1/10 許されざる者「ミスティック・リバー」を観てくる。

 いつものように通りで遊んでいたジミー、ショーン、デイブの3人は、生乾きのコンクリートに自分たちの名前を刻んでいるところを通りかかった警官にとがめられ、デイブ一人だけが連れて行かれる。しかし、それは警官のふりをした異常性犯罪者であり、自力で逃げ出したものの、デイブは心に深い傷を負ってしまった。それから25年、それぞれが家庭を持ち、顔を合わせることもなくなった3人だったが、ジミーの娘ケイティが殺されたことから、再び深い関係を結ぶことになる。しかし、友情にも似た始まりは、ケイティ殺害の捜査が進むにつれ、彼らの家族を巻き込んで不安と疑念に捕らわれてゆく。

 まず断っておくことは、決して「スタンド・バイ・ミー」と同列に語られる物語ではありません。友情も感動もありません。そしてこちらも最初に断言しておきますが、確かにクライマックスまでは実に良くできていますが、実に後味の悪い結末です。おそらく、納得できない嫌な気分で劇場を後にすることでしょう。でも、一晩たてば違ったものが見えてくるかもしれません。なかなか考えさせられる作品なので一見の価値はあるのですが、嫌な気分になる作品は薦めにくいものですし、自分を納得させることができない結末はやっぱり嫌いです。

 決して幸せではないものの、それなりに平穏な日常を唐突に襲う悲劇。紆余曲折する捜査。トラウマを隠しつつも逃れられないデイブ、娘のために犯罪から足を洗ったジミー、家出した妻からの無言電話に応え続けるショーン、重い荷を背負いつづけるこの3人が、それぞれが容疑者、被害者、捜査官という立場。さらに、ケイティが誰にも明かさなかった一つの計画とその相手といった、ミステリーを構成するのには十分な要素と伏線を張り巡らせ、いくつもの推理をうまくすり抜ける展開はお見事。そしてこの物語を演じる役者たちの自然で、冷静で、熱のこもった演技も実に素晴らしく、観ているこちらまで頭をひねりつつも疑心暗鬼に駆られてしまいます。娘の死に激しい苦悩と落胆におちいりつつも、犯罪仲間(未だにつきあっているのは考え物ですが)と自力で犯人を挙げようとするジミーが特にいい味を出しています。それに加え、カメラワークも構成もすばらしく、映像そのものも美しい。だからこそ、納得できる事件の解決と結末を迎えてほしかったのですよ。

 ここから先はネタバレです。それなのに、犯人がまったくといっていいほど本編に関わってこない人物で、しかも動機がないときたものですから、まるで納得がいきません。それに加え、ジミーが犯した過ちを、ジミー自身が間違いだったとわかってもなお、彼の奥さんは「愛があればなんでもできる」といって、自首させるのではなく事件を闇に葬ってしまうのですよ。デイブは25年前に去っていってしまっただって? じゃあ、ジミーが手にかけたデイブはいったい誰なんだよ。そんな理由で殺人が許されるなんて冗談じゃない。100歩譲ってジミーの気持ちはわかった事にしても、彼とつるんでいる現在進行形犯罪者の兄弟には鉄槌が下るべきだ。だいたい、デイブが容疑者らしいという伏線自体、観客にしてみれば少し考えてみるとちょっとおかしいぞとなるのですから、デイブは救われるべき存在のはず。それに、通報者が怪しいというのはよくある伏線ですしね。ただ、僕は女性の声だと思いこんでいたので、見事推理の一つは外れてしまいましたが。ラストで、ショーンがデイブ失踪の疑いをジミーに向けているのはわかりますが、その先が描かれないのはどうにもすっきりしません。あっという間の2時間20分あまり、もう10分ぐらいのばしてもいいじゃないですか。もしも現状で原作通りのオチだったとしても、です。

 というわけで、題名の「ミスティック・リバー」とは、犯した罪は川に流せば全て無かったことになるんだよという意味なのでしょうか。それとも、何事もないように見える河の流れの中には、暗いわだかまりが沈んでいるという意味なのでしょうか。もしも、許せない犯罪に観客を憤慨させるのが目的の映画だとしたら、そういう作り方自体間違っていると思います。もちろん、時には観客を怒らせるのも必要でしょうが、笑わせるにしろ泣かせるにしろ熟考させるにしろ、それなりに納得させて落ち着いた気持ちで劇場を後にさせるのが映画っていうものでしょう。もしかして、僕は何か肝心なところを見落としているのでしょうか、それとも見方が間違っているのでしょうか。いかに犯罪者にも一分の理があろうとも、報いは受けなければならないのです。重く苦しいこのフィクションもまた一つの現実たりえることはわからないことはありませんが、もしもこの作品のテーマがラストで語られる「愛さえあれば何をやってもそれは間違いではない」というのであれば、それは大きな間違いですよ。

戻る