01/13 移民の歌「ギャング・オブ・ニューヨーク」を観てくる。

 先に来たか後に来たかだけで大争いする、移民=ギャングの暴動と敵討ちと鎮圧。

 移民を迎え、南北戦争に送り出し、棺に入って再び還ってくるような街、ニューヨーク。このオープンセットと美術、劇伴もすばらしく、見応えのある作品であることは間違いない。本筋はアムステルダムの敵討ちだったのだろうが、意図的かどうかこれがサイドストーリーに寄せられてしまい、肉屋ビルの生涯に転がったのが功を奏しているといえよう。

 政治という権力を利用して町を支配しようとするトゥイードは、ファイブ・ポインツで闇の権力を牛耳るビルを使って票をとりまとめているのだが、ビルのあまりに激しい暴力沙汰に「おまえに未来はない」と言い放つ。しかしビルは、「未来はあるさ」と暴力の渦中に戻っていく。ファイブ・ポインツでもっとも政治権力と癒着していた彼には、その権力、国家という絶対的な力に押しつぶされてしまう未来が見えていたのだろう。政治権力とつながりを持ちつつも、腕力で生き抜いてきたビルには、たとえ同じ権力を手中にしようとも、そんな未来の中に身を置くことが出来なかったのだ。さらに、これは勝手な憶測でしかないが、自らをネイティブズと名乗り、あとからやってきた移民を蔑視しつつも、実はアメリカという国は所詮移民の国であることを理解していたような印象も受ける。そして、そんなアメリカを愛していたのだろう。とまあこのあたりはギャング映画のセオリーに乗っ取っているのだが、嬉々として男気あふれるビル・ザ・ブッチャーそのものになって演じているダニエル・デイ=ルイスのパワーがこの作品を支え、昇華しているため、実に説得力がある。このビル=ダニエルには、デュカプリオとディアスが束になってかかってもかなわないのだ。

 それにしても、相変わらずレオナルド・デュカプリオは演技力が不足している。祈るシーンばかりだとか、頭がでかい(キャメロン・ディアスの倍はあるぞ)とか、童顔だとかはともかく、何をやってもデュカプリオであって、劇中の人物として感じられないのである。ところが、右も左もわからない若造アムステルダムを演じるには、この力不足がマッチしているのではないかとも思われたのも正直なところ。作品自体は混沌とした多民族都市ニューヨーク、多民族国家アメリカを描きたかったのであって、実のところこの主人公は有名無実なものなのだろう。とどのつまりは、アイルランドのロックバンド、U2がアメリカを歌うエンディング曲であり、アメリカ万歳なのである。

 ところで、これが同じ時代のアメリカ中〜西部だったらりっぱな西部劇になるんだろうな。ちょっと不思議な感じ。ちなみに、暴力描写が激しく痛いシーンが多いので、その手が苦手な向きはちょっと注意。アメリカではR指定になるぐらい。また、そんなに殺し合いばかりしていたら、街そのものが存続できないだろうというつっこみは無しだ。

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