新年の特集

熊本城の2 熊本城本丸御殿の謎

 前回の特集でお話ししたように、加藤清正の熊本城築城にはその成り立ちからして興味をそそる話しが多い。今回は、現実にあった建物の中から、もう一つの謎と言うよりも、ある程度当時の人の証言に裏付けされた興味をそそる話しとして本丸御殿にまつわる話しをお話ししよう。

 熊本城は全国に数ある城の中でも、櫓の和が最も多い部類に入る。戦闘用、並びに非常時に町の人々まで共に籠城できる構造であった大天守、居住性に特化した小天守、宇土城を移築したと伝えられる、それだけでも下手な天守閣より大きい宇土櫓、また五階建の櫓が他に四ヶ所、大きい櫓だけでもいくつもの城の集合体と言える。当然熊本城は完全な戦闘用の城として築城されたが、築城完了の三年後の慶長十五年より本丸御殿が築城され始めた。

 この本丸御殿は大台所及び五十三の部屋からなり、畳数1570畳の広大な建物である。そしてそれは熊本城の本丸に入るために、大天守の南を東西に四回も折れ曲がって通る通路上に建てられ、必然的に迷路のような地下通路を持つ特異な構造の建物であった。このためその地下通路となった御殿の下の入り口は闇(くらがり)ご門と呼ばれ、常時番をする兵が立つようになっている。

 これだけなら何ということはない、ただの特異な構造の建物であるが、各室につけられた名称の中で、「紹君の間」と名付けられた部屋には興味をそそる謎がある。この部屋は本丸御殿の最奥御上段とも言える十八畳の広さの部屋であり、部屋の中の杉戸に、加納派による王紹君の絵が描かれていたことからこの名がつけられたとのことである。しかし、一説によればこの「紹君」とは、実は「将軍」のことであり、豊臣秀頼のことであると言われている。秀吉にかわいがられ、北の政所とも親戚筋であった加藤清正は、ことのほか豊臣家への忠信熱く、万が一の場合は豊臣家存続のために秀頼をここに迎えとろうと言う考えでこの部屋を作ったと言うのである。

 この部屋を含む一角は他の部分と内部では隔絶され、その一角へは鶯張りの廊下を通らなければ行くことができない。この部屋の後ろにはいろりを切った円扇の間と蘇鉄の間という、居住性十分の二つの部屋があり、横には最高位の貴族や天子が身なりを整えると言う意味の帳台の間がある。また廊下からは拝謁に使う桐の間と若松の間を通らないとこの部屋にいたることはできなくなっている。この隔絶された部屋には杉戸の裏に武器を隠す棚がつくられていたとも言い、細川氏が入城した折にこの部屋を調べてみると、完全武装したミイラがこの部屋にあったということから、特別な用途を考えられた部屋であったことが推測できる。

 また善蔵と言う大工が弟子善三郎に話したとされる、「大工善蔵より聞覚控」と言う資料には、

「それから紹君の間の後ろに機密の間があったこつも覚えとる。壁がめぐる仕掛けで壁が一ちょうきりっとめぐると床の高さ六尺ばかりのところから、細かはしごで下におりて、女の髪でねったつなで下におり、(中略)大がまなどもまさかの時のよういとして備えてあった。つぎに鶯の廊下の仕掛けといい、どれもこれも仰山な普請」

と書かれているように、この部屋からは抜け道があり、当時のものと伝えられる地つき歌からすると、それは城下の藩士の居住区となる部分に通じていたようである。また、内柴御風と言う人の戦前の追憶によれば、やはりこの部屋の杉戸の裏から大天守石垣下の石門に抜けられると幼少の頃から聞かされていたということである。この人は旧藩の御天守目付であった祖父に連れられてお城拝見に参加し、祖父から直接説明を聞いているので、抜け道があったのは間違いないだろうと思う。

 いずれにせよ、加藤清正の豊臣家への忠誠心を考え、豊臣家存続のために福島正則とともに秀頼の家康との二条城の会見を実現させたこと、また秀頼を守るために徳川に荷担して、豊臣家を大大名として存続させようとした行動を考えると、これだけの大がかりな普請を自分の居住のためにしたとは考えにくい。自らは大手門脇に花畑屋敷と言う居住用の建物を持ち、城下の平定と治水土木による経済振興を進めていた清正がわが身のために巨額の資金を使うだろうか。この部屋は勝手な想像とはいえ、秀頼のためにあったとどうしても考えたい。

 ただ、この部屋のある本丸御殿は西南戦争のときの火災により現在は焼失してその姿を見ることは出来ず、現在は地下通路となっていた闇ご門が、当時の石垣と共にあるだけで、壮大な建物に思いをはせることしかできないが、当時の図面が現存しているので、一日も早く復元できることをのぞみたい。自分の目でこの部屋を見ることが出来れば、あるいは建築当時の清正の思いが伝わってくるかもしれない。