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慶長16年6月、加藤清正は秀頼と家康の二条城の会見に立ち合い、大阪から船で国元に帰る途中、発病し、この月に死去しました。清正の死には、朝鮮征伐の折のライ病説などもあるが、この船の中で脳出血を起こし、それが元で死去したというのが本当のところのようです。
しかし、今一説に家康による毒饅頭説というのがあります。これは、二条城の会見で秀頼に会った家康が、その堂々たる体躯と、老いぼれて行くわが身を比較して徳川家の将来に不安を感じ、豊臣家の抹殺を決意したことに端を発しているということです。
この会見の折、清正はひそかに懐に短刀をしのばせ、いざという折にはそれで家康を刺し殺す決意をしていたといわれていますが、それを見破った家康が、いかに自分に従属しているとはいえ、豊臣家の存亡のために命を賭ける清正の存在が無気味に思え、まず清正を含む加藤家を始末したいと考えたものといわれています。そこで家康は、ねぎらいということで清正に饅頭を与え、清正は毒が入っていると予感しつつも、自分がそれを食することで豊臣家が一大名としてでも存続できればとの考えで、あえて毒饅頭を食べたということです。
いかにも物語りめいていますが、私はこの説は正しいのではないかと思っています。なぜなら、その21年後に清正嫡男の忠弘が改易され、出羽庄内藩の酒井家預けとなっていますが、ここに延々とつながる陰謀を感じるからです。
忠弘改易には、老中土井利勝の謀反の文書を報告しなかったとか、またこの文書をいたずらで投書したとか、藩内の勢力争いによるお家騒動とかの、本当の理由は誰にもわからないようなものを理由としてこじつけられ、21か条の罪状があるといわれています。
このころはすでに三大将軍家光の時代でしたが、徳川の支配をより強固にするために、豊臣恩顧の加藤家、福島家など、しずがたけの七本槍の武将が次々に改易されて行った時期です。徳川幕府にとっては本当の理由などどうでもよく、ただこじつけるきっかけを狙っていたものと思われます。
ただ、ここに徳川幕府に加担したもうひとつの勢力があるように感じます。細川家です。
肥後と言えば細川家というように現代では言われ、初代肥後藩主といえば細川藤孝と間違われるように、その長期にわたった支配のインパクトは強く、肥後の人物のように言われる細川家ですが、もともとは京都の系列で足利義輝の奉公衆です。
その後足利義昭の命を救ったことで近臣となり、織田信長が台頭してくると信長につき、明智光秀の加勢を受けて丹後の国を与えられ、初めて国持ち大名となっています。その後も本能寺の変の折は勢いのある秀吉に加担して丹後国の支配を強固なものにしました。その後石田光成により閉門となったものを家康に救われて以後両者は急接近し、「当代一のお味方」と家康にいわしめるほどになっていたといいます。
もともとは武門の出ではないため、情報戦とか隠密行動でその能力を発揮していた細川家ですが、私がこの加藤家改易にあたって細川家が加担していたと思うのは、その後の仕置きです。
肥後はもともと日本にいくつかしかなかった大国であり、その裏石高は72万石とも言われていました。混乱の続いた国柄ですが、加藤家により平定され、武力がなくてもお国の運営はできるようになっていました。情報戦に能力を発揮する細川家は、この大国が欲しいと考え、家康との謀議により、いつの日か理由をつけて加藤家を改易し、自分がそこにおさまることで両者の利害が一致していても不思議はありません。
そのためにまず近くの小倉城主となり、情報を収集して機会をうかがっていたものに違いありません。それでなければ、部門が特に秀でているとはいえない細川家が、平定されているとはいえ、島津の脅威が残る肥後の藩主になることに合点が行かないからです。
また、加藤家改易の折に、あえて国元に「わけを存知たるもの一切これなし」という文書を送っていたり、熊本城入城の折に清正の菩提寺に礼をし入城したなどという言い伝えは、それを隠蔽するためのカモフラージュであったと思えてなりません。
歴史の真相は常に闇の中であり、今はどれが真相かもわかりませんが、こういう謀議があったと考えれば、ご先祖の血が流れ、またその遺伝子が伝わる、かの細川護煕さんの行動に納得の行くような気がしてなりません。
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