<夏の特集>

熊本城の4 地図石の謎

数ヘクタールに上る広大な熊本城の敷地の、ほぼ中心部分に、きれいに石を組み合わせた数メートル四方の場所があります。これは地図のようにも見えることから、昔から特別に「地図石」と呼ばれていますが、その正体はいったいなんなのでしょうか。

この地図石は、現在の正面入り口、正門ともいえる頬当御門を入り、少し上った右手の数寄屋丸の東側の隅にあります。これがなぜ熊本城の中でも注目されているかといえば、熊本城の石垣などの石組みは、不整形の割り石の間に小割りの石を埋め込んだ打ち込みハギ、または乱れ積みという、積み上げた石の線がきちんと整わない積み方で積まれています。ところが、ここだけは切り込みハギという、きちんと切り込んで、石と石の隙間があかないようにした積み方で積まれており、さらにその石の間の直線を複雑に組み合わせた形をしています。

これを数寄屋丸から見下ろすと、航空写真を見るようなもので、まるで地図のように見えます。熊本市史(昭和7年)でも、「日本66箇所、300諸侯の領地を象徴したものだとも言い、あるいは熊本城の要害を表現したものだとも言う。とにかくきわめて巧妙な、謎のモザイクになる舗石及び石壁である」と説明があっています。本当にそのような内容なのでしょうか。

ここにひとつの学術的な解釈があります。昭和39年、理学博士の南葉宗利教授が発表したもので、地図石は熊本城域を図案化したものであるというものです。この内容を見てみると、地図石は99個の石を組み合わせてできていて、熊本城に出入りする12の門と合致する特殊な、人為的な石組みであるということです。

さらには、その西側の南北線の方位をクリノメーターであたってみると、東に約3度傾いていて、宇土櫓の土台の偏差と同じぐらいの偏差だということが指摘されています。そしてそのことから考えると、これは加藤氏の時代に造営されたと考えるのが合理的だとまとめられています。

また、教授によれば、これが99個の石が使われているのですが、これは天守の高さが99尺であることに関連しているとされ、詔君の間(熊本城本丸御殿の謎参照)も3間四方で、これを掛ければ9となり、陽数を重ねて城の長寿と豊臣家、加藤家の永続を祈ったと推測されるということです。

しかし一方では、地図石から上へ上がる階段が数寄屋丸に向いていて、数寄屋というのが本来茶の湯のための建物であるということから、茶の湯の為に数寄屋に出入りする風流な門口の敷石であったと考える説もあります。確かに、地図石のところには「御待合口」と記されているので、自然な推測ではないかと思います。この推測からしても、「続撰清正記」には時折清正が本丸の数寄屋で家来に茶をたてたという意味のことが書いてあるので、いずれにせよ加藤清正の時代にこの地図石はできたと考えられています。

ただ、先に書いた「御待合口」については、細川家時代の絵図であるため、たまたま風流にも見える地図石を、細川家が完全に風流な門口として利用しただけとも考えられるのではないでしょうか。加藤家は、風流な飾りとしてカモフラージュしながら、先の教授の説のような別個の意味を含めていたのではないかとも思います。

いずれにせよ、本当の意味は加藤清正公に聞いてみるしかないわけですが、このようにさまざまな思いをはせさせるだけの魅力がこの地図石にあるのは確かです。皆さんもどうぞそう言う目で一度見てみてください。そして、じっと目をつぶれば、あるいは加藤清正公が本当の意味を語りかけてくれるかもしれません。