーを。

 上映後、原作者菊地秀行氏と映画ライター神武団四郎氏による対談が行われたが、10分あまりの短かったのが残念。当初は20分の時間がとられていたそうだが、おそらく観客が少なかったためではないかと思われる。前振りの「顔のない悪魔」の怪物が脳みその形をしているのはなぜだろうとか、コミックス版「光る眼」のラストは子供が巨大化するだとかユニークな内容であっただけに、いよいよ本作に言及というところで終了してしまったのはもったいない。

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