3/21 活弁「メトロポリス」を観てくる。

時は2026年、栄華を極め繁栄を誇る最先端都市メトロポリス。
雲をも下に望む摩天楼の一角、極彩色に彩られた花に鳥、女人たちの踊り狂う空中庭園では、本日もまた酒池肉林の宴が繰り広げられておりました。
そこへ現れた場違いな一団、かろうじて服とわかるぼろを身にまとった子供たちを率いる可憐な少女、マリア。
身なりは貧しいなれど、その瞳には女神のごとき美しさをたたえたマリアに心を奪われたエリッヒは、その後を追って行くのでした。
空中都市から一転、地の底深くに広がる暗い世界に降り立ったエリッヒが見たものは、過酷な労働を強いられ、使い捨てられる人、人、人の群れ。
愛しいマリアの住む世界のあまりの姿に、支配者であり父でもあるフレーダーセンを問いつめるエリッヒ。
しかし、息子が毒されたと思いこんだフレーダーセンは、ロートワング教授とともに世にも恐ろしい計画に着手するのでありました。
果たして、エリッヒとマリアの運命やいかにっ! タタンタンタン!

 弁士斎藤裕子氏とピアノ弾き三沢治美氏によるキネマ・コラボレーションで上演された、1926年版「メトロポリス」は、このようなスットコドッコイな語り口ではなく、活弁も劇伴も名調子でありながら作品の雰囲気を強く押し出した重厚なもの。物語のベースラインをおさえた上で、弁士独特の味付けがなされていました。

 ことに、偽マリアになる前の“ロボット”の口を開かせたのは、前代未聞の活弁ではないでしょうか。これは、ロボットに移植されたのはマリアの容姿のみであり、ロボットはそれ単体ですでに見かけ以外は完成されていることを示すのみならず、黄金色のロボットがマリアではないことに気づかせてくれたのです。私もなんのためらいもなくメトロポリスのロボットを「マリア」と呼んできましたが、この時点では誰も「マリア」などと呼んでいないのですな。このパートと、偽マリアの哄笑の生々しい狂気には、総毛立つほどの衝撃を受けました。

 劇伴で特筆すべきは、楽曲としてだけではなく、効果音としてピアノが奏でられたこと。弦を指で直接はじいたり、弦をおさえて鍵盤をたたく奏法は知っていましたが、それが映画の効果音に使われたのは実に新鮮なものでした。楽曲としては、機械音に満ちた地下世界を、鼓動のような低音で表現したパートが好みですね。

 そんな素晴らしい活弁「メトロポリス」ですが、惜しむらくは、上映可能なフィルムが重要なシーンのいくつかがカットされていたものであったこと。ロボットがマリアの姿となるその瞬間と、フレーダーセンとロトワングにたどたどしい片目瞬きをするシーン。巨大な機械が悪魔の口となって倒れた労働者たちを飲み込み、フレーダーが「モーロック!」、大惨事だと叫ぶシーン。偽マリアの淫猥なダンスと、それを嫌悪と好奇の混ざった目で見る支配者階級たちと、それに続くフレーダーの悪夢のシーン。他にも細かなカットはいくつかあったように思いますが、少なくともこの3つの大きなカットは、物語としても映像としても重要な役割を担っているので、返す返すも残念でなりません。特に、この公演で「メトロポリス」を初めて目にする方々とってこそ、必要なシーンなんですね。

 とはいえ、本作をスクリーンで鑑賞できるうえに、素晴らしい生の活弁と劇伴を堪能できた貴重な機会、批評の目にくじらなんぞをたてる以前に、理屈抜きで楽しい一時なのでした。

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