06/15 幽霊たちの晩餐会「めぐりあう時間たち」を観てくる。

 1923年、リッチモンド。ロンドンの喧噪で心を病んだヴァージニアは、夫レナードの薦めで静かな田舎町に移り住み、「ダロウェイ夫人」を執筆しはじめる。しかし、その地もまた違った形で彼女の心を蝕み始めていた。そんなある日の午後、訪ねてくる姉と子供たちのために、ティーパーティーを開くのだった。
 1951年、ロサンゼルス。ローラ・ブラウンは夫ダンのために、一人息子のリチャードと共にバースデー・ケーキを焼き、パーティーの準備をしていた。彼女の愛読書は「ダロウェイ夫人」。そこへ友人が子宮ガンの検査入院のために犬の世話を頼みに来る。それがきっかけとなったのか、今の生活に疲れていたローラはリチャードを連れて出かけるのだった。
 2001年、ニューヨーク。クラリッサ・ヴォーンは、エイズに冒された親しい友人で詩人のリチャードを献身的に看護をしていた。そんな彼女のあだ名は、リチャードが付けた「ダロウェイ夫人」。作家リチャードの授賞式の日、クラリッサは古い友人たちを集めたパーティーの準備をするのだった。この3人の女性と、彼女たちを取り巻く人々の1日に投げ込まれた小石は、思わぬ波紋となって人々を翻弄し、押し流してゆく。

 わからない。正直な話、これが僕の感想です。いや、作品が難解なのではなく、ヴァージニア、ローラ、クラリッサの心の闇があまりに深すぎて、彼女たちを取り巻く人々の優しさが誰のためなのかを見失いそうで、彼ら彼女らの気持ちがわかりそうでわからないのです。お互いのためと思っていても、いつしか自分のためにすり替わり、それぞれの重荷になっているのではないか。そして異性間のそれは理解しがたく、3人の女性たちは、いつしか同姓の中に慰めを求めているのではないか。にもかかわらず、人と人なんてしょせん理解し合うことなんてできないのだろうか。そんな時の流れを、すべては受け入れ、失っていくものなのだろうか。実際、この物語には、決定的にはっきりした結末がないのではないかと思われるのです。感動がないわけではありませんが、ほとんどすべてを覆い尽くす悲しみに打ちのめされてしまうのでした。

 そんな複雑な物語ですが、作品としてはお見事という他はありません。言葉少なに描かれる、まるでミステリーのように何かが起こりそうだと思わせるプロローグからして秀逸。それはエピローグに向かうにつれて、演技、脚本、演出、構成、映像のすべてが、おそらくこれ以上考えられないほどの素晴らしい仕上がりとなっています。重いテーマにあわせた重い音楽もすばらしい。物語のベースとなるのは、ヴァージニア自身と、彼女が執筆する「ダロウェイ夫人」。その上で「ダロウェイ夫人」に憧れるローラを踊らせ、クラリッサに「ダロウェイ夫人」そのものを演じさせているのです。さらに、リチャードとクラリッサの過去を描いたリチャードの著書を交え、都合5つの物語が同時に展開されます。もちろんストーリーを分ければ3つですし、それぞれが傑出した物語なのです。しかし、これが同じタイムラインで進行するからこそ、5つの物語は1つの物語として構築され、それぞれに絡み合った糸が微妙に引き合うわけですね。そこに個性豊かな役者たちがそれぞれの役割を見事にこなし、セリフや状況描写に頼らない豊かな感情を表現しています。これを慌てず騒がずの、しっとりと落ち着いた映像で魅了させてくれるのです。さらに、これだけ濃い内容にもかかわらず2時間弱にまとめられたのは、まさしく職人芸といってもいいでしょう。

 さて、「幽霊たちの晩餐会」とはクラリッサの娘ジュリアのセリフを少しひねったもの。3人の女性たち、3つの時代に用意されたパーティーを端的に表現しているような気がしたからなのでした。それにしても、救いがあるような無いような、自分でも意識しないうちに誰かの重荷になっているのではないか、複雑な心境にさせられてしまうのですなぁ。そんなこんなでも、何かしら癒されている部分があるような気もします。決して他人の不幸はーなんてことではなく。

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